プロローグ はじめてのお仕事
「死にそうなんです。もうすぐ死んでしまいそうなんです」
ささやくような声であった。夜の闇に溶けてしまいそうであった。
――どうしたの。
と、中村ちはやは声を潜めてこたえた。が、声の主は何度も繰り返すのである。
「死にそうなんです。あなたなら分かってくれるでしょう。もうすぐ死んでしまうんです」
ちはやは布団から脱け出した。そうして声のするほうをじっとみつめた。11月の夜は肌寒かった。カーテンを開け、窓を開けた。空が透き通っていた。黒い空に星が浮んでいた。砂粒のような星の群れである。
「死にそうなんです。死にそうなんです。ほら、もうすぐ死んでしまうんです。みていてください」
――星がおちちゃった。
と、ちはやは思った。が、落ちたのは星ではなく人間であった。ちはやの鼻先を人間が落ちていった。一瞬、暗い影が視界に広がり、すぐ星の輝きが目にうつった。そうかと思うと、玄関先で音がした。砂をつめた袋が落ちたような音だった。
ちはやの寝室は2階であった。窓から身を乗り出し、玄関先を覗き込むと、人間が横たわっている。からだからじわじわ黒いものが流れている。ちはやには、その黒いものが、ふと、黒蜜のような甘い液体に思われた。
「いくよ」
と、いい、ちはやは階下に向かった。家族を起こさないよう、足音をしのばせている。
玄関のドアは重かった。だれかに押さえ込まれているようであった。
「よいしょ、よいしょ」
と、いいながら、彼女はドアを押し開けた。ずるずると地面をこする音がし、なにかのはずみで重りがなくなると、ドアは一気に開いた。人間が仰向けで寝転がっている。黒い液体が目や鼻からも流れ出ている。においがする。甘いにおいである。
「なめてごらん。とってもおいしいんだよ。ほら、ぺろりとなめてみな」
ちはやの背後から声があがった。男の声である。
ちはやはうなずくと、しゃがみ込んで、人差し指を黒い液体に浸した。ぬめりがある。あたたかかった。甘いにおいが、地面そのものからわき立つようであった。
「ねえ、これはなんのにおい?」
ちはやがいった。
「みればわかるじゃないか。悪魔の霊液さ。とっても甘いんだ」
今度は別のところで声があがった。目を向けると、小さな甲虫が、ちはやの足を這っていた。甲虫は、その細長い触覚をちはやの顔に差し伸ばしている。
「ふうん……」
なめてみると、たしかに甘い。
「ほら、おいしいだろ? おすそ分けがほしいくらいだ。人間の口は大きくていいねえ」
「うん、ほんと、おいしいよ」
ちはやは、何度も黒い液体をすくい取った。なめているうちに、空気のにおいが鮮明になった。月が明るくなった。からだが熱くなった。あんまりあたたかくて幸せだから、自然と涙が出てきた。
「ほら、もう十分だろ。こいつを殺すんだ」
甲虫がいった。ちはやはようやく目の前の人間を眺めた。黒い液体がまだ流れ出ている。顔は白い。唇は青黒い。目は眼窩からほとんど飛び出している。甘いにおいにつつまれている。
「どうやって殺すの?」
「きみの思うままに殺せばいいのさ」
「痛くないようにしたいよ」
「じゃあ、ギロチンなんかどうだい。痛みを感じる間もなく、こいつの首をちょん切ってやるのさ」
「ギロチン」
ちはやは微笑を浮かべた。引きつった微笑である。黒い液体をもうひとなめした。
――甘い……。
しずかな夜の闇もまた、蜜のように濡れている。風が冷たい。頭上で梢が鳴っている。梢を揺らす風は、蜜の海を盲人のように泳いでいる。
「さあ、きみはどうやって殺したいんだい」
甲虫がいう。ちはやは立ち上がった。そうして目の前の人間をみおろした。黒い人間である。甘い液体を流し続ける人間である。
「れぎおん。おおきなおおきなギロチンを、わたしにちょうだい」
「うっふっふ、おおきなおおきなって、ずいぶん主観的だね。具体的には、どれくらいの大きさだい」
「この家くらいの大きさ」
「わかったよ」
甲虫はそういうと、羽根を広げた。黒い空を飛びはじめた。そのままどこかに消え去った。ちはやは待った。黒い液体が、彼女のちいさな靴を浸していった。甘いにおいに、めまいを感じる。彼女はふとしゃがみ込んで、両手にいっぱいの液体をうけた。
その瞬間、声がした。
「もうすぐ死ぬんです。もうすぐ死ぬんですよ。あなたなら分かってくれるでしょう。私たちはもうすぐ死ぬんです」
目の前の人間からだった。この人間は、男であった。首を起こして、ちはやを眺めている。
――どうしよう……。
どうこたえるべきか。ちはやは迷った。れぎおんはまだいない。男はうわ言を繰り返している。
「あなたの名前は……」
と、ちはやはいった。男はふと沈黙し、それから微笑した。やさしい微笑であった。ちはやははっとした。そうして俯いた。地面をぬらす黒い蜜を眺めた。
「私の名前? 私の名前? 私の名前はあんでれ。あ・ん・で・れ」
「あんでれさん――」
ちはやの声も、ささやくように潜められている。
「あんでれさんは、どうしてこんなふうになっちゃったんですか」
夜の闇にすいこまれるような声である。男は声を出して笑った。ちらりと眺めると、目が、眼窩からこぼれ落ちていた。かれの目の奥は黒かった。黒い蜜が詰まっている。ちはやは吸いつきたい衝動にかられた。におっているのである。
「あ、あ、あ……あ・く・まのせいです。あ・あ・あ・あ・く・ま。あ・く・ま。あ・く・ま・の、せいです」
かれは微笑している。
「悪魔……」
「あ、あ・く・まは、私たちを生命から切り離すのが仕事なんです。そうすると、寿命が延びるんです。ただ、いくら生きたところで、所詮あ・く・まで・す。ほんとうの意味で死ぬのは、あ・く・ま……」
「ちはや、悪魔に耳を傾けちゃいけない。引きずり込まれてしまうよ」
れぎおんの声であった。ふと目を向けると、黒い男の向こうに、犬がいた。長いベロを出した犬がちはやを眺めている。犬もまた、男と同じように、かすかに微笑んでいるようであった。
男は、ほとんど死んでいた。頭を地面に戻し、またうわ言をいいはじめた。ちはやは、受けたままであった黒い蜜をごくりと飲み干した。からだが熱くなった。甘くなった。自分のからだから、おいしそうなにおいがする。おなかがたぷたぷいっている。
「さあ、ギロチンを用意するよ」
犬がいう。尻尾を振りながらちはやに近寄り、顔をみあげる。
「うん」
ちはやは犬をみおろし、男をみおろした。男は大の字に寝転がっている。ぶつぶつ繰り言をいっている。しずかな夜であった。風の音がきこえる。梢の音がきこえる。そうしてその中に、呪文のような男の声がきこえる。人間の声はそれきりだった。ちはやは肌寒さを思い出し、腕をさすった。さすると、においが立つ。ちはやは自分の手のひらを嗅ぎ、ぺろりとなめた。
気がつくと、ギロチンがそびえていた。横幅は1メートルもなかった。が、高さはあった。ちはやの家は3階建てであったが、その屋根を超している。遠くでやいばが光っている。灰色の光であった。まぶしい光であった。ちはやは目をつぶった。
「さあ、こいつの首を、このくぼみに」
犬がいう。犬はギロチンのそばに座っている。
ちはやはうなずいた。そうしてからだじゅうを甘く、熱いにおいに浸しながら、男を引きずった。男は微笑している。目や口からごぼごぼ黒い蜜をこぼしている。
「あ・く・ま、あ・く・ま」
と、繰り返している。
首をくぼみにあてた。仰向けのままだった。男はやいばをみあげていた。
「ちはやはずいぶん残酷だね」
ちはやは首をかしげた。犬はベロを出して、笑っているようである。しばらく考えて、男をうつ伏せになおした。男の首を抱きしめ、もちあげ、ひっくり返した。服に蜜がしみこんでいる。ちはやはくらくらした。蜜のお風呂に入っているようであった。全身が熱い。息が荒くなる。なにか奇妙な薬を塗ったようである。
「準備はいいようだね」
「うん」
と、ちはやはいった。そうして夜空をみあげた。砂粒のような星の群れが、幾層にもまたたいている。
「ロープを切るのは、きみの役目だよ」
犬はナイフをくわえていた。いわれるままに、ナイフを受け取った。よくみると、単なる包丁であった。じっと刀身をみつめる。
「それはぼくが作ったんじゃないよ。きみの家の包丁さ。よく切れるように加工しておいたけどね」
犬は笑っているようであった。
「さあ、このロープを切るんだ。そうすれば、あいつを殺せる。はじめての仕事だからね、思いきりよくやるのが大事だと思うよ」
犬の隣に、ロープがあった。ロープはどこにも繋がっていなかった。宙にぼんやり浮いているのである。
ちはやはロープを手に取った。ビニールの触感があった。縄跳びほどの太さであった。見覚えのあるピンク色。
――これは、わたしの……。
思わずれぎおんをみた。ほとんど反射的に、かれはうなずいたようだった。
「なに?」
と、首をかしげる。
「これ、わたしの縄跳び……?」
「そうだよ」
と、いう。
「いちいち魔力を使いたくないんだよ。この犬は、あまり魔法の素質がないみたいだからね」
声だけは笑っている。犬はベロを出し、じっとちはやをみつめている。
「そう……」
縄跳びを左手で引っ張った。その一端は固定されているようであった。ぴんと張った。最後にもう一度、男をみおろした。男は首をもちあげていた。そうしてちはやを眺めていた。ちはやの視線に気づいて、かれは首を横に振ったようだった。黒い液体で、かれの顔はまっ黒であった。におっている。
「あ、あ・あ・く・ま」
ちはやはれぎおんをみて、男をみて、縄跳びをみて、包丁をふりおろした。
が、切れない。れぎおんに困惑の視線を送っても、かれは無言である。ちはやは包丁を切るように押しあてた。何度も何度もやいばを引いた。押し当てた。
すると、ブチリ、という音がした。途端に、ゴン、と背後で音がした。男の首が転がっていた。
「星が落ちたみたいだったよ。願いごとをいう暇もないくらい、素晴らしい速さだった」
と、見惚れるような声で、れぎおんがいった。
「ほら、こいつが星の正体さ。星だって被造物なんだ。神のことわりから外れると、ごらんのとおり無残に落下しちゃうのさ」
犬が鼻のあたまで男の首を軽く押した。安楽椅子のようにゆらりゆらりと揺れる首。ちはやはしゃがみ込むと、ひそかな視線をれぎおんと交わし、おそるおそる、甘い蜜だまりのなかの男のしずかな顔をなでた。そうして眼窩の奥の蜜をすくいとり、なめた。
「甘いよぉ……」
とろけるような声である。
「悪魔の霊液は、魔力をあげる。とっても貴重なんだ。いつか、きみもぼくみたいに魔法が使えるようになるよ」
ちはやはほほえんだ。空気のにおいが鮮烈である。星あかりがまぶしい。風にゆれる梢の音が、耳に心地よい。からだはひりつくように熱い。
いつの間にか、ギロチンも、男の首もからだも消えていた。黒い蜜は地面に溶けていった。が、ちはやの内部はいまだぐるぐる回転していた。
「明日も学校だろ?」
と、れぎおんがいう。
眠たげな声である。
「うん」
と、ぼんやり空をみあげ、星の数をかぞえながら、ちはやがいう。
「学校は楽しい?」
「うん。みんなと遊べるし、あしたは体育があるし……。算数はちょっと苦手だけど」
「じゃあ、早く寝ようよ。10年も生きていないきみの人生は、まだはじまったばかりだしね」
「うん。おやすみ、れぎおん」
「おやすみ」
と、いうと、いきなり犬が倒れた。ぴくりともしない。白目をむいて気絶している。
が、しばらく見守っていると、犬は自分のねぐらに戻ったようだった。ずいぶん衰弱している。乞食のようなあわれな歩き方だった。尻尾を股に挟んで、怯えるようでもある。
「勝手にからだを借りてごめんね」
と、ちはやは小さくつぶやいた。犬が、一瞬、不思議そうに振り返った。
――ああ、でも、ほんとに、からだが熱いよ……。
いまは朝の4時頃であろうか。新聞配達の音が聞こえる。カラスの鳴き声がきこえる。
「か~ら~す~、なぜ鳴くの~、カラスのかってでしょう~」
ちはやは鼻歌をうたいながら、家に入り、シャワーを浴びた。一息つくと、ベッドのなかでいろいろな妄想をはじめた。
魔法が使えるようになったら、何をしようかな――
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先日はじめてまどかマギカを見て、たいへん感銘を受けました。
創作意欲が刺激され、魔法少女ものを書いてみようと思い立ちましたので、投稿させていただいた次第であります。
お付き合いいただけたら感謝。