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No.35651の一覧
[0] PERSONA4 THE TRANSLATION(ペルソナ4再構成)[些事風](2014/11/03 16:25)
[1] 序章 PERSONA FERREA[些事風](2014/11/03 16:25)
[2] 一章 REM TALEM MINIME COGITO[些事風](2012/10/27 23:54)
[3] 国を去り家を離れて白雲を見る[些事風](2012/10/27 23:57)
[4] マヨナカテレビって知ってる?[些事風](2012/10/28 00:00)
[5] ピエルナデボラシーボラ![些事風](2012/10/28 00:03)
[6] 出れそうなトコ、ない? ひょっとして[些事風](2012/10/28 00:07)
[8] 死体が載ってた……っぽい[些事風](2012/10/28 00:27)
[9] ペルソナなんぞない[些事風](2013/03/05 00:17)
[10] でも可能性あるだろ?[些事風](2012/10/28 00:34)
[11] バカにつける薬[些事風](2012/10/28 00:36)
[12] シャドウじゃなさそうクマ[些事風](2012/10/28 00:41)
[13] 吾、は、汝[些事風](2012/10/28 00:46)
[14] 俺はお前だ。ぜんぶ知ってる[些事風](2012/10/28 00:53)
[15] ノープランってわけだ[些事風](2012/10/28 00:56)
[16] 旅は始まっております[些事風](2012/10/28 01:05)
[19] 二章 NULLUS VALUS HABEO[些事風](2014/11/03 16:26)
[20] あたしも行く[些事風](2013/01/15 10:26)
[21] それ、ウソでしょ[些事風](2013/03/05 21:51)
[22] 映像倫理完っ全ムシ![些事風](2013/05/12 23:51)
[23] 命名、ポスギル城[些事風](2013/05/12 23:56)
[24] あたしは影か[些事風](2013/06/23 11:12)
[25] シャドウ里中だから、シャドナカ?[些事風](2013/07/24 00:02)
[26] 脱がしてみればはっきりすんだろ[些事風](2013/10/07 10:58)
[27] 鳴上くんて結構めんどくさいひと?[些事風](2013/10/14 17:36)
[28] セクハラクマー[些事風](2013/12/01 15:10)
[30] アギィーッ![些事風](2014/01/31 21:58)
[31] かかってこい、あたしが相手だ![些事風](2014/03/04 21:58)
[32] クソクラエ[些事風](2014/04/16 20:30)
[33] あなたは、わたしだね[些事風](2014/06/15 15:36)
[34] とくに言動が十八禁[些事風](2014/07/26 21:59)
[35] コードレスサイクロンユキコ[些事風](2014/09/13 19:52)
[36] 自称特別捜査隊カッコ笑い[些事風](2014/09/24 19:31)
[37] ッス[些事風](2014/11/03 16:29)
[38] oneirus_0d01[些事風](2014/12/14 18:47)
[39] 三章 QUID EST VIRILITAS?[些事風](2015/03/01 16:16)
[40] ええお控えなすって[些事風](2015/05/17 00:33)
[41] キュアムーミンだっけ[些事風](2015/10/18 13:01)
[42] おれ、弱くなった[些事風](2015/11/20 10:00)
[43] 中東かっ[些事風](2016/03/02 00:50)
[44] バカおやじだよ俺ァ[些事風](2016/05/15 16:02)
[45] ここがしもねた?[些事風](2016/08/16 15:11)
[46] 腕時計でしょうね[些事風](2016/11/15 13:03)
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[35651] 腕時計でしょうね
Name: 些事風◆8507efb8 ID:86ffc5c7 前を表示する
Date: 2016/11/15 13:03



『少年X』
 という墨書のキャプションがでかでかとテレビ画面を占める。尻のX字はひときわ大きく、血を模しているようで目に痛いほどの朱だ。
『年々増え続ける異常な少年犯罪。物質的な豊かさを追い求める裏で肥大する、現代社会特有の病巣。少年たちを蝕み、駆り立てるものとは、いったいなんなのか――』
 バリトンのナレーションが番組の主旨らしきものを、抑揚を抑えた声でおどろおどろしく述べる。続いて番組内容のダイジェストであろう、パトカーのサイレンと警察官の怒号、それらが向けられる犯罪者の少年のものと思しき、ヘリウムガスを吸ったようなかん高い罵声が、モザイクだらけの画面からたれ流される。
 ちゃぶ台の前に正座してかしこまっていた菜々子が「へんなこえー」とおもしろがって言った。彼女はボイスチェンジャーを介したいわゆるドナルドダック声が好きで、ニュース映像で流れるようなものでも聞けば笑って喜ぶのである。
「なあにが増え続けるだ好き勝手いいやがって。少年犯罪も異常犯罪も年々減ってんだよ……てめえらが番組のネタ探しておもしろがって取り上げっから増えたみてえに感じるんだろうが……」
 こちらはその背後でソファに凭れて苦り切った様子の、父親の感想だ。彼は犯罪ものや警察ものの番組を視るとき、その誤解や虚構に言及するのを常としている。そうして文句を言ったりあざ笑ったり、たまに偉そうに褒めたりする。遼太郎独特の番組の楽しみかたと言えよう。
(なんか昔こういうのあったよな、ナントカエックス……あの赤いバッテンとかそのまんまだよな……)
 コーヒーとミロの載った盆を両手に、彼の甥もちゃぶ台へ収まった。
 とくにこの手の番組を好むというのではない。普段ならチャンネルを変えるか二階へ上がってしまうか、さもなければ菜々子を使ってウェイトリフティングを始めるかといったくらいに興を引かない内容である。が、これに巽完二が出るというなら見逃すわけにはいかないだろう。
 この少年犯罪の特番が本日、五月十三日午後八時に放映されるということは、つとにクラス内で、というより校内で知られていたらしい。悠に教えたのは環だが、雪子はすでに認知していたという。
「叔父さんコーヒー、菜々子ミロ」
「菜々子のもコーヒー」と言って菜々子はミロを取った。
「菜々子のはこども用コーヒー。こども用」悠は断じた。「叔父さん置くよ、ここ」
「おお悪い。じゃあおとな用コーヒーを飲むかな……」
 などと遼太郎まで娘に当て付けると、彼女のほうではわが舌の成長を試したくなったようで、そっちを飲ませろとしきりにごね始めるのだった。かつてはひと啜りして「これは墨である」とてコーヒーの名誉を毀損した菜々子である。
 少年X第一号は完二ではなかった。万引きの常習犯――少年犯罪のカテゴリーにおいてはオードブル、いやアミューズグールといったところか。完二なら見てくれの貫禄だけでもメインディッシュの栄を期待できるだろうが。
(暴走族八人をひとりで撃退。全員を転倒させたあと脚の骨を叩き折って、バイクのエンジンに穴を空けて回った……)
 というのが環から聞いた「伝説」の概要である。単独でいったいどうやってそれほどのことをしおおせたのか、一介の高校生の想像には余る。しかし手段を確保できたとして、あの繊細そうな少年がそれを実行に移せるものなのか? それは外見だけで判断するならいかにもやりそうではあるし、悠にしても彼と話したのは二十分たらずのことで、それをもって巽完二の人格を完全に把握した、などという放言はもちろんできないのだが……
 どうやら堂島家におけるコーヒーの汚名返上はならぬようで、菜々子は父親へカップを突き返しながら「にがい。まずい」と無慈悲な裁定を下した。
「スミみたいか? だから飲めないって言ったろ。菜々子はそっちのコーヒー飲めよ、こども用の」と、遼太郎。
「こっちのコーヒーのほうがいい。そっちはチョウまずいコーヒー」菜々子が口を尖らす。
「お父さんにはチョウうまいんだよ。菜々子のはチョウ甘い、甘くて飲めない」
 さてはメインディッシュか、と悠に目を瞠らせたのは、ボクサーくずれの覆面傷害犯(かつて父も働いていた新橋の夜陰に二十余名もの人を襲った怪人)、引きこもりの少女誘拐監禁犯(九年間も監禁された被害者は誘拐当時菜々子と同い年だった!)に続く、四人目の少年Xであった。この少年の仮名「Y・N」こそ完二のイニシャルとまったく違うし、終始顔にモザイクをかけられているためにしかと判別できるわけでもないが、そのなしたことどもは環の語った内容とほぼ一致する。
 ふと、遼太郎が画面を見つめたまま、
「ったく、このバカどもはなんにでも噛み付かなきゃ気がすまねえのかァ?」
 と、先に輪をかけてうんざりした調子でぼやいた。
 彼の言う「噛み付く」とは警察に対してのものらしい。というのも、四人目の少年Xは少し変わった文脈で紹介されていたのである。彼はただの少年犯罪者としてではなく、たび重なる住民の騒音被害の訴えにおざなりな対応を示し、手をこまねき続けた警察の怠慢に呆れて一念発起、ついに独力で暴走族を排除した「若き無法の侠客」として描かれていたのだった。
 一般人が携帯電話かなにかで隠し撮りしたと思しい映像には、多数の住人を背にして立つ少年X――大勢の顔を隠すために、画面は上半分まるまるモザイクである――と、それに相対する三人の警察官とが映っている。少年Xは怒りを押し殺した様子で、なぜこんなことをしたか、なぜ自首したか、なぜ警察官をここに呼びつけたか、などを滔々と語る。警察側は明らかに弱り切った様子で、いっぽうの少年X側たるや住人の声援を得て大いに意気を上げる。
(……タトゥーがある。髪も脱色してる。中学のときからこんなだったのか?)
 少年Xがひとり前に進み出たのを機に、地域住民ごと彼を覆い隠していたモザイクが晴れた。見知ったものならもはやこれで判別可能だろう。これ以前の少年Xたちへのプライバシー保護が最低限であったように、この四人目もまた目鼻を隠す程度のモザイクしか与えられていない。そうでなくてさえ完二はいかにも特定しやすい、いささか個性的すぎる態をしているのだ。
『てめえらクソポリどもがハナクソほじるだけでなんにもしねえからオレが出張ったんだろうがっ! ハナシ行ってから半年以上たってんだぞこの税金泥棒っ!』
 怒れる地域住民の手前、警察官たちは反論の気配とてなく、ドスの利いたドナルドダックの大喝をよく忍従して聞いている。曲がりなりにも法を犯した人間に非を責められているのだ、ましてこのように衆人環視のただ中でそうされてはなおのこと、かの三人もよほど立つ瀬がなかろう。悠には完二らしき少年の見事な啖呵よりも、この同僚の晒し刑を見る遼太郎の無念こそが思われた。
「……これ、ひょっとしてうちの近所かな。なんか見たことある気がする」
 と水を向けてみると、あんのじょう遼太郎は「近所も近所だ、コイツもよく知ってる」と吐き捨てるように答える。ではやはりこの四人目は完二なのだ。
「お父さん、しりあいなの?」と、菜々子が振り向いた。
「うーん、まあ、仕事の知り合いだな。常連客さ」遼太郎はテレビを見つめたまま苦笑する。「巽完二、この時分は中三だった。稲羽界隈じゃピカイチの問題児でな、ケンカしちゃあうちの世話になって、ひところはよく話したもんだが……まあ、こんな番組に出ちまうようなことをしでかしたのさ」
「叔父さんって、刑事、なんだよね」悠は恐るおそる訊いた。「そんな、刑事か関与するようなヤバいことしてたの?」
「ああ刑事ったって、うちァケイジセイアンだ。ガキんちょどもァまあよく見るのさ」遼太郎は笑って言った。「つっても、さすがにこの暴走族のバカどもを半殺しにしたのァもうセイアンの職掌じゃねえ、立派な傷害事件だが」
「ケイジセイアンって?」
「刑事課と生活安全課がくっついて刑事生安。稲羽署みてえな小所帯じゃままあることだ」
「へえ……」
 そのセイアン改め生活安全課とやらも、事情に暗い悠には字面どおり「生活の安全を守る課」くらいの理解しかできない。叔父の口振りから察するに、それはどうやら刑事課と比してわりあい軽い犯罪を取り扱う部署であり、少年犯罪もまたその範疇であるようだ。この手のドキュメンタリーなど遼太郎からしてみれば、自分の仕事をネタにされているようなものなのだろう。しかもそこに警察に対する非難すら織り込まれているとあっては、彼でなくても文句のひとつやふたつ、こぼしたくもなろうというものだ。
 やがて少年Xは五人目に移った。さすがの完二もメインディッシュの栄誉はこちらに譲らねばなるまい、今度はとうとう殺人である。が、遼太郎はもはやテレビ画面を見ていない。腕を組んで思案気にしている。
「悠、お前、俺がさっき言ってたヤツ、巽完二って、見たことあるか」
 ややあって、彼はぽつぽつとこんなことを口にした。先の話の続きらしい。
 叔父が「会ったこと」ではなく「見たこと」と訊いたのに、悠はなんとなく完二とそれを取り巻く人間との、なにがしか微妙な距離を感じた。おそらく遼太郎を含む稲羽の多くの人々にとって、完二は「会う」人物ではなく「見る」人物なのだ。あの容姿ならさもあろうが。
「ねえか。ねえよな」
「実を言うと、会って、話したこともあるんだ、完二」と、悠は打ち明けた。「すごくいいヤツだったよ、礼儀正しくて人なつっこくて、優しげで。あんなに見た目と中身のギャップあるヤツ初めて見た」
 てっきり否まれるとばかり思っていたに違いない、遼太郎はこうと言われると目を瞠って「アイツとお前に接点があるとはとても思えんなあ」と驚いた様子である。
「なんだよ知り合いだったのか。いったいどこで会ったんだ」
「店で」どこのどんな店であるかは言わないほうがいいだろう。「向こうから声かけてきてさ、先輩ッスねって」
「アイツがかァ?」
「んん、ほら、おれ転校生だし、珍しかったんじゃない?」
「へえー……アイツがねえ……」
 遼太郎の面に安堵したような、嬉しいような色の過ぎるのを悠は見逃さなかった。彼を少し誤解していたようだ。
「……完二のヤツ、実家が染物屋でな。商店街行きゃすぐ見つかる店だ。巽屋っつってな」
「行ったことないけど、話には聞いた」雪子が以前おなじことを言っていた。
「女手ひとつで切り盛りしてるんだが、店のひとはいい人間だ。なんどか話したが、いいひとだよ、完二の母親にしちゃあちっとトシいってるがな。まァどっかの誰かさんたァ大違いさ」
「……どっかの誰かさんって?」
「ええ? こっちのハナシだよ」遼太郎は含み笑いながら、「完二もな、そういうひとの息子ってのがいかにも頷ける、いいヤツなんだ。お前の言うとおりさ、気持ちのいいヤツだ。俺にゃあ悪態ついてばっかだが、いいヤツだ。お前、知ってるか? 完二があの暴走族のバカどもを半殺しにした理由」
 悠は番組の内容を思い出して「地域住人のため、じゃないの?」と訊いた。
「そうだ。だがありゃたぶん言わされたことだ。ホントの理由はな、母親が騒音で寝不足になったからなんだ」遼太郎はマグカップを口に擬した。「……完二にとっちゃそれで充分だった。ヤツァそうとだけ言って、あの八人をブッ殺さねえで脚一本だけで済ましたのァ、そうしなきゃあいつらの母親が悲しむからだって、タンカ切りやがった。走ってるバイクごと素っ転ばしといて脚一本もなにもねえもんだが」
「…………」
「巽さんはな……完二のおふくろさんはな、息子のしでかしたことのおかげで四方八方にアタマ下げにゃならなかった。賠償金もずいぶん取られたろう」
「賠償金、って、おかしくない?」悠は完二の義侠心にすっかり打たれてしまった。「そもそもその暴走族のバカが悪いんだろ? なのに……いや、犯罪ってことはわかるけど、その、情状酌量? とかってなかったの?」
「あった。そのバカどもも改めてしょっ引かれた。だが完二も完二で反省しなかった。たとえその現場に百度立ち返ったって、同じようにしてやるって言い切った。で、鑑別所行って、試験観察のあとホカンになった。なんとか少年院は回避できた」
「ホカン、って?」
「保護観察処分。それが明けたのがつい先月の話だ」
 悠自身、以前に陽介たちの驚く顔が見たくて「自分は少年刑務所にいた」などと冗談を言ったことがある。もちろん、そんなところには行ったこともなければ見たこともない。どこかで聞きかじったことをさも真実らしく吹聴してみたというに過ぎない。ホゴカンサツショブン、とはたまにニュースかなにかで聞く程度の、不吉な響きのお題目である。それがどの程度それを申し送られた人間の人生に影を落とすか、悠にしかとはわからなかった。いずれにせよ不名誉な処分であるというのには違いないだろう。
 いったい警察の常連というだけでも、優等生として生きてきた彼にとって、巽完二なる人間は想像を絶する世界の住人であった。これほどまでに生きる世界の隔絶した、それも同年代の人間と接したことはまったく初めての経験である。しかも彼のあたまの中に住まう「巽完二」とは、そんな別の惑星のような世界とは縁もゆかりもない、ちょっと見てくれがいかついだけの心やさしい少年なのだ。
 理不尽――悠の出した結論はいかにも、いまほど見ていたテレビ番組が暗に伝えるところと同じものである。巽完二とは「ひとたびことに及んでは行動をためらわぬ心やさしき義人」であり、怠惰で理不尽な社会に押し潰されたあわれむべき被害者なのだ!
 特番「少年X」はデザートの麻薬密売人を紹介したのち、彼らが言うには近い将来に訪れるであろうところの、不穏な未来への警鐘をひとしきり鳴らして終わった。シェフにはたいそう礼を欠くことだが、悠も遼太郎もメインディッシュ前にはすでにフォークを置いていた。おたがい考え込むふうである。そしてその内容もおそらくさして逕庭のあるものではないはずだった。
 コマーシャルを挟んでプティフールよろしく、ミニサイズのウェザーニュースが始まる。菜々子がそれを見てあくび混じりに「あした、アメだって。下にお天気でてる」と言った。
「センタクもの中だね」
「んん……菜々子もう寝なさい。十時だぞ」遼太郎が思い出したように時計を見上げた。
「コップあらう」
 歳のわりに夜型の菜々子はまだ起きていたい様子だったが、父親は有無を言わさず「お父さんが洗うから寝なさい。ほら行った行った、歯ァ磨けよ」と茶の間から追い出しにかかった。が、戻ってきた彼は食器を回収するでもなく、ふたたび元のソファに腰かけて足を組んで、とても中身が残っているとは思えない自らのカップを手に取る。
 悠にはそれが、甥の質問に答える準備がある、という意思表示のように思われた。おそらくは遼太郎のほうでも同じく、甥が自分と同じようなことを考えていると察していたのだろう。
 叔父がそのつもりならと、悠は口を開いた。
「……ひどいと思わない? 巽がかわいそうだ」
「法によらない自警行為には法による報いがある」
 答えは間髪を入れない。甥が言いそうなことをあらかじめわかっていて、そのために用意していたものをすかさず出した、とでもいうような素早さである。悠はムッとした。その杓子定規の内容も断定的な口調も、こちらの行動を予測していて、かつそれを的中させたというのも気にくわない。
「完二のやったのァ自警行為だ」遼太郎は続ける。「つまり私刑だ、リンチだ。ただの暴行なんだ。どれほど筋の通ったことに見えても、実態はそうだ。アイツはよくケンカで警察の世話になったと言ったが、内訳はな、相手の態度が気に食わなかったとか、肩が当たったガンつけられたなんてガキのいきがりじゃあねえ。弱いものいじめだのカツアゲだの、そういうのを見たり聞いたりして、それがどうでも許せなくて相手をぶん殴ったんだ。でもそりゃ傍から見ればな、ただ道で行き会った人間にいきなり襲いかかるのと大して変わりゃしねえ」
「なんだよそれ……」
 甥が不満と不機嫌とを隠さないのを見ると、遼太郎は「完二のヤツァそれがよくわかってた」と言って苦笑した。
「わかった上でやるんだ。悠は確信犯って言葉、知ってるか」
「犯罪だとわかってて犯す犯罪のことでしょ」
「違う。そりゃ故意犯ってんだ。世間じゃそんなふうに思ってる心得違いが多いが、ぜんぜん違う、ある意味じゃもっと始末に負えねえ性質のもんだ。確信犯ってのァな、それが法でなしに、てめえの良心と正義とにおいて、犯罪ではないと確信して犯す犯罪のことだ。ほれ、中東のイスラム原理主義過激派の連中が自爆テロ起こしたなんて、たまにテレビでやってるだろ。あれがそうだ。完二もその類だ」
 だってさ、カンダハル――完二を自爆テロ犯と同列に語られて、悠はいよいよ機嫌を損ねた。
「ヤツはてめえの行いが法に背くことを百も承知で、それでも暴走族を野放しにして、母親を苦しめ続けるのァ正義に悖ることなんだと確信して、てめえが傷害犯になるのと引き替えに、騒音の元を排除したんだ。なにもかもわかった上でそうするから逃げも隠れもしねえ、言い訳もしねえ。向こうの何人かから示談の提案もあったが、それも突っぱねた。最後まで主義主張を曲げねえで、裁判所や鑑別所の心証をどうこうしようとも考えなかった。あれの弁護士はさぞ困ったろうよ」
「そういう危険なテロリストを、少年院送りにしなかったんだ? 叔父さんは」
 甥が嘲りの色を隠さないのに気付かない遼太郎でもなかろうが、その面は静かだった。彼はごく穏やかに「警官にそういうことを決める権利はない」と述べた。
「確信犯のついでに教えとくが、テロリズムってのァ政治的主張を背景とした実力行使のことを言うんだ。あのバカどもを病院送りにしたあと犯行声明でも出して、そいつらを排除しなきゃならねえ旨の政治的信条でも一席ぶたなきゃ、完二はテロリストの仲間にゃ入れてもらえんな」彼は笑って続ける。「あべこべのようだがな、少年院送りにならずに済んだのァ、完二がお前の言う『危険なテロリスト』だったからってのが大きい。たしかに原因として、警察の不面目もあるにはある。犯罪者と言やあ、あのバカどもも立派な犯罪者だ。だがケンカの常習犯がバイク乗った八人を派手に転かしたうえ丁寧に脚一本ずつへし折るなんてしちまえば、まず少年院行きは避けられねえ。悠、そうならなかったのはどうしてだと思う」
「確信犯、だったから?」
「弱者のためだったからだ」遼太郎はちょっと熱っぽく言った。「完二は短気で粗暴なガキだが、その暴力を振るう理由が常に、徹底して他者の、それも弱者の苦しみに由来したからだ。アイツには強い利他的な信念と、そのために法を犯して刑罰に甘んじる覚悟とがあった。そりゃふてくされちゃあいたが、判決に際しちゃひと言の弁明もなかったよ。アイツはちっとばかり向くべき方向が間違ってるってだけで、真っ直ぐだ。歪みがない。複雑で強引な矯正は必要ない。監察官はアイツをじゅうぶん精査した上で、最終的には少年院に送らなくても更正可能だと判断した。もちろん、俺たちも口添えした」
「…………」
「中三のガキがああいう判断と覚悟の上で法を犯したってのはなァ、警官が言うのもなんだがまったく凄い。アイツは困ったヤツには違いないが、大したヤツだ――」
 おそらく、と悠は思った。ごく個人として、遼太郎は弱者のために立った完二を称讃したいのだ。しかし公人として、そのために用いた手段をまったく看過できない。少なくとも彼の将来を憂えるという意味において遼太郎は自分と同じなのだと、悠は心中にくすぶる憤懣を宥めた。そうとも、叔父さんは完二を心配しているのだ……
「――それがぜんぶ自分ひとりでしおおせたことならな」
 叔父の付け足しに警戒心が鎌首をもたげる。彼はまだなにか言うつもりなのだろうか。
「なにか疑いでもあるの?」
 と悠が訊くと、遼太郎はソファのアームレストに肘をついて「お前ならまあ、わからんが」と前置いた。
「完二はな……そんな知恵のまわるヤツじゃねえんだ。一本気と言やあ聞こえはいいが、短気で直情的で思慮も浅い。さっきの番組、完二が警官に向かってあれこれ言ってる動画、見たろ?」
「うん」
「あれァ計算された演出だ。誰かが事前に筋書きを作って、住人を集めて、警察がやりこめられるところを狙って動画を撮って、ネットに流しやがったんだ」
「…………」
「そもそもの犯行自体、完二ひとりの仕業じゃねえはずだ。現場は辺りに人家のない、見晴らしのいい道路でな、お前もたぶん見たことあるんじゃねえかな。規模を除きゃあほとんど農道と言っても差し支えないとこだ。バイクずきにゃウケのよさそうなワインディングが所々にあるし、ことに夜は交通量も少ない。だから暴走族なんかが目をつけるんだが、それでも公道には違いねえ、車も通る。あいつはあくまで自分ひとりでやったって言い張ったし、実況見分でもそれらしい説明をしやがったが、八人の暴走族だけを狙って転倒させるなんてのァ、実際はとてもひとりでできることじゃない。あいつは手製の罠を使ったんだが、最低でももうひとり、事前にそいつらの来ることを確認して、完二に罠の準備をさせた人間がいたはずだ。いや、罠以前に、完二は何ヶ月かかけてきっかり二十回分、同じところで暴走族のガキどもとバイクのナンバーを撮影してるんだ。ヤツらの自己弁護を封殺するためにな」
 いかにも犯罪にふさわしい、叔父の話は暗い犯行計画と陰謀とを匂わせるものだ。それは悠のあたまの中の素朴で英雄的な、勇気と腕力とで悪党を叩きのめした義人たる巽完二像をいくらか傷つけた。
「暗視装置つきのハイスピードカメラが要る。もちろん罠を作る資材も要る。バイクのエンジンに穴を開けられるだけのドリルも、それらを運ぶ手段、たぶん車もだ。非行ぎみの中学三年生にこんなものが揃えられると思うか? この私刑を計画して、必要なものを揃えたヤツがいたんだ。共犯がいたんだ」
 遼太郎はそうと言ってから少し置いて、低く「その共犯ってのもな、証拠はねえが、実ァ見当はついてる」と呟いた。今しその甥の心中に忽然とある人物の姿が浮かんだと知ったら、彼はいったいなんと言って詰問するだろう!
(それ、ダイダロスじゃないか……?)
 ほかに完二の協力者たりうる人間を知らない、というのもあるが、あの非の打ちどころしかない犯罪者的外貌を度外視するにしても、「バイクのエンジンに穴を開けられるだけのドリル」などはいかにもあの工房ラビュリントスに転がっていそうなシロモノだ。
「……悠お前、商店街にある、だいだらって店、知ってるか」
 胃に氷が落ちてきたような気分である。ではやはりそうなのだ。表情を変えずに済んだのはあらかじめ見当を付けていたおかげだろう。
「見たことはある、けど、入ったことはない。なんかオノとかバクダンとか売ってるって、クラスのやつが言ってたっけ」
「爆弾ン? 確かか?」遼太郎の眉が吊り上がった。
「いやもちろんレプリカだけど」冷や汗が出る。「そういうのが好きなやつがいてさ、カンダハルって言うんだけど……武器オタでミリオタでゲームオタの女子で……」
 遼太郎はしばらく悠をじっと見つめた後、「あそこには近づくなよ」と厳命した。
「売ってるモンも褒められたもんじゃねえが、店主はありゃ完全に」自らの頬を指で斜めになぞりながら、「コレもんだ、カタギじゃねえ。完二の親戚なんだが、俺ァ完二を手伝ったか利用したかしたのは、ソイツじゃねえかと踏んでる。なにしでかすかわからねえ人間だ、関わるなよ」
「コレもんって、ヤクザなの? その店主」と、悠はあえて質してみた。「なんか過去に事件を起こしたとか、そういうことがあったの?」
 初対面のときこそそういった印象に充ち満ちていたダイダロスではあるが、その見た目はさておくとしても、こと話してみた限りにおいて、どうもかのヤクザハゲ氏は叔父の言う「なにしでかすかわからねえ人間」のようには思われなかった。もし傷害やら誘拐やらの前科があるというのなら確認しておかなければ、と思ったのだが、叔父の答えは「見りゃわかる。ありゃコレもんだ」とふたたび頬をなぞるだけである。
「お前も見りゃわかる。見さえすりゃ疑いなんざ起きねえよアレは」
(そりゃ見た目だけなら否定できないけど……否定しようがないけど……)
「とにかく、あの店には近づくなよ。いいな?」遼太郎はソファから立ち上がると念を押した。「友達にもよく言っとけよ、花村と里中にも。この上また別件で誘拐だの殺人だのあっちゃ困る」
「心配ないって。もともとなに売ってるかもわからなかったし、近づきたいとも思わないし」時計を百万円以上で売ったし、防弾チョッキとか用意してもらってるし、「ただあいつらバカだから、行くなって言ったらかえって行きたがるだろうなあ……あははほんとバカでさあいつらって……」
「気ィ付けてくれりゃあいいよ――よしカップよこせ。洗うから」
 と、言いながら悠の返事を待たずに、遼太郎は悠と菜々子のカップを回収してキッチンへ持ち去った。
 安堵の息が漏れた。完二と会った「店」の詳細をもし話していたらと思うと冷や汗が出る。向後だいだらへは少なくとも、正面から入ることは可能な限り避けたほうがよさそうである。地下のシャッターから出入りできると完二が言っていたから、そちら側の入口を訊いておかなければ。店に入るところを見られたら終わりだ。
(明日さっそく寄ってみよう。注文がどうなったか訊いておかなきゃいけないし……ああそうだ、タバコどうしよう……)
 また隙を見て叔父さんからくすねるしかないか――ちらとキッチンを覗った悠と、折しも彼を振り返った遼太郎との目が示し合わせたようにぶつかる。まるでこちらの考えていたことを傍受されたような機だ。悠はあわてて視線を逸らした。
「なんだよォ……なに悪いこと考えてた?」叔父の言葉は笑い含みである。
「いやっ、別に。なに? なんか話しかけようとしてた?」
「ああ、そういやさ、お前のほかにももうひとり、心当たりがあったなあって思ってな」
「……心当たりって、なんの話?」
「子どものくせに手の込んだ犯罪を犯しかねないヤツがさ」遼太郎はカップを拭きながら、「さいきん知り合ったのでお前みたいのがひとりいてなあ……まあったく小賢しいったら」
「仕事の関係?」
「まあ、そうだな、仕事の関係だ……ククク」
 おそらくは「セイアン」のほうの話だろう。おおかた彼の「常連客」のうちのひとりであろうが、いったい叔父の目に自分は犯罪者予備軍とでも映っているのか? まったく心外である。どこの世にこれほど順法精神に富んだ高校生がいるというのだ……などと冗談めかして叔父に抗議してみたところ、
「未成年者喫煙禁止法に違反してるだろお前! あはは五十万円以下の罰金もんだぞ、なんだ俺に払ってくれるのか?」
 悠は大笑いにやり返されてしまった。それを言うなら未成年者へことごとに飲酒を勧める自分はどうなのだ……とはさすがに言わずにおいたが、
「……悠お前、あれからタバコ、吸ってねえだろうな」
 すでに墓穴は堀りすぎるほど掘っていたようだ。すっかり笑みを吹き消した叔父へ、悠は内心の動揺を隠しつつ「吸ってない吸ってない! そもそもここらじゃ誰も売ってくれないし、吸いようがないし!」と懸命に否んだ。
 ウソは言っていない。というのも、ダイダロスは大の嫌煙家であったので。






 放送前から話題になっていただけあって、二年二組教室における特番「少年X」の俎上に載せられること、実に頻々たるものであった。けだし二年生の話柄にこれほど好まれたのだ、完二と同級である階下の一年生たちなど、よほどの喧噪でもって先輩の足許を突き上げたことだろう。当の完二のいる教室を除けば、であろうが。
「巽くんってちょっとカッコいいよねェ……天城さんってたしか、巽くんと知り合い、じゃなかったっけ?」
 と雪子に声をかけたのは――例によっておずおずとではあるが――環だった。
 朝のHR前である。悠たちは先日と同じように春美と環のコンビを迎えて、さっそく例の特番について盛り上がっていた。ちなみに、件の伝説の人物とは八十神高校一年三組の「巽完二」なる生徒である、という情報は誰から広まったものか、登校したときにはすでに周知の事実となっていた。
「昔の話。誰から聞いたの?」例によって雪子の言葉はそっけない。
「え、うん……オヤ、とか?」例によって環は撃退される。
「マチそーとー趣味わりーな」例によって春美が助け船よろしく後に続く。「みんな引いてるし。あのタトゥーしてピアスしたアタマまっしろなデカブツでしょ? ホラーかよ」
「ちーがうって! わたしけさ見たんだって。ぜんぜんちがくてカッコよかったんだって」
「全然ちがくてなんでソイツだってわかったんだ? なんか話したとか?」と、陽介。
「いや、見ただけ……うんまあ、おおむねテレビといっしょだったけど。タトゥーもピアスもあったし、背ェ高かったし髪の毛まっしろだったし、あとなんかデコの横っちょにでっかいキズとかあったな……」
「強化されてね?」陽介の呆れ声。
「なんとかヒルにそーゆう敵いたような気が……あたし鉄パイプでアレしたけど」千枝はなにかこじ開けるような仕草をしている。
 悠は例によって話し合いの輪から一歩退いて、団欒の縁の暗がりで息を潜める雪子の沈黙を観察していた。この茸は日向に向かって伸びたがるのに、今日も日陰に生えている。
 かなり不謹慎な話だが、オドオドしている彼女というのはまた独特の趣あって美しい。にこにこしているときの太陽的な貴石的な美ではない、それはもっと陰質の、生きていて湿っぽくて、触ったときの感触が想像できそうな暗がりの美である。自ずから悪趣味とは思っても、悠はこちらの美しさのほうが好みであった。
 あいかわらず彼女は悠たち以外に冷淡で、あいかわらず自らの冷淡によって凍えていた。矛盾している。これが茸なら性質として割り切ることもできようが、雪子は然らず、むしろ人間族の中ではものわかりのよいほうのはずなのに。悠はこっそり様子を窺いながら、さっそくふたりきりになったときにでもこの単純な矛盾を指摘して、もって彼女の悩みを解消してやろうかと、しょうじき思わないでもなかった。
 しかし、もしそうしたらどうなるだろう。もし悠が「みんなと仲よくしたいならああいう態度はよくないよ。おれたちにするようにして、ほかのひととも接しなきゃさ」とでも言ったら、雪子はどうするだろう。彼女はかつてそうしたように、あの感謝と迷惑とが綯い交ぜになったような表情を、その麗貌に浮かべるのではなかろうか。
 おそらくはいま悠の目の当たりにしている、一見して矛盾に見えるものもまた、幸薄き雪子の人生によく恵まれた「第三者には自明の理に思われ」る問題のひとつなのだ。単純な矛盾? ここ最近まであれほど苦しめられていた千枝との諍いについて、もし誰かが悠に「そんなの簡単だろ。おまえが悪かったら謝ればいいし、むこうが悪かったら謝らせればいい。なにを悩む?」とでも言っていたら、果たして彼は仰せの通りと従っていただろうか? むろん否だ。まさしくそんな単純な問題ではないのだ――たとえ周りからどのように見えたにせよ!
 きっと雪子が持て余しているのもまた、左右に引っ張るか上下に引っ張るかすれば外れるような、つらなる単純なふたつの鉤などではない。「ちえのわ」なのだ。ポケットの中に同じ性質のものを有する段になって、悠はよりいっそう彼女の苦悩が、少なくともその複雑な輪郭が見えてくるような気がするのだった。
 さて目の保養ばかりしてもいられない。これが助け船になればと悠は雪子に向かって、
「鈴木と巽ならあんがい似合ってると思わない? デコボココンビって感じで」
 と話を振ってみたが、彼女がなにか言う前に春美が「鈴木じゃねえ遠藤だっつの!」と突っ込んできた。突っ込まれついでに肩を揉まれて、すっかりうやむやにされてしまった。彼女はいったい、やたらと触ってくる人間である。
「そういやマチってさ、いままで会ったことなかったの? その巽完二に」春美は悠の肩を揉みながら、「商店街いんだからなんか接点あっただろーに。もしあたしなら一回みたらぜってー忘れねーよあんなクリーチャー」
「接点なんかないない、ウチ離れてるし。あってもたぶんおっかなくて声かけられない」と、環は手を振って否む。「……んだけど、でも実はなんかわたし、ちっちゃいころはけっこう、遊んだりしたらしい。オヤ情報。ぜんぜん記憶ないけど」
「おっかないのにカッコいいとか言ってんのかよ……つか、天城さんもそのクチじゃない?」春美が雪子に話を振った。「記憶にない? いま言ったみたいなクリーチャーと遊んだとか、鉄パイプでアレしたとか」
 笑いを取ろうとしたのだろうが、雪子はクリーチャーだの鉄パイプだのにはいっさい触れずに、小首を傾げて「どうだったかな。よく憶えてないよ」と述べるに留まる。はたして本当に憶えていないのか、それとも話すのがイヤで糊塗しているのか? 先ほど「昔の話」と言っていたからには、その頃の記憶がある程度あるわけで、いや、そもそも現在の完二のことからして彼女は知っているようなふしが――
(……商店街いんだから?)
 ふと、先ほどの春美の言葉に引っかかりを覚えて、悠は背後の彼女を振り返った。
「カンダハル、さっき商店街がどうとかって、言った? 鈴木のこと」
 今度は全員の突っ込みが入った。
「いやわかってる大丈夫、今のはウケを狙った!」悠は皆に小突き回されながら嘯く。
「つかもう鈴木でいいよ。鈴木に改名しろよ遠藤」と、陽介。
「スズキタマキってゴロいいじゃん。そうしなよ」千枝も調子をくれる。
「マチ泣くなよ――マチんちは惣菜大学って店やってんの」春美が環を指さしながら、「お惣菜売ってる店で、品ぞろえはムセッソー」
「泣いてないし――てか鳴上くんなんで鈴木なの?」環が春美の脇腹に突きを入れながら、「遠藤と鈴木ってぜんぜんちがうじゃんよ」
「あそこって遠藤んちだったのか」陽介は知らなかったようだ。「惣菜大学って俺メンチとかしか買ったことないわ。ほか怪しすぎて」
「必殺技みたいな料理ばっかだもんねあそこ」と、千枝。「んで、なんでマキが鈴木なの? 簡単に説明してねヨコモジとか使わんで」
 惣菜大学なら悠も知っている。商店街にあるやたらとメニューの豊富な総菜屋で、何度か行って夕飯のお菜を求めたことも――菜々子には悠がこしらえたという触れ込みで饗している――あった。
 あるいは環が八十稲羽商店街の人間であるということが、雪子の態度になにか関係しているのだろうか。先日の男子もそうであったのか? もっとも彼女は相手が商店街関係者であろうとなかろうと愛想のいいわけではないのだが、その態度は春美へのそれと環へのそれとで、なにがしか微妙な違いがあるように悠には思われるのだった。すなわち、前者に対してはピョンと跳び退るだけだが、後者に対してはトンと突き放すといったような。
「いや顔が似ててさ、東京で付き合ってたカノジョに。鈴木っていう」
 なかば上の空でこう言ったあとは、大騒ぎし始めた周囲を適当にあしらいながら、悠は物思いに耽っていた。
 商店街――過日、あの炎上する天城屋旅館の前で、雪子のシャドウが「クソクラエ」と罵ったものの中に、なにかの「組合」という言葉の混じっていたのが記憶に引っかかっている。この「組合」と「商店街」とはなかなか親和する概念ではないか? 雪子の「クソクラエ」の向こうに立つ数多の人影の一画を、もし商店街関係者が占めているのだとしたら……
 商店街と言えばだいだらもその一部だ。ちょうど寄る用事もあったことだし、それとなくダイダロスに訊いてみるのもよかろう。なにか知っているかもしれない。
 今日はひとりで帰ろうと悠は決めた。






 土曜の放課後という開放感も手伝ってか、
「なんで一緒に行くの駄目なんだよ理由を示せ理由を。四百字詰め原稿用紙二十枚以内で」
「べつになんか買ってとか言わんし。え、買ってくんないの? ケチー、バカー、アホー」
「じゃあお店に入らなきゃいい? ダメ? えーなんでェ? ケチー、バカー、つぶ貝ー」
 などなど、陽介たちの同伴要請は執拗をきわめた。もしだいだらに行くなら四人でなければならぬと言うのである。
「ひょっとして天城、きょう仕事休みだった? それなら延期するけど」
 もし雪子が放課後自由に動けるのならもちろん、だいだら行きなどよりペルソナ訓練のほうが優先されなければならない。だから悠はこう言ったのだが、彼女はにこにこしながら「今日はばっちり仕事はいってるよ」と否むのである。
「鳴上くんのハクジョウさに驚いただけ。あーあ鳴上くん見損なったァー」
「ホント薄情、偽りの友情、やるせない俺の感情」陽介が即興のラップを始める。
「鳴上くんマジつぶ貝」千枝の言うことはもうよくわからない。
(なんだよつぶ貝って……天城仕事ならべつにいいだろ……)
 ことほどさように、なかよし四人組のうちのひとりが単独行動するにあたっては、「今日はちょっとひとりで帰りたいから」などというあいまいな説明では了解してもらえないのである。なにか切実な理由が必要なのだ――陽介たち三人はおごそかに告げた。それなら千枝が先日「ちょっと用事あるから」のひと言で帰っていたのはどういうことだと悠が指摘すると、またぞろ貝だの蟹だのと言って三者が非難の雨を降らす。
「じゃあ……東京の鈴木に電話するから。これでいいだろ? ちょっと性的な話題もあるし三人には聞かれたくない」
 こちらは切実さに加えて誠実さにも欠けたようで、悠は校門下の坂を下りるあいだ中、さまざまな腹足類・回虫類・扁形動物その他の下等生物に喩えて罵られた。おのがじし手を振って別れるころには三者の一方的な合意によって、彼はユムシであるとの結論に甘んじなければならなかった。
(なんだよユムシって……)
 ようやく解放されたユムシはひとり傘を片手に、八十稲羽商店街を指して歩いた――もしユムシに脚があるものなら。
 ゆうべ菜々子の言っていたとおり、午後に入ってからはずっと小雨が降っている。それでなくても人足繁きジュネスから遠ざかっているので、行く先はおおむね閑散としている。件の惣菜大学の前を通り過ぎるさに、つと中を覗うと、傘布の向こうに中年の男がこちらに背を向けて、せっせとなにか揚げているのが見えた。これが鈴木家の家業というのなら、年ごろから言って環の父親かと思われるが。
(メンチカツ、ビフテキ、つぼ焼、コッテギ、エスカベッシュ、ベックオッファ、オーギョーチー……)
 店前に掲示してある大判の品書きを後目に見る。まこと無節操きわまりないグローバルなメニューで、初めて来たときは本当にぜんぶ作れるのかと怪しんだものだが、とりあえず事前に予約しておけばトトリムクとウトペネッツは可と確認済みである。後者は菜々子には名前以外はなはだウケなかったが……
 もしあの店が潰れていたらと、悠はしばらく歩いた後ふと考えた。環は悠のように親の仕事の都合で引っ越すかして、ひょっとしたら八校にいなかったかもしれない。
 もちろん彼のように、引っ越したことがよい転機になる可能性もある。しかし当のよい転機を迎えてのち、晴れてよい居所を得た悠には、その「よい居所」の住人である環がそこから出て行って、どこか見知らぬ場所で幸せを掴むという未来がどうしても想像できない。あの八校の木造校舎によくなじむ、田舎の小さな総菜屋の娘は、この「よい居所」で武器オタゲームオタの友人とコンビを組んで、地元の旅館の看板娘と仲よくなりたくてやきもきしているのがいかにもふさわしい。
 おたがい父親には感謝しなければならないだろう。限定的なニーズしか満たせないこの小さな商店街において、思うに惣菜屋というのはジュネス・コンクェストをうまく躱しうる数少ない業種であったのだ。ジュネスのような百貨店と棲み分けのできる特別な専門店を除けば、生き残るのはごく近傍の住民の要求を満たすに足るだけの生活必需品店と、飲食物を商う店くらいが関の山である。
(惣菜大学もある意味、特別な専門店の範疇に入るのかな……)
 特別な専門店――だいだらのような手合いは惣菜大学の異常性も及ぶまじき、その筆頭格と言えよう。あんな店がそうそうあってたまるものではない。
 珍しいことに「あんな店」の前には数人の人だかりがあった。と言っても、ひとかたまりになっているのではなく、少し離れたところで一対の男女がなにごとか言い合っていて、それを四、五人が遠巻きにしている、といったふうである。
(喧嘩?)
 雨宿りでもしていたのだろうか、だいだらの軒下でその様子を眺めていたひとりが、ちらと悠を見た。目が合ったのを汐に彼もそちらへ寄って、
「あれ、どうしたの? 喧嘩?」
 と、挨拶がわりに声をかけてみる。
 瞥見したところ、相手は中学生くらいである。たしょう読み違ったにせよこちらより年上にはとても見えない。雰囲気からとっさに男だと見当をつけたが、もしそうなら小柄な部類だろう。ビニールのポンチョを着けた上からでもわかる華奢な体格と、これにいかにもふさわしい小作りの女性的な面立ちが、その性別をにわかには判じがたくさせている。つい先ほどまで考えていたせいもあってか、悠はこの先客から少し環に似た印象を受けた。
「ついさっき始まったみたいです。ぼくも出てきたばかりで」
 と答えて、先客は被っているキャスケットの鍔をちょっと持ち上げてみせた。高いキーの持ち主が声を張って低音を出しているような、ちょっと役者の舞台発声じみた響きのある、妙な話し方である。これもあいまって少年――自称してぼくと言うからには男だろう――の帽子を持ち上げる仕草はかなり気取ったものに映った。
「ここのお客さんですか?」
「まあ、そうなるのかな」
 と肯んじてしまったが、ここは否むべきだったろう。悠はあわてて「いや、時計売ったことがあるってくらいだけど」とつけ加えた。この店に関わりがあるということはできるだけ知られないほうがいい。
「ここでなにか買ったことはない。ホント」
「時計……」
 少年はだいだらの戸口に貼られたポスターを見上げてから、続けて「腕時計でしょうね」と呟いた。この科白には「もちろん腕時計でしょうね?」という確認のほかに、「どうせ腕時計でしょうね」とでもいうふうな、かすかな失望が含まれていた。
「そう、腕時計」
 鸚鵡返しに答えたあと、腕時計でなければいったいナニ時計があるというのだと、悠はしばらく訝かっていた。中古売買の盛んな時計といえば腕時計くらいしか思いつかないが、世の中には壁掛け時計やめざまし時計の大きな中古市場がいくつもあって、そこではこの少年のような腕時計ヘイターが血眼になって良品を渉猟しているのだろうか。
 折も折、店前の喧嘩がやや盛り上がってきたのを機に、悠は先客の少年と並んでそちらを眺めることになった。
 最初から見ていたわけではない、ということを考慮に入れても、この男女の言い合いは明らかに男側を非とすべきものだ。彼は一見して異様な興奮状態にあった。それが嵩にかかって無茶苦茶に舌鋒を振るうので、女のほうではただもうわけがわからぬといったふうに、弱々しく去なしてなんとか彼から逃れようとするのだが、それを男が許さずに傘で右へ左へ遮って、なお飽かずに喋りまくるのである。
「――関係なくねえんだよ。お前みたいなのが世の中のバカな男をもっとバカにするんだろうが!」
「ホントに、もういいですから」
「よくねえんだよ。お前が決めることじゃねえんだよ。なにしにこんなとこ引っ越してきてんだよ、フーゾクでも行くのか? ここにはそんなもんねえぞ」
「わかりましたから、ちょっとどいてって……」
「なあ、心を入れ替えてバイトでもしたらどうだって。お前働いたことなんてないんだろ? ヘッタクソな歌うたってればいくらでもカネ稼げたもんな!」
「ホントに……」 
 女はあわれにもすっかり怯えた様子である。じき逃亡の不可を悟ると、彼女は周りの多からぬ見物客に目を放って、必死で無言の助けを求め始めた。
 つと悠と目が合った。
(……まだ子どもだ、というか、おれと同じくらいじゃないか?)
 それはどうやら相手の男の方でも同じらしい。傘を振り回しているときに見えた横顔は、やはり高校生くらいの至って若いものだ。痴話喧嘩にしてはどうも辻褄の合わない応酬だが、ここで見て見ぬ振りをするというのも男らしくない。両者とも自分と同年代くらいである、というのにも励まされて、助けに出て行く機を窺っていると、
「千伊奈りせですね、あれ」
 先客の少年がぽつんと呟いた。悠は虚を突かれて彼を振り向いた。
「千伊奈りせって……あの?」
「あの、千伊奈りせです。アイドルの」と、少年。
「なんでここに」
「母方の実家がここなんですよ、彼女」少年はさして興味もなさそうに続ける。「活動休止のニュース、テレビで見ませんでしたか?」
「見たけど……いや大して詳しいわけじゃないけど……」
「ずいぶん慌ただしい話ですけど、昨日こちらに着いたみたいですよ。これから目撃情報が拡散していって、じきこのあたりに『りせちー』のファンが押し寄せるかもしれませんね」
 少年の言葉には、別して「りせちー」の下りには明らかな冷笑が滲んでいた。もっともこれが一般的な世人の反応というものだろう。
 悠にしてもその範疇から漏れるつもりはない。まったく「お前みたいなのが世の中のバカな男をもっとバカにする」とはよく言ったものだ。男側の狂気はむろん大いに問題あるものだが、かの「りせちー」とやらがいま市井にあってこのように面罵されているのは、そもそもがいかがわしい虚業に専念して一向に恥じなかった、そのツケというものだろう。ある意味では自業自得と言える。
 しかし――悠はだいだらの看板をちらと見上げた。
(でも、そうだ、巽ならどうする? 巽がもしこの場に居合わせたとしたら)
 千伊奈りせの助けを求める目が、ふたたび悠のそれを捉えた。彼の脳裡に黄金の輝いを背負って拳を振り上げる、白髪の英雄の雄姿が浮かぶ。もし完二がこの場に居合わせたとしたら、自分が誰をどう思っているかなどとウジウジ考えたりするだろうか? いや、彼なら決してそんなことはしない。ただ「目の前に虐げられた弱者が存在する」というそれだけを充分な理由に、真っ先に突撃していくに違いない。もちろん、自分も彼のように雄々しく男らしくあらねばならぬ。この腕時計ぎらいの少年のように「気に入らないヤツは助けない」といったような卑怯な態度はゆめ取るまじ――
 ふたたび意を決して庇から出た悠だったが、結局のところ出遅れた。逡巡している間に先んじて別のところから男女に歩み寄るものがあった。黒い傘をさした小柄な、長い髪を無造作に襟足で束ねた、ちょっと眠たげな目をした八校生女子……
 悠は急停止してとっさに目を逸らした。見覚えがある。
(アイツだ、先輩だ……!)彼はこそこそとだいだらの軒下まで後退った。(水原先輩だ! くそ、こっちに気付くなよ……)
「先を越されましたね」
 先客の少年がこう言って、笑い含みに悠を迎えた。いい面の皮である。
 仲裁に入った織恵がなにを話しているのか、悠のいる位置からではよくわからなかった。聞こえるのは男の「なんだお前」とか「お前に聞いてない」とか「関係ねえだろ」などなどの、上擦った攻撃的な罵声だけである。あの手の狂人に理性的な話し合いなど通用しないだろう。思うに完二が殴りつけた連中もこのような手合いだったに違いない。彼は話し合いの不可を悟ったからこそ、つかつかと歩み寄るや仮借なき正義の一撃を――
「こっちに関係ねえならてめえにも関係ねえだろうがっ! あるってんなら今すぐ説明してみろオラァッ!」
 悠は隣の少年とそろってなかよく「ひゃっ」と飛び上がった。織恵が突然キレたのである。
「大きな声ださないで下さい……!」少年がムッとして悠を非難した。「ビックリするでしょ――それはそうと、流れが変わりましたね」
(いやぜったい向こうの声に驚いただろコイツ……それにしても)
 いまだに動悸が収まらない。かの特番で見た完二の啖呵もこれには及ぶまい。あの小さな身体から発せられたとはとても思えない、それは奇怪なほどに凄まじい声量の、しかも恐ろしくドスの利いた喝破であった。織恵は爆発する前と後とで悪夢のような変貌を遂げていた。助けられた当の千伊奈りせなどは完全に引いてしまっていて、織恵と男から数歩も距離を置いている。
「聞こえてんだろ説明しろ。待ってんだよ。見てわかんだろ」
「……あの」
「あの、なに? 続けろホラ――黙ってんじゃねえよ関係あるからあんだけギャーギャー騒いでたんだろ説明しろっつってんだよっ!」
「すいません」
「謝れって聞こえたのかてめえ」
「…………」
「謝れって聞こえたのかっ!」
「ちがいます」
「じゃあ説明しろ」
 ふだんの眠たげな目はカッと見開かれて、さながら中性子線でも放っているかのよう。先ほどまであれだけ意気軒昂であった男はもはや見る影もなく、織恵の剣幕の前にひとたまりもなく屈してしまった。見たところ男のほうが小柄な彼女に比して二十センチほども身丈で勝っているのだが、その彼が大人に恫喝された小学生めいて縮こまっているのである。
「……あんた、名前は?」
「…………」
「名前ェーッ!」
「久保ですっ、久保美津雄です」
(むごい……)
 久保美津雄と名乗った男は今や完全に圧倒されて、恐怖に竦み上がっていた。以前に春美が「おこるとこえーんだよォー」だの「滅ぼされる」だのと言っていたのも今なら理解できる。これならいきなり殴りかかられるのと大した違いはないのではないか。
 織恵は離れたところで戦々恐々としていた千伊奈りせに「もういいよ、行って大丈夫」と声をかけると、
「美津雄ちょっとこっち来い。ハナシあっから」
 と低く言って、最寄りの路地へ入って行ってしまった。打ち砕かれた美津雄といえば逃げることも思いつかない様子で、自身に命令した支配者の言うままに、すごすごとその背に付き従う。あの路地の奥で千枝の言うところの「よく切れる棍棒」がいったい、あわれな男を前にどれほどの激烈な破壊力を発揮するのか……悠の想像には余ったし実際したくもなかった。
 美津雄が刑場へと消えていくのを見終えた後、隣の少年はつまらなそうに「おもしろい見せ物でしたね」と感想を述べた。
「では、お先に失礼します」
 彼はキャスケットにポンチョのフードを被せながら、「ほら、行ってしまいますよ、お目当てのりせちーが」と捨て科白して軒下から走り去っていった。お目当てとは聞き捨てならぬ。彼は悠が義侠心からそうしたのではなく、相手が千伊奈りせだから助けようとしたのだと誤解したらしい。
(真逆だ、真逆! おれは助けたくない相手だからこそ自戒して助けようとしたんだ、おまえと一緒にするな!)
 去っていく少年の背をひとしきり睨め付ける。さて視線を転ずると、果たして彼の言い捨てていったとおり、千伊奈りせは傘を斜めにして未だに元いた場所に突っ立っていた。最前からこちらを見ていたようだったが、悠が向き直るのを見るとパッと踵を返して、あたまひとつ下げるでもなく商店街の奥へと去って行く。悠が彼女を助けようとして動いたのは見ていたはずなのに。
(あいつもおれのことをファンかなにかと勘違いしてるんだろうな……ファンなら自分のことを助けようとして当然だと思ってる。いかにもああいう人種らしい考えかただよな……)
 折々こちらを振り返るのも気にくわない。跡をつけて来はしないか、とでも思っているのだろうか? 自意識過剰きわまりない、誰がおまえの跡などつけたりするものか! 悠はぷりぷりしながらだいだらの入口の引戸を開けた。千伊奈りせといい先の少年といい、まったくもって腹立たしい連中である。






 引戸のすぐ裏側にダイダロスが立っていた。悠を出迎えた形である。
「おお、坊ちゃんいらっしゃい」
 彼の不審気に顰められていた眉が緩んだ。どちらも恐ろしさにかけては変わるところはなかったが。
「なんかあったのかい、表が騒がしかったみてえだが」
「うん、ちょっとした喧嘩。バカ男がバカ女に突っ掛かってた」悠はふと気になって尋ねた。「あのさ……おじさん、おれが来る前にさ、中学生くらいの小柄な男子なんて、来たりしなかった?」
 ダイダロスの答えは「来たぜ。ありゃ坊ちゃんのお友達か?」である。
「男だか女だかわからねえ、妙に大人ぶったモヤシだったな。いや、坊ちゃんの知り合いを悪く言うつもりァねえが」
「違うちがう。あんなの知り合いじゃない。おれもさっき表で会ったばっかりなんだ」
 ではやはりあの少年も「一見さん」だったのだ。してみると、彼も春美のような武器オタだったのだろうか。いや、時計がどうとか言っていたからには、彼も悠のように時計を売りに来たのか? これを質そうとする前にダイダロスのほうから、
「時計のルビーを分けてくれ、なあんて言いやがってな。まあ妙な客もあったもんだ」
 と言ってきた。サファイアのお次はルビーだ。とどめはきっとダイヤモンドに違いない。いったい時計というものは宝石でできているのだろうか。
「時計のルビーって、なに?」
「おっ、それ訊くかい?」ダイダロスの面が輝く。光というものも出所によっては邪悪である。「時計のルビーってのァムーブメントの天芯だの歯車だのの軸やホゾを受け止める石のことでここにァ燧よろしく強力な摩擦抵抗がかかるもんだから硬度の高えルビーだのサファイアだのってえコランダムが使われるんだがルビーってのァつまり赤い――」
 ルビーは時計の部品――悠は適当に聞き流した。
「ふーん……それって妙なことなの?」
「うーん、妙っつったらまあ、妙だな」
 まあ入んな、と悠を促して、ダイダロスは奥のカウンターへ入っていった。店内に悠以外の客はいないようだ。
「あのモヤシの欲しがったのァ、サイズからいって懐中時計のモンだった。うちァいちおう懐中の修理もやっちゃあいるが、あいにくそのサイズはなくてな。よっぽど年季の入った腕時計ずきだってバラして中身いじくってみようたァなかなか思わねえのに、ましてやアンティークが基本の懐中ときたもんだ。まあてえした趣味だと褒めてやりてえが、あの若さでそんなもんに血道をあげてるんだとしたら妙も妙、妙ちきりんの一等賞だぜ……しかもダイヤモンドがありゃそっちが欲しいなんぞとほざきやがる……」
「……宝石のダイヤモンド?」そらお出ましだ。時計がウン百万円もするのも頷けるというものだ――悠は呆れた。
「おお宝石のダイヤさ。ルビーだのサファイアだのってェコランダムもじゅうぶん硬えんだがダイヤモンドはなんてったって世界一の硬度でいっとう高級品の受け石なんかはまあ見てくれの豪華さもウケたんだろうがダイヤモンドを使うことがあって昔のアメリカ製の――」
 時計は金持ちの道楽――悠は適当に聞き流した。
「ふーん……ところで、巽は今日は?」
「完二かい? 今日はまだ見てねえな、じき来るんじゃねえかな。なんか用かい」
「いや、特には。そう、あれ、どうなってる? 注文したやつ」
「まだ来ねえが……それで思い出したが、坊ちゃんタバコ、吸ってねえだろうな。ええ?」
 遼太郎のお次はダイダロスか。その顔の違法性をつい過信して、煙草くらいすぐ用意してくれるだろうと思ったのが間違いだった。なにせ、
「こないだも言ったがな、タバコはヤクと変わんねえんだ。違うのァろくすっぽ法で規制されてねえってことくらいよ。いくら坊ちゃんでも吸ってんの見かけたらゲンコだぜ、マジで」
 こうである。先日に売ってくれと持ちかけたときなどは一時間ちかく説教を食らったものだ。
「法で規制されないってことは、規制されるほど危険じゃないってことだろ……」
 と細く煙を上げてみても、
「道理のわからねえことを言うもんじゃあねえ、大麻を法で規制しねえ国なんざ掃いて捨てるほどあらあ。法律なんざアテになんねんだ」ダイダロスは恐ろしい顔をいっそう恐ろしくする。「そもそも坊ちゃんはハタチにせえなってねえじゃねえか。未成年者喫煙禁止法に違反だ、五十万円以下の罰金もんだぜ。なんでえ俺に払ってくれるってえのかい?」
 いま自分が法律はアテにならないって言ったんじゃないか……とはさすがに言わずにおいた。悠は過日そうしたようにおとなしく白旗を挙げた。このまま説教コースに突入しなければいいがと恐々としていると、入口のほうで来店を告げる声がする。客だ、とダイダロスがそちらのほうを向いた。
 ここにいるのを誰かに見られてはまずい。狭い町のことだ、どんな人間の口から巡り廻って叔父の耳に入らないという保証もない。悠は慌ててダイダロスに「おじさん、奥の工房、見せてもらってもいいかな」と訊いた。
「こないだは説教食ってぜんぜん見られなかったしさ」
「そりゃ構わねえけど」ダイダロスはカウンターを出ながら、「ただ危ねえ機械もあっから、あんまりヘンなもんいじったりしねえでくれよな」
 悠は感謝もそこそこに奥ののれんを潜って、素早く向かいの庭へ逃れた。例の卑猥なダビデ像が雨に打たれながら彼を迎えた。
 ここへ来る前、あの腕時計ぎらいの少年に、店の客であることを話してしまったのが思い出される。年齢から言っても遼太郎の職業から言っても、間接的にさえ接点があるとは思われないが、今後はよりいっそうの注意が必要だろう。
(シャッターの入口、訊いとかなきゃな。いや、いま中から入って確認してくればいいか。あと天城のことと……あの事件について仄めかしてみてもいいな……)
 展示室――完二の言うところでは物置――の入口に鍵はかかっていない。その中も以前に見たのと変わりはないようだ。悠は中に入って鉄扉を閉めて、あたまの雨滴を手で払った。壁のスイッチ群のうち、室内灯がどれかわからないので、四つとも全て押す。フロアと一緒に周囲の展示用台座がすべて明かりで照らされた。
(そうだ、あれ、端材だとかって言ってたっけ)
 悠の目は自然と、そこだけ使用されている入口正面の台座に吸い寄せられた。以前に見たのと同じく、灰色の布で覆われたなにかが載っている。近くに寄って観察してみると、それは一抱えほどの大きさと厚みとがあって、どうやら複雑な形をしているらしいことがわかった。おそらく中身はなにか、この展示室に展示してしかるような作品だ。どうにも完二の言っていた「端材」のようには思われない。
(中身、なんなんだろう……)
 隠したいのならこんなところには置かないはずだ、しかし見せたいなら布などで覆わないわけで――しばらく台座の前を行きつ戻りつしていた悠だったが、ようやく意を決して布に手をかけた。べつに持ち去ったり破壊したりするのでなし、布も見たところ遮光用のものではない。この下のものに光が当たっても問題はないはずだ、そのついでに悠がそれを見たとしても……
 彼は下のものの突起に引っかからないように、慎重に布を取り去った。





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