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No.35651の一覧
[0] PERSONA4 THE TRANSLATION(ペルソナ4再構成)[些事風](2014/11/03 16:25)
[1] 序章 PERSONA FERREA[些事風](2014/11/03 16:25)
[2] 一章 REM TALEM MINIME COGITO[些事風](2012/10/27 23:54)
[3] 国を去り家を離れて白雲を見る[些事風](2012/10/27 23:57)
[4] マヨナカテレビって知ってる?[些事風](2012/10/28 00:00)
[5] ピエルナデボラシーボラ![些事風](2012/10/28 00:03)
[6] 出れそうなトコ、ない? ひょっとして[些事風](2012/10/28 00:07)
[8] 死体が載ってた……っぽい[些事風](2012/10/28 00:27)
[9] ペルソナなんぞない[些事風](2013/03/05 00:17)
[10] でも可能性あるだろ?[些事風](2012/10/28 00:34)
[11] バカにつける薬[些事風](2012/10/28 00:36)
[12] シャドウじゃなさそうクマ[些事風](2012/10/28 00:41)
[13] 吾、は、汝[些事風](2012/10/28 00:46)
[14] 俺はお前だ。ぜんぶ知ってる[些事風](2012/10/28 00:53)
[15] ノープランってわけだ[些事風](2012/10/28 00:56)
[16] 旅は始まっております[些事風](2012/10/28 01:05)
[19] 二章 NULLUS VALUS HABEO[些事風](2014/11/03 16:26)
[20] あたしも行く[些事風](2013/01/15 10:26)
[21] それ、ウソでしょ[些事風](2013/03/05 21:51)
[22] 映像倫理完っ全ムシ![些事風](2013/05/12 23:51)
[23] 命名、ポスギル城[些事風](2013/05/12 23:56)
[24] あたしは影か[些事風](2013/06/23 11:12)
[25] シャドウ里中だから、シャドナカ?[些事風](2013/07/24 00:02)
[26] 脱がしてみればはっきりすんだろ[些事風](2013/10/07 10:58)
[27] 鳴上くんて結構めんどくさいひと?[些事風](2013/10/14 17:36)
[28] セクハラクマー[些事風](2013/12/01 15:10)
[30] アギィーッ![些事風](2014/01/31 21:58)
[31] かかってこい、あたしが相手だ![些事風](2014/03/04 21:58)
[32] クソクラエ[些事風](2014/04/16 20:30)
[33] あなたは、わたしだね[些事風](2014/06/15 15:36)
[34] とくに言動が十八禁[些事風](2014/07/26 21:59)
[35] コードレスサイクロンユキコ[些事風](2014/09/13 19:52)
[36] 自称特別捜査隊カッコ笑い[些事風](2014/09/24 19:31)
[37] ッス[些事風](2014/11/03 16:29)
[38] oneirus_0d01[些事風](2014/12/14 18:47)
[39] 三章 QUID EST VIRILITAS?[些事風](2015/03/01 16:16)
[40] ええお控えなすって[些事風](2015/05/17 00:33)
[41] キュアムーミンだっけ[些事風](2015/10/18 13:01)
[42] おれ、弱くなった[些事風](2015/11/20 10:00)
[43] 中東かっ[些事風](2016/03/02 00:50)
[44] バカおやじだよ俺ァ[些事風](2016/05/15 16:02)
[45] ここがしもねた?[些事風](2016/08/16 15:11)
[46] 腕時計でしょうね[些事風](2016/11/15 13:03)
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[35651] ええお控えなすって
Name: 些事風◆8507efb8 ID:b702ab77 前を表示する / 次を表示する
Date: 2015/05/17 00:33

 悠は一種異様な感慨をもってその引戸に手をかけた。職員室へ来るのはこれで二度目だったが、最初にここに来てからこのかた、まるで一年も経ったみたいな気がする。
(いろいろあったもんな。いや、いろいろは現在進行中か……)
「失礼します」
 職員室に入ってすぐ、悠とちょうど入れ違いに出て行こうとしていた細井教諭とはち合わせた。
「おっ、鳴上っち。諸岡先生?」
「はい、これ」
 と、悠は学級日誌を持ち上げて見せた。
「日誌かァ、諸岡先生タバコ行ってはったかも……」と、細井教諭は室内を振り返って、「……あ、戻ってはる。あそこな」
 部屋の一隅を手で示して見せる。諸岡教諭は机を肘置きにして足を組んで、男子生徒の誰かと話をしているところだった。彼に遮られてか、先方はどうやら悠の訪問に気付いていない。
(誰だろう。見たことあるような……二組のやつかな)
「きょうはいつものふたりはおらへんのやな」
 廊下にあたまを突き出して辺りを窺うと、細井教諭はいかにも珍しげにそう言った。彼の言う「いつものふたり」とはもちろん、陽介と千枝のことであろう。彼は悠たちがおのおのひとりでいるときでさえ、一緒くたにしてトリオと呼ぶことがあった。
「ええ、まあ」
 結局、陽介からの返信はなかった。
 それこそが返事、つまりはそういうことだ。よし、それなら彼らに付き合うこともない、今日はひとりで帰るべし! 悠はHRが終わって放課になると真っ先に席を立って、彼を呼び止める陽介へ一顧をもくれず、足早に教室を出たのであった。
 いまごろ彼はなにをしているのやら。雪子とふたりで首尾よく千枝を探し当てて、彼女を慰めがてら悠の悪口でも言っているのだろうか。結構、大いにやるがいい! 近くに悠がいてはできないことだ、彼らの都合も考えてやらねばなるまい。言わせておけばいい、彼らと同じレベルへ降りていくことなどない、自分はいと賢明なるピリッポスとアウグストゥスとの忍耐に倣って、ひとりおのれを高く保っていればよいのだ……
「ここまではついて来えへんか、さすがに。今日はなんや天城っちもくっついてたみたいやったけど」細井教諭は話ありげに、引戸のレールの上から動こうとしない。「もうトリオやのうてカルテットやな。まあ君らは派手だから目立つんやわ、ほんまに」
「天城は、そうですね、あの容姿は目立ちますよ」実際、彼女といっしょにいると悠たちまでじろじろ見られるくらいだ。「陽介もよく騒ぐし、里中も……」
「あははいちばん目立っとんのは鳴上っちやで! なんや気付いてへんかったの?」と、細井教諭は愉快げに笑った。「みんな鳴上っちのこと見とるで。まあ転校生が珍しいっちゅうのもあるんやろうけど」
「おれを? まさか」
「ほんまほんま。最初はなんや大人びてるゆうか、あんまり喋らへん印象あったから驚いたけど、あれやな、マシンガントークゆうやつ?」
「マシンガン……」
「声もよう通るし、背ェの高いせいやろか、身振り手振りもちょっと目ェ引くし。まあ廊下でも教室でも目立つこと目立つこと」
 夢の中でイゴールに見せつけられた、あの自らの騒々しい醜態がありありと思い出された。もう人前で余計なことは喋らないようにしよう、泰然自若としていよう……などと反省したところで自分はきっと繰り返すのだろう。いまから大人しくしようとしたところで朝の二の舞だ、これが周りの人間の見たままの「悠」なのだ。いまはこの評に甘んじるよりほかない――悠は諦めのため息を作り笑いでごまかした。
「悪目立ちちゅうわけやないけどなあ。ところで鳴上っちって、転校してから二週間くらい経つんやろか。もうガッコ慣れた? さっそくラブレターとか来たんやないか色男ォ」
「いえ、おれなんか……」婚姻届なら突き返されましたよ。「あの先生、すいません、日誌、渡さなきゃいけないので」
「あ、ごめんな。ほならな、また明日」
 と手を振って、細井教諭は職員室をあとにした。彼を形ばかり見送ってから、さて諸岡教諭はと振り返る暇もなく、
「里中サンとうまくいってル?」
 悠は背後から声をかけられた。今度は中山教諭である。
「え、いや、あの」
 あわてて向き直る。あまり触れられたくない話題であったので、悠は出し抜けにこうと訊かれて言葉に詰まった。いったい、千枝の顔を思い浮かべるだけで名状しがたい感情が湧き上がってくるのである。いまや憎悪でこそなくなったものの、それはどうやら愛情とはかけ離れた、少なくとも快いものではない。
「教師の立場からは応援できないケド、個人的にはちょっと興味あるワ。野次馬根性?」
 よくもまあ自分で言ってのけるもんだ――悠は呆れるのを作り笑いでごまかした。
「えっと、いまはちょっと、危機、でしょうか、はは」
「アラ、なにかあったノ? あのあと」
 中山教諭の瞳孔が広がった。きっと心配して言っているのではないのだろう。
「いえ……あ、そうだ、授業中のあれですけど、あれは里中が始めたことですから。おれはやめろってずっと書いてたんです、誤解です」
「あれって、手紙回してたやつのコト?」
「そうです」
「里中サンから始めたっていうのは知ってるわヨ。見てたから」
「ああそうなん――ちょ、知ってておれを注意したんですかっ」
 中山教諭は平然と頷いた。悠をつっついたほうが面白そうだったから、というのがその理由だという。とんでもない教師である。
「で? なにかあったノ? ちょっと先生に教えてみなさいヨ」
「野次馬根性ですか? 先生お得意の」悠はため息をついた。「知りませんよ。授業が終わったあと急に怒り出して、拗ねてふて腐れて。八つ当たり食ってさんざんでした」
 そのあと彼女を泣かせたことについては言及を避けた。歩み寄った悠の誠意を悪質な沈黙でもって無下にし、それを糾弾されるや尻尾を巻いて逃げたのは千枝である。悠に非などあろうはずもないが、女子を泣かせたという一事のみをもって大犯罪のようにあげつらう輩もいるのだ。中山教諭がそうでないとも限らない。
「ふーん……あのあと怒ったっていうなら、里中サンひょっとしたら傷ついてたのかもネ。アレ」
「傷ついたのはこっちのほうですよ。いい迷惑ですよホントに。ああもうなんでこんな目に遭わなきゃなんないんだろ……あのあとから気が滅入って滅入って……」
 中山教諭はぶつくさこぼす悠をさも興味深げに眺めていたが、ややあって含み笑いながら、
「青春ネー、もっと悩みなサイ! キミは見てておもしろいワ!」と言って、伸び上がって彼の肩をびしびし叩いた。「今しか味わえないのヨ、それ。珍味ヨ、お金じゃ買えないのヨ。ゆっくり噛み締めなサイ!」
「……珍味っていうのは珍しいから珍味なんです。うまいからじゃないです」
「ちゃんと里中サンに謝るのヨ色男。フフフ……」
 中山教諭は悠の肩を拳でひとつ小突いて、機嫌よく職員室から出て行った。もっと悩め、見てて面白いとは教師の科白とも思えぬ。そもそも彼女が最初に千枝を注意していればこんなことにはならなかったのだ。悠にはちっとも面白くなかった。
(中山なんかに愚痴るんじゃなかった。へんな先生ばっかりだ)中山教諭を見送ったあと、悠は期待を込めて諸岡教諭のデスクに歩み寄った。(でも諸岡先生は違う、たぶん。ここではきっとモロキンじゃないはずだ)
 悠が教師ふたりと問答しているあいだに、先ほどの生徒は用事を終えて退室してしまったらしい。諸岡教諭はひとり猫背になって机に向かって、なにか書き物をしている。
「先生」
 と、悠がその背中に呼びかけると、
「んん」
 相づちとも唸り声ともつかない声が上がった。彼は机に目を落としたままである。
「……先生?」
 二度目でようやく顔を上げる。諸岡教諭はちらと悠を顧みた。顧みてちょっと驚いたようにして目を瞠って、しかしなにごともなかったふうに机に向き直ると、
友よアミチェなんのために来たのだアド・クィド・ヴェニスティ
 おそらく悠に聞こえるように言うつもりはなかったのだろうが、微かな声でそう呟いた。今度は彼が目を瞠る番である。
先生ラビ、あなたを銀貨三十枚で売りに」
 諸岡教諭がぎょっとして悠を振り向いた。驚きの表情はすぐさま笑顔に取って代わった。
「おい、ワシは自分をそれほど高く見積もっちゃいないが」回転椅子を軋らせて脚を組んで、彼は悠に正対した。「きょうび銀貨三十枚なんざ大した額じゃあるまい。いくらなんでも安すぎだ」
「開始価格ですから。高額の入札を待ちましょう」
「へえ、オークションなのか。で、どこなんだ、サザビーズ? クリスティーズ?」
「ヤフオクです」
 諸岡教諭は手を叩いて大笑いし始めた。周りの教師たちがなにごとかと彼のほうを向く。ひょっとしたらこのように笑う諸岡教諭というのは珍しいものなのかもしれない。
「はあ、そりゃ出品者の慧眼だ。まあヤフオクなら買い手がつくかもしれん」
「冷凍車を手配しますよ。鮮度が気になりますし」
「言いやがる!」
 諸岡教諭はなおも含み笑いながら、「変な奴だお前は」と呟いた。「変な奴」とは以前にも言われたことだが、彼がこの呼称に揶揄や非難を含めるどころか、なんとはない感心さえ滲ませているのは口調からも明白である。悠は担任の言う「変な奴」を手前勝手に「高校生とは思えないほど抜きん出た奴」くらいに意訳して、ひっそりと誇りに満たされた。
「日誌か、どれ」
 と、諸岡教諭が手を差し出した。悠から学級日誌を受け取って、彼は気のないふうにページをめくり始めた。なかなか顔を上げようとしない。ひょっとすると諸岡教諭の中ではもう用事は済んでいて、悠はすでにいないものとして扱われているのかもしれない。
 悠は話の接ぎ穂を探して、担任のデスクを眺め回した。が、辞書類とファイルがいくつかと、教育関係の書籍が不揃いな背を並べているのを除けば、そこは憎らしいくらい整然としている。まさかつまらないことは言えまい、今ほど彼に与えたよい印象を裏切るような平凡なことは……
「謙虚ですね」
 と、ややあって悠は呟いた。諸岡教諭が「ふん」と目を上げた。
「なにがさ」
 悠は黙ってデスクの一角を指さした。そこには本の陰になかば隠れて、小さな写真立てが飾ってある。机上においていくばくかでも主人のパーソナリティを感じさせる、それはほとんど唯一のものと言っていい。中に写真はなく、代わりに薄く黄ばんだ手書きの、元はメモ用紙かなにかと思しい紙片が入っている。


 stultissimus sum virorum,
 et sapientia hominum non est mecum.

 proverbs 30-2


 紙にはこうあった。ひょっとすると諸岡教諭自身が書いたものなのかもしれない。
「読めるのか」と、諸岡教諭が言った。問いではなく確認ほどの口調である。
「あれなら読めます」
「ふーん……」
 そのあとに続く称讃の言葉はない。悠はひっそりと落胆した。
「先生はキリスト教徒なんですか?」
 と問うたのも、ただ会話を繋げるために心当たりの話題を振ってみたというに過ぎなかったのだが、
「そういう鳴上は?」
 諸岡教諭は被せるようにして問い返してくる。意外な反応。
「両親が……おれは違いますけど、その影響で」
「それを読める?」と、写真立てを示す。
「はい、まあ」
「へえー……親御さんがねえ」諸岡教諭は日誌をデスクに置いて、感心したふうに腕を組んでいる。「ちょっと珍しいな」
「ええ、おれも自分の親以外のキリスト教徒って、ほとんど会ったことありませんし」
「違う。お前くらいの歳で親の影響を強く受けていて、しかもそれをあんまり嫌がってないっていうのが珍しい」
「……はあ」
「たいていは子供のほうで遠ざけるもんだ。もっと幼いか、あるいはもっと歳が行ってれば珍しくもないが」
 はて、自分は褒められているのだろうか、貶されているのだろうか――ハイともイイエとも言いようがないので、悠はけっきょく先の質問を繰り返して、
「それで、先生は?」
 と、ふたたび問うた。もし違うなら先のような受け答えはすまいが、と言って、別にそうであったとして他人に知られて障りになるようなこととも思えない。なにか諸岡教諭独特の事情があるのだろうか。
 彼はデスクの引出しを開けて、中から小さななにかを取り出した。
「あんまり信心深いほうじゃないが」
 悠の目の前に突き出されたのは、細い鎖を通した銀色の十字架である。横木に「ECCE EGO」と彫ってあるほかに、これといった装飾の類は見られない。さして価値があるふうでもない、味も素っ気もないしろものだ。
「うわ、意外だな。先生がキリスト教徒とは」と、悠は少々おおげさに驚いて見せた。「と来れば、机にありそうなもんですけど。聖書とか、イエス・キリストの置物とか」
「そういうのは飾っておくようなもんじゃない」と、十字架をしまいながら諸岡教諭が言った。「偶像崇拝だなんだって古めかしいことを言うつもりはないが、目の前にあることで見えなくなるものはある。べつに隠してあれば見えるようになるってわけでもないが」
「神さまとか、ですか?」
 と、なにげなく悠の言ったのを、諸岡教諭は少しく神妙に見上げると、
「鳴上は神を信じてるのか」
 と訊いた。
「神さまですか」
 いい流れだ。普段であればともかく、いまの彼になら試みに愚痴のひとつも漏らして、それになんと答えるか聞いてみたくもある。彼なら中山教諭よりよほどためになることを言ってくれそうだ。
「信じられるわけないですよ。もし神さまがいたら、世の中から争いごとなんかなくなるし、人間の悩み苦しみもきれいさっぱり消え失せるでしょう」と言って、悠はアーアとため息をついて見せた。「おれだってもっと晴れやかな気分で放課後を過ごせてるだろうし……」
「なんだどうした、なにかあったのか」とでも声をかけてくれることを期待していたのだったが、諸岡教諭は生徒の愚痴になにか別種の感興を覚えたようで、
「へえ、神がいるとそんなことが起きるのか」
 にこにこしながらこんなことを言う。妙なところに食いつくものだと悠は訝った。
「だって、そうでしょう?」
「どうして」
「どうして、と言われても……神さまって、そういうものでしょう。人間を助けて、救ってくれる存在でしょう」
「そうなのか」
「キリスト教って、そういうの多いじゃないですか。お助け下さい、お救い下さいって」
「神は大抵のばあい言われるほうだ」
 いったい諸岡教諭の眼差したるや、砂場でまろぶ幼児を見るそれと選ぶところはない。その慈愛においても、その幼稚を笑う程度においても。
「神ってものは無条件で人間を助けたがると、鳴上はそう思ってるんだな」
「違うんですか」悠は憮然として言った。
「さあ。とんでもない勘違いかもしれんし、鳴上の言うとおりかもしれん。でもそうだとしたら、じゃあいったいこの世はバラ色になるのかね」
 諸岡教諭は椅子を軋らせて、先の男子生徒と話しているときそうしていたように、肘を机に置いて脚を組んだ。
「ならないんですか?」
「さて……助けるとか、救うとかっていうのは、どういうことを言うんだろうな。それによって助けられるほうの印象もぜんぜん違ったものになる」
「というと」
「その人の障害を除いて、その欲しいものを与えて、その心から悩みを取り去ってやれば、助けたとか救ったとかいうことになるのかな。子どもを駄目にするのは簡単だ、なんでも欲しがるものを与えればいい、なんてゲーテは言ったもんだが、神から見たらワシらもそんな感じなのかもしれんぞ」
「はあ……」
「ワシらはアメ玉を欲しがって地団駄ふむ子どもというわけだ。それも虫歯と歯医者との恐ろしさを知らん、な」諸岡教諭は鼻息を吐いた。「神は全知全能だ、ということだ、もしいるなら。ついでに言やあ極めつけのパターナリストだ。なんせもう二千年がとこも子どもらの言い分に耳を貸さん。神はワシらを救うにあたってワシらの知らない、もっと的確な別のやりかたを知っていて、それをワシらの思惑に拘わらず問答無用で実践している、ということにでもなるんだろう。業腹だが」
「…………」
「お前が里中とケンカして悩んでるのも、その一環なのかもな」
(知ってたのか……!)
 不意打ちもいいところである。いったい誰が報せたものか、ひょっとすると先客の男子から得た情報かもしれない。
「これが神さまのはからいだと?」
「かもね」
「へえ。神さまはおれをこんな理不尽な目に遭わせて、それでいったいなにをさせたいんでしょうね」諸岡教諭は意外と迷信ぶかい人間なのかもしれない――悠は少しく失望した。「パターナリストってヒマ人って意味でしたっけ? やっぱりキリスト教はよくわかりません」
「ワシにもわからん。誰にわかろう、神がなにを考えてるかなんて」諸岡教諭はフンと鼻で嗤った。「ただ、鳴上流の考えかたを採用するなら、少なくともいい結果に結びつけるためになされたことなんだろうよ」
「……じゃあ、このあと、おれはどうすべきだと思います、先生は」
 諸岡教諭はさして考えるふうも見せず、「いい結果に結びつけるためには、里中を追いかけてってぶん殴るんじゃあダメだろうな」と当たり前のことを述べた。
「神もさすがにそこまでへそ曲がりじゃああるまい。と来れば、選択肢はおのずと絞られるんじゃないか」
「謝ってこいと? おれはこれでも自分の行動には批判的なつもりですけど、今回は百パーセント向こうが悪い。被害者が加害者に腰を屈めてあたまを下げるのが正しいとでも言うんですか」
 悠は話しながらようよう昂っていった。女の子を泣かせたのは悪いことだから、謝って許してもらうがいい――けっきょくは諸岡教諭もこんな下らない、誰にでもできる月並みな助言でお茶を濁そうとするのか。事情を聞きもしないでよくもこんな無責任なことが言えたものだ! 中山教諭といい彼といい、いったい大人はみなこうなのか?
「正しいか正しくないかは神に判断させろ。なんせ全知全能だ、間違えまい。任しときゃあいい」諸岡教諭はあくまで鷹揚に構えている。「鳴上が考えるべきなのは、鳴上のほうから関係修復に動き出すことで得られるメリットについてだ。お前がそうせんでも困らんなら、時間が解決するだろう。そうしないと困る喫緊の問題があるんならさっさと謝ってしまえ」
「……先生の話を聞いてると、まるで神さまがほんとうにいるみたいに思えてきますよ」
「神なんかいないって、そう思っておいたほうがいい。そうすりゃ本当にいたとき驚くだけで済む。いると端から信じ込んでるといなかったときがっかりするぞ」悠の皮肉に気を悪くした様子もなく、諸岡教諭は笑顔で続ける。「もし謝るんなら早いほうがいいな。傷みたいなもんで放置しておくと膿むぞ。あとへ回せば回すほど痛いし、痕も残る」
「轢き逃げされて大ケガしてる男にも、先生は同じように言うんでしょうね。自分を轢いた女のところへびっこ引いていって、歩道を歩いていてすいませんでした、赤信号で突っ込んできたあなたを避けられなかったわたしが悪いんですって、あたまを下げろと」
「……鳴上はずいぶん怒ってるんだなァ」諸岡教諭はいたく感心した様子。
「怒ってなんか――!」もちろん怒っている。「いや、怒ってます。あたまに来てます。ここに来れば少しは冷えるかと思ったけど、とんだ思い違いでした。見込み違いでした。おれがバカだった」
 諸岡教諭は腕を組んで背もたれに寄りかかって、なんと言おうか考えているのか、悠が落ち着くのを待っているのか、しばらく思案げに唸っていたが、ややあって、
「怒りとは苦痛を仕返しすることへの欲望だ、と言ったのは……」
 独りごちるようにして呟いた。
「誰だったかな」
「……アリストテレス」
「そうだったかな。じゃあ、まあ大アリストテレスの言を採用するとしてだ」諸岡教諭は悠を見上げながら、「鳴上は轢き逃げされた仕返しに、里中を轢き殺してやりたいって思ってるのか」
 と、静かに訊いた。悠は応えあぐねて黙ってしまった。
「違うか」
 いっそ勢いにまかせて「違わない」と言ってしまおうか――とっさにこう考えた彼だったが、その口は主人の心にもない命令になんとしても従わなかった。いかにもそうではない。いかに千枝に痛い目を見せられたからといって、同じ目に遭わせてやろうなどとは露も考えたことはない。彼女への憤懣があるのは事実だが、悠はこのとき初めて、自分がそれに託けて本当はなにを怒っているのか、自らに対してあえて暈かしていたことにはたと気付かされた。
「違うならさ、なあ、許してやったらどうだ。男らしくさ」
「帰ります」
 これいじょう彼と話すべきではない、話していれば余計なことまで吐露してしまいそうだ。悠はひとこと捨て科白して憤然と踵を返した。諸岡教諭が機嫌を損ねようがどうしようが知ったことではない、なにを言われようが振り返るまい。
「あっ、おい……」
 決然と歩き出した彼だったが、諸岡教諭にはいかにもふさわしからぬこの戸惑ったような声に、思わず脚を止めてしまった。
「なんです」
「……いや」
 しかし呼び止めたわりに、彼にこれといって用事のあるわけでもないらしい。悠はちょっと毒気を抜かれて、きまりも悪く振り返ると、
「あの、では……」
 と、締まらないながらふたたび辞去を告げた。
「んん、まあ、気をつけて帰れよ」
「はい」
「また明日な……」
 諸岡教諭は悠が訪ないを入れる前そうしていたように机に向かって、また書き物を始めた。その声音にも猫背にも、なんとはない寂しさが漂っているように思われたのは、悠の思い過ごしであったのだろうか。
さようならウァレー先生ラビ
 と、もうひとこと声をかけて、悠は職員室を後にした。
「クェシエルント・メ・クィ・アンテ・ノン――」
 部屋を出るさに追いかけてきた言葉は、悠に理解されるかどうかはともかくとしても、今度は聞かせるつもりで呟かれたものに違いなかった。悠は担任の意外な一面を見たように思い、また半ばは徒労に終わったようにも感ぜられたこの相談に、少なくとも諸岡教諭の慰問という意味はあったのだと、少しは気を取り直しもするのだった。あいかわらずの憤懣こそ胸から去らなかったが……



 わたしを尋ねなかったものたちが、わたしを求めたクァエシエールント・メー・クィー・アンテ・ノーン・インテルロガーバント
 わたしを求めなかったものたちが、わたしを探し当てたインウェネールント・クィー・ノーン・クァエシエールント・メー
 ほらここにいる。わたしはここだとディークシー エッケ・エゴー エッケ・エゴー
 わたしはわたしの名を呼び求めなかったものたちに言ったアド・ゲンテム・クァエ・ノーン・インウォカーバト・ノーメン・メウム



 いかにも、彼は寂しかったのだろう。悠の訪問が嬉しかったのだろう。男らしくだって? 悠は腹立ちまぎれに無理に嗤って見せた。そういう自分こそこんな女々しい、回りくどい謝意の表明など止すがいい。このおれのように男らしく孤独に耐えてみせるがいいのだ!
 このおれのように!






 ここ最近、放課のあと家へ直帰することはほとんどなかったと言っていい。
 悠が陽介を、ないしはそれに加えて千枝とを伴わずに、八十神高校の正面玄関を出ることもまたなかった。彼らは毎日判で押したようにジュネスへ繰り出した。店内をそぞろ歩き、フードコートに落ち着いたあとは飽かず四方山話――五方山話、とでも表現するのがより正確ではあろう――に花を咲かせ、たいていは夕方四時半前後をしおに、名残を惜しみつつ解散した。一度などは七時ちかくまで居座ったあげく、菜々子をしてフグさながらに変貌せしめたこともあった。
 彼らが悠なしでもこの習慣を守ろうとする可能性は高い。きっと陽介は雪子と千枝といっしょだ。フードコートのあのいつものテーブルでふんぞり返って、彼らは四時半ごろまで精出して悠を腐すのであろう。彼がフグになったからといって三人はそれを止めはすまい。おお不実者たちよ、気の済むまでやるがいい!
 こういうわけで、悠はジュネスへ行くことはできなかった。といって、こんなやるせない憂憤を自分の部屋に持ち帰るというのはいかにも面白くない。彼のつま先はほかにどこへというあてもなく、八十稲羽商店街を指して動いた。一時間もうろうろしていれば少しは気も晴れるだろう……
「おっ!」
 ちょうど因縁の「だいだら.」の前を通りがかるところであった。
 悠は両手をポケットに突っ込んで陰気に俯いて、店先の磨りガラスを恨めしげに眺めながら、このような魔窟で大事な時計を売ろうなどと考えた自らの浅慮を歎いていたところである。キリストでもアリストテレスでも誰でもいい、願わくばあの時計をわが手首に戻したまえ! ヤクザハゲは呪われてあれ! そしてこの店はもう地震とか落雷とかで跡形もなく潰れたまえ!
 声に出せばあるいは霊験もあるかもしれぬ――彼が口を開きかけた瞬間、睨めつけていたガラス戸がカラリと開いた。遮るものがなくなったので、悠の怨みの視線は当然のなりゆきとして、そのすぐ向こうにいたヤクザハゲ氏の面に注いだのであった。
 ヤクザハゲ氏――だいだらのオーナーが驚愕の面持ちで呻きを漏らしたのはこのときである。
「あ、あの、こんに――」
 と、慌てて挨拶する隙に、この凶賊の手が悠の手首を掴んだ。彼は抵抗する暇もなく竜の巣へと引き摺り込まれた。
「ちょっ、なにを――!」
「いいから! 静かにしねえ、悪いようにはしねえから!」
 そのまま問答無用で店の奥へ引っ張り込まれる。さながらベンチバイスに挟み込まれたようなもので、振り解こうと思うさえ叶わぬ恐るべき握力である。
 血の気が引く。恐ろしいことになってしまった。この男は悠から腕時計を奪ったばかりか、彼が司直に訴えかねないと踏んで始末しようと画策したのだ! 悪いようにはしない? ありがたくもその一片の良心らしきものが彼をして、犠牲者を無用に苦しめないための必殺の一撃を案じさせたのだとして、いったいそれが悠にとってなんの慰めになろうというのか。
「おっ、おじさん、落ち着け、早まるなよ! 刑事が親戚ってのはウソじゃな――!」
「すまねえ、このとおりっ!」
 悠はレジの前まで引っ立てられたあと、すぐさま解放された。のみならずヤクザハゲは腰を九十度に折り曲げて、悠の目の前に禿頭のてっぺんを突き出した。
(な、なんだ、なにが起きた?)
「許してくれよ、俺ァまた盗品だとばっかり」
「なに、なんの話だよ……」悠は恐るおそる訊いた。
「これだよ、これ」と言って、ヤクザハゲはポケットから件の時計を取り出した。「俺としたことがナルカミと聞いてピンと来ねえたァ、いかに現役から退いたにせえ面目もクソもあったもんじゃねえや」
「ちょっと、待って、なんの話だよ」悠はふたたび訊いた。
「でもあんたもいけねえ。いやあんたのオヤジさん……あーいや、ご当代さんとお呼びしたほうがいいな。ご当代さんはあんたにこれのことを説明なさらなかったようだが、いくらなんでもこれを――」
「ちょっと、待って、くれって!」悠はようやく少し落ち着きを取り戻した。「なんの、話? いきなり引っ張り込まれてぜんぜん話が見えない。順を追って説明してくれよ。盗品って?」
「それについちゃあこっちが誤解するのも無理ァねえってこと、わかってもらえるだろ?」
「わかってもらえないよ。なんで?」
「ああそりゃそうだ、わかんねえはずだ。あんた……なんて呼ぶのァ失礼か。坊ちゃん」ヤクザハゲは悠の時計を示しながら、「この時計、いくらするか知らねえだろう」
(坊ちゃん……?)
「百万くらい、じゃないの?」
 ヤクザハゲは深いため息を吐いた。
「……坊ちゃん、時計のことぜんぜん知らねえだろう」
 彼の口調には侮るような、憫れむような色がある。そんなことを知っていていったいなにになるというのだ――悠はムッとして「知らないよそんなの」と呟いた。
「まあ、そんなこたァ最初ここに来たときからわかってァいたんだ。だから盗んだモンだって思ったんだが……坊ちゃん、この時計、携帯と同じポケットに入れてたな」
 指摘されてもまったく記憶にない。悠にとってはどうでもいいことだったが、ヤクザハゲの言葉にはうっすらと非難の色が滲んでいた。どうもしてはいけない類のことだったらしい。
「覚えてねえかい。気にしてねえってのもまあ、素人の証拠だぜ。これは機械式だから電子機器に近づけちゃなんねえんだ。着信でも来てみな、一発でタイジしちまう」
「……タイジってなに?」
「テンプまわりが磁力を帯びて時計の精度が狂っちまうんだ。最近のァそれでもいろいろ対策してあるけどなァ、ビンテージだのアンティークだのってなると最悪もう全部バラして――」
「いい、わかった、もういい――」待てよ、この大男はなにか重要なことを言ってはいなかったか?「――じゃない! そうだ、それ、いくらするか知らないとかなんとか言ってたけど」
「気になるかい。気になるだろうよ」
「いくらするの?」
 ヤクザハゲは得意げに鼻を鳴らしてみせた。
「まあわかってりゃあなァ、百万で定価と変わらねえなんて言われて黙ってなんかいねえだろうしなァ……坊ちゃん、これ、そもそもなんていう時計かも知らねえだろう」
「おじさんの知らねえだろうはもう聞き飽きた。メモヴォクスだろ」
「ひとくちにメモヴォクスっつったっていろいろあるんだぜ。これァな、ジャガールクルトってえ老舗マニュファクチュールのモンでな」と、ヤクザハゲはさも嬉しげに説明を始める。「ルクルトっつったら懐中時計の昔から名の知れたメーカーだ、時計ずきを唸らせる硬派なブランドさ。そりゃブレゲだパテックだヴァシュロンだって大御所の横に並べられちゃあ――」
「おじさん蘊蓄はいいから。値段」
「ああそうかい。これァ2008年に発売されたメモヴォクス・ポラリス復刻モデル……あーメモヴォクス・ポラリスってのァ1965年に出たダイバーズウォッチの名機でね、当時としちゃあ――」
「ね、だ、ん!」
「坊ちゃんせっかちだな。ええ2008年に発売されたメモヴォクス・トリビュート・トゥ・ポラリスは限定七百六十五本、定価百八十万円なり、と」
「百、八十万……」悠が売ろうとした額の約2.5倍である。
「だがな、それァ同時期に発売された1968年モデル復刻のほうなんだ。坊ちゃんがご当代さんに頂いたこの時計はさっき言った65年モデルで……ほれ、ここんとこ、Pt950って打刻してあるの、見えるかい」
「うん」
「意味がわかるかい」
「わからない」
「だろうさ。わかってりゃあ――」
「おじさんしつこいぞ。はやく値段」
 ヤクザハゲは寂しそうに巨体を縮こまらせた。
「……Pt950ってのァな、これが純度九十五パーセントのプラチナでできてるってえことなんだ」
「へえ」
「へえ、だけかい」ヤクザハゲは不満そうにしている。「まあいいや。これァな、世界限定で百六十五本だけ作られた特別版、お値段は……」
「……お値段は?」
「定価で四百三十万円なり、だ」
「よん……」悠は絶句した。
「どうだい、少しァ驚きやがれ果報モン!」
 開いた口が塞がらない、とはこのことである。輔は果たして正気だったのか? 父がそんな金を持っていたというのも驚くべきことだが、それをたかだか息子への入学祝いごときに費やして、それを万が一にも妻に知られたとしたら、もはや冗談にさえどんな惨劇を招来するか想像することもできない。四百三十万円――高校二年生にとっては1auとさして隔たりがあるとも思われない天文学的数字である。それだけあったらいったいなにができる? 小さな家くらい買えてしまうのではないか……
「偽物、じゃ、ないの?」
「ニセモノじゃあねえよ。開けてみりゃわかる」と、ヤクザハゲは請け合った。「風防のキズもな、実ァそんなに大したこたねえんだ。これァ復刻元に忠実でプラスチック製だからよ、サファイアとかだったらちっとめんどくせえことにもなったけど」
「サファイア……?」あの時計の中に宝石が詰まっていたとしても不思議ではない。「もうなにがなんだか、めまいがしてきた……」
「サファイアってのァ」
「もういい! 説明はもういいよ」
(それより……そうだ、なんでこいつ、今になってこんなことを?)
 四百三十万円ショックはこのさい置くとして、不可解なのはこの男の掌を反したような態度だ。先にかの時計を捨て値で――悠が七十八万円で売ると言ったとき、彼は渋面の下でほくそ笑んでいたのだろうが――買い叩いておきながら、いまこのようにして本当の価値を明かすその真意とは? そうといえば彼は冒頭で悠にあたまを下げて謝罪していた。さきほどから彼のことを「坊ちゃん」と呼び、輔を「ご当代さん」だなどと呼んでいる。悠とその父をなにか特別の地位ある者として認識しているようなふしがある。たしかに架空の極道の子を演じはしたが……
(さっきナルカミと聞いてピンと来たとか来ないとか言ってたな)
「百万以下で売るなって言われた、なんてのァ坊ちゃんの狂言だろう。ご当代さんがこれを買ったんだとしたら、まさかそんなことァ言わねえはずだ。時計ってのァ状態にもよるが中古でも――」
「おじさん、ちょっといい?」と、悠はヤクザハゲを遮って訊いた。「さっきから言ってるその、坊ちゃんとかご当代さんとかって、なに?」
 彼の質問に、ヤクザハゲはなんとも言えない微笑を返した。
「坊ちゃん安心しねえ。渡世の仁義さ、俺ァよそに漏らしたりァしねえよ」
「……なにを?」
「いまでこそこんな場末で趣味の店をやっちゃあいるが、かつてァいっぱしの渡世モンだったんだ。坊ちゃんもそれを警戒したんだろうに」
(なに言ってんだコイツ……トセイモン?)
「意味がわからないんだけど」
「まあまあ、いや、坊ちゃんがあくまでそう言い張らなきゃならねえ事情ってのァ、こちとらわかっちゃあいるつもりだ」ヤクザハゲはどうどうと両手を掲げて見せる。「だがな、ちっと不用心じゃねえかい。昨日のガキ、じゃねえ、ご同輩は坊ちゃんの名前を知ってたみてえだが」
「意味が、わからない、んだけど!」
「サンノゼのナルカミっつったらまあ、明治の昔から知る人ぞ知るってえ伝説の大任侠だ。おいそれとそのへんの有象無象が知ってるはずァねえけどよ、俺みてえにその道に明るい人間が聞きゃあピンと来ちまうぜ」
 サンノゼのナルカミ。どうも口調から察するに、アメリカ西海岸在住の陽気な日本人シェフのことではなさそうである。
「おじさん、なんか、ものすごい誤解があるみたいなんだけど!」
「坊ちゃん、まあ、悪いようにはしねえよ。信じてくんな!」ヤクザハゲはその凶相に善意らしきものを漲らせた。「ついてァこんなこと頼むのァちょいとこっぱずかしいんだがよ、ご当代さんの、ええと何代目になるんだか不勉強で知らねえんだが、ナルカミユウゾウさんのサインとか、頂けねえもんかな。坊ちゃんから頼んでみてくんねえかい」
「ごっ、誤解だってば! サンノゼっていうのはカリフォルニアの一都市のことで!」
「カリフォルニア? あはは面白えこと言うぜ。こんな時計を子供の入学祝いにポンと投げてよこす大器量が、カリフォルニアのサラリーマンだってえのかい? 笑わせらあ」
「親バカなんだうちの親父は! いやバカなんだ!」
「そういう坊ちゃんからして明らかに普通じゃねえ。その若え身空であんだけ肝が据わってて、慌てて偽名つかっといて、おまけに本名は伝統のユウの字ときた。いまさら知らぬ存ぜぬたァちょいと白々しいやな。まあ安心してくれや、俺ァ知られても大丈夫な人間だ! あんたがたの命をつけ狙っちゃあいねえ」
「ちがう誤解なんだおれはヤクザじゃない! ふつうの高校生なんだってば!」
 背中にじっとりとイヤな汗が浮いてきた。妙な誤解をされるだけならまだしも、この男が明治以来の大侠客の裔を紹介したさに、悠を「事務所」へ連行するなどという事態になっては目も当てられない。
「あ、そうかそうか、身元がバレたってえことをご当代さんに知られちゃあまずいんだな。こりゃ気が回らなかった。そんならサインは諦めるしかねえか」ヤクザハゲは訳知り顔でウンウンと頷いている。「いや、坊ちゃんはうまくやってたぜ、俺にァ見抜かれちまったがよ。たださっきも言ったけどな、本名を触れ回るのァあんまり褒められたことじゃあねえな」
「誤解なんだってば……!」
「……それともなにかい、ひょっとしてもういるのかい、この町に」
 ヤクザハゲは声を潜めて、しかし若干うれしげにこう囁いた。
「な、なにが?」
「つまり、知られちゃあマズい奴ら、だよ。ああいやっ! 俺ァなに言ってんだいるに決まってらあな! それでなけりゃあご当代さんから頂いた大事な時計を金にしようなんて考えねえだろう。そんなら俺もひとはだ脱ごうってもんよ!」
「え?」
「ハコなし付属品なし使用感あり。定価四百三十万そっくりァむろん渡せねえが、そういう事情があるなら大いにイロつけさせてもらおうじゃあねえか。俺ァ義侠心だけが取り柄でね」
「いろ?」
「とりあえず今、ズクで百万。そのあとはおいおい入り用のときにってことでどうだい。なんなら言ってくれりゃあなんでも揃えるぜ。そんじょそこらじゃ売ってねえモンをよ」
「ずく?」
「札束な。おっと高校生は知らねえでいい言葉ってかい?」
(札束……百万……揃える……)
 このとんでもない誤解、ひょっとして解かないほうがいいのでは――悠のあたまは凄まじい勢いで回転し始めた。この誤解に乗ずればヤクザハゲの信用と、大金と、ひょっとすると向こうの世界で身を守るために必要な、諸々の道具の調達手段とをいちどきに手に入れることができるかもしれないのだ。少なくともこれで金の問題はほぼ解決する……
「……おじさん」
 と、悠は今までとは打って変わって低い、落ち着いた声で言った。気分はふたたび極道の息子である。
「誤解なんだよ。おれはヤクザじゃない」
「おっとまだ言うかい。それほど信用しちゃ――」
「おれはヤクザじゃない――そういうことになってるんだ。理由はまあ、だいたいわかってもらってるみてえだけど」
 ヤクザハゲは得たりと頷いた。
「おじさんに腕つかまれたときァ、しょうじき心臓が凍ったよ」まんざらウソでもないのだが。「おれもこれでおしまいかってね。銃は置いてきちまったし、おじさんと殴り合って勝てるたァ思えねえし」
「あんたがたみてえなマブの任侠にァ敬意を払わにゃな。いってえ俺も古いタチのヤクザでね、そのへんのチンピラならともかく、まさかサンノゼのナルカミをどうこうしようなんて思わねえさ」
「親父に知られたら半殺しだ。誰にも喋らねえでくれるよな、おじさん」
「坊ちゃんがそうしてほしいってんならしねえよ。ただ」ヤクザハゲの岩壁のような面がふと緩む。「ミーハーなようだが、俺ァぜひともこの目でいっぺん、ユウゾウ親分さんのお顔を拝んでみたくてよ。遠くからでいいんだがよォ、ひとつ頼まれてくれねえかな坊ちゃん」
「おっ親父は……ここにはいないよ、もちろん!」冷や汗が出た。「いたら自分の時計売ったりなんかするもんか。親父はいまアメリカにいるんだ」
「おっと、旅かけていなさるんかい! アメリカのどちらに?」
「カリフォルニアのサン……フランシスコ。こ、これ以上は言えねえ」
「そうかい、そりゃ残念だな。で、いつお戻りなさる?」
「そっ……言えない。おじさんは知らなくていいことだろ?」悠はあえて警戒心を見せた。「それとも知らないと困る事情でもあるのかよ」
「いやいや、そんなこたねえが……」
 このまま質疑応答を続けているとボロが出そうなので、悠はせいぜい深刻そうに「おじさん、もしちゃんと買い取ってくれるつもりがあるんなら、悪いけど急ぎで百万ほしいんだ」などと急き込んで訴えてみた。
「親父がいりゃあこんなこと頼まなくても済むんだけど」
「おお悪い、じゃあ早速」
 ヤクザハゲがカウンターの中へ入ろうとしたところで、背後から店の入口の開く音がした。こんな店に寄りつく客もあるのだ。
「おっとお客さんかい――おおいカンジ! ちっと来てくれ!」と、ヤクザハゲはカウンター奥の暖簾に向かって怒鳴ったあと、悠に手振りでそちらを示してみせた。「いま甥っ子に案内させるから、いっしょに奥へ入ってくんな。俺もおっつけ行こうからよ」
(息子じゃなくて甥っ子だったか)
 カンジ、というのはきのう見た不良のことだろう。果たして「なんだァ?」とのんびり暖簾を潜ってきたのは、例のツナギ姿の大柄な少年である。
「カンジ、この坊ちゃん、じゃねえ、このひとを工房へ案内してくんな」
 叔父にこう言いつけられたのが意外だったらしく、少年は「おや」とでも言いたげに目を瞠ってみせた。
「おう。いいの?」
「いいんだ。俺もすぐ行く――おっと、自己紹介がまだだったな」
 入口へ向かいかけたヤクザハゲが回れ右をして、その柱のような腕を突き出して握手を求めてくる。
「この店、だいだらぼっちのオーナー、ダイダロス巽だ。よろしくご贔屓に!」
「……鳴上悠です」
 あのだいだらの後の点は「ぼっち」と読ませるのか。無理があるんじゃないのか――などと考えているのはおくびにも出さず、悠は目の前のベンチバイスに手を挟んだ。






 長身の少年は巽完二と名乗った。そして名乗りがてら、おじの本名は良一というのだと悠に教えた。
「似合わねえっしょ? ゴンゾウとかイワゴロウとかって顔っスよね、あれ」
 にこにこしながらおじの容貌をからかう。彼は悠よりひとつ歳下ということだ。暖簾の先の靴脱ぎから住家へ上がってすぐ、彼は悠の首のあたりを指さして「先輩っスね。オレ一年っスから」と言ったのだった。八十神高校の制服の詰襟にはみな一様に、学年を示すラペルピンがついているのである。
「八十神高校?」
「八校っスよ。あ、三年に見えました? デケーから」
 いったい高校三年生にさえ、彼のようないかにも不良然としたいでたちの生徒はそういまい。悠を凌ぐ長身とあいまってそのみてくれはかなり威圧的である。にも拘わらず、この巽完二という少年は見た目の印象を大きく裏切る、いたって穏和かつなかなかに礼儀正しい人間なのだった。
「むぎ茶しかねえな……湯わかしてるヒマに来そうだし……すんませんむぎ茶でいいスか? 冷たいんスけど」
 完二は暖簾を潜ったその足で叔父に言われた工房へ向かうことはせず、台所と思しい部屋へ悠を伴うと、冷蔵庫の中を漁りながら思案げにこう言うのである。
「え、いいよいいよ、お構いなく」
「じゃむぎ茶で」
 完二は巨大なコップになみなみとむぎ茶を注いで、わざわざそれを盆に載せて悠に勧めた。悠としては恐れ入って押し頂いて、飲みたくもない大量のむぎ茶を無理して胃に流し込まざるを得なかった。
「なんかおかしあったかな……せんべいとかあったよな……勝手わかんねえな……」
 冷蔵庫の探索が不首尾に終わると、彼の捜索の手はその辺りの戸棚へと伸びた。お盆サイズの煎餅かなにかでも探して来かねない気配だ。
「いいよいいよ! それよりええと工房? 案内してくれないかな。オーナーもじき来るだろうしさ」
「じゃあ……こっちっス」彼は持っていたレコード盤みたいなどら焼きをしまい直した。
 悠は完二の先導で、ちょうど店舗の暖簾の真向かいにある裏口から、小体な庭のような空き地へ出た。面積にして五坪ほどの草地の左右を、目隠しの羅漢槙が壁のように挟み込んでいて、それが奥に建っているコンクリートでできた方形の小屋へと連結している。少し小さいようにも思われたが、ダイダロスの言っていた工房とはこれのことなのだろう。
(なんだこれ……)
 庭へ踏み入っていくらも行かないうちに、悠の視線は右手側に釘付けになった。彼の心の声を聞きつけたのか、完二が「よくできてるっしょ? コレ」と振り向いて、悠の凝視していた高さ二メートルほどの立像を指さした。
 空き地の右手に、美術の教科書に載っていたほぼそのままの、ミケランジェロのダビデ像が佇立しているである。
「本物よりだいぶ小せえし、パース修正してるし、大理石じゃなくてサスだけど。でも」完二の指はダビデ像の股間を指していた。「いくらなんでもアレはねえっスよね。作ったのはいいけどこんなの表に飾れねえっつの」
 完二いわく、それは彼のおじことダイダロス巽の作であるという。
 もっとも悠をしてその心に「なんだこれ……」と言わしめたのは、ヤクザの庭にルネサンスの精華を見出したからではない。まったくダビデ像は驚くほど精巧だった。どうやらオリジナルに忠実なポーズを取っているらしいのだが、その股間だけが大いに様相を異にしているのである。悠のおぼろげな記憶と照らし合わせても明らかに巨大で、そればかりか天を指して隆々と屹立しているのだった。
 いかにも、こんなものが店前に立っていたら猥褻物陳列のかどで警察が飛んでくるだろう。「だいだら.」がどのような購買層へのアピールを狙っているかについて、取り返しのつかない誤解を周囲に与えかねない。
「たまにこういうワケわかんねえモン作るんスよ、あのおっさん」奥の小屋へ歩き出しながら、完二は悠を振り返って苦笑してみせた。「オリジナルは小さくて貧相だ。まるで臆病風に吹かれたみてえに縮こまってる。男らしくねえって。なに考えてんだか……」
 などと口では言ういっぽう、どうも彼におじを貶すつもりはないようで、ダビデ像を振り返る面には感心と、なんとはない自慢の色があった。なるほど、ごく一部を除いてはしろうと目にさえ、オリジナルへの敬意と傾倒とが垣間見える出来ではある。きっと完二の自慢したいのはダビデ像ではないのだろう。
「ここ、靴のまま入れるんで」
 意外なことに、小屋の鉄扉の向こうには工作台のひとつさえあるでもなく、がらんとした空間が広がっているだけだった。
 かといって殺風景というわけでもない。室内は白い石目調の壁紙で覆われ、向かって正面と右手の壁際には、いくつか等間隔で大理石様の台座が設えられている。どうやらなにかを展示するためのもののようで、室内用のほかにライティング専用の照明が台座ごとにひとつずつ、天井に穿たれた穴から落ち着いた光線を投げかけている。
 ほかはすべて空であるのに、正面の台座のひとつにだけ、灰色の布のようなものに覆われたなにかが置かれていた。
「ここって、展示室?」
 悠の問いかけに完二は応えない。彼は数秒ほど灰色の布を見つめていたが、じき興味を失ったようにして左の壁際へ向かった。
「こっちっスよ。ここは物置っス」
「あ、うん」
「ほらここ、入口のほうから見ると陰になってて見えねえんスけど……」
 入口から見て左手側に台座のない理由がわかった。完二が案内したそこには、照明の加減によって巧妙に隠された地下への階段があったのである。
「これ……ひょっとして、この先が工房? 地下室なのか」
「そっスよ。ワクワクするっしょ?」完二はにこにこしている。「ここの床もフロアマットはぐればハッチがあるんスよ。下の工房ともののやりとりとかできる」
「とんでもないな……」
「オジさんがここにヒト通すなんて、あんまりねえことなんスけどね」
 完二はそう言うと、ふと階段の途中で立ち止まって、半身になって悠を振り返った。
「ところで、オジさんの、ダチにゃあ見えねえスけど、先輩って……?」
 もの問いたげに見上げてくる。当の悠でさえこの成り行きを不思議に思っているくらいだから、わがおじをして格別の配慮をさせるこの「先輩」の素性を完二が怪しむのも無理からぬ話である。
 といって、まさか腰を割って「ええお控えなすって。手前生国はサンノゼ姓はナルカミ名はユウ」云々とぶちあげるわけにもいかない。悠が大任侠の裔だなどという誤解は、ダイダロスの脳内でのみ完結している妄想だからこそ成り立つもの。悠の乏しい知識ではその誤解を助長してやれるようなウソひとつさえ、生半にはひねり出せないのだ。ダイダロスに対してそうすべきであるのと同様に、その甥っ子にもこのさい余計なことは言えまい。
「いや、別に、たんに客ってだけでさ……あっそうそう、さっきのアレ」
 どう説明してみようもないので、悠は先に見た灰色の布へと話を転じた。階段から伸び上がって台座のほうへ視線を投げながら、
「ひとつだけなにか置いてあったよね。布で覆ってあったけど、あれはなに? 今度はピエタとか?」
 と訊いてみる。完二はいかにも気のないふうで「あれはただの端材っス」と応えた。
「さっき見たと思うんスけど、いま改装中なんスよ、そこ」と、完二は天井を指さして見せる。「もともとはマジで物置だったんスけど、あのおっさん急にディスプレイ用の部屋つくるとか言い出して、見切り発車で工事はじめちまったもんだからとにかくモノ置くスペースがないんス。で、とりあえずあそこに仮置きしてるってだけで」
「ああ、そうなんだ……」
「そうそう、工房はいってからもそうスけど、あんまりそのへんのモン触らねえほうがいいっスよ先輩。オジさんマジでキレるから」
 笑っていてさえ恐ろしいあの男が「マジでキレ」たりしたら、もう菜々子などはショック死しかねない形相となるに違いない。かのダイダロスの容貌を運命づけたサタン的遺伝子を受け継がずに済んだことは、この目の前の気のいい少年にとって幸運であったと言うほかはない。彼は神のパターナリズムに感謝してキリスト教徒になってもいいくらいである。
「あのおじさんがキレたらすごいだろうな」
「ま、滅多にキレねえスけどね。キレてるみてえに見えても本人は笑ってるつもり、なんてこともしょっちゅうだし――こっからちっと急っスから、足もと気ィつけて」
 階段を一度折れるとじきに、裸電球に照らされた扉が現れた。その上の銘板には出来過ぎたことにこう彫ってあるのだった。
『LABYRINTHOS』




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