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No.35651の一覧
[0] PERSONA4 THE TRANSLATION(ペルソナ4再構成)[些事風](2014/11/03 16:25)
[1] 序章 PERSONA FERREA[些事風](2014/11/03 16:25)
[2] 一章 REM TALEM MINIME COGITO[些事風](2012/10/27 23:54)
[3] 国を去り家を離れて白雲を見る[些事風](2012/10/27 23:57)
[4] マヨナカテレビって知ってる?[些事風](2012/10/28 00:00)
[5] ピエルナデボラシーボラ![些事風](2012/10/28 00:03)
[6] 出れそうなトコ、ない? ひょっとして[些事風](2012/10/28 00:07)
[8] 死体が載ってた……っぽい[些事風](2012/10/28 00:27)
[9] ペルソナなんぞない[些事風](2013/03/05 00:17)
[10] でも可能性あるだろ?[些事風](2012/10/28 00:34)
[11] バカにつける薬[些事風](2012/10/28 00:36)
[12] シャドウじゃなさそうクマ[些事風](2012/10/28 00:41)
[13] 吾、は、汝[些事風](2012/10/28 00:46)
[14] 俺はお前だ。ぜんぶ知ってる[些事風](2012/10/28 00:53)
[15] ノープランってわけだ[些事風](2012/10/28 00:56)
[16] 旅は始まっております[些事風](2012/10/28 01:05)
[19] 二章 NULLUS VALUS HABEO[些事風](2014/11/03 16:26)
[20] あたしも行く[些事風](2013/01/15 10:26)
[21] それ、ウソでしょ[些事風](2013/03/05 21:51)
[22] 映像倫理完っ全ムシ![些事風](2013/05/12 23:51)
[23] 命名、ポスギル城[些事風](2013/05/12 23:56)
[24] あたしは影か[些事風](2013/06/23 11:12)
[25] シャドウ里中だから、シャドナカ?[些事風](2013/07/24 00:02)
[26] 脱がしてみればはっきりすんだろ[些事風](2013/10/07 10:58)
[27] 鳴上くんて結構めんどくさいひと?[些事風](2013/10/14 17:36)
[28] セクハラクマー[些事風](2013/12/01 15:10)
[30] アギィーッ![些事風](2014/01/31 21:58)
[31] かかってこい、あたしが相手だ![些事風](2014/03/04 21:58)
[32] クソクラエ[些事風](2014/04/16 20:30)
[33] あなたは、わたしだね[些事風](2014/06/15 15:36)
[34] とくに言動が十八禁[些事風](2014/07/26 21:59)
[35] コードレスサイクロンユキコ[些事風](2014/09/13 19:52)
[36] 自称特別捜査隊カッコ笑い[些事風](2014/09/24 19:31)
[37] ッス[些事風](2014/11/03 16:29)
[38] oneirus_0d01[些事風](2014/12/14 18:47)
[39] 三章 QUID EST VIRILITAS?[些事風](2015/03/01 16:16)
[40] ええお控えなすって[些事風](2015/05/17 00:33)
[41] キュアムーミンだっけ[些事風](2015/10/18 13:01)
[42] おれ、弱くなった[些事風](2015/11/20 10:00)
[43] 中東かっ[些事風](2016/03/02 00:50)
[44] バカおやじだよ俺ァ[些事風](2016/05/15 16:02)
[45] ここがしもねた?[些事風](2016/08/16 15:11)
[46] 腕時計でしょうね[些事風](2016/11/15 13:03)
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[35651] 三章 QUID EST VIRILITAS?
Name: 些事風◆8507efb8 ID:b702ab77 前を表示する / 次を表示する
Date: 2015/03/01 16:16



 へんな夢を見た。
(なんて夢だ。なんで里中が……)
 それは千枝に追いかけられる夢だった。夢の中で悠は薄暗いトンネルのようなところをひた走っていた。背後でゴロリゴロリと鎖を引き摺るような音がする。駆けながら肩越しに振り向いてみると、なんと千枝がすぐ後ろを走っている。こちらに向かってタルタルステーキを食わせろとか醤油を切らしてるとか叫びながら、ぴったりくっついて追いかけてくる。その手には拳銃が握られている。そうして追いかけられる悠は悠で彼女のことはそこそこに、少し前にスイッチを入れたはずの洗濯機に洗剤を入れ忘れたかもしれぬ、黴菌が繁殖するかもしれぬと焦燥に駆られているのである。
 自分はいったい、洗濯機を目指して走っていたのだろうか。
(醤油か……里中って和風好きなのかな)
 夢の中ではただただ焦っていたような気がする。が、こうして布団の中で思い返してみると、湧いてくるのは千枝へのなんとはない親愛の情だけだった。バカらしい妄想であるが、ひょっとすると千枝はいま和風タルタルステーキが食べたいのかもしれない。そうして自分はその願望を受信したのかもしれない。洗濯機については……きのう洗濯機のスイッチを入れたのは菜々子だからして、彼女が洗剤を入れ忘れでもしたのだろうか。
「なにバカなこと考えてんだおれは、朝っぱらから……」
 悠は布団から出て携帯電話のアラーム予約を切った。鳴るよりだいぶ前に起きてしまったが、妙に目が冴えている。先の奇態な夢のおかげか寝覚めもことによい。千枝にタルタルステーキを饗するのは無理でも、せめて早めに下に降りて菜々子にポテトパンケーキでも焼いてやろう。
「里中、だったよな、確か」
 悠は学生服に着替えながら、あれは雪子だったかもしれぬとぼんやり考えていた。





 鮫川河川敷に出てほどなく、悠は前を行くまばらな学生服たちの中に雪子の背中を見つけた。
 赤いカーディガンを縦に割って隠す腰丈の緑髪、スラリと長い脚線、ほっそりとしてかつ女性的なメリハリのあるまろやかな輪郭。家業の影響であろうか、その背筋は通学路をそぞろ歩くときでさえ、旗竿を入れたように格好よく伸びていた。まったく彼女は後ろ姿だけでも十分に衆目を奪う。
(みんなアレが気になってるんだろうな……)
 彼女の麗姿を盗み見るのはひとり悠だけではない。周りにいる四、五人の男子生徒――いずれも三年生と思しい――も同志である。彼らの視線を辿ることはできなかったが、そのいくらかは間違いなく雪子の左手へと注がれているはず。彼女の繊手を覆う肉色のゴム手袋へと。
 天城にはどれほどショックだったろう――雪子に声をかけることはせずに、一定の距離を保ってその背を眺めながら、悠は物思いに耽った。
 ふつうの女子にさえ十分すぎるほど酷な怪我なのに、家業の都合上、雪子はそれを客に見せ続けなければならない。和服にゴム手袋というミスマッチが人目を引かないわけもなし、手袋が取れたら取れたで、今度はその下の瘢痕が好奇の視線を引き続けよう。あるいは原因を質す人間も出てくるだろう、雪子はそのたびに適当な話をでっちあげて、そのたびに自らの醜い右手を見つめて、そのたびにむごい現実を確認し続けるのだ。
 いまだに彼女に対して「薄倖美人」的な印象を抱き、かつそれを日毎に強めつつある悠ではあったが、その来し方の片鱗を知り友誼を交わすに至ったいまとなっては、この手の予感だの期待だのというものは的中してもちっともうれしくなかった。他人事ながら募るのは無念ばかりである。
 知り合ったばかりの友人に過ぎぬ悠にしてからがこれほど口惜しいのだ。まして彼女の母親は、天城屋の関係者たちはどれほど深くこの瑕瑾を憾んだことだろう。こんな災難に遭った人間の美醜を云々言うのはちょっと慎みに欠けるかもしれないが、しかしよりにもよってあたら瑰麗な玉によくも無惨なひびの入ったものよと、いやしくも木石でないなら慨歎するのがひとの情というもの。いっそ彼女が十人並みの容姿であればこれほどの無常は感ぜしめぬものを……
 雪子の尻を眺めながらひっそりと嘆息していると、
「五分経過……対象はまだ気付かないであります。ドンカンであります」
 突然、背後で千枝の声がした。
「了解。対象は天城のシリに夢中である模様。引き続き監視を続行せよ」
 返事はむろん陽介のものだ。振り向くといつの間に忍び寄ったものやら、背中に陽介と千枝がくっついていた。
「おーす鳴上くん」と、千枝が手を上げる。「で? 熱心に雪子のこと観察してナニ考えてたんですかー?」
「よっ、おはよ悠」と、陽介が手を上げる。「朝っぱらからシカン中? ちょっと署までご同行願えますか」
「鳴上くんコーシューのメンゼンだよー、ジチョーしろよー」
「鳴上くんやだーエローいサイテー。セクシャルプレデター」
(朝っぱらからご挨拶だなこいつら……)
 悠はなにか言い返してやろうと口を開きかけたものの、じき思い直した。
 いったい、彼らと気の赴くままに喋っているとどうにも言動が下品になりがちであった。べつに聖人君子を気取るわけではないが、むしろ彼らへ一定の礼を尽くすという意味でも、以後は少し態度と言葉遣いとを改めたほうがよさそうである。いつまでもイゴールとマーガレットに新たな笑いのタネを提供し続ける、というのも面白くない話ではあるし……
「やあ、陽介、里中。おはよう!」
 と、悠はほがらかに挨拶を返した。変質者あつかいはなかったことにした。
「おれは天城の左手を見ていたんだよ。あの火傷が気になってね」
 陽介と千枝はいわく言いがたい面持ちで、お互いの顔をちらちら見合っている。
「あ、そうですか、左手ですか……」
「ヤケド、うん、気になるよね……」
「どうだい、ふたりとも、よく眠れた?」
「いやまあ、眠れたけど」
「鳴上くんは起きてる?」
「もちろん。今日は寝覚めがよくってさ……そうそう、夢に里中が出てきたんだ。きっとそのせいだな」
 星よ散れ後光も差せ、とばかりに、悠は会心の微笑を作る。陽介がボソッと「コイツまだ寝てんじゃねーの?」と呟いた。
「……そうだ、ところで」悠は聞かなかったことにした。「陽介も里中も、今日の放課後、予定はあるかな」
「放課後? べつにないよ」と、千枝。
「おっ、向こう行くのか?」と、陽介。
「うん。里中も天城も例のアレが気になってるだろうし、もし都合がつくなら、おれと陽介で使い方を教えようかなってさ」
 教えるなら早いほうがよかろう。花村流などは出せさえすればあとは理性の問題くらいだが、鳴上流のほうを自在に使いこなそうとするなら、おそらく継続的な訓練は欠かせないものとなる。陽介より比較的長けているはずの悠でさえ、現状はいっしょに歩くのが精々というありさまである。鳴上流をそれなりの戦力とするならポスギル城でやったように、生身の統御を最低限にして「亀」になる必要があるが、それでは花村流と選ぶところがない。将来的には鳴上流の特色を生かして相互独立したうえで、逃げながらペルソナで自らの身体を守れるくらいにはならなければ。
「どう、里中は行けそう?」
「あーちょっと待って、そういうハナシするなら」
 千枝が前を歩く雪子を大声で呼び止めた。見返り美人の面に喜色が浮かぶ。
「おはようみんな!」と、雪子が駆け寄ってきた。「三人そろってどうしたの? いっしょに登校?」
「ちがうちがう、けど鳴上くんがさァ」千枝はニヤニヤしている、「雪子のことガン見してハアハアしてたからさァ」
「犯行に及ぶ前に俺と里中で説得してたってわけ」と、陽介が引き取る。「おい悠、叔父さんの立場も考えてやれよ」
「へえー、ハアハアしてたの?」雪子にはなにか感心したふうがある。
「うん超ハアハアしてた。もーなにしでかすかわかんなかったし」と、千枝。
「雪子たん雪子たんとかブツブツ言ってるからかなりキモかった」と、陽介。
(言ってくれるじゃねーかこのバカども……)
 ダメだ、自戒せよ鳴上悠! 反射的に開きかけた口を、悠はふたたび引き結んだ。軽口を叩きたがる自らの性をよく律した。言い返してはならぬ、涼しく流すのだ。おまえは本来もっと賢明なはず。軽薄な言動は慎め、賢者の口は重いのだ……
「……そう、天城は放課後って、時間ある? いま例のアレについて話しててさ」
 と、彼はさわやかに聞き流した。変質者あつかいはなかったことにした。
「もし来られるなら、使いかたとか教えておこうかなって。早いほうがいいだろう?」
「え、あ、うん、あるかな、今日は。えっと、行こうかな……」
 雪子はなんとなく所在なげに、助けを求めるようにして千枝と陽介とをチラチラ見ている。
「うんうん来なよ雪子、いこいこ……」
「おっしゃ、これで戦力倍増じゃん、倍増倍増……」
 ふたりの返事も尻すぼみである。
「倍増どころじゃないさ。おれたちが力を合わせれば、二足す二は四なんてもんじゃない、お互いを乗算し合える」と、このくらい景気のいいことを言っておいたほうがよかろう。「じゃあ決まりだな。放課後、ジュネスで待ち合わせよう。それとも四人なかよく連れだって行くかい?」
 悠の笑顔がよほど輝いて見えるのか、三人は眩しげに眉をひそめて、めいめい控えめな賛意を表明するに留まる。
「ほら三人とも、遅刻するぞ。脚を動かして!」
 颯爽と歩き出す悠に少し遅れて、陽介たち三人は目配せし合いながらのろのろ歩き始めた。
「ああ、そういえば今日って日直だったっけ。転校してから初めてだなおれ。里中よろしくね」
 千枝の返事はない。代わりに陽介が口を開いて、
「悠、お前さ、なんかあった?」
 と、気遣わしげに訊いた。
「なんかって?」
「いや、だってお前、今日ちょっとヘンじゃん?」
(ヘンときた……)
 さすがに違和感は拭えない様子である。これはもう仕方がない、今までが放埒に過ぎたのだから。しかしいつまでも古い「鳴上悠」を引き摺ってもらっていては困る。ここはたしょう強引な手を使ってでも印象刷新を図るべし――悠はとっておきの微笑みを用意すると、流れるように振り向いて、
「おいおい冗談きついぜ、これがおれの自然体さ」
 斜角四十五度を意識してこう言い放った。コントラポストを強調したポーズも忘れない。われながら渾身の出来である。
 雪子が吹き出した。





 背中になにか硬いものが当たるのを感じる。
(こっちからも来た……)
 肩越しにちらと振り返ってみると、陽介が手に持った定規で悠の椅子の背もたれを指している。そこには付箋紙が貼ってある。が、ノートの余白に貼るようなサイズではない。どこで見つけてきたのやら、それは葉書大ほどもある巨大なものであった。
 悠は千枝への返信を中断して、前を向いたまま、後ろ手にすばやく背後の付箋紙を剥ぎ取った。
(コレまわすのが流行ってるのか? こっちは次レッドカードだってのに……)
 すでに一度、壇上の中山教諭に手紙を回しているところを見られているのである。彼なりに用心していても教壇の上は見晴らしが利くらしく、千枝へ五度目の返信をしたあとすぐ、
「鳴上クン、答案はあとで集めるから手元に置いといてネ」
 こんな皮肉が飛んできた。複素数の解説を生涯賃金と貯蓄の講釈にすり替えるような脱線教師だが、その鋭い眼光はよく生徒の悪戯を見通すのであった。
(くそ、なんでおれが……!)
 周囲の視線が痛い。そもそも最初に「チョー眠いっすね。六限に数学ってサイアクのとどめだよね」などと書いてよこしたのは千枝の側で、彼はこの文通に興じるどころか何度も「授業に集中せよ」とか「あとで話せるだろ」とか書いて懸命に自粛を促していたというのに。褒められこそすれ注意される謂われなどない。
『もう書いて来ないように!』
 悠は殴り書きに最終通告を認めた。
『(つД`)ゴメンヨワーン 』
 この挑発的な返信はどうだ。隣を窺うと果たして、千枝は反省の色などいっこう見せず、机に目を落としてにこにこしている。どころか早くも次を書き始めている始末。
『そういえば鳴上くんってあのときのケガどうなった? けっこうヒドかったんだよね』
『か・い・て・く・る・な』
『(-ε-)』
『もう一回見つかってるんだぞ! おれが!』
『おいおいジョーダンきついぜ、それが鳴上くんの自然体さ(キリッ』
(この野郎……)
 無論、朝の一件を踏まえた上でこんなことを書いてよこすのだろう。悠はいきおい赤面せざるを得ない。
 雪子には笑われ千枝には指をさされ、陽介には「ウソくさくてブキミ」とまで評されたアレは、思い返せばいささか性急に過ぎた感はあった。一朝一夕に印象を変えるのは無理がある、というこんな当たり前のことを悟るために、悠は陽介たち三人に恰好のネタを提供してしまったのだった。性邪悪な彼らは千枝のいまほどしたように、あの朝の一件からなにかにつけて「おいおい冗談きついぜ」と「これがおれの自然体さ」およびこれらの変形・短縮形を駆使して悠の繊細な心を苛むのである。
 椅子の背もたれに巨大付箋紙が貼り付けられたのはこのときだった。悠はそれを千枝への呪詛を書き綴った付箋紙の上に広げた。
『ジュネス着いたらまずフードコート寄って、軽くなにか食ってから行ったほうが自然体だと思う人ー』
 文章にはまだ続きがある。引き裂いて捨てるのはすべて読んでからでもよかろう。
『これは回覧です。悠から里中へ、里中から天城へ回して、下の名前のところにレ点を入れた上で戻して下さい。返答はフリースペースへどうぞ』
「…………」
 悠は「自然体だ」のところを消しゴムで消して「いい」に訂正した。これが未訂正のまま回覧されれば、女子ふたりがフリースペースとやらにいろいろ書いてくるのは目に見えている。
『別にいいよ U』
 短くこう記して、下の名前のところにチェックを入れて、陽介からの回覧を四つに畳んで千枝の机に放る。書きかけだった呪いの付箋紙は丸めてポケットに突っ込んだ。
『しばらく痕が残るかもって言われたけど、ほとんど服で隠れるから問題なし。続きは授業が終わった後!』
 中山教諭の目を盗んでこれも彼女の机の端に貼る。千枝は先の回覧と悠の返信とを前に、熱心にシャープペンシルを縦横させ始めた。傍目には真面目に授業を受けているように見えなくもない。
『言ってなかったけど、うちケガのことでいっしょにいた生徒の名前教えろとかって親にすごい怒られたんだ。教えてないけど』
 陽介がやったようにして雪子へ回覧を回したあと、千枝はこんな返事を認めてきた。思わず注意するのを忘れて呻く。どうやら彼女もまた例の一件ののち、家族から叱責を受けていたらしい。あの大怪我では無理もあるまいが。
 先の雪子救出に際してこうむった各々の負傷は、表向きには「悠の歓迎会で屋外闇鍋パーティー中にコンロのガスボンベが爆発した」ため、ということになっていた。
 少々苦しいがこれなら深夜に家を空けた釈明にもなろう。つまり陽介はその爆発音によって失聴し、悠はその爆炎と飛散物とで負傷――彼はそのとき上半身裸だったという設定である――し、千枝は驚いてひっくり返った拍子に落ちていたガラス片で肩を切った、という、いまどきディズニーやピクサーでもなかなかお目にかかれないようなシチュエーションである。
 これを遼太郎へ「いやあこんなことがあってさあ」などと冗談混じりに説明したのは、そうすればひょっとしたら笑い話として納めてくれるかもしれない、と期待したからだったのだが、見事に裏目に出てしまった。彼はそれを黙って聞き終えたあと、甥の怪我を乱暴に検めて、真顔でひとつため息を吐いて、
「お前、こういうバカをするタイプには見えなかったがな……」
 さも苦々しげにこう呟いたのだった。
「俺も学生のころはバカのひとつやふたつはやったから、お前にするななんて言うつもりはない。今しかできないことだ、夜中にウチ抜け出してちっと騒ぐくらい、あるていど節度を保ってやってくれりゃあ別に咎めはせん。お前の歓迎会ってんなら、保護者としちゃ喜んでもいいところだ。だがお前――」ここで彼の眉がつり上がる。「――それは屋外で、素っ裸になってやるようなことか、悠」
 悠は控えめに、下は履いていたのだと弁明した。
「バカ野郎、履いてなかったらぶん殴ってるとこだ。ったく、今日びにゃ珍しいくらいしっかりしてると思ってたが……」叔父の言葉後には失望が滲んでいた。「お前は不可抗力だって腹ん中でふて腐れてるかもしれんがな、事故ってケガ人が出たからには一緒になって浮かれてたお前にも責任は降りかかって来るんだぞ。危ねえかもとか、やめたほうがよさそうだとか、もう少し考えは回らなかったのか。どんなふうにしてナベやってたんだか知らねえが、そんだけひでえケガ人が何人も出てるんだ、行儀よく囲んでたわけじゃあねえんだろう。普通の状態じゃなかったはずだ、違うか」
「……ごめん」
「バカすんなとは言わん。だがいいか、ケガするような大バカだけは別だ。子供じゃねえんだ、その歳ならケガするような危ねえことは見て考えればわかるはずだぞ。もう起きちまったことだから、これ以上ごたごた言うのァよすが……とにかく、前にもいちど言ったことがあったが、俺にはお前のおふくろさんからお前を預かった責任がある。覚えてるな」
「んん」
「お前を不当に損なうもんからお前を保護する責任がある。たとえそれがお前自身からのものであってもだ。もしこの次また今回みたいなことをしでかしたら、俺は保護者としてそれなりの対応を考えなくちゃならなくなる。わかるな」
「わかります」
「門限を決めたりとかなァ、あんまりそういうことはしたくねえがなァ……お前だってつまらんだろうにバカなことを……姉貴にも報せておかなきゃなァ……」遼太郎はふたたびため息をついた。「それで、お前もお前だが、友達の怪我のほうはどうなんだ。お前にとっちゃ笑いごとなのかもしれんが、片耳が聞こえなくなるなんてのァとんでもないことなんだぞ」
 遼太郎もまた当時の悠と同じに、人間の鼓膜が再生するものであるということを知らなかったのだった。そのときの悠はウンともハイとも言えずに、自責の念に押し潰されて縮こまっていた。
「謝っとけよ。お前が企画したんじゃないんだろうが、お前の歓迎会で事故ったんだ、そのせいで敬遠されるようになったらイヤだろ。俺もどっか日を選んで詫びに行ってくるから、その同級生の名前と住所、あとで教えろよ」
「はい……」
「以後気をつけるように。休みが取れしだいもういっぺん病院連れてくからな――じゃ、行ってよし」
 子供らしくない――つまり大人らしいと解釈できる――という評価を心中誇らしく思っていた悠にとって、叔父の失望のため息はなによりも堪えるものだった。彼は遼太郎と、父の後ろで世界の終わりみたいな顔をしている菜々子とを残して、逃げるように二階の自室へ駆け込んだ。おおなんとこのおれが、そこらの刹那的で向こう見ずで考えなしの子供と一緒くたにされている! 悠の自尊心は悲鳴を上げたものだ。
 しかし本当は違うのだ、これらはみなあなたがたの仕事を代わって行ったその報いなのだと、大声で真実を打ち明けるわけにもいかなかった。悠としてはただもう黙って俯いて、しでかしてもいない「バカ」を咎められるに甘んじるしかなかった。本来なら警察官たる叔父が受くべきであったとさえ言えるその傷と栄誉、悠たちが年少の身を異世界の戦いに投じてついに勝ち取ったかの勲章は、悲しいかな、こちらの世界においては糞土をなすりつけてでも隠さなければならない性質のものであった。
 千枝も、あるいは陽介もひょっとしたら、悠と同じような苦杯を舐めたのかもしれない。この大杯に満ちた苦汁を、彼らはこれからも味わい続けることになるのかもしれない。周囲に彼らがしていることへの理解を求められない以上、かならず誤解に甘んじなければならない局面は出てくるはずなのだから。
(こないだみたいな夜中の出動が平日だったらどうなるかな。もうそのまま登校するか、ケガしてたりしたらサボるしかないんだろうな……)
 しかもそれを防ぐための防具調達もうまくいかないとくる。イヤなこと思い出したな――悠はひっそりとため息をついた。頬杖をついて、右斜め前の雪子の後ろ姿をぼんやりと眺めた。例の回覧は千枝から受け取ったきりで、後ろへ返す気配はない。彼女は机に覆い被さるようにしてせっせとなにごとか書いている。いまは勉強する時間であって、もちろん雪子は親友のおふざけにかかずらうつもりなどないのだ。
 彼女を見習おう、億劫でもノートを取らなければ、と身体を起こしたところで、千枝がまたぞろ机の端に付箋紙を貼り付けていった。
『ちょっと鳴上くんにお願いがあるんですけど』
 もうなにを言っても無駄だろう。おそらく彼女自身が注意されるまでこれは続くのだ。悠は受け取るだけ受け取ったあとは取り合わずに、雪子に倣って授業に集中した。
『ムシしちゃイヤーン』
「…………」
 消しゴムのカスが飛んできた。悠は眉ひとつ動かさなかった。
『先生に注意されて怒ってる? ごめん』
 ちらと隣を一瞥すると、千枝は心配そうに眉をひそめている。彼女にはよく怒りを疑われるが、そんなに不機嫌が顔に出ているのだろうか。
(いや、出てたな、出たただろう。イゴールに見せつけられたばかりだ)
『怒ってないよ。授業が終わったらいくらでもつきあうから。天城を見習って!』
『今日うちら日直でしょ? 放課後モロキンに学級日誌届けるの、お願いしてもいい?』
(……こいつに操られてるな、おれ)
『もう回して来ないならいい。このあともう一回でも来たら問答無用で断る』
 これが最後になりますように、と願をかけて、千枝の机の端に手を伸ばして付箋紙を貼ろうとすると、
「ハイ鳴上クン現行犯逮捕」
 ずっと背中を見せていた中山教諭が突然ふり返って、持っていたチョークで悠を指した。早くも願が叶ったようだ。
(ち、畜生……!)
 レッドカードである。できれば元凶たる千枝に躍りかかってその細首を締め上げたかったが、実際にそんなことができるはずもなし、悠は垂首して「はい、恐れ入ります……」とやるかたなく冤に服すしかなかった。彼女が声を出さずに「ごめん!」と口を動かすのが視界の端にちらと映ったが、無論そんなことで溜飲が下がるはずもない。
「さっきからご執心だけど、里中サンにラブレター?」
 中山教諭のこの意地の悪いひと言をしおに、教室中の好奇の視線が悠たちに集中する。その注視を肌身に感じる。隣を窺うと案の定、千枝は唇を嚙んでオドオドと居心地悪げにしている。
「婚姻届です」
 中山教諭を含む教室中がどっと笑いに沸いた。手応えありだ。さて当の伴侶といえば、弁解するように周りを見たり悠を睨め付けたりしながら、腰を浮かせて赤くなったり青くなったりしている。報いを受けるがいい里中千枝、おれの忠告を聞かないからこうなるのだ――悠は心中でほくそ笑んだ。
「先生おれ婿に入るんで、来週から名字里中になります。里中悠です」
「その歳でケッコンなんて早まったわネー里中サン」中山教諭はたいそう愉快げである。「カレ、稼ぎはあるノ? 無職じゃお先まっくらヨ、愛じゃお腹はふくれないのヨ」
「ちがいますんなコトしませんっ! コイ……鳴上くんが勝手に……!」
「落ち着いてよダーリン」悠は欣然として火に油を注いだ。
「ダッ……!」
 背後で陽介の笑い声がする。雪子もまた身体を捻って後ろを向いて、親友が顔色をコロコロ変えるさまを見てケラケラ笑っている。教室中で笑っていないのはただ千枝だけで、彼女は殺人光線でも発射しそうなもの凄い目つきで悠を睨んでいる。
「仲いいわネー……でも里中サン、レンアイとケッコンは別物だからネ、いっしょくたにしちゃだめヨ」
「だからしませんってレンアイもケッコンもォ! このひとがみんな――!」
「ハイみんな黒板みてー、これテストに出すわヨ」
 中山教諭は千枝の訴えを無視して背を向けると、黒板の余白に平行する二本の直線と、両線に垂直に接する一本の矢印とを描いた。直線にはそれぞれ「恋愛」と「結婚」とあって、矢印のところには「1au」と書いてある。どうやら距離を示すらしい。
「いい? よく誤解されてるけど、このふたつは同一線上には存在しないノ。レンアイとケッコンはそっくりだけどぜーんぜん別の道で、もんのすごく隔たりがあって、どこまで行っても交差しないノ」
「先生」と、背後の陽介が声を上げた。「その恋愛と結婚のあいだのとこの、イチエーユーのエーユーってなんですか?」
「アストロノミカル・ユニット、地球と太陽のあいだの距離を一と定義した単位ヨ。メートルに直すと一千四百九十五億九千七百八十七万とんで七百メートル、天文学的よネ……」中山教諭の目は1auの彼方を見通すようである。「それくらいかけ離れた存在ってことヨ。似てるからきっと同じようなものに違いないって考えるのはネ、ナメコに似てるからって味噌汁にコレラタケを入れるようなものナノ。食べたらふたりにひとりが死んじゃう猛毒なんだって……あら、ケッコンよりだいぶマシだワ……」
 いったい結婚に苦い思い出でもあるのだろうか、中山教諭は瞳孔を全開にして熱心に語っている。
「レンアイは文学だけどケッコンは数学ヨ。厳密な数理と公式で成り立ってるノ。エックスに愛のささやきを代入したって解は出ないノ。必要なのは数字ヨ数字、具体的に言うと単位が円の数字。お金って大事ヨみんな、大人になればわかるワ。鳴上クンと里中サンの二の轍は踏まないようにネ!」
 教室内がすっかり静かになったところで、終業を告げるチャイムが鳴った。中山教諭はついに千枝の抗議には耳を貸さず、どころか蓄えの乏しい時期に安易に「製作」してしまうことの経済的恐怖について彼女へ一方的に説いたあと、「いいことしたナ」と足取りも軽く教室を出て行ってしまった。
(とんでもない教師だな……)
「中山ヤベーな、目とかちょっとイッてるもんな」と、背後の陽介が感慨深げに感想を漏らした。「……で、ところでお前らって、マジでケッコンとかすんの?」
「するわけねーだろ!」千枝の怒声が飛ぶ。消しゴムが飛ぶ。悠に指を突きつけながら、「コイツがいきなり言い出しただけだっつの! あたしカンケーないし!」
 彼女はすっかりお冠である。頬のひとつも赤らめるかな、と内心期待しないでもなかったのだが、それらしい兆候は露も見られない。悠はひっそりと落胆した。
「こりゃ婚約解消か」
 定規が飛んできた。どうやらポーズでなしにかなり怒っている様子だ。
「千枝、諸岡先生きちゃうよ、はやくノートとって黒板消さないと」と、雪子が千枝の机に椅子を寄せてきた。言葉とは裏腹に彼女の目は半月型に撓んでいる。「さっきもらったこの回覧って、千枝に渡せばいいの? それとも花村くん?」
 彼女の差し出した四つ折の回覧を千枝がふんだくった。その上になにか書き殴って、非難の視線とともに悠へ突き出した。
『ぜったい持ってってもらう』
「日誌くらい持ってくのは構わないけどさァ」悠は回覧を受け取りながら、「授業中はもう少しちゃんとしようよ里中……先生に注意されたのおれだぞ。それも二回も」
「それは、ごめんなさいけど……すみませんけど……」
 今までの剣幕もどこへやら、千枝はたちまち潮垂れてしまった。
「でもなにもあんなこと言うことないじゃん……みんな見てるじゃん……」
「おれは何度もやめてくれって書いたよ。聞かないからこうなるんだ」
「いろいろ言われるじゃん、冗談ってわかっててもさァ、バカにされるじゃん。なんであんなこと言うの……」
「二、三日もすればみんな忘れるよ。こういう好奇の視線って」辺りを見渡すと果たして、何人かのクラスメイトと目が合う。「ちょうどいま里中がしてるみたいな反応を欲しがるから、騒いだりしないで超然としてたほうがいいよ。そうすりゃすぐ――」
 受け取った回覧をなんとなく広げてみて、悠はつと言葉後を呑み込んだ。
(なんだこりゃ)
 雪だるまである。付箋紙には黒いロングヘアの雪だるまがフリースペースいっぱいに、コミカルな樹氷と雪原とを背景にして描かれていた。そのイラストの上にはたぶん陽介の提案への賛意を示すのだろう、「Yeah!!」という吹き出しがついている。かなり気を入れて描かれたものらしい。
(ああ、これを描いてたのか天城……)
 この雪だるまが描かれる前に記されたと思しい、千枝の「そのほうが自然体だと思う ち」という噴飯もののコメントにも、悠が最初に書いたコメントにも、周りに装飾線やら花やら蝶やらウサギやらがごちゃごちゃと描かれている。雪子はべつに勉強に精を出していたわけではなかったようだ。
 顔を上げると果たして、彼女は褒められるのを待っている犬みたいにソワソワしていた。
「うおっ、なんだこれ……描いたの里中?」
 と、陽介が後ろから覗き込んでくる。雪子が控えめに自らを指さして作者たるをアピールしているのに、彼は気付いたふうもない。
「天城だよ、これ」たまらず悠が補足する。
「マジ? あっ、雪子だから雪だるまね、あー……」
 陽介の口から賛辞が出てこないのを不満に思ったか、雪子の面はだんだん曇っていく。
「えっと、天城これって、じゃあなんか食ってくの賛成ってことでいいのか?」
 雪子は沈んだ様子でウンと頷いた。
「……天城、絵、うまいね」
 陽介、気の回らぬやつ! 遅ればせながら悠のフォローを経てようやく、彼女はわが意を得たりというふうにして微笑むのだった。
「ほら里中、天城が描いたって。雪子だるま」
 千枝もまたこの絵を見れば世辞のひとつもひねり出すだろう、と思ったのだが、悠が付箋紙を示して見せても彼女はそっぽうを向いて取り合わない。鬱々として机の角を見つめたまま「あたしに振らないでよ」とでも言いたげである。どうやら先の不満を引き摺っているらしい。
「里中、まだ怒ってる?」
「怒ってない」
 斬り付けるような、突き放すような応えが返ってきた。彼と目を合わせもしない。千枝はふて腐れている、というより、どこか悲しんでいるようにも見える。悠とカップリングされたのがそれほど不快だったとでも言いたいのだろうか。
(なんだこいつ、最初にふざけかかって来たのはそっちじゃないか)顔にこそ出さなかったものの、悠はこの突っ慳貪な返事に小さな怒りを覚えた。(迷惑こうむったのはこっちなんだぞ。なんで被害者のおれがこんな態度とられなきゃならないんだ)
 いったい誰のせいでこんなことになったと思っているのだろう。それは悠の側にももう少し穏当な抗議の仕方があったかもしれないが、そもそもが自らの招いたことではないか。よし、不快なら不快で大いに結構、気の済むまでそうしていればいい、だれが機嫌など取ってやるものか……
「あ、そう。安心した」
 と、悠は短く言った。が、むしろこの平板な返事が彼と千枝との間に生まれたわだかまりを露わにしたようで、それに気付いたらしい雪子の面に緊張の色が刷かれる。
「ほら千枝見てよ、うまく書けたと思うんだけど」と、彼女はあわてて笑顔を取り繕った。「それに自然体って書いてあったの、ちょっと笑っちゃった。でもそりゃ鳴上くんも不機嫌になるよ。わたしたちからかいすぎたもん」
 親友の取りなしにも応じるつもりはないようで、千枝は気の乗らないふうに「はあ」とか「へえ」とか呟くに留まる。もはや彼女のほうでも不和を隠すつもりはない様子。この開き直った態度がまたいちいち悠の癇に障る。自分だけならまだしも仲裁に入ろうする雪子をも無下にするとはどうしたことだろう。ここは溝が深まるのを承知でひとこと釘を刺しておくべきか――悠が口を開こうとすると、背後の陽介が先んじて、
「里中なに、なんかやたらキゲン悪そうだなお前」
 と、いきなり身も蓋もないことを言い出した。後半は笑い含みで、千枝に意趣のある悠でさえひやりとする物言いである。
(こいつ、空気読めないのか?)
 案の定、千枝はいっそう眉間の皺を深くして「だからなに」などと冷然たるものだ。彼女の隣で雪子が「やめてよなに言い出すの」とでも言いたげな、困り切った貌をしている。
「や、ちょうどよかったなってさ」
 この荒んだ空気の察せられぬはずもなかろうに、陽介はどこまでも鷹揚である。彼は知らぬげに机の脇に吊った手提げの中から箱状のものを取り出して、
「これ出すなら今だろ――感謝しろよ悠!」
 それを悠の机の上にドンと置いた。全面白色の地に精緻なエンボス加工の施された、広辞苑ほども厚みのあるしろものである。
 表には金箔押しで『成龍伝説』と大書されていた。
「え、ちょっ……!」
 千枝の反応は速やかだった。今までの悲憤の色はどこへやら、彼女の面はただちに驚愕と歓喜とに二分される。蹴立てられた椅子がガタンと鳴る。
「ちょっとちょっと待ってこれ、いやっ、ええ? ウッソでしょお?」
「オクで探してるって言ったろ? どーよコレ、見りゃわかんだろーけどお前の持ってた通常版じゃねーからな」陽介は腕組みして得意満面である。「ジャッキー・チェン直筆サイン入り自伝同梱の檄レアプレミアム版、百本限定! マジで感謝しろよ里中」
「うおお……こんなことがあっていいんすか……!」
「千枝、これ、すごいの?」と、雪子が素朴な疑問を漏らす。
「すごいなんてもんじゃないよあたし通常版だって予約できなかったってのに――ああビニール破りたくないでも開けないと中身みれないくっそー……」などと言うわりに、千枝の手は忙しなく包装を引きむしっている。「マ、マジだ、サインある、コンサンのサイン入りアイアムジャッキーチェンだ。うへえ指紋つけられん神棚に飾る……!」
「なんか中に本人の直筆でラクガキとか説明とか書いてあるって話だけど」陽介も中身が気になるらしい。「モノによって違うんだろ? マジで書いてあんの?」
「……ちょっ書いてある! うわなんて書いてあるかぜんぜんわかんないけど書いてある! あ、あたし中国語勉強するわ!」
 二、三分前とはまるで別人のようで、千枝は全身で喜びを表現している。あっけないものである。
「陽介、あれってそんなに凄いの?」と、悠も雪子に倣った。
「ま、里中の反応を見てご想像くださいってとこ?」陽介は苦笑している。「いやーマジでクッソ高かったわ。バイト代ぜんぶ消し飛んだっつーの……」
「でもアンタ、どーやって手に入れたのこんなの」千枝はいまだに信じられないといった様子。「限定版なんて一瞬で消えたハズなのに」
「ダメもとでヤフオク見回ってたらあったからさ、速攻ポチッた。つかむしろ通常版のほうがぜんぜん見つからねんだっつの。これしかなかったってのがまあ、ホントのトコなんだけど」
「ヤフオクってなに?」と、悠。
「ヤフーオークション。インターネットにある有名なオークションサイトのひとつ」
「オークションって、インターネットで?」悠にはまずインターネットなるものが今ひとつよくわからないのだが。「オークションって金持ちがやるイメージあるけど、そんなものに参加できるの?」
「できるよ。べつに金持ちじゃなくたってフツーに買えるモンとか出してるし」
 防弾チョッキはまずそちらを当たってみるべきだったのでは――悠はあらためて過日の痛恨を噛み締めた。
 いや、オークションサイトでなくても安い店を探すなりなんなり、インターネットの知識のある陽介ならもっと色々なことができたかもしれない。省みれば彼と、いや、彼らともう少し話してみるべきだったのだ。急ぎすぎたのがそもそもの間違いだったのだ。朝の一件もしかり、急いてはことをし損じる、とは使い古された言葉だが……
「……悠?」
「いや、凄いなってさ。おれもやってみようかな」
「おっ、やるなら教えるぜ、いいサイトとかもついでにさ」と言って、陽介は改めて千枝に向き直った。「で、えーと、ちっと遅くなったけどさ、DVD壊しちまって悪かったな……ってコトですよ。それ超たけーから大事にしろよ」
「神さま、仏さま、陽介さま……」千枝は両手を擦り合わせて彼を拝んでいる。
「ほめ称えよ、畏れあがめよ、塚を築いて神として祀れ」陽介はふんぞり返っている。
「鳴上くん、もしインターネットやるなら」と、雪子が小さく手を挙げた。「うちノートパソコン余ってるから、よかったら使う? ちょっと古いけどぜんぜん使えるやつ」
「あ、そうか、インターネットってパソコン要るんだった」それはそうだ、インターネットと言えばパソコンだ。「使ったことないな、パソコンって。説明書とかもある?」
 雪子は秀眉を寄せて「パソコンに説明書ってあったっけ……」などと首を傾げている。
「え、ないの?」
「なかったと思う。たしかなかった」
「……じゃあ、初めて使うときどうしたの」
「んー、なんとなく?」
「花村、ねえ、ここんとこさ」と、千枝が呆けたような声を上げた。「ブルーレイカッコ本編ディスクって書いてあるんだけど……つかコレどこにもDVDって書いてないんだけど……」
「うっ……ちょ、マジか!」陽介は血相を変えて広辞苑を検め始めた。「ウッソだろそんなはずは……いやいやブルーレイとDVD同梱なんだって……絶対そうだって……」
「あとインターネット回線も契約しないとだけど」と、雪子。「鳴上くんのうちって引いてる? 回線」
「あ、そうか、回線も契約もしなきゃいけないのか」それはそうだ、インターネットを使うなら回線だ。「たぶん引いてないと思う。で、回線ってどこから引いてくるの?」
「……NTT? かな」
「NTTって……インターネットって電話みたいなものなの?」
「そうそう。電話線みたいなケーブル」
「じゃあNTTに電話すれば引いてくれるんだ」
「うん、そう、かな?」
「うっわマジかよコレェ! ブルーレイ専用かよォ!」陽介の悲痛な叫びが上がる。「あのヤロそんなことひと言も……ぜったい星ひとつだちくしょ……!」
「鬼! 悪魔! 花村ァ!」千枝の悲痛な叫びが上がる。「見れないじゃんかバカー! ブルーレイのキカイも買えバカー!」
「わかったから貸すから! プレステ3貸すから! それで見れっから!」
 ――ホームルームを報せる予鈴をしおに、教室内の喧噪はようよう鎮まっていった。陽介と雪子もめいめいの席へ収まった。あと五分もすれば現れるはずの、彼らの担任を憚ってのことだ。
 プレミアム版『成龍伝説』効果もあって、千枝の機嫌はとりあえず持ち直したらしい。悠の側ではいまだに埋火の燻っているような状態だが、わざわざ掘り起こすようなバカな真似はこのさいすまい。ここはこちらが大人になって歩み寄るべきだろう。
「里中、日誌、持ってくよ。貸して」
 と、彼は隣に身を乗り出してにこやかに話しかけた。ところが、
「いいよ、もう」
 返ってきたのは相も変わらぬふて腐れた、悪意の滲む言葉である。今までその面に浮かんでいた微笑はたちまち失せてしまった。彼女はもはや歯牙にもかけぬといったふうで、こちらを見ることもしない。陽介と話していたときとはこれまた別人のよう。
「いいって、いや、持ってくからさ」
「…………」
「里中」
 返事はない。今度は無視である。
 悠はこの仕打ちに自分でも驚くほどのショックを受けた。自分とのあいだにこんな理不尽な沈黙の壁を作った千枝の悪意に衝撃を受けた。間の悪いことにあたりはすっかり静かになっている。いまほど許しを請うようにして下手に出た悠と、その彼を冷然とはねつけた千枝とのやりとりは間違いなく周囲に聞かれたことだろう。もちろん陽介にも、雪子にも。
 かつて味わったことのない類の恥と屈辱とが悠を苛む。薪と燃料とを得た火床に、おなじみの炎が逆巻き踊る。
「おい里中」と、悠は低い声で言った。「答えろよ。いったいなにがよくて、なにがもうなのか、さっぱり見当がつかないんだけど」
 本来なら向こうが平身低頭して詫びるのが筋であるところを、被害者たるこちらがわざわざ歩み寄ってやったのだ。しかるにこの態度はいったいどうしたことだ? 理非を違えているのは間違いなく千枝のほうだ。それでいながらこのバカ女は反省しないばかりか意固地になって陰湿な受け答えに終始するのだ。見損なった、まさかこんなやつだとは思わなかった。ここまでされて怒らないならそいつはもうただの意気地なしだ!
 もう許さぬ――悠はついに怒りの箍を外した。
「持っていけって言い出したのはそっちで、念を押したのもそっちだろ。自分の言葉に責任を持てよ。おい」
「…………」
「だんまりか。都合が悪くなると黙るのか、ひとつ発見だ。話しちゃいけないときは会話を強要するのに、話さなきゃいけないときは貝を決め込むと」
 雪子と、周りの数人がなにごとかと悠のほうを向いた。陽介もおそらく彼の背中を見ているのだろう。構うものか、言わなければならないことを言うのに誰を憚ることがあろう。
「勉強不足だった。おれもこれからは里中流を見習わなくっちゃ。ええと話しかけられたら無視で、相手が黙ってるときは嫌がらせを続けるんだっけ。どう? うまく言ってる?」
 雪子がやめてくれとでも言いたげに、懇願するような目で悠を見つめている。千枝は前を向いて俯いたまま微動だにしない。ひと言をも発しない代わりに、いちど洟をズッと啜る音が聞こえる。彼女は最前からしきりに目をしばたたかせている。
「ああ、返事がないんじゃそれもわからないよな。バカらしい、やめた。里中流は里中ひとりでやって――」
 千枝がいきなり椅子を蹴って立ち上がった。と同時に、机の中から引っ張り出した冊子を悠の机の上に思いっきり叩き付けた。この音で教室中の視線がふたたび、悠と千枝とに集中した。
「じゃあ、もっで……もっ……」
 持っていけ、と言いたかったのだろうが、彼女は果たさずに嗚咽を漏らし始めた。しゃくり上げて顔を両腕で覆って、みなの視線から逃げるように教室を駆け出ていってしまった。
(卑怯な遣り口だ。泣いて逃げれば自動的におれが悪者になるんだから)悠は冷たく千枝の背中を見送った。(あんなのはただの打算だ。おれが動揺して自責の念に駆られるとでも思ってるのか、下らない!)
 千枝の涙も怒りの炎を鎮める役には立たない。どころかそれによって悠は胸中にいっそうの黒煙を生ずるのだった。
「鳴上くん、千枝……」と、雪子が弱々しい声で言った。追いかけて謝って来いとでも言いたいのだろうか。
「そっとしておこう」
 あんなバカほっとけ、と吐き捨てそうになったが、それは辛うじて堪えた。悠は苦労して平静を装った。ここで感情的になっては向こうの思うつぼだ。そこは泣いた女の強さで、おそらくいま教室中に悠の肩を持とうとする人間は少ないはず。向こうにどれだけ非があったとしても批判などはもってのほかだ。なにを言っても彼女を利するだけだろう。
 彼は周囲を睥睨して好奇の視線を封じると、先ほど机上に投げ付けられた学級日誌を取って、なにか気になる文章でも見つけたふうにして中身を眺め始めた。むろん中身など一切あたまに入って来ない。澄ましているように振る舞うのがやっとで、悠の内心は千枝への失望と怒りと、それらを抑えつけようとする理性とのせめぎ合いで破裂せんばかりである。けさ枕上に感じた彼女への親愛の情などはいまや跡形もなかった。
 教室内は異様な静けさに満ちた。周囲でなにかひそひそやる声らしいものが微かに聞こえる。きっといまほどの悶着についてあれこれ囁き交わしているのだろう。雪子は、陽介はどう思っているのだろうかと、悠はふと思った。ふたりとも悠が悪いと考えているのだろうか。こういうときに限って付箋紙は来ない。陽介、気の回らぬやつ! 励ますにせよ窘めるにせよ、いま一報くれたならどれほどか慰めになろうものを。
『今日はジュネス行くの中止にしよう』
 悠はけっきょく自分からこんな付箋紙を用意して、後ろ手に自分の椅子の背もたれに貼った。そうして定規が背中をつつくのを待った。このようにして陽介を頼みにしながら、いっぽうでなりゆきから彼らのような「友人」を作ってしまった自らの不明を、彼はこのときふと嘆じたくなった。自分はいったいそのせいでどれほど弱くなってしまったことか!
 省みて友人は確かにいいものだった。が、そのおかげで彼らの歓心を得るためにどれほどわが身を窶し心を砕くようになってしまったことだろう。彼らの拒絶や悪意がこれほどにも耐えがたく胸に突き刺さるとは。彼らの言動が、考えていることがこれほどにも気にかかるようになってしまったとは! おお幸いなる孤独ベアータ・ソーリテュードー唯一の幸福よソーラ・ベアーティテュードー! 孤独の軒に留まってさえいたならこんな思いなどせずに済んだろうに。
 ほどなく諸岡教諭が教室へ入ってきた。HRが始まった。先にすれ違いでもしたのだろうか、彼は挨拶もそこそこに、さっそく千枝の無規律と稚愚とをあげつらい始めた。きょうびは小学生だって廊下を走ったりしないものを、ましてそれを注意されて無視するとは言語道断、小学生以下の所行である。人間は歳月によって成長するのではない、それはただひとえに教育と環境とにかかっているのだということの好例であろう。馬齢を重ねるということばがあるが、人間として生きた時間を持たない人間は人間ではない、馬、それも並の馬ほどの力もなければ従順でもない、病気の悍馬である。ここは教室であって馬小屋ではないし、自分は調教師でも獣医でもない、人間用の教師であるからしてお前たちは……
 付箋紙の返事はまだ来ない。




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