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No.35651の一覧
[0] PERSONA4 THE TRANSLATION(ペルソナ4再構成)[些事風](2014/11/03 16:25)
[1] 序章 PERSONA FERREA[些事風](2014/11/03 16:25)
[2] 一章 REM TALEM MINIME COGITO[些事風](2012/10/27 23:54)
[3] 国を去り家を離れて白雲を見る[些事風](2012/10/27 23:57)
[4] マヨナカテレビって知ってる?[些事風](2012/10/28 00:00)
[5] ピエルナデボラシーボラ![些事風](2012/10/28 00:03)
[6] 出れそうなトコ、ない? ひょっとして[些事風](2012/10/28 00:07)
[8] 死体が載ってた……っぽい[些事風](2012/10/28 00:27)
[9] ペルソナなんぞない[些事風](2013/03/05 00:17)
[10] でも可能性あるだろ?[些事風](2012/10/28 00:34)
[11] バカにつける薬[些事風](2012/10/28 00:36)
[12] シャドウじゃなさそうクマ[些事風](2012/10/28 00:41)
[13] 吾、は、汝[些事風](2012/10/28 00:46)
[14] 俺はお前だ。ぜんぶ知ってる[些事風](2012/10/28 00:53)
[15] ノープランってわけだ[些事風](2012/10/28 00:56)
[16] 旅は始まっております[些事風](2012/10/28 01:05)
[19] 二章 NULLUS VALUS HABEO[些事風](2014/11/03 16:26)
[20] あたしも行く[些事風](2013/01/15 10:26)
[21] それ、ウソでしょ[些事風](2013/03/05 21:51)
[22] 映像倫理完っ全ムシ![些事風](2013/05/12 23:51)
[23] 命名、ポスギル城[些事風](2013/05/12 23:56)
[24] あたしは影か[些事風](2013/06/23 11:12)
[25] シャドウ里中だから、シャドナカ?[些事風](2013/07/24 00:02)
[26] 脱がしてみればはっきりすんだろ[些事風](2013/10/07 10:58)
[27] 鳴上くんて結構めんどくさいひと?[些事風](2013/10/14 17:36)
[28] セクハラクマー[些事風](2013/12/01 15:10)
[30] アギィーッ![些事風](2014/01/31 21:58)
[31] かかってこい、あたしが相手だ![些事風](2014/03/04 21:58)
[32] クソクラエ[些事風](2014/04/16 20:30)
[33] あなたは、わたしだね[些事風](2014/06/15 15:36)
[34] とくに言動が十八禁[些事風](2014/07/26 21:59)
[35] コードレスサイクロンユキコ[些事風](2014/09/13 19:52)
[36] 自称特別捜査隊カッコ笑い[些事風](2014/09/24 19:31)
[37] ッス[些事風](2014/11/03 16:29)
[38] oneirus_0d01[些事風](2014/12/14 18:47)
[39] 三章 QUID EST VIRILITAS?[些事風](2015/03/01 16:16)
[40] ええお控えなすって[些事風](2015/05/17 00:33)
[41] キュアムーミンだっけ[些事風](2015/10/18 13:01)
[42] おれ、弱くなった[些事風](2015/11/20 10:00)
[43] 中東かっ[些事風](2016/03/02 00:50)
[44] バカおやじだよ俺ァ[些事風](2016/05/15 16:02)
[45] ここがしもねた?[些事風](2016/08/16 15:11)
[46] 腕時計でしょうね[些事風](2016/11/15 13:03)
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[35651] コードレスサイクロンユキコ
Name: 些事風◆8507efb8 ID:ea2b06de 前を表示する / 次を表示する
Date: 2014/09/13 19:52


 それは御康駅から徒歩で十分ほどの、目抜き通りと大衆性とから一本外れた、いかにも「ちょっと高いもの出しそうな」店の立ち並ぶ界隈にあった。
 二階部分にはめ込まれた、櫛の歯のような連子窓が土蔵を思わせる、さして大きくもない切妻である。木造の部分は百年くらい醤油で煮込めばかくもなろうかという赤墨色で、下見板を履いた真壁から道路に向かって深めの土廂が突き出るという古風な構え。あるいは旧家を改装したものか、それとも店主によほどのこだわりがあったか、素人目にも一瞥して「あっ、老舗」と思わせるほどの堂々たる偉容である。
(高校生が日曜日の昼に示し合わせてメシ食いに来る……なんてとこじゃないよな、まず間違いなく)
 廂下に設えられた青竹の縁台に、いまのところ順番待ちの人間は見られない。時刻は十時五十七分、開店直前という時間帯で、その前に一列横隊で突っ立っているのは高校生が四人と小学生がひとりだけであった。
『鰻 篁』
 藍色の暖簾には白抜きでこうあって、右端に縦書きで小さく『創業昭和九年』と書いてある。千枝がボソッと「右側の読めないんですけど」と呟いた。
「左のはウナギだよね、たぶん。雪子よめる?」
「上がタケで、下がオウだから……なんだろ、わたしもわかんない」
「菜々子もわかんない」菜々子にとっては字というよりもはや絵であろう。「キュウしかよめない」
「悠、お前、なんて書いてあるかわかる?」
 と、陽介がにこにこしながら訊いてきた。どうも顔つきから察するに彼は知っているらしい。やっかいなことにこの質問に乗る形で、女性陣の視線が悠の面に集まる。
「なに、なんだよ、なんでみんなこっち見るんだ」
「いやあ、なんか鳴上くん読めそうだし」と、千枝。「で、あれってなんて書いてあるの?」
「……いや、読めないけど」
 千枝と雪子の面にちらと「ああ、読めないんだ」とでも言いたげな色が刷かれる。なんでおれなら読めることになるんだ――悠は少しくムッとした。
「おれもキュウなら読めるよ、すごいだろ。なあ菜々子ちゃん」
 と、冗談めかして菜々子に助けを求めても、彼女は無慈悲にそっぽを向いている。
「……ソウギョウとショウワも読めるよ。左のはウナギだよ。それは読める」
「まあまあセンセイ、読めねーのは当たり前なんだから。こんなの習ってねーんだし」陽介は余裕綽々である。「つかこういう高そうな店って、なんでこんな読みにくい名前つけんだろーな。高級感とか出すため? フリガナ振っとけっての」
「花村くんは読めるの?」と、雪子が訊くと、彼は待ってましたとばかり「読める読める。それナカムラって読むらしい」などと訳知り顔で応えた。
「ナカムラって……いや読まんでしょ、ナカムラなんて」千枝は端から疑っている。
「ホントホント、マジで。俺もネットで調べたとき驚いたもん、これ一文字で名字になんのかよって」
「あれいっこでナカムラってよむの?」菜々子は驚きに目を瞠っている。「どこがナカで、どこからムラなの?」
「ウナギのナカムラって、なんかスーパーの特売みたいな響き」と、雪子。
「値段も特売並みだったらよかったんだけど……ところでさ、みんな」
 全員の視線が悠の横顔に集中する。
「……入らないの? もう十一時になってるけど」
 などと言う彼自身、廂の前から一歩も動く気配はない。みなもお互いをキョロキョロ見遣るだけでやはり動かない。そこは世間見ずの学生のことで、こんな格式高そうな暖簾をくぐるのに誰もが気後れしているのである。
「いや、別に先はいってもいいよ、ぜんぜん」と、陽介が悠を促す。
「いやあ、陽介の名前で予約したんだからさ」
「花村で予約したんですけどって言やあいいだろ」
「だっておまえ入ったことあるんだろ。適任だろ」
「なんで入ったことあるから適任なんだよ――ほら、里中でもいいって」
「へ? ちょっ、あたし巻き込まないでよ!」話を振られた千枝があわてて後退った。「あたしはいいよ、いいです、あたしいちばん背ェ低いし」
「身長カンケーねーだろ、それに一番ちいさいの菜々子ちゃんだし。あ、つかこういう老舗っぽい店ってやっぱり――」
「そうそう! 菜々子ちゃんウナギって初めて?」雪子は菜々子を抱き込んで安全圏に逃げ込む腹らしい。「わたしもこういうお店で食べたことないんだ。楽しみだねえ」
「うんはじめて。ゆきちゃんそれさっきもゆってた」しかし頼った先はいかんせん幼すぎた。「おみせ、はいらないの? まだやってないの?」
「ええっと……」
「天城ゴー、老舗対決」陽介が一歩後退った。
「雪子応援してるよっ」千枝も一歩後退った。
「ヤだよムリだって!」雪子は五歩後退って歩道に乗り上げた。「老舗なんて関係ないでしょ! わたしこんなとこ入ったことないもん!」
「あ、そうなんだ。なんか意外」
 彼女にはまったくこういう店こそ似合わしいように思われたのだが、雪子はムッとして「なんでわたしなら意外なの?」とでも言いたげである。
「ほら、天城屋に泊まった客が逆に招待してきたりとかって、ないの?」
「ないわけじゃないけど、忙しくて行けないもん」と、彼女は形のよい唇を尖らす。「こんなちゃんとしたとこでご飯たべたことなんかないよ。そもそも外で食べることだって滅多にないし、いつも板場のまかないばっかりだし……」
「……そう、なんだ」
「ウナギだって最後に食べたのいつだったか覚えてないし……このあいだお夜食にレンジでチンするうな茶漬け食べたけど……でもレトルトのうな茶漬けもけっこう」
「まあ、うん、わかった」と、雪子のぶつぶつ言うのを去なしながら、「もう時間過ぎてるし……じゃあいいよ、おれが行くから」
 仕方なしに悠が名乗り出ると、今度は陽介がさも心外そうに「え、いやいや、そんなふうに言うならいいって」などと言い始めた。
「俺が行くよ。一回はいってんだからさ、お前は――」
「待った待った。あーもーしかたない、あたしが行けばいいんでしょっ」と陽介を遮って、ついに千枝まで立候補を表明する。「オトコどもはうしろに引っ込んでなさい。あたしが行くよ」
「あっ、わたしこの流れ知ってる!」雪子がなんのゆえか俄然目を輝かせ始めた。「これってアレでしょ? これってつぎに『じゃあわたしがやるよ』って言ったひとにみんなでどうぞどうぞって――」
「ええと、失礼ですけど」
 と、笑い含みの声とともに、いきなり店の引戸がカラリと開いた。そこから暖簾をくぐって出てきたのは四十がらみの、紺色の銘仙を着けた女性である。
「十一時にご予約の、花村さまでしょうか」
 どうやら店員と思しい。店前で四人がワーワー言い合っていたのを聞いていたらしく、彼女はさもおかしげに微笑みながらこう質した。高校生たちは恥と当惑とに打ちのめされてしどろもどろになる。ただひとり小学生だけがどこ吹く風で、ウドの大木どもを背に元気よく、
「こんにちは!」
 気をつけの姿勢で挨拶をした。
「はいこんにちはー、いらっしゃあい」たちまち店員の目尻が下がる。「ご予約は五名さまで承っておりましたけど……お父さんかお母さんはいないのかなァ?」
「五人です! お父さんはいるけどお母さんはいないです!」
「すいません、五人です、これで全員です!」悠がいち早く我を取り戻して菜々子の前に出た。「引率はあの、いないんですけど、大人がいないのはまずかったでしょうか。お金ならあるんですけど……」
「あ、いえっ、そんなことはないですよ。大丈夫ですよ」
 こういった店のローカルルールが未成年の客に社会人の同伴を求めるかもしれない、ということに考えが及ばなかったのは今更ながら盲点であったが、とりあえず支払い能力さえあれば客として扱ってはもらえるようだ。それでもこの店員の反応からも明らかなとおり、このような店に高校生と小学生とだけで乗り込むというのはやはり珍事であるらしい。
「ご案内しますから、どうぞ」
「はい、あの、うるさくしてすみません」
「いいええ」と朗らかに否んで、店員はもの珍しげに悠たちを眺め回した。「ええと、みなさん高校生?」
「はい、四人は。こっちだけ小学生です」
「一年生です!」菜々子はやたらと声を張っている。
「はあい、元気だねー。じゃあ小学校はいったばっかりだねー」
「ここのあのおみせの字って、どこがナカで、どこからムラなんですか!」
「え? どこがナカ?」
「菜々子ほら!」と、悠は小声で従姉妹を窘めた。「お店のひと困ってるから――いいんですいいんです、聞き流してください」
「ああ、店の名前ね? ええっとねえ、ナカムラじゃなくってね」
 店員がくぐりかけた暖簾を示して見せて、菜々子に「これタカムラって読むの」と教えた。
「読めないよねェ? でも老舗だからこういう字ってわけじゃあないんですよ」ちらと陽介を見て苦笑しながら、「さ、お席に案内しますから、みなさん入ってくださいね」
 彼女は客を先導して店に入る。その後ろを菜々子が機嫌よく追いかける。陽介の面につごう三人分の視線が突き刺さる。
「……だってさ、ナカムラ陽介くん」彼を後目に悠も暖簾をくぐった。
「さき行くよナカムラ、カッコ笑い」千枝もまた悠に従う。
「どうぞどうぞまでやりたかったね」と、陽介の肩を叩いて、雪子も千枝の背中を追った。「来ないの? ナカムラくん」
「…………」
 そしてしんがりの陽介がすごすごと入店して、後ろ手に引戸を閉めた。





「なんといいますか……フンイキありますなー」
 座敷席の奥まった一画に案内されたあと、雪子の隣に腰を落ち着けた千枝の、第一声がこれだった。
 その渋い外観にふさわしい、篁の内装は至って趣ある落ち着いたものだ。枯色の竹と赤墨色の木肌と、アクセントに漆喰壁の白が折々入り交じるといった暗めの色調。これに合わせたか照明も意図的に抑えてあるようで、店内を薄ぼんやりと照らすのは細竹と和紙とでできた提灯型照明がいくつかだけ。店名にちなむのであろう――篁とは竹林の意ということだ――竹製の調度が多く見られる。悠たちを挟み込む座敷席の間仕切りにも太い割竹をつらねたものが使われていた。
「ざぶとんも時代劇っぽいし。なんかでっかいナベ敷きみたいだけど」
「これワロウダっていうんだよ」雪子が説明を入れる。「ここのは柔らかいし、中にクッション入ってるけど、ぜんぶ藁編みのやつって硬いんだよ。正座なんかできないくらい」
「へえー……あれ、そういえば菜々子ちゃんは? まだ入口んとこ? ナカムラ見える?」
「それもうやめてやろうよ……花村くんかわいそうだよ……」陽介はすっかりしおたれている。
「菜々子ちゃんまだ見てるよ、生け簀」陽介の代わりに雪子が通路に身を乗り出した。「さっきの店員さんとなにか話してる」
 この店の入口には鰻の生け簀が設えられていて、希望者はそこから取り出された活き鰻が捌かれ調理されるところまでを、厨室のガラス越しに見物できるようになっていた。こういったショー要素も高級店ならではのバリューのひとつなのだろう。もっとも陽介いわく、捌くところから見始めると供されるまでに一時間弱ほどの待ち時間があるとのことだったので、悠たちはあまり待たずに済む予約のほうを選んだのだったが。
(ウナギの解体ショーなんて菜々子ちゃんには見せられないしな……いや、あんがい喜ぶかもだけど……)
 菜々子と先の店員の笑い声が聞こえる。いまのところ店内は貸し切り同然で、悠たち以外の客はいない。陽介いわく「食べログでぶっちぎりの一位」の有名店ということだったが、その内実は閑散としたものだ。あるいはこれから混み始めるのだろうか? こういった店の客入りを駅前のファーストフード店と同等に考えるのがもともと間違ってるのか、それとも有名イコール繁盛という考え方がそもそも短絡的というに過ぎないのか……
 手持ち無沙汰に品書きを検めていた千枝が、ややあって「うへっ」と素頓狂な声を上げた。
「マジすかコレ……ちょっ、雪子みてみ」
 と、傍らの雪子をつつく。彼女もまた千枝の指すページを一瞥してサッと顔色を変える。声にこそ出さないものの、その麗貌に「マジすかコレ」と大書してあるのが見えるようだ。
「……ヤバくない? これ払えなくて土下座コースじゃない?」
「……きょう注文したのって、なんだっけ」
「鰻重中串、五人前」陽介はニヤニヤしている。「たっけーだろー、マジで」
「三千四百六十円、かける五っすか……!」
「一万七千三百円っすか……!」
 千枝と雪子はお互いの顔を見合って青くなった。
「あたし千五百円くらいかと思ってた。カルチャーショック」
「わたし多めに持ってきたつもりだったんだけど足りてない……ウナギってこんなに高いものなの?」
「あーいや、俺もそんな行ったことあるわけじゃないからさ、わからんけど」ちらと悠を一瞥して、陽介は湯呑みを取った。「でも絶対うまいから。それに今日は俺らのサイフじゃねーだろ? 鳴上先輩がおごってくれるってんだからさ」
「そりゃうまいでしょーよ。うまくなかったら暴れるし。にしたってゴハンに一万七千円って……」
「いくらなんでも……鳴上くん、ホントにいいの? わたし半分くらい出すよ」
「いいんだって、今日はぜんぶ奢る。奢らせてもらう」と言って、悠は財布から一万円札を五枚ほど抜き出して見せた。「ほらごらんの通り、足りなきゃまだ注文してもいいよ。遠慮なんかいらないからさ」
 おそらくは冗談で言ったに違いない、過日の陽介の「スゲー高い鰻屋」発言を電話で蒸し返したのは悠であった。
 どのみち千枝と雪子がペルソナ能力を有すると思われる以上、近いうちに話し合いの席を設けなければならなかったのではあるし、あんな一命を賭した大冒険の慰労会をジュネスのフードコートでささやかに、というのもなんだか味気ない。見栄っ張りの悠としては友人たちの骨折りに対して、それなりの格式と味とを用意したかったのだ。
 ちょうどよいことに先立つものもあった。悠は現在ちょっとした金持ちなのである。といってもべつだん貯金に腐心する質というわけでもなし、鳴上家の小遣いが並の家より潤沢だったというわけでも――むしろ悠は浪費家の部類だし、鳴上誓子はそこらの父兄よりはるかに吝嗇である――ない。たんに母親からの餞別が手つかずで残っていたというに過ぎない。
 吝い家に育ってかつ、限られた小遣いを書籍につぎ込んできた悠のこと、外食費など努めてつましくやりくりしてきたことにかけてはもちろん人後に落ちない。ここで食事代に一万七千円もの金をポンと出すのはなるほど、彼としても非常に勇気のいることではある。が、いっぽうでこれほどの大枚を同級生の前で「ふん」とばかりに投げて見せるというのは、思うだに自尊心を擽らずにはおかぬ壮挙であった。なに、そもそもが天から降ってきたような金のこと。同じく天に投げ返すのなら、自分にしか価値のわからない本などをこそこそ買うよりも、いっそ景気よくばらまいておおいに友人たちの歓心を買うのがよいのだ! 以後もたびたびこうして気前のよいところを見せてやれば、けだし「ふとっぱらではなしのわかる鳴上くん」の株も順調に上がっていくことだろう。
 これで奢られるほうが菜々子みたいに「わーいやったーありがとー!」と雀躍してくれればもう言うことはないのだが、
(……あんまり嬉しそうじゃないんだよなァ、このふたり)
 千枝も雪子も道々でこそ冗談めかして笑っていたものの、実際はどうにも悪がって素直に喜んでくれてはいない様子。まして値段を見てからはなんだか盗んだものでも食わされるみたいな雰囲気さえある。陽介が無邪気に喜んでくれているのはせめてもの救いだったが、ままならぬものだ。
「ええと、白焼きとか追加する?」
「いいよいいよ! もうじゅうぶんだから」雪子はいっそ迷惑そうである。「そんなに食べられないし……わたし小串のほうでもよかったかも」
「つか白焼き高っ! これタレもゴハンもついてないんでしょ?」千枝はいまだに品書きとにらめっこしている。「なんで値段ほとんど変わんないの? 白いタレとか塗るの?」
「注文してみりゃいーじゃん、遠慮すんなっつってんだしさ」陽介だけはどこまでも朗らかだ。「ま、とりあえず鰻重かたづけて、それでも食えるようなら考えようぜ」
「そうそう――ほら、来たよ。遠慮なしに食って」
 四人が席に着いて十分も経ったころか、先の店員とはべつの、悠たちとそれほど変わらないくらいの若い女が、芳しい醤油ダレの香りを伴って座敷席にやってきた。塗りの重箱と椀とが載った盆を二つテーブルに並べて、みなにお茶のおかわりを質し、彼女はその間ちらちらと雪子のほうを見ている。
「……知り合い?」
 女が座敷席を離れてから訊いてみると、雪子はちょっと困ったような面持ちで「知らない、と思うんだけど」などといまひとつ煮え切らない様子である。
「心当たりあるの?」
「うーん……ないというかあるというか……」
「?」
 先の若い店員が残りの三人前を持って戻って来た。今度は盗み見こそしなかったものの、厨室へ帰るさに生け簀のほうへ寄り道して、菜々子と話していた先の年配の店員に二、三、短くなにごとか告げた。おそらくは雪子のことと思しい。
「ひょっとして芸能人とかって思ってたり?」と、陽介。「天城ってなんかこういうとこだと妙に映えるしさ。いや誉め言葉だけど」
「あーそれありえる。外でもふたりで歩いてるときとかチョー声かけられるもん」千枝は例によって誇らしげである。「キミらどこの子ーとかいま時間あるーとか写メ取らせてーとかって、ぜんっぶ雪子目当てでさー」
「チョーじゃない、そんなに何回もなかったでしょ。千枝誇張しすぎ」雪子は例によって不快げである。
「まーたまた雪子ってばケンソンしちゃってー」
「ケンソンとかそういうこと言ってるんじゃない」
「だあってホントのことじゃあん」千枝は得意満面である。「そうそう雪子ってさあ、高一んとき沖奈でファッション誌のスカウトに声かけられたんだよ。百年にひとりのビボーだとか、えーとピンファン? とかなんとかって画家の絵から抜け出してきたみたいとかって」
「千枝やめて」
「まあまあ――花村には話したっけ? 断りながら早足で逃げたんだけどものすんごいしつこいの、読モでいいからーとかって。んで女子トイレ逃げ込んだら選手交代して女のスカウトが入って来てさあ」
「千枝いいかげんに――」
「雪子やんないっつってんのにおカネの話とかし出すんだから」もうちょっとで終わるから、と雪子に断って、「あたしも一緒にいたんだけどね。フォルモーサって雑誌、聞いたことない? フツーに本屋とかで――」
「千枝ってば!」
「あ、ごめんごめん……ちなみに雪子ってそんときの名刺まだもってる? あたし持ってるよ、花村みる?」
 雪子の眉が「ハ」から「ル」へと移行した。危険信号である。
「そういうこと言うのやめてっていつも――!」
「まあまあ! もうウナギ来たんだからいいかげん食おうよ、ほらっ」あわてて悠が間に割って入る。陽介に目配せする。「ふたりともこの匂い嗅いでよく我慢してられるよな、おれなんか江戸っ子だからもう矢も楯もたまらない」
「あーそういやお前ウナギ好きとかって言ってたっけ。また渋い好みでございますこと」打てば響くような陽介の即応。「で、なんで江戸っ子だからウナギなの? 俺も江戸っ子だけどウナギそんなでもねーよ。好きではあるけど」
「江戸っ子はソバとウナギが好きなもんなんだ。ちなみに三代つづけて東京生まれじゃないと江戸っ子じゃないよ、どこかで違えてるんじゃない?」
「んな決まりごと初めて聞いたよ……つか、じゃあ俺江戸っ子じゃねーわ、親父東京だけどじいさんチリ人だし」
 千枝が目を剥いて「えうっそ! マジなのっ?」と仰天する。まったく善良な少女である。
「ああ道理で! なんか初対面のときからこう、メスティソっぽい印象あったから」
「あはは……だろ? メスティソね……メスティソ……?」陽介の眉が「ル」の字になった。「そういやさ、菜々子ちゃん来てねーじゃん、まだ見てんの? あの生け簀ってそんなに見るとこあったっけ?」
 こんなふうに陽介とふたりで精一杯騒ぎ立てても、雪子はなかなか機嫌を直さなかった。思えば転校初日にもこんなやりとりがあったが、彼女はそれが悪気のない称讃であったとしても、自らの際立った容色について――かつてのシャドウの言からも明らかなとおり、彼女は自分でもそれをよく理解している――言及されるのを本当に嫌うのだ。それも先に悠がそれで片付けようとした「典型的な美人の気難しさ」であるとか、少女的でうぶな含羞であるとか、そういった理由に帰してしまえるほどどうやら単純な問題ではない……
(シャドウがなにか言ってたもんな。誰に似たかもわからない、なんて……)
 雪子にこのたぐいの話題を振るのは厳に慎まなければ――悠は肝に銘じた。
「ふたりとも呼んでくれない? ウナギ来たぞって」
 彼の求めに応じて千枝が「菜々子ちゃーん、ウナギ来たよー」と声を上げると、雪子はようやくしぶしぶながら矛を下ろして、
「菜々子ちゃーん、はやく来ないと千枝がぜんぶ食べちゃうよー」
 と彼女に続いた。鞘に収める気まではなかったようだ。
「はあっ? だれがんなこと――食べないよー菜々子ちゃーん、いまのはうそー」
「あっ、おい里中それ菜々子ちゃんの分だって! バッカ食うなって!」陽介が得たりと空騒ぎし始める。
「里中もう自分の食べたろ! 足りないなら注文するから落ち着いて!」悠も合の手を入れる。
「千枝それお椀! それ食べられないんだよ! お盆も囓っちゃダメ!」雪子は大いに復讐を楽しんでいる。
「あたしにヘンなキャラ付けすんなオマエらー!」
 この大騒ぎを聞きつけてようやく、菜々子が血相を変えて「ダメー!」と駆け戻って来た。
「ちえちゃんたべちゃったの? 菜々子のぶんは?」
「たべてないたべてない! こいつらが勝手に……わーん菜々子ちゃんあたしいじめられてるんだよォー」
 と、千枝はテーブルに突っ伏して嘘泣きを始めた。彼女よりいっそう善良な菜々子はたちまち欺かれて、いじめたものは名乗りでなければならぬと大いに悲憤する。――証言の一致を得て犯人は陽介ということになった。
「ちょっ、再審を要求します、上告します! つかオメーらも共犯だろーが!」
「はいはい訴えは棄却します。ほらみんな食おう食おう、いただきまーす」
 けっきょく判決は覆らず、陽介は保釈のために肝吸いの供出を余儀なくされたのだった。
「いただきまーす……ってコレなんでウナギとゴハンに分かれてんの?」千枝は首を傾げている。
「ウナギが載ってたら鰻丼。これは重箱に入ってるから鰻重」と、悠が説明を入れる。「でもほら、タレも別でついてるから、ご飯に載せてコレかければ鰻丼になるよ」
「ふまっ! なにコレ超うまいんですけど……フナギうま……!」
「そうだろうそうだろう、ふまいだろう」悠は自分が料理して出したかのように胸を張った。「あとこれ、この粉山椒をかけたまえ。これで風味アップ」
「これなあに? おすいもの?」菜々子は椀の中身をきな臭そうに見詰めている。「ムシみたいなのはいってる……」
「それ肝吸いって言うんだよ」と、雪子が説明を入れる。
「キモスイってなあに?」
「えっとね、キモが入ってるの。この沈んでるのがキモ」
「キモってなあに?」
「ええっとね、肝臓? 腎臓? なに臓だったっけ……」
「カンゾウって?」
「とにかく内臓のどこか。菜々子ちゃん内臓ってわかる?」
「ナイゾウ……」菜々子が顔色を変えた。「このしろいの、ナイゾウ?」
「そう、これ内蔵。ウナギの」
 先ほど菜々子によって接収された肝吸いはただちに陽介の許へ返還された。倍になって。
「あー、菜々子ちゃん、中身たべなくていいからさ、汁だけでも飲みなよ。俺もそうしてるしさ、おいしいよ」
 と、陽介が勧めても、菜々子はそのようなものは断じて口にせぬと頑なに拒絶する。つごう三人分の視線が雪子の面に突き刺さる。
「天城、子供に内臓とか言ったらさァ……」と、陽介。
「せめてこう、もう少しぼかしようが……」と、悠。
「雪子ってそーゆうトコ無神経だよね……」と、千枝。
「…………」
 雪子は無言のまま、いきなり千枝のお茶に粉山椒を投入するという暴挙に出た。
「ギャー! なにすんのあんたァーッ!」
「自家製ドクターペッパーだよ。千枝すきでしょ? これで風味アップ」雪子はにこにこしている。
「んのやろ……!」
 千枝が忙しなく卓上を見回し始めた。反撃用の調味料かなにかを探しているようだったが、備え付けの柚胡椒と七味唐辛子とはすでに雪子の手のうちにある。彼女自身の湯呑みもいたずらされないよう、いつのまにか陽介の側に押しやられていた。一見衝動的に見えてなかなか計画的な犯行である。
「ほら飲みなよォ、千枝のために作ったんだから。おいしいよォ」雪子は七味唐辛子の蓋を開けた。「あ、ついでにもうひと味足す? スペシャルブレンドいっちゃう?」
「あんたコレぜったい飲ます。ぜんぶ飲ます!」と、千枝は湯呑みを振りかざして雪子へ迫る。
「まあまあ! つか里中お前なに、ドクペ好きってマジなの?」あわてて陽介が間に割って入る。悠に目配せする。「あんなクッソまずいもんよく飲めるなあ。お前ちょっと味覚おかしくね?」
「はあっ? ドクペ超おいしいじゃんなに言ってんの!」たちまち千枝がその矛先を変える。「味覚おかしいのどっちだっつの!」
「おいちょっと待ておまえ、駅でおれに勧めてたよな、ドクターペッパー」悠の眉が「ル」の字になる。「おまえの言うクソまずいもん飲ませるつもりだったのか」
「ちょっ、オメ援護しろよ空気よめねーな……!」
「千枝たちはほっといて一緒にご飯たべよ、菜々子ちゃん」
 雪子はわれ関せずとばかりに鰻をぱくつき始めた。またしても菜々子を抱き込んで安全圏に逃げ込む腹らしい。
「菜々子はリボンシロトンすき」
「そっかあ……ウナギおいしいねー。このひとたちうるさいねー」
「ねー!」
 悠、陽介、千枝の眉が「逆ハ」の字になった。是非もなし――三人の視線が交錯する。
「……天城のど渇かね?」
 と、呟いたときにはすでに、陽介は雪子の湯呑みを捕らえている。コンマ一秒の差で彼女の手がむなしく空を切る。この刹那の攻防の隙をついて千枝の貫手が飛ぶ。雪子がはたと自分の盆を見たときにはもう、そこにあった小さな瓢箪形の容器は奪い去られている。中身は柚胡椒である。雪子の面に焦りの色が浮かぶ。が、口いっぱいに鰻と飯とを詰め込んでいるので、彼女は抗議の声を上げられない。
「悠、天城は喉カラカラだ!」
「鳴上くん、カタキとって!」
 悠の手元にふたりの分捕り品が集まった。彼は膝立ちになって雄々しく瓢箪の蓋を開け放った。雪子は口を手で覆って、その中のものを必死に咀嚼しながら「んんー!」と唸った。やめろと言いたいのだろう。
「天城まってろよ、いま特級謹製のリボンシトロンを――!」
「あのう、すみませんけど」
 高校生四人はひとたまりもなく凍り付いた。先の年配の店員が大振りの角皿を両手に、いつの間にか悠たちの座る座敷席の横に立っている。
「薬味で遊ばないでくださいね、ほかのお客さんも使いますからね」
「あっ、はい、すみません、あの……」
 悠はそろそろと座り直すと、熱湯のただ中に放り込まれた氷みたいになった。
「それと、盛り上がってるとこに水さすようでねえ、申しわけないんですけど」と、彼女は真実申し訳なさそうな口で続ける。「いまはいいんですけど、もうじきほかのお客さんもいらっしゃいますから、もう少しだけ静かにしてもらえると……」
 悠以外の三人もまたソルトプレートの上に投げ出されたナメクジみたいになって、なにかよくわからない謝罪らしい文句をめいめいの口の中で呟いた。さだめて店員には「場所をわきまえない騒々しいバカ高校生ども」とでも思われたに違いない。まったくいい面の皮である。
「うるさくしてすみません……外でも言いましたけど……ホントにすみませんでした」今や熱湯の中の氷は消え入らんばかり。
「いいええ! ごめんねえ、日曜日なんだからはしゃぎたいよねえ」店員は悠の謝罪を一笑に付して、持っていた角皿をテーブルに置いた。「それでね、これ、お持ちしたんですけど」
 皿の上には丸々一匹を背開きにした白焼きが載っている。もちろん注文した覚えはない。
「え、これって」
「白焼き大串。店からのサービスです、おいしいから食べてみて。白いタレはついてませんけど」店員は愛想よく笑って、雪子のほうへ向き直った。「――あの、天城屋さんの、雪ちゃんですよね?」
「あ……はいっ!」
 こう問われると、雪子はにわかに態度を改めて、座ったまま折目正しくお辞儀した。
「たびたび寄して貰ってます、高村の家内ですけれども」店員の丁重な態度に親しみが交じる。
「はいあの、お久しぶりです、その節はご利用いただきまして、ありがとうございました」
 と、雪子は再度あたまを下げた。なるほど、彼女の心当たりが「ないというかあるというか」というのはこれのことなのだろう。つまり雪子のほうでは覚えていないが、先方では天城屋旅館関係者としての自分を見知っているのではと、おそらくは経験則から彼女は見当をつけたのだ。
(有名人は大変だよな……)
 ひとめ見たなら容易に忘れられそうもない、百人が百人すれ違えば振り返らざるべからざる「百年にひとりのビボー」のこと、こんなふうに自分のほうでは忘れてしまった人間から「しばらくぶりです」と声をかけられるのもあるいは二度や三度の話ではなかろう。かつての、そしてこれからリピーターとなるかもしれない客に「あんただれ?」とはまさかに返せまい。「知らない、と思うんだけど」向こうはどうやら知っているらしい。やむを得ない。そこで「あの、お久しぶりです、その節は」となるわけである。
「ふた月ぶりくらいですけど」と言って、店員もお辞儀を返した。「さっき見たとき、あれーって思ったんですけど、うちの子が絶対そうだって。雪ちゃんやっと来てくれたァ」
「ええ、あの、たまたまここで食べようってことになって、ご迷惑とは思ったんですけど」
「なにをまたァ! ほんとうに待ってたんですよ。今日はゆっくりしていってね――お友達のみなさんも」
 雪子以外の四人はやはり座ったまま、店員と白焼きとに向かってペコペコあたまを下げた。この白焼きはおそらく雪子の来店に対するサービスであろうから、悠はついでに彼女へもあたまを下げておいた。
「ありがとうございます。すみませんこんな高いものごちそうになっちゃって」
「いいのいいの、どうぞ食べて! それで雪ちゃん、ちょっと気になってたんだけど……」
 店員の視線が雪子の盆の辺りをさまよっている。とたんに隣の千枝が小さな声で「あ、えーっと」などと慌てたように呟いた。が、
「手、どうしたの? 怪我? 前みたときは着けてなかったから」
 さてここまで言及されてしまえば止めようもない。気まずげな視線が雪子の、肉色のゴム手袋を着けた右手に集中する。
(ここでそれに触れるか……まあ、さっきからもう気にしないで振り回してたもんな)
 彼女の右手についてはあらかじめ千枝より「気になってもぜったい触れないでね」とクギを刺されていたのである。じっさい雪子も気にしている様子で、この店に来るまでは努めて人目につかないよう、左手で覆って前に後ろに隠していたのだったが。
「はい、ちょっとうちの仕事で火傷しちゃったんで」
 と、彼女は力のない苦笑を浮かべた。いかにも、その手袋の下には火傷が隠されている。第三度の熱傷、全治に五ヶ月ほどを要し、治癒後も創面に痕が残ると宣言されたという、年ごろの少女にはあまりにも過酷な大火傷が。
 悠とて火傷ならいくつも受けはした。が、その大きさ重さはとうてい比べるべくも――受傷後二、三日は湯船へ入るたびに気合いを炸裂させて、茶の間の菜々子を飛び上がらせたものだったが――なし、なによりほとんど衣服に隠れてしまうのだから、とても彼女の受難と並べられるようなものではない。自身のシャドウとの和解につながる、その負傷は最も重要なきっかけであったにせよ、彼女の支払った代償はまことに大きかった。
 店員はなおも二、三、親しげに言葉をかけたあと、「お大事にね」と言って厨室へ引き返していった。ややあって入口の引戸の開く音がして、それを出迎える若い女の声がした。先の店員の言う「うちの子」のものである。
「家族経営なんだ、ここ」
 悠はぽつんと言った。が、その後に続ける言葉がどうしても浮かんでこなかったので、この気まずい沈黙が続くよりはと雪子を窺って、
「……右手、どう? 大丈夫?」
 と訊いた。千枝の眉が「ル」の字になった。
「うん、なんとか。ちょっと深いけど、皮膚移植とかしなくてもだいじょうぶって言われたし……たぶん千枝から聞いてるんだとは思うけど」
 雪子もさすがに、自分の不自然な右手に誰も言及しない理由について、おおよその見当はつけていた様子。
「わたしの右手のことは訊くなって、言われた? みんな」
 悠と陽介はウンと頷いた。菜々子も一拍遅れてウンと頷いた。千枝がウーと唸った。
「……千枝、聞かれないほうがよっぽど不安になるよ。余計な気まわしすぎ」
「余計って、あんたすごい気にしてたみたいだったからそうしたんじゃん」
「まあまあ。でも天城も余計はないよ、里中もの凄く心配してたんだから」と、悠。
「そーそー。でも里中もちっと過剰だけどな。俺病院に見舞い行くのもダメって言われたし」と、陽介。
「え? 見舞いって、天城入院してたの?」
 雪子はちらと笑って「ちょっとね」と言った。
「手のこともあったし、検査入院。それより、花村くんはだいじょうぶなの?」
「へ? なにが?」
「耳。左側が聞こえなかったんでしょ? わたしそっちのほうが心配だったよ」
「あー……耳ね……」
 悠と千枝の視線が陽介の面に突き刺さる。
「それはさ、まあ、なんとかなったからさ……」
「なんとかなったじゃないよ」と、千枝が口を尖らせる。「ちょっとカッコいいかもーとか思ったじぶんがバカみたいだよホント」
「なんとかなったじゃねーよ」と、悠も口を尖らせた。「さんっざんひとに気ィ揉ませやがって。おれがどれだけ落ち込んだと思ってんだ」
「鼓膜は再生するの知らないのが悪いんだって思いまーす……」陽介は小さくなってぶつぶつ呟いている。「つか、そのハナシもう何度もしたじゃん、いいかげん忘れてくれって……」
 あらためて陽介が医者から聞いた話によると、人間の鼓膜は損傷の程度にもよるものの、一、二ヶ月ほどで再生してしまうということである。つけ加えると彼は小学生の頃にも一度、左耳の鼓膜を破損したことがあったらしい。後日それを教室で聞かされた悠が憤激したのは言うまでもない。なぜあのとき言わなかったのだと彼が詰め寄ると、
「いや、なんかタイミング逃がしたっつか、あとお前が落ち込んでるのって、なんかめんどくさいはめんどくさいんだけどさ、横で見てるとけっこう面白くて……」
 いみじくもこう宣ったのだった。ホームルームがあと一分遅く始まっていたら陽介は窒息死していただろう。
「へえ、鼓膜って再生するんだ。わたし知らなかった」
「しかも花村二回目だって言うし」
「お望みならここで右側も破ってやるよ」
「あーわり、ぜんぜん聞こえねーわ。なに言ってんのお前ら」陽介は右耳を塞いですっかり開き直っている。
「まあまあ。でも治るんならよかった、わたしのせいみたいなもんだし」と言って、雪子は店員の置いていった角皿を陽介へ押しやった。「ほら、ケガの話はおしまい! 食べよ食べよ、花村くんどうぞ」
「いや、俺まだ鰻重のこってるからさ、あとでもらうからさ」
「あ、そっか……菜々子ちゃんほら、白焼きおいしそうだよ。わさび醤油つくってあげるね」
 菜々子は口いっぱいにむしゃむしゃ遣りながら、自分はまだ鰻重を食っているからそっちまで手は回らぬと言った。
「つか、雪子もうたべたの? お重カラなんですけど」千枝は雪子の重箱を覗き込んであきれ顔である。「あんた早すぎ……ひょっとして嚙まないで吸い込んでたりとかする? あたしまだ半分いってないし」
「おれはまだ三分の一ってとこだけど」悠は眉をひそめた。「天城ホント早いな。仕事柄こうなったりするの? 身体によくないんじゃ」
「マジで食うのはえーな天城」陽介はニヤニヤしている。「そういやさっき誰かがこんなに食えないとか、小串でもよかったとか言ってたけど、あれって幻聴?」
「シャドウだよシャドウ、きっとシャドウが言ったんだ」悠もニヤニヤしている。
「吸引力の変わらないただひとりの若女将……コードレスサイクロンユキコ」千枝はゲラゲラ笑い始めた。
「…………」
 雪子は陽介の許から角皿を引き戻して「これはわたしひとりで食べる」と主張し始めた。
「みんなは鰻重がんばってね。皮くらいはとっといてあげるから――いただきまーす!」
「いやいや食うから、残しといてくれって!」と、陽介。
「おれはなにもひどいこと言ってないだろ!」と、悠。
「電源切って、誰かダイソンの電源切って!」と、千枝。
「ダイソンってなあに? ねえダイソンって」菜々子は口からボロボロ飯を落としながら四人に尋ねて回る。
 五分後、店側から悠たちへ本日二度目のクレームが届けられた。




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