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No.35651の一覧
[0] PERSONA4 THE TRANSLATION(ペルソナ4再構成)[些事風](2014/11/03 16:25)
[1] 序章 PERSONA FERREA[些事風](2014/11/03 16:25)
[2] 一章 REM TALEM MINIME COGITO[些事風](2012/10/27 23:54)
[3] 国を去り家を離れて白雲を見る[些事風](2012/10/27 23:57)
[4] マヨナカテレビって知ってる?[些事風](2012/10/28 00:00)
[5] ピエルナデボラシーボラ![些事風](2012/10/28 00:03)
[6] 出れそうなトコ、ない? ひょっとして[些事風](2012/10/28 00:07)
[8] 死体が載ってた……っぽい[些事風](2012/10/28 00:27)
[9] ペルソナなんぞない[些事風](2013/03/05 00:17)
[10] でも可能性あるだろ?[些事風](2012/10/28 00:34)
[11] バカにつける薬[些事風](2012/10/28 00:36)
[12] シャドウじゃなさそうクマ[些事風](2012/10/28 00:41)
[13] 吾、は、汝[些事風](2012/10/28 00:46)
[14] 俺はお前だ。ぜんぶ知ってる[些事風](2012/10/28 00:53)
[15] ノープランってわけだ[些事風](2012/10/28 00:56)
[16] 旅は始まっております[些事風](2012/10/28 01:05)
[19] 二章 NULLUS VALUS HABEO[些事風](2014/11/03 16:26)
[20] あたしも行く[些事風](2013/01/15 10:26)
[21] それ、ウソでしょ[些事風](2013/03/05 21:51)
[22] 映像倫理完っ全ムシ![些事風](2013/05/12 23:51)
[23] 命名、ポスギル城[些事風](2013/05/12 23:56)
[24] あたしは影か[些事風](2013/06/23 11:12)
[25] シャドウ里中だから、シャドナカ?[些事風](2013/07/24 00:02)
[26] 脱がしてみればはっきりすんだろ[些事風](2013/10/07 10:58)
[27] 鳴上くんて結構めんどくさいひと?[些事風](2013/10/14 17:36)
[28] セクハラクマー[些事風](2013/12/01 15:10)
[30] アギィーッ![些事風](2014/01/31 21:58)
[31] かかってこい、あたしが相手だ![些事風](2014/03/04 21:58)
[32] クソクラエ[些事風](2014/04/16 20:30)
[33] あなたは、わたしだね[些事風](2014/06/15 15:36)
[34] とくに言動が十八禁[些事風](2014/07/26 21:59)
[35] コードレスサイクロンユキコ[些事風](2014/09/13 19:52)
[36] 自称特別捜査隊カッコ笑い[些事風](2014/09/24 19:31)
[37] ッス[些事風](2014/11/03 16:29)
[38] oneirus_0d01[些事風](2014/12/14 18:47)
[39] 三章 QUID EST VIRILITAS?[些事風](2015/03/01 16:16)
[40] ええお控えなすって[些事風](2015/05/17 00:33)
[41] キュアムーミンだっけ[些事風](2015/10/18 13:01)
[42] おれ、弱くなった[些事風](2015/11/20 10:00)
[43] 中東かっ[些事風](2016/03/02 00:50)
[44] バカおやじだよ俺ァ[些事風](2016/05/15 16:02)
[45] ここがしもねた?[些事風](2016/08/16 15:11)
[46] 腕時計でしょうね[些事風](2016/11/15 13:03)
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[35651] あなたは、わたしだね
Name: 些事風◆8507efb8 ID:981b69f7 前を表示する / 次を表示する
Date: 2014/06/15 15:36



(これじゃ菜々子ちゃんと競走しても勝てるかどうか)
 悠は重い脚を持ち上げて懸命に走った。いったい鉛の手袋と長靴とを着けたらかくもなろうか、傍から見ればさぞかしみっともないよたよた走りだろう。
 すでにペルソナは消してある。が、「彼」を修復するために消費した体力は相当なものだったようで、とにかく冗談のように力が入らない。というより、どれだけ力を込めても思うように身体が動いてくれない。にも拘わらず汗は流れる。無闇に動悸がする。高熱に浮かされたようにくらくらする。つらい、くるしい、あたまが痛い、最低最悪の気分。
(いっそこの辺りで倒れ込んで、あとのことぜんぶ里中たちに任せてしまえたらどんなにか……)
 よかったことだろう。もちろんそんなことはできなかった。雪子の身が案じられるというだけではない、彼女が自ら炎の中に飛び込もうとしている、その原因を作ったのは他ならぬ悠なのだ! 彼は雪子を救わんがためにその腕を掴もうとして、じっさいは首を扼したに過ぎなかった。このまま彼女を死地に赴くに任せたとしたら、まったく自分がそこへ蹴込んだも同然ではないか――この内心の責難が鞭と拍車とをもって疲馬の脚の止まるのを許さない。
 雪子に遅れること数秒、千枝たちの脇を通るさに、彼女のペルソナがふたたび発火炎上した。走り去る雪子を呼び止めようと彼女がそちらへ向いたのを、怪鳥が好機と見て攻撃したのであろう。
「ドコミテルノ? ゼンブウケトメルンジャナカッタノオ?」怪鳥は薄く笑っている。雪子が火の中へ駆け込もうとどうしようと彼女はなんとも思わないらしい。「ソンナニアイツガキニナルノ? ジショウチエサン」
「ちょっ、タンマ、待った、受け止めんの保留! つか自称じゃないっつの!」千枝のペルソナがあわてて身構えた。
「あーもーチエここ任せた!」千枝も悠に少し遅れて、左腕を抱え込むようにして走り出す。「鳴上くん、なに、雪子どうしたのっ?」
「しくじったんだよ!」と、言ったところでわかるはずもないが。
 背後で千枝のペルソナの制止の声が上がった。が、それは叶わなかったようで、次いでボンという爆発音と、後ろ髪を焦がさんばかりの熱放射が悠たちの背中を追いかけてくる。千枝がペルソナから離れたのを見て、ついに怪鳥が本気を出し始めたのだ。
「雪子アンタいいかげんにしろよ……!」と、千枝のペルソナが剣呑な声を上げる。「あたしがなにされても黙ってるとかって思ってんの?」
「ヌルカッタ? モウスコシアツクナサイマスカア?」怪鳥の返答は挑発的である。
「言ってな。ちょっとマジで痛いメ見てもらうわ」
「ああくそっ……里中ちょっと待って!」このまま放っておいたら血を見るかもしれない。悠は千枝を呼び止めると仕方なく立ち止まって、彼女のペルソナを振り返って怒鳴った。「千枝! 雪子を攻撃するな! ケガさせたらまずいんだよ堪えてくれ!」
「うっさい鳴上くんは黙ってて!」
「千枝たのむよもう……大声ださせないでくれェ……!」
「もー許さん、一発なぐる、ぜったい殴る!」
(ダメだ、完全にあたまに血が昇ってる……)なんだか妙に既視感を覚える光景。(ダメだ、ホントに、おれも限界だ、ここであれこれ言ってる余裕はもうないぞ)
 仕方がない、なるようになれだ――悠は出し抜けに怪鳥に向かって「雪子きけ!」と叫んだ。
「雪子、天城屋の看板はっ?」と、斬り付けるように続けて、「どこにいった? さっきは雪子のすぐ近くにあったぞ、どこいった? ないぞ、どこにも!」
 彼女の足許のあたりを指で示す。怪鳥は暫時きょとんとしたあと、じき長い首をぶんぶん振って自分の周囲を狂ったように見回し始めた。無論あの看板を探しているのだ。殴らずにはおかぬと息巻いていた千枝のペルソナも、彼女のこのにわかな狂態を見て「なに、どしたの雪子、なに探してんの」などとひとまずは矛を納めた様子。
(天城を止めなきゃならない、そうして雪子と和解もさせなきゃならない。両方いっぺんにやるとしたらもうこれしかない!)
 怪鳥を動かすしかないのだ、彼女も一緒に天城屋へ連れて行くしか! この決断が最悪のカオスを生むであろうことは容易に想像できる。光明はないでもない、今し燃えようとする天城屋の象徴を膝の前に、雪子と怪鳥――雪子のシャドウは悠の仲介を得て寸刻なりとも話しあう時間を得られるかもしれないのだ。鍵はすでに握っている、この灼熱のチェックインはまんざら自暴自棄のやぶれかぶれというわけでもない。
 しかしそもそも火災の真っ只中、いつ焼け落ちるかもわからないあんな木造建築に飛び込んで、果たして会話などできようものなのだろうか。できたとしても両者はもはや和解を望まないかもしれない。なにせ雪子側は終始いわれ通しで涙まで流していたのだ、内心はかの怪鳥への怨み骨髄に徹する思いだろう。今の悠にそれをどれだけ和らげてやることができるか。いや、話し合いに持っていく以前に火に巻かれる雪子を見て、怪鳥は「モウスコシアツクナサイマスカア?」などといらぬ気を回しさえするかもしれない。いやいやそれ以前に、
(天城だけじゃない、おれだって生きて返って来られないかもしれない、死ぬかもしれない……)
 なにをいまさら、もう遅い! 悠はふたたび駆け出した。駆けながら上着を脱いで、それを小脇に抱えて一散に雪子のあとを追う。髪はあらかた乾いてしまっているものの、着衣はいまだ雨水を留めてじっとりと湿っている。あたまから被っていれば少しの間なら火を防いでくれるかもしれない。
「里中来るな、火傷じゃ済まないんだ!」
 と、追い縋ってきた千枝を一喝してみても、
「ぜったい行く! 死んでも行く!」
 もちろん彼女は易々と承伏などしない。
「考えがあるんだ、里中には外で待っててもらう、大事な役目だ、協力して」雪子が天城屋の一隅に開いた、半ば焼け崩れた穴へと飛び込んで行った。ぐずぐずしていては彼女が火だるまになってしまう。「返事はいいよ。もちろん協力してくれるんだろ? 千枝!」
 千枝はこうと言われて、虚を突かれたようにその速度を落とした。
「……わかった、けど、気ィつけて!」
 なおも惰性で駆けつつ彼女の言うのを背後に聞きながら、悠も雪子に遅れて天城屋の中へと転がり込む。もちろん彼に端から考えなどない、千枝に求めた「協力」はただのブラフである。協力はもうじゅうぶん、今までどれほど悠のやろうとしたことに彼女は資してくれただろう。妨害もないではなかったが、それを差し引いても千枝はすでに十二分の協力を惜しまなかった。このうえ丸焼けになる危険に引っ張り込むことなどどうしてできよう。
(さあ、ここが正念場だぞ、鳴上悠!)
 飛び込んだ先はロビーと客室とをつなぐ廊下と思しい。背後に穴が開いているおかげか、そこは彼がこうであろうと覚悟してきたほどの息苦しさはなかった。が、すでに余すところなく炎に呑まれた板壁と言わず天井と言わず、四方から発せられる強烈な放射熱には喉も焼けんばかりだ。今さっき飛び込んだばかりの雪子の姿も濛々たる煙に遮られては影さえ見つからない。悠は咳き込みながら唯一、いまだ炎に侵されていないビニル床に伏せた。シャツ越しの腹に風呂の湯ほどの熱を感じる。難燃素材のようでなんとか燃えずに済んでいるようだったが、それも壁に近い部分は波打って刻々と融けつつある。じき燃え始めるか、いや、床に火がまわる前におそらく天井が崩落するだろう。
(この一晩は最悪だった、失敗に始まって失敗を積み重ねて、いま失敗で終わろうとしてる)奥に入ってしまったものか、伏せってみても雪子の姿は覗えない。(成功なんかじゃないんだ陽介、無事に天城と合流できたのは、うまくいったのはたんに運が良かっただけ、おれのほうじゃ失敗続きだった……でも)
 ここで挽回できれば、最後に清算できてしまえば少なくとも、これまでの失敗に意味が生まれる。苦いばかりだった毒は薬へと変じる。ここで雪子救出という当初の目的だにせめて貫徹せずして、どうして陽介と千枝との流した血に報いえよう――悠は伏せたまま上着であたまと目鼻とを覆った。 
火は黄金を試すイグニス・プロバト・アウルム苦難は勇者を試すミセリアエ・フォルテム・プロバント」悠は地べたに這いつくばってぶつぶつ呟いた。「やれるはずだ、おまえが混じり気のない金なら、銅でないなら証明できるはずだ……」
 できなければ死ぬのだ。焼け死ぬがいい、下らないおまえにはなんともふさわしい最期ではないか! それがイヤなら今こそこの決死の試練をもって真の試金に臨むのだ。雪子を救い出し、シャドウと和解させ、もってわが自尊心をも救い出すのだ。こここそわれとわが身とを精錬する火床、この炎はその為に用意されたものなのだ!
「天城どこだ! 返事しろ天城ー!」
 と、どこへという当てもなく必死に這いながら呼ばわること数度、にわかに誰かの咳き込む声がしたのは悠の脚側、つまり真後ろであった。声はごく近い、彼女はそれほど離れてはいない。
「天城か! まず――」寝返りをうつ芋虫みたいにして体位を変えながら、「――こっち来て! 看板は陽介と千枝なら安全に探せるから!」
「どうして」自分を追ってきたのだ、と言いたかったのだろうが、雪子の返答はほとんど言葉にならない。咳の絶え間に苦しげな喘鳴が混じる。
「いいからこっちへ! おれもそっちに行く、合流するんだ、それから探すんだ!」
「こないで危ないから! あともう少し」ふいに雪子の苦しげな呻きが上がった。「あった……ウウ、あった……」
「天城どうした! 大丈夫か!」
「はやく出て鳴上くん! もうここ――」
 ふいに屋根と梁との破砕する騒音が雪子の言葉に覆い被さった。音の出所は悠のほど近く、ほとんど真上と言ってもいい。ついに天井が落ちたか! と、驚いて見上げる暇もなく、大量の火の粉と焼けた木材が彼の頭へと降ってくる。
 悠は悲鳴を上げながら亀になった。
「鳴上くんどうしたの! 鳴上くん!」
 返事などできようはずもない。亀になった彼のその背に、脚に、あたまに幾度となく、過日の千枝の中段蹴りにも相当しようかという衝撃が襲う。いや、いかに千枝がその仁慈を忘れて悠を二十回くらい蹴りたいという病的な衝動に襲われたとしても、その合間に彼の衿や袖に火の粉を流し込むなどという残虐行為にまではまさか及ぶまい。悠は焼き芋よろしく燃える薪に埋められて、たいていの生の芋が同様の災難に見舞われたときおそらくそうするであろうように絶叫しつつ大暴れした。首筋に、手首に、足首に、肌の露出した部分に沁み透るような激痛が走る。濃密な煙が速やかに目鼻を侵す。息ができない。服がシューシューと音を立てて乾いていく。大出力のハロゲンヒーターをじかに抱擁しているかのような恐ろしい放射熱。ペルソナを出さねばと考えることもできないほどの、先に「もうひとりの自分の死」を思ったときなど比較にならないほどの恐怖が、狂的な後悔が彼の胸中を満たす。先のたいそうな決意もどこへやら、悠の脳裡はただこのひと言のみで占められた――こんなとこ来るんじゃなかった!
(死ぬ、死ぬ! 死にたくない!)
 まさに恐慌に陥る寸前、出し抜けに悠を蒸し焼きにしていた焚き火が突き崩された。生焼けの芋を掘り起こしたのは、
「ゴメンナサイ、ダイジョウブ? ヤケドシタ? ゴメンナサイ……!」
 怪鳥であった。周囲に残っている焼け木材を鉤爪でちょいちょいと蹴って空間を作ると、彼女は翼を広げて悠を炎と煙から守るように囲い込んだ。その隙間からひょろりと長い首が入ってきて、彼を心配そうに眺め回す。
「た、助かった、ありがと、死ぬかと……」
「ゴメンネ、ゴメンナサイ」
 どうやら天井が落ちてきたのは火災の影響ではなく、彼女がむりやり天城屋へ突っ込んできたその結果らしい。金や銅どころではない、悠はあやうくわが身の喩えてふさわしきは芋なりと証明してしまうところだった。が、
(これで役者はそろった……なんとか、舞台は、整った)
 いまこそ決着をつける時、打身火傷の痛みなど無視せよ、芋ならいざしらず、金は火傷などしないのだ! 悠は先の後悔を都合よく忘れ去って、この大いなる使命感を杖に雄々しく立ち上がった――その脚はいまだ震えてはいたが。
「鳴上くん、ウウ、返事……!」
 雪子は苦しい息の下でなおも悠を呼んでいる。とにかく無事を報せなければと、彼は怪鳥の翼をこじ開けながら「おれは大丈夫だから!」とだけ怒鳴った。
「だいじょうぶ? ケガしたの?」
「してない」大いにしている。「いいからはやくこっちへ! 自分の心配を――!」
 と悠が言い募るのを、怪鳥が翼で抑えるようにして遮って、
「オマエ、アノカンバンヲドコヘヤッタ!」
 先に千枝のペルソナに見せたような揶揄まじりの余裕など欠片もない、切羽詰まった調子で詰問した。彼女は雪子が看板を持ち去ったと考えているらしい。
「そこにいるの? あなた、そこに?」と、雪子の驚いたような声。
「ドコヘヤッタ、イエ! ソレダケハワタサナイ! ソレ――」
「受け取ってェ!」
 と、雪子の叫び声が上がって、すぐさま煙の向こうから大きい、平べったいものが飛んできた。それは悠の目の先でいちど弾んで、計ったかのように足許まで転がって来て、くすんだ「屋城天」の金文字を上にして止まった。
 悠と怪鳥とはそろって言葉を失った。その半ばを黒く焼損した看板のそこここに、いびつな赤黒い手形がいくつもついているのである。看板は焼け燻っている、それを無理に素手で触った雪子の血の手形であった。
「天城――!」
「雪子!」と、姿の見えぬ雪子が怒鳴った。「雪子、それ、お願い! 持っていって!」
 悠はわれ知らず両の拳を握りしめた。この場に「雪子」と呼ばれて然るべき人物はふたりしかいない、ということは言うまでもなく、雪子は今まさに怪鳥を称するにわが名をもってしたのである。自分に向かって呼びかけたのである。いっぽう、雪子と呼ばれた怪鳥はこの煙の中で支障がないのか、ただでさえまんまるの目を思い切り見開いて、雪子の声の飛んでくる辺りをはたと見据えた。
「雪子、ごめんね」雪子の声が咳き込みながら続ける。「ぜんぶあなたの、言うとおり。そうだった。いつも自分に、言い聞かせてきたことだったのに、わたし、忘れたふりしてた。ごめんなさい……あなたは、わたしだね」
 怪鳥はひと言も応えない。悠もまた彼がそうできる限りにおいて目を見開いた。
「フフ、なんてことを、だって、わたしだけは、言えないよね。ここが」雪子の声に嗚咽が混じる。「こうなって欲しいって、わたし、ずっと思ってたんだから」
 怪鳥が小さく呻いた。
「雪子、その看板、お願いね。貞享元年から受け継がれた、たいせつな看板、わたしが燃やしちゃった看板、徳川吉宗と同い年の看板、ぜったいお母さんに届けてね。きっと喜ぶから」
 怪鳥の返事はない。悠もまた口を噤んで、雪子の吐露に耳を傾けていた。彼女は陽介や千枝とは人間の成長の度合いが違うはず――などと先に楽観したのは、ある意味で当たっていたらしい。
 彼女はシャドウを怨んでなどいなかった。怪鳥の恣な放言の数々に雪子は怒り拗ねるどころか、むしろ相手の眼に映った己が姿を必死に見極めようとしていたのだった。いったいこれがどれほど難しく辛いことであるか、同じ経験をもっと拙くこなした悠にはよくわかるのだ。常人なら百人が百人、その痛みを思うさえ耐え得ずに逃げ出すか鎮痛剤の処方を懇願するかするものを、彼女は医者の助けも借りずにわが胸に刺さった鍵を自ら掴んで引き回し、暴き、歯を食いしばって己が心臓を掴み出して見せたのである。いとも強き女! こと雪子に関しては第三者の仲介など必要なかったようだ。
 しかし役立たずとなったわが身をいまは嘆くまい――悠は雪子への讃歎の念に打たれていた。
「あの日からずっと、閉じ込められてたって、苦しんでたって、言ってたよね。ほんとにごめん。わたし、わかってたのに、開けてあげられなかった、ごめんなさい……」洟を啜る音が聞こえる。「でも、これだけは言うよ、わたしも一緒にいたの。わたしもあなたの隣で、一緒に泣いてたの! あなたの苦しむ声を、ずっと聞いてたのよ、雪子!」
「あなたにも聞こえてたでしょう? わたしの」と、ここまで言って、雪子は最後まで続けられずにすすり泣き始めた。
 怪鳥の口から微かな声が漏れる。「ユキコ」と、彼女は確かにそう呟いた。ついにお互いがお互いを天城雪子と認め合った、これがその瞬間であった。ここまで来てなお両者の和解を阻むものがいったいどこにあろう! 場の空気があるので沈痛な面持ちを崩しはしないものの、悠は内心躍り上がりたい気分である。
「……でもそれももう、みんな終わり」
 ややあって、建材の焼け爆ぜるメキメキという音に混じって、煙の向こうからか細い声が飛んできた。
(終わり?)
「オワリ?」
 悠と怪鳥とは揃ってなかよく訝った。その弱々しさとは裏腹に、雪子の声にはなにか投げやりな、不穏な決意のようなものが滲んでいる。
「もっと早く、こうすべきだった」彼女の声は微かに震えている。「罪を償うべきだった。死ぬべきだった。七年間ためらい続けて、けっきょく自分を、苦しめ続けてきたんだから。もっと早くあなたを、解放してあげなきゃいけなかった……」
 訂正、撤回! 雪子は強くなどなかった! 悠は蒼白になった。それはあれほどにも勇敢にわが胸をかき開きもしよう、痛みを恐れずすべてを認めもしよう、なにせ彼女はそのあともれなくついてくるはずの忍耐を放棄して、自ら命を絶つつもりだったのだ。
「待った! 天城まて早まるな! どっ、どうしてそうなる!」悠は焦るあまり少しく吃った。「バカなこと考えるなよ、落ち着け!」
「鳴上くん、ごめんね、こんなことに付き合わせて」雪子の声が少し遠ざかったような気がする。「雪子、へんなこと言ってたでしょ? あれぜんぶホントなの。気持ちわるい女……バカみたい」
「気持ち悪くなんかない、バカじゃないし変でもない、天城止まれ、動かないで、話しよう、なあ、その上でどうしても――」
「雪子、天城屋を押し付けるみたいで、気が引けるけど、お願いね。だいじょうぶだよね、あなたもわたしなんだから」
 怪鳥は戸惑ったように力なく翼を振って、アーだのウーだの呻くだけである。
「雪子おい、なにやってる止めろよ! 黙って見てるつもりなのか! 天城が死ぬって言ってるんだぞっ!」
 と、悠が目を剥いて叱咤しても、怪鳥は煙の向こうを見詰めて悄然とするだけ。いかにも、よくも悪くも彼女は雪子なのだった。雪子が「七年間ためらい続け」たことを、どうしてもうひとりの彼女もまたそうしていなかったはずがあろう。彼女はもうひとりの自分の自殺を悲しみながらも諦めつつあるのだ。
(ど、どうすりゃいい、なにかないか……ああ里中! せめて里中がいれば!)ついてくるなと言ったのは悠本人である。(いまからでも呼ぶか、間に合うか?)
「鳴上くん、千枝にありがとって、言っておいて。それとケガさせてごめんって、花村くんにもごめんって。それだけ」
 雪子はいますぐにでも炎に身を投じかねない。ダメだ、間に合わない! ペルソナを喚ぶか? 喚んでどうする? 仮にペルソナの制止が間に合ったとしても、おそらく雪子の死因が全身火傷から全身打撲に変わるだけだ。なんとかしなければならないのだ――悠ただひとりで!
「じゃあね、さよなら」
「まて、ゆっ、雪子!」と、悠は叫んだ。その声はなかば裏返っていた。「雪子、話がちがう!」
 先のように怖じ気づいて黙っていれば一生後悔する。なにか言うのだ、なにか、なんでもいい、矢がないなら弦を打て、支離滅裂でも荒唐無稽でもいい、なにか口に上せ! 悠は煙に分け入るようにして歩み寄った。おそらくは雪子が今しその身を焼こうとしているところへ。
「ここから連れ出せって言ったのは雪子のほうじゃないかっ!」悠は煙を避けてしゃがんで、いま出せる限りの声を振り絞って非難の声を上げた。「雪子は王子さまのものですって、一緒に出て行きましょうって確かに言ってたぞ! 忘れたなんて言わせない、言質とったんだ、ぜったい連れて出るぞ!」
 雪子の返事はない。
「あれだけ行こう行こうってひとをせっついておいて、いざそうしようってときにじゃあねさよならァ? あんまり勝手すぎる! 雪子はおれの言うことなんかどうでもいい? 自分の都合だけなのか!」
 雪子は黙ったままである。
「どこ行くつもりなんだ雪子、そっちはどこに続いてるんだ。や、いいよ、どこだっていいって言ってたもんな、じゃあついてくよ、もちろん、ふたりで行くんだから付き合うよ。連れ出すのはやめだ、やめやめ」ああ、ああ、おまえはいったいなにを言ってるんだ――悠は雪子に先んじて自殺したい気分になってきた。「搭乗口はそっち? パスポートは要らないよな、ならすぐにでも行ける、天国でも地獄でもサンフランシスコでもよろこんでお供するよ、手に手を取って着の身着のまま、たとえ火の中水の中。好きなところへ行けよ雪子、行きゃあいい、でもぜったいひとりじゃ行かせないぞ、意地でもついて行くからな!」
 煙の向こうからはなんの声も聞こえてこない。返答のない代わりにわが身を焼かれる苦悶の呻きもまたない。彼女はそうすることでどんな感想を抱いたにせよ、確かに悠の言葉に耳を傾けている、こちらへ注意を向けている。彼はひとしきり怒鳴り終えたあと少し息を継いで、
「……雪子、さっき、七年間ためらいつづけたって言ってたよね」
 ふたたび、今度は静かに語りかけた。雪子の返事はない。
「どうして七年間もためらうことができたか考えてくれ。七年間、自殺を考える雪子を引き留め続けたものがあったはずじゃないのか。それはただ死ぬのが怖かったから、臆病だったからってだけ? 雪子、天城雪子が閉じ込められてたっていう」
 ふと怪鳥の様子が気になって、悠は背後を振り返ってみた。彼女が神妙に聞いてくれていればきっと雪子の傾聴にも期待できよう――と、一瞥する彼の眼が驚愕に見開かれる。いったいいつの間に入ってきたのか、怪鳥のかたわらに忽然と千枝が立っているのである。彼女は悠をじっと見詰めながら、左手の人差し指を口許に擬して、右手でちょこちょこと払うような仕草をした。「静かに。いいから話をつづけて」とでも言いたいのだろうか。
「この城は……この城はほんとうに、ただ熱くて苦しいばかりの牢獄だった?」悠は一拍遅れでなんとか話を繋いだ。彼女はなにかしようとしているらしい。「そこには安らぎも満足感も、たった一度の笑い声さえなかった? もしこうなってしまうまえに、おれがこの城を前にしてひと言、ここは炎と涙ばかりのクソクラエな牢獄だってバカにしたとしたら、雪子はこう言っておれを非難したんじゃないか? なんてことを、って」
 さて千枝はなにをする気であろう。悠はふたたび背後を一瞥した。一瞥して先に倍して仰天した。怪鳥になにごとか言い含めていた千枝が突然、すでにほど近くまで侵食してきていた炎の壁へひょいと踏み込んだのだ。まさか雪子が逝くなら自分もと早まったか――などと声を上げることもできずに凍り付いていた彼だったが、
(あれ、燃えない……)
 炎に呑み込まれても千枝の身体は炎上しない。どころか、なんの支障もないように見える。無論そのはずだった。この千枝は痛めたはずの左腕を自由に使っている。止血帯に使ったはずのジャケットをブラウスの上に着込んでいる。眼鏡を着けていないその両の目は、炎の橙色にも負けず明るい金色に輝いている。彼女は千枝ではない、千枝のシャドウだった。
「雪子、この城が好きなんだろ? いや、少なくとも、好きになりたいんだろ?」果たして千枝のシャドウは炎と煙との中へと消えた。その行き先は推して知るべし、悠はそれまで雪子の注意を引きつけることを期待されているのだろう。「あの城の造作、あれって、雪子が好きなデザインなんじゃないか? どうでもいいものを、嫌いなだけのものをあんなふうに飾ったりするかな。雪子、天城屋が好きなんだろ?」
「……好きなものに、火をつけたりなんか、しないよ」と、煙の向こうから初めて応えが返ってきた。
「火をつけて初めて気付いたんだ、好きだったことに」よし、いいぞ、その調子!「雪子、陳腐で月並みな言葉だけど、そういうのって、失ってみて初めて、自分がどれだけそれを大事に思ってたかって、わかるんじゃないかな」
「…………」
「雪子、雪子を苦しめ続けたのはもちろん、ただそれを自分の手で焼いてしまったっていう、罪の意識だけってわけじゃないはずだ。里中に何度も聞いたよ、いつも旅館で遅くまで働いてるって。同級生は学校おわったらみんな遊びに行く話ばかりしてるのに、自分は学校休まされて休日まで潰されて、夜の十時まで残業させられるなんて、酷いよな。クソクラエって、そりゃ言いたくもなるよ。陽介もメチャクチャ怒ってたんだ、天城屋はブラックでとんでもない旅館だって。まるで奴隷あつかいだ、雪子があんまり可哀想だって。雪子の出席日数が足りなくなったら本気で直談判しに行くってアイツ息巻いてて……」
 背後の怪鳥が雪子の心中を代弁するかのように、小さく「ハナムラクンガ」と呟いた。
「陽介もジュネスで働いてるから、自分の境遇になぞらえることができるんだと思う。雪子、雪子は――」
 ふいに雪子の短い悲鳴と、それに続いて千枝のシャドウの「おっしゃあー! 雪子ゲットォー!」と気を吐く声とが聞こえた。これで一安心、もう雪子は安全だ。悠は長大息してその場に力なく座り込んだ。もはやこうなってはどれだけ彼女が暴れようとも、千枝のシャドウの膂力に抗しうるはずはなかった。悠と陽介とが全力でそうしてさえ微動だにしなかった鋼鉄の女である。
(千枝、よくやってくれた、助かった……!)
「千枝、なんで、だっ、だいじょうぶなの?」と、雪子の驚き呆れる声。
「そりゃこっちのセリフ……って言ってるヒマないか。雪子ほら、こっから連れ出すよ」と、千枝のシャドウの声。
「……千枝、わたし」
「雪子、さっきの聞いてたよ。死ぬべきだったとか、七年間ためらってたとか、なんかいろいろ」
 怪鳥が「チエ」と呟いた。
「あたし、ずっとあんたと一緒にいて、そんなのぜんぜん気付かなかった。うちらってもうつきあい十年くらいになるのにねえ」と、千枝のシャドウは明るく続ける。「あたし自分のコトばっかでさー、アホだからさー……ごめんね、気付いてやれんで」
 雪子が「千枝」と呟いた。
「あんたがさ、どーしても死にたいんなら、ここ出たあとさ、あたしが殴り殺してあげる」
「…………」
「そんでね、そのあとね、あたしも死ぬよ」彼女の声が潤む。「あたし、ひとりじゃぜんぜんダメ、雪子いないと、ぜんぜん、だからこんな、バカなことやめてよ、ねえ、雪子」
 かたや一週間前に転校してきたばかりの新参者、こなた年来の幼なじみ。同じ説得でも言葉も内容も重みがまるで違うのだろう。彼女らは悠が聞き取れないくらいの小声でなおも二、三、短く話し合ったあと、あっけなくも彼の目の前を通り過ぎて粛々と天城屋を出て行ってしまった。千枝のシャドウが雪子を「お姫さまだっこ」して、である。
(どっちが王子さまだよ……)
 なんだか声をかけるのもためらわれる雰囲気で、彼はただ黙って見送るよりほかなかった。正直、おいしいところを全部かっ攫われたような気がしないでもない。あれほどの一大決心も、蒸し焼き刑も、精出して説得に声を張り上げたのもその実、あまり雪子救出に資するところはなかったらしい。落胆もないではないが、
(失敗するよりはどれほどいいか知れない、とにかくこれで目的は達したんだ、よかったじゃないか悠)いまはなにより彼女が無事助かったことをこそ喜ぶべきだろう。悠はすっかり脱力して首を垂れた。(もう金でも芋でもどっちでもいいじゃないか、芋だって上等さ、金は食えないんだぞ……)
「悠くん」
 ふと、頭上から雪子の声が降ってきた。座り込む彼の目のさき数歩のところに、例の安っぽいデコルテを身に纏った雪子のシャドウが立っている。
「やあ、天城」
 悠は地べたに胡座をかいたまま彼女を見上げた。
「天城、よくもうひとりの自分を受け入れた。えらい」
 雪子のシャドウは悲しげに微笑んで、「ケガ、だいじょうぶ?」と訊いた。
「……外で雨に降られてなきゃ、焼け死んでたかも」と生乾きの袖を指さして、悠は力なく笑った。「陽介も里中も大ケガしてるし、まあ、おれだってどこか痛めて、仲間にならなきゃさ」
「ごめんなさい、悠くんにも、みんなにも、巻き込んじゃって。わたし――」
「帯くれたら許す。あ、もっと下に着けてるやつでもいい」
 雪子のシャドウは笑って、悠の膝を蹴るような仕草をした。
「……わたしもね、雨に降られてよかったって、思う。あの日」
「え?」
「そうでなきゃ悠くん、来てくれなかったでしょ?」彼女は例の公園での一件を言っているのだった。「あのときね、もう天気にも見放されたって、ぜんぜんいいことないなって、落ち込んで、ちょっと泣いてた。ひとりになりたいときとか、よく行くんだ、あそこ」
「今後はぜったいひとりになれないスポットになる。あのへんは悪質なストーカーがよく出るんだ、おれはよくわからないけど――」
 言いながら立ち上がろうとして、悠は果たさずに両手をついてしまった。天地がひっくり返ったかのような眩暈がする。先ほどまで意識の外へ追い出していた絶望的な疲労が、全身の傷の痛みが、乗物酔いのような気分の悪さと冷や汗とが声を揃えて「帰去来かえりなんいざ」を斉唱する。
「だいじょうぶ……じゃないよね、肩貸すから」
「いい、大丈夫」
「ぜんぜんだいじょうぶに見えないよ、もう喋らないで、とりあえず――」
「ホントに、話してたほうが……少し楽だから」言葉以外のものも出てきそうだけど。「それより天城、まだ話の途中だったけど」
「え?」
「天城、聞いて、さっきの続きだ」
 と言ったあと、悠は吐き気を紛らすためにしばらく深呼吸を繰り返していた。ふと先ほどより息苦しくないのに気付いて、顔を上げて辺りを見渡してみると、なんとあれほどに荒れ狂っていた炎がいつの間にかその勢いを失っている。燃え始めた時間から言っても建物の規模から言っても、この火は衰えるどころかますます燃え広がってしかるべきなのに、周囲にはもう彼を脅かすほどの炎も煙も見られなかった。ただ悠たちを遠巻きにして未だしぶとく建材の端々に留まっている小さな炎の、その合間あいまに黒々と炭化した地肌の覗いているのが散見されるだけである。
(下火になってる……これ、天城が?)雪子のシャドウになにかしたような気配はなかったが、(まあ、いいさ、少なくともこれで喋ってるうちに逃げ道を塞がれる心配だけはなくなった)
「天城は七年間、苦しんだ」と、悠はようやく口を開いた。「罪の意識と、愛したいものを憎んでしまう、背反、ストレス、習慣化した、常態化した労働への、反発、自己放棄を、滅私を強制されているような、理不尽、同級生への羨望、未来の希望の欠如、まだ、たぶんもっと色々あると思う、おれは天城のこと、ほとんど知らない、家のことも、家族のことも。いま言ったことだって、合ってるかどうかわからない。でもとにかく、天城を苦しめる要因はいろいろあった」
「…………」
「天城、天城は七年間、変わろうとしたんだ、そのためにいろいろな苦痛を蒙ったにせよ。それは罪の意識から来る以上に、天城屋を好きだったことに気付いたから、好きになろうとしたからだ。天城は天城屋のために、天城屋に合わせて形を変えようとした。そうじゃない? もしそうなら、天城、天城雪子の七年間は決して墓みがきなんかじゃなかった」
 雪子のシャドウは黙って悠を見下ろしている。
「天城は七年間、試した、天城屋に振り向いてもらえるように。それで、結局うまくいかなかったんだ。でも、そうするための才能がなかったとか、ぜんぜん努力が足りなかったとか、自分が悪かっただけだとか、もしそういうふうに考えてるんだったら、自殺を考え続けた原因がそういうところにあったんなら、正直ちょっと短絡的だと思う」雪子のシャドウが少しくムッとするのを、悠は笑って去なした。「七年間、がんばったんじゃないか、もうじゅうぶんだよ。七年間がんばって、実を結ばなかったんなら、それはきっと種を蒔いた場所がそもそも適さなかったんだ。そういう要因を農婦の努力不足に帰するのは間違ってる。すべての畑が果樹を育てるわけじゃない、なにを蒔いたってイバラしか生えない土地もある。そんなところで葡萄を探したって手が傷つくだけだ、葡萄酒の代わりに自分の血を舐めるだけだ。それなら、そろそろ種を蒔く場所を変える頃合いじゃない? 別の方法を試すときじゃないかな」
「……別の、方法って」
「ひとつは、逆に天城屋を天城に合わせること。もうひとつは、天城屋を諦めること、いや、天城のほうから振ってやること」額の汗を袖で拭いながら続けて、「天城、今度は天城のほうが要求する番だと思う。もし天城屋の看板を焼いてしまった罪の意識がそれを妨げるなら、考え方を変えなきゃ。そのつぐないを完遂するために、まず天城屋側に譲ってもらう必要があるんだから。百万円返済するために、まずは二十万円の元手が必要なんだって要求しなきゃ。まいにち働くのが難しいなら、たとえば週三日にしてもらうとか」
「はあ……」
「でもおれ個人としては、もうそんなものはとっくの昔に全額弁済してしまっていて、実は少なくない額が手元にありさえする状態なんだって、思ってる。天城は自由だし、仮にいっとき罪を得た人間であったんだとしても、今はとうに刑期を終えてるんだ。それなら大手を振って天城屋の暖簾を潜って、穏やかに対等に、好きな条件を呈示すべきだ。高校生活に専念したいならもちろん当然の権利としてそれを突きつけるべきだ。もし天城屋がノーって言うんなら、もうそんなやつはさっさと振るんだ。七年間ねばってやったのに、それでもハイって言わないようなヤツの気なんか引くことはない、手ひどく振ってしまえばいい。天城、振るのは得意中の得意だろ?」
「……でもわたし、行くとこなんか」
「天城は天城屋を見限るんであって、天城の家から出て行くわけじゃないだろ。ふつうの高校生がみんなそうしてるみたいに、ふつうにウチと学校を往復する、ふつうの生活を始めるんだ。それをダメだって言うんなら、もし働かないなら出て行けなんて言うんなら」悠は自分で話しながら自分の科白に憤り始めた。「おれと陽介が黙っちゃあいない。いや、たぶんおれたちよりさきに里中が暴れ始めるぞ。天城には頼れる友人がいるんだ、こんなになってまで天城を助けに来る、いい男がさ」
 最前から悠の話にじっと耳を傾ける、雪子のシャドウはいわく言いがたい面持ちである。どこか困ったような微笑、感謝と迷惑とが綯い交ぜになった表情、相手の機嫌を損ねずに引き下がってもらえるような、穏当な応えを探している気配――悠は心の赴くままにペラペラ喋っていた己をにわかに恥じた。
 もちろん、彼女にはそんな単純な話ではないのだろう。第三者には自明の理に思われても、当事者にはどうしてみようもない数々の事情がある。腫瘍があるなら切除すればよいなどとはどんな愚か者でも言えるのだ。皮肉を裂き血を流して歯を食いしばるのは畢竟、得意になって無料の忠言をたれ流す、自分のような人間でだけはないのだから。
「……ごめん、こんなのただの無責任な放言だ、事情を知らない人間だけしか、口にできない、こんなの」悠はたちまちしょげ返った。「でも天城、もうここまで来たら呑んでかからなきゃ。これいじょう天城ばかり自分を押し殺し続けるなんてあっちゃいけない」
 雪子のシャドウはウンと頷いた。
「天城、力になるよ。って言ったって、なにができるわけでもないけど……ほら、おれだって耳はついてる。話を聞くくらいならさ、おれや陽介や、もちろん里中だって――」
 つと言葉後を呑み込んで、悠は呆気にとられた。雪子のシャドウの身につけていたデコルテがいつの間にか、雪子の着ているものとまったく同じ、石竹色の和服へと変わっている。実にまばたきひとつする間の出来事である。
「……こっちのほうが似合う?」
 とはにかんで、雪子のシャドウが両の袖をパタパタと振って見せた。刹那の間に変わったのは彼女の服装だけではない、悠たちの周りに残っていた炎はいまや完全に鎮火している、おそらくは天城屋とポスギル城とを包んでいたものも含めて。雪子のシャドウの変貌と時を同じくした、というのはおそらく偶然ではあるまい、彼女のなにか、内的なよくないものをあの炎は象徴していた……とでもいうことになるのだろうか。
「これ、仕事のときしか着ないんだけど、じつを言うとちょっと気に入ってたりして」ちょっと恥を打ち明けるような調子で彼女は続ける。「洋服のほうが動きやすいし、好きだけど。着慣れてるからなのかな」
「おれは……どっちかというと……」
「さっきのほうがよかった?」
「なにも着てないのがいちばんいいけ――」悠は肩口をひっぱたかれてひっくり返った。「ウソウソ! ウソ、やっぱり裸より下着、下着は譲れない!」
(戻ったんだ。これでようやく、完全に)
 彼女はいまこそ天城雪子その人に戻ったのだ。悠はひっくり返ったままその場に大の字になって、しばらく雪子のシャドウと一緒に笑っていた。
(陽介、里中、クマ、見てくれ)と、悠は心の中で呟いた。(いろいろ犠牲を強いはしたけど、おれだってやれるだけのことをやれるだけはやったぞ!)
 彼は八十稲羽へ引っ越してきてより、初めて自らを誇らしく思った。まして幻滅に継ぐ幻滅のさなかのこの金星である。雪子の救出こそ千枝のシャドウに横取りされはしたものの、雪子のシャドウを雪子自身に回帰せしめた功は自らに誇ってもよかろう。これまでの失敗に引き比べてイーブンと言えるかどうかは微妙だけど、今だけは自分自身におまけしてやろうじゃないか――悠はわが自尊心の快復に安堵しかつ喜んだ。
「……ね、千枝たちが心配してるみたい。悠くん聞こえないと思うけど」
 と、ややあって雪子のシャドウがぽつんと言った。
「そろそろ戻ろ、悠くん」
「んん。天城、それ」
 と言って、悠は傍らに投げ出されたままになっていた天城屋の看板を指した。
「持って帰るんだろ? だいぶ焼けたみたいだけど、まだ修復――」
 彼の言い終える前に看板はとつぜん発火炎上し、たちまち炭の板へと変じてしまった。
「あ、天城……いいの?」
「いいの」暫時金色の光を放った瞳が、もとの潤いのある黒へと戻る。「もうあの看板は、ないの。ないから、こうなったの。こうなってよかったの、きっと」
「……そう」
 あとのことを考えればこれでよかったのかもしれない。仮にあのスタジオまで持ち帰ったとして、こちらのものをテレビの向う側に通せるとは限らないし、通せたら通せたでそれは厄介な話にもなろう。なかば焼けこげた巨大な看板を抱えてショッピングモールをうろつく、現在行方不明で警察の捜索対象たる女子高生、そしてめいめい大ケガして散々な態でその後ろをよろぼい歩く、不審きわまりない同級生たち――まずい、新たな懸念が浮上してきた。
(参ったぞ、この中から差し引けるのって看板だけじゃないか)この恰好のままジュネスへ戻ったら警官が何人飛びかかってくるか知れたものではない。(なんとかしなくっちゃな……考えるのめんどうだな……)
「悠くん立てる?」
「あ、うん、立てる」
 と、反射的に応えはしたものの、実際はいっそ笑えてしまうほどまったく四肢に力が入らない。ウンウン唸りながら寝返りをうつ真似をしているうちに、今度は眩暈と吐き気までぶり返してくる。
「悠くん?」
「……ウソ、ダメっぽい。立てない」
「だいじょうぶ? ケガ? ぐあい悪い?」
「ちょっと疲れただけ、だと思う。天城わるい、肩かしてもらえると」
「……わかった。ちょっとそのまま仰向けになってて」
 雪子のシャドウはそう言って、横たわる悠の傍らにしゃがみ込むと、彼の背中と膝裏とに腕を回してひょいと持ち上げた。先に千枝のシャドウがしていたような「お姫さまだっこ」の形である。
「ちょっ、ちょっと待って、天城いい、下ろして!」まさかこの状態で皆のところへ行く気では――悠は蒼白になった。「いいから! 自分で歩くから!」
「悠くん立てないって言ったでしょ?」雪子のシャドウは満面の笑みを浮かべている。「だいじょうぶだから。悠くんぜんぜん軽いよ、片手でも持てそう」
「待ってって――天城おこるぞ、いい加減にしないと」
 いい加減にするつもりはさらさらないようで、彼女は悠を抱え上げたまま踵を返して歩き出した。天城屋に大きく開いた穴を潜って、内庭で待つ陽介たちの許へ。
「やめろ! やめてくれって! なあ頼むよ、ちょっ……なんでこんなことするんだ! おれに怨みでもあるのか!」
「あるよォ、怨み」雪子のシャドウはにこにこしている。
「あってもなくてもいいから、ああもう、みんな見るだろ、早く……!」
「雪子って呼んでくれないんだもん」
「はあっ?」
 悠が必死になってその細腕の中でもがいても、雪子のシャドウは「おーよしよし、いーこいーこ」などとふざけて歯牙にもかけない。たとえ万全の状態にあってさえ彼女の鋼鉄の腕からは逃れ得まいに、まして精も根も尽き果てたいまの悠に尚のことそれができようはずもない。
(どっちがお姫さまだよ……!)
 果たして、あわれなガゼルはニシキヘビに絡め取られたまま晒し刑の辱めを受けたのだった。せめて陽介だけは気を失ったままであれかしと願っても、すでにシャドウどもが去って時間が経つのか、彼ははや花村流から回復している。ふたりの千枝の傍らで地べたに脚を投げ出して、陽介はその満面にニヤニヤ笑いを貼り付けて悠を迎えた。もちろん千枝たちもニヤニヤ笑っている。雪子が口を覆って目を背けているのはきっとニヤニヤ笑いを隠すためだ。もし表情が作れたならその隣に立っているクマも絶対ニヤニヤ笑っているに違いない。ようやく修復し終えたと思っていたものを――悠はふたたび自尊心に亀裂が入るのを感じた。



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