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No.35651の一覧
[0] PERSONA4 THE TRANSLATION(ペルソナ4再構成)[些事風](2014/11/03 16:25)
[1] 序章 PERSONA FERREA[些事風](2014/11/03 16:25)
[2] 一章 REM TALEM MINIME COGITO[些事風](2012/10/27 23:54)
[3] 国を去り家を離れて白雲を見る[些事風](2012/10/27 23:57)
[4] マヨナカテレビって知ってる?[些事風](2012/10/28 00:00)
[5] ピエルナデボラシーボラ![些事風](2012/10/28 00:03)
[6] 出れそうなトコ、ない? ひょっとして[些事風](2012/10/28 00:07)
[8] 死体が載ってた……っぽい[些事風](2012/10/28 00:27)
[9] ペルソナなんぞない[些事風](2013/03/05 00:17)
[10] でも可能性あるだろ?[些事風](2012/10/28 00:34)
[11] バカにつける薬[些事風](2012/10/28 00:36)
[12] シャドウじゃなさそうクマ[些事風](2012/10/28 00:41)
[13] 吾、は、汝[些事風](2012/10/28 00:46)
[14] 俺はお前だ。ぜんぶ知ってる[些事風](2012/10/28 00:53)
[15] ノープランってわけだ[些事風](2012/10/28 00:56)
[16] 旅は始まっております[些事風](2012/10/28 01:05)
[19] 二章 NULLUS VALUS HABEO[些事風](2014/11/03 16:26)
[20] あたしも行く[些事風](2013/01/15 10:26)
[21] それ、ウソでしょ[些事風](2013/03/05 21:51)
[22] 映像倫理完っ全ムシ![些事風](2013/05/12 23:51)
[23] 命名、ポスギル城[些事風](2013/05/12 23:56)
[24] あたしは影か[些事風](2013/06/23 11:12)
[25] シャドウ里中だから、シャドナカ?[些事風](2013/07/24 00:02)
[26] 脱がしてみればはっきりすんだろ[些事風](2013/10/07 10:58)
[27] 鳴上くんて結構めんどくさいひと?[些事風](2013/10/14 17:36)
[28] セクハラクマー[些事風](2013/12/01 15:10)
[30] アギィーッ![些事風](2014/01/31 21:58)
[31] かかってこい、あたしが相手だ![些事風](2014/03/04 21:58)
[32] クソクラエ[些事風](2014/04/16 20:30)
[33] あなたは、わたしだね[些事風](2014/06/15 15:36)
[34] とくに言動が十八禁[些事風](2014/07/26 21:59)
[35] コードレスサイクロンユキコ[些事風](2014/09/13 19:52)
[36] 自称特別捜査隊カッコ笑い[些事風](2014/09/24 19:31)
[37] ッス[些事風](2014/11/03 16:29)
[38] oneirus_0d01[些事風](2014/12/14 18:47)
[39] 三章 QUID EST VIRILITAS?[些事風](2015/03/01 16:16)
[40] ええお控えなすって[些事風](2015/05/17 00:33)
[41] キュアムーミンだっけ[些事風](2015/10/18 13:01)
[42] おれ、弱くなった[些事風](2015/11/20 10:00)
[43] 中東かっ[些事風](2016/03/02 00:50)
[44] バカおやじだよ俺ァ[些事風](2016/05/15 16:02)
[45] ここがしもねた?[些事風](2016/08/16 15:11)
[46] 腕時計でしょうね[些事風](2016/11/15 13:03)
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[35651] 映像倫理完っ全ムシ!
Name: 些事風◆8507efb8 ID:921255cf 前を表示する / 次を表示する
Date: 2013/05/12 23:51


 寝耳に足音を聞いたような気がして、悠は小心たらしくそろそろと身体を起こした。
 寝惚け眼を背後に放つ。なにもいない。そうしているあいだにも、廊下の深く軋る音が遠ざかっていって、次いでそっと蝶番が鳴いた。もちろん部屋の外でのことだ。遼太郎が寝に上がってきたか、それとも用足しに降りた帰りの物音か、ともかくも彼はそれを自分の背後に聞いたように思ったのだった。
(三人の時とひとりの時じゃ、ずいぶん違うんだな、おまえ)
 机の上に投げ出してあったメモヴォクスが、微かな律動音を響かせている。十一時四十八分――危うく寝過ごすところだったらしい。
 悠は寝起きのものうさに、初めてあの世界に入ったときのことを思い出していた。あるいはうたた寝の夢に見ていたのかも知れない。彼は見知らぬ世界で怯えるクラスメイトを励ましながら、背後の足音を雄々しく聞きつけるのである。今ほど袖で拭ったイヤな汗も、確かかいていなかったはずだが。
 悠はひとつ伸びをした。右手に張り付いていたルーズリーフが腕と一緒に持ち上がって、ふたたび机に落ちた。あと数時間は眠気も兆すまい、マヨナカテレビのチェックを終えたあとは、これの清書でもするのがよかろうか。
 皺んだルーズリーフには「ペルソナについて」とある。





 ・ペルソナについて


 ・体長四メートルくらいの人型のなにか。テレビの中にいる時に喚べる? なれる? もうひとりの自分らしい。

 ・悠のものと陽介のものとで見た目や機能は違う。個々人によって違う? 

 ・悠のものは裾の長い、カラーの高い、長ランのような陣羽織のような黒い服を着けている。分厚く硬いごわごわした化学繊維みたいな手触り。白いハチマキ? 冑、仮面、籠手、臑当、鉄靴のような防具あり。ナイフと長巻の合の子みたいな、矛のような長い武器を持っている。鉄っぽいつるつるした金属。なぜ武装している? 肩に菊花紋のような印章があった。なぜ菊花紋?

 ・陽介のものは変なツナギを着ている。赤いマフラー? マント? 胸に金色のV字の飾りがついている。派手。冑と仮面は意匠は違うが着けている。全身が硬いゴムみたいな手触りで、中になにか金属みたいな地が入っているような感じ。直径五十~六十センチくらいもある手裏剣みたいな武器を両手に持っている。なんで手裏剣? 投げたあと軌道を変えたり戻したりできるらしい。陽介は浮いたりできるらしい。

 ・ペルソナの姿はイメージ依存? しかし菊花紋やら矛やらをことさら意識したことはない。陽介のほうでも同様。陽介はなんでこんなダサい恰好なのかと気にしていた。

 ・ペルソナは「出し方」がいくつかある? 悠が最初に経験したのは、悠自身とペルソナが両方とも「目覚めている」状態で、制御がとてつもなく難しい。陽介が自己流で出したのはペルソナだけが目覚めていて、陽介本人は昏睡状態だった。お互いがお互いのやり方を試して、両方とも成功している。まだ「出し方」はあるかも知れない。便宜上前者を「鳴上流」後者を「花村流」とする。 

 ・鳴上流は操作が難しい。一つの脳で二つの身体を同時に動かすような感じ。見るもの聞くもの感じるもの全て二つに増えるので、こんがらがって非常に混乱する。ストレスが酷くうんざりする。片方だけに専念しようにももう片方が足かせになる。両方動かそうものならそろって転ぶのが関の山で、現時点ではせいぜい一緒に歩くくらいが精一杯。とにかく慣れて練習するしかない。ペルソナを消す方法は簡単で、たんに集中を切らせばいい。慣れれば喚ぶのも還すのも即座にできる。

 ・花村流はかなり特殊だった。陽介の言うとおり「ペルソナに変身する」ような感じで、まさに別の生き物になる体験。人間の言葉(言葉?)がわからなかったり、音(音?)が凄くよく聞こえたり、表現しづらいが人間のときと違うようにものが見える(本当に目があって、それで見ている?)フシがある。人間としての五感がペルソナの五感と同じなのかはっきり言ってよくわからない。そもそも人間で言う五感などないのかもしれないし、あったとして五感以上の感覚があるのかもしれない。陽介は浮く時そんなようなことを言っていた。人間のときと変わらず動けるばかりか、その運動能力や反射神経は人間のそれをはるかに凌ぐ。おまけに壮快、痛快、とにかくとてつもなく気分がいい。人間の身体が酷くちっぽけで下らない存在に思えてくる。

 ・ペルソナをシャドウから身を守る為に使う場合、花村流は手軽だが危険を伴う可能性がある。鳴上流にはない著しい多幸感、効力感、全能感があり、冷静でいるのが難しい。力加減が難しい。脳内麻薬が常時垂れ流しになっているといった感じ。感情の振幅も桁外れになる。身体に悪いかもしれない。ペルソナを消した後はどうしてもすぐに起きることができない。強烈な倦怠感と頭の痺れ、鳴上流から免れていたストレスを一括返済させられるような酷い寝覚め。ペルソナから戻る方法はちょっと特殊で、何度かふたりで試した結果、どうもペルソナに「失望」することがスイッチになっているらしい。具体的には人間に戻れなかったときのことをつぶさに考えて「テンパる」必要がある。前述の脳内麻薬のせいでこれも難しいが、戻るだけならとりあえずより手軽な方法が見つかっている。

 ・鳴上流、花村流を問わず、ペルソナは生身の身体からある程度離れると消えてしまうらしい。これは悠と陽介とで距離の違いがあった。詳しく測る必要あり。ただし花村流でこれをやったところ強制的に目覚めてしまい、かつその寝覚めは最低最悪のものになった。陽介いわく「神になる夢から覚めたクソ」。よほどのことがない限り花村流ではしないほうがいいようだ。



 

 ペルソナについて陽介とともにいろいろ調べたことを、思いつくまま箇条書きにしたものである。
(もしひとりで調べようとしてたら、もっとかかってたんだろうな、きっと)
 こんな紙一枚に収まる程度のことを調べ上げるだけでも、客観視の難しい自分ひとりではなかなか捗が行かなかったことだろう。自分と同じような疑問を温めている人間がもうひとりいるというのは、実際かなり助けになるものだった。
 陽介は決して論理的というのではなかったが、悠の思考の隙を埋める直感と、なにごともなあなあにできない彼を去なして、現時点では解決の見込みのなさそうな問題をどんどん保留してしまえる鷹揚さを持っていた。おそらく相性のよい組み合わせなのだろう、これが悠に似たタイプの人間であれば言い合いになるか、ひとつの発見や躓きにかかずらって果てしなく時間を浪費するか、いずれにせよこのルーズリーフはもっと控えめなサイズになっていたに違いない。
 そしてなにより、陽介と同じ方向を向いて、共通の問題を力を合わせて解決するということの、なんという充実感であっただろう。だれの力も借りずに独力で練り上げるという、あの味わうことにさえ一種独特の努力を要する乾物の滋味とはまったく違う、それは舌の上で速やかに融ける乳脂の甘味にも似ているのだった。悠にとってはこれこそが陽介の言うところの「モチベ維持すんのに必要」な要因なのかもしれない。
 十一時五十八分。
 悠は席を立って窓の外を覗った。少し風があるようで、サッシの折々こまかく震えるたびに、音のない春雨が霧吹きで吹き付けるようにして窓ガラスを濡らす。もしこんな夜に外出するはめになったら、傘などさしたところで大して役に立つまい。
(さあ、なにが映るか)
 壁掛け時計の短針が十二時を指した。ほどなく、電源の死んでいるはずのテレビがひとりでに点灯する。
 悠は息を呑んだ。
「そんな――」
 あにはからんや、ブラウン管に映し出されたのは雪子であった。
「こ、ん、ば、ん、はー! きょうはわたしィ、天城雪子がァ――!」
 驚く暇もない。悠は獣じみた瞬発力でテーブルのリモコンに躍りかかった。そのまま狂ったように「音量-」を連打する。マヨナカテレビの吐き出したのは窓ガラスを吹き飛ばしかねないほどの大音量である。
「あん音声さん絞って絞って! 音大きすぎー!」雪子は媚態もあらわにケラケラ笑っている。「やり直し? やり直しですか? はーい!」
(なんなんだコレは……!)
「こーんばーんはー!」
 ふたたび雪子の挨拶。今度はふつうの音量だが、もちろん悠の努力を反映したものではない。電源の落ちているテレビにリモコンは無力である。とうぜん本体のスイッチ類も機能していないのだろう。
(叔父さんにも聞こえたよな、今の。見に来るかな……)
 今し胸を突き破って出てこようとする心臓を押さえつけながら、悠はテレビと部屋の戸とを代わるがわる覗っていた。こういうとき消せないテレビというやつは厄介このうえない。
(まして絵が絵だ、なんだってこんな恰好を)
 まさかこのいでたちも彼女の言うところの「仕事のとき着るだけ」の衣装なのだろうか? テレビの中の雪子は以前に見た和装とは相容れない、薔薇のコサージュを鏤めたピンク色のローブ・デコルテを着けていた。それもディズニーアニメの古典的ヒロインが着ていそうな、大仰なパニエの入ったやつである。
「えっとォ、きょうはわたし、天城雪子がナンパ、逆ナンに挑戦してみたいと思いまーす! ナンパってェ、わたしやったことないんですけど――え? ナンパと逆ナンって違うんですかァ? やあんカンペ出ちゃってます」
(これが天城?)
 手に持ったマイクに口づけして、片眼を瞑って、小指を立てて、雪子は鼻にかかった悩ましい声でまくし立てる。もはや別人の態である。先日の公園で見られた大人びたゆかしさなどは微塵も覗えない。
「題して、やらせナシ! とつげき逆ナン! 雪子姫の白馬の王子サマ探しィ! もチョー本気ィ、ごらんの皆様ァ、今のうちに部屋にカギかけて、ヘッドホン準備してネ? いろんなモノとか声とか出ちゃうかも……!」
 悠は遼太郎の安眠を神に祈り始めた。
「映像倫理完っ全ムシ! モザイクなんて甘い甘い、放送事故大歓迎! 伝説つくっちゃうぞォ!」画面が雪子の股間にズームアップする。彼女は胸の谷間を強調する。「今日は見えないトコまで勝負仕様ハアト、みたいなネ?」
 悠は遼太郎の快眠を悪魔に祈り始めた。
「もーわたし専用のホストクラブをブッ建てるくらいの意気込みでェ、じゃあ、行ってきまあす!」
 手を振りふり駆けてゆく雪子を追って、画面がゆっくりとパンする。フレームの外から現れたのは洋風の、宮殿のような豪壮な建物である。彼女はカメラを置き去りにしたまま、薄黄色い靄の向こう、ちょっと生き物の口めいて開け放たれた、その宮殿の門扉に吸い込まれていった。
 誰もいなくなった画面の右下に「スタジオ騒然! CMの後、雪子姫まさかの×××……!」とのスーパーがフェードイン。恐ろしい余韻とともに画面はゆっくりと暗転していく。
「…………」
 テレビの明かりが落ちた。手から滑り落ちたリモコンが足の甲に当たった。悠は跳び上がって我に返った。
(自失してる場合じゃない、天城だ、天城が映った、確かに!)マヨナカテレビがこれほどはっきり見えたのは初めてである。(これは、どっちだ? 当たりか、外れか……!)
 まずは確認しなければ――反射的に携帯を引っ掴んではみたものの、とうぜん雪子の番号はわからない。とりあえず陽介に連絡しようと番号をコールする。が、こんな時間に電話中なのか、むなしくビジートーンが耳を打つだけである。三度くり返して三度プー音に迎えられた悠は思わず、携帯のスピーカーに向かって「あのバカ!」と毒づいた。
「なにやってる……零時過ぎだぞ、誰に電話なんか」
 誰に? そうだ、もちろん決まってる! マヨナカテレビのあと――まして内容は雪子の痴態である――すぐに陽介と話す必要を思いつくとすれば、それは例の事情を知っている人間くらいだろう。いま彼と話しているのは千枝に違いない。
(里中は天城の番号を知ってる。たぶん先にそっちにかけて、応答がなかったかしたんだろう。あるいは天城の家にかけたか、いや、むしろ先方から連絡があったのかもしれない。里中は天城と付き合いが長いはず)悠は部屋の中を熊よろしくウロウロ歩き回った。(もし天城がいなくなっているとしたら、とうぜん天城の家族は行方を――)
 悠はウロウロをやめて凍り付いた。夕食のときの電話! 遼太郎にかかってきたあの電話、あれの内容は? なぜ叔父は悠を憚って外に出た? あれが雪子失踪を告げるものであったとしたら……
 手の中で開きっぱなしになっていた携帯が卒然と鳴いた。コール音の半ばも終えないうちに悠は受信ボタンを押した。無論、相手は知れきっている。
『ゆ――』
「里中になにを話した」
 だしぬけにこう問われて、陽介はちょっと閉口したようだった。
『え、いや、そう、いま里中から――』
「知ってる」
『えっと、あいつ天城んちに――』
「天城は行方不明、だろ」
『おま、なんで――』
「おれと、おまえは、今すぐジュネスへ行く。ここまではいいか」
『……いいよ、つか、そのつもりで電話したし』
「それで、なにを話した。まさか里中にそのことを――」
『話さん話さん、わかってる。里中にはあした朝イチでジュネスに集まろうって言ってある、三人で』
「それで納得したのか」
『するわけねーよ、朝まで放っとくなんてできるわけねーだろってさんざん言われたし。とりあえずお前に電話するからって言って切ったけど……ところで』陽介の声が低くなった。『もちろん、見たんだよな、アレ』
「んん、見た」
『つまりさ、アレって、天城……ってことなんだよな。つか名乗ってたよな』
「名乗ってた」
『なんなんだありゃ、なんかバラエティ番組っつか、深夜番組みたいなノリっつか……今までのもあんなカンジだったのか?』
「あそこまで派手なら多分、とっくに話題になってるだろう」
『派手っつか、なんかやたらクネクネしてて、天城らしくなかったよな。あ、それとも隠してただけで、もともとああいう性格だったってオチ?』
「里中はなにか言ってなかった?」
『いや、俺らと似たり寄ったり。つかテンパってた』
 であれば、アレは年来の友人にすら見せたことのない裏の顔、ということなのだろうか。
(それにしたって奇妙だ。仮に裏の顔なんてものがあったとしても、よりにもよってどうしてこんなタイミングで? 誘拐されるなんていう異常事態のあとで、どうしてあんな姿をさらけ出そうとする)
 とくに怯えた様子もなく、強制されているようなそぶりも見えなかったばかりか、はしゃいでいるようにさえ感じられたのだ。顔や声の特徴が一致して、自ら名乗っていたとしても、あれが雪子であるなどとはとうてい信じられない。
『……あのさ、悠』
「なに――いや、待った、待て」
 マヨナカテレビを見ていたときに覚えた動悸がふたたび戻ってくる。陽介のどこかしら不穏な声音が、おそらく彼の感づいたのであろう、ある可能性を先んじて悠に教えた。
『ひょっとして受信した? 俺の考えてること』
「した。つまりアレは」
『シャドウなんじゃねーかな……って、思ったんだけど。いや、シャドウだからああなんだとは言えねーけどさ』
 もしアレがシャドウだとしたら――携帯を握る手が汗ばむ。今から全速力で駆けつけたとしても間に合わないかもしれない。それどころか最悪、もう全てが終わっていて、今ごろ雪子はこの町のどこかの、電柱かなにかにぶら下がっているかもしれないのだ。早紀は二度映ったあと、明けた朝に死体となって見つかった。雪子もまた二度映った。
(待て、この結論は早計だ。霧だ、ほんとうに危険なのは、シャドウが出るのは向こうの世界から霧が晴れたときだ、小西先輩のときはそう――)右手の中で携帯が軋む。(――そうだマヨナカテレビ! 思い出せ、たしか映ってたぞ、黄色い霧が! まだだ、小西先輩のときとは状況が違う、まだ希望はある)
 はずである、おそらく。もっともそうなるとあの雪子とは似ても似付かない「雪子姫」の存在について、説明らしい説明はつかなくなるのだが。
「……陽介、この時間でもジュネスには入れるんだな」そのつもりで電話したと言うのだ、アテはあるのだろう。「方法があるんだな? ないなら忍び込むしかなくなる」
『簡単に言うよなァ、お前』陽介のため息が聞こえる。『とりあえず、入れることは入れる、うちにカギあっから。ただ中はいったあともたつくかもしれんけど』
「里中はどうする。番号おしえてくれればおれが話すけど」
『いや、やめたほうがいい。あいつなんかもう、ほとんど聞く耳もたなくなってっからさ。俺が適当に言っとく』
「じゃあそっちは任せる。とにかく言いくるめて、今夜だけでいい、諦めさせるんだ。あんまり時間ないぞ」
『お前は寝てて電話に出なかった。それでいいだろ?』
「終わったらすぐジュネスへ。おれはどこへ行けばいい」
『裏に従業員用の通用口があんだけど、搬入口の脇に――いや、いいや、フツーに入口の前にいてくれ。迎えに行く』
「わかった。急げよ」
『了解。ちっといいもん持ってくから』
 悠が「いいものって?」と言い終える前に、陽介は電話を切ってしまった。これからしなければならないことを円滑にしうるようななにかを、彼が用意できるとはとうてい思われないのだが。
 窓の微かに顫動する音が聞こえる。外は相変わらずの天気である。
(この雨風じゃ傘は使い物にならない。レインコートは……持ってない)そして探す時間もない。(仕方ない、もう一回フロ入るしかないな、服きたまま)
 大急ぎで着替えて部屋を出るさに、悠は思い立って段ボール箱からハンディライトを漁ってきた。夜間の外歩きに使うというより、テレビの中での用心に、である。道中には暗いところもあるかもしれない、こんなものでもないよりはマシであろう。
(大丈夫だ、おれはやれる、陽介のときはひとりだった)
 バッテリーのチェックを兼ねてライトを点けてみる。電気を消した室内を白いスポットが這い回る。今夜、自分は無事に雪子を救出しおおせて、ここへ戻ってくることができるだろうか。
 それともこの無謀な試みの代償を払わされたあげく、遼太郎に甥とその級友ふたりの亡骸を検分するという苦痛を強いるはめになるのだろうか。
(大丈夫だ、今度はふたりだ、必ずうまくいく。陽介とふたりなんだ)
 それも全ては間に合えば、の話ではあるが。





 家を出て五分も経たないうちに、知らない番号から電話がかかってきた。
(陽介、じゃないよな。誰だこんな時間に――)
 いや、ダメだ! 陽介が電話でなにか言ってはいなかったか! 反射的に受信ボタンを押そうとするのを、悠は際どいところで思い留まった。
 この着信はほぼ間違いなく千枝のものだ。もちろん陽介は予告していたとおり「あいつ寝てるみたいで電話に出ない」とでも言ったに違いない。そうと言われて千枝が引き下がるだろうか? それなら自分がかけるから番号を教えろ――彼女の返事はおおかたこんなところだろう。
(くそ、なんてトラップだ……危うく取るところだった)
 が、それは別にいい、無視すればよい話である。
 電話は執拗を極めた。初めは十数秒ほどを五、六度、間隔を開けてコールする程度であったが、それ以降はずっと鳴りっぱなしになった。あまりやかましいのでマナーモードにしたものの、今も携帯はポケットの中で千枝の執念を宿してぶるぶる震えている。携帯を耳に押し当てたままその辺りを行きつ戻りつする、苛立たしげな彼女の姿が目に浮かぶようである。
 が、ここまではいい、無視すればよい話である。
 問題はジュネスの入口の前に「携帯を耳に押し当てたままその辺りを行きつ戻りつする、苛立たしげな」千枝が実際にいたことであった。
(陽介が喋った、わけじゃないな)
 悠はため息をついて、自身と彼女とを隔てる道路に面した、コンクリート塀の暗がりにしゃがみ込んだ。そこからはジュネスの正面に配された街灯の間を行き来する、気を病んだ犬みたいな千枝の姿がよく眺められる。
(いま、こっち見たよな)
 ふと、目深にしたレインコートのフードを透いて、彼女の不穏な双眸がこちらを捉えたような気がする。深夜の町に灯りは乏しい。ジュネスの前にいくつか街灯のあるのを除けば、信号の赤色灯が不気味に点滅しているくらいだ。千枝の位置からこちらの姿は見えないはずだが……
(まいったな、陽介に電話しようにもこれじゃ……)
 カエルよろしく身を屈めたまま、十分も過ぎただろうか。悠は少しく震えを覚えた。とうに全身ずぶ濡れである。
 家を出たときに比べて風は弱くなってきたが、雨は依然として止まない。千枝といえば店の庇に寄ることすら考えつかないようで、いっこうに諦める様子は――もちろん彼女は「獲物」を待ち伏せているのだ――ない。このままでは陽介とはち合わせる危険があるが、携帯が繋がりっぱなしである以上、それを報せるすべもない。
(それにしてもカンがいいな、いや、それだけ必死なのか)ポケットの携帯はいまだにぶんぶん唸っている。(小西先輩が死んだときの陽介と同じだ。自分にできること、すべきことは考慮の外で、自分が関わることだけ考えてる)
 さてどうしたものか、いっそ電話に出てみようかと思案していると、千枝がにわかになにか見つけた様子で、街灯の下から駆け出て行った。脱兎のごとく、というより、獲物を見つけたヒョウの迅さである。
(……で、彼女はうまくご馳走にありつけたってわけだ)
 果たして、街灯の下に戻ってきたのは千枝と、彼女に腕を掴まれて引き摺られんばかりの陽介であった。のど笛に食いつかれて無念をかこつインパラさながらである。
 じきポケットの携帯が静かになった。と、思う間もなくふたたび震え始める。予想通りだ、インパラはガゼルに助けを求める腹積もりらしい。
「……もしもし」
『あー、悪い、ホント。なんか里中が――』街灯の下でヒョウがインパラの携帯を奪うのが見える。『――鳴上くん? いまどこ!』
「サバンナ」
『はあっ? バカ言ってないで早くジュネス来て! ずっと電話ムシしてんの知ってんだからね!』
 こうなってはもう仕方がない。悠は暗がりから出ると、諸手を挙げて降参をアピールしながら横断歩道を渡った。
「悠、悪い」と言って、陽介がレインコートのフードを上げた。
「おまえのせいじゃないだろ」
 街灯の下に晒された彼の顔は少し腫れている。
「……陽介、冷麺、奢りでいいから」
「あ、マジ? 悪いな」
「ちょっと、あたしになにか言うことないの?」千枝が険を見せた。
「二分のぶんはハンバーグ? ステーキ?」
「あのさ、マジでさ、こういうとき冗談やめてって」千枝は怒っているようにも笑っているようにも見える。「ウソついたんでしょ! ウソ! あんたら!」
「ついたよ。悪かった。なんならヨコヅナハンバーグ二人前で――」
「ふざけんなっ!」
 千枝が声をひっくり返して怒鳴った。彼女の最前から小刻みに震えるのは寒さのためではあるまい。かといって怒りというのも違う、彼女は追い詰められているように見えた。
 どうやらヒョウの足音を聞きつけたのは陽介ではなかったらしい。
「悠、俺から話すか?」と、陽介が割り込んだ。「なんか……デジャヴっての? お前に話させとくと余計ひどくなるような気がすんだけど」
「いい、おれから話す――里中、言うことはないかって言うんなら、じゃあ言うけど」
「帰れってんでしょ? 帰らないからね」
「違う。里中が来たとして、なんの役に立つのかって、言いたかったんだ」
 千枝は返答に詰まって沈黙した。
「里中、向こうの世界には命に関わる危険がある。その危険と天秤のつり合いを取るために、反対側の皿に載せるなにかが必要になる。里中はなにを持ってる」
「……鳴上くんは持ってるっての?」
「持ってる。陽介も持ってる。里中は?」
「なんで花村が持ってんの?」
「里中は?」
「なんでって訊いてんの!」
「こっちが先に訊いたんだから、先に答えて。里中は?」
「…………」
「里中は?」
「……雪子、死んじゃうかもしれないんだよ」
「里中は?」
「しつこい! あたしぜったい行くから!」
「里中、その論証は真ん中が欠けてる」悠は静かに指摘した。「天城が死に瀕している。だから里中が助けに行く――この間に入らなきゃいけない文句をさっきから訊いてるんだ。里中はテレビの中に入れられた天城を助けるために、なにができる。なにができるから、里中が助けに行くっていう答えが導き出される。答えて」
「……なにかできる、ぜったい」千枝は泣き出した。「ぜっだい、でぎる、雪子のためなら」
「里中、家に帰って、無事を祈って欲しい。天城と、もしできたらおれたちの」優しく続けて、「天城はおれたちが必ず助け出すから」
 千枝は応えずに、その場にしゃがみ込んで嗚咽を漏らし始めた。ひとしきり涙を流して冷静を取り戻せば、性のよい彼女のことだ、きっと自分の赤心を理解してくれるだろう――などと思っていたのは悠の見当違いもいいところで、ふいに彼女は立ち上がると、
「連れてってくれないなら!」
 ジュネスの入口に寄って、重厚なガラス扉に肘を押し当てた。
「これ、割る。警報ならす。大さわぎして警備のひと呼ぶ」
 あまりの物言いに悠も陽介も呆気にとられて、思わずお互いの顔を見合わせた。まさかこんな破れかぶれの挙に及ぶとは思ってもみなかった。
「どーする? ホントにやるよ」
「ちょっと待ってくれ……里中はいま自分がどれだけ無茶苦茶なこと言ってるか」
「わかってるよ。わかってないのはそっち。どーすんの!」
 こんなふうに言われれば、悠とて引き下がるわけにはいかない。なにより理非を違えているのは向こうなのだ! 彼はありていに言って「アタマ」にきた。
「……それをやったら、天城を助けられなくなるかもしれないんだぞ。少なくともかなり時間をロスする。それが里中の望みなのか」
「あたしだってこんなことしたくない、望んでんのはそっちでしょ!」
「おれの望みは天城を助けることだ。里中は違うのか。里中はいま自分が望んでるその誰にも望まれないバカげた試みで、天城を死に追いやってるんだぞ!」
「意味わかんない! 割るよ、割ってほしいんなら割るからね!」
「いま自分がナイフを宛がってる首がいったい誰のものなのかわかってるのか! 里中は人質の命を助けるために当の人質の命を脅迫材料にしてるんだぞ!」 
「うるさいうるさい!」
「里中は天城が大事なんじゃなくて、天城が大事な自分が大事なのか! 本末転倒だ、離れがたさに病気の愛犬を医者に診せないで死なせるようなもんだ!」
「うっさいバカ! バーカ!」
「バッ……よし、じゃあ、やればいい!」
 この悠の放言に、今まで黙って静観していた陽介が「ちょっ、おま……!」と慌て始めた。
「やればいい。その細腕でどうやってそんな分厚いガラス割るのか見せてくれよ」
「できないと思ってんでしょ、こんなの簡単に割れるんだからね」
「ちょっと待てっておい、ふたりとも!」陽介が割り込んでくる。「落ち着けって。つかマジで思ってたみたいになったな……」
「だから、割ればいい。そうしてそれがどれだけ凄いことか警察に自慢すればいい。おれたちはテレビの中に避難する」
「マジでやるがらね……あんだがやらへるんだがらね……!」千枝はふたたび泣き始めた。
「準備は終わった? ずいぶん時間が――」
 言いかけて、悠はふと言葉後を呑み込んだ。ずっと握っていた携帯がにわかに震え始めたのである。
(誰だ、こんな時間に)
 携帯を開いてみると、液晶画面には「花村 陽介」からの着信とある。
「…………」
「悠、出ねーの? デンワ来てるみたいだけど」携帯を耳に当てながら陽介が言った。「たぶん知り合いだぜ」
「……もしもし」
 着信ボタンを押して応答するなり、返ってきたのは「いじめっ子」との笑い混じりの声だった。
「いじめっ子って……」
『悠、選手交代、あとは俺がやっからさ。今ガラスとか割られちゃ困るんだ』
「ガラスの一枚や十枚がなんだ。天城や里中の無事のほうが重要だろう」
『まあまあ、とりあえずさ、アタマ冷やせって……なんかお前に向かってこういうこと言うのって、けっこう気分いいな』
「あのな、いま大事な――」
「里中、いいよ、お前も来てもさ」陽介は皆まで聞かずに電話を切った。「ただしひとつだけ条件がある。聞けるか」
「……なによ」
「俺たちはいま譲ったろ、ついてきてもいいってさ。だから今度は里中が譲る番だ」
 千枝は用心しいしい、ようやく腕を下ろした。
「里中は一緒に来てもいい。ただし、あのクマのいたスタジオまでだ」
「そんなの意味――!」
「あのスタジオまでだ。それがイヤなら、俺たちはウチに帰る」
「おい陽介――」
「悠は俺の言うこと聞くぜ、どのみちひとりじゃ心許ないんだ。お前があくまで強情はる気なら、今日はウチ帰って寝て、明日……つか、今日になんのか、とにかく夜が明けんの待って、日中に改めて入る。ちょうど日曜だしな」
 千枝は唇を噛んで陽介を睨み始めた。
「陽介、たとえ里中を脅すハッタリだとしても――」悠は陽介に歩み寄って、低い声で囁いた。「そんな言葉遊びに付き合ってる時間はない。いま動かなきゃまずいんだ、里中はもういい、放っといて行こう」
「ほっとけねーって。ここで大暴れされたら元も子もねーんだよ」
「最悪は無視してテレビまで走れば済むことだろう、あの中に入ってさえしまえば誰も追って来られない。カギ持ってるんだろ」
「あのな鳴上くん、そこらのちっちゃい個人商店ならともかく、ここって結構でかいデパートなんですよ」陽介はあきれ顔で悠の肩をびしびし叩いた。「セキュリティバリバリなんですよ。夜間はセンサー生きてて扉とかシャッターとか開くと警報鳴るんですよ。つかその前に赤外線センサーに引っかかりまくるんですよ。そんでそういうのに引っかかると扉関係ロックされてカギ入らなくなるんですよ。マジで」
「……じゃあ、おまえ、どうやって」
「とにかくここで大暴れされて、宿直の警備員に警戒されんのは困るんだ。最悪応援とか呼ばれるかもしれんし――で、里中、どうすんだ」
 千枝は口をへの字に結んで大いに不服の態である。
「……なあ、もう時間もアレだし、ここでまだ時間食うようならさ、マジで帰ろうって思ってんだけど」
「わかった、わかったよ、それでいい」千枝はようやく折れた。「スタジオまででいい……」
「うし。じゃあほら、入口ウラだから、行こうぜおふたりさん」
 陽介はがぜん機嫌よく、ふたりに先立ってさっさと行ってしまった。その背中にありありと優越感の見て取れるのが悠には面白くない。
(なんか、おいしいところ全部もっていかれたような気がする……)
 千枝が悠とすれ違いざまに「いじめっ子」と呟くのを聞いて、その思いはますます強くなるのだった。





 ジュネス裏手の通用口からひそかに侵入した三人は、事務所で家電売場を封鎖しているグリルシャッターのカギを回収後、一階守衛室の向かいの「メンテナンス室」と表記された部屋に身を潜めていた。冷蔵庫を薄くしたような分電盤が部屋のぐるりを埋めているだけの、殺風景な部屋である。
「悠、ライト消せ」陽介が囁いた。
「出てくるか?」
「わからんけど、もうすぐ一時半になる。出てくるかもしれん」
 手持ち無沙汰に点けていたライトを消してしまうと、室内はほぼ真っ暗闇になった。ただ四方の分電盤のランプのいくつか等間隔に並ぶのが、扉に張り付いて格子窓の外を覗う陽介の姿を、輪郭ばかり照らし出している。
 守衛室に詰めている警備員が巡回に出てくるのを、三人はもう二十分近くも待っていた。
「夜間は店中センサーだらけっつったけど、じつは警備員が見回りに出るときだけぜんぶ切ってくんだ、自分が引っかからないために。ホントは守衛室に残ってるもうひとりがブースごとに、必要に応じて生かしたり殺したりすんのが規則なんだけど、過去に操作ミスって何回か誤警報だしてからは誰もやってなくて、黙認されてるってのが実際のトコ。だから警備員が見回りに出たときがチャンスだ、監視カメラに気をつけさえすりゃフツーにあのテレビまで行ける」
 というのが陽介の言である。もっとも彼は、
「ただ、巡回の回数とか時間の規定もあってないようなもんでさ。つまり……正直いつ出てくるかわからん」
 と、つけ加えるのを忘れなかった。電話で「もたつくかもしれん」などと言っていたのはこういう事情を指すらしい。
(小西先輩の死亡推定時刻は夜中の一時ごろ。現在一時半。焦れたってどうしようもないのはわかってるけど……)わかっていてもどうしようもなく焦れる。(ああもう給料泥棒め! なにやってるんだ、早く出てきて仕事しろ!)
 ちらと隣の千枝を覗う。さぞやきもきしていることだろうと思いきや、今の彼女は陽介の持ってきたチョコレートを貪るのに夢中なのだった。外であれほどの狂態を見せた、いったいこれが同じ少女なのだろうか。親友の危機など忘れ去ってしまったかのように見える。
(ここで暴れられるよりはいいけど……ついでにさっきのことも忘れてくれてないかな)
 店の中に入ってからというもの、悠は千枝とひと言も言葉を交わしていない。話しかけてこないからには向こうのほうでも含みがあるのだろう。それを小さなトゲの刺さったように気にするのも、痛さに抜きがたく思う臆病心も、ついこのあいだまでの彼にはなかったものだ。
 思えば下手なことを言ったものだ。千枝の心裡を冷静に推し量ることをせずに、ほんのいっとき冷静を欠いたからといって、以て知りもしない雪子への真情にケチをつけ、あげく逆上して「いじめっ子」に成り果てるとは。なかんずくあれほどやすやすと感情的になってしまったことに、悠は内心慨嘆を禁じ得ない。
(いや、おまえは今ちょっと焦ってるんだから、うまくいかないのは仕方ないんだよ……)
 などと自分に言いわけしてみても、彼の「四角白日を妨げ、七層蒼穹を摩す」自尊心の高きはちっとも納得してくれない。へえ、じゃあおまえはちょっと焦っただけでなにもかもうまくいかなくなるって言うんだな――墓穴は深まる。
 いったい自分はもう少しマシな――もしくは、もっと素晴らしい――人間ではなかったのだろうか。転校してきてからというもの自己評価を下げざるを得ない「試金」が多くて、悠は自分に幻滅すること頻りであった。おお友情、友人! 彼らがそうさせるのだ! 彼らがわが身のほんとうの丈を思い知らせてくれる。それでも彼らの定規の目盛りはうぬぼれ屋の悠にはあんまり小さすぎた。友人というものは快いものばかり用意してくれる、というわけではないらしい。
「おい里中、チョコ。返せ」
「ごめん、食べちゃった。もうないっす」千枝の声はどこか誇らしげである。
「マジかよ……買って返せよ、それ高いんだぞ」
「半分くらいしか入ってなかったよ」
「残り半分ぜんぶ食ったんかよ……」
「これめちゃうま。ゴディバって言った?」
「そ、たしか七百円くらいするやつ」
「うえマジ? これだけで?」
「貰いもんだけど」
「じゃいいじゃん」
「里中、食べる?」
 まずは軽いジャブだ――悠は意を決して、先ほど陽介に恵んでもらったチョコレートを千枝に差し出した。
「おれはいらないから」 
「え、いいの? ありがと」
 千枝の受け答えにことさら意趣を含んだ様子はない。彼女はなんの気兼ねもなくチョコレートを受け取った。最悪無視されるか、よくても憮然とした態度を取られるかと覚悟していたのだったが、
(気にしてないのか……けっこう酷いこと言ったかと思ったんだけど)
 いささか拍子抜けの感がある。悠のジャブはなんの判定も得られなかったどころか、すでに対戦相手も審判もリングにいないのだった。
 包装を破るカサコソした音と、チョコレートの薄板をパキパキ噛む小気味よい音が、薄闇の中にひっそりと響く。陽介がちょっと当て付けがましく「ハラ減ったな」と独りごちた。
「悠、お前なんか持ってない?」
「……いや、そういえば上着の中に入ってたんだけど、着て来なかったな」
「うう……人間ダストシュートにチョコなんか預けるんじゃなかったぜ」
「ほら、返すよチョコ」千枝がチョコレートの小箱を持ち上げた。「味わってね。カラだけど」
「ぜってー買って返せよお前。つか買わす」
「成龍伝説の慰謝料ですう。つかこんなんじゃぜんぜん足りないんですう」
「くっそむかつく……!」
「ねえ鳴上くん、そのカッコ寒くない?」
 と、千枝は気遣わしげに悠の袖をつまんで言った。すっかり慣れてしまっていたが、悠は着衣のままバスタブに浸かったような具合になっている。
「ものすごく寒い。震えが止まらない」悠はわざとらしく震え始めた。「里中が素肌で温めてくれないと凍死する」
「あたまはじゅうぶんあったかいみたいね……」
 やはり千枝の言葉に含みのようなものは覗われない。まして気遣いさえ見せているのだから、彼女は悠ほど先の小事件を気にしてはいないのだ。
 悠は少し救われた思いだった。
「レインコートなかったのか」
 陽介がずっと張り付いていた扉から離れて、悠の隣に腰を下ろした。
「たぶんあると思うけど、ものの在処がよくわからないし、時間もなかったし……」
「お前って、ここ越してきたばっかりなんだよな、そういや」
「驚きだな。ホントに驚きだ、そういえば越してきて一週間も経ってないんだ、おれ」
「……お前も気が休まるときがねーな、マジで」
「そりゃお互いさま」
「あのさ、ふたりとも」
 千枝の身を乗り出す気配があった。彼女はそのまま悠と陽介の前まで這って、そこへ正座したようだった。
「なに?」
 しばしの沈黙のあと、肩を落として背を丸めたような輪郭が、
「ふたりはさ、雪子のこと、助けに来てくれたんだよね」
 と言った。
「そうだよ」と、悠。
「まあな」と、陽介。
「……その、ありがとっていうか、なんか、ありがとうございます」
 千枝はあたまを下げたようだった。
「えっと、ほら、なんでオマエが感謝するんだとか、べつにオマエのためじゃないとか、そういうのはわかってるから。言わんでいいから。ただなんか……言わなきゃっていうか」
「里中からすれば、天城はおれたちよりずっと自分寄りの人間なんだから、そう言いたくなる気持ちはわかるよ」と、悠。
「お前ら仲いいからな。付き合い長いんだろうし、いつも一緒だしさ、保護者気分になっちまうのも無理ねーよ」と、陽介。
「んん……それと、なんか、さっきはごめん。つか、あたしものすごいアホだったかもしんない」
「……こういうときなんて応えたらいいんだろう」悠は陽介に耳打ちした。千枝に聞えよがしにではあるが。
「ほらアレだ、いつものことだからとか言っとけ」陽介は悠に囁き返した。千枝に聞えよがしにではあるが。
「わかってますよ、どーせあたしはアホですよ」
「あー、いや、ツッコミ待ってんですけど」
「アホだよね、あたし。なんもできないのに連れてけとかわめいて泣いて……ワケわかんないこと言って暴れようとして……」
「それだけ天城が大事なんだろうし、心配するからこそ冷静ではいられないんじゃないか」
 愚か者め、あのさまを見ておまえはよくも、軽々しくエゴイズムだなどと断じたものだ――千枝に、というより、悠は二十分前の自分への叱責のつもりで言った。
「里中がアホなら、おれは輪をかけたアホだ。おれずいぶん酷いこと言ったし」
「あー……さっきはなんかあたまワーッてなってたし、なんか小難しいことガーッて言われたのはわかったんだけど、えーと、ぶっちゃけなに言われたかよく覚えてないでござる……」
「……あ、そう」
「ま、いいんじゃね? みんなそーだって」と、陽介がほがらかに訳知り立てする。「お前らだけじゃねーよ、そういうのは。人間だもの……ってやつ?」
「……なんか花村が言うと安っぽい。ケムに巻かれたような気がする」
「誰が言っても安っぽい。安易にまとめようとしてるのがまるわかり」
「え、なにこの流れ。なんで俺こんなダメ出しされまくってんの……」
「今おいしいところだろ」
「おいしくねーし。欲しけりゃやるし」
「ねえ、ふたりとも」
 千枝が膝で躄って近づいてきた。
「ダメもとで訊いてみるんですけど」
 悠と陽介は異口同音に「ダメ」と断じた。
「まだなんも言ってないでしょ」
「天城んとこまでついてきたいってんだろ? ダメだっつの」
「それ以前に、里中はまずテレビの中じたい入るべきじゃない」
「そんな――!」
「里中声でかい……!」陽介が慌てたように身を乗り出した。「忍び込んでんのバレたらお前らはともかく、俺は死刑確定なんだぞ」
「ごめん……でも約束が違う」
「里中、危ないんだ、向こうは。なにもできないことが理解できてるなら、あえて来る理由もないだろう」
「せめて待たせてよ、お願い、あのテレビんとこで待ってるから……!」
「悠、そのくらい譲ってやろう。もうアホなことしないだろうし。つか」陽介の声に呆れが滲む。「お前んなこと言ってたらまた外の二の舞だぜ」
 陽介の言うことももっともである。が、千枝が冷静を欠いた場合、あれほどに無茶なことをしうるとわかってしまった今、悠にはどうしても彼女を連れて行くことに乗り気になれない。
(今度は自分の命もかかるんだ、さっきみたいに考えなしには動かないと思うけど)
「……おとなしく待ってる?」
 千枝は改まった声で「はい。待ってます」と応えた。
「言うこと聞ける?」
「はい。聞けます」
「もう変なことしない?」
「はい。しません。ぜったい」
 仕方ないか――悠は折れた。
「ほらお父さん、チエも反省してるみたいだし」陽介が気味の悪い裏声を出した。
「じゃあ、母さんがいいって言うなら仕方ない」悠は威厳たっぷりに腕を組んだ。
「わーいありがとおとーさん」千枝は笑い混じりに、それでも調子を合わせて言った。「……つか、ふたりって仲いいっていうかさ、急によくなった?」
 悠と陽介は見えないながら、お互いの顔のあるらしい位置を見合わせた。
「そりゃあ、なあ……」
「よくもなるっていうか……」
「ねえ、ぶっちゃけ、向こうの世界でなにがあったの?」
 千枝の問いに応えようと、悠が口を開きかけたそのとき、壁一枚へだてた廊下から重い金属質の音が響いた。陽介がぱっと立ち上がって格子窓の外を覗う。
「来る、見回りだ」と囁いて、陽介はもどかしげに靴を脱ぎ始めた。「ふたりともクツ脱げ、音するから」
 一時四十五分――メンテナンス室の闇に緊張が奔る。悠と千枝は言われたとおり靴を脱いで、陽介のすぐ横に張り付いた。
(大丈夫だ、おれはやれる、陽介のときはひとりだった)ライトを握る手に力が籠もる。(大丈夫だ、今度は三人だ、必ずうまくいく)
「……行くぞ、俺のすぐ後ろに」
 と、意を決したように言って、陽介はやおら扉の内鍵を開けた。




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