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No.35651の一覧
[0] PERSONA4 THE TRANSLATION(ペルソナ4再構成)[些事風](2014/11/03 16:25)
[1] 序章 PERSONA FERREA[些事風](2014/11/03 16:25)
[2] 一章 REM TALEM MINIME COGITO[些事風](2012/10/27 23:54)
[3] 国を去り家を離れて白雲を見る[些事風](2012/10/27 23:57)
[4] マヨナカテレビって知ってる?[些事風](2012/10/28 00:00)
[5] ピエルナデボラシーボラ![些事風](2012/10/28 00:03)
[6] 出れそうなトコ、ない? ひょっとして[些事風](2012/10/28 00:07)
[8] 死体が載ってた……っぽい[些事風](2012/10/28 00:27)
[9] ペルソナなんぞない[些事風](2013/03/05 00:17)
[10] でも可能性あるだろ?[些事風](2012/10/28 00:34)
[11] バカにつける薬[些事風](2012/10/28 00:36)
[12] シャドウじゃなさそうクマ[些事風](2012/10/28 00:41)
[13] 吾、は、汝[些事風](2012/10/28 00:46)
[14] 俺はお前だ。ぜんぶ知ってる[些事風](2012/10/28 00:53)
[15] ノープランってわけだ[些事風](2012/10/28 00:56)
[16] 旅は始まっております[些事風](2012/10/28 01:05)
[19] 二章 NULLUS VALUS HABEO[些事風](2014/11/03 16:26)
[20] あたしも行く[些事風](2013/01/15 10:26)
[21] それ、ウソでしょ[些事風](2013/03/05 21:51)
[22] 映像倫理完っ全ムシ![些事風](2013/05/12 23:51)
[23] 命名、ポスギル城[些事風](2013/05/12 23:56)
[24] あたしは影か[些事風](2013/06/23 11:12)
[25] シャドウ里中だから、シャドナカ?[些事風](2013/07/24 00:02)
[26] 脱がしてみればはっきりすんだろ[些事風](2013/10/07 10:58)
[27] 鳴上くんて結構めんどくさいひと?[些事風](2013/10/14 17:36)
[28] セクハラクマー[些事風](2013/12/01 15:10)
[30] アギィーッ![些事風](2014/01/31 21:58)
[31] かかってこい、あたしが相手だ![些事風](2014/03/04 21:58)
[32] クソクラエ[些事風](2014/04/16 20:30)
[33] あなたは、わたしだね[些事風](2014/06/15 15:36)
[34] とくに言動が十八禁[些事風](2014/07/26 21:59)
[35] コードレスサイクロンユキコ[些事風](2014/09/13 19:52)
[36] 自称特別捜査隊カッコ笑い[些事風](2014/09/24 19:31)
[37] ッス[些事風](2014/11/03 16:29)
[38] oneirus_0d01[些事風](2014/12/14 18:47)
[39] 三章 QUID EST VIRILITAS?[些事風](2015/03/01 16:16)
[40] ええお控えなすって[些事風](2015/05/17 00:33)
[41] キュアムーミンだっけ[些事風](2015/10/18 13:01)
[42] おれ、弱くなった[些事風](2015/11/20 10:00)
[43] 中東かっ[些事風](2016/03/02 00:50)
[44] バカおやじだよ俺ァ[些事風](2016/05/15 16:02)
[45] ここがしもねた?[些事風](2016/08/16 15:11)
[46] 腕時計でしょうね[些事風](2016/11/15 13:03)
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[35651] 一章 REM TALEM MINIME COGITO
Name: 些事風◆8507efb8 ID:f9bea2dd 前を表示する / 次を表示する
Date: 2012/10/27 23:54


 悠は飛び起きた。誰かの叫び声と、なにかガラスのようなものの割れるけたたましい音とによって。
(……ここ、どこだ)
 そこは見知らぬ部屋である。 
 十秒ほど、悠は自分の置かれている状況を理解できないまま混乱していた。うちのテレビはもっと大きい、液晶のはず。こんな骨董級のブラウン管じゃない。それにうちにちゃぶ台なんかない、和室もない、よって畳もない。知らない……
(場所じゃない! そうだ引っ越したんだ、じゃない、ええと……叔父さんの家だ。テレビ見てて……)
 照明は落ちていたが、室内はその必要のない程度には明るい。そのはずだ、とうに夜は明け切っていて、カーテンの開け放たれた窓から控えめな朝の光が差し入っている。昨夜ここで寝てしまい、結局そのまま夜を明かしたのだ。
 雨落を叩く水滴の音が聞こえる。あいにくの雨天。
(毛布……菜々子ちゃんかな)悠の身体には毛足の長い、青い毛布がかけられていた。(悪いことしたな、これじゃどっちが年上だか)
 ふと、いつからそこにいたものか、続き間のダイニングに立っている菜々子と眼が合った。悠を心配そうに眺めていて、足元には皿かなにかの破片が散らばっている。
「おはよう、菜々子ちゃん」
「おはよう」返事には少しく怯えが滲んでいた。「だいじょうぶ?」
「大丈夫……って?」
「うわーって、おおごえ、あげてたよ」菜々子は冷蔵庫の陰から箒とちり取りを持ってきて、それで床の破片を掃き取りはじめた。「おさらわっちゃった」
「ごめん、驚かせて」
 ほんとうにどっちが年上だか――悠を叩き起こした叫び声はもちろん、彼自身のものに違いない。
「怪我はない?」
「うん」悠が立ち上がって手伝おうとする間にも、菜々子は手早く掃除を済ませてしまった。「ゆめ、みたの?」
「え?」
「こわいゆめみたの?」
「うん……見た、こわい夢」悠はにっと笑った。「菜々子ちゃんが起きろ、起きろって言って、おれを蹴るんだ、何度も」
「ゆすったけど、けってないよ」菜々子もようやく笑った。「あさごはんできてるから、いっしょにたべよ」
 彼女の言葉どおり、ダイニングのテーブルにはもう朝食が用意されていた。皿に載ったトースト、ハムエッグ、インスタントのカップスープ、マーガリンのパッケージ、ハチミツの瓶に、なぜかタクアンの盛られた白磁の漬物入れが添えられている。――これから一年間ともに生活するのだ、堂島家の食い合わせの妙には早く馴染まなければ。
「叔父さんは、お父さんはトイレ?」
「お父さん、かえってきてないよ」箒とちり取りを片付けたあと、菜々子は台に乗って手を洗っていた。「たぶんよるまでかえってこない」
「……まさかこれ、菜々子ちゃんが?」
 菜々子はウンと頷いた。
「あさはパンをやいて……あとメダマやき。よるはかってくるの、お父さんつくれないから」
(きみ、本当に七つ? 十七の間違いじゃないか?)
 なるほど、母や叔父は自分を見てこんな印象を持ったわけだ――それは実際、感心よりも心配の勝るものだった。 
 菜々子は代えの皿を出して、トースターから自分のぶんのトーストを確保して、思い出したように冷蔵庫から牛乳を取ってきて――ひとしきりコマドリみたいにちょこまか動き回ったあと、ようやく自分の席に飛び乗った。この愛すべき従姉妹の身長は、せいぜい悠の腰丈ていど、たぶん百二十センチに満たない。こんな小さな子が不安定な台に乗って、火と油と焼けたフライパンを振り回す? 刑事だろうと奴隷商人だろうと親なら心配にならないものだろうか、こんな妖精みたいなわが子が毎朝、自分に焼印を押し付けたり火あぶりの準備をしたりしかねないというのは。
「菜々子ちゃんはなんというか、凄いね。でも危ないから、明日からはもうよしたほうがいいよ」
「……でもあさはおみせやってない」
「ここに菜々子ちゃんより六十センチくらい背の高い」そして同年代の、「従兄弟がいる。たぶんこのひとなら、台を使わなくてもフライパンを振れるよ。朝は蹴られなくても起きられるし、牛乳とタクアンも食べられるし……たぶん、いっしょに」
 菜々子は要領を得ない顔をしている。
「……その、つまり、明日からはおれが作ろうかってこと。菜々子ちゃんは朝はパンのほうがいいほう?」
「でも、わるいから」
(イゴール! 遠慮を知っているということにかけて、おれはこの子の前では喜んで敗北を認める!)悠はちょっと感動した。世の大人はすべからく刑事となるべし、さもなければ奴隷商人に!(しつけが行き届いているだって? コンタクトを忘れてるのでなきゃ、とんでもない皮肉屋だな、叔父さん)
「悪くなんかないよ。もし悪いなら――あ、食べてもいい?」
「うんいいよ。じゃ、いただきます」
 菜々子は最初にタクアンに手を伸ばした。
「……もしおれが作るのが悪いなら、菜々子ちゃんが作るのも悪いということになる」
「どうして?」
「どうしてだろう、じつはおれにもわからない。でもふたりともわからないなら、悪いわけはない、そうだろう?」
「??」
「悪くないなら、おれが作っても問題ないわけだ。どうかな」
「うーん……わかんない。菜々子、あたまよくないから」
「もちろんそんなことはないよ。屁理屈はやめよう、ごめん」悠はコーンスープをひとくち啜った。「わけを教える。菜々子ちゃんが火を使うのは危ないと思う」
「だいじょうぶだよ、なれてるから」
「慣れてるから、危ないんだ。あのコンロは菜々子ちゃんには背が高すぎる。もし少しでも手が滑ったら、油がかかったら、火花が散ったら、フライパンが落ちてきたら? これからも毎朝こんなにおいしい目玉焼きを食べられるとは限らない、もっと大きなお皿が必要になるかもしれない。お父さんには塩味が利き過ぎるかも」
「???」
「……火傷したら大変だよ、お父さんも悲しむ」
「んー……じゃ、いっしょにつくろ」菜々子はしばらく考え込んだあと、そう提案した。「菜々子、火つかわない。だからほかのことする」
「わかった、じゃ、交渉成立」
「こしょう?」
「ううん、なんでもない――食べよう、もう七時半になる」
 なんだか自分が子どもで、母親になにか要求して、彼女のほうで折れて、あるていど譲歩してくれたような、菜々子との会話にはそんな印象が残った。七歳どころではない、十七歳の自分でさえ、相手に失礼なくこれほど気を回せるだろうか? 昨日は驚きの日だったが、ひと晩あけて終わりというわけでもないらしい。堂島家はさしずめ驚異の館だった――築五十年くらいの。
「きょうからがっこうでしょ?」トーストにハチミツを塗りたくりながら、菜々子が言った。「テンコーするんでしょ?」
「ん? うん、そう」菜々子ちゃんと同じ高校にね。「叔父さんが案内してくれるって言ってたけど」
「とちゅうまでおんなじみちだから、菜々子あんないするね。いっしょにいこ」
(ああ……叔父さんはこれを言おうとしてたのかな)昨夜の叔父の様子を悠は思い出していた。(徹夜のジケン、ソーサ、なにがあったんだろう。年寄りがいなくなった、とか?)
「あと、ちゃん、いいよ」
「え?」
「ちゃん、いいよ。菜々子でいいよ」
「??」
「菜々子ちゃんっていうから……」菜々子は赤くなった。「ちゃん、いいよ、つけなくて」
「あっ……そのちゃん、か。うん、わかった」この歳でもちゃん付けは恥ずかしいらしい。悠は内心苦笑した。「じゃ、菜々子さん」
「いいってば、さんはもっとわるい!」菜々子は笑いながら抗議した。「菜々子でいい!」
「あ、ごめん。食べ終わった皿は、いま洗ってしまうんですか? 菜々子さま」
「さまもダメ! つけなくていい!」
「うん、じゃあつけない」悠は席を立って、あからさまに逃げる素振りを見せながら続けた。「それじゃぼくは上に行って着替えてくるから、少しここで待っていてくれたまえ、菜々子くん」
 誘いどおり、菜々子はふざけて追いかけてきた。叔父に自室を教えてもらっていなかったら尻を叩かれていただろう、彼女は部屋の扉の前まで追跡して来たのだった。





 菜々子のエスコートで、悠は鮫川河川敷、月桂樹の並木に入ったあたりまで案内された。
「あと、この道まっすぐだから」
 彼女の指し示す先は糠雨に煙っておぼろである。が、すでにここへ来るまでに、同じ制服を着た生徒を何人も見つけている。案内の続きは彼らにやってもらえばいい。
「ありがとう。今日は菜々子ちゃんも午前放下?」
「うん、ゴゼンホーカ。ちゃんいいってば」
「ごめん。こういうときお昼はどうしてる?」
「ええと、かってくる」
「そう。よかったら作ろうか。それとも食べに出る?」
「たべに……?」菜々子の大きな眼がぴかっと光った。「ジュネスいきたい! ジュネス!」
「わかった、ジュネスね、ジュネス……」好奇の視線を感じる。周りの高校生のものだ。「行ったことないけど、まあ、菜々子ちゃんのお望みのままに」
「うん。ちゃんいいったら」
「ごめん。じゃ、うち帰ったら、一緒に行こうか」
「うん!」
 菜々子の喜びようはただごとではない。ジュネスはありきたりなショッピングモールで、遊園地のたぐいではないはず。それともここのジュネスにはなにか、屋上にささやかな乗り物があるとか、子どもの喜ぶようなアトラクションがあるのだろうか。
「じゃあ、またあとで、菜々子ちゃん」
「うん、じゃあね――またちゃんっていった」
「じゃあね、菜々子さん!」
 悠は水たまりを蹴散らかして小走りに駆けた。
 振り返ると、菜々子の赤いランドセルがもと来た道を戻っていくのが見える。菜々子ちゃん? 菜々子? いかに七歳の子供とはいえ、というより、七歳の子供だからこそ、悠にとって呼び捨てるのはなにか、小石を呑んだような違和感を覚えるのだった。小さな従姉妹を呼び捨てにするのはためらわれる、それが妹ならまだしも。
(八時か……まあ、間に合うだろう。寄り道しなければ)
 昨晩から振り続けた雨のせいで、鮫川の流れは速い。土手に柵がないばかりか、この河は汀まで降りていけるようにさえなっている。もしあの早瀬に小さな従姉妹が落ちたら――自然の豊富な田舎も考えものだと悠は思った。子供が迷い込んで命に関わるようなものが少なくない。もちろん、東京にそれに似た結果をもたらすなにかが、ないといえば嘘になるが。
(叔父さんが徹夜した原因って、ひょっとしたらそういうのかも知れないな。ひとが行方不明で、きょう鮫川の下流で、なんて――)
 悠はぎょっとして脇に飛び退った。危うく横合いを自転車が追い抜いていったのだ。
(あいつ……新聞に載りたいらしい) 
 運転手は馬手にハンドル、弓手にビニール傘を差し、悠にやったように周りの生徒を脅かしながら蛇行しまくっている。もう少し河よりに走れば間違いなく滑落するだろう。
 ややあって、彼はT字路脇の電柱に衝突してくぐもった声を上げた。
「…………」
「せっ、せがれが……!」受難した学生は股間を押さえて苦悶している。「弟のほうが……!」
(まあ、兄は生き残ったわけだ)驚かされた含みもあって、悠は声をかけることなく彼の横を通り過ぎた。(時間がない、お子さんの葬儀には付き合えないな。そっとしておこう……)
 少し歩いて振り返ると、おそらく彼の友人かなにか、後ろから学生が走り寄って来て、さっそく彼の息子の不幸にお悔やみを述べているところだった。
 そうとも、見も知らぬ自分がわざわざ弔問することはないのだ。
(ひとにはあまり関わらないほうがいい。余所事に進んで首を突っ込む必要はない、平和にいこう)
 T字路を左折してほどなく、石垣囲いの坂の向こう、霧雨の紗の中に一対の染井吉野が現れた。これから一年間かようことになる、仮の学舎はその奥に聳えている。
 満開した淡紅色の花を嬲るこの雨は、前途を言祝ぐ催花雨か、それとも先行きの多難を暗示する花散雨だろうか。悠は門碑の前に立ってしばらく、生徒たちの不審の眼を浴びながら校舎を見上げていた。
(どんな高校生活が待っているんだろう。願わくば平穏無事で、波風のない、静かなものでありますように……この三つは田舎ならもちろん、ありふれて珍しくもないんだろうけど)
 悠はため息をついた。この一年間は長そうだ――平穏で、波風のない、静かな時間というものは、たいていゆっくり進むものだから。





 職員室で紹介された担任は諸岡と名乗った。やや猫背で、痩せぎすで、上着の襟に少しくフケを撒いた、顔色の悪い小男である。年のころは四十台後半といったところか。
「お前は二年二組に編入になる。東京の学校と違ってクラスが少ないがね、まあそのぶん眼が行き届くというもんだ――ついてきなさい」
 教室まで案内される途中、諸岡はぽつぽつと八十神高校のことを語った。普通は二クラス、多いときだと三クラスあるが、入学者数が少ないと一クラスになることもあること。校風はいたって緩やかだが、まじめな生徒が多いこと。きょうびは田舎でさえ木造校舎は珍しいこと、等々。
 確かに珍しい。校舎の廊下は全面板張りで、経年を示して艶やかな飴色に光っている。踏み締めるたびにギッギッと鳴るのだ! 前の学校は教室や体育館こそフローリングだったが、それだって隙間のない、鏡のように完全な平面の、ぴっちりした貼り物に過ぎなかった。これは紛れもない本物の板で、ミゾがあって、恐ろしいことにぐいぐい撓む。江戸っ子の心胆を寒からしめるにはじゅうぶん過ぎる。悠より体重のある生徒だってたくさんいるだろう、彼らがちょっと垂直跳びをしたいという誘惑に駆られて、それを実行に移すのに不都合な障害を見つけられなかったとしたら、万一にも階段を使わずに一階へ降りてしまう危険性がないでもないではないか!
 悠の控えめな疑問を、諸岡教諭は笑い飛ばした。
「じゃ、鳴上が第一号になれ。ワシはそんな奴はいまだかつて見たこたないが、見てみたくはある」
「……それは先生の許可を頂いたという解釈でよろしいのでしょうか」
「お前はおもしろい奴だな。ワシの許可なんかいらんから、やってみろ、できやせん。この校舎は生半可な鉄筋コンクリートよりよっぽど丈夫だ」
「その言葉を慰めにしたいと思います。図らずも床に非常口を作ってしまったときは」
 ちょうど二年二組の教室の前についた頃、廊下のスピーカーからおなじみのウェストミンスター・チャイムが鳴り響いた。八時三十分ジャスト、始業の合図だが――室内はわれ関せずとばかり騒然としている。高校生三十人あまりを閉じ込めていれば大抵そうであろうように。諸岡教諭は磨りガラスの窓をちょっと覗いて、「全員そろっとるな、たぶん」と独りごちた。
「あー……入る前に言っとくがね」
「はい」
「驚くなよ」
 なにを、と訊く間もなく、諸岡教諭はいきおいよく教室に入って行く。教室内のガヤガヤがちょっと収まった。
(おお……見てる見てる……)
 彼について入ってきた悠に、たちまち好奇心をむき出した約三十人分の視線が注がれる。もし第三者として見られたならたいそう滑稽な眺めだろう。レーザーポインターの焦点を追ってみな一様に首を傾ける動物園のペンギン、とでも喩えられようか。
 諸岡教諭は壇上に上がると生徒たちに向けて、突然ひとの違ったように、
「静かにしろチャイム鳴っただろうが貴様らーっ!」
 と怒鳴り散らした。――結婚式二次会の騒擾が一転、お斎会場のしめやかさに代わった。
(これは……驚くなって、これのことか?)
「今日から貴様らの担任になる、諸岡だ!」
 生徒一同、みな虐げられた農奴さながら、机に顔を伏して彼と視線を合わせようとしない。事前に教えられていてさえぎょっとしてしまう。ついさっきまで温厚だった彼の面は、いまや別人のように傲岸と不遜とで歪められていた。
「一年のときにワシが受け持った奴らはわかっとるだろうがな、ワシのクラスが初めての奴は、よく覚えておくことだ――ワシはほかの先生のように甘くはないっ!」最前列の生徒が顔をかばう仕草を見せた。唾が飛んできたのだろう。「いいか、春だからって恋愛だ、異性交遊だと浮ついてんじゃないぞ。発情期はイヌやネコだけで十分だ。ワシの目の黒いうちは、貴様らには特に、清く! 正しく! 人間らしい! 学生生活を送ってもらうからな!」
(すっかり静まり返ったな……いや、返ってやりやすいかも)
「あー、それではホームルームを始める前に、不本意ながら転校生を紹介する」
 生徒たちがそろそろと面を上げて、彼らの暴虐なる専制君主とその連れ合いを交互に盗み見た。
「爛れた都会から、辺鄙な地方都市に飛ばされてきた、あわれな奴だ」諸岡教諭がちらと悠を見た。こころなし笑っているようにも見える。「いわば落ち武者だ、わかるな? 女子は間違っても色目など使わんように!」
(とんでもない言われようだ! いっそ使いやすくていい)諸岡教諭の横顔を見つめながら、悠は内心ほくそ笑んだ。(いいフリです先生、その調子)
「では、鳴上悠。簡単に自己紹介しなさい」
「始めまして」
 明るくにこやかに、努めて滑舌よく――悠は静かに息を吸い込んだ。
「爛れた都会から辺鄙な地方都市に飛ばされてきたあわれな、鳴上悠です」
 寂としてしわぶきひとつ聞こえなかった二年二組に、どっと笑いが湧いた。これほど笑いを取りやすい舞台があるだろうか? 諸岡教諭のお膳立ては完璧だった。それを彼が意図したかどうかはともかくとして。
「いわば落ち武者です、わかりますね? でも色目は使っていただいて結構――」
「もういい黙れ! 貴様――」諸岡教諭の額に青筋が浮いた。「――いま後ろから二列目、窓際の女生徒に妖しげな視線を送ったな! 見えてないと思ってるんだろう!」
「どの子です、あの子? 違います先生、おれが見つめてたのはその隣の、ほら、あの角刈りの彼です」
 あちこちで爆笑が起こる。指をさされた男子が笑いながら、やめろというふうにして手を振っている。
「あっ、脈もありそうだ。タイプですよ」
「静かに! 静かにせんかあー!」
 諸岡教諭の必死の威圧によって、教室内はどうにかくすくす笑い程度まで収まった。もっとも少し突いて酸素を送るだけで、またすぐに燃え上がりそうな雰囲気ではあったが。
「いいかね、きっ、貴様」ひとつ咳払いして続けて、「ふざけていられるのも今のうちだぞ。ここは貴様がいままでいた、いかがわしい街とは違う。不届きなマネをすればすぐにわかるんだからな。ワシの目を逃れられると思ってるなら大間違いだ」
「はい、肝に銘じます」
「いいか、いい気になって女子生徒に手を出したり、イタズラしたりしたらどうなるか……停学ていどで済むと思うなよ!」
「……それは先生つまり、男子ならオーケーということで?」
 諸岡教諭の奮闘も甲斐なく、笑いの炎はふたたび燃え上がる。男子生徒の誰かが「教壇コント」と叫ぶのが聞こえた。いかにも、ふたりは臨時結成にしては相性抜群のコンビであった。
「きさっ……貴様はなんだ、そっちか!」
「そっちって、冷たいな先生、なにも知らないフリして」
「一緒にするな――近づくな気持ち悪い!」
「さっき廊下であんなに喜んでたじゃありませんか」
(ちょっとやり過ぎかな……ま、いいか)
 どうやら声を聞きつけて様子を見に来たらしい、廊下側の窓に生徒が数名、鈴なりになって張り付いているのが見える。たぶん一組の人間だろう。二組の生徒のほとんどはもう、誰を憚ることもなく大声で笑い転げている。これだけ大騒ぎしていれば気にもなろうというものだ。
 ややあって、教壇コントは一組担任の乱入でお開きになった。
「諸岡先生、なにか?」
「ああいえ、ちょっと話が……弾みましてね」
「ずいぶん楽しそうで」
「ええ、その、申し訳ない、うるさくしまして」
「すみませんね、うちの諸岡が」
 悠のこのひと言で二組は最高潮に達した。一組の担任まで咎めるのを忘れて笑い出し、諸岡教諭はもはや怒鳴る気力も失せたといったふうに、眉根を抑えて俯いてしまった。顔に書いてあるのが見えるようだ――とんでもないのが来てしまった。
(このあたりで止めにしたいところだけど)
 一組の担任にお引取り願ったところで、折よく教室の真ん中あたりに座っていた女子が挙手して「センセー、転校生の席、ここでいいですかー?」と声を上げた。
「となり空いてるんで」
「あ? そうか。鳴上、貴様の席はあそこだ」やっと厄介払いできるとばかり、諸岡教諭はシッシと手の甲を振った。「さっさと着席しろ。ったく」
「はい。名残は尽きませんが――」
「いいから早く行け!」
(先生すみません)
 心の中で諸岡教諭にあたまを下げつつ、悠はいまほど名乗り出た生徒の隣の席についた。派手な緑色のジャージを羽織った、色の薄いショートヘアの小柄な女子で、ちょっと丸顔気味の可愛らしい面立ちをしている。
「……やるねー転校生くん。笑かしてもらったわあ」待ってましたとばかり、さっそく件の女子が話しかけてきた。「なに、ひょっとして打ち合わせとかしたの?」
「いや」
「ま、モロキンがそんなの協力するわけないか。にしちゃチョーチョーハッシって感じだったけど……ちなみにさ、鳴上くんて……えと、マジでそっちの人?」
「いや、女子もオーケー! 本当に」悠はわざと大きな声で返事をした。周りの生徒が噴き出すのを聞きながら、「つまり両方だいじょうぶなんだ、これはわかって欲しい――」
「そこ! なにをくっちゃべっとる!」諸岡教諭が息を吹き返した。「里中か、新年度早々廊下に立たされたいようだな!」
(標的を変えたな、となれば黙ってないぞ)
「いえ先生、おれが里中さんに話していたんです」悠も相方に負けじと息を吹き返した。「彼女に同性愛についての理解をですね――」
「あーうるさい貴様はもう喋るな!」
「でもこの問題は非常にデリケートかつ真実の――」
「わかった、いい、黙れ、もう口を開くな」諸岡教諭はサジを投げたようだった。とうとうコンビ解散らしい。「……貴様の名は腐ったミカン帳に刻んでおくからな」
「先生、ふつうの紙に書かれては?」
「……次、ひと言でも喋ったら、為にならんぞ、いいな」
(ちょっとどころじゃないな、いくらなんでも悪ノリし過ぎた)
 さすがに少し度が過ぎたようだ。諸岡教諭の呪わしげな視線と、彼以外のほとんどの生徒から放たれる、重たい好奇の視線が身体中に突き刺さる。
 まったくやり過ぎだった。初対面でちょっと笑わせてみなに一目置かれれば、とりあえずはそれでよかったのだ。よかったのだが、それで済ますには諸岡教諭の仕込みとノリはちょっと上等に過ぎた。
「……アイツ、最悪でしょ?」諸岡教諭が黒板に向かったのを見て、里中がふたたび話しかけてきた。「まー、このクラスんなっちゃったのが運の尽き……一年間がんばろ、お隣さん」
「運の尽き? とんでもない」里中のほうへ身を乗り出して、悠は声を絞った。相手が返答に困るような言葉を意識して、「こんな美人の隣になれた。幸先がいい」
「あーそれでは、誰かのせいでかなり遅れたが、出席を取る。折り目正しく返事をするように! 浅田――!」
 ホームルームが始まった。そしてそのあいだ中、悠は左右――たぶん後ろからも――から錐のように突き刺さる視線を、平然と無視し続けることを余儀なくされたのだった。ホームルームが、一時間目が終わればたぶん、あまり人見知りしない連中がこぞって話しかけて来るだろう。
 思えば下手にふるまったものだ。初日にここまでやったせいで、これから彼らを適当にあしらって好印象を持たれるようにしなければならなくなった。
(仕方がない、どのみち近いうちにやらなきゃならなかった。デビュー戦を失敗するよりはずっとマシだ……もっとも)
 隣の里中の前、悠から見て斜め前に座っている黒のロングヘアが、先ほどからしきりに左手の窓を見て横顔を晒すのに、悠は気づかないフリをしていた。何度も天気を気にするふうを見せ、その度ごとにちらちらとこちらを見るのだ。左右はともかく、前からこれほど執拗に突っかかってくるのは彼女だけだった。
(こんな美人なら大歓迎だけど)
 悠は目を閉じた。このほうが見やすいだろう、見たければ見ればいい。――隣の里中が「寝てるとモロキンにどやされるよ」と注進してきた。





 九時五十分前にチャイムが鳴ると、それまで魂の不滅について熱心に講義していた諸岡教諭は、ようよう話を打ち切った。一時間目が終わり、今日はこれで放下のはずだが。
「では、今日のところはこれまで。明日から通常授業が始まるからな、配った時間割をよく確認しておくように」
 壇上から暴君が去るとすぐ、解放奴隷たちはもとの騒々しさを取り戻した。何人かの生徒がさっそく席を立って、彼らの専制君主を翻弄した道化めざして集まってくる。
(その道化のほうじゃ、ご主人さまに謝りに行ったほうがいいかもって悩んでるくらいなのにな……)
「えーと、ナルカミ? くん? さっきのすげーじゃん、モロ泣いてたし」女子Aが笑顔で話しかけてきた。
「つかよくあんなポンポン出てくるね言葉。あたし遠藤ね、よろしく」女子Bがやはり笑顔で話しかけてきた。
「ホモネタ反則だろ! でもモロキン弱点ぽいよな」男子Aがむろん笑顔で話しかけてきた。
「鳴上ってホントに、なに、そっちのケがあんの?」男子Bがもちろん笑顔で話しかけてきた。
「あれは諸岡先生が企画したものだから、おれは台本に沿って喋っただけ」悠は適当に嘘を吐いておいた。
「うえ、モロが? うっそでしょ?」
「あとそっちのケについては、詳しく知りたいならあとで校舎裏に来て。ひとりで、ベルトは外して」
「あははやめろっつの!――なんだかな、東京のやつってみんなこんなに規格外なわけ?」
「花村くん、どうなのそこんとこ」
「え? あー……」寝ぼけた声でいらえたのは、悠の後ろの席に座っていた男子である。「……わり、寝った。あんだっけ?」
(こいつ見覚えが……)
「お前あんだけ大騒ぎだったのに起きないってどんだけ……」
 帰り支度でにぎわう最中、教室のスピーカーから校内放送のチャイムがひっそりと流れた。が、誰も気に留めない。
「ほら、お前の新しい衝立さん」
「ついたて? あれ、前にひといるし。誰?」
『先生方にお知らせします――』
「鳴上悠。よろしく花村」
「え、あー、よろしく……」花村というらしい男子Cはちょっとうろたえていた。「えーと……え? 転校生?」
「ご明察。で、さっそくだけど膝に座ってもいい?」
「おおい! こういうことを真顔で言う奴だから!」男子AとBが笑いながら、悠の肩を親しげに叩いた。「よく言うよなあ、このルックスじゃ損だろ」
『只今より緊急職員会議を行いますので――』
「あとで冗談って言わないと、本気で反応するひと出てくるかもよ」
「冗談? 冗談は苦手なんだ、東京じゃカタブツで通ってた」
『至急職員室までお戻りください』
「どの口で言うんだよコイツ……!」
「おほっ、気をつけな花村ー、鳴上くん狙って――」
『また全校生徒は各自教室に戻り、指示があるまで下校しないでください』
「……あん?」
 教室内のざわざわがにわかに減衰した。
「下校すんなって……なんで?」
「あたしに聞かれてもね」
(なんだろう。職員会議がどうとかって言ってたから、たぶんそれ絡みだろうけど)
「不審者でも入ってきたんじゃねーの? 校内に」
「鋭いね、耳が痛いよ」悠は頬杖をついて呟いた。「おれが職員室に出頭すればいいのかな」
「あはっ、行ってみる? モロキン喜ぶよ」
「いや嫌がるだろ絶対」
「つかさ、モロがあーゆうコント? すると思う?」
「俺も意外だったけどさ、まあ新年度だし、なんかしたほうがいいって思ったんじゃないの? モロキン的に」
「や、ぜってーありえねー……だってモロだし」
「まあ、モロキンだしな」
「諸岡先生って、モロキンってあだ名なのか」
「そ。諸岡金四郎、略してモロキン」男子Aが花村のシャープペンシルを取って、机にきれいな字で「諸岡禁止郎」と記した。「教師としちゃ発禁レベル」
「諸岡十八禁四郎」
「歌舞伎の演目みたいだな」
「んで顔は二十四禁四郎。あいつマジしんどい」
 諸岡教諭はそうとう慕われているようだ。普段から生徒に対してあれだけ愛情たっぷりに接していればさもあろう。ただ、ここまで案内してくれた時の彼はだいぶ様子が違ったのだ。ふつうの、どこにでもいる、おじさん先生という印象だった。
(どちらかを演じているのか? よくわからないひとだ)
「……あれ、なに? サイレン?」
 遠藤と名乗った女子Bが不審げに窓のほうを向いた。確かに遠くパトカーのサイレンが聞こえる。――それはじきに聞き耳を立てなくても聞こえるくらいの音量になった。学校の近く、いや、すぐ前に留まっているのだ。
「なんだろ」
「これじゃね? 帰るなって言ってんの」
 今まで悠と話していた四人の興味は、窓の外のサイレンに移ったようだ。非日常に飢えている健全な学生たちは我先に窓へ殺到し――ものの数分後には三分の二ほどの生徒が、押し合いへし合い教室の窓に鈴なりになっていた。この期に及んで椅子を暖めているのはよほど冷めた生徒か、へそ曲がりか、転校生くらいのものだ。
(叔父さんありがとう、甥の周りは静かになったよ)
 サイレンが鳴り止んでも、生徒たちは飽かず諦めずに窓の外の霧雨を見通そうと頑張っていた。パトカーが、慌しく駆け回る警察官が、彼らに慕われて走り回る不審者がひょっとしたら見えはしないかと。
 悠はいつでも帰れるよう支度を始めた。
 正直、四人が窓際へ行ってくれてほっとしていたが、なんとはなく寂しいという感情も否定できない。こういうとき、彼は自分の生き方を難儀だなと思わないでもなかった。独りの時間を尊重し、読書と思索に耽り、相手に見られないところから手庇を作って人間観察に興じる、こういう孤独な学校生活を送る自身の身体に、冷たい、鉄芯のようなものが通っているのを悠は自覚していた。それは彼の背を正し、律し、教え、たいていは涼しめたが、ときどきはこうして凍えさせるのだ。
「あ、あのさ天城、ちょっと訊きたいことあるんだけど……」
(あの美人はアマギっていうのか)
 先の男子Aがいつの間にか戻ってきていて、例のロングヘアに話しかけていた。なぜか若干および腰で。
「天城んちの旅館にさ、山野アナが泊まってるって、マジ?」
(ヤマノアナ? ヤマノアンナ? 聞いたことないな。口振りからして芸能人かな)
 芸能界に疎い悠にはピンと来ないどころか、そのヤマノナニガシが邦人なのか外人なのかさえわからなかった。もっともひとかどの著名人ならさすがに知れようものだ、きっと全国的ではないにしろ、このあたりではそれなりに有名な手合いなのだろう。同級生の家の旅館に「マジ」で泊まっていると、地元の高校生がそれなりに興奮する程度には。
「そういうの、答えられない」天城はにべもない。
「ああ、そりゃ、そっか、客だもんな……」
 男子Aはそれいじょう話の接穂を見つけられずに退散していった。入れ替わりに隣の里中が席を立って、天城の椅子の背もたれに手を掛けた。
「はーもうなにコレ。いつまでかかんのかなー」
「さあね。不審者が見つかるまで?」
「げ、これ不審者なの?」
「ううんわからない! ちょっと聞こえたから……なんなんだろうね、本当に」
「ホントだよォ……あーあ、放送鳴るまえにソッコー帰ればよかったー」
「……うちも電話こないからいいけど」
「雪子んちまだ忙しいんだ?」
「ツアーのお客さん、来るから。夕方」
「うあー……じゃ、十時コース?」
「たぶん」
「にしてもさ、途切れないよね。去年の秋くらいからいっつもこんな感じじゃん? 年々客ふえてるし」
「うん……ちょっと疲れたかな」
「……ひょっとして春休みナシ、だったりした? こないだ来れなかったし」
「ん……でも、流行らないよりいいよ。お店閉めちゃうとこもあるし――ごめんね、千枝」
「あーいいってェ! あっそだ、そう言えばさ、前に話したやつ――」
 二人は友人同士らしい、それもごく親しい、おそらく長い付き合いの。
(サトナカチエとアマギユキコ。たぶん幼馴染。派手な取り合わせだな、諸岡先生みたいなのがこういうところに言及しないのは意外だ)
 かたや緑地に黄のチェックの入ったジャージ、こなた真っ赤なカーディガンと、わりあいドレスコードに忠実な二年二組の中にあって、このふたりはかなり目立つ態をしていた。見目形の整っているところもこの印象を強めている。
 ふたりの会話を見るともなしに眺めていると、ややあってふたたび校内放送を触れるチャイムが鳴った。
『全校生徒にお知らせします』教室内の騒擾がはたと止んだ。『学区内で事件が発生しました。通学路に警察官が動員されています。各自できるだけ保護者の方と連絡を取り、落ち着いて、速やかに下校してください。警察官の邪魔をせず、寄り道などしないようにしてください。繰り返しお知らせします――』
(ほんとうに叔父さんがいるかもな)
 ジケン。ソーサ。昨晩の件に関係が? お年寄りかなにかが行方不明になる。叔父出動。今朝、河川敷で死体が上がる。そして死体には他殺の痕跡が――悠は妄想を振り払った。関係しているからどうだ? 叔父にあっても自分には関係ない、いま考えるべきはこういう状況下で、従姉妹をジュネスへ連れて行くか行くまいかということだ。彼女の父親が、まして刑事の彼がそれを心配しないはずはない。
(どうしたもんかな……冷蔵庫の中身みておけばよかったな。近くに店とかあるかな。昨日の残りで済ませるのも手だけど)
 教室内は以前にも況して騒がしくなっていた。生徒の誰かが何人か募って、事件を見に行こうなどと言っているのが聞こえる。あんなふうに大っぴらに寄り道するななどと言うのは、悠くらいの学生には行ってみろと言うにも等しかろう。
「鳴上、なあ」男子Aが何人か従えて戻ってきた。「俺たちさ、これから事件っていうか、なんかやってそうなとこちょっと見に行くんだけど、お前も来ない?」
「まーそれは適当に切り上げて、鳴上の歓迎会やってもいいし」と、男子B。
「愛家?」
「愛家」
「愛家か。あ、花村くるか?」
「あーわり、俺パス……」花村は沈んだ様子で、膝の手提げの中身を覗き込んでいる。「あー……バイトあるし……」
「? あっそ。で、どうよ鳴上」
「ぜひ行きたいよ、もし先約がなかったら」悠はため息をついた。できるだけ残念そうに見えるように。「そして間の悪いことに、これから女性と食事の約束がある」
「うえ……マジっすか?」
「言ったろ、どっちも大丈夫って」
「いやそう意味じゃないから」
「で、誰? まさかここのじゃ、ないよな」
「十歳下の従姉妹」周囲の刺すような視線がたちまち弛緩するのがわかる。「いや、小学校も午前放下なんだ、昼ないしさ……おいそんな眼で見ないでくれよ、嘘はついてないだろ?」
「へーへー……ま、鳴上は男一筋だもんな」
「なんだ誘ってるならはっきり言えばいいのに――今日の夜なら空いてるけど」
「いいやめんかそのネタ!」
「ネタ? おれは本気だぞ、九時以降なら――」
「あーわかったわかった……じゃ、歓迎会はまた今度な」
「楽しみにしてるよ、あらゆる意味で」
 男子たちは連れ立って笑いながら教室を出て行った。どうやら心証を損ねずにお引取り願えたようだ。
(菜々子ちゃんと約束がなければ行ったかな、おれは――行ったな、きっと)
 件の鉄芯は冷えたままだ。べつに苦しいわけでも耐えられないわけでもないが、だからといって足りないものを補おうという欲求の起こるのは防ぎようがない。もし彼らに付いて行ったら? きっと思い出ぶかいひとときになったろう。アイヤとやらで楽しいイニシエーションを受け、一日バカ騒ぎして、自分はめでたくスクールカーストを構成する一グループに迎えられる――そんなのは御免こうむる!
 もちろん、自分が行ったとしてもそんなことにはならない。これまでの学校生活を思い出せ、お前はうまくやってきた。今日もまあまあだった。明日からもそうできるはず。
 ではこの寒さはどうしよう? 
(決まってる、家族に癒してもらうのさ、昨日できたばかりの家族に。この寒さは家に持ち帰ればいい)
「あ、帰りひとり?」
 席を立ったところで千枝が声をかけてきた。背後に雪子を従えている。
「よかったら一緒に帰んない? あー、あたし里中千枝ね。隣の席なのは知ってるでしょ?」
「……そうだったかな」
「ちょ、真横にいたし。つか話したし!」
「いや、おかしいな。こんな美人だったはずはないんだけど」
「うはー……言うねこのひと」里中は赤くなった。「で……ど、どう?」
「どこか寄る予定はある?」
「んや、ないよ。女の子とゴハンなんでしょ? 十歳年下の」
「しまった、聞こえてたとは……」さもあろう、聞こえるように言ったのだ。「参ったな、これでデートに誘ったら誠実を疑われる」
「あははー残念でした」
「なら仕方ない、一緒に帰るだけで我慢する」
「じゃ、ヨロシク――でェ、こっちは天城雪子ね」
(松風と、村雨も一緒か)
「あ、初めまして……なんか急でごめんね」
「のぁ、謝んないでよ、あたし失礼なひとみたいじゃん。ちょっと話を聞きたいなーって、それだけだってば」
「それだけ? それだけだったのか……どうも途方もない期待をしてたみたいだ」
「うおーい……どんな期待よ」
「明るいうちは言えない。聞きたい?」
「いーって!――鳴上くんてさ、向こうで変わってるって言われてなかった?」
「変わって、とはよく言われてた」
 雪子が千枝の背後で「むふっ」と笑って、あわてて俯いて口元を覆った。
「ご、ごめんなさい、笑うつもりは」
「あーほら行こ、喋ってるとまた――」
「あ、里中……さん?」
「ん、どったの?」
 三人の会話に割って入って来たのは、先の男子Cこと花村である。なぜか申し訳なさそうに、悄然として、薄っぺらい手提げの中をごそごそやっている。
「帰ったかと思ってた。なによ」
 確かに花村はいちど帰ろうとしていたらしい。彼は教室の後側の入口から戻ってきて、なにか後ろめたい様子で千枝に声をかけてきたのだった。
「あの、これ、スゲー、おもしろかったです」花村はなにか箱状のものを手提げから抜き出した。「技の繰り出しが、その、さすが、本場っつーか……」
「おっ、わかっとるねー花村氏ィ」千枝の眼がとたんに輝きだした。「じゃまたジェット・リー戻ってェ、つぎワンチャイいってみよーか、こないだ少林寺みたよね、あたし的には2とアラハンはちょっとねー、つまんなくはないんだけどさ、ユエ・ハイ目当てでなきゃオススメできないかな、またなんで早回しとかするんかねーホントに、あーあの先生のことね、シーフォー」
「いや、それはいいんだけど――」
「あっ、成龍伝説の話だったよね」千枝の眼はいよいよ輝きを増す。「よかったっしょそれ、それ見ればジャッキー・チェンの代表作はひととおり押さえたことになるから、でもゴージャスが入ってないのは完全に納得いかんけど。まジャッキー・チェンは入門編だけどさ、カンフー映画に入りやすい間口を作るのって実はすっごく大変なんだって思うんだよね。そーそーなんでドラゴン怒りの鉄拳が入ってるんだって、あれラストでコンサンが――」
「申し訳ない、事故なんだ!」
「おおっ、ツウですなあ花村氏!」千枝が花村の肩をびしびし叩く。「コンサン語るなら事故は外せないよね! で、花村はどれ? ヘリ? 時計台? 電飾? あたしは断然ポリストだなー、なんたってあのあと走ってんだからコンサン――なにそれ」
「バイト代はいるまで待ってくれ……!」
 花村は抱えていたなにかを千枝に押し付けた。無残に潰れて、ついでに水に濡れてごわごわになったDVDのボックスを。
「え、ちょ……え? な、なにしてくれてんのアンタ……」
「じゃ!」
「待てコラ! 貸したDVDになにした!」
 逃げ出そうと身を翻した甲斐もなく、花村は千枝の飛矢のようなフロントキックを食らってつんのめった。つんのめってそのまま机に激突し、座っていた女子の白眼に晒された。
「せっ、せがれが……!」花村は股間を押さえて悶絶している。「兄のほうが……!」
(家名断絶……)
「あんたコレ数量限定で――ああーっ! 信じらんないヒビ入ってんじゃん……!」ボックスの中身をひとめ見るなり、千枝は絶望の叫びを上げた。「あたしの成龍伝説があぁ……」
「俺のもヒビいったかも……机のカドが直に……!」
「コレ買うためにどんっだけ沖奈まで通ったと思ってんのよォ……通いまくって電話しまくってダメで……キャンセルいっこ出てやっと買えたのに……高かったのに……コンサン……」
「だ、大丈夫?」
「ああ、天城、心配してくれてんのか……」そうとう痛いのだろう、花村の額には脂汗が滲んでいた。「でもうちの息子、今夜が峠っぽい……ジャ、ジャンプせねば……!」
「いいよ雪子、花村なんかほっといて!」
「でも、その、ああいうところの怪我ってヘタすると命に関わるっていうし」
「関わっていいよ、つか関わらせたいよ。いまヘーキで立ってたら骨盤脱臼さしてるとこだから!」
「マジで悪かったって……買って返すから……ああ……!」
「売ってないの! もう!――行こ、ふたりとも」
 ボロボロになったナントカ伝説をリュックにしまうと、千枝はぷりぷりしながら教室を出て行った。雪子も気遣わしげに花村を振り返りつつそれに従う。
(そうか、朝のあのときだ、ぶつかった弾みに落としたんだな。気の毒に)
「ええと、大丈夫?」
「大丈夫ない、くるしい……!」
 さすがに見兼ねたものか、彼に深刻な痛撃を加えた机の主人が立ち上がって「ちょっと大丈夫? 保健室いく?」などと声をかけている。
「鳴上くーん?」廊下から千枝の声が飛んできた。「行こーよ、そんなのほっといていいから」
(仕方ない、ここにいてもできることはないし、介抱は彼女に任せればいい……そっとしておこう)
「その……お大事に、花村」
 悶え苦しむ「そんなの」を後目に、悠は千枝たちの後を追って廊下に出た。




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