「あ」
「……これ、里中、だよな」
「じゃあ、ずっと待ってた、ってこと?」
例によって、テレビの中を通る前にあちら側の様子を確認したところ、あにはからんや、携帯の液晶に膝を抱えてうずくまる少女の姿が映し出されたのであった。顔を伏せているので、自分の撮影されているのに気付いた様子はない。
「うっわマジかよ……軽く一時間以上経ってんだぞ」
膝の間に顔を埋めるようにして、右手には陽介の置きみやげを力なく握っている。千枝は微動だにしない。さながら「途方に暮れる人」という題で彫られた石像のよう。
「あ、こないだの女の子クマ。あの子も呼ぶクマ?」
「あのな、俺らこれから向こうへ帰るの」
「……帰っちゃうクマ?」
「うう……んな寂しそうな声だすなって、また来てやっから」
「ほんとクマ?」
「なっ、鳴上」
「安請け合いできないよ、こればかりは」
クマを喜ばせるような返答ははっきり言って難しい。かの巨人が一連の事件の犯人ではなく、また焦眉の急と思われた命の危険も誤解であった以上、強いてこの世界に入る理由は失われつつあるのだ。そして軽々しく遊びに来るにはこの世界は剣呑に過ぎる。
(少なくとも、花村や里中を連れてくるには)
「え、なんでだよ」
「理由は外で話す。とにかく、これいじょう里中を待たせるのは可哀想だ。行こう」
「あー……じゃあ、クマ、また近いうちに来るからさ」
「ほんとに? ほんとクマ? 約束クマよ」
約束――そういえば自分は、この着ぐるみとなにか約束したのではなかったか?
(思い出した……やっかいな約束したな、いま思えば……)
もっともただの口約束である。反故にすれば多少は良心も痛もうが、身の危険に換えられるものではない。
「ああ約束な。じゃあな――鳴上、行けそうか?」
「行ける。先に行って、大丈夫なら手を入れるから」
「了解」
――悠がテレビから出てきても、千枝の気付いたふうはなかった。
(寝てるのかな)
「里中どう?」テレビから陽介のあたまが突き出てくる。「足だすぞ、いいか?」
「いいよ。あ、待った、そこ。おれが支える」
「手、鳴上ちょっと、肩かして、手が」
「これ台とか用意できないか――そこ踏むな、踏むなって、そこ壊れる」
「じゃ、せーの、で」
「せーの」
テレビから出るためにごそごそやっているのに気付いたようで、ようよう陽介が出てくるころには顔を上げて、千枝は呆けたような面持ちでよろよろと立ち上がった。
目が赤い。
「……ええと、ただいま」
「か……帰っでぎだあ……!」
顔面のすべての穴からおびただしい体液を噴出させつつ、千枝はわんわんと泣き出してしまった。
「おいおいなにも泣くことねーだろ、どうしたんだよ――」
「ふっ、ざっ、けんなオラァッ!」
千枝は泣き叫びながら、歩み寄る陽介の脇腹に猛烈な中段蹴りを食らわせた。立て続けに三発も。
「さ、里中ちょっと……!」
「あんたもォ!」
千枝はなおも泣きつつ、後退る悠の脇腹に腰の入った中段蹴りを食らわせる。立て続けに三発も。
「キドニーが……!」
「浮動肋骨が……!」
「どうしたじゃないよっ! ほんっとバカ! 最悪!」千枝は声をひっくり返して喚いた。「もう信っじらんない! アンタらサイッテー!」
「おい、里中に残れって、言ったの、おまえだよな……!」
「オメーが、そもそもひとりで、ホイホイ入るから……!」
悶絶しつつ責任をなすり付け合うふたりに、無慈悲な足蹴りが飛んだ。
「ロープ切れちゃうし……ろうしていいが、わがんないし……ひんぱい、ひたんだがらァ……!」
千枝の涙は見せかけのものではない。小さな子供が恥も外聞もなくがむしゃらにするような、なりふり構わない泣きっぷりであった。悠と陽介がテレビに入ってからいままで、きっと彼女は本気でふたりの身を「ひんぱい」し続けていたのだ。
(……悪いことしたな)
無事に出てくるかさえわからない、ふたりのクラスメートを待つ一時間の、どれほど狂おしく心細かったことだろう。まして目撃者は彼女ただひとり、周りに事情を説明することも適わない。思うだに千枝の苦痛に満ちた忍耐が偲ばれようというものだ。
「すっげー、心配したんだからね! あーもう腹立つ!」
とどめとばかり、もう一発づつスネにお見舞いしたあと、千枝は泣きながら走り去ってしまった。
「いってェ……あの肉食獣……!」
「なんでおれまで……完全にとばっちりだぞ……!」
仲良く痛がっていると、千枝と入れ替わりに若い店員がひとり、うずくまるふたりを訝しんで近づいてきた。
「陽介くん、どうしたの」
「いえ、なんでもないんす」
「……なんでそんな煤けてんの? 火事に遭ったみたい」
「あはは……あー、ちょっと学校で」
「うっわ、そのカッコでここまで来たんだ? 警察に捕まるよ」
「えーその、気をつけますから――あ、葛西さん向こう、客きてるみたいすけど」
「あ、マジ?」
陽介の陽動で、葛西さんは冷蔵庫の森へと消えていった。
「なんで煤けてるかって? 火事に遭ったんだっつの……」
「あれが葛西さん、ね」
「そ、しょっちゅう倉庫でタバコ吸ってんの。サボりの常連」
「葛西さんが煤けてなくてよかった」
「あはは……笑いごとじゃねーか。これで失火とかやらかしたらあのひと物理的にクビだよ」
(そうだ、こっちのコニシ酒店は無事なんだろうな。まさか向こうが燃えたからこっちもなんて……)
まさかとも思われるが、こちらの世界のものがあちらの世界へ出現する因果関係自体まったくわからないのだから、逆のことが起きていても不思議ではない。
(向こうの世界に人間が入るとコピーが行われる、というなら、おれたち三人が最初に入ったときの説明がつかない。あの人間から出てきたシャドウが関係してるんだろうか? 陽介のときはなにも……いや、陽介は二度、あそこに行ったことがある、新しい舞台は必要なかっただけかもしれない。必要? なにに必要なんだ?)
「……なあ」
どちらからともなく黙って、ふたりとも考え事に没頭することしばし、先に沈黙を破ったのは陽介だった。
「なに?」
「悪いことしたな」
「ホントだよ」
「いや、お前じゃなくて、里中」
「……ホントだよ」
(なに考えてるんだと思えば……)
「それにしても、やっぱこのカッコ目立つな」
一般の高校で着られる学生服の例に漏れず、八校のそれも黒一色である。多少煤けたところで目立ちはしないが、悠も陽介も顔といわず髪といわず汚れ果てていた。葛西さんの「警察に捕まる」発言は誇張であるにしろ、衆目を引くのは避けられまい。
「あとで便所いってカオ洗お……ちったあマシになんだろ」
「んん」
「……なあ、鳴上」
「ん?」
「さっきの、シャドウのことなんだけど」自然と陽介の声は低くなった。「もしさ、あのときお前がいないで、俺ひとりでシャドウを怒らせてたら、さ」
「…………」
「つまり、先輩とかはさ、怒らせて……殺されたってことなんだよな。もうひとりの自分が出てきて、俺がそうなったみたいに、お前はあーだ、お前はこーだとか言われて」
「そうして、こっちに帰ってきた」
「死体になって、な」
彼の煤まみれの横顔に、なにかある種の決意のようなものが閃く。イヤな予感がする。
「結局、先輩たちをテレビに入れた犯人はわからなかった」
「花村それは――」
「なあ鳴上、俺とお前でその犯人、捕まえられないかな」
(言うと思った! さっきのは枕か。こいつ、これを考えてたんだな……)
「お前がいれば、いや、もしさっきのタロットが使えるなら、俺だってあのペルソナを使える。たとえ犯人が誰かをテレビの中に落としたって、俺たちとクマなら助けられる!」
「……なあ花村、おれたちは高校生だ」
「それも転校生な。なんか漫画みてーだな、ふたりの転校生が――」
「しろうと、なんだ。犯罪捜査の。おれたちは」噛んで含めるように続けて、「警察に任せるべきだ。おれたちじゃ手に負えない、責任を負えない」
「警察が捕まえられんのかよ、ひとをテレビに入れてる殺人犯なんて! お前またテレビにひとが落とされたとき、黙って見てるつもりなのか? 助けられるのに!」
「おれたちにはなんの義務もない。でもいったん手を出せばそれ以降は義務になる。義務にせざるを得なくなる。少なくともおれならそうする」
「そうすりゃいい。するべきだ。できるんだから」
「……お前の義務はなんだ花村。手に負えない、やりかたもわからない、やったこともない、できるかどうかもわからない、果ても見えない、報いもない、命の危険だけはたっぷりあるボランティアか。おまえの言うことに首を突っ込めば、どうしたっておれたちの生活はそっちにウエイトが傾く、絶対に」陽介を睨みながら続けて、「もう一度いうぞ、高校生であるお前の、おれたちの義務はなんだ? それは健康に気をつけて、勉強して、高校を卒業することだ」
「違う、やれることをやれるだけやることだ!」
「…………」
「違うかよ」
(やれることをやれるだけやれ、ね……流行ってるのか?)
まさかいまここで、母の口癖が陽介の口から出てくるとは――これが母なら甘えて煙に巻いてしまっても構わないが、
「おまえの意志は崇高だと思う」無論、相手は陽介である。「おまえがまんざら、あのペルソナを使ってみたいってだけの理由で、そう言ってるんじゃないってことはよくわかってる」
「お前そんなふうに思ってたのかよ」
「そういう感情がない、なんて言わないよな」
「……ないわけじゃない、認める。でもモチベ維持すんのに必要だろ? そーいうの」
「前向きだな」
「それに約束もある」
「クマとの? 本気で考えてたのか」
「お前、考えてなかったのか?」
「そういう感情がない、なんて言わないよ」悠はため息をついた。「あんなあやふやな口約束に命をかけることなんかできない」
「あいつ、寂しそうにしてた」
「おれも寂しそうにしようか」
「お前、真面目に考えてるのか?」
「花村、真面目に考えてくれよ、おまえの言う犯人捜しや被害者救出の具体的な方法を。それなしにおれを説得できるなんて思うなよ」
「俺は……」たちまち陽介が言い淀む。「俺は、お前とふたりなら、そういうこと考えられるかなって思ってるんだ。お前アタマよさそーだし」
「愚者に向かってよく言う! 手品師ならペテンのひとつにくらいかけて見せたらどうだ」
「お前も愚者なら手品に引っかかれよ。バカなんだろ」
これだ。もちろんこういう彼だからこそ、自分は友人に選んだのだ! 悠は唇を噛んで笑いたいのを堪えた。陽介はこれでいい、理屈を並べ立てるせせこましい仕事は自分の得手であって、彼の領分ではない。
(おれはやりたいのか、やりたくないのか、結局はこれだ! もう自分で自分の判断を非難して落ち込んだりはしない。具体的な方法だって? バカとペテン師が力を合わせれば、それらしいやり方なんていくらでも思いつくさ)
「つまり、ノープランってわけだ」
「そーですよ、ノープランでノーフューチャーですよ」
「……救助は、テレビの中にひとが入れられてしまったときの救助は、おれたちにしかできないだろう」やってできるものなら、だが。「犯人捜しのほうは保留としても、そっちは試してみてもいいと思う。ただし」
「ただし?」
「おれはともかく、おまえ、大丈夫なのか? バイトとかあるだろう」
「ああ、んなもん人命救助が最優先だろ」
「それはそうだ。おれが言ってるのはアフターケアのこと」
「なんの」
「花村陽介の社会的立場」
「大丈夫だって!」陽介は楽観的だった。「んな毎日まいにち落とされ続けてるってワケじゃねーし、俺だって毎日シフト入ってるワケじゃねーし」
「シフトが入ってる、という理由で救助を拒まれるのが一番こまる」
「ないない。ありえない。約束する」
「……約束はいい。じゃ、とりあえず仮採用ということで」
「おっ、面接成功?」
「ふつう面接官の質問にノープランでノーフューチャーなんて返さないけどな」悠は苦笑した。「……あなたの意気込みはわかりました。でも我が社の仕事はつらいですよ」
「うっす、なんでもやります!」
「勤務時間も不規則です。昼の出勤もあるかもしれません、その場合は問答無用で学校をサボっていただくことになりますが」
「とんでもねーブラック企業だな」陽介は苦笑した。「わかってる。そんなのはどうとでもしてみせる。これは俺たちにしかできないことなんだ、構ってられっかって」
「やってみるしかないな」
「おお、やってみせようじゃねーか。てことで――」
と言って、陽介は悠に手を差し出した。
「これからよろしくな、鳴上」
「ああ、よろしく、花村」
手を握ろうとすると、陽介はなにか思いついたように「あっ、待った待った、やりなおし」と手を引っ込めた。
「なに、やりなおし?」
わざとらしく咳払いなどして、陽介はもう一度手を差し出した。
「これからよろしくな、悠」
「…………」
「悠?」
「……花村、名前はあんまり」
「よ、ろ、し、く、な、悠!」
(よりによってユウ呼ばわり……まあ、いいか)実際、不快感はなかった。(おれは変わったんだ。それをこいつの声で確認し続けるのも悪くない)
「よろしく、花村」
手を握ろうとすると、陽介は「ああ?」と笑ってまたも手を引っ込める。
「よろしくな、悠。――テイク3だ」
陽介がみたび手を突き出して、まっすぐ悠の目を見据えてくる。彼もまた変わったのだ。そしてその確認を求めている。鳴上にではなく、悠に。
「……よろしく、陽介」
陽介の会心の笑顔。そして彼はようやく握手に応じてくれたのだった。
視界の端にちらとなにか動くのが見えて、悠はとっさに手庇を解いた。
(……誰?)
河川敷脇の公園の前で彼は立ち止まった。そうして糠雨のさなかにじっと目を凝らす。公園の中に設えられた四阿に和装の女が佇んでいる。これの今ほどぱっと立ち上がったのが、まるで走ってきた自分を見咎めたかのようなタイミングに思われたのだった。
悠は少しくぞっとした。
(こっちを見てる……んだよな)
念のために後ろを向いてみる。もちろん誰もいない。すでに六時近い時刻のことで、わざわざ雨の中を好んで歩く人間など見当たらなかった。
この仕草を見てこちらの懸念に気付いたらしい、件の女が戸惑いがちに片手を上げて合図を送って来る。悠の困惑――微かな恐怖を含む――は深まるばかりである。ここに越してきてから見知った僅かな知り合いの中に、和装の女など存在しなかったはず……
大いに訝しみながら、それでも悠は公園の中に入った。このまま無視するわけにもいかないし、そうしてはなんとはなし逃げ帰るようで気も引ける。
「えっと、帰り?」
「あっ……天城?」
声を聞いてようやく、悠はこの和装の女の正体に気付いた。まるで化かされたような心持ちだった。彼は近くで見てさえ、このような妙齢の美女は知らぬとばかり思っていたのだ。
「あ、この恰好? 驚いた? うちのお使いだったから……」
「驚いた……ほんとうに誰かわからなかった。後ろ確認したよ、とっさに」
「見てた」雪子はそう言って笑った。「そりゃ驚くよね、こんなカッコ」
白梅を配った洗染に映える、赤紫と白のグラデーションが目を引く半幅帯を締め、加えて目もあやな化粧まで施した雪子は、生来の美貌も相まってとうてい高校二年生には見えない。これが薄暗くなり始める時間帯、糠雨の中に忽然と現れるのだから、
「……妖怪かなにかかと思って、一瞬ぞっとしたよ。クラスメートでよかった」
この感想は雪子を喜ばせたようで、彼女はひとしきり無邪気に笑っていた。
「ふつうの高校生が紬なんか着ないよね。わたしだってコレ、普段着じゃないよ。仕事のとき着るだけ」
この何気ない「仕事」という科白も、彼女の高校生らしからぬ雰囲気をいっそう際立たせる。
(仕事か。この歳で仕事、してるんだもんな……大変だよな)
つい先日に「ああいう家に生まれなかっただけ運がよかった」などと軽々しく考えたことに、悠はいまさらながら小さな罪悪感を感じていた。
いったい陽介に対しても言えることだが、こと社会的な立場において、悠はどうしても彼らにある種の引け目を感じてしまう。彼らにとっては当たり前の労働をゆえなく免れているという、筋の通らない、それでも脳裏を離れない感情。バイトさえしたことのない悠はともすると、いま目の前で話している少女が自分より五、六も年嵩の、立派な社会人のようにも錯覚されるのだった。
雪子がベンチに腰を下ろしたので、体面上、悠も少し離れて彼女に倣った。学生服の上を脱いで形ばかり露を払う。ジュネスを出てから降られたので傘の用意もなく、学生服の上も下も水に漬けたみたいになっている。
(明日までに乾くかな、まあ、煤っぽいよりはいくらかマシか……それにしても)
こうして見れば見るほど、千枝がだれかれ構わず自慢したくなるのがよくわかる。そっと横目に盗み見る雪子の姿は言おうようもなく美しい。止まっていれば絵画のようだし、動けば動いたで映画のワンシーンのようである。まるでこの糠雨も四阿も、当世では珍しい和服姿も撮影のために用意されたもので、どこか悠の見られない位置でカメラが回っているかのような。
「……これ、この帯、このあいだ言ってた水名羽染め」
「え?」
雪子が半身を捻って、悠に身につけた帯を示して見せる。折鶴を散らした地に赤紫と白のグラデーションが波打っている様は、言われてみれば確かに、
「……ムラサキキャベツっぽい、かも」
「ぽいよね。実際にキャベツで染めてるわけじゃないけど」
「そういえば、和服着たひとを生で見るのって、生まれて初めてかもしれない」
「そう? 東京って、そういうひといないの?」
「おれは見なかったな……見てもおかしくないところに住んでた、はずなんだけど」
柴又在住であった自分が初詣の時期にくらい、帝釈天を訪う和装の女性を見かけなかったはずはないのだが、記憶にはまったく残っていないのだ。顧みて我がことながら奇妙な話ではある。
(まあ、初詣って言ったってほとんど外に出なかったんだから、当たり前なのかも)
「へえ……柴又、だったっけ」
「そう、寅さんの柴又」観たことは一度もないが。「新柴又駅の近く」
「きっと都会なんだよね、ここよりずっと……」
雪子はじっと自分の草履を見下ろしている。なんとなく千代田区クラスの大都会を想像していそうな雰囲気である。
「こういう田舎に転校してくるのって、やっぱり大変だった?」
「大変じゃなかったけど。でも正直、転校はイヤだった……かな」
実際、それが偽らざる気持ちだった。もっともここへ来て得たもののことを思えば、かしこまって参ぜよと過去の自分を叱ってやりたいくらいだが。
「……そうだよね、都会から来るんだから」
「こういうところって、学校の授業で田植えとか稲刈りとかあるのかなって、悩んだりして……ちなみにあるの?」
「田植え? ないよ、さすがに」雪子は苦笑した。「あ、でも小学校の頃とかあったかな」
「よかった、これでひとつ悩みがなくなった」
「……あの、鳴上くんって、ご両親がアメリカに行ってるって言ってたけど」
「うん。いまごろなにしてるんだか……向こうっていま何時くらいになるんだろう」
「確か十七時間くらい、マイナスなんだよね、時差」
「へえ。天城、詳しいんだ」
「えっと、アメリカってだいたいそのくらいだったと思うんだけど、よくわからないけど……」
「そういうことぜんぜん知らなかったな。自分のオヤがいるのに」
(……ところで天城って、こんなところでなにしてるんだ?)
まさか映画の撮影ではあるまい。うちのお使いとのことだったが、こんなところで、それもこんな時間に油を売っていていいのだろうか。こんな寂しい公園で人待ちというのもなさそうだし、おそらく彼女の仰せつかったお使いとやらは終えたのだろうが。
(ひょっとして、おれがいるから立つに立てないのかな)
「カリフォルニア州のサンノゼ、だったよね、確か」
悠の懸念もどうやら杞憂のようである。なんとなく雪子は話したげに見えるのだ。こちらが返答している間に、すでに次に投げかける質問を用意しているような、そんな気配を彼女から感じる。
「そう。なんでもアメリカでいちばん治安のいい都市なんだって……そうじゃないところもあるらしいけど」
「……どんなところなんだろうね、向こうって」
「サンノゼ?」
「うん。あ、鳴上くんは行ったことないんだよね」
「ないけど、いいところみたい。父親の話では」
「へえ……」
(……聞きたそうにしてる)
雪子の顔にそう大書してあるのが見えるようだ。悠自身も切れぎれの伝聞で大して詳しいわけではないものの、こんな顔を用意されてはなにか話してやらないわけにもゆかない。
「……そう、ハンバーガーとアメフラシがものすごく大きいって言ってたっけ」
「アメフラシって、あの、海にいるアメフラシ?」雪子が瞠目する。「食べるの? アメフラシ」
「もちろん食べない……と思う、たぶん。食べるとは言ってなかったけど」
「アメフラシ……」
「うん。一昨年の夏に、ハーフムーンベイっていう沿岸の町の近くの、ペスカデロっていうビーチに遊びに行ったときに――」
多少の脚色と真実らしい憶測を交えつつ、悠は父から聞いた「体長百二十センチのアメフラシ」に遭遇したときの話を聞かせた。泳いでいるときにいきなり出会してこっちへ近づいてきたこと、逃げても追い縋ってきたことから、彼はおそらく肉食であろうこと、一緒にいた仲間の誰に話しても信じてもらえなかったこと、等々。
「百二十センチってかなり大きいよね……犬くらい? アメフラシってそんなに大きくなるものなの?」
「さあ、種類によってはそのくらいになるのかもね。誇張したのかもしれないし――そういえば、うちの菜々子ちゃん、覚えてる?」
「え? うん」
「百二十センチってだいたいあのくらい」
悠がこう言ったとたん、雪子が大口を開けてけたたましく笑い出した。「ひどい! その喩えひどい!」などと言いながら、しかし口ほどにもなく身をよじっている。
(ひとが違ったみたいだ……コレ、ほんとうに天城なのか……?)
雪子のひとしきり笑い止むまで、悠は心中ひそかに「天城妖怪説」を疑っていた。
「ひどいって……菜々子ちゃんかわいそ……むふっ……」
「……ところで天城、いつもこんな時間までうちの手伝いを?」
ひとりこんなところに座っていた理由を婉曲に聞いたつもりだったが、雪子は知ってか知らずか「え、うん、もっと遅いこともあるよ」と言うに留まった。
「今日、学校きてなかったけど、かなり忙しいんだ?」
「んん……小西早紀さん、亡くなったんだってね。千枝にメールもらったんだけど」雪子の貌がたちまち曇る。「そういえばこの近くだったよね。ひどいよね、こんな静かなところでそんなことが起きるなんて」
「うん」
「……その、千枝とかとはどう?」
「え?」
「え、と、隣の席だし、なんか一昨日とか、いっしょにジュネス行ってたみたいだし」
(行きましたとも。ジュネスとか、テレビの中とか)
「一昨日も昨日も、今日も行ったな、そういえば。これで天城もいれば言うことなしだったんだけど」クマはたいそう喜んだことだろう。「軍資金、早く来ないとなくなるよ」
「うん……うちが落ち着いたら、ね」
「里中の腹の虫、監視しなきゃ」
「よく食べるから、千枝」雪子にようやく笑顔が戻った。「……千枝ってね、すごく頼りになるの。わたしいつも引っ張ってもらってる」
なるほど確かに、テレビの中では泣いたり叫んだりとたいそう頼りになったものだ。おまけに陽介も悠も学生服の裾を引っ張ってもらっていた。
「去年も同じクラスでね、一緒にサボって遊んだりしたな」
「へえ……ところで天城、時間、大丈夫?」
「え、あっ」
腕時計は六時半前を指している。そろそろ彼我の目鼻立ちの判別しがたくなる頃合いである。
「おれはこのまま朝まで話していたいんだけど、ひょっとしたら天城は迷惑かなって」菜々子も背と腹がくっついてしまう。「それとも今日はここに泊まっていく?」
「えっと……今日は遠慮しとく」雪子は笑って腰を上げた。「帰らなきゃ。うちの旅館、わたしがいないとぜんぜんダメだから」
「なら仕方ない。残念だけど」悠も立ち上がった。「おれもそろそろ帰らなきゃ。うちのアメフラシにエサあげないと」
「え、アメフラシ?」
「体長百二十センチの」
雪子は笑いながら、開きかけていた和傘で悠を打つふりをして、すぐ思いついたように、
「あ、鳴上くん、コレ使う?」
持っていた古風な和傘を差し出してきた。
「使うって、天城は」
「いいよわたしは」
「いいって言えば、おれのほうがもっといいけど」濡れそぼった身体を示して、「もう傘なんてあってもなくても一緒だからさ」
「……そう」
「……傘よりもその水名羽染めの帯がいいな」
今度は打つふりでは済まなかった。
「じゃあ、気をつけて」
「うん。鳴上くんも」
「いまその傘で殴られた脚が折れてなきゃね」
雪子は笑って辞去して、雨の中を十歩も歩いたあと、なにか思い出したように四阿を振り返った。
「なに? やっぱり帯くれる?」
聞こえたはずだが返事はない。彼女の顔は錆朱の傘布にほとんど隠されていて表情もわからない。ただその唇だけが黄昏の雨の中に仄赤く、もの言いたげに眺められる。
「…………」
なんだかうそ寒い、不吉な予感を伴う光景だった。いまなにがしか決意を秘めたようにして立ち竦む彼女に、もう一度言葉をかけたら、霧か煙みたいに忽然と消えてしまうのではと思わせるような。
「……また学校でね」
ややあってそれだけ言うと、雪子は踵を返して行ってしまった。