ジュネスの二階、家電売場の奥、件のプラズマテレビの坐すその前に、たたずむ異様な態の少年がひとり。
「あっ、いた」
と、千枝の指さしたのに気付いて、陽介は振り向いて斜に構えた。
「……花村、なにそれ」
(鬼退治にでも行くつもりか?)
家電売場にいて然るような人間として、陽介は売る側にも買う側にもいささかふさわしからぬ恰好をしていた。馬手にゴルフのドライバー、弓手に荒縄を一巻きという出で立ちで物憂げにたたずむ彼を、いったい葛西さんとやらは見咎めなかったのだろうか? これらを活用する集客なんてものをもし彼が想像したとするなら、ジュネスの地域社会への健全な奉仕のためにも、
(葛西さんは倉庫で百マイルくらい煙草を吸ってるべきだな……巡回の警察に見つかったらなんて説明するつもりだったんだ?)
「お前ら、なにしに」
「バカを止めに来たの!」と、千枝。「なにそのカッコ、それでなにしようっての!」
「鳴上……」
陽介の貌にも声にも、もはや敵意はなかった。ただ一刻も早くなにかをしようと急くのに、それをできないでいる人間がたいていそうするように、彼は途方に暮れていた。
「最初に家電を買うべきだった、花村」悠はなるたけ友好的に声をかけた。「そのあとにホームセンター。スポーツ用品店は最後にするか、包装してもらったほうがよかった」
「…………」
「……問題はそれで縛ったあとだよな。よそで買えないようにするには効果的だけど、ひょっとすると客の購買意欲を削ぐかもしれない。そのゴルフクラブでどこまでアピールできるか」
「鳴上」陽介はちょっと笑った。「ぜんぶお前の言うとおりだよ。焦ってるだけだ、俺は……もう手遅れなのに」
「ふつうにいらっしゃいませって言えば?」
「そっちじゃねーって!」陽介にようやく笑顔が戻った。「そーいうふうには見えねーだろ普通!」
「警察もそう考えてくれたらいいけどな。ちょっと悪目立ちし過ぎじゃないか」
「そーだよ、客とかフツーに引くって――つか、花村、マジで中はいるつもりなの?」
「……鳴上しだいだ」懇願めいて続けて、「鳴上、それでも、さっきお前に説得されても、納得できないんだ、俺。きっと納得したくないだけだ、でも、完全に納得するにはどうしても引っかかることがあるんだ」
「と言うと」
「あの世界だ――変な言い方になるけど、俺はそれを、きっと自分を納得させないための最後の救いにしてる。そうさ、お前の言うとおりなんだ。先輩のことで後悔して、もうなにしても遅いってのに、俺は、だれも入っていけないところになら、俺たちの常識の通用しないあそこなら、こっちじゃありえないようななにかが、先輩のこと、なにか教えてくれるかもしれないって、きっと思ってるんだ」
「…………」
「へへ、なんか、新興宗教にハマるひとって、こんなカンジなんかな?」陽介の面は悲痛そのものである。「でも、学校でお前に言ったこと蒸し返すワケじゃねーけど……これがぜんぶ偶然だなんて、思えるか? お前」
「ぜんぶ偶然だとは思ってないよ」
「お前の考えを聞かせてくれよ」
「おれの考えか……」悠はちょっと考える素振りを見せた。「……今日の夕飯は挽肉多めのロールキャベツにする予定なんだ。里中の考えではそれが菜々子ちゃん的にベストらしい」
「鳴上くん……」
「おれはロールキャベツにはトマトを入れる派なんだ。栄養あるし、菜々子ちゃんみたいな子供には率先して摂らせたいし、いまは旬だし」
「鳴上――」
「トマトはジュネスで買おうと思ったんけど……よく考えたらあんまり安くないような気がしてさ、どこかもっと安い店ないかなって、考えてる。まずどこから回ろうか。テレビの中なんてどうかな。あんまりひとが行きそうにないし、穴場もありそうだ」
「ちょっ、鳴上くん?」
「クマがひと玉百円より安い店しってるかもしれない」
果たして、陽介の面に救われたような、安堵したような色が浮かんだ。――千枝の顔面に訪れた変化と対照的ではあったが。
「お前……お前がそういう奴で、なんかよかったよ、鳴上」
「安く買えるならそっちのほうがいいもんな」
「へへ、だよな」
「ちょっとちょっと待って、なに鳴上くんまでバカ言ってんの? 戻って来らんないかもって言ってんじゃん!」
「ロールキャベツは里中イチオシだろ」
「ここの一階で買えっての!」
「里中はここで待っててくれよ、お前にもやってもらいたいことが――」
「花村も来なくていい」
「は?」
「トマト買うだけだ、荷物持ちはいらない。おれひとりで行く」
果たして、陽介の面に欺かれたような、困惑したような色が浮かんだ。――千枝の顔面に訪れた変化とほぼ同じものである。
「なに言ってんだ、おれも――」
「花村、学校でも言ったとおりだ、連れて行くことはできない」噛んで含めるように続けて、「さっき花村の言ったことはほとんど当て推量の域を出ないけど、いくつかはおれも引っかかってた。だから昨日、テレビの中から戻ってきた時点で、近いうちにまた入っていろいろ調べてみようとは思ってたんだ。それが今日でも不都合はない、だから入る、でもおまえは連れて行けない――危険だから」
「危険って、お前が言ったんだろ? シャドウがなにかよくわからないって」
「花村、里中も聞いて欲しいんだけど……たぶんあの世界に関わることで、まだふたりに話してないことがあるんだ」
「な、なにを?」
「里中、一昨日の深夜にマヨナカテレビを試してみろって言っただろ」
「うん」
「試したんだ……花村は感づいたはずだけど」
「ああ」
「初めてテレビの中に入った。それですぐ、こう、臑丈くらいの長い衣服を纏って、へんな鉄仮面と籠手を着けた巨人に、いきなり殺されかけた。四メートルくらいもある冗談みたいな凶器もってて……あやうく逃れたけど、たぶん、あの世界にそいつがいる。あと、考えたくないけど、おれ、狙われてるかもしれない」
殺される、という言葉が、どのていど真実味を帯びてふたりの耳に響いたか――陽介も千枝も口を半開きにして硬直している。
「……おれがあの世界で尖ってたわけ、わかってくれた?」
「そんなに危ないなら中はいるなんて絶対ダメでしょ……つか、なんであのとき言わなかったんよ……!」
「言ってふたりが元気いっぱいになるなら、そうしたかもね」
「ならひとりじゃもっとダメだろ! 俺は――」
「ふたりじゃ余計ダメだ、おれに万一のことがあったら、花村は出られなくなるんだぞ」
「そうだけど……お前危なすぎだろ」
「……あれだけ歩き回って会わなかったからには、うちのテレビとここのテレビとでは、たぶん出るところに相当な隔たりがあるんだと思う。ちょっと入るくらいなら大丈夫だろう。例のクマを掴まえて、いろいろ聞いてみる。もしできれば、花村の言うようなことについて調べてみる」
「すぐ出てくるんなら俺も――」
「花村、この天秤に」と言って、悠は右の掌を差し出した。「好奇心の対価として載せられるのは自分の命だけだ。他人の命に責任は持てない」
「責任は自分で持つ、頼む!」
「花村は自力でテレビに出入りできない。中に入った時点で望むと望まざるとに関わらず、花村の安全はおれの責任になるんだ」
「なあ、頼むよ、お前の指示に従うから」
「すぐ戻る。朗報を待って」
「ダメだってばァ!」千枝が声をひっくり返して怒鳴った。「あのさもう……ホント、落ち着こって、あたしら関係ないじゃん。なんかわかったからってどうすんの? 鳴上くんが言ったんだよね、取り合ってくれないのに警察に報せるのかって!」
「里中は気にならない?」
「だから訊いてどうすんのっつってんの!」
「トマトを買うのさ」
「バカ、ほんっとバカ! あんた――!」
「里中!――わかったよ、鳴上」いきり立つ千枝をブロックしながら、「お前に任せるしかなさそうだ、頼む」
「ふたりは誰か来ないか見張っててくれ。そう、葛西さんは?」
「来てから見てない。倉庫で煙草かな」
「もし会ったら言っといて、花村」悠はプラズマテレビのフレームに手をかけた。「煙草吸いたいなら近場にもっといい場所を知ってるってさ」
「あたし知らんからね! もう付き合い切れ――!」
テレビパネルが千枝の金切声を遮断した。
(よかった、やっぱり向こうとこっちのテレビが繋がったんだ)
出た先は果たして昨日のスタジオである。クマの用意してくれたこのテレビがあれば、毎度まいどあの恐怖の転落死体験を経ずに済むようだ。
「クマ? クマー、いないかー」
「だ、だれクマ!」
速やかな応答があってすぐ、樽型の着ぐるみがテレビの横から回り込んでくる。
「あー! 来ちゃダメって言ったクマー!」
悠の姿を確認するなり、クマは短い脚でぴこぴこ地団駄を踏み出した。が、軽挙を咎め立てるその口ほどにもなく、彼の声には喜びが滲んでいる。
「ここはあぶないとこなんだクマ、早く帰んなさい!」
「こんにちは」
「あ……えーと、ごていねいにどーもです」
「入ってもいい?」
「ダーメ!」
「ダメ? 残念だな、クマに会いに来たのに」
「へ、クマに?」
「そうだよ、せっかく知り合いになったんだし、ちょっと話がしたいなって」
「……クマと、クマ? はなし?」
「そうクマ」
クマはしばらく考え深げによちよち歩き回っていたが、ほどなく「ちょっとだけよークマ」と嬉しげに近寄ってきた。これほどあっけなく翻意するからには、
(じっさい言うほどには危険じゃない、のかな。それとも単に寂しがり屋なだけ?)
「手を貸すクマ、こっち入るクマ」
「待って、いま脚を――」
言いかけて、パネルに片脚を潜らせようとした瞬間、悠は背中に息の詰まるほどの衝撃を感じた。――感じた、と思う間もなく、今度は硬いゴム様の床に接吻を余儀なくされる。
こうなることは予想できたはずなのに――悠は痛恨を噛み締めた。
「だ、大丈夫クマ……?」
クマが慌てた様子で、折り重なって倒れるふたりに駆け寄る。すなわち、下敷きになった悠と、彼に体当たりしてもろともテレビの中に転がり込んできた陽介とに。
「いってて……な、鳴上、大丈夫か」
(花村!)
無言で陽介を突き飛ばすなり、悠は立ち上がって猛然と彼に掴み掛かった。
「鳴上待て! おいって!」
「おまえ、おまえは……!」
情動の赴くままなにかをする、というのは、いったいどれほどぶりになるだろう?
悠は静かな驚きに打たれていた。このクラスメートのなりふり構わない遣り口が、彼の久しく遺棄されて顧みられなかった火床の、怒りの埋火を掘り起こしたのである。常に他人の中にだけ見出されてきたこの種火は、悠にとっては金鉱よりも珍かな、驚倒すべき発掘物だった。
「キミたち、ケンカはよくないクマよ……あのうふたりとも、ケンカは」
クマの控えめな仲裁もむなしく、悠と陽介はしばらく無言で揉み合っていた。かたや力任せにテレビに押し戻そうとし、こなたそうはさせまいと全力で抵抗する。
お互いついに力尽きて座り込んだのは、たっぷり十分も経った後である。
「……鳴上」
「…………」
「悪かったって」
「心にも、ないことを、言うな」テレビに凭れて息を整えながら、悠はまだ燻っている。「まさかここまで、バカだとは、思わなかった。信じられない」
「なんとでも言えよ……はあ……」
「ええと、キミたち、仲直りするクマよ。雨が降るとお年寄りがたまると言って――」
「うるさい」
「スミマセンクマ……」クマはたちまち悄気返った。
「お前、こないだの……クマ、だっけ」
「え、そうクマー」クマはたちまち甦った。「えーと、キミもクマとはなしに来たクマ?」
「クマ黙って」と、悠が割り込む。「花村、いますぐ戻れ」
「ここまで来といて戻れますかっての」
「ここの危険はさんざん話したぞ、わかってると思ってた」
「わかってるよ」陽介が尻を払って立ち上がった。「悪かった、マジで。でもこうでもしなきゃ俺、絶対に納得できねーんだ。俺自身の眼で確認しなきゃ!」
「その納得が手に入るかどうかもわからないのに、花村はもう対価以上のものを支払ってるかも知れないんだぞ!」
「気前いいだろ」
「バカにつける薬はないよな、命がかかるって言ってるのに……!」
「トマトのついでに探してみたら?」
「なにを」
「バカにつける薬。テレビの中なら売ってんじゃね?」
皮肉っぽく笑って、陽介は悠に手を差し伸べた。
「薬で治るもんか。花村は重症だ」陽介の手を取って悠も立ち上がった。「末期だ、要手術だ、致命的だ全く――もう一度いうぞ、いますぐ戻れ」
「戻る気はない」
「おまえを置いてジュネスに帰るぞって、脅すこともできる」
「できるだけだろ、お前はそんなことしない」
「もういちど腕力に訴えてもいい」
「第二ラウンド始めっか? 朝まで付き合うぜ」
悠は深いため息をついた。その様子を見て、陽介は会心の笑みを隠しきれない。
力ずくが失敗に終わったいま、この上なにを言ったところでもはや彼の翻意は叶わないだろう、短い付き合いとはいえ、悠にもそのくらいのことは理解できていた。無論、それは陽介のほうでも同様に違いない。
(おれがこのあたりで折れるって、こいつは確信してる……)
「……この一件が終わったら手伝えよ」
「え、なにを」
「おまえにつける薬、探すから」悠はとうとう陽介の同行を許した。「トマトなんか後だ。花村のは一刻を争う」
「わかってるって!」と、花村は破顔した。「で、もちろん半額だしてくれんだろ?」
「おまえを殺す毒薬なら全額だしてやるよ。ついでに焼きそばも奢ってやる」
「へえ、死んでも治んねーけど」
「言ってろ――クマ、ちょっと」
「……話してもいいクマ?」
手招きに応じて、少し離れたところで悄然としていたクマが戻ってくる。
「いいよ、もちろん。ごめん、うるさくして」
「仲直りしたクマ?」
「うん。した」
「わりーな、もう終わったから」
「仲良くしなきゃいかんクマ、ふたりは友達クマ?」
「友達じゃない」
「ええっ、俺ら友達だろ?」
「友達?」
「じゃ、なにダチよ」
「……友達ね」
普段の彼なら陳腐と一蹴してしまうこの言葉も、陽介の口から出てくると不思議に、ごく単純な虚飾のない単語として聞かれるのだった。彼は友人? この無謀で直情径行気味のクラスメートを、果たして友人と呼んで差し支えないのだろうか。
「あんだけ話して、ここまでお互いの事情わかってて、いっしょに二回もこんなとこ来といて、それでまだアカの他人ってのか? ちっと無理あんぞそれ」
「二回目は無理矢理だろ」
「悪かったって」
「友達クマ?」
「じゃあ、まあ、そういうことで」
「え、歯切れわりーな」
この程度の交流で「友達」なら、では千枝はどういう扱いになるのだろう。ひょっとしたら彼女も、そうかと問えば肯定的な答えを返してくれるかもしれない。
いや、彼女だけでは、彼らだけではない。
「友達いるなら、大事にしなきゃクマ」
思えば八十稲羽に越してくる前、柴又にいた時分、周りにいたクラスメートに対して、こういうことを考えた試しがあっただろうか。
悠は決して無視されるタイプではなかった。それどころか、彼が孤独な時間を捻出するために編み出した「処世術」の副作用によって、ちょっと顔が売れているとさえ言える存在であった。彼らは実際、悠によく話しかけて来た。これを思い出すのに大した苦労は――それこそ半月程度しか経っていないのだから――必要ない。話しかけて、遊びに誘いさえした。ときに積極的に、彼らが友人に対してたいていそうしていたように。
もし、いつもやっていたように諧謔と韜晦とで笑わせて去なすのでなく、きょう陽介にしたように真っ向に立って、自分の思うところを有体に述べていたとしたら。なにかの弾みに友情を確認されて、それをとっさに否んだとき、彼らはこう言っただろうか? 俺ら友達だろ、と。
自分は肯っただろうか?
(いや、きっと拒否しただろう。いまだってそうだ、こいつと里中が特別なんだ)
もし拒否したのなら、なにが理由だったのだろう。彼らの容貌? 声? 性格? 知性? 嗜好?――すべて違う。いままで擦れ違ってきた数多もの同級生の中に、彼の気に入る人間がひとりとして存在しなかったなどということはあり得ない。
(もちろん違う、不本意だけど、違う。おれはそれを知ってる)
彼ら一人ひとりをちゃんと弁別して見はしなかったことを、悠は得体の知れない後味の悪さとともに思い出していた。彼は自分の周りに等間隔で座っている同年代の人間たちを、「同級生」という細胞群で構成された、一匹の生物と見なして観察していたのだ。
あるいは、いまでさえ。
ではなぜもっとよく見なかったのだろう。
「うらやましいクマ。クマは友達いないから、したくたってケンカもできんクマー」
クマが後ろを向いて、足下のなにかを蹴るような仕草を始めた。いじけているのをアピールしているようだ。
「うわ、なにげにぼっち宣言とか寂しすぎるだろお前……」
「誰か……アテはないの?」
「あるわけないクマ、この世界にはクマしかいないクマ」
「お前って、どのくらい前からここにいんの」
この問いはかなりの難問だったようで、クマはそうと言われたなり、電源が落ちたようにして長いあいだ黙ってしまった。
「……クマ?」
「おーい、戻ってこーい」
ややあって、クマは小さな耳を押さえるようにしてあたまを抱えて「わからない」と宣った。
「わからんって……」
「わからんクマ……ほんとうに、わからんクマ、長いあいだクマ、どのくらい前なのか、数えてたことがあったかどうかも、もう覚えてないクマ」
なにぶん着ぐるみのことで、彼の面に表情らしいものは認められなかったが、その声音はそれを補って余りある寂しさに満ちている。
「ずっとずーっと、ひとりぼっちクマ。じゃなくていっぴきぼっちクマ」
「あー……お前って、けっこう大変なんだな」
(これが孤独なんだ、本当の)
おお、いとも笑うべきわが処世術! つまるところ悠の座っていた椅子は、それもかなり座り心地のよい、凝った造りの、おごった綺羅の張られた椅子は、ただ自称によるほかない陳腐な紛い物であったらしい。この世にただひとり、自分しかいない、「孤独」とはこの着ぐるみの座っている椅子のことだった。ほかのどんな粗悪で安っぽいものだって、近くにあれば喜んでそちらに座ったであろうほどの、冷たく硬い氷塊のような椅子。
クマのあれほどの人恋しさも宜なるかな、である。
「そりゃもー大変クマ! おまけに最近やたらとシャドウが出るし、暴れ回るし、怖くておちおち散歩もできないクマ。肩身せまいクマよ……」
「ちょっと、待って。クマ、シャドウって?」
自嘲と内省の時間は唐突に終わりを告げた。なにも陽介の常備薬を求めてわざわざこんなところに来たのではないことを、悠はようやく思い出した。
「お、そうそう! シャドウってなんなんだよ」陽介がクマに詰め寄る。「俺らいろいろ聞きに来たんだよ、そーいうこと」
「シャドウは……うーん、ユーレイ? みたいなものクマ、たぶん」
「ゆ、幽霊?」
「ここの霧が晴れるとたくさん現れるんだけど、さいきんは霧があってもウロウロしてることが多くなったクマ。意地悪で乱暴で残酷で、すごくあぶない奴らクマ、だからはやく帰ったほうがいいって言ったクマ」
「鳴上」
「クマ、そのシャドウって、どんな格好してる?」
「かっこう?」
「ひょっとして、身長四メートルくらいで、裾の長い、こう、脛まである黒い服着て、鉄仮面つけててーー」
「んーシャドウに決まった形はないクマ」と、クマが割り込む。「みんな違う形だから、そういう格好のシャドウもいるかもしれんクマ」
(とりあえず尻尾は掴んだ……のか? いや、弱いな、もっと具体的な存在だと思ってたんだけど)
始めこそ夢の中の出来事であったとはいえ、二度同じ形を伴って現れ、同じ言葉を発し、同じように命を狙ってきたあの巨人。とうてい幽霊などというあやふやなものには見えないばかりか、悠は未だかつてあれほどの具体に遭遇したことはなかったほどだ。あれがさして特別な理由を持たない、シャドウというカテゴリーに分類されてさえいればみな一様にかくあるというような、その辺りの有象無象と同じであるとは今ひとつ信じられない。
それともシャドウはそもそもが執念深くて、一度ねらった獲物はどこまでも追跡する性質なのだろうか。
「クマ、シャドウって、特定の誰かをしつこく追いかけたりする、なんて事、あるものかな」
「うーん……シャドウは危なすぎるし、クマそんなに近くまで近づいたことないし、よくわからんクマよ」
その後、さらにいくつかのやりとりがあったが、クマの返答は終始あいまいかつあやふやで、そこはかとない怖れに満ちたものだった。さしずめトラの生態に関してウサギが見解を述べている、といったような内容である。どうやら彼はこの世界の力関係において、ほとんど最底辺といってもいいほどの弱者で、シャドウとやらはその対極にある存在らしい。――なるほど彼はひとりぼっちだった。どれほど孤独を温めたところで、シャドウは話し相手に選びうるような隣人ではないのだ。
クマの提供してくれた情報は貴重であったとはいえ、それによってかの巨人の姿はより鮮明になるどころか、かえってぼやけてしまったきらいがある。今までの仮説を揺るがすには足りても、新たな仮説を立てるには質、量ともにまるで足りない。
「お前ってなんか、ここ長いって言ってるわりに、あんま知らねーのな」
「以前はこんな殺風景じゃなかったし、もっともっともーっといいトコだったクマ!」クマがぴこぴこ地団駄を踏み出した。「クマずっとひとりだったけど、静かで、いい匂いがして、なんとゆーかもっと明るいトコだったクマ!」
「その、なんでシャドウがうろつくようになったんだろう。なにか心当たりはない?」
「ないクマ、そんなもの」クマは即答した。
「お前が、ほら、なんかしちゃったとか、ねーの?」
「なんにも起きなかったし、しなかったクマ。まいにち平和で、ひとりぼっちだったけど、楽しく暮らしてたクマ」クマの声が次第に潤みがちになってくる。「クマはここに住んでただけ。ただここに住んでただけ、なんにもしないし、初めてシャドウを見たときだって、ちゃんと挨拶して、仲良くしましょうって言ったクマ。でもあいつらはクマをぶって、追い払って、この世界をこんなにしちゃったクマ……」
「…………」
「……そーいえば、キミたち、さっき言ってたクマ。シャドウのことを聞きに来たって」
「うん」
「あー、まあそれも込みでっつー意味で、だけど」
「ひょっとして……キミたち、シャドウをやっつけに来たクマ?」クマの声が一転、期待に明るみ始める。「いやいやそーに違いないクマ! ふたりとも強そうだし、それならきのう入って来たのも説明つくクマ!」
「つかねーよ! 俺ら路に迷ってたの知ってんだろーが! ただ訊きに来ただけだっつの」
「じゃあ、なんでシャドウのことなんか訊くクマー? とゆーか、クマ思うにィ、キミたちたぶんシャドウを知ってるクマ。じゃなきゃこんな興味シンシンにはならないはずクマ。そんでなんで興味シンシンかと言えばァ……それは弱点を知りたいからでェ……つまり、キミたちはシャドウをやっつけたいクマ!」
「やっつけたくねーよっ! たく、ちっとウルっと来たらこれかよ」
「クマ、シャドウかどうかはわからないけど、調べてることがあるんだ、おれたち」
「へ、なにクマ?」
「さっき少し話した、身長四メートルくらいの巨人のことなんだけど……聴いてくれる? おれたちの話」
「ほかにもいろいろあってさ、ちっと長くなるかも知れんけど」
「あっ、こんどはクマが聞く番クマ?」クマは嬉しげにしている。「聞くクマ、いくらでも。長くなったっていいクマ。お話だいすきクマ」
この「お話だいすきクマ」には真率の響きがあった。まったくこれほどお喋りで賑やかな生き物が、覚えていられないほどの長い年月を沈黙と寂寥のうちに過ごしたというのだから、
(お前ってけっこう大変、なんてレベルじゃないな。ほんとうに可哀想なやつなんだ)
陽介が「ちっとウルっと来た」のも無理からぬことである。