<このWebサイトはアフィリエイト広告を使用しています。> SS投稿掲示板

SS投稿掲示板


[広告]


No.35651の一覧
[0] PERSONA4 THE TRANSLATION(ペルソナ4再構成)[些事風](2014/11/03 16:25)
[1] 序章 PERSONA FERREA[些事風](2014/11/03 16:25)
[2] 一章 REM TALEM MINIME COGITO[些事風](2012/10/27 23:54)
[3] 国を去り家を離れて白雲を見る[些事風](2012/10/27 23:57)
[4] マヨナカテレビって知ってる?[些事風](2012/10/28 00:00)
[5] ピエルナデボラシーボラ![些事風](2012/10/28 00:03)
[6] 出れそうなトコ、ない? ひょっとして[些事風](2012/10/28 00:07)
[8] 死体が載ってた……っぽい[些事風](2012/10/28 00:27)
[9] ペルソナなんぞない[些事風](2013/03/05 00:17)
[10] でも可能性あるだろ?[些事風](2012/10/28 00:34)
[11] バカにつける薬[些事風](2012/10/28 00:36)
[12] シャドウじゃなさそうクマ[些事風](2012/10/28 00:41)
[13] 吾、は、汝[些事風](2012/10/28 00:46)
[14] 俺はお前だ。ぜんぶ知ってる[些事風](2012/10/28 00:53)
[15] ノープランってわけだ[些事風](2012/10/28 00:56)
[16] 旅は始まっております[些事風](2012/10/28 01:05)
[19] 二章 NULLUS VALUS HABEO[些事風](2014/11/03 16:26)
[20] あたしも行く[些事風](2013/01/15 10:26)
[21] それ、ウソでしょ[些事風](2013/03/05 21:51)
[22] 映像倫理完っ全ムシ![些事風](2013/05/12 23:51)
[23] 命名、ポスギル城[些事風](2013/05/12 23:56)
[24] あたしは影か[些事風](2013/06/23 11:12)
[25] シャドウ里中だから、シャドナカ?[些事風](2013/07/24 00:02)
[26] 脱がしてみればはっきりすんだろ[些事風](2013/10/07 10:58)
[27] 鳴上くんて結構めんどくさいひと?[些事風](2013/10/14 17:36)
[28] セクハラクマー[些事風](2013/12/01 15:10)
[30] アギィーッ![些事風](2014/01/31 21:58)
[31] かかってこい、あたしが相手だ![些事風](2014/03/04 21:58)
[32] クソクラエ[些事風](2014/04/16 20:30)
[33] あなたは、わたしだね[些事風](2014/06/15 15:36)
[34] とくに言動が十八禁[些事風](2014/07/26 21:59)
[35] コードレスサイクロンユキコ[些事風](2014/09/13 19:52)
[36] 自称特別捜査隊カッコ笑い[些事風](2014/09/24 19:31)
[37] ッス[些事風](2014/11/03 16:29)
[38] oneirus_0d01[些事風](2014/12/14 18:47)
[39] 三章 QUID EST VIRILITAS?[些事風](2015/03/01 16:16)
[40] ええお控えなすって[些事風](2015/05/17 00:33)
[41] キュアムーミンだっけ[些事風](2015/10/18 13:01)
[42] おれ、弱くなった[些事風](2015/11/20 10:00)
[43] 中東かっ[些事風](2016/03/02 00:50)
[44] バカおやじだよ俺ァ[些事風](2016/05/15 16:02)
[45] ここがしもねた?[些事風](2016/08/16 15:11)
[46] 腕時計でしょうね[些事風](2016/11/15 13:03)
感想掲示板 全件表示 作者メニュー サイトTOP 掲示板TOP 捜索掲示板 メイン掲示板

[35651] 序章 PERSONA FERREA
Name: 些事風◆8507efb8 ID:f9bea2dd 前を表示する / 次を表示する
Date: 2014/11/03 16:25


 彼は息を呑んだ。
 電車がトンネルに入ってじき、鳴上悠は生まれてこのかた――彼の自意識の許すかぎりの表現において「十七年という果てしもなく永い歳月」――これ以上はないといえるほど驚いた。
 もうかなり前から彼ひとり、貸切状態であった私鉄線の車内、あまつさえ自身の座っているワンボックスの真向かいに、忽然とひとが座っている。窓の外を眺めていたのはものの数秒たらず。荷棚から音もなく降ってきたか、シートの座面から生えてきたのでなければ、自分に気づかれないはずはない。
「ようこそ。…………へ」
 悠はとっさに目をそらした。いやな汗が噴き出してきた。
 目のまえの男、尋常の様子でない。白髪禿頭、薄気味わるい甲高い声、子供のような矮躯をモーニングで装う、このあたりはまだいい。悠の肝を冷やしたのはその異常な、言うなれば悪魔的な容貌だった。原人じみた平べったい頭。巨大な、血走った、見ひらけばまぶたをほとんど隠してしまう、ぎょろっと飛び出た眼球。つるりとして皺ひとつない、血の通っているとも思われない生白い肌。とがった耳。そして鼻! 長い鼻! なにか別の器官であると説明されたほうがまだしも現実的な、非現実的に長い鼻!
 これは車掌かもしれない! 鳩尾に冷たい汗が伝うのを感じながら、悠は大いに錯乱しつつ、東京圏在住者につきものの無智――もしそんなものがあるとすれば――について自らを啓蒙しようと試みた。
 これは車掌かもしれない。片田舎のローカル線ではままあることなのかもしれない。職務の都合上、しろうとにはわからない理由で、この異常なルックスを評価され、大時代的な礼装を制服がわりに、忍者よろしく荷棚やシートに潜伏して善良な乗客をおどかし、自らの職場をベルベットルームだなどと称し、休憩時間にワンカップとあたりめを喫する。なぜ? 切符を切るためでなければなんだろう? 鉄道事業にうとい悠にはそれくらいしか思いつけなかった。
「これはまた」男はちょっと笑って、カップ酒を湯飲みのようにして啜った。「変わったさだめをお持ちのかたがいらしたようだ」
 そしてこっちは――悠は軽いめまいを感じた。
 小男の隣にもうひとりの見知らぬ、こちらは背の高い女が座っている。四月の陽気には甚だふさわない、青い分厚いダブルの外套を首元までかっちり着込んで、秀でた額に汗ひとすじ結ばない。カチューシャでまとめた豊かなブロンド、ほうろうの肌、彫りの深いコーカソイド系の美貌、どうみても日本人のものではない。車内販売員としては隣の小男同様、あまりにも異様すぎるいでたち。
 いや、車内販売員ではないだろう。もしそうならどれほど職務怠慢であるにせよ、いま無心に食べている駅弁を、封を開けないうちに一度は自分に勧めたはず。いまのいままで車内は貸切同然だったし、乗車してからこのかた一度もワゴンを見かけない。そもそも普通列車に車販などない。なかった、少なくともいままでの自分の生活圏では。
「わたくしの名は…………。お初にお目にかかります」小男はイゴールと名乗った。「……おひとつ、いかがです。遠慮なさらず」
 あたりめを勧められるのを控えめに辞退して、悠はいくばくか冷静を取り戻して考えた。
 もちろん、これは車掌なんかではない。
「ここは夢と現実、精神と物質の狭間にある場所。本来はなんらかのかたちで契約を果たされたかたのみが訪れる部屋」あたりめを食いながらイゴールが言った。「あなたには近く、そうした未来が待ち受けているのかもしれませんな」
 罪のない笑いの衝動を抑えかねて、悠は俯いた。口の端の少しく上がるのを感じる。やっぱり車掌かもしれない、それもえらく詩的な。夢と現実! もちろんここはそういう場所にちがいない、イゴールが実に婉曲に、意味深長に表現した彼の職場は。なんとなれば自分はいま夢を見ているのだから。契約? 胸ポケットの乗車券のことを言っているなら当を得ている。ちょっと洒落が利きすぎているけれども。
「どれ、まずはお名前をうかがっておくといたしましょう。ときに」
 イゴールは膝のうえのトレイを持ち上げて、にこやかに悠に示した。どうでもあたりめを食わせたいらしい。
「ほんとうにいりませんかな? けだしお若いかたは遠慮などなさらぬものです」
 悠は名乗った。つまみは固辞した。
「ふーん、ナルカミユウ、いい名ですな」イゴールの言葉にはまんざら社交辞令とも取られない、真率の響きがある。「……どれ、ちょっと拝見」
 イゴールがこちらに身を乗り出してきた。彼の間接の長い、白手袋をつけた手が伸びてきて、悠の胸ポケットの中身を抜いた。ようやく自分の仕事を思い出したのかと思いきや、そこから出てきたのは持ち主のあずかり知らぬ、薄いプラスチックのケースである。手品かとうたがう間にも、イゴールはそれを開けて中身を二枚、三枚と取り出す。トランプかなにか、カードの類らしい。
「お疑いのようですがな、手品ではございませんよ。これは正真正銘あなたの持ちものです」と、イゴールは言った。「タロットカード……しゃれてますな、あなたは。占いを信じなさるくちで?」
 なんとも答えようがなく、悠はだまって首を横に振った。小男はカードをぜんぶ取り出すと、それを目の前へ無造作に放った。
「にもかかわらず、あなたはそのやりかたをご存知だ。ええもちろん人とはそうしたもの、必要のないことがらに拘泥し、見えないものばかり見ようとし、真実を欲しながら虚構に安らう。とは申せ、ご自分を誇りにお思いになって結構ですぞ、お若いかた。若いうちの自惚れがとくに警戒せられるべきではあるにせよ」
 投げ出されたタロットは――夢の世界のできごととして、ことさらそうすべきものでもないのかもしれないが――驚いたことにすべて空中に浮かんでいる。一様に裏を見せて、整然と、悠とイゴールのあいだ、胸の位置で。小男はなおも続けて喋りながら、それを片手でかき混ぜ出した。
「そのお若い身空であなたは、多くのひとの生涯ぬけだしえない、薄く平らかな皮相の世界より、すでにして自由なのです。おまけに遠慮もご存知だ、おおいに誇られて結構! このタロットはいわば、あなたの精神と観念の象徴でございます。もしこの年寄りにささやかな自惚れをお許し願えるのなら、こう言ってしまいましょうかな、あなたはこの部屋にふさわしいと――今は仮のまろうどではございますが」
 悠はようやく返事らしい返事をした。あなたの言っていることがよくわからないと。
「それでかまいません、少なくともいまはまだ」イゴールは鷹揚だった。「さて、せっかくこのようにお誂え向きなシンボルが出てきたのですから、あなたの流儀に反することかもしれませんが、どれ、ひとつこれを使ってあなたの未来を占って進ぜましょう。そう遠くない未来のことを。なに座興でございます……ひょっとしたら有益かも」
 イゴールが指をひとつ鳴らすと、さんざんかき回されて雑然としていたカードが一斉に、号令をかけられたようにぴしっと整列した。蜘蛛の脚を思わせる長い指が、その中のひとつを選り出す。
「ほう、近い未来を示すのは、塔の正位置。どうやら大きな災難をこうむられるご様子。そしてその先の未来を示しますのは――」続いてもう一枚。「――月の正位置。迷いと、謎を示すカード。ウフフじつに興味ぶかい! ご覧なさい、あなたはこれから向かう地にて災いをこうむり、大きな謎を解くことを課せられるようだ」
 まるでよかったですねとでも言わんばかりの口で、イゴールはこの不吉な予言を喜んでいるように見える。先にあれほどひとを持ち上げておきながら、今度はその当の本人の不幸を喜んでいる、この小男の頭の中はいったいどうなっているのだろう。悠はささやかな抗議がわり、眉根を寄せて不快感を表明した。イゴールは気にしたふうもなかったが。
「近く……あなたはなんらかの契約を果たされ、ふたたびこちらにおいでになることでしょう。今度は仮ではなく、正式なお客人として」
宙を漂っていたタロットがひとりでに、元のケースの中に戻っていく。イゴールはそれに蓋をして、どこから取り出したものか金いろの帯で丁重に封をすると、悠の飲みさした緑茶缶の置いてある、窓際のサイドテーブルにそれを置いた。
「今年、あなたの運命は節目にございます。もし先に言った謎の解かれなかったばあい、ともするとあなたの未来は閉ざされてしまうかもしれません……フフフそのような顔をなさる! ご案じなきよう、わたくしの役目はお客人がそうなりませぬよう、手助けをさせていただくことでございます。――そうそう、ご紹介が遅れましたな」
 イゴールが隣のブロンド美女に目配せした。もっとも女は箸を縦横するのに夢中で、彼の合図に気づいた様子はない。今まで余裕綽々であったイゴールの貌にはじめて、このときほんのかすかに困惑らしいものがよぎったのに、悠はなんとはない好感を持った。この二人は悪魔的かもしれないけれど、どうも悪魔ではなさそうだ。悪魔はこんなに抜けてないだろうから。
 マーガレット、と窘められて初めて、女は卒然と箸を置いた。ちょっと赤くなって、慎ましやかに口元を手で隠して、今し口に放り込んだ里芋をゆっくり咀嚼し終わるまで、イゴールが場をつないで「これはマーガレットと申しまして……わたくしと同じ、ここの住人でございます。ええ彼女はですな」などと言い繕っていた。
「お客さまの旅のお供を務めて参ります、マーガレットと申します」マーガレットがようやく口を開いた。そしてイゴールの真似であろうか、駅弁に添えてあったみかんを悠に差し出した。「……おひとつ、いかがです。遠慮なさらず」
「詳しくは追々にいたしましょう、少しおしゃべりが過ぎましたな」マーガレットのみかんはやんわりと取り上げられた。「この次は、この部屋の主と、その客という立場で、もっと実際的な事柄をお話しできましょう。その時までしばしのお別れでございます――その、いちおう確認させていただきますが、ええ、これはお召し上がりに?」
 悠は丁重に辞退した。
「そうでございますか。では、ごきげんよう……」





(すごい夢を見たな)
 車内アナウンスが次の停車駅を告げている。次はいよいよ目的地、終点の八十稲羽。
 にわかに暑さを覚えて、悠は羽織っていたブルゾンをもどかしく脱いだ。すこし暖房が強いようで寝汗をかいてしまったようだ。でもこれで起こされなければ、きっと終点まで眠りこけていただろう。
 塩川で四回目の乗り換えがあって、それからいくつか駅を経て、いつごろ眠ってしまったのだろう。
 長旅の疲れが出たのに違いないが、まったく中央本線を外れてからの景色の代わり映えのなさときたら! 親子ともども東京生まれの東京育ち――神田生まれであった祖父に御免をこうむって「江戸っ子」――の悠には、緑の丘だの田んぼだのビニールハウスだの木製の電柱だのは、おもしろくもない、風情を感じるどころかひたすら眠たいしろものであった。
(悪魔と鈍行で旅、か)
 あるいは彼らは、ひょっとしたら自分が眠っているうちに下車したのかもしれない。この景色にうんざりして。
 悪魔だって同じ悪さをするなら、こんなド田舎より都会のほうがずっと仕事も捗がゆくだろう。まずホテルなどなさそうだし、ともすると旅館か、民宿のたぐいすらないかもしれない。もうすっかり暖かくなったが、悪魔も露天で野宿はさすがにイヤだろう。泊めてやろうにもこっちだって今日から居候の身なのだ。途中で降りて大正解……
「しまった、連絡……!」
 悠は慌ててブルゾンのポケットをまさぐった。これからやっかいになる「居候」先から、着く前に一報いれるようにと言われていたのだ。引っ張り出した携帯のバックパネルには無情にも「着信三件・メール一件」の文字。あのふたり、どうして起こしてくれなかったんだ――悠は舌打ちがてら、思わず夢の中の道連れに悪態をついた。
『駅まで迎えに行く、八十稲羽駅 改札口に16時』
 このメールの送り主は堂島遼太郎。母の疎遠きわまる弟で、彼女いわく「あんたもちっちゃいころ一回だけ会ってる」らしい、初めて会う叔父。今日から一年の間、保護者となる人物。
 いまさらとは思いつつも、悠は忙しく返信を認めた。
『返信遅れました。寝ていました。もう着きます』
 送信ボタンを押すまえに車内アナウンスが入り、電車の速度が落ち始めた。本日はJR東日本をご利用いただきまして、まことにありがとうございした。まもなく終点、八十稲羽、八十稲羽。お出口左側です。編集中の内容は破棄されます。OK。
 悠は返信をあきらめて携帯を閉じた。返信遅れました? 言わずもがなだ。寝ていました? 都合四件の連絡を無視する理由といえばそのくらいだ。もう着きます? 見ていればわかるだろう。左手首のメモヴォクスは三時五十四分を示している。いまごろ駅前に到着しているにちがいない。
 降りる準備を整えながら、悠はこの四時間強にも及ぶ長旅と、これから自分を待っているであろう、未知の生活をぼんやりと想った。なにが起こるか? なにも起こるまい。ただアスファルトが土石に、鉄筋コンクリートが樹木に、無数の街灯やネオンに代わって夜空に星が満ちるだけ。
(テレビドラマじゃあるまいし)
 悠は苦笑した。自分の頭の中にあるのはこういう、使い古された「イナカ」というステレオタイプだ。だけ? ここのことをなにも知らないのにどうしてなにかと比較できるだろう。ここはおれの知らない世界。稲羽市八十稲羽、知らない町。パリやモスクワと選ぶところのない、知らない町。なにが起こるかわからない。なら努めてなにも起こすまい。いつもどおり、周囲と適度に付き合って超然としていよう。一年の我慢、たった一年間。すぐ過ぎる。
 電車はゆっくりとホームへ滑り込み、ちょうど窓の前に駅名表示板が見える辺りで停まった。昭和を感じさせる白いペンキ塗りの、木製の古いタイプ。東稲羽から八十稲羽へ、そのあとはペンキの地ばかりでなにも表記されていない。
 もちろんここが終点だった。だからこの先は空白。悠にはそれがなにかよい暗示のように思われた。ここは人生の休憩所、ここでの一年間はきっとなにも起きず、白い平和だけが待っているのだ。せいぜいのんびりすればいい、ここで「イナカ」を勉強するのもいいかもしれない、こんな機会はたびたびないだろうから。
(左遷された会社員って、自分をこういうふうに慰めたりするのかな……)
 ひとつため息をついて、サイドテーブルの緑茶缶に手を伸ばそうとして、悠は凍りついた。
 彼は息を飲んだ。
 鳴上悠は生まれてこのかた――彼の自意識の許すかぎりの表現において「十七年という果てしもなく永い歳月」――これ以上はないといえるほど驚いた。
 サイドテーブルに置いてある飲みさしの緑茶缶、その隣に、金色の帯で封をしたカードケースが忽然と置かれていたのである。





 駅の待合室には誰も――それこそ駅員すら――いなかった。
 室内は古くこそあれ、寂れた印象はない。木と火種とかすかな煙草の匂い、くず入れの半ばほどを埋めるゴミ、替えられてそれほど経たない蛍光灯、そこにはひとの気配の残滓が漂っている。利用されていないわけではない、たんにこの時間帯に電車を利用する人間が少ないだけだろう。
(いかにも終着駅……って感じ?)
 実際そういう題で二、三の画家に描かせれば、こんな絵ができあがるにちがいない。飴色に光る板張りの壁、そこに貼られる四隅の黄色くなったなにとも知れぬポスター、錆びた画鋲、マホガニー色の古いベンチ、たぶんしまうのを忘れられているのだろう、時代錆の刷かれた黒い立派なガスストーヴ――薪燃料のものに似せてある――が二台。上は梁材むきだしの古民家のような天井、下はゆるやかに波打った手作り感あふれるコンクリート床。完璧である。
(いや、三和土、だな。コンクリートなんて横文字は似合わない。タタキだ、タタキ)
 こういう前世紀の遺物のただ中にあって、たったいま通過してきたぴかぴかの自動改札機と券売機――たぶんつい最近設置された――などはまったく場違いな異物にしか見えない。こんな駅には昔の映画よろしく、定年間近の枯れた駅員が改札バサミをカチカチやりながら待ち構えているのが似合わしい。
(あれだよな、たぶん)
 堂島とおぼしき人物は改札を通る前、すでに視界には入っていた。待合室の入口は開け放たれており、その向こうの寂しい車だまりに、大小ふたつの人影の佇んでいるのが見える。明らかに人待ちの様子だ。悠はブルゾンのジッパーを上げると、重たいボストンバッグを引きずるようにして駅舎を出た。
 異郷の地はすこし寒かった。
「おーい、こっちだ」
 堂島らしい男が女の子を従えて近づいてくる。
 背は悠と同じくらい。歳はたしか四十二、三と聞いていたが、彫りの深いせいか実際よりすこし老けて見える。彼の姉の面影はまったくと言っていいほど見つからない。童顔気味の母と比べれば弟というより兄に見えた。
「おう、写真で見るより男前だな。もうちっと細いかと思ってたが」
 がっしりした精悍な男で、すこしくたびれたような、独特の色気のようなものが日焼けした面に刷かれている。無精髭、くつろげた襟、皺の目立つシャツを腕まくりし、ネクタイは緩みがちでちょっと傾いているのに、そういう態がだらしないどころかむしろ粋に、誂えたようによく似合う。これで銜えタバコが加わればすぐにでも、刑事ドラマかなにかのロケへ出発できそうだ。
「ようこそ八十稲羽へ。お前を預かることになってる、堂島遼太郎だ」やや戸惑いがちに、遼太郎が握手を求めてくる。「ええと、お前のお袋さんの、弟だ。いちおう挨拶しておかなきゃな」
「母がよろしくと」彼の手を握り返しながら、「これから一年間、お世話になります」
「ああ、よろしく。しっかし……でかくなったなあ。驚いた、俺とそんなに変わらんな。前に見たときはお前こんなにちっこくて」遼太郎は笑って、自分の腿のあたりを示した。「覚えてないか。またぜんぜん懐かなくてな、あんまり泣くもんだから姉貴がもう近づくなってなあ。ついこないだのことだとばっかり、思ってたんだがな……」
「覚えてませんけど、小さいころ、その話はよく聞かされました。あんたにはおっかない叔父さんがいるって――言うこと聞かないなら叔父さんのとこに貰ってもらうよ、なんて」
「なに、そんな話になってたのか。なんだひとのこと言いたい放題だな」口ほどにもなく、遼太郎はむしろ嬉しそうにさえ見えた。「俺も同じことすりゃよかったな。なあ菜々子、お前にはおっかない鬼婆みたいな伯母さんがいるんだぞ――ああ娘の菜々子だ。聞いてるだろう」
「ええ」
「ほれ、挨拶しろ」
 最前から遼太郎の背後でこちらを盗み見ていた女の子が、促されておずおず出てくる。年頃からするとちょっと整いすぎた鼻を持つ、眼のぱっちりと大きい、豊頬の、ひどく愛らしい女の子だった。まず完全に母親似だろう、貌の造作たるや父親と伯母なみの隔たりがある。体つきも華奢このうえなく、小学一年ということを考慮しても背が低い。たぶん背の順で「まえならえ」をしたとき、両手を前に出さないでいいくらいに。遼太郎は180センチ前後の偉丈夫だからして、まず父親の遺伝子の影響はかなり薄いと見ていい。
「ほら」
「…………」
 菜々子はまったく困り果てた様子で、なにか口の中でもぐもぐ言ったあと、すぐさま父親の背後に引っ込んでしまった。
「お、なんだよ……ははあ、こいつ照れてんのか」遼太郎は娘に尻を引っぱたかれた。「いてっ、あはは、恥ずかしがることないだろうが」
「よろしくね、菜々子ちゃん」
 菜々子はたちまち茹で上がった。
「人見知りするほうじゃないんだがな……まあ、このくらいにしてやってくれ、続きはうちでやろうや。――そうだ菜々子、悠といっしょにうしろ座るか」遼太郎はふたたび暴力による抗議を受けた。懇願の眼差しも加わった。「いてて……なんだいいだろ? 悠の荷物、となりに置かなきゃな。置いたら乗れないだろ」
「おとおさあん!」
「わあかったわかったよ。悠、車こっちだ――ククなに照れてんだか」
 先導される途中で、父親の腰に磁石みたいにくっついていた菜々子がとつぜん走り出して、白いSUVの助手席へさっと滑り込んでしまった。悠と一緒に乗る気はもちろんないようだ。遼太郎が笑い含みに振り返る。
(印象、悪くしたかな)
 よくよく人見知りする子か、さもなければひどく嫌われたか。悠はちょっと落ち込んだ。
 一人っ子であり、同年代の人間に代えて書籍と静寂を親友として選び、平穏ではあっても少しく孤独に暮らしてきた悠にとって、これから一年間いっしょに生活する空間に同じ「こども」がいるという事実は、いまさっき会ってみてはたと気づいたのではあるが――かなり嬉しいものだったのだ。
「気を悪くせんでくれ」遼太郎が見透かしたようなことを言った。「単純に照れてるだけだ。マセたな、あれも」
「はあ」
「さ、乗った乗った――ああ、それと悠」
「はい」
「シートベルト、しろよ」
 車は駅を出たあと法定速度に則って、右手の青田の縁をなぞるように走り出した。
 田圃はいったい幾反あるだろう、最中に取り残されたようにひと叢、エニシダの黄色い花が見えるほかは、遠く山裾まで達するかと思われるほど広範だった。いちめん澄んだ泥色に覆われている中に、碧玉色の剣山のようなものがぽつぽつ浮いている。あれが秋には稲になる、はずだ、実際に見たことはないが。
ひょっとしたら――悠は窓に寄ってぼんやりと考えた。こういう地方の学校って、カリキュラムに田植えや稲刈りが入っていたりするのだろうか。
(あとで聞いてみよう……あったらかなりイヤだな)
 そう、それと、タスポを借りられるかどうかも。車内は薄く煙草の匂いが染み付いている。遼太郎も吸うのだ、ただ、未成年者の喫煙に難色を示しそうではあるが……。





 駅を発ってしばらく、助手席の菜々子が弱り切った呻きを漏らし始めた。
「お父さん」
「ん?」
「どこもよらない?」
「んん」
「…………」
「なんだよ」
「……トイレいきたい」
「あー……うちまで我慢できないか?」
「できない」
「ふーん……悠」遼太郎がバックミラー越しに後ろを覗いてきた。「スタンド寄るぞ。あとついでだ、なんか買っておくもんあるか」
「いえ、とりあえずは――荷物、もう来てます?」
「おお来てる。そうそう、ありゃいったいなんだ? えらい重かったが」
「本です、ほとんど。全部は持ってこられなかったんですけど」
「ほお、勉強家だな。そういや姉貴もガリ勉だったな、血だな。なんか資格でも取るのか」
 遼太郎にとっては読書イコール勉強イコール資格取得らしい。
「趣味です、ただの。つまり趣味はないってこと」
 助手席の菜々子が後ろを覗き込んできて、わからないというふうにして眉根を寄せた。
「趣味、ないんだ。だから本よむのが趣味。菜々子ちゃんは趣味ある?」
「……ないのに、あるの?」
「そう」
「?」菜々子が小首をかしげた。
「趣味、ある?」
「シュミ、ないよ」
「じゃあ、だれかに趣味はありますかって聞かれたとき、こう言えるね。趣味は読書ですって」
「??」菜々子の首が反対側にかしいだ。
「……なんか禅問答みたいだな」左手のスタンドへハンドルを切りながら、遼太郎が唸った。「で、そのこころは?」
「菜々子ちゃんの従兄弟は暇人ってことです」
「???」
「らっしゃーせー! おらーい!」
 ウィンドウ越しに威勢のよい声が聞こえる。若い店員が駆け寄ってきて、遼太郎の車を誘導し始めた。
「乗ってるか?」遼太郎は車載の灰皿と格闘している。「ええ取れねえな、ガタきやがって……俺は降りるが」
「トイレいく」と、菜々子。
「降ります」
 外はやはり少し寒く、ガソリンの臭いと、それに混じってなにか煮炊きする芳しい香りが漂っていた。スタンドは位置的に商店街の入口にあったが、その境界は立ちならぶ家群の庇間と癒着してひどくあいまいだった。いまこのスタンドが爆発したら、たぶん商店街のほとんどすべてが類焼するに違いないほどに。
「トイレ、ひとりで行けるか?」
「うん」
 菜々子は事務所のほうへ歩きかけてすぐ、戸惑ったように立ち止まった。場所がわからないのだろう。
「奥を左だよ」車を誘導した店員が声をかけた。「左ってわかる? お箸もたないほうね」
「わかるってば」菜々子はムッとして駆けていった。が、やはりわからないようでまごまごしてる。
「左いってェ……違うそっちじゃない、戻って。そうそこ」件の店員が声をはりあげて菜々子を操縦した。「そこ。ここ男女兼用だから。うん、そこだから、だいじょうぶ!」
「満タン頼む、レギュラーでな」と、遼太郎。「あんまり入らんが」
「あ、はい、ありがとうございまーす!――どこかお出かけで?」
「いや、こいつを迎えに行ってただけだ。東京からきょう越してきてな」
「へえ、東京からすか」
「あー、あと灰皿……かたしといてくれ」
 遼太郎はそれだけ言うと、悠を誘うでもなく事務所のほうへ歩いていってしまった。店員は運転席に顔を突っ込んで、おそらく強情な灰皿に苦戦を強いられているのだろう、「あれ、えー、なんだよコレ」などとぶつくさ言いながらごそごそしている。辺りに人気はまばらで、悠に構うものはいない。菜々子も戻ってこない。取り残されたかたちだ。
 ほかにすることもないので、悠は歩道まで歩いて出てみた。目抜き通りから八十稲羽商店街の軒並みがよく見える。昔のガス燈めいて洒落た、クラシックなデザインの街灯が眼を引く。
(なつかしいって感じるのは……どうなんだろう。こういうところに住んだこと、ないはずだけど)
 ぱっと眺めたかぎり、三階建て以上の物件は見当たらない。大通りを挟んで密集しているわりに車道をひろく取ってあるせいか、街にはそれほど強い影が落ちずに済んでいる。あまり流行っていなそうなわりに明るい印象を受ける。が、色合いは乏しい。そのせいか彼方にとおく聳える、方形の赤い看板がやけに目立って眼に飛び込んでくる。鮮やかな赤地に白抜きの文字で「JUNES」――こんなところにも一応ジュネスは来ているらしい。
(うちの周りにこういう趣を好むひと、けっこういそうだ。あの街灯なんかもうアンティークだろう、好きなひとが見つけたら引っこ抜いていきそうだ――それに比べると)
 こんな全体的に褪せた色合いの中で、あの鮮紅色はどこまでも異質である。ある日とつぜん空から降ってきたか、地面から生えてきたかのような、どこまでもここの産という認識を拒む。
(あれを風変わりな天守と割り切れば、この対比もまあ、受け入れがたいというわけでもないか)
 質実で、丈夫で、経年に褪せた、それでも元の品質のよさを彷彿とさせる、古着のような町だった。その辺の路地から割烹着姿のおばさんがうちわ片手に出てきて、古式ゆかしく七輪でサンマなんかを焼きはじめそうな……
「ねえ、きみ、高校生?」
 声に振り向くと、件の店員が踵を引きずって歩いてくるところだった。遼太郎のSUVには赤い給油ノズルが刺さっている。ほかに車もなく、あらかた仕事を終えて退屈したのだろう。
「はい。高二で――灰皿とれました?」
「え? あはは……あー、取んないから中身だけ捨てた」
 店員はあっけらかんとしている。学生風の強く残る口で、年のころはたぶん、二十に届くか届かないか、といったところか。
「東京から来るとさ、なーんもなくてビックリっしょ、ここ」
「東京に住んでたんですか?」
「んやあ、遊び行ったことあるだけ。そう思うもんなのかなってさ」
「とりあえず、東京にないものはいくつか発見しましたよ」
「へえ? なになに」
「叔父と従姉妹、とか」長い鼻の悪魔とか、健啖なブロンド美女とか。「今日はじめて会ったもので」
「へえー……じゃ、いまんとこ新鮮でいいね。でもじき退屈すると思うよ、高校の頃つったら、友達んちいくとか、バイトくらいだから」
「なら、当分は退屈しそうにないかな。バイトしたことないし」ついでに「友達んち」とやらにもほとんど行ったことはないのだが。「なにか買いたいものができたら考えるかも」
「おっ、じゃ、ぜひ考えてもらおう。じつはさ、うちいまバイト募集してんだ」ここまで誘導するのが目的だったのか――悠は内心はたと手を打った。「ひといなくってさー……最近じゃみーんなジュネス行っちまいやんの、ほらあれ、見えるっしょ? 新しくできたデパートなんだけど」
「見えますね」
「今の時間帯だっておれ入れてふたりよ? 六時からなんかひとりだし……ま、あんまひと来ないけどね」
「はあ」
「候補に入れといてよ。学生でも未経験でもぜんっぜんオーケー、仕事も簡単、サルでも片手でできるし。シフトかぶったらおれなんでも教えちゃうから」と言って、店員はポケットからなにか取り出した。「きみ、タバコ吸う?」
「ま、たまに」
「おっ不良高校生! じゃ、ま、取っといてよ」
 店員の差し出したのは「MOEL石油」と表示のある、ライターとポケットティッシュだった。
「いちおう非売品。事務所いきゃ腐るほどあるけどね」
「いただきます……」
 受け取りしな、店員はふいに粗品ごと、悠の手を両手で握って上下に振った。危うく声をあげそうになる。気さくであけっぴろげな彼には似合わしからぬ、それはぞっとするほど冷たい手だった。
「ごめん冷たかった?」手を離すと、店員は笑い含みにそう言った。「外作業やってっとさあ――おっと仕事しないと!」
 菜々子が車の傍に戻っているのを見て、仕事を思い出したらしい。店員は会話を切り上げて押取り刀で給油口まで駆けていった。給油機のデジタルメーターは七リットル足らずで止まっている。たしかに「あんまり入ら」なかったようだ。
「えー……ぜんぜん入ってねーし……!」
 店員が大車輪で窓ガラスを拭き始める。それを菜々子がこわごわ眺めているのを微笑ましく見ているうち――悠は突然、強烈なめまいを覚えてしゃがみ込んだ。先にもらったライターとポケットティッシュが敷石に落ちる。冷たい汗がどっと吹き出てくる。加えて最前から辺りに漂っている夕餉の香りが吐き気を誘発して、彼はたまらず膝をついた。
(立ちくらみ? ふつうじゃない、風邪? こんな急に?)
「だいじょうぶ?」菜々子のものだろう、ぱたぱたと軽やかな足音が近づいてくる。「くるまよい?」
「うん……ちょっと、酔ったかも」などと言っている間にも、今ほどの不調は嘘のように消え去ってしまった。「でももうよくなった。だいじょうぶ」
(今のはなんだ? なにか……病気の兆候じゃなきゃいいけど……)
「ぐあい、わるいよ」菜々子は心配そうにしている。「おいしゃさんいく?」
「ううん、だいじょうぶ、本当に」貰った粗品を拾って膝を払って、悠はあわてて立ち上がった。「たぶんお腹すいたんだ。ほら、いい匂いしない?」
「……ガソリンくさいよ」
「とにかく、だいじょうぶだから――ほら、お父さん来たよ、行こう」
 ちょうど事務所から遼太郎が戻ってくるところだった。とくに急ぐでもなく、怪訝そうにするでもない。今のは見られていないようだ。
「えー、七リットル入りまして九百九十四円になりまーす」
「ん」遼太郎は千円札を手渡して、代わりに貰った明細に眼を落として口角を上げた。「リッター百四十二円かよ……たく、ちっと前は百円きってたってのに。信じられんな」
(百円きってたのって、そうとう前だったはずだけど……)
「ほれ、お前ら――悠、どうした」
「え」
「その汗、なんだ。暑いってこたあるまい」額の汗を見咎められたようだ。遼太郎の声には心配するというより、詰問するような強い色があった。「どっか悪いのか」
「ぐあいわるそうだった」娘も得たりと――有難迷惑にも――証言を始める。「さっきしゃがんでた。くるしそうだった」
「あの、少し疲れが出たみたいです。あんなに長い時間電車に乗ったの、初めてだったもので」
 嘘は言っていない。ここに来るまで、そしてここに来てから、それこそ初めてでないものは体験していないくらいだ。初めての道行き、初めての田舎、初めての出会い。あるいは――悠は自分の思いつきに自分で納得した。もちろんそうだ、疲れが出たのだろう。ブルゾンの胸ポケットに収まったカードケースに手をやって、悠はもういちど胸中で呟いた。疲れただけだ。それは気疲れするはずだ、あんな不可思議な経緯でこんなものを手に入れたからには!
「本当に大丈夫なんだな?」遼太郎の口調は一転、優しげなものに代わった。「預かった初日に熱でも出させたら姉貴になに言われるか……俺はお前の保護者だから、お前の健康には責任があるんだ。具合わるくなったら遠慮なく言えよ、こっちは遠慮されるほうが困るんだぞ」
「はい、ありがとうございます」
「……行儀よすぎるなァ、クク」悠の返答がおかしかったようで、遼太郎は含み笑いながら機嫌よく運転席に収まった。「しつけが行き届いていてなにより! ほれ乗った乗った、帰ってメシだ――あっ、寿司くえたか?」
「ええ、だいじょうぶです」
 菜々子はまだ心配してくれているようで、先に話していたときのように助手席から後ろを振り返って、気遣うような非難するような視線を送ってきている。どうやら彼女はこの年上の従兄弟を、自分が管理すべき病人として認定したらしい。悠は気分がよかった。とりあえず嫌われてはいないようだ。
「お待たせしました、六円のお返しになりまーす!」店員が釣り銭を持って戻ってきた。「お帰りはどちらから?」
「向こうだ。誘導はいいからな――」全開になったウィンドウから身を乗り出して、遼太郎はおごそかに言った。「ビーズくれ、消臭ビーズ。ぜんぜん足らん」





 この日の夕刻、堂島邸の小さな食卓は「特上鮨花曇膳十貫2179円」三人前と、三人で片付けるにはあきらかに多すぎる惣菜類を迎えて賑わった。新しい住人のために用意されたものだ。
(御馳走なんだ……これ)
 菜々子の様子を見ていればイヤでもわかる。冷蔵庫から取り出してきてからというもの、彼女はこの御馳走を眺めては外装の豪華さや値段の高さを賞揚して止むことがない。寿司はもちろん好物ではあったが、まずトレイやラップで覆われた食べ物じたい、悠の家では母の予期せぬ体調不良の象徴であったのだ。まさか不満を鳴らすことはしないが、かといって菜々子のように無邪気に喜ぶこともできない。
「じゃ、歓迎の一杯といくか」
 ちゃぶ台のうえでお茶とジュースの缶がテンとぶつかりあった。
「ま、遠慮なく食ってくれ、大したもんはないが」
「その、すごい量ですね」
「このくらい食えるだろう、そんだけでかい図体してるんだ」
「はあ」
(おれの歓迎だから、あえて作らなかったのかな。でもどう見てもこの人……作りそうにないよな)
 この見てくれで料理は玄人はだし、というなら相当な粋人だが、目下ただよってくるのは男の色気とタバコの残り香ばかりで、家庭的ななにかは驚くほど希薄である。このあたりの期待を裏切ってくれるかどうか。もしまったく作らないのなら――
「いただきます」
「いただきまーす」菜々子は嬉しげにトレイの蓋を開けにかかった。
「菜々子ちゃん、テープついてる、裏」
「寿司が好きなのはよかった」遼太郎は機嫌よく言った。「メシ考えるのけっこう面倒でな、でもばんたび寿司じゃお前も飽きるだろうし、まあ食いたいもん考えといてくれ。大概はジュネスに売ってるからな」
「ジュネスいいなあ。いきたいな」
「作ったりは?」
「メシか? あー俺は作れん、悪いが」
(でしょうとも)
 となるとここ数年、菜々子はまず惣菜や弁当ばかり食べていたことになる。悠自身はともかくも、この小さな従姉妹にはかなり不憫な話だ。
 すでに遼太郎の妻に不幸があったことを母から聞いている悠には、容易に想像できるのだった。長じた菜々子がスーパーかなにかの惣菜売り場で「プラスチックに覆われた食べ物」を眺めるにつけ、彼がそれを見て不安な記憶を呼び起こすように、彼女もまた母の死から始まった悲喜こもごもを連想するに違いない、トレイに盛られたラップ越しの思い出を!
 憐れむべしいとけなき従姉妹――そして自分はこれからそれを一緒に摘むのだ。
(これじゃあべこべだな。弁当惣菜漬けって、都会のステレオタイプだろう? 田舎なら当然――)
 おふくろの味があってしかるべきだ。悠の胸にこのとき、小さな使命感のようなものが燈った。おふくろがおらず、おやじができないなら、どうしていとこがやっていけないことがある?
「しっかし義兄さんも相変わらず仕事一筋だな。海外勤めだったか」
「今年で六年目です」悠は苦笑した。「カリフォルニアのサンノゼ。五年くらい会ってません」
 父がアメリカで日本料理店をやる、と言って機上のひとになったのが、五年ほど前のことである。どんな奇縁が新橋の板前だった彼を、アメリカ西海岸くんだりに結びつけたのだろう。母はどうせ失敗するからといって急にしまり屋になり、管理栄養士としての給料のほとんどを貯金に費やし、尾羽打ち枯らしてすごすごと帰ってくるであろう夫を、明るく迎える準備を怠らなかった。だのに――
「一年限りとはいえ、親に振り回されてこんなとこ来ちまって……子供も大変だ」
 母の予想に反して、父は異国の地で順調に成功したらしい。出発して一年後に一時帰国したとき、父は上機嫌で商売がうまくいっていること、サンノゼの土地柄の素晴らしいこと、今後は日本料理学校の講師を兼任すること、近いうちに必ずシュワルツェネッガー知事のサインを手に入れてみせることなどを告げ、アメリカへ戻る前日には「誓子さんと悠くんに会えなくて寂しい」と言って男泣きに泣いた。――その後五年ほどの間、ほんのいっときの帰国さえ叶わなかった彼の、単身赴任の寂寥はついに限界を超え、妻を一年間という限定ながらカリフォルニアへ招聘するに至った、というわけだ。
「一年間、実家の八十稲羽で過ごすか、それともカリフォルニアのELD日本語クラスに編入するか。さすがに後者は気後れします」
「親父さんに会えなくて寂しくないか」遼太郎はちらと菜々子のほうを見た。「まあ、もう五年も六年も経つんだ、慣れちまうもんかな……」
「慣れはします。それが当然になるまで、時間はかかりましたけど」
「いっそ戻って来いとは言えなかったのか」
「そうですね……何度か考えたことはあります」
そうと言えば父は検討するだろう、それが無理な話でも。息子のわがままを彼は真摯に受け止めるだろう。父とはそういう人間だった。苦しめるだけなのは眼に見えている。
「でも父も雇われで、ひとりで行っているわけではありませんし、話を聞くかぎり、向こうは楽しいみたいです。子供が折れるしかありません、これも親孝行かなって」
「お前ほんとに十七か?」遼太郎が噴き出した。「二十七の間違いじゃないだろうな。それとも東京の子供はみんなそんなに達観すんのか」
「血ですね、母もよく同じこと言いますよ。あんたほんとに十七かって」
「血ねえ。じゃ義兄さん似かね、お前さんは。俺も姉貴もお前くらいの頃なんざまるで聞き分けのないガキで――これいじょう言ったら姉貴に殺されるな。やめだ」遅ればせながら、遼太郎は寿司のトレイに手をつけた。「ま、うちは俺と菜々子の二人だし、お前みたいのがいてくれると俺も助かる。これからしばらくは家族同士だ、自分ちと思って気楽にやってくれ」
「はい、お世話になります」
「あー、固い固い、気ィ遣いすぎだ。しつけがよすぎるのも考えもんだな」遼太郎は笑って手をひらひら振った。「見ろ、菜々子がビビってるぞ」
 菜々子は小さな口いっぱいに寿司を頬張りながら、赤くなって迷惑そうにうつむいた。どうしてここで話を振るのだと顔に書いてある。
「二、三日の客ならそれでもいいが、一年間いっしょに暮らすんだ、そんなに肩肘張ってちゃおたがい疲れるだけだ。もうちっとくだけないか」
「くだけるといっても……」
「じゃ、姉貴――お袋さんと話すような感じでいい」
「じゃあ」頭の中でいくつか、母との会話をシミュレートしてみたあと、悠は思い切って口を開いた。「叔父さん」
「おう」
「明日から行く学校って、どこにあるの?」
「あした、あさ案内する。こっから歩いて、そうだな、三十分かからん」
「この町に本屋ってあるかな」
「あるぞ、一件、商店街に。今日スタンド寄ったろう、あれの隣だ。品揃えは保障せんが……あーあとジュネスの一階にもあったな、ちっと遠いが」
「おれの部屋は、上?」
「二階あがって左の一番奥だ」
「……どうですか」
「ああ合格だ、今のを除けば」
「よかった。じゃ、よろしく、叔父さん」
「おう、よろしく――ほら食え食え、ぼやぼやしてると菜々子に取られるぞ」
 菜々子が抗議のうなり声を上げたところで、遼太郎の背後のソファの上、彼の上着の辺りから携帯の着信音が鳴った。
「たく……誰だこんなときに」
 遼太郎はにわかに不機嫌になった。「誰だ」などと言うわりに、液晶画面をろくに見もせず応答ボタンを押している。どうもかけてきた相手に見当がついている様子だ。
「はい、堂島」
(仕事かな)
 菜々子は眉根を寄せて、不安げに父親を見つめている。遼太郎は二、三の応答をしたあと立ち上がって、話しながら続き間のダイニングまで移動していった。――携帯を切る前、最後の一言「わかった、すぐ行く」だけが鮮明に聞こえた。この時間にどこかへ行くらしい。
「酒のまなくてアタリかよ……」こころなし悄然として、遼太郎は席へ戻ってきた。「はは、むしろお前が来てなきゃ行かれなかったな」
「じゃ、これから?」
「ああ、仕事でちょっと出てくる。急で悪いがメシは二人で食ってくれ」遼太郎はあわただしく寿司を二、三個くちに放り込んで、お茶で無理に流し込んだ。「…………帰りは……ちょっとわからん。菜々子、あとは頼むぞ」
菜々子は心細げにウンと頷いた。父親が非常の時間に出て行くことへの不安か、きょう初めて会った得体の知れない従兄弟と、二人きりになることへの警戒心か――たぶん両方だろう。
「悠、ひょっとすると――」
 と、言いかけて止めて、遼太郎はふいに窓を注視した。少しく開いたカーテンとサッシのあわいから、ガラスに水滴を刷いているのが見える。
「菜々子、そと雨だ。洗濯物は?」
「いれた」
「そうか。じゃ、行って来る」
「叔父さん、なにか言いかけたみたいだけど」
「ん、そうだったか……あー……度忘れした」
 遼太郎はあまり思い出す努力を見せず、ソファの上着と財布を回収して忙しく部屋を出て行ってしまった。どうも大したことではなかったようだ。
「悠ー!」ややあって、玄関から遼太郎の怒鳴る声が飛んできた。「寿司、冷蔵庫に入れといてくれ!」
(ほんとに大したことなかったな……)
「わかった、いってらっしゃい」
「おう」
 遼太郎が行ってしまうと、会話はそれきり途絶えた。戸外で車のエンジンのかかる音がして、ほどなく遠ざかっていく。叔父を乗せて。先ほどまでこのちゃぶ台にあったはずの小さな団欒まで、あのSUVに引っ張られて行ってしまったような気がする。八畳間を気まずい雰囲気が席巻した。
(参ったな、あんまり免疫のないシチュエーションだ……) 
 齢十七の悠をして身の置きどころに苦慮させるこの状況、十歳下の菜々子にはなおのこと堪えるはずだ。ここはひとつ年長者として、自分が無難な話題を提供しなければならぬとひとり懊悩していると、菜々子が食事を中断してなにかそわそわしているのに気がついた。彼の手元をちらちら見ている。
「あ、リモコン?」
 手元ちかくにあったテレビのリモコンを、菜々子ははにかみながら受け取った。悠は小さな敗北を噛み締めた。
(機械に負けた……)
 ――テレビはちょうど稲羽市の明日の天気予報を伝えている。明日は終日雨、転校にはもってこいの日和だ。
「……お父さんって、いつもこんな時間に呼び出しがあるの?」
 まさか話しかけられるとは思っていなかったらしい、菜々子はおどろいた様子で悠を打ち眺めた。
「仕事って言ってたけど」
 着信があったときの叔父の反応、電話の受け答え、不安げにこそすれ驚きはしなかった娘の様子から察するに、ああいったことはそれほど珍しいわけではないようだ。彼の仕事はたぶん、ふつうの定時勤務ではない。おそらく前の電話はなにかのトラブルを伝えるもの、となれば、彼の仕事は技師かなにかだろうか。
「お父さんの仕事って?」
「しごと……ジケンのソーサとか。おとうさん、ケージだから。イナバケーサツのジュンサブチョー」
「警察官?」
「うん、ケーサツカン」
(まさか警察とは……それならタスポはダメだろうな)
 今度は悠が驚く番だった。が、言われてみればなるほど、図ったのかどうかはともかくも、彼の見た目はまったく「刑事」のそれである。電気工事士だと言われたほうがよほど驚いたろう。
(刑事の叔父か。ちょっと珍しいな)
 テレビは時事報道に移っている。稲羽市議員秘書、生田目太郎、女性関係、進退問題、妻、演歌歌手、柊みすず、訴訟、慰謝料請求、愛人、局アナ、山野真由美、降板、出演自粛。……欠伸が込み上げてきた。後ろ手についた手のひらからじわじわと溶けていくような、緩慢な眠りの誘惑がまぶたの上をちらついた。
「……ニュースつまんないね」独りごちて、菜々子はチャンネルを変えた。「クイズないかな」
(刑事がこういう時間に呼び出されるのって、どういうケースなんだろう。まさか事務仕事じゃないよな……とすればやっぱり、ジケン? ソーサ?)
 テレビはコマーシャルを流している。明日、ハッピーCHU'sデー、新素材、ヒートコンフォート、20%OFF、対象商品、ポイント三倍、ジュネス、毎日、お客様感謝デー、来て、見て、触れ。……腕時計は六時半過ぎを示していた。まだ休む時間ではないが。
(そういえばスタンドから見えたな、ジュネス。こんなガリアみたいな辺境まで出てきて……売れてるのか?)すでに半ば睡りながら、悠は口角の上がるのを感じた。(ガリアはいいな。来て、見て、勝てなら、カエサルだもんな。ガリア・ヤソイナバ……)
「エヴリデイ・ヤングライフ! ジュネス!」
 すわなにごとかと、悠は危うく腰を浮かせるところだった。今まで借りてきたネコみたいに大人しかった菜々子が、ジュネスにおなじみのコマーシャルソングに合わせていきなり歌い出したのだ。声を潜めるでもなく、悠を憚るでもなく、元気いっぱいのかわいい声で、振り付け――たぶん自作の――までつけて。
「……たべないの?」
「……うん……食べる」
(たぶん、電車を降りてから今までで、いちばん驚いた……それにしても)
 驚きで目が覚めたのもつかのまで、悠はふたたびとろとろし始めた。
 もはや箸を握るだけ握ってもガリひとかけら摘むのすら億劫だ。もともと空腹ではなかったのに加えて、いままで騙しだまし往なしてきた長旅の疲れがとうとう、ここに来て耳を揃えて返せとばかり、負債請求に乗り出して来ていた。
 とにかく眠い、身体が泥のよう。
(江山路遠し羇離の日よ……我ながら大げさだけど、本当に疲れた。風呂ってどうなってるんだろう? いいか別に、入らなくても)
 菜々子は旺盛な食欲を見せ、すでに割り当てのほとんどを平らげていた。自分のぶんも食べるだろうか、勧めてみようか? おひとついかがです、遠慮なさらず――
(あの女のひと……マーガレット、だったっけ)夢の中の道連れは弁当に夢中だった。みかんのお返しにこれを渡したら、彼女は喜んだろうか。(それにイゴール、長い鼻。タロットカード。今日は驚きの連続……)
 悠はその場でそっと横になった。菜々子は目当てのクイズ番組を探し当てたようで、こちらの動きに気づいたふうはない。起こされたらその時はその時――眠りに落ちながら、冷蔵庫に叔父の寿司を入れるのを忘れていたことを、彼はぼんやりと思い出していた。





「悠」誓子が形ばかり、開いたままの部屋の扉をノックした。「……準備できてんの?」
「半分くらい」
「あんた読むんなら終わってからにしなさいよ」
「そうしてる」悠はページから顔を上げず、振り向きもしなかった。「ぜんぶ持っていけないから中身を厳選してる」
「一年だけでしょ。向こうだって本屋くらい、いやなかったな……ないわ、確か」
「ほらね、口癖だったろ。おじいさんちはなんにもない、車がなければ孤独死確定」
「そこでねえ、あたしゃ高校まで暮らしてたんだよ」誓子が部屋に入ってきて、テーブルの上に茶封筒を放った。「遊ぶところもないし、電車のったって一時間かかるし、あの頃はイヤで堪らなかったわ」
「過疎稲羽?」悠はようやくキケロから顔を上げた。
「そうそう、言ったっけ? カソイナバ! 昔はほんっとよくバカにされたわ、御康とか沖奈とか、わりあい都会のほうの学校のやつらにさ」
「三日後にそこ行くんだけどね、おれ。憂鬱だ」
「あんたイヤなんだ?」
「イヤだよ、正直いえば。そんなド田舎」
「へえ」誓子の声には感心したような響きがあった。「あんたなにも言わないんだもん、喜んでんのかと思ったわ」
「選択肢ないだろ。今から英語猛勉強しろって? 冗談じゃない」
「なあに? あんたアメリカ住みたいとか言ってたじゃない」
「それ三年か、四年くらい前だろ……そりゃ、将来的にはって話。せっかく父親がアメリカにいるんだから」
「へえー、意外だったわ、あんたイヤだったんだ」
「イヤだね」
「ま、いい勉強じゃない? アメリカの予行練習でさ……あんた東京でたことないでしょ」
「出たことはある。北海道いったろ」
「また屁理屈」
「母親似でね」
「あはは、あたしに似てるんならね、ぜったい八十稲羽は肌に合わないよ」誓子は笑いながら部屋を出て行った。「四時に来るからね、運送屋。それまでに片しときなさいよ」
「善処する――母さん」
「あ?」誓子の顔だけが戻ってくる。
「言葉が通じないかもね、そういう意味じゃアメリカの予行練習に――」
 洗濯バサミが飛んできた。
「母さん、サンノゼに着いたら現地人にヤソイナバ語で話しかけてみなよ。きっとネイティブ扱い間違いなし!」 
 足音は廊下を出て、玄関でサンダルをつっかけて、それからなにかガサガサいわせながら玄関を出て行った。ゴミでも出しに行ったのだろうか。
(三十分くらい経ったらまた来るだろうな)
 準備中に話しかけられるのはこれで四回目だった。誓子は寂しいのだ、彼女は二日後に機上のひととなりアメリカへ、そして息子は一日遅れで自分の実家へ。夫との長年の別離が癒される間際に、今度は子供がいなくなってしまう。さすがに十七の身空で、子供と別れる母の心境を理解してあげることは難しかったが、悠には母と別れる子供の寂しさを暖めるので手一杯だった。
(なにか置いてったな)
 テーブルの茶封筒にはマジックで、
 
 莫怨他郷暫離別
 知君到處有逢迎
 
 と書いてある。
(見知らぬ土地へしばし別れゆくことを嘆くな、どこへ行こうと必ずお前を迎えてくれる友人がいる、か)
 母にこういう知識はない、とすれば、これはわざわざ父が息子に伝えるよう、メールかなにかで妻に申し送ったものだろう。
 父親の心遣いこそありがたくも、そのメッセージの内容が息子の心を揺り動かすことはなかった。余計な心配はさせまいと伝えてはいないが、彼の息子は友人を作ることにまったく無関心なのだ。
(友人ねえ……それより金がよかったな。入ってないかな) 
 期待をこめて逆さまにしてみると――出てきたのは紙幣ではなく、なにかのカードだった。
「タロットカード?」
 悠はそれに見覚えがあった。何年か前、母が興味本位で占いの本と一緒に買ってきたものだ。ほどなく飽きっぽい母に見捨てられたそれらは、たいていそうであるように彼女の息子が落掌することになったのだが、
(なくしたと思ってたけど……なんだ、母さん持ってたのか)
 カードは一枚だけ。みすぼらしい旅装の若者が象徴的に、ちょっとデッサンを崩して描かれていて、その下のスクロールに「THE FOOL」の文字が躍っている。――見ず知らずの人間にされたならともかく、悠はこの冗談を暖かく受け止めた。なるほど自分は旅人で、若者で、ついでに彼女にとってはまだ眼を離せない馬鹿者なのだ。
 これといっしょに一万円札が数枚はいってたら文句はないんだけど――ため息まじりの苦笑が、しかしこのとき強烈な違和感によって強張った。
(いや、おかしい、カードなんかじゃなかった)そうと言えば封筒の文言も違う。母は「特別賞与」とだけ殴り書きに書いたはずだった。(違う、ぜんぶ違う、確かに入っていたはず、特別賞与十万円が!)
 玄関で扉の開く音がする。
(母さんか)
 玄関框の撓む悲鳴のような音と、それに続いてミシミシとフローリングの軋む音が――母ではありえない誰かの重い、硬質の足音が、悠の部屋めざしてゆっくり近づいてくるのが聞こえる。それだけではない、なにか途方もなく重い、たぶん長いものを引きずる耳障りな擦過音も。悠は立ち上がりかけた姿勢のまま、部屋の開け放たれた入口を凝視したまま凍りついていた。
「誰……母さん?」
 悠は悲鳴を飲み込んだ。叫ぶ代わりに後ずさって、壁を背にしてその場にへたり込んだ。部屋にのそっと入ってきたのはもちろん母ではなかった。母はこんなに巨大であったことはない、母は悠を生んでからかつてこんな格好はしたことがない。投げつけたキケロ演説集を、闖入者は避けもしなかった。黒い、角ばった、ちょっと長ランめいた装束の下に金属質の肌を隠す、長大な鉢巻をつけた鉄仮面。四メートルほどはあろうかという巨体を屈めて、持ち主の丈と同じくらい長い、凶悪な、ナイフと長巻の合の子のような得物で、部屋のカーペットをずたずたに引き裂きながら――それは壁にへばりつく悠に迫った。
(この包丁で、こいつはなにをする? 決まってる、決まってる! ひとつしかない!)悲鳴を上げようとしても、もはやうめき声ひとつ出てはこなかった。(……母さんは? 母さんが戻ってくる、ここに!)
 震える膝と壁とで懸命に身体を支えて、悠はなんとかこうとか立ち上がった。誓子も天国で母子家庭を営むくらいなら、カリフォルニアで息子の位牌を拝むほうがずっとマシだろう。歯の根の合わないのを無理に食いしばって、忘れかけていた勇気と気力とを振り絞って、あらんかぎりの声で母に危険を知らせようと息を吸い込んだ矢先――鉄仮面は悠のあたまを、その巨大な両の手のひらで挟み込んだ。そうしてぐっと無機質な顔を近づけてくる。このままあたまを握りつぶされるか、それとも食いちぎられるか、恐怖に負けて竦みきった彼の耳に、地の底から響くような、地鳴りのような声が轟いた。

 アレハナレナレハアレナレヨノレアレヨバヘ

 鉄仮面の奥にふたつ、金色の炎が燃え上がった。





前を表示する / 次を表示する
感想掲示板 全件表示 作者メニュー サイトTOP 掲示板TOP 捜索掲示板 メイン掲示板

SS-BBS SCRIPT for CONTRIBUTION --- Scratched by MAI
0.026819944381714