天空に映える赤薔薇は、月灯りを通して尚美しく咲き乱れている。まるで神話の光景をそのまま甦らせたような、美しく壮大で、やはり恐ろしい氷の華を見上げる青山は、臆すことなく証を構え直してエヴァンジェリンへと切っ先を向けた。
暴れ、狂い咲く華は、今か今かとエヴァンジェリンの号令を待っている。さながらチ忠義の犬。あるいは牢獄に捕らわれた猛獣の如く。薔薇を挟んで空に立つエヴァンジェリンは、白い吐息を可憐な口から漏らしながら、嗜虐の笑みを浮かべて刑を待つ罪人の如き青山を見返した。
「これが貴様を殺すためだけに作りだした魔法、終わりなく赤き九天だ」
誇るように両手を広げながら、滴り続ける鮮血を媒体に棘の軍勢をその周囲に張り巡らせる。
終わりなく赤き九天。
大橋での敗北からこれまで、青山を殺すために練り上げ、編み出した、生まれ続ける雷氷の群れだ。見た目からして、吸血鬼の血液を溶かしたために禍々しい雰囲気を放つその棘は、触れればそのまま肉体を氷に閉じ込めると、青山の目は見抜いている。
だがそれだけだ。その棘の一本一本が絶対零度の冷気を放っているが、その程度であれば青山にとって脅威とはなりえない。
「くくく」
そんな青山の思考を見透かすような笑い声。揺らめく水面のような少女の瞳が、それだけではないと青山に警告する。
見誤るなと。この棘をただの絶対零度と断じたその時が、貴様の最後だ。
「行くぞ」
エヴァンジェリンは、広げた両手を指揮者の如く天に掲げた。その動きに合わせて棘もまた天へと昇る。渦を巻くように絡みあい、束ねられた棘が、螺旋を描いて空へと行く。そのまま月すら穿たんと駆け登る棘が、その渦中にエヴァンジェリンを隠した直後、青山に向かって棘が急転直下と襲いかかった。
「……ッ」
青山は枝分かれして四方から飛びかかる棘の動きを辿る。氷の女王すら上回る棘の弾幕は、青山を包み隠すように広がっているのが見て取れた。
食虫植物みたいだな。そう内心でぼやきながら、青山は両足に気を込めて大地を蹴る。瞬動術にて後ろに飛んだ青山に遅れて、一瞬前まで青山が居た場所もろとも赤薔薇が全てを飲みこんだ。
その章頭の余波だけで愛用している藍色の着物の端が凍りつく。余波だけでこれだ。もしも生身で触れたならば、たちまち心臓を停止させられて即死するだろう。
だがその結末を甘んじる訳にはいかない。津波のように暴れ、乱れ襲ってくる棘の頭上へと青山は飛んだ。目指すは遥か上空。氷に隠されたエヴァンジェリンの喉元だ。
先程は斬り損ねた。
だが今度は必ずその命にまで刃を届かせよう。応じるように震えた証に感謝しつつ、空気の塊を蹴って天上へと走り抜ける。
その行く手を阻むのはやはり赤薔薇の棘だ。雷を纏いながら青山を執拗に追いかける棘の速度は、虚空瞬動を繰り返す青山にすら劣らない。
むしろ、追いこまれている。これまで速度の領域において他の追従を許さなかった青山にとっては衝撃だったが、驚きは心の奥深くへ。迫る棘に向き直り、証を構えて迎え撃つ。
先程と同じく、青山は赤薔薇の群れを見るのではなく、赤薔薇の術式を構成する根源を、その棘の一つ一つから読みとる。脳髄と眼球を蝕む痛み。込み上げる吐瀉物を強引に胃へと落としこみながら、見えぬ概念の一端へと狙いをつけた。
「おぉ!」
気合い一閃。百を超える棘を一刀の元に斬る。斬撃に酔う音色が何重にも重なり響き渡り、青山は手元の感触に確かなものを覚え──
まるで何事もなかったかのように、斬られた断面から棘が再び生まれてきた。
「何……!?」
今度こそ隠しきれぬ驚きに当惑しながらも、慌てて棘を斬り払い、その場から離脱する。
しかしやはり、根源を斬られた証でもある鈴の音色を響かせているというのに、棘はまるで壊れない。
むしろ、先程にもまして棘の数は増えているのではないか?
「こ、れは……」
棘は無限に生まれ続ける。この恐ろしき氷結呪文の真の怖さを、青山は今まさに体感していた。
終わりなく赤き九天。棘の全てが絶対零度というだけでも恐ろしきこの呪文の本当の恐ろしさはそこではない。
真の恐怖。それは、棘を構成する一本一本が、全て別個の精霊を宿した個別の生命体であるということにある。真租の吸血鬼としておそれられたエヴァンジェリンのもう一つの異名。
人形遣い。
かつては軍勢とも呼べる数の人形を一人で操ったエヴァンジェリンだからこそ考案し、操ることが出来るのだ。当然、青山以外の相手であれば、誰であってもこのような手間をかける必要はない。
むしろ、魔力の消耗が激しくなる分無駄だというものだ。
しかし、相手が青山である場合、全てが別個の生命体であるという利点は強烈である。敵の大本を斬るという、まさに神鳴流の秘奥を極めた青山の最後にして最大の弱点。
それは、彼には大群を一掃する技がないということにある。
斬るという答えに至ったから得た。必殺とも言える斬撃。しかし刀が一本であるため、斬れる対象も一つずつ。
故に、その圧倒的な強さに隠されているが、青山の殲滅能力だけを上げた場合、その能力は赴任した当初のネギにすら劣るのだ。
勿論。それを補って余りある切っ先の冴えと、歩法の速さがあるが、神速の斬撃速度すら上回る増殖力と、青山の瞬動にすら追いつくスピードが合わさったとき。
「貴様の底が見えたぞ。青山」
エヴァンジェリンは青山の全てを捉えた。終わりに至った肉体の骨の髄までしゃぶりつくし、この魔法をもって、遂にその流血で己の体を満たせることに歓喜する。
斬ろうが引こうが追いすがる氷の軍勢が、次第に青山の影を踏み始めていた。初めての体験だった。斬っても死なない物が存在することが、己の常識を壊す異常に青山は恐怖すらした。
嫌だ。何だこれは。斬っているのに、斬ったのに死なないなんて、生きてる証を歌いながら、地獄からよみがえる亡者の如く増え続ける棘の群れ。
その全てがまるで自分を死へといざなっているようだった。
こっちへ来い。
こっちへ来るんだ。
死ね。
この棘に包まれて殺されろ。
「ぃ……ひぃぁぁぁぁ!」
絹を裂くが如き悲鳴が青山の口から漏れた。理解出来ぬ化け物が自分を殺そうと迫ってくるのが怖かった。戦いの歓喜すらそこにはなく、ただただ生きたくて、生きようとしているだけの自分には眼前の殺意が、涙が出るほど恐ろしい。
耳に届く凛と合わさった悲鳴に、エヴァンジェリンは酔いしれた。
「……んん。いい。いいぞ青山。その恐怖。その絶望。全てが芳醇だ。香しくて瑞々しい。脳みそをぐちゃぐちゃに溶かすような歌声だよ。怖いんだろ? 斬るという常識が通じないことが……あぁ、あぁ! 貴様の奏でる鈴の音色も綺麗だが──」
「あ、ぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
「私としては、その悲鳴のほうが濡れるなぁ」
目を閉じて、頬を紅潮させ、真租は絶望に落ちた人間のあげる声を、腹の底まで楽しんだ。へその下がじわりと疼く。繰り返し続く絶叫が、氷に閉じ込められたエヴァンジェリンの脳裏に鮮明と青山の顔に浮かんだ恐怖の色を想像させた。
常人には理解できないことだが、『今の』青山にとって斬っても斬れないというのは常識外に他ならなかった。
生きることは斬ることだ。
その単純な回答に矛盾するエヴァンジェリンの魔法は、まるで太陽が空から失われたかのような絶望を青山に叩きつけたのだ。
「な、んで……! なんで……!?」
無表情の顔に浮かぶ困惑と焦燥と絶望と悲壮。それでも刃の冴えは決して衰えないあたりは見事としか言いようがないが、いずれこのままでは棘に食いつかれるのは時間の問題だった。
死が迫っている。
死んでしまう。
こんなところで。
斬られることなく、殺される。
「嫌だ……死にたくない……」
呟かれた言葉の、何と外道なことか。青山がこれまで行ってきた全てを冒涜する一言が漏れ出た。
死にたくない。
幾人も斬り殺しながら。
青山は、死にたくないのだ。
そしてその言葉に誰よりも憤るのが。
「……何だ、それは」
他でもない。エヴァンジェリンその人だった。
その時、後一歩で青山を絡め取るところまで来ていた棘が突然動きを止めた。
何事かと、恐怖に怯えた表情を浮かべながら棘から距離を取る青山。すると、天空高く咲いていた氷の薔薇が開き、中にいたエヴァンジェリンが嫌悪に歪んだ表情を浮かべて現れた。
「何だよ。その様は」
誰かが常に青山に思っていた、形容出来ぬ様を言うのではなく。
エヴァンジェリンはただただ、その無様に対して唾棄した。
「貴様……あぁクソ。確かに貴様は滅茶苦茶になったよ。もう一度聞くぞ? 何だそれは、違うだろう青山。貴様はもっと純粋だったはずだ。間違っても……自分の生死に固執する人間ではなかっただろ?」
エヴァンジェリンが望む青山が浮かべる恐怖は、そんな己の死に恐怖する様ではない。
斬るという終わりが通用しないことに対する絶望。
そうであるべきなのだ。
「何を……人間なんだから、生きたいって思うのは──」
「貴様は……いや、話しても通じまい」
そう言って、諦めた風に首を振ると、エヴァンジェリンは再び氷の中に覆われていく。
「気が変わったぞ青山。貴様を殺す……そんな『余分』は、私が直々に殺しきってやるよ!」
「エヴァ──」
「今の貴様が私を呼ぶな! 青山ぁ!」
直後、エヴァンジェリンの怒りとは裏腹に、別個の魂をもった、共通の使命を持つ棘の群れが青山へと殺到する。再び始まった敗北までの出来レース。猛然となだれ込む棘の雨を掻い潜り、青山はただエヴァンジェリンが何を言いたいのかわからずに混乱した。
生きたいのだ。
斬りたいのだ。
ただそれだけであり。
自分は決して間違っていないはずで。
「俺、は……」
指先が凍っていく。内臓も凍っていく。脳髄も激痛すら消えるほど冷たくなっていて、これでは棘の直撃を受けずとも、死に果てるのは明白で。
死ぬのだ。
このままでは、死んでしまうのだ。
「嫌だ……嫌だ……!」
青山は背を向けて走り出した。全力で逃げ出す。目の前の山々を壁にして、狂い来る薔薇の棘から、嗚咽を漏らし、地べたを這いずりながら、何とも無様な姿で青山は逃げた。
怖いのだ。
ただ怖くて、こんな場所には一秒だっていたくない。
第三者が見たら、何を今更と言うだろう。自らが望んだ戦場に嬉々として現れながら、いざ戦況が己にとって悪くなったと見るや否や逃げ出すその情けなさ。
見るに堪えぬ醜悪。
例えエヴァンジェリンでなくても、今の青山を見れば、素子すら「それは違うだろう」と幻滅したに違いない。
「ひぃ……あぁぁ……」
目口鼻から液体を流し、股すら濡らして逃げる青山だが、体に染みついた技術はそこまでの醜態を晒す主をぎりぎりで生かしている。最善の逃走経路を選び、迫る棘を斬り捨てて、時には土を舐め、恐怖から嘔吐すらしながら。
青山は逃げていた。
何が彼をそこまで突き動かすのか。そうまでして逃げなければならぬ理由があるというのか。
今や、ただの人に落ちぶれた哀れな子鬼になりながら。
何故、逃げる?
「死にたくない」
生きたいのだ。フェイトが教えてくれた。この斬撃にこそ生きる意味があるから。自分はそれ以外で殺されるわけにはいかないのだ。
この素晴らしい答えを皆に教えるために、殺されたくなかった。
「生きたいんだ」
願い─呪い─は根深い。同じく終わりに至った少年が青山に与えた鎖は、はっきり言おう。青山をただの気が狂っただけの狂人へと突き落とした。
修羅ではない。
狂人。
ただの、人間。
「守りたいんだ」
その言葉の何たる空虚。何を守るというのか。守れるものがあるというのか。
──凛と悶える右手の証。
生きるために。
斬るのだ。
「陽だまりがあるから……!」
大切だから。
だから、生きて、斬るんだ。
それだけのこと。
幸せな回答。
─激痛を訴える黒色の刀身─
「生きるんだ」
何のために?
─今にも死にそうな刃が狂う。末端から震え、黒い刀身の先から罅が走る─
「生きて、斬るために」
誰のために?
─破裂する。矛盾は成立しない。刀身を覆っていた黒は剥がれ、その矛盾を、生きるという答えを食いつぶすように現れるのは─
「斬るんだ」
斬るために。
斬るから。
斬って。
斬るだけで。
斬るしかないから。
斬っていくのです。
どうか。
斬らせてください。
斬るために斬る。
斬る。
だから。
生きることは、斬ることで。
違うだろ。
「あ」
迫る棘が体に巻きつく。体中が痛みを感じる前に、一瞬で魂まで冷却されて、思考は暗転。
「死ねよ青山」
氷獄に落ちる。人生の最後、死にたくないという思いに勝り脳裏を走ったのは──
──斬ることは、斬ることだ。
おかえりなさい。修羅外道。
右手のソレ─証─は、刀だよ。
─
斬る。
後書き
オリ主の一人称、これにて終了です。