妹の『霊夢』は幼稚園の頃からよく誘拐されそうになった。
霊夢が初めて誘拐されそうになった日の事は今でもよく覚えている。
私は小学校の宿題を部屋でこなしており、霊夢はうつ伏せになりながら絵本を読んでいた。確か『百万回生きた猫』だったような記憶がある。霊夢の髪はその頃から長く、本を読むときにその端を噛む癖があった。ちょうど噛むのを止めるよう注意しようとした時だった。
霊夢を後ろから掴もうとしていたのだ。肘から先の腕だけが。
何もない、本当に何もない空中から白い手が、肘から先が伸びて霊夢を掴もうとしていたのだ。妹を襲おうとしていたその怪奇現象に対し、私は唖然と動きを止めてしまった。叫ぶとか注意を促すとかそういった行動を起こすことができなかった。
しかし、霊夢は非常に冷静だった。無言で私の筆箱に手を伸ばすと、尖った鉛筆を取り出し自分に迫っていた手に突き刺したのだ。
「…うわぁ」
ドン引きする私に気を向けず、妹は部屋の隅に移動して黙って絵本を読み始めていた。正体不明の腕はバタバタと痛そうにもがいていた。なんだか可哀そうだったので鉛筆を抜いて、タオルで血を拭いてあげた。
「……ありがとう。なんか久々に誰かに優しくされたわ」
一体どこから声を出しているんだろう。そう思っていた矢先ゆっくりと消えていく腕に向かって霊夢が一言。
「兄さんに触るな。ババア」
ビクッと腕が振るえて落ち込んだ様にトボトボと消えた。霊夢怖いと本気で思った。
また、ある日のことだった。いきなり霊夢が私に飛びついてきた。何事かと思って霊夢の方を見ると先程霊夢が立っていた場所に紫の穴が開いていた。唖然とその穴を見つめている私を確認しつつ、霊夢は何かを戸棚から取り出し、穴に投げ込んだ。
「っぎゃあぁあああぁあぁっ!?」
女性らしき悲鳴が穴から聞こえた。相当慌てた様子だった。
「な、何投げたの?」
「アレ」
私の服の裾を掴みながらそう霊夢は淡々と告げた。アレってなんだろうと思いつつ霊夢が投げたものを確認すると初詣に行った神社で買った魔よけの矢だった。
「あの矢って凄かったんだ」
「…くたばらなかった」
「え?」
「頑張って削ったのに」
「え?」
何この妹怖い。
「兄さん」
「は、はい」
「見張ってて」
「はい」
トテトテと部屋を出ていく霊夢を尻目に私はゆっくりと穴に近づいて静かに告げた。
「逃げろ。あの子本気で怒ってる」
たぶん確実に止めを刺せる凶器を調達しに行ったのだろう。
「串刺しで動けないのよぉ!」
なんで小学生が投げた矢で誘拐犯が串刺しになっているんだよと思いつつ、穴の端にしがみ付いて中を覗き込んだ。目玉のようなモノが付いていて気持ちが悪かったが、矢に固定された腕が見えたので精いっぱい手を伸ばして引き抜いた。
「…兄さん?」
穴が凄い勢いで閉じるのと霊夢がチャッカマンで包丁を熱しながら戻ってきたのはほとんど同じタイミングだった。
「ご、ごめん。にげられちゃった」
「そう」
ガクガクと膝が震えていたが頑張って見えない様にした。黒曜石のような霊夢の瞳は疑っているようだったが、私は平穏を装った。
「兄さん。手洗って」
「いいけど、なんで?」
「あのババアの匂いが染みついてる」
「どんな匂い?」
「胡散臭い匂い。兄さんらしくない」
「洗ってくるよ」
ただ、霊夢も怖かったらしく珍しく私の布団に入り込んできた。基本的に感情豊かなのだが、何かに集中した時、まるでトランスしたかのような表情になることがある。霊夢の集中力は尋常ではない。本物の天才だ。
「兄さん。お茶が飲みたい」
「はいはい」
何故か霊夢は私が淹れたお茶が好きだった。自動販売機のジュースには反応せず、何故か私の淹れたお茶を好む。時折、怪奇現象に巻き込まれるがそれ以外は問題の無い自慢の家族だった。
だから、私は一連の奇妙なできごとを誰にも言わなかった。
「痛いっ!イタイッ!ギブ!ギブアップ!」
ある日、自宅に戻ると例の正体不明の腕が霊夢に関節技で押さえつけられていた。霊夢が飽きた後適当に氷で冷やして帰してやった。
「凄い腫れてる」
「……悪いわね」
「そう思うなら霊夢に手を出さないでください」
「妹さんが大事?」
「家族ですから」
気が付いたら腕は消えていた。
また別の日のことだった。
私が自宅に戻ると今度は何故か大きな針もしくは杭らしきものであの腕が床に張り付けにされていた。可哀そうなので抜いて、できる限り治療してやった。
「優しい手ですわ」
そんな声が聞こえた気がした。
また、別の日の事だった。信じ難いことに狐が檻に入れられていた。金色の毛並みが艶々として北海道辺りに居そうな大きな狐だった。それもただの檻ではなく何か文字が書かれた紙が何重にも張られた紙で覆われた檻だった。
「あ、もしもし保健所ですか?」
霊夢が保健所に電話しているのが聞こえたので檻を持って私は逃げ出した。途中で鶏肉と油揚げを与え、山で放した。少しだけこっちを見た後、狐は山に帰って行った。
「掛布団にするつもりだったのに」
その後、霊夢に少しだけ愚痴られた。
また、ある日の事だった。
何か御札らしきものにグルグル巻きにされた腕が畳の上に転がってきた。
『工具買ってくる。触らないで by霊夢』
どっからこんな御札調達したのだろうかと思いつつ、腕を確認するとまだ『生きて』はいるらしい。床に霊夢が書いたらしい解剖の方法や拷問チックな内容が書かれた紙は見ない様にする。何故かファブリースの空き容器がいくつか転がっていた。
「え、えーと。どうも」
「……助けてくださらないでしょうか?」
「今回はどうしてそのような格好に?」
「神隠しをしようとした結果ですわ」
「へえ」
「私とて本当に必要だからこのような行為に及んでいるのです」
「あ、そうですか」
なんか変な宗教みたいだなと思いつつ、どうしたものかと思っていると霊夢が帰って来た。
「兄さん。戻ってたの?」
「ついさっき」
「ふーん、私これからすることあるから。部屋出てもらっていいかしら?」
白いビニール袋からハンマーと大型の釘がはみ出ていた。まさかとは思うが使う気じゃないだろうか。
「霊夢。さすがにソレはヤバイ」
「兄さん。やる時は徹底的によ」
なんでまだ小学生の妹がこんな言葉を発するのだろうかと背筋が冷たくなる感覚を味わいつつ、速やかにキッチンに移動。一番いいお茶を出して速やかにお湯を注ぐ、むろん茶菓子も忘れない。
「先にお茶にしない?」
「…そうするわ」
糸ノコギリの歯を取り付けいていた霊夢は打って変わって上機嫌な表情でお茶を啜り始めた。その隙に逃がしてやろうと思っていたのだが、御札が取れない。
「この年にしてこの技量とは恐ろしい才能ですわ」
全く嬉しくない腕の発言だった。なんか慣れてきたのかよく見ればこの正体不明の腕は何もない空間から生えているわけではなく、紫色の穴から生えているようだ。あるで蜃気楼のように曖昧で全体が良く見えないが一番無難だろうと思い、御札で動けなくなっていた腕をその不思議な空間の『スキマ』とも呼べる場所に押し込んだ。
「…兄さん」
「なに?」
「おかわり」
「ああ」
「やっぱり兄さんが淹れてくれるお茶が一番ね」
先程の腕のことは無かったことにされたらしい。それがいいと私も思った。
そんな奇妙な腕、紫色の穴と何故か綺麗な狐との攻防は毎回霊夢の圧勝で終わり、私が霊夢が止めを刺す前に逃がすという形で数年間続いた。
今から思えば霊夢が止めを刺した方がよかったかもしれない。
霊夢を誘拐することが無理だと判断した誘拐犯は私を誘拐した。否、しようと試みた。
「はぁい♡旦那様候補。スキマへボッシュート♡」
そう告げた金髪でどこか妖艶な雰囲気を醸し出していた女性に、霊夢が膝蹴りを叩き込んだ。