シーン4 ザクソンの村
冒険者たちが疲れた足を引きずって村に帰還すると、彼らが妖魔の王を倒し、ゴブリンの群れを征伐したという話は小一時間で村中に知れ渡った。
見届け役として同行したザムジーが確認したところ、妖魔の骸は王のものを入れて32体。村を襲ったゴブリンのほとんどを討ち果たしたことになる。
「妖魔の脅威は去ったと考えてよかろう」
フィルマー村長が宣言するや、ザクソンは村を挙げての大祝宴に突入。酒場の主人ジェット爺さんは残り少ない酒樽をすべて開け、広場には村人たちが料理を持ち寄って、飲めや歌えの大騒ぎが明け方まで繰り広げられた。
村の英雄たる冒険者たちがそこから逃れられる道理もなく、4人は東の空が白むまで村人たちの大歓待を受け続け。
彼らが翌日目を覚ましたとき、すでに太陽は中天を通り過ぎていた。
「まったく、飲めないならはっきり断ればいいのに」
2階の個室でライオットの様子を見てきたルージュは、階下に降りるなりそう言って肩をすくめた。
「ライオットさんは駄目そうですか?」
一足先に戻っていたレイリアが、コップに果物の果汁を絞りながら問いかける。
「もうダメダメ。口もきけないみたい。気持ち悪そうに喘ぎながら床の上に転がってたよ」
「床の上ですか? ベッドではなくて?」
「転がりすぎて落ちたんじゃないかな」
放っておくしかないね、とため息をついて、ルージュはすとんと椅子に座った。
テーブルの上には、ライ麦のパン、トマトとレタスのサラダ、ソーセージエッグ、デザートの果物などが並んでいる。昼過ぎまで寝ていた冒険者たちのために、ジェット爺さんが用意してくれた遅すぎる朝食だ。
「自業自得だな。それにしてもあの馬鹿、普段は飲まないくせに、どうして昨日に限って飲んだんだ?」
食卓の隅を占領してミルクを舐めていた銀色の双尾猫が、いつもどおり辛辣にこき下ろした。
アルコールは理性を破壊する。それに手を出さないことはライオットの数少ない長所のひとつだと思っていたのに、この有様では話にならない。
ルーィエの容赦ない論評に、レイリアはとりなすように応えた。
「あれは儀式だったんですよ、ルーィエさん。ライオットさんは村の皆さんのために、その儀式に参加したんです」
「儀式? あの理性ゼロの乱痴気騒ぎが?」
理解しがたいと言わんばかりに猫王の声がはね上がる。
「妖魔との戦いでは何人もの方が亡くなって、もっと大勢の方が怪我をしました。男性も女性も子供たちも、皆が村を守るために様々なものを犠牲にしてきました」
レイリアは食卓に果汁のコップを配りながら、言葉を続けた。
「けれど、そんな戦いの日々も終わって、これからはいつも通りの日常が始まります。こんなふうにゆっくり食事ができる、何でもない毎日が。戦いで張りつめたものをほぐして、疲れた心の弦を張り替えるには、あの大騒ぎが必要だったのだと思いますよ」
昨夜の大宴会で、大量の酒が村中の緊迫感を強制切断してしまった。今日一日は宴の後に特有の、ちょっと空虚な寂しさが漂うだろう。犠牲者たちの弔いもしなければならない。
だが、明日からは掛け値なしにいつもどおりの日常が始まる。鍛冶屋は鎌を打ち、木こりは薪を割り、猟師は鹿を狩って生きていくのだ。
そんな変化のきっかけとなる出来事が、村には必要だった。シンとライオットは、変化の象徴としてその儀式に参加したということか。
「ふん」
愚かな行為だとは思うが、理解できないことはない。
レイリアの言葉に納得すると、ルーィエはつまらなそうに鼻を鳴らして、再びミルクの皿へと戻っていった。
もの言いたげな顔で聞いていたルージュは、結局口を挟まず、無言でデザートの皿に手を伸ばす。
今のザクソンに必要な儀式は、酒宴だけではないだろう。
昔から、戦いで荒ぶった男たちの狂燥を鎮めるのは女の役目、と相場が決まっている。日本にいた頃のライオットも、荒れた現場から帰ってくる度にルージュを求めたものだ。いわゆる“賢者タイム”というものが、心を落ち着かせるのに一役買うのかもしれない。
「ま、そういう話はまだちょっと早いかな」
口の中でつぶやいて、ちらりとレイリアを見る。
そう、今はまだ早い。
だが1ヶ月後は? 半年後は?
ふたりがいつまでもプラトニックな関係で満足するとは、ルージュにはとても思えなかった。
シンとレイリアがどのような未来を選択するのか、それはルージュにとっても他人事ではない。身も心も結ばれた相手を残して、シンは日本に帰ることを承知するだろうか?
そしてライオットは、シンを残して日本に帰れるだろうか?
紫水晶の瞳に珍しく暗い光を浮かべて、自分の未来を握る少女を見つめる。
甲斐甲斐しく朝食(?)の準備をするレイリアは、その視線に反応して小首を傾げた。
「何か?」
「ん、何でもない」
ルージュは複雑きわまる内心を芸のない一言でごまかし、ぱたぱたと手を振って表情を一変させた。
「ところでリーダーは?」
「私が行ったときには、まだ寝ていました。寝顔がとても可愛かったので近寄って眺めていたら、すぐ目を覚ましちゃったんですけど」
「それは残念だったね」
「まったくです」
ルージュは器用な手つきでオレンジを剥き、一粒口に入れる。酸味と甘味が絶妙にブレンドされた瑞々しい味。
階段の方から弱々しい声が聞こえてきたのは、その時だった。
「まったくです、じゃない。未婚の女性が軽々しく男の部屋に入るのはどうかと思うぞ」
まだ頭が痛むらしく、額に手を当てながら、おぼつかない足取りでシンが姿を見せた。調子に乗って村の猛者たちを相手に呑み比べをした報いだ。
それでも自力で動けるあたり、さすがは黒獅子といったところか。早々にダウンして復活できないライオットとは雲泥の差である。
「おはよう、リーダー。ご飯食べられる?」
「……果物だけもらおうかな。あと水を頼む」
「はい。すぐにもらってきます」
席を立ったレイリアが軽やかな足取りで厨房に消えると、ルージュは意味ありげな目つきでシンを眺めた。
「刺激的な目覚めだった?」
「そりゃな。目が覚めたら、目の前に彼女の顔があった。驚いたのなんのって」
椅子を乱暴に引くと崩れるように腰を下ろし、顔を覆って深々と深呼吸する。
シンから猛烈に酒臭い息が漂ってきて、ルージュは思わず苦笑をもらした。
「その調子じゃ、色っぽいことにはならなかったみたいだね」
「今は無理。もうちょっと復活してから頼む」
完全に二日酔いの黒獅子は、見栄を張る余力もないらしい。
「ライオットは?」
「ダメみたい」
「だろうな」
シンはそれだけ言うと、力なくテーブルに突っ伏してしまった。
戻ってきたレイリアが水のコップを差し出しても、顔を上げる元気は無いようだ。
「何でしたら《キュア・ポイズン》でも掛けましょうか? すっきりしますよ?」
レイリアが気遣わしげに顔をのぞき込む。
「俺は少し休めばよくなるから。解毒の魔法はむしろライオットの方に」
「だめ。調子に乗ってお酒飲むようになったら困るし」
レイリアが提案した酔い覚ましの裏技は、ルージュが冷たく却下した。
幸い、今日はこれといって予定もない。飲めない酒に手を出すとどうなるか、しばらく反省させるのが本人のためだ。
「それじゃ、これからの相談は後回しだな。俺も頭が半分くらいしか回ってない」
テーブルに突っ伏したまま、シンが呻くように言う。
異議は誰からも出なかった。二日酔いで男どもが全滅しているようでは、村側とも有効な話し合いはできないだろう。
「では朝食が済んだら、シノンさんの手伝いに行ってきてもいいですか? 戦いは終わりましたが、村には大勢の怪我人がいるんです」
レイリアは昨夜の宴席で、村の薬草師シノンと長い間話し込んでいた。年齢が近いこともあるが、癒し手として戦いの裏側を支え続けたシノンに共感することが多かったのだろう。
「私は構わないと思うけど。どうするリーダー?」
ルージュがオレンジジュースに口をつけながら、テーブルに突っ伏したままのシンに水を向ける。
「分かった。くれぐれも気をつけて。妖魔がどこに出るか分からないから、武装は解かないこと。森に入るときは俺かライオットを呼びに来てくれ」
働かない頭で必死に指示を絞り出すシンに、レイリアが思わず苦笑を浮かべた。
「はい。気をつけます」
怪我人よりむしろ、シンやライオットの看病が必要なのではないか。そんな気もしたが、とりあえずは素直に指示を受け入れる。
それきり会話は途切れ、視線を交わし合った女性陣は、無言で食事を始めた。
夏の昼下がり。
開け放した窓から吹き抜ける風が、黒と銀の前髪を涼しげにかすめていく。
けだるさの残る昼下がり。
外から聞こえてくる蝉の声が薄暗い店内に染み込み、銀器と皿がふれ合う音がことさらに大きく聞こえた。
冒険者たちの休息、ってとこかな。
無言でサラダをつつきながら、内心そんなことを考える。
王都ミッションに出て以来、休みなしにずっと働き詰めだったのだ。ライオットやシンも、たまには身体を休める時間が必要だろう。
それに、どうせ村の首脳陣も二日酔い。ロードを失ったゴブリンたちがまとまるには時間がかかるし、もう2~3日は平和に過ごせるはずだ。
ルージュは楽観的な予測を立てながらライ麦のパンに手を伸ばす。
窓の外では夏の皓い日差しを浴びて、森が深緑に輝いていた。
マスターシーン 恵みの森
「姉さん、いったいどうしたのさ? 今日はちょっと変だよ?」
姉に続いて森の下生えをかき分けながら、エトは何度目かの問いを投げかけた。
危ないことをしてはいけない、自分を大切にしなさいと口を酸っぱくしていたシノンが、まだ安全も確認できない森に踏み入るなど正直信じられない。
「冒険者さんたちも言ってただろ。まだ10匹くらいの妖魔が逃げてるから、しばらくはひとりで森に入っちゃいけないって」
手にした小剣で乱暴に茂みを切り払うと、シノンは少しだけ苛立ったように弟を振り向いた。
「私には薬草が必要なの。だから取りに来た。それだけよ」
「それは構わないけどさ。ザムジーとかライオットに一緒に来てもらえば良かったじゃないか。姉さんが頼めばみんな喜んで付いてくると思うけど」
「頼んだわよ。そしたら今日は二日酔いで動けないから、明日にしてくれって。まったく、肝心なときに頼りにならないんだから」
それだけ言うと、再び前を向いて進み始めるシノン。
いつになくツンとした口調の姉に、エトは首をかしげた。
普段はにこにこと笑い、誰かの悪口を言うことなど決してなかったシノン。それが村のために戦った勇者を役立たず呼ばわりとは、まったくもって姉らしくない。
「……ほんとに、いったいどうしたのさ?」
聞かれれば余計に機嫌が悪くなると察して、エトは口の中でつぶやいた。
姉の様子がおかしくなったのは、昨夜の酒宴から帰ってきてからだ。
シノンはずいぶん長いこと、黒髪の女性司祭と話をしていた。年も同じくらいだし、傍から見れば仲良さそうにしていたが、喧嘩でもしたのだろうか。
「姉さん、あの司祭様に何か言われたの?」
何気ない一言。
だが、その言葉が姉の急所を貫いたことを、エトはすぐに悟った。
姉の体が電撃を浴びたかのように震え、足が止まる。
シノンはしばらく立ち尽くしていたが、何度か深呼吸を繰り返すと、やがて弟を見下ろした。
「あなたに隠し事はできないわね」
諦め半分、感心半分の複雑な表情。
それがいつもどおりの姉の顔であることを見て取って、エトはようやく肩の力を抜いた。
「で? 何て言われたの?」
「シノンさんの手に負えない重傷の方がいたら、私が治療を手伝いますって言われたわ」
シノンが自嘲としか形容しようのない笑みを浮かべる。
「ねえエト、あなたレイリア様のことどう思う?」
漠然とした問いに困惑して、エトは姉を見返した。
「どうって言われても……すごい人だよね」
「そうね。あとは?」
「う~ん、きれいな人だってみんなが言ってたよ」
「そうね」
無言で説明を求める弟の前で、シノンは指折り数えてレイリアのことを評した。
「村の誰よりも美人で、ライオットより強い剣の使い手で、私には手の施しようのない重傷の患者でも魔法ひとつで癒してしまう。おまけに最高司祭ニース様の御令嬢で、ご自身もターバ神殿の高司祭でいらっしゃる」
どれかひとつでも誇るべきことなのに、それを全部身につけている黒髪の司祭。
剣や魔法の技量はレイリア自身の研鑽によるものだから、結果だけを見て羨むのは小人の嫉妬と言うべきだ。
それは十分に分かっている。
しかし。
「レイリア様を見てると思うのよ。神様って、こんな田舎の寒村には何もくれないけど、一握りの英雄には何でもあげるんだなぁって」
ザクソンは貧しいなりに、皆で力を合わせて頑張ってきた。
妖魔の襲撃には一致団結して戦ったし、シノンは負傷者を懸命に治療してきた。
それがどうだ。村の男たちが死力を尽くし、大勢の犠牲者を出してようやく追い返した妖魔の大群を、冒険者たちはほんの半日で片づけてしまったという。
シノンが何日も寝ずに看病してきた重傷の患者でも、レイリアが一言聖句を唱えれば、次の瞬間には完治するだろう。
自分たちだどんなに頑張っても、到底彼女たちには及ばない。
すると否応なしに考えてしまうのだ。自分たちが頑張る意味とはいったい何なのか、と。
「そんな! 姉さんも村のみんなも頑張ったじゃないか! それはみんな知ってるよ!」
エトやパーンにとって、今回の冒険者は村の救世主だが、今の自分と比べる対象ではない。
彼らは大人。自分たちは子供。何年か過ぎて自分たちが大人になったとき、彼らのようになりたいとは思うが、今の自分たちが彼らに及ばないからと言って、そこに劣等感が生じることはない。
だがシノンやザムジーやライオットは違うのだ。
得意分野においては、自分が村で一番という自負がある。自分が村を背負ってきたという誇りもある。
「だからね、頑張っただけじゃ足りないの。あの人たちに負けたくないのよ。ザクソンの村人だって凄いんだって、あの人たちに認めさせたいの」
今まで心の中で鬱屈としていたものを吐き出すと、シノンの表情がさっぱりと晴れやかになった。
そうだ。認めよう。
自分はレイリアに嫉妬している。
自分より美しい容姿に。自分より貴い血統に。剣や魔法の圧倒的な技量に。
悔しいが、シノンではレイリアに遠く及ばない。
だが、だからこそ、怪我人や病人を治療するという点だけは絶対に負けたくないのだ。
亡きパーンの母に学んだ薬草術の秘奥は、魔法の手助けなどなくても村人を救えるのだと、そう証明したいのだ。
「そのためなら、希少な薬草でも高価な材料でも、何でも使って治療するわ。だから足りない薬草を用意したかったの。レイリア様との約束の時間までに」
何のことはない。大人の目を盗んで森に入ったエトやパーンと全く同じではないか。
偉そうに説教しておいて、自分もまだまだ子供だったということ。シノンはいささか皮肉っぽく反省したが、エトは笑って頷いた。
「そうだったんだ。なら、妖魔が出る前に薬草を集めちゃおうよ」
先日も活躍した背負い袋を担ぎ直して、エトは姉を促す。
さあ早く、と歩きだした弟に、シノンはためらいがちに尋ねた。
「その、怒らないの?」
「どうしてさ? 姉さんは凄いんだってことを、レイリア様に分かってもらうためなんでしょ? 僕もできる限り協力するよ」
それが不可能だとはこれっぽっちも考えていない。姉は十分に優れているのだと、全幅の信頼を寄せる笑顔。
そんな弟を見た瞬間、シノンの肩からふっと力が抜けた。
こんなにも自分は認められていたのだ。どうして忘れていたのだろう。
エトやパーンは言うに及ばず、ザムジーやライオットや村の皆も、口を揃えてシノンのことを必要だと言ってくれる。それで十分ではないか。
この上レイリアのような英雄に張り合って虚勢を張ったところで、シノンの実力が上がるわけではない。むしろ、自分を信じてくれる弟を無用の危険に晒しているだけではないか?
ふとそう考えると、自分がとてつもなく愚かな真似をしていることに気が付いた。
昨日の今日。まだ妖魔がうろついている森の中を、ろくな武器も持たずに、非力な女と子供だけでうろつくとは。復讐心に駆られた妖魔がいれば、襲って下さいと言わんばかりではないか。
「エト、ごめんなさい。やっぱり姉さんが間違ってたみたい。今日は村に帰りましょう」
「薬草はどうするのさ?」
怪訝そうに問い返す弟に、ため息まじりに苦笑を返す。
「今回はレイリア様に魔法をお願いするわ。森から妖魔がいなくなったら、また改めて取りに来ましょう」
自分の小さな自尊心を満足させるためだけに、これ以上エトを危険に晒したくなかった。
弟の黒い瞳が、思慮深そうな光をたたえてシノンを見つめる。
まだ10歳だが、エトはたぐいまれな洞察力を発揮する子だ。シノンの内心の揺らめきを、きっと正確に察したのだろう。
そして、それを口に出さないだけの優しさも持った子供だった。
「分かった。じゃあ帰ろうか。あとでパーンと、冒険者さんたちのところに話を聞きに行こうって約束してるんだ。昼御飯を食べたら行ってきていい?」
「もちろんよ。その時はレイリア様によろしくね」
姉弟は屈託のない笑顔を交わすと、もと来た道を引き返し始めた。
来るときは鬱屈とした気分だったが、心の奥底でもやもやとしたものをすべて吐き出してしまい、今では足取りまで軽くなった気がする。
それから10歩も進んだだろうか。
手にした小剣で棘のある茂みを切り払い、ふと視線を上げたとき。
シノンが最も見たくなかったものが、武器を手にしてふたりを待ちかまえていた。
ゴブリン。
昨日の生き残りだろう。目を血走らせた豚顔の妖魔が全部で3匹。手前の2匹は棍棒を構え、残りの1匹は後ろに下がって様子を見ている。後ろの1匹は、全身を鳥の羽根のようなもので派手に飾りたてていた。
まるで他人事のようにそこまで観察してから、やっとシノンの頭に警報が鳴り響いた。
「ゴブリンよ! エト、逃げて!」
慌てて手にした小剣を構え、威嚇するように大きく振り回す。
「姉さんも、早く!」
エトが袖を引っ張ったが、シノンは弟を振り払った。
自分はお世辞にも足が速いとは言えない。一緒に逃げては2人とも捕まってしまう。
「姉さん!」
「私は大丈夫だから! あなたは村に戻って、冒険者さんたちを呼んできて! 早く!」
姉に厳しく命じられて、黒髪の少年が唇を噛む。
そうだ。悔しいが、子供の自分には姉を助ける力がない。今その力を持っているのは、村にいる冒険者たちだけ。
認めたくない事実だが、エトにはそれが分かってしまった。
逡巡は一瞬だった。無駄にする時間はない。
「姉さん、すぐ連れてくるから! 絶対諦めないでよ!」
「当たり前でしょ!」
ちらりと振り向いて笑顔を見せた姉。歯を噛みしめ、涙をこらえて、エトは全力で走り出した。
心が悲鳴を上げ、全身が小刻みに震えたが、足を止めれば2人とも殺される。その明白すぎる未来を変えるためには、今ここで自分が走らなければならないのだ。
「ほら、あなたたちの相手はこっちよ!」
姉が妖魔たちを挑発する声が聞こえた。
これが最後の別れではないと信じて、エトは転がるように森を駆け抜けた。