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No.35344の一覧
[0] かくして時計の針は動き出す[天原](2012/10/08 14:52)
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[35344] かくして時計の針は動き出す
Name: 天原◆bc48e6d9 ID:cb2c6638
Date: 2012/10/08 14:52
鏡の中の自分が笑いかけてくる。
お前は怪物だ。日常の夜に神出鬼没に現れて、非日常を上塗りする怪物だ。
人の形をしてはいるが、お前はそれ以外の何かだ。人外に他ならない。
この醜悪な面を見ろ。社会から弾かれ、疎まれ、責められ、哀れられ、憎まれ、隅に追いやられ、果てには切り捨てられた。
その結果がこれだ。この様だ。
お前が悪かったからだという輩がいるかもしれない。だがしかし、それでも構わない。
なぜならその上で尚、世間の方が悪い。社会が悪い。お前以外の全てが悪いのだから。
かつての社会がお前をそう変えたように、今度はお前が社会を変えてやれ。
怪物に怯え、竦ませ、畏怖させ、憎悪させ、ひれ伏させてやれ。
お前という存在を奴らに刻み込んでやれ。
お前の中の止まった時を進めてやれ。
さあ、そろそろお前の時間だ。そのデビューを飾る相手を選んで来い。
いけるよな、なあ俺。


鏡の向こうの自分が先だったか、それとも俺が先か。
どちらが先かは知れぬが、俺たちは自然と下卑た笑みを浮かべて見つめあった。鏡に映った自分はやはり醜悪で、とても見ていたいものではない。しかし、それはそれはとても楽しそうであった。
ひ、ひ、ひと歯の隙間から空気が漏れだしたような声を挙げ、そばにあった懐中時計を握りしめると俺は自分に宣言してやった。
「当然だとも。今宵、この夜は俺の夜だ!」



その女を対象に選んだのに深い理由はない。因縁も無い。面識だってない。向こうもそうだろう。
ただ対象を探すため、最寄りから一つ離れた少し小さな駅の近くで観察をしていた時に、見初められてしまったに過ぎない。
彼女は、凛々しく歩いていた。別に長身であるとか、スーツ姿が決まっているだとか、そういう事ではない。
目鼻こそきりっとしていたが、むしろ小柄で、黒を基調とした出で立ちも含めて仏蘭西人形を思わせ、少女のようでもある。
作り物のような白い肌は服装とのコントラストでより強調され、電光に照らされると輝いてすら見えた。
だがそうした外見的特徴とは無関係に、ただその在り様が堂々としていたのだ。きっと日々そうしているのだろう。他人に流される事も、理不尽を黙って受け入れる事も無く。
日頃の行動や体験はその人物を形成する。それは他人からの評価や認識だけでなく、人格のような内面や佇まいにまで影響を与える。俺が良い例だ。
だからこそ帰宅する人々の中で目立って見え、だからこそ、俺に選ばれてしまったのだろう。
彼女が住宅街の方に向かって歩いていくのを確認して、俺もその後に続いた。この近隣の地理は把握している。ある程度距離をとって歩いても、選択する道が推測できるので対象を見失う事はまず無い。
運悪く、本当に駅から近い場所に住居を構えていたならば、その時は他の対象をまた選べば良い。その程度に思っていた。


ところが、やはり今宵は俺の夜。俺にとって都合よく物事は進むものだ。
彼女は一向に立ち止まる様子もなく進んでいく。右へ左へ何度も曲がるにつれてだんだんと道は細くなっていき、想定していたポイントの一つへとさしかかろうとしていた。
俺は先回りをしてその道につながる小さな路地に身を潜め、念のためにパーカーのフードを被った。塀と塀に囲まれた狭間にある空間は、丁度街灯の光も家々の照明も届かない闇であった。
時刻を見るのに携帯を出そうとポケットをまさぐるが、見つからない。当然だ。余計な証拠を残してはまずいと最小限の物しか持ってこなかったのだから。
一旦落ち着いて、支障は無かった事を思い出す。駅前に設置されている時計で確認した時刻に歩いていた時間を足し合わせれば現在時刻は割り出せる。
そうしようとしていたのに忘れてしまっていたのは、緊張しているためなのか。それとも――。
かぶりを振ってその思考を消しさる。今更そんな事を考えてどうなるのだと。
だぶつき気味のパーカーの首回りを引っ張って、右手で首にかけていた懐中時計を隙間から取り出す。今夜のショウに必要な物以外で、唯一持ってきた――いやこれもまた必要なものではあった。
そっと傷の付いた蓋を開ける。短針と長針は寄り添って英数字の十二を示している。勿論、今はそんな時刻ではない。この時計は止まったままなのだ。
唯一俺の味方だった祖父からもらった大事なこの時計は、かつて無残にも壊された。そしてその時に俺の時も止まってしまったのだ。
嘲笑を向けられる中必死に部品をかき集めて技師の下に持ち込んだが、大事な何かが欠けているらしく完全には直せないと言われた。
だからこの針が動く事は無い、無かった。だがこれからは違う。俺の時が進むのだから、お前にも動いてもらわなければならない。
俺の手にかかったものが出るたびに、お前にその数を刻んでもらおう。一人につき短針を一つ進めて、何度も何度も回ってもらおう。
俺は殺す事で時を進めて行き、お前はそうしなければ進めない。お前が進めば、俺もまた進んでいく。お前と俺は一心同体だ。運命共同体なんだ――。
知らず荒くなっていた呼吸を落ち着かせて、懐中時計をパーカーと体の間に隠す。そろそろ彼女が通る頃だ。
パーカーの背中を軽くめくり、腰に付けたシースナイフを鞘ごしに確認する。本来なら身につける時は腰から吊るすが、流石にそれでは周囲に気づかれるし目立つ。ベルトを使って腰に横向きで固定したが、今度は逆に膨らみができる。サイズが大きめのパーカーを着用しているのはその膨らみをごまかすためでもあった。もうひとつの目的は今しているように、フードをかぶる事で仮に目撃されても人相をはっきりとさせないためである。


ほどなくして彼女は現れた。先刻と輝きは変わっていない。いつでもナイフがひき抜ける事を確認すると息を潜め、闇に同化する。
ところで、こんなふうに人を襲う時のタイミングにはいくつか種類があると俺は考える。一つは唐突に目の前に飛び出して、相手が立ち止まった瞬間を狙って殺す。
相手に顔を見られるリスクが高いという欠点はあるが、急所を狙えるという利点があるため確実に殺す自信があるならお勧めの方法だ。
だが、殺人処女であるところの俺にはその自信は無い。よってこの方法は却下だ。
彼女が俺の潜む路地の横を通り過ぎようとする。気配を殺せ。ほんのわずかな動作でも人の感覚は逃さない。だから絶対に動くな。自分の体に言い聞かせる。
幸いに、こちらをちらとも見る事無く彼女は通り過ぎた。だが一息ついたのもつかの間、次のタイミングが迫ってくる。
二つ目が、相手が通り過ぎた直後に襲いかかる方法だ。これはさっきとは逆に顔を見られるリスクは低くなる反面、一撃目に急所を付きにくくなる。狙えて脇腹の辺りだろう。
確実に殺せなくても良いなら問題ないようにも思えるが、直後というのは相手がこちらの動きに即座に気づいて振りかえるなどで体勢を変えてしまう危険性がある。背後から刺そうとしていたのに、正面から相対する事になって、仮にそのまま刺せたとしても二撃目に即座に移れるだろうか。顔を見られたショックで慌てる事が予想される。よってこれも俺には無理だ。
そこで三つ目の方法である。ある程度の距離、10メートル前後がいいだろう。その距離が開いたら体勢を低くして路地から走って飛び出し、即座に接近して勢いをのせたままナイフを押しこむ。
これで心臓や肺を背後からでも一息に突く事が出来る。仮にそれができなくても突き刺した勢いのままに押し倒せば良い。そうなれば相手はもうまな板の上の鯉である。顔が見られるリスクなどお構いなしに思う存分嬲ってから殺すも良し。一応悲鳴を挙げられる可能性も考慮して脅すなりなんなりする事も大事ではある。が、それがその場ですぐに致命的となりうるかというとそうとは限らない。悲鳴を聞いたり現場を目撃しても、すぐに通報をする良識人や、助けに入るヒーローなんてのはごく少数だからだ。別に都会の人間だから冷淡だって訳じゃない。
傍観者効果――という社会心理学の言葉がある。集団心理の一種で、他の誰かが気づいているだろう事柄には自らは率先して行動を起こさないというものだ。つまり『助けを求める声』が上がろうと、たとえ『事態が起きている現場』を見ても、他の誰かも気づいているだろうから自分がやらなくても良い。誰も助けに入らないのだから別に緊急事態という訳でもないのだろう。そう言って動く事はない。後になってからはもっともらしい言葉を警察やマスコミに語るだけだ。それはきっと誰よりも俺が知っている。


だが、彼女にはそんな真似はしたくないと思った。心臓を一撃で貫き、彼女の身体に一輪の華をさかせてやりたい。あの白磁器のような美しい肌を朱に染めてやりたい。
まるで一つの芸術品を作り上げたいと思うような欲求が彼女を見たときから俺の中で湧きあがっていたからだ。だがきっと何よりも――堂々とした彼女を彼女のまま葬りたいと思ったのが、一番の理由である。
塀に体を張り付けて、ちらりと通りを見る。彼女の位置はここから一つ先の小路地を通り過ぎようかという場所で、六メートル程度の距離である。彼女の歩幅からして、その時は間もなくだ。
周囲に聞こえないように深呼吸を一度。そして、ナイフの刃が上向きになるようにグリップを握りしめ、すぐに抜ける状態にした。
そして最後に自問する。ここから先は帰還不能点だと。ここが境界なのだと。今ならまだ間に合うと。
対する答えは――勿論ノーだ。なぜなら、なぜなら俺は怪物だからだ。
決意の鈍らぬうちに、体勢を低めにとり、クラウチングスタートのようなポーズをとる。
声を出さずにカウントをとり、足に力を込め通りへと飛び出した。


初速からスピードに乗れれば対象までは一秒と少し。二秒はかからない。
顔を上げて彼女を見据えながら、ナイフを抜こうとして――――前の路地から飛び出した男に彼女が襲われているのを目撃した。
その手に持たれたバールを見て、ああそういえばさっきのは刃物の場合だったな、と俺は呑気にそんな感想を浮かべていた。

*

足を止めてその光景に呆然とする。一瞬何が起きているのか認識するのを脳が拒否したが、すぐに機能を取り戻す。
よく見れば彼女とその男――覆面をしているがその体格から推察できる――は一種の膠着した状況にあり、彼女はその鈍器が振り下ろされるのを防がんと男の右腕を、男は逃がすまいと彼女の右手をつかみあっていた。
第二のタイミングで襲いかかった男はすぐに彼女に気づかれてしまったのだろう。彼女に外傷という外傷は見当たらなかった。
殺そうとしていた相手が無事であることに安堵を浮かべるという矛盾を持ちながら、俺の頭を二つの事柄が支配していた。
助けるか、それとも逃げ出すか。どのみち邪魔が入っては殺すのは中断すべきだ。であれば、ここは市民の義務を果たすべきなのか。論外だ。そんな義理もないし、わが身が可愛い。
では逃げるか。しかし、顔を見られた可能性がある。なら、ならやはり始末しないと。だが二人も居るのでは――。
堂々巡りを続けながら、俺はその場に突っ立っていた。
そうして持ちこたえていた彼女だったが、やはり男女の体格差はそのまま力の差につながる。男は彼女の右手を放すと、自由になった左手でその身体を思い切りつきとばした。
虚をつかれた形になった彼女は道路に突き倒され、凶器を持った男の腕を放してしまった。その機を見逃す男ではなかった。
体勢の崩れた彼女めがけて振りあげた凶器を落とさんとして。
あわや、と言ったところで俺は信じられないモノを見た。
彼女は地面に倒れながらも振り下ろされる男の右腕の外側にそっと手をあてる事で受け流したのだった。
男はその勢いのままにアスファルトへと鈍器をぶつける結果となった。途端に響く鈍い金属音。
焦った男はすぐに気を取り直すと彼女を睨みつけ、今度は逃がすまいとじりじりと近寄っていった。
突き飛ばされた衝撃でそうなったのか、彼女は足をひねったらしく、這うように後ろに下がる事しかしなかった。その抵抗も無情にもすぐに終わる事となる。塀に追いつめられたのだ。
その段になってようやく逃げようと踏んだ俺は、踵を返そうとして、いつの間にかこちらに顔を向けていた彼女と眼があってしまった。
まずい、叫ばれる。助けを求められる。男に気づかれる。焦燥にかられたその時の自分の顔はひどいものだっただろう。利己心の塊という表現がぴったりである。
だからもしそうされたならば、俺は迷うことなく背を向けてこの場を離れるつもりだった。そうするつもりだったのだ。
彼女が声も出さず唇の動きだけで、「に、げ、て」と俺に告げるのを見さえしなければ。


気づいた時には、という経験を初めてした。いつの間にか駆け出していた俺は、構わずそのまま男めがけて体当たりを敢行した。
彼女よりはまだましではるが俺と男の体重差も結構なものだろうが、それでも勢いの力か、男を彼女から遠ざけたたらを踏ませた。
この隙を逃してはいけないとすかさず俺は再びタックルを仕掛けた。男の腰の辺りを狙ったそれは効果をあらわし、押し倒す事に成功する。
殴りかかりながら馬乗りになろうとするが、男の抵抗を受けて押し合いへと変化する。普段ならすぐに負けているはずだが、自分に妙なスイッチが入っているためか拮抗していた。
そしてその時俺ははじめて男の目を真正面から覗いた。
どろどろと濁りきった眼。光のないそこには怨み、妬み、憎悪、敵意があふれていた。――俺と同じだ。
これは同類の、怪物の眼だ。それに気を取られたのがいけなかった。
「がっ!?」
男は手首のスナップだけで俺の背にバールを打ちつけたのだった。丁度ナイフを付けている部分に当たってはくれたが、俺を驚かせるのには十分だった。
押さえつけが緩んだのを突いて、男は俺の腹を蹴飛ばした。ふんばりがきかなくなっていた俺はその衝撃のままに背中から地面に倒れこむ。
すぐに起き上がろうとしたが、男の方が一歩早かった。殴りつけてくるバールをかわそうとしたが間に合わず、額をかすめ痛みと共に血が噴き出した。容赦なく二撃目が右肩に加えられ、俺は甲高い悲鳴を上げてしまった。
そこで俺への興味を失ったのか。男は本来の獲物である彼女へと近寄っていく。
あふれ出す血が眼に入り、視界がぼやけてきた。意識も朦朧としているのかもしれない。
このままじっとしていれば俺は助かるんだろうか。それとも彼女を殺したら次は俺か。目撃者をそのままにはするまい。
何が、お前は怪物、だ。俺なんかより、奴の方がよっぽど怪物だ。俺よりよっぽど社会を震撼させる存在になるだろう。
これで俺の生は終わり。この夜で終わりで――この夜は、なんだったっけ。
満足に動けないにも関わらず男に立ち向かおうとする彼女の姿が見える。最後まで諦めないと、その眼が、その姿が語っている。
そう、この夜は。この、今宵この夜は。俺の――。


「……待てよ、おい。そこのドサンピン、待ちやがれ!」
思わぬ大声に驚いたのだろう。男がこちらに振り向く。
俺は痛む身体を無視して立ち上がり、唯一の武器を取り出す。逆手で抜いて、順手に持ちかえる。何度も繰り返した動作であり、なめらかにできた。
今夜彼女の血を浴びるはずだった凶器の、おおよそ十三センチの刃長は今も頼りになる存在であった。
右手首を左手でがっちりと固め、男と対峙する。男もナイフには警戒をしたのか、距離をとりながらバールを正眼で構えて相対する。
「さっきから好き勝手やりやがって。お前は何様だよ」
それまで無言だった男は、俺の言葉を受けて初めて口を開いた。
「俺は……怪物だ。全て、全て、全て壊してやる」
ひ、ひ、ひと空気が抜けたような声を知らずあげていた。どうやらまた俺は知らずに笑っていたようだ。
やはり、こいつは同類だった。まぎれもない御同輩であった。今でなければ俺はお前の存在を諸手をうって歓迎していただろう。
だが、今はだめだ。今日はだめだ。この夜だけは譲れない。
「ああ、そうか。だが残念だったな! 今夜の怪物はお前じゃないんだ。今宵、この夜は俺の夜だ!」
ナイフの切っ先を男に向けて、きかせられるだけドスのきいた声を絞り出す。
「怪物は、一人で十分なんだ」
何時間も過ぎたような気がした。実際は数分に過ぎなかったのだろうが、俺たちはそのまま睨みあいを続けていた。
どちらも動かない。達人や有段者ではないので、これは単純にリスクを避け合っていただけだ。
虚勢を張っているに過ぎない俺は自分から踏み込んでもやられるだけ。男にすれば、それがわかっているから攻め込んでくるかと思えば、こちらも俺のナイフによる偶発的な被害は避けたいようで動かない。
均衡状態、と言えば聞こえは良いが、それも俺が立っていられる間だけの見せかけの均衡だ。今も額の血が止まっている訳ではない。このまま続けば俺が倒れて、それでお終いだ。


どこまで持つものかと不安になった時だ。
「警察を呼びました!」
観念しなさい、と彼女が通話中らしき携帯の画面を男に対して見せつけていた。
男が息を呑む気配がしたのもつかの間、とってかえすように路地へと走り去っていった。
一気に緊張がとけ脱力する。が、すぐに現状を再確認する。襲われた女性とナイフを所持した人間がいる状況。どうみても自分が犯人である。このままここに居てはまずい。
いつの間にかフードは脱げていて、顔を見られていたようだが気にしている場合ではないのは明白だ。
彼女が何事か言いそうなのを横目に俺も男にならって走り出した――瞬間、前のめりに倒れた。
打ちつけられた身体が痛いといっているだろうが、俺の意識はそれをまともに受け取る事はできていなかった。
さっきので限界がきていたか。一瞬たりとも緊張を解くべきではなかった。
後悔すると同時に冷静な自分が、これで終わりかと結末を受け入れ出している。
彼女が駆け寄ってくる気配を感じると共に俺の意識は徐々に薄れて。
「早く、早く来て!」
と彼女が電話の向こうに叫んでいる声と共に俺は暗闇へと意識を落としていった。

*

眼を開けると、真白い天井が見えた。俺の借りている部屋のものではない。
身体を傾けて周囲を見渡すと適度に調度品が配置されていた。物が多すぎるという事も無く、殺風景という訳でもなくセンス良くバランスが保たれている。
ん、と力を込めて上半身を起こす。このベッドも安物のスプリングベッドではない。どうやらここは病室では無いらしい。
突然ノックの音が聞こえた。俺が黙って何も返答できずにいると、扉がゆっくりと開けられ精悍な体つきをした青年が姿を見せた。
「あっと、すまん起きてたか。その、なんだ。あー……おい公子! 公子!」
眼覚ましたぞ、と青年は誰かに向かって声をかけた。
大きな声を出さない、ときつい声で注意をしながらやってきたのは、彼女だった。
「ごめんなさい、がさつな兄で。後でよく言っておきますから。その、大丈夫ですか?」
痛みませんか、と聞いてきたのは額の事だろう。触ってみると包帯が巻かれていた。俺はまあなんとか、と苦笑いで返した。
「その、聞いてもいいかな。ここ、どこ? どうして俺はここに?」
「ここは私の家です。あなたが倒れてなんとかしないとって思って、ここに……」
救急車を呼ぼうかとも思ったんですけど、と言って彼女は言葉を濁した。
その判断は俺にとってはありがたい。下手にあのまま病院に運ばれて、この一件が事件化しては俺の行動にも必ず疑問が出る。
ましてや所持目的の不明なナイフを身に着けていたとなっては、追及を逃れるのは難しいだろう。
ここまではお兄さんが車で運んでくれたらしい。最後に聞こえた叫びはそのためのものだったようで。勿論、警察にはつながってはいなかったそうだ。
助かりました、と俺が言うと、彼女は慌てたように手を振って、いえこちらこそと返した。
「助けられたのは私の方です。ずっとお礼を言いたくて……寝ている間も本当に眼を覚ますか心配で」
起きた時のために、今珈琲を用意していたんですと本当に嬉しそうに笑う彼女を見て、俺は胸の内が暖かくなるのを感じた。
それは今まで経験した事の無いようなもので。俺は思わず眼をそらしてしまった。
「あ、っと。この服って」
「ああ、それは私の服です。小さくてごめんなさい。血まみれだったものですから、勝手ながら着替えさせていただきました。ちょっと兄にも手伝ってもらいましたけど」
あ、でも変な所は触ってませんからね、となぜか言い訳するように言い募った。
重ね重ね申し訳ないと俺は心の底から思った。あの男がいなければ俺が彼女を襲っていた。その彼女にこうして助けられている。
沈んでいる俺に彼女は不安そうな顔を見せていたが、出来たみてえだぞ公子、と呼ぶ声に答えて、ちょっと待っていてくださいねと言って部屋を出ていった。


俺は少しの間じっとしていたが、首にかけていた懐中時計が無い事に気付いた。周りをてさぐりで探していると、入れ替わるようにお兄さんがやってきた。
「おいおい、安静にしてろよ。一応知り合いの藪が見てったけど、怪我人なんだからさ」
できればしっかりとした病院でも診てもらえよ、とぶっきらぼうを装ってはいるが心配してくれている事は俺にも伝わってきた。
そして頭のうしろをぽりぽりと掻いて
「妹を助けてくれて、本当に感謝してる。あんなんでも身内だ」
「でも……俺は、その……」
「それ以上言うな。何をしようとしてたとか、何を考えてたかなんて知らねえ。お前は俺の妹を助けた、それが結果でそれで十分だ」
だけど、と言葉を返そうとした時、彼女がマグカップを持って現れた。
彼女はカップをテーブルの上に置きながら
「そうですよ。他の事なんて関係ありません。あなたが私にしてくれた事は」
そして俺を正面から見据えてほほ笑んだ。
「あなたが居なければ私はこうしてはいられなかった。助けに入ってくれて、ありがとう、ございます」
俺は今度こそ、その眼から視線を外せなくなっていた。
「貴方という人が生きていてくれて、本当に、ありがとう」
涙ぐんで、それでも最高の笑顔をしながら彼女は、そう言ってくれた。
心が震えるのを感じながら、でも、だけど俺はと悲痛な表情を浮かべずにはいられなかった。
だって俺はもう進めない。普通じゃもう進めない。だって俺は、俺は怪物なんだから。
「何を考えてんのか知らねえが、礼だ。受け取れ」
それぐらいじゃ足りねえけどな、と渡されたのは俺の懐中時計だった。
どうせ止まったままだと思いながらも、促されるままにその蓋を開ける。
え、と間抜けな声を出してしまったのは仕方の無い事だと思う。
「気を失いながらでも、とても、とても大事そうに握っていたものですから。私のせいで壊してしまったのなら大変だと思って、兄にお願いしたんです」
「欠けてる部分は、偶然にも妹が持ってたのと同型だったからそれで代用させてもらった。中古品で悪いが我慢して――っておい、どうした!?」
時計のガラス部分にぽたぽたと雫がこぼれる。俺はそれを止める事ができなかった。
なぜなら、こんな気持ちで、こんな風に泣くなんて初めての事だったから。
顔をぐちゃぐちゃにしたまま俺は目一杯の気持ちを込めて
「あり、ありがと、ございます。時計、直してくれて。俺に、生きててくれて、って、言ってくれて。本当に、本当にありがとうございます……!」
二人はきょとんとした顔になったが、すぐに柔らかく俺に笑いかけてくれた。
俺はこいつに一心同体だと言った。運命共同体だとも。俺が進めばお前も進むと。
だから、そう。お前が普通に進んだというならば。
「俺だって……そうやって進まなきゃな」
そう呟いて、精一杯の笑顔を二人に返した。






*



後日談だが、その後もあの兄妹とは親交を続ける事となった。
急激に変化する事もできない俺を引っ張るように、彼女――公子は色々な場所に誘ってくれる。
付いていくので精いっぱいな部分もあるが、それでも楽しく付き合わせてもらっている。
その過程で、俺の良くない部分を直してもらっているのだが。
「言葉、づかい?」
「そうです。やっぱり直した方がもっと良いかなと思って」
確かに自分はどもりがちだったりする。もっとはきはきとなった方が良いには違いない。
「ああいえ、そこじゃありません。それこそ必要ならじっくり直せばいいですし」
じゃあ一体俺のしゃべり方のどこを、と聞くと喰い気味で公子は
「そこです! その俺って言うの止めましょう! せっかくそんなに綺麗な顔してるんですから」
後半にはうなずけないが、やはり女で俺というのはおかしいのだろうか。
ならば、ここは彼女のアドバイスに従っておこう。
「じゃ、じゃあ頑張ってみるよ、私」
満足げに笑う彼女の背後にもう一人の自分が見えた。
こんな私はどうよ、とほほ笑んでやると、似合ってねえなと朗らかに笑った。


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