『世の中には二種類の人間がいる』
これは、所謂人間二分論と呼ばれるものだ。わりとよく耳にする言葉であり、使い勝手がいい。リズム感もあるし、二択というのもシンプルでよろしいと思う。
Yes or No。○か×か。表裏。是と非。なるほど、わかりやすい。さらには、別にたいしたことを言っていないのに、深い事を言っているよう聞こえるのでお得だ。
『世の中には、米を朝食にする者と、パンを朝食にする者の二種類の人間がいる』
例えばこれだと、ただの好みの問題なのに、日本文化と欧州の文化を比較しているような印象を受ける。
『世の中には、巨乳好きと貧乳好きの二種類の人間がいる』
これは本当にただの嗜好の話だ。なのに、ちょっと哲学チック。
『世の中には、“視えない”人間と“視える”人間の二種類がいる』
そして、これが僕の人間二分論だった。
だけれど、何の深みも裏も無い。文字の通りの意味だ。
いったい何が“視える”というのか。ここでまた二分論。この世には、生きている人間と死んでいる人間の二種類がいる。
正確には、『この世』という括りはおかしいかもしれないが、あえて訂正を省いてしまう。
さきほどの “視える”というのは、霊魂。つまりは、幽霊の事。僕は、それが視える側の人間だった。
「幽霊が視える」なんて話せば、たいていは嘘吐き呼ばわりされて評判が逆うなぎ上りするものだ。だから、僕はこのことをあまりおおっぴらに話すことは無い。
しかし、確かに、僕には彼らの姿が視えるのだ。
僕の隣を歩く少女が、ソレだった。
「おひぃひゃん……おひぃひゃん……」
少女の発する言葉は随分と舌足らずで、辛うじて聞き取れるレベルのものだった。
夜の道を、足音が一つだけ。
あたりは暗く、うすら寒い。季節は夏だけど、午後の8時ともなるとさすがに日も沈みきっている時間だ。
僕の通っているこの道には街灯が少ないものだから、夜の暗さがそのまま闇となる。田舎の弊害というやつだった。
右手側には一軒家が立ち並んでいる。何故か、それが酷く遠くにあるように感じた。反対側には水量の少ない、浅い川が流れている。
「おひぃひゃん……」
僕は、左斜め後ろにいる少女を一瞥すると、彼女の言葉を無視して歩くペースを速めた。
曰く、水場には霊が集まるという。しかし、そんな話関係ない。
それが間違いだと言及する気なんてさらさら無いけれど、良い忠告だと褒める気はそれ以上に無かった。出る時はどこにでも出るのだ。僕は、経験上よく知っている。
「はえひへ……おひぃひゃん……はへひへ……!」
少女の声が、訴えるものから非難するような調子に変化した。
その異変を感じ取った僕は、背中に怖気を覚えて、すぐさま駆け出した!
「はへひてぇっ! はへひへぇおひぃひゃん!」
景色が飛ぶように――とは誇張表現だけど、それでも疾走と呼べるに相応しい逃走だった。
背を反って、腕を振り、駆ける。
背負っている鞄の紐が肩からずり落ちて不快だったけど、それを無視して走った。
短く、浅い呼吸を繰り返す。上下に跳ねる鞄が、僕の体力をアスファルトの地面に叩き落としているのだ。
「ポ、……っ!」
「あ゛あああああああ゛あ゛あ゛あ゛ッ」
「ポマード! ポマード! ポマード! ポマード!」
怨念の篭った声に汗が噴き出した。
恨みの声を背中に受けて、僕は咄嗟に思いついた呪文を叫んだ。
しかし、少女の勢いが緩む気配は全く感じない。
顔の向きだけ後ろにやって、少女を見やった。言葉にならない声をあげる彼女は、その体躯に似合わない速度でもって駆けていた。
手を前に突出し、足の交差は生者のそれと一線を画す速さで、かつ小刻みで狂気じみたものがある。
無茶苦茶な足の動きにバランスを崩して転倒するが、それで勢いが留まるということは無かった。素早く手をついて、四つん這いで這って来たかと思えば肘で無理やり立ち上がり、前のめりになりながらも追ってくる。
少女の目は、焦点が合っていない。黒一色の眼球はブヨブヨで、少しでも触れたものならドロ、と爛れ落ちそうだった。
対口裂け女といえば、あとべっこう飴がどうとかあったけれど、それを試す気は起きなかった。
「僕は君の舌なんか持ってないっ」
そもそも少女に舌などなかったからだ。
大きく開かれた彼女の口からは血が溢れだしていて、お世辞にも綺麗とは言えないうじゃじゃけた切断面が顔を覗かせている。
「あ゛あ゛あ゛ああああ゛」
無我夢中で走った。
走っていたら、見たくないものが見えてきてしまった。暗闇が、せり上がっている。黒の壁に見えるそれには、中心に白の線が点々とあるのが薄らと確認できて、ようはただの上り坂だった。
ただの、とは言ってもそれは死活問題なわけで、案の定というか、そこで僕の速度は大幅に落ちた。
絶叫が聞こえて、僕は体ごと振り返る。
息が詰まる。蒼白の顔が闇の中から浮かび上がってきて、少女の手が僕に向かって伸びてくるのが見えた。
「昨日はちょっと酷い目あったよ」
プラスチックコップを傾けてその中の液体を咥内に流し込むと、甘ったるいコーヒーが僕の舌の上に広がった。
「へぇ」
「あのさ、もうちょっと興味持ってよ」
「人の酷い目にあった話を喜々と聞く奴がいたら嫌じゃねェ?」
「ちょっと試してみて」
「…………。マジで!? すげぇウケる!」
「本当だ。腹立つ」
口の中に転がり込んだ氷を噛み砕きながら言う。
「まぁ、とりあえず聞いてよ」
「しゃーねぇなァ」と呟いて、僕の対面に座る青年 定牧 次郎 は煙草を吸った。紫煙がふわっとテーブルの上空に広がる。
ジローの吸う煙草は甘い味がするらしいけれど、この副流煙の匂いに他のそれとの違いはわからなかった。
太陽さんさんこんにちは。綿雲ぷかぷか御機嫌よう。今日は気持ちの良い晴れだ。
気候は多少暑苦しくはあるけれど、夏なんてこんなものだと思えば耐えられないこともない温度だった。
それでも直射日光に当たり続けるは流石に辛いので、僕達は校内にあるカフェの中でくつろいでいる。
ここは大学内にある施設の一つで、僕達が通うここは決して学力が高いとはいえない中堅クラスの学校ではあったけれど、そこそこの設備が整えられている空間ではあった。
「で、結局何があったんだよ」
「うん。昨日の夜にさぁちょっと危ない霊に遭遇しちゃったんだよね。ここ数週間はめっきりだったんだけど、不意打ちだった」
コーヒーを紫煙が占拠するテーブルの上から避難させて僕は言った。ジローはうんうんと頷いて相槌をうつ。
彼は、この手の話題を気兼ねなく話す事の出来る数少ない友人だった。ジローの親類にはちょっとした変わり者がいて、非現実的な話には慣れているそうだ。
それと一緒くたにされることはあまり好ましいとは言えないけれど、そのおかげで彼は僕の言う霊関係の話にも理解を示してくれる。
「そりゃあ、確かに災難だったな。でも、お前の事だから憑かれり呪われたってことはないんだろ? 馴れっ子」
僕は小さく頷く。
そうだ。言ってしまえば、僕が悪霊に遭遇するのなんてアイスキャンディーのアタリ棒が出るくらいの頻度である。
だから、昨日あの女の子に追われた出来事は、学校の宿題を忘れてしまった程度の危機だった。その筈だったのだ。
「ああ、うん。それはそうなんだけどさ。酷い話のあとにもう一つあって」
そこまで言ったところで、複数の足音が近づいてくるのが聞こえた。つい、身構えてしまう。反射的にコップを握る力が強くなって氷同士がぶつかり合う音がした。ジローの視線が、僕の背中に定まる。
来た。
肩に手が置かれて、僕は振り返った。
「どうも」
「こんにちは、葛城 詩雄君」
大柄な男だ。身長は、190以上はあるだろう。肩幅は広く、高級感漂うスーツのその下はさぞかし逞しい筋肉をこさえていることだろうことが見てわかった。
サラリと流された黒の髪から覗かれるのは、アメコミの主人公を連想させるハンサム顔だ。
彼は、人の良さそうな爽やか笑みを浮かべて、椅子に腰かけた。
「突然の来訪、申し訳ありません」
「はぁ」
続いて、これまた背の高い女性がその横に並んだ。背筋を伸ばし、姿勢正しく男の隣に佇む。彼女の声はとても澄んでいて、さして大きな声量でも無い筈なのに、とても聞きとりやすかった。
切り揃えられた前髪の下にはツリ上がりがちの二重の目があって、その間にやや垂れ下がった眉が位置どっている。
彼女も同様に値の張りそうなスーツ姿だ。
「それはカフェラテかな? 空のシロップ入れの数からみると、かなり甘そうだな。俺は今まで甘いコーヒーというものを飲んだことがないんだが、君の飲みっぷりを見ているとなかなかどうして美味しそうだ。今度チャレンジしてみようかな」
「そうですか」
「で、本題なんだけど」
ペラペラと、よく舌の回る人だ。
きっとこの人は相手の話を聞かない人なんだろうなと無礼な邪推をする。
「準備が出来たから、約束通り見学に誘いに来たんだ。他に予定があるかもしれないから強制はしないが、出来れば今から来てほしい」
「今日は一日用事を入れてないので構いません。参加しますよ。そういう約束でしたからね」
「よし、話が早くて助かる。それじゃあ車を待たせてあるから行こうか。穂澄君、頼む」
「はい」
穂澄と呼ばれた女性は、短く返事を返すと踵を返して日差しの強いアスファルトの道の方へ出ていった。やはり、綺麗な姿勢だ。
男は、僕に目配せをして立ち上がった。気付けば500円玉がテーブルの上に置かれてあって、どうやらこのコーヒーを奢ってくれるみたいだった。先払いだったので、それをそのままポケットに突っ込んだ。
「ジロー、悪いんだけど急用ができたから、ちょっと出てくるよ。午後の講義のノートよろしく」
「なぁ、ウタヲ。俺はスカートスーツよりもパンツスーツ派なんだよ。それが正しかったって今確信した。パンチラはねぇんだけど、それ以上のものがあるんだよな。パンツスーツには」
「呑気だなぁ」
ジローはスーツの女性の後ろ姿をじっと見て目を離さなかった。
僕は、今日の政治学のノートを諦めることにして、立ち上がった。
自分の右手を見やる。その手で椅子を引くと、昨晩の記憶がブクブク沸騰して出てくる気泡のように浮かび上がってきた。
上り坂を前に、僕の足は著しく速度を落とした。
「あ゛あ゛あ゛ああああ゛」
少女の怨嗟の絶叫に、僕は体ごと振り返る。
黒一色の濁った眼球と、目が合った。蒼白の顔が闇の中から浮かび上がってきて、少女の手が僕に向かって伸びてくるのが見えた。
怖気が背筋を駆け上ってくる。
瞠目。あんぐりと開いた口に、まるまま飲み込まれてしまうんじゃないかと錯覚を覚えた。
『世の中には、“視えない”人間と“視える”人間の二種類がいる』
“視える”とは、幽霊が視えるという事だ。彼らは、自分が死んだことに気付かないで現世を彷徨っていたり、生者に何かを伝えようとしたり、はたまた怨念を抱え危害を加えようと現れる。僕は、そんな彼らの姿が視える人間だった。
そして“視える”人間には、さらに二種類いるということを、僕は知っている。
『“視える”人間には、触れることの出来無い者と出来る者とがいる』
「南無三!」
拳に、肉がぶつかる感触が当たった。
僕の頭を掴もうとしていた青白い手は寸前で止まって、そして弾かれるように離れていく。少女の小さな体躯が、コンクリートの上に転がった。
「う゛……あ゛あ」
少女の霊は苦痛に顔を歪ませて、その黒い瞳でもって僕を見上げている。僕に跳びかかろうとしていた彼女は、しかし床に伏していて、二歩ほど離れた場所でうずくまっていた。
何故か。それは僕が彼女を殴り飛ばしたからだ。
僕には昔から、『霊体を物理的に扱う』なんて特技があった。
何時からそうだったかは、記憶にない。物心ついたときには、既にそうだった。
「そんな目で見られても謝らないぞ。正当防衛だからな。これは反撃だ」
法学部に属する人間として正当防衛を訴えたのはいいもの、幽霊に法が適応するのかはわからなかった。
俯く少女。前髪が垂れて、顔が隠れている。ただ、漆黒の瞳だけが闇の中から浮かび上がるようにして見えていた。
ギラつくそれが、僕を睨み付けて離さない。体温がさらに一段階下がるのを感じて、僕は目を逸らした。
深呼吸をして、ゆっくりと距離を取る。
普段なら一発入れてやったら潔く消える彼らだが、たまにこうして執拗に付きまとってくるのがいる。こういう手合いはあまり長時間視界にいれるべきではないことを僕は感覚的に知っていた。
くたくたの足を後ろ歩きで動かす。
「驚いた……」
「っ!」
突然聞こえた声にびくり、と肩が跳ねた。
「あ、いや申し訳ない。別に驚かすつもりはなかった」
そこいたのは大柄な男だった。白いポロシャツに黒のパンツという、ラフなスタイルだ。
「誰……?」
「怪しい者じゃない」
そんなこと言われても、神経が張っているこの状態で初対面の人間にすぐ気を許すなんて、そう簡単にできたものじゃない。
僕の警戒心を感じ取ったのか、男は苦笑する。
「じゃあ、少なくとも危ない者じゃない」
「『じゃあ』って……」
「その証拠にアドバイスをしよう。悪霊が視えるのなら、目を離さない方が良い。気を抜いてると憑り殺されるぞ」
ハッとして、僕は振り返った。
「え……?」
呼吸の息と一緒に、力の無い声が漏れる。
いない。ついさっきまでそこにいた少女の霊が。なんで……、
「ああ、そこまで気にしなくてもいい。あくまでアドバイスだよ。いや、まったく歯牙にもかけないのは問題だが。どっかに飛んで行ったんだろう。あいつらはそういうもんだからな」
「あいつらって」
「君、見えてただろ? 悪霊のことだよ」
ああ、と相槌を打って、僕は小さく頷いた。
「トニー・イルボンも言ってただろ? 『奴らは煙のように姿を消す』って」
「なんですか、それ」
「えー、なんだ、君ぐらいの年代の子は知らないのか。『ミディアム』の主人公だよ。サニー・メイアが演じてたやつ」
男は不服そうに言った。
僕にはそのサニー・メイアなる人物は知らないが、『ミディアム』という名称には覚えがあった。殺人事件の被害者が亡霊になり、ヒロインに憑りついて事件のヒントを主人公に伝えるとかそういった内容の洋画だ。
ヒントと言わず全容を話してしまえばいいのに、と不審に思ったいた記憶がある。所謂B級映画というやつだった。
「で、だ。トニーの言葉で一番好きだったものが、ちょうど今の君にぴったり合う」
「なんて言葉ですか?」
さして興味は無かったけど、あえて疑問調で答える。
頭を落ち着かせる時間が欲しかった。
男は口をぐっと閉じ、僕の目を真正面から見つめて、それから口を開いた。
「『関係を持つことより、関係を断つことの方が簡単だ。そしてそれ以上に、元から関わらないという選択は恐ろしく難しい』。霊が視える人間は、必然的にオカルトな世界と関わる運命にある」
「その言葉が僕にどうあてはまるんですか?」
「君は霊を殴るなんて荒業を使えるようだから、関わる霊をその方法で対処してきたんだろう。関係を持つたびに断ってきたわけだ」
それが問題なんだよ、と男は出来の悪い生徒に注意をするように言った。
有知者と無知者に分けられたみたいで、あまり良い気分ではない。
男が一度、瞬きをする。瞼が一度落ちて、次に開いた時、その一瞬で男の間藤雰囲気は変わっていた。固く、鋭い気配が肌に伝わった。
男は真正面から、
「君、このままだと死ぬぞ」
言い放つ。
「シヌって」
あまりにも唐突な宣告に、僕は一瞬呆けてしまった。
シヌって、死ぬってことなのか? 心臓が止まって、生命活動を終える……という意味でいいのか?
そんな言葉、面と向かって真面目に言われたことなんて無いから、頭の処理が遅れて、理解するのに時間を要してしまった。普段聞かない言葉ではないが、男の口調があまりにも仰々しいものだったから。
「対処方が全くなっていない。君は、殺される」
だから、僕はそれが本当の事だと信じてしまった。男の言葉には、それを信じさせる力が篭っていたのだ。
「ちゃんとしたやり方を教えよう」
男は懐から、長方形の紙を取り出して、僕に差し出した。無意識に近い感覚で、それを受け取る。
「うちでアルバイトをしないか?」