二月も中頃に入り、併合式典行きに備えて、私達侍女は王妃の私室で持っていくドレスや装飾品の選定を行なっていた。 パレスナ王妃はときおりこちらの様子を確認しつつ、隣の大陸の言語であるハイリン語を学ぶためのテキストを読んでいる。 連日の学習の成果もあってか、パレスナ王妃は片言でならハイリン語を話せるようになっている。 この国の言語とハイリン語は、元を辿ると同じ言語だ。だからこそ、ここまで簡単に覚えることができたのだろう。 ちなみにリスニングはまだ怪しいので、向こうの国についたら通訳者として常に私が付き添うことになっている。まあ、短期間の学習ではこんなところだろう。 私も侍女達と一緒に装飾品の選定を行なっているが、たまにパレスナ王妃にテキストの解説を求められて、両方を行ったり来たりしている。 そんな穏やかな時間が流れていたパレスナ王妃の私室に、ふと、一人の貴人が訪ねてきた。王妹のナシーである。 ナシーは、王妃の私室に入るや否や、こんなことを言いだした。「兄上とパレスナばかり旅行してずるい!」 まるで駄々をこねる子供のような主張である。「ナシー、別に今回は旅行しにいくわけじゃないの。外遊よ。仕事なの」 そうパレスナ王妃が、ナシーをなだめるように言う。 私はパレスナ王妃の言葉を頭の中で『外遊』と日本語訳しているが、これは外国旅行の意ではない。ここでは、公人が外交目的で外国を訪問することを表わしている。つまり、パレスナ王妃の言うとおりに、塩の国に向かうのは仕事のためである。「嘘だ! 兄上は釣り堀を視察するとか言っていたぞ。絶対あれ、遊び目的だろう」 ナシーの言葉に、パレスナ王妃は反論できなくなった。 国王のやつ、先王だけではなくナシーにも釣り堀のことを話したのか。どれだけ楽しみにしていたのだ。「というわけで、私も旅行することにした。小説の取材旅行だ!」 と、そんなことをナシーが言い出す。 ナシーは普段、国土を調整する王族の仕事をしているが、副業として恋愛小説を書いている。商人のゼリンによると、先月発売した小説『天使の恋歌』は売上がすこぶるよいようだ。 そんなナシーの旅行宣言をパレスナ王妃は冷めた目で見ている。「……貴女、後宮は放っておいていいの?」「ぐっ!」 パレスナ王妃のツッコミに、今度はナシーが黙った。 この国でいう後宮は、配偶者候補達を王宮の一区画に住まわせ、そこで王族が長期的なお見合いをするちょっと変わった風習だ。 パレスナ王妃も、去年までその後宮で王妃候補者として国王と交流をしていた。「私達が後宮を明け渡してもう二ヶ月も経つわ。そろそろ人が集まってきたんじゃない?」 そうパレスナ王妃はナシーに向けて言う。 二ヶ月と言っても、この国での一ヶ月は約四十日もある。つまり、ナシー用の長期お見合い会場である後宮が開かれてから、もう八十日近い日数が経っているということだ。「いや、恋とかよく解らないのでな……」「恋愛小説の取材に行こうって人が何を言っているのよ」 ナシーのうなるような言葉に、パレスナ王妃がまたもやツッコミを入れる。ごもっともすぎる意見である。 しかしナシー、恋を知らないからこそ妄想の恋が書けるというタイプか。こういう創作者って前世では、実際に恋人を作ると途端に作品の質が落ちたりするとか言われていたな。「ねえ、ヤラールトラールさん。ナシーと仲がいい人、後宮にいるの?」 と、パレスナ王妃がそんなことをナシーについてきていた天使のヤラに尋ねた。 天使ヤラは、それに困ったように答える。「私は女なので、今の後宮へは入れないのですが……」「あら、そうだったわね。ごめんなさい」 パレスナ王妃が後宮にいた頃は、後宮は国王以外の男は入ってはいけない場所だった。ナシーの配偶者候補達が後宮入りしている今は、ナシー以外の女が立ち入っていけない場所になっているのだろう。「後宮の外でなら、近衛騎士のオルト殿と仲がよいようですよ」「本当?」「あ、こら! ヤラ! 何を言い出すんだ!」 天使ヤラの言葉に、身を乗り出すパレスナ王妃と、慌てるように声を上げるナシー。 意外な事実が出てきたな。 そして、天使ヤラはナシーの制止の声も聞かず、言葉を続けた。「オルト殿には後宮入りを打診しているようですが、今回のエイテン行きが終わってからと引き延ばしにされているそうです」 しかし、オルトかー。 近衛騎士団第一隊の副隊長であるオルトは、元庭師というバリバリのエリートだ。 しかし、実家はただの裕福な家庭で、貴族の家出身とかではなかったような気がする。もしこれで王族のナシーに配偶者として選ばれたら、すごい成り上がりだな。 本来なら平民は配偶者候補として後宮入りできないのだが、オルトは騎士になった時点で騎士爵を与えられている。 騎士爵は世襲できない一代限りの貴族だが、オルトは近衛騎士団の幹部だから、今は男爵あたりに爵位が上がっているかもしれない。「オルトさん……確か、近衛のリーダー的存在だった人かしら?」「そうだな、副隊長で、王国最強の騎士だ。私もときどき稽古をつけてもらっている」 パレスナ王妃の疑問の声に、ナシーがそう解説をした。 稽古か。ナシーは剣も嗜むからな。国王や先王ほど剣の腕は達者ではないが。「仲はどこまで進んでいるの?」 パレスナ王妃、ずいずい行くなぁ。侍女達も話が気になっているのか、みんな二人に顔を向けて注目しているぞ。「いや、何も……」 顔をわずかに赤くして首を振るナシーだが、パレスナ王妃は止まらない。「本当? ヤラールトラールさん、どうなの?」「後宮に入ってくださいという、直筆の手紙を直接手渡したようです」「それ、もう告白したのと一緒じゃない!」 キャーと侍女達が盛り上がる。なんだか最近、恋の話題で盛り上がることが多いなぁ。女の子の集団だし、こんなものなのかね。「で、返事がさっき言っていた、先延ばしってわけね」「そうなります」「じらすわねー」「じらしますね」 しみじみと言葉を交わす、パレスナ王妃と天使ヤラ。ナシーは恥ずかしそうに両手で顔をおおった。恋とかよく解らないとか言っていたわりに、しっかり恋愛しているな。 しかし、オルトかぁ。彼は、私が近衛宿舎付き侍女をしていたときに、恋人が欲しいとか愚痴を言っていた記憶がある。ちゃっかり年下の娘に惚れられているんじゃないか。これが他に知れたら、オルトは近衛の他の奴らにタコ殴りにあうぞ。「ええい、とにかく旅行だ! 私は旅行に行くのだ!」 ナシーはそう言って、無理やり話題を元に戻そうとした。 パレスナ王妃と天使ヤラは、やれやれといった表情をしている。「で、どこへ行くの?」 そうパレスナ王妃がナシーの話題に乗っかる。恋の話はこの辺で勘弁してやるよ、といったところか。 その王妃の言葉に、どこかほっとした表情でナシーが返した。「まだ何も決めていない。小説のネタも、全く浮かんでいないし」 取材旅行をしたいが、取材対象すら決まっていないという感じか。 ナシーはさらに言葉を続けた。「そもそも鋼鉄の国の存在があったからな。王族が王都の外に出るのは危ないとか言われて、ろくに旅行なんてしたことがないんだ。兄上は若い頃、キリンと一緒に国内を飛び回ったというのに、この扱いの差!」 するどい視線で、ナシーがこちらをにらんでくる。まあ、確かに国王と一緒に近衛騎士を集めるために国中を飛び回ったりしたが。 私は、言い訳をするようにナシーに言葉を返す。「当時は、あくまで鋼鉄の国は仲がよろしくない国というだけで、仮想敵国とまでは言われていませんでしたからね」 鋼鉄の国がこの国を本気で敵視し始めたのは、天使ネコールナコールの胴体、カヨウ夫人が復活してからのことだろう。 カヨウ夫人の復活は確か八年前で、国王と国を巡ったのは十年くらい前だ。まあ、当時も山賊に扮した鋼鉄の国の工作員が、アルイブキラで暗躍していたのだが。「ハンナシッタ殿下は、国内旅行をしたことがないのですか? 『ミニーヤ村の恋愛事情』の村人の生活描写などは、真に迫っていると評判ですけれど」 と、侍女のメイヤがナシーにそんな言葉を投げかける。『ミニーヤ村の恋愛事情』か。ナシーの代表作だな。恋愛描写の合間にさりげなく書かれた農村の生活が、いい味を出している傑作だ。 これを読んだ町娘などは、農村の豊かな生活に憧れを持ったりしていると商人のゼリンが言っていた。確かに農民は豊かだけど、毎日重労働なのだがな。「あれは、兄上や領地を持つ貴族に、とことん取材をして書いた作品だからな。農民に内容の確認もしてもらった」 論文の査読みたいなこともしたんだな、ナシー。かなり本気で小説を書いているのか。「だから今度こそは、しっかり取材して何かを書きたいんだ。旅行に行けばネタも浮かぶはず……!」「とは言っても、書きたい物が決まっていないなら、どこがいいとも言えないわよ」 うーむ、と悩み始めるナシーとパレスナ王妃。 そして、パレスナ王妃がちらりとこちらを横目で見てきた。「困ったときのキリン頼みよ! キリン、何かない?」 そんなことをパレスナ王妃が言い出す。 私、便利キャラか何かなのか……? 私は侍女達の輪から抜け出し、パレスナ王妃の前に出る。「気軽に取材に行くとなると、国内旅行でしょうか?」 そうナシーに問いかけると、彼女は「そうだな」とうなずいて言った。「私も旅行慣れしていないからな。手続きが大量に必要な国外旅行をいきなりするのは、確かに大変だ」「王族ですから、簡単に国外には行けないでしょうね」 そう言って「なるほど」と私は納得し、しばし考えこむ。 そして、ナシーからパレスナ王妃の方に向き直る。「パレスナ様、空間収納魔法を使うことをお許しください」「いいわよー」 私は、パレスナ王妃に一言断ってから、魔法を使った。 内廷では、異空間から物を取り出す空間収納魔法を自由に使ってはいけないことになっている。 武器とかの危険物を取り出せてしまうからな。まあ、魔法的な縛りとかで使えなくなっているわけではないので、緊急時は無視してよいと国王に直々に言われている。 私が異空間から取り出したのは、一冊のノートだ。ゼリンのティニク商会で買える、罫線入りの品である。「それは何かしら」「世界各地の名所を書き記した観光メモのアルイブキラ版ですね」 私がそうノートの内容を説明すると、ナシーの目つきが変わった。「貸してくれ! ネタの宝庫だ!」 そう言って、ナシーがこちらに詰め寄ってくる。「いや、駄目ですよ。これ一冊しかない大事な物なのですから、貸せません」 私は魔法でノートを防護して、ナシーをなんとかなだめようとする。「確かに、世界を巡った高名な庭師の観光メモなんて、貴重も貴重よねー」 そんな私達二人のやりとりをパレスナ王妃がそう言って笑いながら眺めていた。 いや、ちょっとナシーを止めてくれ。「見るだけ! この場で見るだけだから!」「それならまあ、いいですが……」 ナシーの言葉に、私はしぶしぶ納得してノートを明け渡した。 見せびらかすためじゃなくて、自分の記憶を補完するために取り出しただけなのだがなぁ……。「私のオススメとしては、温泉巡りですね。温泉と言えば王都周辺ですが、各領地にも一箇所は必ず温泉地がありまして……」 って、説明してもノートの中身に夢中で聞いていないな。 ナシーは興奮で顔を上気させながらノートをめくっていく。「これは、なかなか……。だ、駄目だ。覚えきれない! キリン、これ写させてもらっていいか!?」「別に構いませんが……」「よし、紙持ってくる!」 ナシーはそう言って、慌ただしくパレスナ王妃の私室を退室していった。 護衛の天使ヤラはそれを追わず、私室にあるテーブル席に座り、侍女のフランカさんが淹れたお茶を一人堪能していた。「追わなくていいのですか?」 そう天使ヤラに尋ねてみるのだが、天使ヤラは立ち上がることなく答えた。「あの様子ですと、自分の部屋に戻っただけなので問題ないでしょう。それよりも、そのメモ、私も読ませてもらっていいですか? 上位存在が興味深そうにしていますので」「上位存在って、天界の火の神ですか」「そう言われている存在ですね。上位存在は人間の営みに興味を持っているのですよ」 やれやれ、ずいぶんと俗っぽい神様だことで。 天使ヤラにノートを渡すと、彼女はペラペラとノートをめくって、すぐにこちらに返してきた。「ありがとうございました」 そう礼を言ってくる。速読か。さすが、何百年も生きているだけあるな。「戻ったぞ! さあ、キリン、写させてくれ!」 ナシーが扉を開けて部屋に飛び込んでくる。「ナシー殿下、王妃の部屋なのですから、ノックくらいはしてください」「すまん! さあ、見せてくれ!」 さすがに目に余ったので注意をしたのだが、ナシーは軽く謝るだけでまともに聞いてはいない。 仕方なくナシーにノートを渡すと、ナシーはテーブル席に座ってノートの中身を紙束に写し始めた。「しばらくこの部屋に居着きそうねー。貴女達はナシーを気にせず、持っていく物の選定を続けてちょうだい」 そんなナシーを見て、パレスナ王妃がそのように侍女達へ指示を出した。 その日から数日、ナシーはパレスナ王妃の部屋に通い詰め、ノートを写したり、私に国内の名所を尋ねてきたりした。 そしてある日、突然ナシーは近衛騎士団第三隊の女性騎士達を引き連れ、国内旅行に出かけた。旅行を計画してからろくに日も経っていないのに、本当に急なことだった。 国王は、塩の国への出発間際だというのにその対応に追われてんやわんや。 パレスナ王妃に「旅行はいいけど、何もこの時期に行かなくても……」と愚痴をこぼしていたらしい。 まあ、今まで王都に閉じ込めて不自由させていたようだし、妹のわがままを受け止めるのも兄の役目なのではないかな。 私は、うきうき顔で旅立っていったナシーの土産話を今から楽しみにしておくのだった。