「はー、至極の一冊でしたわ」 休日の侍女宿舎。私に割り当てられた部屋で、同じく本日が休日だった同室の侍女カヤ嬢が、うっとりとそう呟いた。 彼女の手にあるのは、一冊の恋愛小説。王妹ナシーの書いた、『天使の恋歌』である。 紆余曲折の類は特になく、すんなり発売したこの本だが、パレスナ王妃が言うには初日からなかなかの数が売れているらしい。 そんな恋愛小説のヒット作をこのカヤ嬢が見逃すはずがない。「種族を超えた恋……まさに真実の愛です」 そう、このカヤ嬢は二次元、三次元に関係なく、色恋沙汰が大好きで仕様がないのだ。 部屋着姿で本を抱えながら、ベッドの上をごろごろと転がるカヤ嬢。 そんなカヤ嬢を私は、最近暇つぶしの趣味にし始めたつまみ細工をいじりながら眺めていた。「これは布教しませんと……キリンさん、読んでみませんか!?」 勢いよく立ち上がったカヤ嬢が、私に本を差し出してくる。 この部屋ではよくある光景だ。カヤ嬢に付き合って、結構な数の恋愛小説や恋愛漫画を今まで読んできた。 私も別にそういうものが特に嫌いなわけでもないので、構わないのだが。しかし。今回はそれに付き合うことができない。「すまないね。その本は、もう読んだのだ」「あら? キリンさん、最近、特に本は読んでいませんでしたよね?」「パレスナ様のところで、発売前にちょっとね」「えっ、なにそれずるい」 カヤ嬢の言葉に、私は苦笑する。ずるいか。確かにナシーの小説のファンから見ると、ずるいな。「実はその本の挿絵と表紙、パレスナ様が描いている。だから、発売前に献本が届いて、担当侍女の間で読み回したんだ」「王妃様が……ああ、そういえば、そんな謳い文句が商会で掲げられていたような、いなかったような……」 カヤ嬢が、手元の本の表紙絵をじっと見つめる。表紙の絵師はペンネーム『パレス』。その正体が王妃パレスナだということは、一切隠し立てしていない。そもそも王妃になる前から、絵師パレスは公爵令嬢だと公言して、貴族の屋敷に絵を売っていたらしいのだ。 まあ、王妃が挿絵担当という宣伝は、カヤ嬢にはあまり効力を発揮していなかったようだが。「でも、ずるいですわね。発売前に読めるのだなんて。……はっ! つまりはメイヤ達もすでに読んでいることに」「王妃付きの侍女だけじゃなくて、王妹付きの侍女も発売前に読んでいるのではないかな?」「ううっ、役得、うらやましいですわね……」 まあ、その気持ちは分かる。私も前世では、某週刊少年漫画雑誌を発売前に読みたがった口だしな。「はあ、でもまあ、今すぐキリンさんとこの本の素晴らしさを分かち合えるのは、素晴らしいことですね」 ベッドの上に座り、パラパラと本をめくりながら、カヤ嬢が言う。「はっ、そうです。またこういうことがあったら、キリンさんに本を借りてきてもらえば……!」「いやあ、王妃様の持ち物を借りてくるのは駄目だろう」「ですよね」 カヤ嬢は、がっくりと肩を落とした。◆◇◆◇◆「と、そんな会話が同室の者とありまして」 ところ変わって、翌日の王宮。 場所はパレスナ王妃の私室ではなく、それとは別に王妃に割り当てられた内廷の一室だ。 そんな部屋でパレスナ王妃は、キャンバスを前に絵を描いていた。 そう、ここは王妃の絵画工房である。「あはは、キリンの友達って、そんなに本が好きなのね」「恋愛小説と恋愛漫画限定ですが」 筆を動かしながら笑うパレスナ王妃に、私はそう答えた。 現在のパレスナ王妃は、絵の具で汚れてもいいドレスに身を包んでいる。 とは言っても、後宮で絵画用に着ていたようなみすぼらしいドレスとは違う。その上から袖付きエプロンを着てはいるが、ドレスが汚れるときは汚れるだろう。 王妃が着るに相応しい豪華なドレスを一着、汚れてもいいドレスとして扱っているのだ。さすがは国主の妻。贅沢なことだ。 そんなパレスナ王妃が今描いている絵は、侍女の絵だ。 自分に仕える侍女七人を一枚の絵にまとめて描くというのが、今回のパレスナ王妃の題材である。 そして今日は、一週間に一度の侍女全員が出勤する日。なので、パレスナ王妃は本日を休日とし、語学の勉強や農学・化学の勉強をなしにして一日趣味の絵画にふけることにしたのだ。「カヤさんったら、相変わらず恋愛ごとが絡むとおかしくなるのですね」 絵のモデルとして立ったままの侍女メイヤが、面白そうに笑って言う。 一枚の絵に収まるため、メイヤだけでなく侍女達全員が、部屋の真ん中にずらりと並んで立っていた。「どういう人なの?」「恋バナに過剰に反応するお方ですわ」 パレスナ王妃の問いかけに、メイヤが答える。うむ、やはりメイヤから見てもカヤ嬢の認識はそういうものなのだな。「どういう情報網なのかー、王宮内の恋愛事情を突き止めては噂話している子ー」 リーリーも話に乗っかってくる。年長のリーリーにとっては、カヤ嬢も『子』扱いか。「悪い子ではないですが、他人の恋愛ごとを眺めるのを趣味のようにしていますね」 そう私が締めくくる。すると、パレスナ王妃は小さく微笑みながら言う。「趣味、趣味ねぇ。変わった趣味ね。絵画を趣味にしている私が言うのもなんだけれど」 趣味。 パレスナ王妃の趣味は本人の言うとおり、間違いなく絵画だ。 描いた絵が貴族の家に飾られたり、トレカのイラストに採用されたり、本の挿絵担当になったりしていても、あくまで趣味だ。彼女の本業は王妃である。 だが、王族が趣味を持つことは何も悪いことではない。 前世地球にて、フランス生まれの王族ルイ君なんかは、錠前作りがたいそう好きだったという。 まあ彼は、断頭台の露と消えるのだが……。 ルイ君本人は暗君だったわけではなく、先代、先々代の王の治世の影響が、巡り巡ってルイ君の代で悪い方向に炸裂したとかなんとか。そう大学で話を聞いた気がするが、まあ前世の歴史など、どうでもいいか。 この国の治世に問題はなく、国王交代の際に敵国の工作員に国を散々荒らされて散々なことになっていたが、今は敵国もなくなって、国はいい方向に向かっている。断頭台と王族に縁は一切ないことだろう。 だから、王族が休日を作って趣味にふける日があっても、特に問題はないのだ。「そのカヤって人とも一度会って、挿絵の感想を聞いてみたいわね」「侍女の方から選んで、お茶会でもやります?」 パレスナ王妃の言葉に、侍女のサトトコがおもしろそうに、そう言う。「いいわねー。条件は、『天使の恋歌』を読んでおくこと、とかね!」「王妃にお目にかかりたい侍女が、こぞって商会に本を買いに押し掛けそうですね」 パレスナ王妃とサトトコがそう言い合って、笑みを浮かべた。 お茶会か。侍女が相手だが、その侍女は私以外漏れなく貴族のご令嬢だ。王妃との顔つなぎは、実家のためにもなるし、今後侍女を辞めて貴族の嫁となる自分のためにもなる。 希望者を集めたら、殺到することだろう。「じゃ、そういうわけで侍女を集めたお茶会、後で詳しく企画立てましょうか」 あ、冗談ではなかったのか。 唐突に決まったお茶会の予定に、侍女達がきゃぴきゃぴと騒ぐ。お茶会は給仕を担当する侍女達の晴れ舞台でもある。嬉しくなるのは分かるよ。 後でと言っているのに、侍女達による企画会議が始まりそうになったそのときだ。ノックの音が、工房に響いた。「入ってもらって」 パレスナ王妃の指示で、メイヤが扉を開ける。 開いた扉の向こうに居たのは、王宮菓子職人の制服に身を包んだ副職人長のトリール嬢だ。「皆さん、お茶の時間ですよー」 挨拶もなく、開口一番トリール嬢がそんなことを言った。 その様子はとても慣れたものだ。というのも、彼女はお茶休憩の時間になると、毎日自ら王妃のところまでお菓子を運んで来てくれるのだ。 職人長は人見知りらしく、来るのは必ず副職人長のトリール嬢だ。まあ、トリール嬢とパレスナ王妃は後宮で共に王妃候補者として過ごした仲なので、彼女がお菓子を持ってきてくれるのは友達と会う機会が増えて、内廷に籠もった生活を送っているパレスナ王妃にとってはいいことだろう。「じゃ、みんな移動しましょうか」 パレスナ王妃がそう侍女達に号令をかける。工房には食事をするテーブルが置かれていないため、別の部屋に移動するのだ。 王妃と侍女七人、そしてトリール嬢はずらずらと並んで廊下を進む。トリール嬢はお菓子と茶器の入ったワゴンを押している。 到着したのは、内廷で王族が私的にお茶会を開くためのお茶室だ。 広い室内に、大きなテーブル席。そこにパレスナ王妃が座り、侍女達も思い思いの席に座っていく。 毎日のお茶休憩の時間は、王妃と侍女達が一緒にお茶とお菓子を楽しむ私的な時間だ。主と下僕は同じ席で食事はしない、などと固いことは誰も言わない。 トリール嬢とともに、今日の給仕担当の侍女マールがお茶を淹れていく。 やがて、お茶とお茶菓子が全員の席の前に配られる。ちゃっかりトリール嬢も席を一つ確保している。だがいいのだ。彼女は王妃の友人で、ここは私的な場なのだから。「今日のお茶菓子は、私が担当しましたー。季節のフルーツのゼリーです!」「やっぱり綺麗なお菓子ねえ、ゼリーって」 目の前に置かれたお茶菓子を見ながら、パレスナ王妃が感心したように言う。 ゼリー。この国に今まで存在しなかったお菓子だ。 私は以前、カスタードプリンをトリール嬢に教えたことがある。そこで熱して固めるプディングという概念を知った彼女が、研究の末作りだしたのが、このゼリーである。 卵を固めるプリンを教えてゼラチンを使うゼリーが生まれるとは、どうなればそうなるのか分からないのだが、まあ彼女はお菓子作りの天才だということだろう。 お茶の用意が整ったので、皆好きなようにお茶を楽しみ始める。 私の今日の気分は、甘いお茶なのでお茶に蟻蜜をたっぷりと入れ、ティースプーンでかき混ぜる。 そして一口。うん、美味しい。王家御用達の茶葉を使っているだけあって、上品な味わいだ。 ゼリーも、スプーンですくって一口。む、冷えている。そういえばトリール嬢は氷魔法の使い手だったな。味の方は、しつこくない、いい案配の甘味であった。前に初めて出されたゼリーよりも美味しい。「前よりも断然美味しいわ」 パレスナ王妃も、ゼリーを食べてそう感想を述べた。「研究の甲斐がありましたー」「王宮用のお菓子を毎日作りながら研究って、大変そうね」「いえいえ、お菓子作りは趣味ですのでー。楽しいですよ」「仕事と趣味が同じって、本当に楽しそうねー」 トリール嬢とパレスナ王妃が明るい様子で言葉を交わす。 趣味か。料理の類は、貴族の趣味としてどういう扱いなのだろうな。まあ、それを仕事にしているのだから、問題は何もないのだろうが。 侍女のフランカさんの夫なんかは、土いじりの園丁を生業としている貴族だ。この国の貴族の仕事や趣味の範囲って、思いのほか広いのかもしれないな。 そんなことを思いながらお茶を楽しんでいたところ、不意にノックもなしに部屋の扉が開いた。「間に合ったかな? いやー、忙しくてね、どうにも」 扉の向こうから現れたのは、国王だった。後ろには秘書官を連れている。 そんな国王は、テーブル席へと歩み寄り、パレスナ王妃の隣の席に勢いよく座った。秘書官も、その隣に座る。 トリール嬢とマールはお茶をそのままに立ち上がり、テーブル席の横に置いたままのワゴンへと向かった。 そして、慣れた手つきでお茶の用意を始める。 王妃の私的な午後のお茶休憩。そこに国王がやってくるのは、今月になって何度も繰り返されたいつもの光景であった。 工房へはトリール嬢がパレスナ王妃を呼びにきたが、国王の執務室へも菓子職人の一人がお茶の時間を知らせに行っている。国王が来るかもしれないのにお茶を先に始めているのは、国王自身が忙しくて遅れることも多いからと事前に許しているからだ。「お、ゼリーじゃん。いいね!」「前より美味しいわよ」「やるじゃん。うーん、この透明な見た目が、みやびだね!」 そう国王はパレスナ王妃と言葉を交わし、お茶をストレートのままで口にした。 そして、嬉しそうにゼリーを食べ始める。「うーん、美味しい。あ、そうそう。前にもパレスナに言ったけど、旅行、行きます」「新婚旅行ね!」「そうなんだけど、父上と母上も付いてくるんだ。夫婦二人でとはいかないよ。ごめんね」「どちらにしろ、護衛と侍女がついてくるのだから、構わないわよ」「そっか。ちなみに出発は二十五日」「それはまた、急なスケジュールね!」 今日は初春の一月の十七日だから。八日後だ。王族の移動が行われる旅行の準備期間としては、とても短い。「旅行期間は移動を含めて二週間ってところかな」「どこへ行くのかしら」「それは当日までの秘密ってことで」「焦らすわねー」「はっはっは、行き先は俺と父上しか知らないよ。近衛も知らない」「なによそれー。本当に極秘の旅行ね!」 仲むつまじげに会話を交わす二人。うーん、秘密の旅行か。侍女は何人連れていくのだろうな。 国王夫妻だけでなく、先王と王太后も来るなら大所帯だぞ。「はー、なんだかお茶会を開くどころではなくなったわね」 口直しなのか、ゼリーを口にして飲み込み、パレスナ王妃がそう言った。「なになに? お茶会? 予定してたの?」 国王が話題に食いついてくる。「私が挿絵を描いたナシーの本があったでしょう? それを気に入った侍女がいるらしくて、じゃあ読んでくれた侍女を集めてお茶会でもしましょうって、さっき話していたの」「そっかー。でも、旅行がすぐにあるから帰ってきてからだね」「そうね」 そんな感じで、和気あいあいとしたお茶の時間は過ぎ去っていった。 旅行か。侍女全員でパレスナ王妃の荷造りをしなければ。 今日からさっそく始める……のは無理か。今日は絵画のための休日だからな。 しかしまあ、いったいどこへ行くのだろうかね。-- 当作品がアース・スターノベル大賞で入選しました。書籍化します。