「両さん、夏を売る」の巻
「あ……、
あ
つ
い……」
ある真夏の一日。
葛飾区の真上に居座る太陽が、強烈な日差しを放っている。
四角い公園前派出所がドロドロに歪み、ガードレールが水飴のように地面に流れる。そう錯覚するほどの暑さの中で、机に突っ伏したまま溶ける両津勘吉の苦悶の声が漏れている。
「なんという暑さだ…人間の働ける温度じゃねえぞこりゃあ……」
その机にはカップアイスの空き箱がいくつも重ねられ、故障中、の札を貼られた扇風機が地面に倒れている。網状の保護フレームがぐにゃりと歪んでいることから、誰かが腹立ちまぎれに蹴飛ばしたことが伺えた。
「今年は百年に一度の暑さらしいですよ」
書類を整理しつつ発現するのは中川圭一。こちらも制服の襟首を手で引っ張り、帽子を脱いでそれで体を扇いでいる。両津も中川も玉の汗を浮かべており、派出所全体にむっとする熱気が充満している。
「それ毎年言ってんじゃねえのか、このままだと100年後は50度ぐらいになるぞ」
「温暖化とかヒートアイランドとか…色々原因があるので」
「もう限界だ、クーラーつけよう!」
と、実は派出所内に設置されているクーラーを指して両津が叫ぶ。現れたり消えたりしているクーラーだが、今現在は故障もなく現役である。
「ダメですよ、部長から35度以上にならないと点けるな、との厳命ですから」
「もう35度以上ある! いいから点けよう!」
「でも部長が……」
「部長なら今日は会議が…」
「おはよう」
「うわ!?!」
おもむろに登場するのは巡査部長の大原大次郎である。連載35年ともなると登場のタイミングももはや達人の域であろうか。
「ぶ、部長、今日は葛飾署で会議のはずでは?!」
「会議室のクーラーが壊れてな。会議できる状況ではないので来週になった」
「ずるい! 自分ばかり!」
水玉の汗を浮かべた暑苦しい顔で部長を指さし、叫ぶ両津。その声には幼さにも似た必死さが見えている。
「やればいいでしょう会議ぐらい! 扇風機とウチワでしのぎながらやったっていいでしょうが! 公僕たるもの暑さぐらいなんですか!!」
「う、うるさいやつだな…」
「私らはこの炎天下の中扇風機もクーラーも点けずに働いてるんですよ! だいたい冬場はストーブを節約しろだの夏場は冷房を減らせだの厳しすぎる!! 我々が普段どれだけ苦労して……」
「やかましい!!!」
「うわっ!?」
突如として牙をむいて怒り出す部長に、両津は0.5秒でたじろいで身を引く。
「何が厳しいだそもそもお前が扇風機を壊すから悪いんだろうが!!だいたいわしらの若い頃は真夏に何時間も外で立番したものだ!!お前のようにだらしなくアイスやらジュースやら食べ散らかしながら弱音を吐いたりなどしなかったぞ!だいたいお前はすぐ新しいコートを支給しろだの派出所が暑いだの不満ばかりぬかしおってけしからん!!この間もパトロール中に喫茶店でサボっていただろうが!!まったくお前というやつは……!」
「ちょ、ちょっと部長、セリフが詰まってますってば、い、息苦しい」
たっぷり5分ほど全力で怒りをぶちまけつつ、部長はやっと落ち着く。
「まったく」
「あー疲れた、今日の怒りは一段と気合が入ってたな…」
「やはり、部長も暑いのでイライラしてるんでしょうか…」
小声でささやく中川。
怒涛の説教でさらに暑くなったような派出所の中で、両津が控えめに発言する。
「部長、それにしても今日は35度以上ありますよ。クーラーつけましょう」
「まだ34.3度だ」
「? ど、どうしてそんな細かく分かるんです?」
「あれだ」
部長が派出所の外を示して言う。
派出所の前を通るのは環状七号道路である。暑さのあまり道路の左右にかげろうが見える。
そこから30メートルほど離れた道の上、電光掲示式の道路標示板が見えている。
「スピード落とせ」
「前方確認」
「追い越し禁止」
などのメッセージが次々と切り替わる中、5秒ほど本日の天気と気温も表示される。
「8月☓日 晴 34.3度」
「あれが35度以上になったら点けていい、それまではダメだ」
「いつのまにあんなものが……」
部長はそのまま書類棚の前に陣取り、中川と何やら話をしている。
「くそ、この暑さの中、あんなものに生殺与奪を握られてたまるか」
音もなく席を立ち、すいと派出所を出る、そのまま忍者のように壁を伝いながら移動して電光掲示板の根本へ。すいすいとあっという間にポールを登っていく。
そして頂点部分へ。いつもポケットに忍ばせている万能ドライバーが、取り出された瞬間キラリと光った。
「このタイプはおそらく頂点部分に温度計があるはずだ。よーし、これだ。こうやってセンサーの周囲に鏡を置けば……」
※
「なに! 39度だと!?」
「ええ! 私もさきほど確認して驚いたところです!」
妙に神妙な顔で、武将に注進する侍のようにそう言う両津。
先ほどの電光掲示板はしっかりと39.5度を表示している。
「そんなに暑かったのか、中川、クーラーをつけてくれんか」
「はい」
(よし)
ぐっと拳を握り、顎を前につきだしたような顔で静かに微笑む両津。
ようやく機械から冷気が吹き出し、派出所に一陣の涼をもたらす。
赤い室内が一気に青白くなるかのような感覚があった。
「いよお最高! やはりクーラーは偉大だ。アイスもうまい」
「この暑さで色々影響が出てるようですね」
と、中川が話題を挙げる。
「アイスクリームやビール、それに冷房機器など過去最高の売り上げですよ」
「そういえばわしも今年はよく食べてるな」
「気温が一度上がるごとに消費が5000億から7000億ほど伸びるというデータがありますからね」
「なに!!! 7000億だって!?」
棒アイスを棒ごと噛みちぎりながら吠える両津。値段に驚くあまり椅子を蹴倒して立ち上がる。7000億という数字にリアルに目を血走らせているあたりは流石というべきか。
「だからそういう業界は天気予報に一喜一憂するわけです。猛暑をいち早く予想した企業などは商品を増産したり、逆に冷夏を見込んだ場合は何らかの手を打ったりしているわけですね」
「なるほどなあ」
両津勘吉、ここで顎に手を当て、眉間に深いシワを寄せて考えに沈む。
(……考えてみりゃ暑さなんて気の持ちようだからな…。これは「おいしい」かも知れん)
「ちょっとパトロールに行ってくる」
「え?」
※
「ああ、確かに今年はよく売れるよ」
大きな寺の前に伸びる直線の参拝道、そこに居並ぶ屋台の一つで、野球帽を後ろ前に被った若者がそう答える。
まだ30手前に見えるが、こう見えて氷屋にわたがし、金魚すくいにリンゴアメなどなど、10軒の屋台を経営するこの参拝道の顔役である。
彼の屋台には昔ながらの鉄製のかき氷器が鎮座し、牛乳のような四角い紙容器のシロップが並んでいる。
今はもう夕方、どの屋台も片付けに入っている時刻である。店主の若者も夏の暑さを肌に色濃く刻みながら、気だるげながらも気さくに話していた。
屋台の脇には台車に載せられてムシロをかけられた切り出し氷が並び、かき氷器の下に敷く新聞紙なども束ねて置かれていた、器はチューリップハットのような幅広の紙製、スプーンは職人の削った竹製。なぜそんな昭和中期のようなかき氷屋が何気なく生き残っているのか、下町の七不思議である。
「だいたい30度ぐらいから売れ行きがよくなって、35度ぐらいが一番よく売れるね、だからオレんとこも天気予報は毎日見てるよ」
「高ければ高いほど売れるんじゃないのか」
「あんまり暑いと今度は外出する人が減るからね、でもイベントの日とかは暑ければ暑いほど売れるけど」
「なるほど」
「両さん氷屋やりたいって本気なの?」
「おう、前に屋台を引いて歩いたこともあるしな、それに昔は縁日やら海の家やらでよくバイトしたぞ。ふわっとした氷ほどカサが増えるから儲かるんだよな、わははは」
「あはは、さすが両さん」
でも、とちらりとラジオを見て野球帽が言う。
「屋台やりたいなら用意はできるけど、残念だけど来週から低気圧来るからね、ちょっと涼しくなるらしいよ」
「なあに、来週も35度になるから心配するな」
「え?」
「じゃあわしの分の屋台頼んだぞ、レンタル代は売り上げから払うから」
と、さっさと去ってしまう両津、
あとに残された野球帽の若者は、頭に疑問符を浮かべたままつぶやいた。
「太陽にミサイルでも打ち込む気かなあ?」
※
「OK、角度よし、固定よし」
月もない夜、とあるビルの屋上で狙撃用照準器を覗きながら、両津が右手でコールサインを送る。
「OK、スイッチオン」
その脇でノートパソコンを操作するのは迷彩服を着た大柄な男である。全身を堅牢な筋肉で覆っているというだけでなく、その肩の膨らみも背中の盛り上がりも、だいたいは服の内側に仕込んだ無数の銃器によるものだ。
名をボルボ西郷といい、鹿児島で忍者の家に生まれ、NY市警から傭兵へと転職し世界を歴戦、そして下町の交番勤務となったよく分からない人物である。
ビルの屋上の一角に設置された拳銃のような機械が、その先端のレンズを斜め下に向けている。その延長線上にあるのは消火器ほどの大きさの円筒状の機械である。
内部に各種計測器を備え、気温、気圧、日照時間、風速、風向などを常に観測している。それらのデータは即座に気象庁へと転送され、地域の気象データを収集する無人観測施設である。
その正式名は「自動地域気象観測システム(Automated Meteorological Data Acquisition System)」
といい、略称をAMeDASという。
「赤外線はセンサーに当たってないだろうな、台座のほうだぞ」
「大丈夫だ」
「サーモグラフのデータはどうだ」
「うむ、計算通り3.5度ほど高くなっている」
完全なる闇を撮影するサーモカメラからは、その中に立つアメダスと、それが外気温よりやや高温になってることを示す赤い色変化が伺えた。
「よしバッチリ、これでこの観測点は来週も35度だな」
「…こんなことで本当にかき氷が売れるのか??」
と、任務が一段落したことを受けて西郷巡査が疑問を漏らす。
「言っただろうが、暑さなんて気の持ちようだ。これでテレビやラジオが猛暑日だと騒げばみんな本当に暑く感じるもんだ」
赤外線とは端的に言えば光であり、金属部分に照射すればその部分は熱されて温度が上がることとなる。要するにアメダスの機械を何らかの方法で直接熱することで、観測数値をごまかそうというのが両津の計画であった。
赤外線レーザー照準器を、単に対象を温める目的で使うことも前代未聞だろう。
場面は飛んで次の観測点へ。
「次はここだ」
「ふむふむ、芝生の上か」
その観測点は開けた敷地にあり、周囲に屋上まで侵入できるような建物は見当たらなかった。
「こういう場合は芝を刈って防水シートを引く」
「ほう」
「その上に人工芝を貼りなおす、なるべく色が白っぽいやつだ。天然芝に比べれば3度は違う」
言いつつ、てきぱきと作業を続ける両津。
「うーむ顔に似合わずやることがマメだ……」
「さあ次行くぞ、今夜中に葛飾区周辺の観測点は全部回るからな」
「何となく手伝ってしまったが……いいんだろうかこんな事して…」
※