「思い出の一夜」の巻
「あら、きれいなダイスね」
派出所の紅一点、秋本麗子が摘み上げるのは正六面体のダイスである。木製のようで、何重にもニスを塗った表面は濃い赤銅色に艶めいている。所々に黒いくすみがあるのが渋い味わいを漂わせており、まるで数百年を経た仏像のような味わいである。各面には大文字で漢数字が彫り込まれていた。
麗子はいつものピンクの制服にブロンドの髪をなびかせ、日本人離れした体つきで、てきぱきと書類を整理していた。
「ん、それか。チンチロリンで使ってるやつだ。わしの手作りだぞ」
「そうなの? よくこんなの作るわねえ」
「浅草の実家から紫檀の根付をかっぱらってきて加工してな。どうせひいじいさんの持ち物だから構わんだろ」
「ひどいことするわねえ…」
両津勘吉はというと、小さなプラ板やウレタンを、これまた極小のハサミやペンチで加工しつつ、消しゴムのような大きさの自転車を作っているようだ。後ろの荷台に黄色いカゴを載せた集配用の自転車のようで、時おり虫眼鏡で出来を確認しながら、てきぱきと組み立てていく。すでに机の端には5・6個の自転車が並んでいた。
「まあガキの頃からサイコロは作ってたがな、木彫りだったり銅だったり錫(スズ)だったり色々だよ」
「そんなに前から? 何に使うの?」
「おもに双六だよ。わしの作ったサイコロは人気があってな、木彫りなら10円、銅製だと手間がかかるから50円ぐらいで売ってた。関東一円に売りまくったからたぶん三万個ぐらい作ったな」
「え、じゃあ何十万円ってお金になったの?」
「それでだ、もっと大きな彫刻を売ろうと思って屋久杉の彫刻材を買ったんだよ、100キロのやつ。知り合いの漁師の船で屋久島まで行ったんだ」
「えーーーっ!! 信じられない!」
「当時で30万ぐらいしたかな。現地で直接交渉だよ。彫刻材は買えたんだが、帰り道で船が竜巻に襲われてな、神奈川県の下田沖あたりで甲板に置いてた彫刻材が転がり落ちてしまった。慌てて海に飛び込んだがすごい高波な上に黒潮があってな、船があっという間に見えなくなった。死ぬ気で彫刻材にしがみついてたんだが、水車みたいに体ごとグルグル回ったな」
「そ、それで…どうなったの?」
ごくりと息を呑む麗子。ちょっとしたサイコロの話から1分でえらく話が膨らんだものである。なぜいつのまにか生死の境目にいるのだろうか。
「彫刻材にしがみついたままなんとか一夜耐えてな、晴れ間が出たから北極星を頼りに必死にバタ足だよ。なんとか東京湾まで戻ってきたが、肝心の屋久杉は海水を吸いすぎて、彫刻には使えなくなってしまったんだ、まったく大損だった。それが中1の頃だったかな」
「大損とかそういう話じゃないと思うけど…」
当時から波瀾万丈な生き様である。
ちなみに屋久島に自生する杉の中でも樹齢千年を越えるものを屋久杉と言い、2001年を最後に新たな伐採は行われていない。
そんな話をする間も両津の腕は休みなく動き、小さな自転車をどんどんと組み立てている。
「それより麗子、お茶いれてくれ」
「あ、ええ、待ってて」
台所の方へ向かう麗子、材木にしがみついて荒海に投げ出されるイメージが脳裏にこびりついていた。
時刻はというと夕方の六時である。傾いた日差しが派出所の中に差しこみ、サラリーマン姿の人々が足早に家路を急ぎ、公園で遊び疲れた子どもたちが泥だらけになって帰宅し、どこか遠くから豆腐屋のホーンの音が聞こえる、そんな昭和と現代の境目にあるような、公園前派出所からの眺めであった。
「はい、お茶」
「ああ」
「ねえ、さっきから何作ってるの?」
思わずそう問いかける。いつの間にそんなに増えたのか、両津の机には小さな自転車がずらりと並び、まるで昔の中国のような眺めである。
「ん、これか。商店街の酒屋が今度新装開店するんだよ、そこで配る粗品を作っておる」
「へえ、地域貢献ね、いいじゃない」
「あの酒屋にはツケが山のようにあるからな。これで支払いを半年待ってもらえるんだ、安いもんだ」
「……両ちゃんの場合、趣味と生活が密接に結びついてるのね……」
「それより部長はまだ来ないのか?」
と問う両津。部長がいないからこそこうしてミニチュア作りに精が出せるわけだが、この日は申し送りの時からずっと姿を見ていない。中川もいないので派出所には両津と麗子の二人しかいなかった。
「あら、部長さんなら圭ちゃんと一緒に本庁へ行ってるわよ。明日の朝まで来ないって言ってたじゃない」
「なに! そうなのか!」
「先週からずっと予定されてたわよ、もう。だから応援が必要なときは駅前派出所に連絡……」
「なんだよちくしょう、じゃあマジメにやることなかった」
と言って指を鳴らす両津、おもむろに椅子から立ち上がり、奥の部屋へと向かう。
「あら? 両ちゃん?」
「奥の部屋でミニチュア作ってるからな。ついでに日曜の競馬の予想をせねばいかんのだ」
「もう、困るわよ」
「許せ麗子、男の仕事とは忙しいもんよ。ああそれとお茶とヨウカン持ってきてくれ」
「もう!」
※
夜半を過ぎ、深夜になると関東一円に黒雲が立ち込めてきた。
それは桶の底を突き破るかのように一気に雨を溢れさせ、大粒の雨がここ公園前派出所にも降り落ちる。それはコンクリートの天井を機銃のように打ち鳴らし、角ばった庇から滝のように流れ落ち、環状七号道路に流れ出してそこを大型トラックが飛沫を上げて走り去っていく。
「えらく降ってきやがったな。まだ台風って時期でもないはずだが……」
百あまりの小人の自転車に囲まれ、両津勘吉が呟く。送電が不安定になっているのか、蛍光灯がちらちらと点滅していた。
「きゃあ! 大変!!」
と、そこへにわかに届く麗子の声。
「む、どうした!」
両津が奥座敷を飛び出すと、台所で戸棚を開け放ち、口に手を当てている麗子がいた。
「食べ物が全然無いのよ!」
がん、と側頭部をカベにぶつける両津。
「そんなことでいちいち騒ぐんじゃない!」
「だって、この雨じゃ外にも出られないし……。そうだ両ちゃん、さっきのヨウカンは?」
「速攻で全部食べちまったよ。まいったな、そうなると小腹が空いてきた」
にわかに焦りの色を浮かべる両津。麗子とともにすべての戸棚や冷蔵庫などを漁ってみるが、即席ラーメンのカケラすら見つからない。
「しょうがない、カッパ着てコンビニまで行ってくるか」
「だめよ! いま両ちゃんに抜けられたら何かあったとき困るもの!」
「ちぇ」
外の雨脚はどんどん激しさを増している。もはや環状七号道路の向こうの家並みすら見えず、道を通る車もなくなってしまった。人も車も見えず、雨音に塗り潰された室内にいると、まるで世界から派出所が切り取られてしまったかのような感覚がある。
「――だいたいこんな雨じゃ、あちこちで被害が出てるんじゃねえのか? 大丈夫なのか」
「ちょっと調べてみるわ…天気情報のアプリで……」
麗子のスマートフォンが操作される。両津は顔をしかめて、まるで消防車に放水されてるような眺めの外を見つめた。
「おかしいわね、柴又や北千住は晴れてるみたい…」
「なんだって!?」
麗子のスマートフォンを見ると、拡大された葛飾周辺の地図があり、亀有を中心とした一部のみ雨傘のマークが出ていて、他はすべて太陽のマークで埋まっている。アプリを使用しているユーザーが自分の周囲の天気を入力し、そのデータを集めて気象分布図に変えるタイプのアプリである。
「この周辺の500メートルぐらいしか降ってないみたいよ。遠くから見ると『ここ』だけが降ってるから、車もみんな迂回してるみたい」
「…だれか天罰でも食らってんじゃねえのか、迷惑な話だ」
「……そ、そうね」
日常が天罰のような両津が言うと無視しにくい発言だったが、麗子もあえてそこには突っ込まなかった。
そして不幸なことは常に唐突に訪れる。
閃光とほとんど同時に雷音がとどろく、一瞬すべての影が消し飛ぶほどの白光が炸裂し、コンマ数秒、時間が飛んだと感じるほどの衝撃、そして派出所の電気がすべて消え、ふいに濃い闇が落ちる。
「きゃあああああっ!!」
「うおっ!」
豪胆な麗子もたまらず近くのものにしがみつく。しがみつかれた冷蔵庫は何も言わず、両津は台所の真ん中で立ち尽くしていた。
「大変、停電よ!」
「麗子、お前なあ、こんな時ぐらいわしにしがみつけ」
「バカなこと言ってないで何とかしてよ!」
「ちょっと待てスマホのライトを……ヒューズは落ちてないぞ。近所の家は電気がついてるから、ここら一帯の停電でもない……。たぶん派出所の外の引き込み線が切れたな、これじゃ素人には手に負えん」
35年の歴史を生き抜いてきた派出所ではあるが、雨漏りに停電に床上浸水と、とかく災害に見舞われる傾向にある。爆発で吹き飛んだことが数回、他にも丸ごと盗まれたり、戦車に押しつぶされたり、なぜか水没したことも一度ある。この派出所もなかなかに波瀾万丈である。
「外に行ってぱぱっと直してきてよ」
「ばか言うな!」
「ねえ真っ暗よ、明かりはないの?」
「そう言われても……ん、そうだ!」
両津は奥座敷へと戻り、散乱している自転車のミニチュアをどかして、畳の一枚を剥がす、果たしてそこから白い土嚢のような袋が出てきた。
「昔、行商のバアさんから買った非常袋だ。あったぞ! ロウソクとカンヅメだ!」