国連宇宙軍がトライマグニスコープを必要とした理由は、ルイズと呼ばれる死体を調査するためだった。
長期間真空に晒されていた死体はインスタント食品のように干からびており、下手に触ると崩れてしまう有り様である。炭素年代測定をするまでもなく古い事は明白なのだ。それゆえ解剖もできず、検死が困難だったのだ。
しかしトライマグニスコープを使えば、単に死体の内部を透視できるだけでなく、体内の物質を分子レベル、原子レベルで詳細に調べる事ができる。腹を切り開いて胃を取り出すまでもなく、ルイズが何を食べていたのか容易に分かるのだ。それどころか拡大率を上げれば、細胞内の遺伝子配列を調べる事すら可能である。
死体は既に地球に運ばれており、ウエストウッド生物学研究所で分析されている。
トライマグニスコープの試作品初号機はその研究所に据え付けられる事になり、ロブ・グレイはその監督のためにそっちへ行く事になった。
ハントは据え付けが完了するまで暇だったのだが、せっかくなのでルイズ本人と対面する事になり、グレイと共にウエストウッド生物学研究所に向かった。
「これが誰のものであるかは申し上げるまでもないと思います」
クリスチャン・ダンチェッカー教授は、大型水槽のようなガラスケースに収められた死体を前にして言った。
ダンチェッカーは生物学の世界的権威である。センスの無い黒縁眼鏡をかけ、頭髪はだいぶ後退していて実際の年齢以上に老けて見えるが、その頭脳は極めて明晰であり、何度かノーベル賞の候補に挙がった事がある。しかし歯に衣着せぬ物言いが災いして、数々の業績にもかかわらずノーベル賞を受賞するには至っていない。
彼は続けた。
「白人女性、身長153センチ、体重40kg前後、年齢14~16歳。健康状態は良好で、食料も豊富、骨折などの大きな怪我も無し。ただし細かな切り傷や擦り傷、軽度の火傷などが散見される事から、何らかのトラブルに巻き込まれていた可能性はあります」
彼の説明は、トライマグニスコープが無くてもこの程度は容易に分かるのだ、と言わんばかりである。
「骨格もまた、彼女がごく普通の白人女性である事を示しています。正確に言えばゲルマン系フランク族、つまりフランス人である可能性が最も高いと言えます」
「死因はなんだったんですか?」
ハントが尋ねると、ダンチェッカーはずり落ちかけていた眼鏡を直してから答えた。
「直接の死因となるような外傷はありません。殴り殺された訳ではない事は確かです。急激な減圧による呼吸器系の損傷もありませんので、生きたまま月面に放り出された訳でもありません。彼女がコペルニクスⅢに放置されたのは死んだ後です。毒物反応も見つかっておりませんので、何が彼女を死に追いやったにせよ、他殺の可能性は低いでしょう」
それはそうだろうな、とハントは思った。明確に分かる死因があるなら、ここまで大騒ぎにはならないだろう。
ダンチェッカーは歯科医師が使うような歯の模型を手に取ると、それをハントに見せながら続けた。
「ルイズの歯形です。ご覧のように綺麗なものです。虫歯一つありません。あごは細く、歯も全くすり減っていません。つまり彼女はパンや肉などの柔らかい食料を十分に入手できていた事が分かります。
しかし重要なのは歯の本数です。上下14本ずつ、計28本しかありません。これは典型的な現代人の特長と一致します。親知らずはおそらく生えてくるだろうと思われますが、少なくとも彼女の死亡時点ではまだありません」
彼はさっきから何度もルイズが普通の人間だと言っている。ハントはそれを疑っている訳ではなかったが、ダンチェッカーがやたら主張する事には違和感を感じざるを得なかった。
ダンチェッカーは続けた。
「歯に限らず、ルイズの骨格は現代人と比較してなんら見劣りする点がありません。X線スキャンで見る限り、彼女が食糧不足に陥った形跡もありません」
「6千年前の人間なら、もっと食料に困っていた筈だと仰りたいのですか?」
ハントが尋ねると、ダンチェッカーは頷いて答えた。
「その通りです、ハント先生。
我々が知る限り、食料が安定して入手できるようになったのは、紀元前3500年ごろの古代メソポタミア文明が最初です。ルイズはそれより前の人間ですから、多少なりとも食料に偏りがあった筈なのです。
にもかかわらず、彼女は実にバランスの取れた食事をしている。それどころか食料の入手に苦労した形跡すら無いのです。顎の細さがそれを証明しています。
これは6千年前の人間としては実に不自然だと言わざるを得ません」
ダンチェッカーは熱弁を振るっているが、生物学に疎いハントはあまり関心を抱かなかった。
だがダンチェッカーにとって、これは大きな問題だったのである。