ハントは低空で飛ぶ月面輸送機の客席に座り、何でこんなところまで来てしまったのかと考えていた。
ティコⅢで第2の死体が発見され、それを生物学の権威であるダンチェッカー教授が調査しに行くところまでは良い。だが原子物理学の研究者に過ぎない自分が同行する理由は何だろうか?
その点をコールドウェルに問いただしたところ、彼はこう言った。
「月面人の件では柔軟で多角的な調査が必要だと判断しだからさ。
教授の事は信頼しているが、おそらく生物学者としての視点からしか見ようとはしないだろうからね」
ルナリアン―――
マスコミが使い始めたこの名称は、関係者たちの間にも急速に広まっていた。第2の死体が見つかった今となっては、この名称はほぼ確定したと言っていい。
この事はつまり、月で見つかった2体の死体は地球人ではなく、月固有の人種だと言う暗黙の認識が広まっている事を意味している。
もちろん本当に月に人間がいる訳は無いのだが、ルイズに関する調査が矛盾ばかりの現状では、そのような突飛な考えすらも真剣に検討せざるを得なくなっているのだ。
とは言え、コールドウェルが言うように柔軟で多角的な調査が必要なのは分かるが、それだけが理由だったら自分でなくても構わない筈だ。自分以外にも優秀な科学者はいくらでも居るのだから。
ではなぜ彼は自分を選んだのだろうか?
ハントは斜め向こうのブースに座るダンチェッカーを見た。
彼はハントと同じようなスキンタイト宇宙服を着込み、低い重力のせいで安定しないのか、頻繁に眼鏡の位置を直している。
気密ヘルメットを装着したら眼鏡に触ることすら出来なくなるのだが、そうなったら彼はどうやって眼鏡の位置を直すのだろうか?
ハントはそんな事を考えながら発掘現場までの短いフライトを過ごした。
月面で初対面の人間と会うのは色々と不便である。特に室外では。
まずハントとダンチェッカーにとっては、まともに歩けないと言う問題がある。月面の弱い重力にとって地球で育った人間の筋肉は強力すぎ、慣れないと高く跳び上がり過ぎてしまうのである。
どうにか歩いて相手に接近しても、サンヴァイザーのせいで顔が全く見えないという問題もある。宇宙服の胸のネームプレートを見ない限り誰が誰だか全く分からないのだ。
しかし近接無線機のお陰で5メートル以内に近づけば自動的に声が聞こえるようになっているため、相手が誰か分かってさえいれば、地球上と同じ感覚で会話する事ができる。必要ならばヘッドアップディスプレイに相手が誰かを自動表示させる事もできる。
そんな訳で、ハントとダンチェッカーは発掘現場の責任者であるアルバーツ教授と対面した。
「わざわざ遠いところまでご足労願いまして申し訳ありません。何しろ常識では理解できない事ばかりでして、もう何もかも放り出して逃げ出したい気分なんですよ」
もしヘルメットがなかったならば、彼はきっと額の汗を拭いながら喋っていた事だろう。しかし月面の屋外では無理な芸当である。
アルバーツはハントとダンチェッカーとグローブ越しの握手を交わした後、2人を簡易エレベーターに案内した。
エレベーターは直径 10m 程の穴の端に取り付けられており、穴そのものは大量の土砂を運び出すべく、多数のベルトコンベアーが稼動している。月面であっても穴を掘るための作業は地球上と変わらない。違うのは音がしない事と、砂埃はほとんど立たないくらいだろうか。
穴の周囲には動力を供給するための電源設備や倉庫、人間たちの簡易宿舎などが立ち並んでおり、これまた空さえ青ければ地球上と変わらない。
ところがエレベーターは少々勝手が違った。
エレベーター自体はよくある作業用のエレベーターで、床および周囲の壁は金網になっている。
ところが床には何故か、くるぶしくらいの高さに数本の鉄棒が渡してある。歩くには邪魔なので、ハントとダンチェッカーはそれを跨ぐようにして乗り込んだ。
そんな彼らの様子を見てアルバーツが言った。
「棒の下につま先を差し込んでください」
「え? 何ですって?」
戸惑うハントとダンチェッカー。
するとアルバーツが説明した。
「重力が弱いので、油断すると身体が浮き上がってしまうんですよ。だから棒に足を引っ掛けておくんです」
「なるほど」
言われたとおりにつま先を鉄棒の下に差し込む。さらに壁に取り付けてある手すりをしっかり掴む。
「よろしいですか? では降ります」
アルバーツがボタンを操作すると、エレベーターはガクンと振動して急速におり始めた。
「おおっと!」
途端にダンチェッカーがよろけ、手すりにしがみついた。
月面の弱い重力に慣れてない身であっても、エレベーターの加速は物凄いように感じられ、身体が浮き上がりそうな感覚に襲われる。しかし実際には地球上のエレベーターよりも遅いくらいなのだった。
彼らは1分ほどで地下 100m に辿り着いた。
「こいつは驚いた。本当にウェストミンスター宮殿みたいだな」
「有り得ない…… 自分の目で見るまで信じられないとは思っていたが……」
ヘルメットの中であんぐりと口を開けるハントとダンチェッカー。
日光も地球光も射さない地下なので、彼らはサンヴァイザーを収納しており、互いの顔が見える状態にある。天才的な2人の科学者は揃って間抜け面を晒した状態で、ライトに照らし出された謎の遺跡を見ていた。
そう、遺跡である。
月面の地下 100m に古代遺跡が埋まっていたのだ。しかもそれは人間の手による建築物だと思われた。ちょうど中世の宮殿のような、見事な大理石の建造物が埋まっていたのである。
周囲には大勢の作業員たちが土を掘り返し、遺跡の発掘を行っているが、地面を伝わる振動以外には音は何もしない。
作業員たちの使っている無線チャンネルはハントたちとは別であり、彼らが5メートル以内に近づかない限り声は聞こえないのだ。
「いったい誰がこんなものを作ったんだ……?」
ハントが呟くと、無線機越しにアルバーツが同意した。
「まったくです。これだったら空飛ぶ円盤が埋まってた方がよっぽどマシです」
最初にの遺跡を発見した掘削隊は、これをロシアの古い軍事基地だと予想していた。
しかしロシアはそれを否定し、むしろ積極的に発掘に協力すると言ってきた。そして実際に発掘してみると、軍事基地どころか古代遺跡のような、巨大な建築物だったのである。
建物の外観には見事な装飾が施され、あちこちに人物像の残骸も散乱している。地下に埋まっていたとは言え、もともとは地上にあったことは間違いない。
この謎の遺跡は何かの理由で大量の土砂の下に埋まったのである。
「建物の大きさはまだ分かっていません」
アルバーツは説明した。
「超音波探査によれば、この向こう側に更に大きな建築物があるようです。いずれそっちも発掘する事になるでしょう」
「いや参った」
早々に降参するハントに対し、ダンチェッカーはまだ目前の情景を受け入れようとはしなかった。
彼はアルバーツを振り返って言った。
「本当にここは月面なんでしょうな? 実はハリウッドの仕掛けた悪戯かと疑いたくなってしまいますよ?」
「そうだったら良かったんですが、さすがのハリウッドも重力までは操れませんよ」
アルバーツは同情するようにヘルメットの中で頷きながら答えた。
アルバーツは2人を死体のある場所へと案内した。
崩れた古代遺跡の中の、壁や天井を鉄骨で支えられた狭い空間の中に、問題の死体はあった。
ハントとダンチェッカーは慣れない低重力の中、他の作業員たちの邪魔にならないように、こそこそと動き回るようにして死体と対面した。
「下手に触るべきではないと判断しまして、専門家の方に検分して頂くまで発見時のままにしてあります。いちおう立体写真を撮るだけは撮りましたが」
空間の中にあるとは言え、そこには崩れた石材や土砂が大量にあり、白骨化した死体は半ばそれらの土砂に埋もれている。
それらを掘り返さなければ全体像は分からないが、下手に掘り返せば重要な手がかりを自ら破壊しかねない。月面に考古学の専門家がいる訳がないので、アルバーツの判断は正しかったと言えるだろう。
「これもまた自分の目で見ても信じられませんな」
死体を見るなりダンチェッカーは言った。
ルイズの場合と異なり、死体は激しく損傷していて骨しか残っていなかった。凄まじい火災にでも遭ったのか、身体も衣服も完全に炭化している。
僅かに金属片などが散見されることから、ルイズと同じように何らかの私物を所有していた事が分かるが、いずれも原形をとどめていない。もちろんルイズの場合と同様に、宇宙服もそれらしき残骸も全くなかった。
しかし今回の死体で興味深いのは、死体が人間だけでは無かったことである。
ダンチェッカーは人間の死体そっちのけで、その動物の死体を見つめていた。
その動物は巨大で、人間の死体にのしかかるように横たわっている。骨しか残っていないという点では人間の死体と同様である。
「どうでしょう教授?」
アルバーツは困惑したようにダンチェッカーに尋ねた。
「生物学は専門では無いので分からないんですが、私にはこれが恐竜の骨のように思えるんです」