――――ただいま、キリト君。―――――
耳に届いた声が幻聴ではないのかと思った。
目に映る少女の姿は幻覚なのではないのかと思った。
まだ自分が都合のいい夢を見ているのではないかと思った。
彼の目の前にいる少女―――アスナ。
彼女の笑顔がキリトの目に映るたびに、かつての穏やかな時間の思い出があふれ出る。
一度目のこのSAOの世界での、出会ってから記憶が。
意見の食い違いで対立したことも、衝突したこともあった。
協力したこともあった。パーティーを組んだこともあった。
いつしか、彼女を好きになっていた。彼女の隣にいるだけで幸せだった。彼女と一緒にいた時間は、今まで生きてきた中で、それこそ十六年と言う時間、この仮想世界ではない、現実世界の時間とも合わせた中でも、最も満ち足りた、幸せになれた時間だった。
でもそれはあっさりと崩れ去った。
失った。
もう一度再会し……そして絶望した。
二度とその名前で呼んでもらえないはずだった。
二度と彼女の、自分に向けてくれる優しい笑顔を見ることができないと思っていた。
二度と一緒に生きることができないと思っていた。
なんで……
どうして……
今、キリトは自分がどんな顔をしているのかわからなかった。
驚愕、困惑、疑問、さまざまな感情が入りまじり、到底冷静な状態にはなかった。
目の前に立つアスナが本当に自分の知る彼女なのか、それともいまだに都合のいい夢の続きなのか、それすらも判断できなかった。
何かを言おうにも言葉も出ない。
そんなキリトの姿にアスナも苦笑する。
アスナは思い出す。あの日、すべてを思い出した日の事を……。
第二十二層で、アスナはその少女と出会った。否、再会したと言った方が正しいだろう。
かつて、この場所で最愛の人とともに出会い、三日と言う短い時間だったが、家族として共に過ごした少女。
ユイ。
その正式名称はYui-MHCP001
このゲームにおいてメンタルヘルス・カウンセリングプログラムと呼ばれる存在。
精神状態に問題を抱えるプレイヤーのケアを目的として作り出された存在である。
かつて、キリトとアスナの前に姿を現れ、二人の娘になった少女。
そして二人を守るために能力を振るい、この世界の管理システムに抹消されてしまった少女。
それでも何とかキリトがユイが保有していたGM権限を使い、ぎりぎりで完全消滅を免れた。
しかしもう二度と、このSAOの世界では出会うことがない筈だった。
「あなた……」
アスナは必死に少女の事を思い出そうとする。
知っている。知っている! 自分は彼女を知っている!
でも思い出せない。とても大切なことのはずなのに。自分にとって、彼にとって、何物にも代えられない子のはずなのに。
「……えっ、彼って」
自分の脳裏に浮かんだ少年の姿。黒い服を身に纏い、剣を振るう一人の少年。
アスナの脳裏に次々に情景が浮かんでくる。
彼の姿が、彼との会話が、彼と歩んだ時間が……。
それでもまだ駄目だった。何かが足りない。もうあと少し、ほんのあと少しですべてを思い出すと言うのに。
そんな時、不意にユイがアスナの体に触れる。
「えっ?」
「大丈夫だよ、ママ」
ギュッと、かつて自分がアスナからしてもらったように、最後の別れの時、彼女の体に抱きしめられていたように、ユイは自分よりも大きなアスナの体を抱きしめる。
「あっ……」
フラッシュバックする記憶。思い出していく。自分の記憶を。覚えている。彼の事を。この世界で好きになった大切な人の事を。生まれて初めて好きになり、愛し、ずっと一緒にいたいと願った最愛の人の事を。
彼の笑った顔が、困った顔が、寝顔が……。
生きていると、実感したあの時間が思い出される。そして目の前のこの少女の事も思い出した。
「ユイ、ちゃん?」
アスナは自分を抱きしめる少女の名前を口にする。
「うん、うん。そうだよ、ママ」
「ユイちゃん……」
彼女の事を認識したアスナは、両目に大粒の涙を浮かべる。彼女もまたユイを抱きしめ返す。
「うん、うん、ママっ……!」
「ユイちゃん!」
お互いに涙を流し、再会を喜ぶ。ひとしきり涙したところで、アスナはゆっくりとユイを抱きしめた腕を放すと、彼女と同じ目線まで腰をかがめ、今の自分の状況を確認しようとする。
「私、ユイちゃんとまた会えてうれしい。でもどうして……」
ユイはあの時、消えたはずだ。それに自分もあの時、キリトを守って死んだはず……。
「キリト君! そうだ、キリト君は!?」
すべてを思い出したアスナは最愛の人の名前を口にする。
「落ち着いて、ママ。パパは今、もっと上の階層にいるの……」
「教えて、ユイちゃん! キリト君が今どこにいるのか!?」
必死なアスナにユイはどこか悲しそうな表情を浮かべる。
「ユイちゃん?」
「ダメです、ママ。今すぐには無理なんです……」
ユイは自分がわかっている範囲でアスナに説明を試みる。
「パパは今、カーディナルに監視されています」
その言葉にアスナはハッとなった。
「なぜこの世界に私やパパやママが記憶を持ってさかのぼったのか、それは私にもわかりません。メンタルチェックでも、ほかのプレイヤーにママやパパと同じような精神状態の人はいませんでした」
ユイは語る。彼女はペンダントの形でアスナとともにあったが、開始から一か月あたりで覚醒したそうだ。
「それから私はこの世界の情報を、カーディナルに見つからないように集めました。ただこの状態では何もできないうえに、下手をするとすぐにカーディナルに探知され消去される可能性があったので、この世界の私と同期することで、それを回避しました」
この時はまだこの世界のユイは壊れていなかった自分に、自分自身を上書きすることで問題点を解消した。
そしてすぐさま、カーディナルに異物として存在を抹消されない範囲で、彼女は情報を集めた。
「パパの事もずっと見てました。でも……会いに行くことはできませんでした」
キリトはその異常性ゆえにカーディナルが常に監視を行い、それを茅場晶彦も見ていた。
また今までカーディナルが、たった一人のプレイヤーを監視するなどと言う事態などありえなかった。
何らかの不正行為を働いていないか、何らかの不正アクセスをしていないかどうか。カーディナルは、そしてGMは調べていたのだ。
「カーディナルを通して、誰かがパパの情報を見ていると言うのを知りました。だから私は……」
泣きそうになりながら、ユイは語る。
できればすぐにでもキリトの下に行きたかった。しかしそれはできなかった。監視されていたのと、カーディナルの命令があり、今の状況では動くに動けなかった。
ユイを味方にして、この世界の情報を回覧している。そう判断され、キリトが排除されてもおかしくはない。
「幸い、パパは一切の不正行為を行っていないので、監視状態で留まっています。それにカーディナルでも私を通して感情を詳細に感知することはできても、記憶や思考までは知ることはできません」
キリトはソロであるために、自分が二度目にこの世界を経験することを誰にも話していない。言ったところで信じてもらえないと言うのもあるだろう。
「だからパパは無事です。でも……」
ユイは今、キリトがどんな精神状態なのか知っている。
以前のキリトの精神状態を知っているがゆえに、壊れていくようなキリトの心を知るたびに、苦しく、悲しく、つらくなっていった。
早くパパを助けてあげたい。でも自分が行けば、間違いなくパパは大変な目に合う。
監視された状況下で自分が赴けば、どうなるかは想像に難くない。
かつてと同じ矛盾した状況。そこに感情と言う不確かな、曖昧なものが絡む。
ユイのシステムはエラーを起こした。しかしそれもすぐにカーディナルに修復される。だがその一瞬の隙を突き、ユイはカーディナルから自身に関するプログラムの一部を書き換えることに成功した。何とか実体化することに成功したのだ。
「キリト君……」
アスナも心がつぶされそうだった。キリトは今、一人で頑張っている。たった一人、かつて以上にビーターと言う誹りを受けながらも、このゲームを攻略するために。
不意にアスナはあの第一層で再会した時のキリトの姿が脳裏に浮かんだ。
瞬間、アスナは自分の顔が青ざめていくのを感じた。
あの時、キリトは何と言った。
『おぼえて、ない、のか……』
「どうしよう、私のせいだ……」
「ママ?」
「私が、キリト君にあんなこと言ったから……」
『知らない』
自分はキリトにそう言ったのだ。キリトは覚えていた。覚えていてくれた、自分の事を。
でも自分は忘れていた。それがキリトをどれだけ傷つけたことか、想像に難くない。
もし自分が逆の立場だったら多分、自分は生きていけない。
アスナは両膝を付き、涙を流した。
「キリト君、ごめん、ごめんね、私……」
ここにはいないキリトに謝罪するアスナ。自分ではどうしたらいいのかわからなくなってしまった。
心の中ではキリトに会いたいと願っている。今すぐに彼に会いたい。彼に触れたい。彼と話をしたい。
でもそんな資格が自分にあるのか。アスナは思う。
きっと彼を傷つけた。ひどいことをした。
キリトを守ると言ったのに、ずっと一緒にいると誓ったのに……。
だがそんなアスナをユイはそっと抱きしめた。
「大丈夫だよ、ママ。パパはずっとママの事を思ってくれてる」
「ユイちゃん?」
「パパはママのために頑張ってる」
キリトの心の中で、復讐やこのゲームのクリアと言ったものの先には、アスナに対する深い思いがあった。
アスナのために、彼女だけでもと。その想いは暖かいものだった。キリトは今でもアスナを想っている。
それをユイの口から聞くと、さらにアスナは涙を流した。どれくらい涙を流していたのだろう。もし現実なら、アスナは目を赤々と腫れ上がらせていただろう。
「ユイちゃん。私、決めた。キリト君に会いに行く。それで謝ろうと思う」
忘れていてごめんなさいと、先に死んでしまってごめんなさい。なんだか謝ることばかりだなとアスナは思った、
「うん。でも今のママじゃ、パパのいるところに行けないんです」
「……レベルの問題ね」
真剣な表情になるアスナに、ユイもコクリと頷く。今のキリトは前以上にトッププレイヤーと言うよりも、プレイヤーの中で最強なのだ。レベルも技能も、こと戦闘に関して言えばあのヒースクリフでも現在のレベルでは神聖剣を使わなければ勝てないほどに圧倒的に高いのだ。
その彼がいるのは、最前線も最前線。常に迷宮区にもぐり、誰よりも強くなろうとしている。
そこに今のアスナが足を踏み入れるなど自殺行為以外の何物でもない。キリトと会う前に、彼女は死んでしまうだろう。
それでは意味がないし、キリトの生きる目的や希望を完全に絶ってしまう。下手をすれば今以上に自暴自棄になりかねないと、ユイは指摘した。
「わかってるよ、ユイちゃん。私は、もう死なない。死ねないもんね」
キリトのためにも、死ぬわけにはいかない。と言うよりも、彼に会う前に死んでたまるものか。謝らなければならないことが山ほどあるのだ。
いや、と言うよりも彼に会いたい。それはもう、ものすごく。できることならば本当に今すぐにでも。
「じゃあ早くレベルアップをしないと」
「それとカーディナルもいつまでもパパを監視はしていないみたいです。少しずつパパの監視は緩くなると思います」
カーディナル経由で得た情報では、メンタル情報の提示はあとひと月程度で終了となっていた。
おそらくはカーディナルを扱うGMがそのように命令を出したのだろう。
これは茅場晶彦が常に彼の行動を知っていては、面白味がないと判断したためだ。
キリトが不正をしていないと言うのならば、こちらも常日頃の監視を行って情報を得ているのは公平ではないと言う彼の理念によるものだった。
「そっか。あとひと月か……。ちょっと長いな」
あとひと月。確かにレベル上げを行うのならば、熟練度を上げるのなら、それくらいの時間は必要になる。それでもおそらくキリトとの差を縮めることは難しいだろう。
「もちろんその時はユイちゃんも……」
一緒に行こうと言ったアスナだったが、ユイは首を横に振った。
「ごめんなさい、ママ。私は一緒に行けないんです」
その言葉にアスナは驚愕の表情を浮かべる。
「もし私がママと一緒にパパのところに行ったら、それだけでカーディナルの削除対象にされかねないんです。それにまた、パパやママに監視が付く可能性も……」
「ユイちゃん……」
「私もパパやママと一緒にいたい! でも! でもっ!」
そのせいで自分だけではなく、二人を窮地に立たしかねない。いくらカーディナルの監視の目が離れられても、また同じようになっては意味がない。だから……。
「ごめんなさい、ママ」
「ううん。いいの、いいんだよ、ユイちゃん」
そっとアスナはユイを抱きしめる。
「私の方こそ、ごめんね。ユイちゃんもキリト君に会いたいのに、私が無理ばっかり言って……」
「ママ、私は気にしてません。それよりもパパを……」
「うん、わかってる。キリト君は絶対に私が守るから。でもいつか、また三人で一緒に暮らそうね。あの二十二層の家で」
「はい! 楽しみにしてます!」
ユイはそのままアスナにクリスタルを預かってほしいと言うと、プレイヤー達のメンタルデータのモニタリングを続けると。そこで二人の優しい気持ちに触れていると。
聞けば今回はキリトの活躍のおかげで、前よりもプレイヤー達の恐怖や絶望と言った感情が少ないらしい。
だがそれに反してキリト一人に向けられる負の感情が多くなっているのは、ユイとしては不本意どころか怒りすら覚えることだった。
もともと負の感情に慣れていないユイだが、大好きなパパであるキリトをそんな風に思われるのは我慢ならない。
だから、何としてもユイはキリトの手助けをしたかった。キリトの心を助けたかった。
そのためにもアスナには何が何でも記憶を取り戻してもらいたかった。
もともとアスナにもキリトと同じで記憶があることはメンタルパターンから推測で来ていた。あとはきっかけだけ。
そしてようやく、キリトを助けることができる。
「じゃあ行ってくるね、ユイちゃん。見てて、すぐにキリト君を助けるから」
こうして再びアスナは己の力を高めるために努力を重ねた。
かつてと同じように、否、それ以上に。
だがそれは以前のような脅迫概念からではない。
ただ愛する人の下へ行きたいから。愛する人を助けたいから。愛する人に謝りたいから。
だから……。
「待っててね、キリト君!」
こうして、閃光のアスナが再びこの世界に生まれることになる。
ちなみに、いきなり豹変とはいかないが、レベル上げに執着し、ものすごい速さで強くなっていくアスナに対して周りからは『バーサークフェンサー』などとあまりありがたくない名前で呼ばれ、それはやめて欲しいと懇願したとか。
そしてようやく、この日がやってきた。
キリトの居場所はユイが教えてくれた。カーディナルの監視も弱まった。
茅場晶彦ことヒースクリフは前線で活躍しだしたこともその原因だろう。
ヒースクリフはキリトが次に自分と会うとき、どんな風に現れるのか、どれだけの力を得てくるのか、またはユニークスキルを手に入れるのか、それを楽しみにしていた。
だからこそ、監視を一時中断した。知らない、未知と言うなの想定外の事態を待ち望んでいるかのように。
アスナは走った。ようやく、ようやく会える。キリトのいる場所は最前線よりも一つ下の迷宮区。まだマッピングされていない場所の、安全エリア。
それでもモンスターのレベルは高い。アスナは一人でそこに向かう。途中、何度もモンスターに遭遇した。時には危うい場面もあった。
アスナは思う。キリトはいつもこんな状況を一人で乗り越えてきたのかと。前回も、そして今回も。それに今回はキリトが血路を開き、攻略をしてきたようなものだ。
第二十五層以降は、各ギルドがその主導権を握ったが、そこまではキリトの尽力が大きい。
それをアスナは凄いと思った。キリトは一人で今も頑張っている。何とか彼を支えたい。アスナは心の底から思った。
そしてアスナはキリトと再会した。ただいまと、彼に向かい言った。
キリトはいまだに混乱しているのか、何とも言えない顔をしている。その姿を見ると、アスナは思わず少し笑ってしまった。
だがすぐにキリトに会えたうれしさが込みあがってくる。知らず知らずのうちに涙が出てくる。
「ようやく、ようやく会えたよ、キリト君」
「……アスナ? 本当に……あの、アスナ、なのか?」
「うん。キリト君を好きになったアスナだよ」
「そんな。でも、あの時は……」
キリトが言っているのはこの二度目のゲームがスタートした時の事だった。それを言われるとアスナも胸が痛んだ。自分は忘れていたのだ。あの二年間の事を、キリトの事を。
それがどれだけキリトの心を傷つけたか。
「ごめん、ごめんね、キリト君。あの時、私、忘れていたんだ。あの二年間の事、何もかも」
でも今は違うとアスナは言う。全部思い出したとアスナは言う。
ゆっくりとアスナはキリトに近づく。また二人で一緒に……。
「来ないでくれ!」
「えっ?」
顔をうつむかせ、キリトは声を張り上げた。
「キリト君?」
どうしてとアスナは言おうとした。でも言えなかった。ああ、やっぱり怒っているのだ。勝手に死んで、忘れていたことが許せなかったんだ。
「……そう、だよね。私、キリト君の事忘れてたもんね。キリト君は覚えていてくれたのに。それに勝手に死んで……キリト君が怒っても無理、ないよね」
悲しそうな顔をするアスナ。でも仕方がない。彼には恨み言を言う資格が……。
「違う! そんなんじゃない! そうじゃないんだ、アスナ! 俺は……、俺はもう君と一緒にいる資格はないんだ!」
吐き捨てるようにキリトは言った。
「俺は、俺は君を守れなかった。あの時、俺はっ!」
キリトは感情を爆発させた。アスナに再会し、記憶を取り戻したと彼女が言った時、うれしかった。歓喜した。あのアスナが、自分の知るアスナが生きていた。自分と同じように戻ってきていた。
今すぐにでも駆け寄りたい。アスナも自分を求めてくれている。足を動かそうとして、だがその足を止めた。
今の自分を振り返る。ビーターと呼ばれ、多くのプレイヤーから疎まれている。そうなるように仕向けた。
その自分と一緒にいれば、彼女も同様の扱いを受けかねない。
それに怖かった。もしかしたら自分のせいでまた彼女を失ってしまうのではないか。また自分のせいで彼女が死んでしまったら……。
そして自分は逃げてしまうのではないか、と思った。
あの二十二層の記憶。あの時のように、何もかも忘れ、放り出し、攻略そのものを投げ出してしまうのではないか。
今の自分がひどく不安定なのは、キリトは自覚していた。アスナがいてくれれば、それでいい。彼女とともにこのゲームの攻略など目指さず、誰かが攻略してくれるのを待つ。
そんな愚かな考えが浮かんだのだ。
そうすればアスナは死ななくて済む。自分も彼女といられると。
だがそれはいつか破綻するもの。現実の肉体の限界。それは前の時間軸でもアスナと話し合った。おそらく十年も持たない。前は二年は持ったからその程度なら大丈夫だろうが、五年はわからない。
攻略組も確かに自分がいなくとも立派に攻略を進めている。ディアベルが生きていることも大きい。
しかしそれもいつまで順調に続くかわからない。
いつかは自分も攻略に戻らなければならない。
だが逃げてしまいたいと思ってしまった。アスナと一緒に……。
そんなこと許されないはずなのに……。
たぶん、アスナに触れてしまえば、もう彼女を放したくないと思ってしまう。彼女とともに静かに暮らしたいと思ってしまう。
きっと自分はこの状況から逃げてしまう。だから……。
「俺は、もう……君とは、一緒にはいられない。だから……ごめん」
顔をうつむかせながらキリトは拳を握り、声を絞り出す。言った後、アスナに背を向ける。涙がとめどなくあふれる。止めることができない。
苦しい。胸が締め付けられる。
「………キリト、君」
アスナもキリトに言葉に何を言っていいかわからない。一緒にいたい。ただそれだけなのに……。背を向けるキリトにアスナは手を伸ばそうとする。
しかしできない。自分が彼を追い詰めた。そう思っているアスナは、自分には彼の隣にいる資格はないと、キリトと同じように考えていた。
「………そっか。ごめんね、キリト君。キリト君の気持ちも考えずに、私一人舞い上がっちゃって………」
だからアスナも顔をうつむかせ、何とか言葉を選びながらキリトに言う。
「でも本当にキリト君が気にすることはないの。悪いのは全部私だから……」
だからごめんなさい。
そう言ってアスナは走り出した。その眼から大粒の涙を流しながら。
気配が遠ざかって行くのを感じながら、キリトはどさりと両膝を地面に着いた。
アスナに記憶が戻ったことをうれしいと思う気持ちと、そんな彼女を拒絶した悲しい気持ちが入りまじり、キリトは嗚咽を漏らす。
これでよかったのだと、キリトは自分にいい聞かせる。これでよかったのだと……。
「これで、よかったんだ……」
だが涙は止まらない。苦しいと思う感情はなくならない。
「……アスナっ」
キリトは最愛の少女の名前をつぶやくのだった。
アスナは迷宮区の中を走っていた。
彼女もまた、涙を止めることができなかった。キリトに再会し、また一緒にいられると喜んだ。
でもそれはできなかった。
キリトは一人でいることを選んだ。
自分は前と同じように、彼の隣にいることはできない。
あの時、最後の瞬間まで一緒にいると約束してくれた時とは違う。
もうあの時には戻れないのだと、アスナは思った。それを理解した時、アスナの心は悲しみに支配された。
ユイと約束したのに。今彼女はどんな気持ちなのだろうか。
それとも強引に、キリトの所に残るべきだったのだろうか。
わからない。どうしたらよかったのか、どうすればいいのか……。
「キリト君、ユイちゃん……私、私どうしたら……」
立ち止まり、アスナは涙を何度もぬぐう。決して止まることのない涙を……。
しかし彼女は忘れていた。ここが迷宮区の一角であり、決して油断していい場所などではないことを。
そしてそれは彼女に襲いかかった……。