「秘密が持ちたい?」
「はい、ママにも僕の頭の中が分からないようにして欲しいんです」
寧々がそんなある意味変わった、ある意味当然の申し出をしてきたのは、海旅行から帰ってきてからすぐの臨時調整の時だった。普段は寧々の検査・調整は週一で行われるが、まだ寧々は海に入った事が無かったので、それによる異常が無いかの臨時チェックが行われていた。
その席での娘の願いに、北斗は最初は驚いたようだったが良く考えてみれば尤もな事であると納得もした。
寧々の記憶は「何月」「夢」「記念」「お気に入り」など電子頭脳の中でいくつかのフォルダに分けられて保存されており、何らかの原因による記憶の消失を避ける為に定期検診ではバックアップを取る作業も北斗は常に行っている。
……と、いう事は彼女には寧々の記憶が覗き放題だという事なのだ。
勿論実際に見た事は一度としてないが、それは例えるならば年頃の少女の部屋に無断で侵入して、引き出しの一つ一つからベッドと家具の隙間まで虱潰しに見る事が出来るようなもの。いくら母親といえどもやり過ぎである。
寧々はロボだが精神的には普通の女の子と変わらないから嫌がるのも当たり前だろうと北斗は納得した。むしろ今まで何も言ってこなかったのが不思議なぐらいだ。
「いや……それだけお前が成長してきた、という事なのかな?」
少しだけ首を傾げて、楽しそうに北斗が言う。いや、実際良い気分だ。こうして娘の成長が実感できるというのは。
ちょっと待ってろと言うと、彼女の指は残像が見えるほどのスピードでキーボードの上を走り始め、そのプログラムを編み上げるのに十分と掛からなかった。
出来上がったプログラムをチップにコピーすると「これをインストールしろ」と寧々に渡す。娘は頷くとまるで錠剤を飲むかのようにチップを口に入れて、そのままがりりと噛み砕いて飲み込んでしまった。
「これでインストールは完了。お前の記憶(メモリ)は例え整備中に、私であっても、お前本人に無断で見る事は不可能になった」
「ありがとう、ママ」
我が儘をすぐに聞き届けてくれた母親に、娘はぺこりと頭を下げる。
「しかし、急な話だったな。別に不自然な話ではないが、いきなりこんな事を言い出してくるなんて」
北斗にしてみればふと漏らしただけの一言だったが、これは何気に核心を突いたコメントだったらしい。寧々の体がびくりと跳ねた。作りの親はその反応を読み取っていたが、敢えて無視した。
そんな母の気遣いに寧々は気付かずに、頭の中のその記憶を電脳の中の更に深い階層へと仕舞い込んだ。
海の家に泊まったあの日、寧々は部屋から出て行ってしまったイカロスとニンフの姿を捜して、夜の海へと繰り出した。
捜し人の内、イカロスの方はすぐに見付かった。浜辺で智樹と一緒にいて、昼間はずっと小さくしていた羽を大きく広げていた。
最初は二人で何をやっているのかとも思ったが、一緒にいる智樹の優しげな表情から察するに昼間は小さくしっぱなしで窮屈だった翼を広げさせてやって、文字通り羽を伸ばさせてやっているのだろう。
それだけならば何も気に留めなかったのだが……人間より少しばかり鋭敏な寧々の聴覚センサーは、その声を捉えていた。
「……ちょっと、放してっ!! 放してよっ!!」
ニンフの声だ。聞こえてくるのは……少し離れた所にある岩場から。
寧々がそちらに注意を向けた時、やっと智樹の耳にもその声が届いたらしい。ばたばたと走っていく。それを見てイカロスも後に続き、更にその後を寧々が追っていった。
「なんだよ、折角親切に声かけてやってんのによ」
岩場では、ニンフが数名の男達に囲まれている所だった。
「子供が一人、こんな所でふらふらしてるから声掛けたのに……」
男達の言葉から、こちらも大体の事情は推理できた。多分、夜の海を散歩していたニンフがそれを心配していた男達に声を掛けられて、そこは口の悪い彼女である。何か毒舌でも吐いて、それで揉め事になったに違いない。
「仕方ないな……」
仲裁しようと近付いていく寧々だったが、智樹の方が早かった。
「すいません、こいつ口が悪くって……ほら、行くぞ」
適当に誤魔化してニンフの手を取るとそのまま彼女を連れてこの場を離脱、後は有耶無耶にしてしまおうという魂胆だったらしいが、物事そこまで彼の思い通りには進まなかった。
「話はまだ終わってない」と男達の一人が智樹の手をぐいっと引っ張り、更にそこに間が悪くしかも空気の読めない事に、
「ほっといてよ!! 地蟲のくせに近付かないで!!」
ニンフがそう口にしたものだからもう男達の方も引っ込みが付かなくなって、
「何だと!! 何で俺達が虫なんだよ!!」
事態は泥沼化一直線であった。
寧々はそれを見て「これは今度こそ僕の出番」と仲裁に出ようとして、その時だった。
「マスターに、何をしているのですか」
それまでずっと智樹の背後に控えていたイカロスが、彼の腕を引っ張っている男の手をぐいっと取ると、すごい力で捻りあげていた。見た目の細い腕からは信じられないような怪力に男は悲鳴を上げているが、彼女は意に介していないようだった。
「私のマスターに……何をしているのかと、聞いているんです……!!」
最初の徴候は、小さくなっていた翼が再び大きく広がった事だった。
次に、その翼が羽毛のような見た目の質感から物凄いエネルギーを注がれたように、虹色の光を纏って輝きだした。
「お、おいイカロス?」
智樹にとっても今のイカロスは見た事の無いものらしい。彼の表情は驚きに彩られている。対してニンフの方は最初こそ少しだけ呆けたような表情を見せていたが、すぐに平静を取り戻していた。
そして最後に、イカロスを中心に竜巻が起こったかと錯覚するような凄まじい衝撃が走り、この場の全員の肌を風圧が叩いた。
「な、何だ!?」
「お、おい!!」
これには男達も驚く以外に選択肢を持たず、視線を彷徨わせて右往左往している。智樹もあまりに驚きが強かったのか動きを止めてしまっていた。
そうこうしている間にイカロスから走る衝撃はどんどん強くなり、ついに彼女達の周囲の巨大な岩石までもが木っ端微塵、砂状になって吹っ飛んだ。
「いけない……!!」
呆気に取られていたのは寧々も同じだったが、流石に静観して良い事態ではないと悟った。慌てて走り出して、後ろからほとんど羽交い締めにするようにしてイカロスに抱き付いた。
「ちょっと、イカロスさん!! 良く分からないけどとにかく落ち着いて……」
彼女が抱き付くと同時にイカロスの発する力の奔流は止まったが、事態の根本的解決はまだのようだった。こちらを振り返ったイカロスと目が合って、ゾッとした。
いつもは碧玉のような彼女の瞳は今は血のように紅く、無感情ではあるが何処か優しかった光も消えて、ただのガラス玉のようになっていた。
「……イカロス……さん、です、よね……?」
寧々がそう尋ねてしまったのも無理は無かった。それほどまでに今のイカロスから受ける印象は普段の彼女からはかけ離れていた。
男達は命からがら蜘蛛の子を散らすように逃げてしまったが、彼女が元に戻る気配は無い。
「ど、どうしよう……?」
困惑していたが、そこで智樹が動いてくれた。
「やめろぉっ!!」
彼の、その叫びが届いたのだろうか。イカロスがびくりと体を震わせて、瞳の色が元の緑色に再び変わる。同時に背中の翼も纏っていたエネルギーが霧散して、いつもと同じ羽毛のようなそれへと戻った。
「……大丈夫、ですよね……?」
恐る恐るではあったが寧々はイカロスから体を、続いて手を放す。ひょっとしたら自分の手が離れた瞬間にさっきの凄まじい力がまた吹き出すのではないかと内心びくびくしていた彼女だったが、どうやら杞憂だったらしい。接触しなくなって数秒が過ぎても、さっきの衝撃が襲ってくる事はなかった。
彼女が心中でほっと一息吐く。同じぐらいの時間で智樹も心を落ち着かせたらしい。さっきよりは穏やかだが、それでも普段の彼よりはずっと強く、大きな声で言った。
「お前……!! そんなんじゃないだろ!!」
その言葉をイカロスがどう受け止めたのか。いつも通り感情の起伏に乏しい彼女の顔からは窺い知る事は出来なかった。
寧々はこの時、本当は今自分は布団の中にいて、これはその時に見ている夢なのではないかと真剣に疑っていた。
だからその時傍にいたニンフに、今のは何だと尋ねる事もしなかった。
「……ひょっとして海に旅行に行った時に、何かあったのか?」
北斗は先程の娘の反応を見ていて、尋ねた。
彼女自身それで答えが返ってくる事はあまり期待していなかった。ただ、もし自分に教えた方が良いと思っているような事なら寧々は話してくれると、娘を信じていたからそう聞いてみたのだ。
「……ううん、何も」
寧々は嘘を吐いた。
あの日のイカロスは何か、言葉でどのようなものだと表現するのは難しいがとにかく尋常ではなかった。本当ならママに相談するのが良かったのかも知れない。
そう彼女の電子頭脳は判断していたが、同時に何か、言ってはいけないような気がしていた。あの時、自分は何か見てはいけないものを見てしまったような……禁忌に触れてしまったかのではないかと。それは恐れに近い感情であると、彼女の自己診断プログラムは告げていた。
何より一番イカロスに近しい智樹が他人に話していないのに自分がそれを誰かに語るのは……友達に対しての裏切りのように感じた。
不意に、帰りの電車の中での彼の言葉が寧々の中で蘇った。
『昨日はごめんな、イカロス……なんかお前が映画とかに出てくる人型の兵器みたいに思えてさ……そんなんは……なんか、イヤだなって、思ってさ……』