少年少女。
それも、大人になることを間近にした、モラトリアムな少年少女。
そのほとんどが夢中になるものがあります。
それは恋です。
それは貴族も平民も変わりありません。
魔法学院は、恋の話題であふれています。
やれ、誰が付き合った、誰が好きだ、誰かが誰をふった、誰と誰が別れた。
色々な噂や、事実が飛び交うのです。
どんなに恋愛に縁遠い人でも、いやむしろ、恋愛に縁遠い人程そういった噂の中心になりやすかったりするのです。
あの男嫌いの誰々がとうとう誰それと付き合ったとか、あの女に縁がなかった誰々に遂に恋人が出来たとか。
古今東西意外性のある話題は注目の的なのです。
しかしそんな中、テオに関する恋愛の話題だけは上がることはありません。
なぜならテオには足が無いからです。
ここ、ハルケギニアにおいて、身体的欠損は、大きな欠点として認識されます。
それこそ、恋愛対象から真っ先に除外されるほどです。
恋愛に関する噂や話題に、彼の名前が上がるという発想すら誰ももたなかったのです。
しかし、魔法学院の生徒の中で、そんな彼に注目する女性が一人だけ居ました。
キュルケ・アウグスタ・フレデリカ・フォン・アンハルツ・ツェルプストー。
美貌とプロポーションにより数々の男を魅了していますが、熱し易く冷め易い性格のため誰とも長続きはしない女性です。
彼女は魔法も座学も学園で一番の彼にたいして、結構な興味を持ち、そして彼に近づこうと思ったのです。
とはいえ、別にキュルケはテオに恋をしたと言うわけではありません。
というより。彼女は今までどんな男に対しても本気になったことはありませんでした。
いつもからかい半分に男を誘惑しては、つかの間の情熱を楽しむだけなのです。
ですから。
それもカラカイのつもりでした。
足が無いくせに偉そうなテオを少しばかり誘惑してやろうと思ったのです。
テオがどんな反応をして、どんな行動を取るのか。
それを楽しもうと思ったのでした。
◇◆◇◆
その日、テオは庭の隅で錬金をしていました。
錬金には材料が必要です。
勿論それは空気や水でも良いのですが、出来ることならば錬金する対象に近い素材である方が容易に錬金ができるのです。
ですので、テオは錬金をする際は庭に出て、そこらへんの土を使って錬金を行います。
「ええっと次は…はあ?タイタン銀のチェスセット?チェス盤使って人殺しでもするのか?」
「さあ、向こうの希望ですので私にはなんとも…」
「まあいい、ええと、鉄から4を引き、2,8,14,2を2,8,10,2」
ブツブツと何やらこむずかしいことを言いながらテオは土塊を金属のチェスの駒に変えていきます。
普段であれば、それは特に誰も気にすることの無い光景でした。
テオが庭で何やら錬金をするのはいつものことでしたし、そもそも、庭と言ってもかなり端の人目に付きにくい場所です。
しかし、その日は少しばかり違いました。
テオに話しかける人間がいたのです。
「ハアイ、テオ。ちょうしはどうかしら?」
陽気な声でキュルケがそう挨拶をしたのです。
そして。
その、挨拶に対してテオはこう答えました。
「…誰だお前は!」
突然の挨拶に、テオは驚いたらしく、少しばかり声を荒げてしまいました。
エンチラーダはテオをなだめるように言いました。
「ご主人様、同じクラスのキュルケ様でございます」
「…きゅう、りゅう、けえ?」
「ええ、キュ・ル・ケ様です。同じクラスですよ?覚えてないんですか?」
「吾、あまり他人に興味を持たない質だからなあ」
そのテオとエンチラーダのやりとりは少なからずキュルケのプライドを傷つけました。
彼女は自分が注目されていると言う自負があります。
男たちの視線を集め、男子生徒はすべからく自分を知っていると、そう思っていたのです。
ところが目の前の男は、同じクラスであるにもかかわらず、自分のことを知らないのです。
「ふむ、まあ、いいか、はじめましてキュルケ君」
「え…ええ、別に初めてではないんだけれども、というか、本当に私のこと知らないの?」
「???」
キュルケの事にテオは首を捻ります。
どうやら本当にキュルケのことを知らない様子でした。
「ま…まあいいわ、キュルケ・アウグスタ・フレデリカ・フォン・アンハルツ・ツェルプストーよ。キュルケって呼んで頂戴」
そう言って彼女はにこやかに自己紹介をします。
不愉快ではありましたが、キュルケは別にテオと言い争いをしに来たわけではありません。
出来るだけフレンドリーな対応を心がけていました。
「ふむ、吾はテオフラストゥス・フィリップス・アウレオー…オール…ボン…ボンバ…ボンバヘッ…」
「テオフラストゥス・フィリップス・アウレオールス・ボンバストゥス・フォン・ホーエンハイム様です」
「そう、それ!吾はそれだ。テオと呼んでくれたまへ」
その返答にキュルケは呆れ返りました。
テオは自分の名前を覚えていないのです。
確かに長ったらしい名前です。一々言うのが面倒になるのもわかります。
でもだからと言って、自分の名前を覚えないなんて、どう考えてもオカシイことでした。
しかし、キュルケはそれを笑うこともナジルこともしません。
今日の彼女の目的は、テオを笑うことではなく、テオを誘惑することだったのですから。
ですので彼女はその顔に微笑を浮かべたまま話を続けるのでした。
「よろしくねテオ」
キュルケはそう囁きます。
それはまるで普通の挨拶のようでしたが、計算された動きでした。
喋り方、見せる角度、仕草、表情。
その全てに到るまで、計算された、男を誘惑する動きでした。
そして大抵の男はただ会話のをしているうちに、キュルケに対して興味をもつのです。
しかし、テオの反応はあまり良くはありませんでした。
「ふむ、して、今日は何の要件だ?」
さも、当たり前のようにテオはそう答えます。
キュルケの仕草に戸惑う様子も、好色な視線を向ける様子もありません。
とはいえ、さすがのキュルケも、挨拶をしたその日のうちにテオを骨抜きに出来るとは思っていませんでした。
「あら、別に要件なんて無いわよ?それともクラスメートに挨拶することがそんなにいけないことかしら?…まあいいわ、次は私の名前覚えておいてね」
そう言って、彼女はそのままそそくさとその場を後にしました。
最初から図々しく話しかければ相手の印象が悪くなると思っていました。だから、あっさりと、少しつれない様子でその場を後にしたほうが、相手の印象に残りやすいことをキュルケは知っていたのです。
少しずつ。
少しずつテオを誘惑すれば良い。
むしろ、難解な砦を崩すほうが、やりがいがあるとすら、キュルケは思っていました。
そんなキュルケの思惑とは裏腹に、テオは突然現れて突然帰っていったキュルケに、戸惑い以外の何物も感じてはいませんでした。
「エンチラーダよ」
「はい」
「彼女…ええっと、キュルケだったか?キュルケとはどんな人間なのか知っているか?」
「ええ、キュルケ・アウグスタ・フレデリカ・フォン・アンハルツ・ツェルプストー。身長は171サント、スリーサイズはB94/W63/H95。趣味はジグソーパズルで特技はハープ。「火」の系統の魔法を得意とする優秀なトライアングルメイジで、本国ゲルマニアのヴィンドボナ魔法学校でトラブルを起こし中退、実家からある老公爵と無理矢理結婚させられるのを嫌って、トリステインに留学したと記憶しております」
「エンチラーダ」
「はい」
「正直お前の記憶力に恐怖を感じるぞ」
「ありがとうございます」
「・・・」
あんまりなエンチラーダの返答にさすがのテオも二の句が継げませんでした。
「しかしご主人様、クラスメイトに興味を示すのは初めてでございますが、何か彼女に気になる点でも?」
「気になる点か…無いでも無い…」
その言葉にエンチラーダは静かに動揺しました。
テオが他人に対して興味を持つなど、学院に入学して依頼初めての事だったのです。
しかしエンチラーダはその動揺を決してテオに悟らせないよう、必死に平静を装うのでした。
「…あの女、片目だけ頑なに隠しているが…アレは何だ、右目に何か秘密があるのか?」
「は?」
長年テオに連れ添っているエンチラーダですが、この回答は予想外でした。
確かにキュルケは片目を隠すような髪型をしています。
しかし、その事にまさかココまで主人が興味を示すとは思っても見ませんでした。
「怪光線が出るとか、死の線が見えるとか…………………おやじが住み着いていたりしてるとか」
「は?」
「そしてそのオヤジは夜な夜な『おいキュルケ!』とか言いながら色々なアドヴァイスをキュルケに対してしているんじゃなかろうか!そしてこの学園を中心にトンデモナイ痛快活劇が繰り広げられ…………」
「ご主人様!落ち着いてください!」
そう言ってエンチラーダはテオの肩をがしりとつかみます。
「すまん吾としたことが取り乱した」
「キュルケ女史のあの片目を隠すのは若いうちに有りがちな残念ファッションだと思われます」
「残念ファッションって…若いうちはカッコイイと思ってやっていたけれど、大人になってから思い出すとおもいっきり恥ずかしいというアレか?」
「ええ、キュルケ女史はおそらく片目を隠すことでモテと考えているようです」
「な…なんて残念なセンスなんだ」
「きっと大人になったときにとても後悔すると思われます」
「それは…あえて触れないほうが良いのか?」
「はい、若気の至りというのは、優しい気持ちで見守ってあげるのがマナーです」
「そうか、温かい目で見守ってやらなくてはな」
「ええ」
そして二人はキュルケの帰っていった方向に目を向けます。
温かい。慈しむような視線で。
◇◆◇◆
次の日。
「ハアイ、テオ。今日はいい天気ね」
この日も昨日のようにキュルケはテオに挨拶をしました。
勿論、昨日同様に挑発的な服装で、悩ましげな動きをしながらです。
テオはその挨拶に対して。
「やあキュルケ君、良い朝だねえ」
そう答えました。
しかし、その返答に。
キュルケは戸惑いました。
それは今までに見たことのない反応だったのです。
たしかに、普通の挨拶です。
しかし、大抵の男は、その普通の挨拶の中にも、それなりの下心が見え隠れします。
特に視線。
キュルケと会話する時。男の視線には好意や下心や或いはそれを悟らせまいとしてかえって不自然になるような、色めき立った何かが込められていました。
しかし目の前に居るテオの目線は好意とか、好色とかそういったものは含まれていませんでした。
かといって、昨日のような無関心のそれとも違いました。
その視線はなにやら慈しむような。そんな視線だったのです。
それもそのはず。
テオはキュルケの挑発的な服装も、悩ましげな動きにも、さして興味は示しませんでした。
むしろ滑稽にすら思えたのです。
片目を隠し、胸を強調、足強調、彼女のモテに対する飽くなき努力、全身で「モテタイねん」と言っているようで。
テオに取ってはその必死さが滑稽で滑稽で、笑わないようにするので精一杯でした。
そんなテオの心内を知らないキュルケですが、彼の視線に特に嫌悪感も不快感も無いことはなんとなくわかりました。
彼が自分に対してさしたる興味を持っていないことは残念ですが、それでもそういった男を振り向かせるのも恋の醍醐味であると思うキュルケは。
彼の意識を少しばかり自分に向けさせる手段に出ます。
即ち、男の注意を自分に向けるための文句を囁くのでした。
即座に相手に好意を伝えるのではなく。
それとなく、相手に、もしかして脈があるのかもと思わせるセリフ。
それを言うことで、自分に意識をもたせる第一歩が踏み出せる言葉。
「テオ、ちょっと聞いても良いかしら」
「なんだねキュルケ君」
そしてキュルケはその顔をテオの直ぐ目の前まで持って行き、テオの耳元で囁くように必殺の一言を囁きます。
「あなた、情熱はご存知?」
次の瞬間。
テオは爆発しました。
「ブハハハハハハハハハハハハハハハ!!!!」
それは壮絶な笑い声でした。
テオの人生においてそんなに声を荒らげて笑ったのは初めてでしたし、
キュルケの人生に置いてそんなに笑われたのも初めてでした。
「!?!?」
「ハハハ…クヒー、プヒー」
「ご主人様、さすがにそれは失礼です」
あまりの笑い方にエンチラーダが注意をしますが、テオの笑いは止まりません。
「スマン、分かっていても、ブハ!ハハはハハハ!!ブハ!ゲハハハハ!」
テオはもうおかしくておかしくてたまらなかったのです。
なにせ、ただでさえ滑稽に異性を意識している女性の口から「あなた、情熱はご存知?」なんて、如何にも気障ったらしい言葉が出てきたのです。
もし、彼が社交界に置いて幾らかの経験を積んでいたのならば、それらの格好も、行動も、然程変には感じなかったでしょう。
なにせ貴族の世界というのは芝居がかった言葉や、如何にも極端な服装が持て囃されるのですから。
しかしテオは普通の貴族ではありませんでした。
社交界の経験が殆ど無いテオは男を誘う服装にも、芝居がかったセリフにも左程慣れていませんでした。
如何にも出来の悪い芝居の真似をしているようで、もう、滑稽で仕方がなかったのです。
「あヒー、もうダメだ、もう許してくれアヒー」
許してくれアヒーと言われても、むしろ許して欲しいのはキュルケの方でした。
彼女はこの状況の異常さに置いてきぼりを食らっていました。
「申し訳ありませんツエルプトー様。ご主人様はなにやらツボに入ってしまいましたので、あまりお気になさらないでください」
「プスー、プスーお腹痛い」
「はいはい、では一旦お部屋戻りましょうねー」
そう言ってエンチラーダはテオを自室まで運んでいくのでした。
キュルケの人生において。
こんなにも腹立たしい敗北は初めてのことでした。
キュルケは戸惑いと困惑と怒りと屈辱の混じった視線を、
テオが消えていった方向に向けるのでした。
絶対に誘惑して見せると、その心内に闘志を燃やしながら。
◇◆◇◆
次の日。
キュルケが庭に来ると、そこにはテオしかいませんでした。
それはそう珍しいことでもありませんでした。
テオだって人間ですから、一人になりたい時も多いのでしょう。
しばしばエンチラーダを連れずに行動しているところを目撃されています。
まあ、どのような理由にせよ、テオが一人で居ることはキュルケにとって良いことでした。
なにせ、邪魔者なしにテオを誘惑できるのです。
「やあキュルケ君、昨日は悪かったな」
「ええ、せっかく私が意を決して聞いてみたのに、笑うなんて酷いわ」
拗ねたように、文句を言うキュルケ。
勿論、その拗ねた言い回しと態度も男の気を引くための計算され尽くした仕草でしたが、テオはその仕草を全く気にした様子はありませんでした。
「そうだな、吾は酷い人間なのだ。自覚もある。そして。まどろっこしいことは嫌いだ、だから、単刀直入に聞こう。何が目的で吾に近づいた?」
「どうしたの?」
突然のテオの言葉にキュルケは戸惑います。
未だかつて、このような言い回しを向けられたことはキュルケにはありませんでした。
「生憎と吾は足なしだ。そんな人間に興味をもつという事がおかしい。まあ、なかには足が無いという事実に対して興味をもつものもいるが、君は違うようだからな、何か裏があるように思ったのだ。」
「何でそう思うの?ただ、挨拶をしただけじゃない」
「吾が名前を間違えた時に、顔色を変えなかった」
「?」
それはことさら意味不明な言葉でした。
テオが名前を間違えた時。確かにキュルケは顔色を変えないようにしていました。
しかし、それがなぜ、キュルケに裏があるということになるのでしょう。
「君の身分が吾より低いならばわかる。そこで顔色を変えれば不敬に当たるからな。しかし君は違う。吾と同等。いや、足がある分、吾よりも自分が上だと思っている。そんな人間が、あの時に吾を馬鹿にもせずに笑顔を浮かべていた。つまりは吾に嫌われるべきでは無いと判断したのだろう。そういったたぐいの人間は、吾に何か願いがあって寄ってくる輩だ。何かを錬金してほしい、水の秘薬を作って欲しい、金を貸してほしい、何かを教えてほしい。まあ、なんか目的がある。まあそれ自体は構わん。対価を支払うならば錬金くらいするさ。ただ、まどろっこしいのは勘弁だ。吾はそういうのが嫌いなので」
なるほど、テオの言うことは最もでした。
テオは足がなく馬鹿にされる質です、さらに、自分が名前を覚えていないという如何にも愚かしい行動を取れば、まず間違いなく相手はテオのことを馬鹿にするでしょう。
もし、その素振りを見せないとすれば、それはテオに取り入ろうとする人間です。
そして、テオに取り入ろうとすると言うことは、即ち、テオに対して何かを求めている人間と言うことです。
ですが、別にキュルケはテオに取り入ろうとしていたわけではないので、そのテオの考察を否定します。
「あら、別に私は貴方になにか作って欲しいとか、お金を貸してほしいとか、何かを教えて欲しいとか思ったことはないわよ?」
「では、吾に何を求めているのだね」
「そうね…愛なんてどうかしら」
キュルケのその言葉は、結構な衝撃をテオに与えたようでした。
いつも余裕を持ってニヤニヤとした表情のテオの表情が、少し崩れたのです。
「それは、一種の冗談か、吾を馬鹿にする新しい手法か?」
「まさか、冗談で愛を語ることは無いわよ?」
キュルケがそう答えるとテオは少しばかり、何かを考える素振りを見せ、そしてこう答えました。
「…君は良い女だそれは認めるさ、だがな、所詮は良い女でしか無いのだよ」
「?」
キュルケはテオの言っている言葉の意味が全く理解できませんでした。
「言い方を変えてやろう…そこ居らの有象無象を引っ掛ける分には構わんが吾を誘惑するには実力不足だ小娘」
吐き捨てるようにテオは言いました。
それは明確な否定、拒否でした。
しかも、その理由が「実力不足」
これ以上無いほどにキュルケのプライドを傷つける言葉だったのです。
衝撃を受け、混乱するキュルケに対し、テオはさらに言葉を続けます。
「そもそも、だ。何も知らない小娘が愛を語るな」
キュルケはテオのその言葉にムッとして何か言い返そうとテオの方を見て、
そして驚きました。
テオの表情が怒りに溢れていたのです。
それはテオが稀に見せる不機嫌そうな表情ではありません。
明確な嫌悪感を出した、怒りの表情だったのです。
「愛だ?愛とは何か知りもしないくせに。愛を知らず、愛を理解せず、そんな幻想をよくも語れるものだ」
そう言ってテオはその場から音もなく部屋へと戻って行きました。
残されたキュルケはテオの不可解な反応に混乱するばかりで、
しばらくの間。その場から動くことが出来ずに居るのでした。
◇◆◇◆
次の日。
その日、キュルケの前にはテオは現れませんでした。
しかし、そのかわり、エンチラーダが一人で彼女の前に姿を表しました。
そしてエンチラーダはキュルケを見つけると、その頭を下げこう言いました。
「昨日はご主人様がご迷惑をおかけしたようで申し訳ございませんでした」
「別に怒ってないわよ、それに、別に貴方が謝る必要も無いでしょう?」
「いえ、必要ならばございます。私は、あなた様がああしてご主人様と一緒にいることに感謝をしているのです。差し出がましいことを言わせていただけるのならば、今後共ご主人様と仲良くしていただきたいと思っております」
「へえ、意外ね、貴方、私とテオがそういった関係になるのを嫌がると思ってたんだけど」
キュルケはそう言いました。
キュルケは今までに何度も恋を経験してきました。
その際に色々な人間の視線を見てきました。
ですので、キュルケはエンチラーダがテオに向ける視線が、タダのメイドが雇用者に対して向けるものでは無いことに気がついて居ました。
ですからテオに近づく自分をエンチラーダは心の中では疎ましく感じていると思っていました。
しかし、エンチラーダはそのキュルケの言葉に対して、数回首を横に振るとこう言いました。
「もし貴方がご主人様を篭絡出来るのならばそれはむしろ喜ばしいと思っております」
「貴方…嫉妬はしないの?」
「しませんよ。別に私はあのお方の恋人ではありません。そもそも私は、ご主人様に愛される事はありませんので」
「それは身分が原因かしら?」
身分。それはこの世界ではある意味で絶対の物です。
身分が違うとということはそれだけで種別が違うとされることすらあるのです。
犬が猫に恋をしないように。平民に対して全く恋愛感情を抱かない貴族と言うのも、別に珍しいものではありません。
キュルケはもしかしたら、テオもそのたぐいの人間ではないかと思ったのです。
「いいえ?それが全くないとは言いませんが、それとは別な理由が原因です」
そう言ってエンチラーダは小さくため息をつきます。
その顔はいつもと変わらず無表情でしたが、何処か悲しげにも見えました。
「ご主人様は人を愛さない方です」
「?確かに偏屈だけど…それは言いすぎじゃないの?それに、貴方とは結構仲が良さ気だけど?」
「ええ、好意は得られていると自負しています。しかし、あのお方は決して私を愛することはありません。というか、何者も愛しはしないのです」
「愛さない?」
それは、太陽が西から昇るというに等しいことでした。
愛なくして人は生きていけない。
キュルケはそう考えていました。
誰も愛せないなんて、そは足が無い以上に人間として欠落して居ます。
いえ、それはもはや人間とは言えません。
どんなに偏屈な人間でも、愛され、愛することはせずに居られないことなはずです。
しかし、エンチラーダは嘘偽りを言っているわけではありませんでした。
「何故ならば、誰一人としてあのお方に愛を捧げることはできませんでした、実の親も、兄弟も、メイドも使用人も。ですからあの方は今までに一度だって愛を得られなかったのです」
それは、とても悲しいことでしたが、不思議なことではありませんでした。
なぜなら身体障害は、身体を負っている当人やその先祖が罪を犯した結果であると考えられていたからです
私たちの世界では同情の対象となる身体障害者もトリステインでは同情されるどころか、からかいの的でしかないのです。
足が無いテオは、それだけで家名を落とす者です。
家族やそれに連なる者が彼に対して悪い感情を抱いたとしても不思議ではないのです。
「あの方は何かを好きになることはあります。しかし、それが愛になることはないのです。自分を愛さないこの世界をあのお方が愛することはないのです。しかし、その一方で、あのお方は誰よりも愛を欲していらっしゃいます。誰かに愛されたいと思い続けています。そして、誰かを愛したいと思っているのです」
「私ならば彼に愛を与えられると、そういうこと?」
「いえ、たとえ貴方でなくても、それこそココの他のメイドや平民、貴族、蛮族、亜人、誰でも構いません。あのお方を愛し、愛される存在が現れればそれ程に喜ばしいことはありません。」
「へえ」
それは一種の挑発でした。
出来るものならば自分の主人を篭絡してみせろ。
エンチラーダはそう言っているのです。
「ただ、あの方を愛するというのならば覚悟をしてください」
「覚悟?」
「覚悟のない愛は、あなた自身を不幸にしますので。」
之が、他の女であればその言葉を鼻で笑っていたでしょう。
覚悟。
そんなもの、どんな時でも持っているつもりでした。
そのために自分を磨き、自分に向けられる悪評も悪意も障害も全てねじ伏せる力と技術を身につけてきたのです。
自分は愛の為に生きている。
即ち、愛の為に命をかけるほどの覚悟が自分にはあるのだと、そう思っていました。
しかしエンチラーダの言葉には今まで聞いたどの言葉にもない、どす黒い信念のような物が渦巻いているのをキュルケは感じ取ってしまいました。
エンチラーダの忠告は、嫉妬ではなく、ほんとうに心のそこからそう思っている事実からくるものでした。
「何も知らない小娘が愛を語るな」
その言葉がキュルケの頭の中で反芻されました。
そしてその時になって初めてキュルケは理解したのです。
何故、テオがあんなにも憎々しげに自分を見たのか。
あんなにも不愉快そうに『愛』という言葉を言ったのか。
愛を無くし、
愛に絶望し、
愛を忘れた彼に取って。
軽い気持ちで語られる恋愛論が、如何に愚かしく腹立たしいものであったのか。
キュルケには測り知ることが出来ませんでした。
そして、自分がテオに対して抱いていた、からかい半分の愛が。
如何にテオに取って残酷なものであるのかを。
◇◆◇◆
次の日の朝。
「はあい、テオ」
「おはよう、キュルケ君」
「おはよう御座いますキュルケ様」
キュルケはテオに挨拶をしました。
今までのように軽い挨拶でした。
しかし、そこには一昨日までの悩ましげな動きも、官能的な口調もありはしませんでした。
キュルケは自分自身が本当の愛を知らない事実に気がついたのです。
少なくとも、彼に否定されないだけの本気の愛を、今まで自分の中で見つけたことがありませんでした。
中途半端な気持ちでテオを誘惑したところで、テオにまた馬鹿にされるのは目に見えています。
しかしキュルケはテオを諦めたわけではありません。
からかい半分の、軽い気持ちの愛をやめただけなのです。
改めてテオを誘惑してやると、彼を知り、彼を求め、彼に求められる。
そのために必要なことは甘いささやきでも、悩ましげな動きでもでは無いと言うことに、彼女は気がついたのです。
まず、彼を知ること。
よく知りもしない人間に対して、愛を唱えること事態がそもそも間違いなのです。
そして、まずは。
「オトモダチからで勘弁してあげる」
「は?」
「…」
何を言っているのか理解出来ないといった様子のテオの隣で。
キュルケは笑うのでした。
◆◆◆用語解説
・タイタン銀
タイタニウム、即ちチタンの事。
硬くて腐食や金属疲労にも強い。
確かにコレで作ったチェス盤ならば人を殺してもチェス盤には傷がつかないかもしれない。
・鉄から4を引き、2,8,14,2を2,8,10,2
鉄の陽子を4つ減らし、電子を2,8,14,2から2,8,10,2にすると、あら不思議、チタンの出来上がり。
同じ要領で水銀を金に変える事もできる。
つまり陽子やら中性子やらの数を変えてやれば良いのだ。
実はこれ、現代科学でも真面目に研究されていたりする。
水銀にガンマ線を当てて、金を作ることは理論上可能らしい。
ただ、それを作るコストは出来上がる金の価値を軽く凌駕しているらしいが。
・…オール…ボン…ボンバ…ボンバヘッ
ボンバヘッ!
今なお中毒者を出し続ける最強のヒップホップ。
ボンバヘッ!(オトーサーン!)
・オヤジは夜な夜な
普段は小さいカップのお湯に浸かっている、目玉の妖怪。
キュルケの父親が体の溶けてしまう病気に掛かった末に目玉だけが残り、それが妖怪化したもの…という設定。
・残念ファッション
中学生くらいから始まり成人してからも続く場合がある。
基本的にモテると思って着た結果、空回りというパターンが多い。
ペーズリー、バンダナ、レザーコート、ブーツ、下着チラ見せ、大きめのヘッドフォン、シルバーアクセサリー、背伸びしたスマートフォン、鍋をかぶる等、条件は多岐に存在する。
まあ中二病の延長にある服装だと思えばわかりやすい。
普通に考えたら片目を隠すファッションとか、もう凄い中二病である。
・音もなく部屋へと
テオは魔法が使えるので車椅子ごとフライやレビテーションで移動している。実は魔法のおかげでかなり自由に動け回れたりする。
・誰も愛さない
愛ゆえに人は苦しまねばならぬ!!
愛ゆえに人は悲しまねばならぬ!!
愛ゆえに…こんなに苦しいのなら悲しいのなら…愛などいらぬ!!
おれはその時から愛をすてた!
帝王に愛などいらぬ!!はむかう者には死あるのみ!!
…たぶんテオは今こんな感じ。ピラミッドを作り出さないだけまだマシか。