フィクション。IF。もしも。
人は仮定の話が大好きです。
そしてコレもそんな仮定のお話。
もし、私達の住むこの世界の、この国の人間が、
此処とは全く違う世界に生まれ変わったら。
それも私達がフィクションとして知っている世界に。
そんな仮定のお話です。
◆
朝早く、まだ小鳥も目を覚まさない頃からメイドの朝は始まります。
メイドたちは次々に起床すると、忙しく身支度を済ませ、そそくさと持ち場につき自分の仕事を始めます。
朝はメイドたちにとって戦場でした。
エンチラーダも朝、まだ暗い時間に目を覚まします。
彼女は落ち着いた様子で身支度を済ませると、ゆっくりと、それでいて無駄のない動きで厨房へと歩いていきます。
その仕草ときたら、実に優雅で、まるで一廉の貴族のように堂に入った動きです。
それでいて気取ったところがなく、誰もが、彼女を見るたびに、どのようにしたらあのように美しく歩けるのかと、ため息をつくのでした。
あるいはその優雅さは彼女の容姿から来るのかもしれません。
なにせ、彼女ときたら、まるで水仙の花のように凛とした美しさを持っていました。
身を着飾ることもせず、質素な服装に身を包みながらも、その美しさは少しも損なわれること無く、メイドたちは勿論、貴族からさえも羨望の目線を向けられるほどでした。
「おはよう御座いますエンチラーダさん」
不意に後方から挨拶をされたのでエンチラーダが振り向くと、そこには箒を持ったシエスタが笑顔で立っていました。
シエスタは素朴で愛嬌のある顔立ちで、トリステインでは珍しい黒い髪をした少女です。
彼女がいかなる生い立ちで、いかなる経緯を持ってメイドになったのか、エンチラーダはしりません。
シエスタとエンチラーダは身の上を話し合うほどに親しいわけでは無いのです。
しかしエンチラーダはシエスタという人間に対して、結構な好意を抱いていました。
なにせ、シエスタは、同じメイドという立場である自分に対しても、実に礼儀ただしく接するのです。
「シエスタ女史、おはよう御座います。いい朝ですね」
エンチラーダはそう挨拶を返しましたが。
笑顔のシエスタに対して、エンチラーダは少しも笑っては居ませんでした。
その無愛想な表情は失礼ともいえるものでしたが、シエスタは少しも気にしませんでした。
なぜなら、エンチラーダはソレが普通だからです。
エンチラーダは笑いません。
仕事中、少なくともメイドや使用人たちが見る限り、一度たりとも笑ったことがないのです。
一部の口汚い人間は彼女のことを「鉄面皮」とか「無愛想」と言いますが、それが事実ではないということをシエスタは知っていました。
エンチラーダはたしかに表情を変えませんが、感情が無いわけではないのです。
シエスタはエンチラーダが少なくとも自分の挨拶を不快に思わず、さらには気持ちを込めた挨拶を返してくれたことを理解していました。
挨拶を終えると、シエスタはそのまま作業にもどります。
朝のメイドにはおしゃべりをしている暇は無いのです。
エンチラーダもそこにとどまること無く、いそいそと厨房に向かいます。
エンチラーダが厨房に入ると、そこはもう戦場の最前線です。
コックたちが朝食を作り、メイドたちは大急ぎで食堂の掃除をしています。
辺りには罵声が飛び交い、誰もが忙しそうに動いていました。
「よう、嬢ちゃん!相変わらず遅い出勤だな!」
大声でエンチラーダにそういったのはコック長のマルトーでした。
遅い出勤とは言いましたがその声色には避難めいたものはありません。
「おはよう御座いますマルトー氏、申し訳ございません、あまり朝は得意ではありませんので」
「べつに責めてねーよ、お前は一番最後に来るけれど、他の奴らの3倍働くからな。なんだったらもう少し遅れてきたっていいんだぜ」
そう言いながらマルトーはソップをかき回しました。
彼の言うとおりでした。
エンチラーダの仕事ぶりときたら、それはそれはたいへんなものでした。
その日も誰よりも早くテーブルを拭き、皿を並べ、ワインを用意します。
なんと言ってもエンチラーダは仕事が早いのです。
エンチラーダは決して人より早く動いていると言うわけではありません。その動きは急いでいるふうでもなく、実に淡々としたものなのです。
ただ、その動きには、全く無駄がありませんでした。
まるで川のごとく、流れるように作業をするのです。
ですからエンチラーダは一番遅くに仕事を始めますが。
一番早くに仕事を終わらせるのです。
彼女の働き振りを見る度に、他のメイドたちはどうやったらあのように効率的に動くことが出来るのか、不思議に思うのです。
さて、エンチラーダは今日も一番に掃除を終わらせると、マルトーがしゃがれた声で彼女に言いました。
「おう、嬢ちゃん!あがったぜ、甘いオムレツ、青菜のスープ、魚のムニエル、サラダ」
そう言って彼は料理の乗ったトレーを彼女に渡します。
「魚は何を?」
「鱒だよ、昨日届いた奴だかなり良い物だぜ、サラダの人参なんか最高の奴をつかった、そうそう、水も井戸の奴じゃなくて例の湖のだ。質素なようで、材料は一番贅沢だぜ」
「ありがとうございます」
表情こそ替えませんでしたがエンチラーダの返事の声色には確かな感謝の意が含まれていました。
日常の些細な事柄にも、シッカリと感謝が出来る彼女のことを、マルトー氏は気に入っていました。
彼女はトレーを持つと、そのまま、その流れるような足取りで厨房を後にします。
忙しさのピークこそ過ぎましたが厨房は相変わらず忙しげで、メイドもコックも大急ぎで動いています。
しかし、エンチラーダはそれらをもう手伝うことはありません。
なぜなら彼女の目的は、その朝食を運ぶことだったからです。
厨房でした全ての仕事は、彼女に取って朝食が出来上がるまでの暇つぶしに過ぎませんでした。
本来彼女にはそれらの仕事をする必要がなかったのです。
朝、彼女に与えられた仕事は、食堂の準備でも、清掃活動でもなく。
ただ唯一。朝食を運ぶと言うことだけなのです。
彼女は朝食の乗ったトレーを持って男子寮に向かいます。
途中、朝食を食べようと食堂に向かう生徒たちとすれ違います。
しかしエンチラーダは彼らに挨拶をすることはありません。
彼女はその朝食を少しでも迅速に運びたかったし、下手に挨拶をしてトレーの上のものをこぼしてはいけないと思ったからです。
本来であれば、メイドが貴族を前にして挨拶をしないのはあまりにも無礼なことでした。許される事ではありません。
しかし、エンチラーダにはそれが許されていました。
学園にいるメイドの中で。
エンチラーダだけはそれが許されていました。
ですので、すれ違う生徒たちは、挨拶をしないエンチラーダを冷たい目で一瞬見ますが、それ以上の行動を取ることはありませんでした。
皆、エンチラーダの立場を理解していたからです。
学生寮の一番奥の部屋。
太陽の光の届かないそのドアは、まるで物置のように簡素で、まるでその部屋は何年も使われていないかのような陰湿な雰囲気を出していました。
エンチラーダはトレーを扉脇の台に一旦置くと、その扉を4回ノックしました。
「ご主人様、朝食をお持ちしました」
彼女がそう言うと、部屋の中から掠れた返事がありました。
「ああ、入れ」
エンチラーダは料理を持って部屋に入ります。
そこは簡素な部屋でした。
別段ハルケギニアにおいて、簡素な部屋は珍しくもないのですが。貴族の部屋の中では非常に珍しいことでした。
貴族でありながら、装飾品が何も無い部屋と言うのは普通であればありえないことなのです。
しかし、その部屋は、まるで使用人の宿舎のごとく、いえ、使用人の宿舎でさえもう少し物に溢れているでしょう。
兎に角、その部屋には物がありませんでした。
ただ、一台のベッドと、テーブルに椅子があるだけで、それ以外には小さなタンスが一竿あるだけ。
そしてそのベッドの上では、一人の青年が眠そうな表情で座っておりました。
「おはようございますご主人様」
「ああ、おはようエンチラーダ」
朝の挨拶
その時。
エンチラーダの頬がかすかに釣り上がります。
彼女が微笑を向けるその人間。
彼こそが、彼女の使えるべき主人でした。
◆
一人の人間が、その世界に生まれました。
私達の世界の記憶を持っているのはその一人だけでした。
フィクションの世界に、フィクションでない記憶を持つ人間が生まれて、その世界はどのように変化するのか。
これはそんなもしものお話です。