始まりのために (1)
「草十郎、アンタも早くおフロ入って寝なさい。
明日、早いんだから」
「は?」
彼女の、いきなり母親のような台詞に、少年は絶句した。
時刻は、午後九時半。
草十郎は、久遠寺邸の居間のソファに座り、くつろぎのひとときを満喫していた。
母校―――私立三咲高等学校の卒業式も、今日、無事に終わった。
学校で過ごした歳月は、そのまま、少年が都会で過ごした年月でもある。
加えて、『卒業』というイベント自体、彼にとっては初めての経験だ。
勤労青年である彼も、今日ばかりはアルバイトを入れず、つい先ほどまで、友人たちとの別れを惜しむ会に参加していた。
(……思えば、あの学校に入ったことが、蒼崎や有珠との、始まりだったんだよなあ)
自分で煎れた紅茶をすすりつつ、彼にしては珍しく、過ぎし日に想いを馳せていたのだが。
「―――えっと、蒼崎。
はやい、って?」
「だから。
明日は動き回るだろうから、早めに寝ないと体力持たないわよ?
有珠はもう入ったし、あとはおフロ、アンタだけなんだから」
長い髪をタオルで拭いながら、まさに風呂あがりそのものの青子が、真顔でくり返す。
普通ならば、そんないたわりの言葉をかけられれば、笑顔で感謝を示すのが、静希草十郎という少年だ。
しかし今、彼は心の底から驚いていた。
自分の耳が信じられなかった、と言っても良い。
なぜなら、
少年が知る蒼崎青子は、そのようなことは、『絶対に』言わないからだ。
傍若無人・唯我独尊的な言動の多いことから誤解されがちだが、青子は基本的に、気配りの人である。
草十郎が三咲高校に編入したとき。
なんのかのと言いながら、懇切丁寧に校舎の案内をしてやり、
その後も、影ながら少年の動向を見守っていたという事実だけでも、その性格は察せられるだろう。
困っている人がいれば、手をさしのべる。
納得のいかない不正があれば、とことんまで突き詰める。
そんな、姉御肌とも男前とも言える性格だから、周りの人々も、彼女を恐れつつも慕い、頼りにしていたのだ。
しかし。
その『気配り』は、あくまで彼女の持つ、独特の倫理観によって支えられている。
自分の人生は、自分持ち。
自己の責任において起こした事柄は、結果がどうであれ、自分で責任を持つべきである、
というのが、彼女の信念だ。
要約すると、
『自分の尻は自分で拭け』
極端に言えば、
三歳の幼児が川で溺れかけていたら、彼女は身を呈してでも助けるだろう。
しかし、いい大人が水遊びの果てにアップアップしていても、一顧だにしない。
そんなものは、彼女の判断で言えば『自業自得』だからだ。
なので、草十郎もこの一年半、青子からいたわりやねぎらいの言葉をかけられたことは無い。
ただの一度も、無い。
もちろん、少年自身、自分の生活がハードだ、などと思ったことは無いし、
同居する二人の少女の方が、よほど過酷な日常を送っている、と考えているので、そのこと自体には何の不満も抱いてはいないが。
だからこそ、今の彼女の発言が、理解できない。
『おフロ入って、早く寝なさい』
こんな、過保護ママのような台詞は、彼女の口からは、天地がひっくり返っても出てこないはずなのだ。
思わず、自分の右斜め前に座る少女―――久遠寺有珠に、目をやる。
助けを求めるような少年の視線に、しかし、少女は微動だにせず。
それどころか、彼女の言葉を肯定するかのように、かすかに頷く始末だ。
助けは無い、と悟った少年は、改めて青子に向き直り、切り出す。
―――恐るおそる、最大限、下手に出ながら。
「……あー、蒼崎。
早い、と言っても、明日は早朝の仕出しの手伝いも無いし、朝食をいつもどおりに食べてからでも、バイトには充分間に合うんだが……」
「あ、それ、キャンセルしといたから」
「はい?」
彼女の体調を案じつつ投げかけた問いに、さらに意味不明な答を返され、
草十郎は今度こそ、間抜けな呟きを発した。
「―――きゃん、せる、と言うと?」
「だから、バイト。
明日っからしばらく、アンタのバイト、全部ことわってあるから、よろしく」
「 …… 」
よろしく、と言われても、困る。
四月から、草十郎たちも新生活に入る。
卒業からそれまでの数日間は、一日を文字どおりフルに使える、貴重な期間だ。
新生活の準備と、その生活を少しでも潤いのあるものにするための資金稼ぎ。
その両方を効率良くこなすため、草十郎は、早くから綿密な計画を練っていた。
もう、ジグソーパズルか、っていうくらいの、
いかな自然児である彼を持ってしても、スケジュール表を作らなければ把握しきれないくらいの、分刻みの日程。
それを、
『ことわっといたから』
の一言で済ます彼女の台詞に、少年は久々に、《蒼崎青子》の真骨頂を見た気がした。
「 あお―――! 」
温厚で、日ごろ物に動じない彼も、さすがに非難の声を上げようとして、
「 …… 」
彼女の、なんの含みも無い、蒼く澄んだ視線に、その声を抑え。
「―――。
理由を聞いても、いいか?」
数瞬ののち、草十郎は、その眼差しに向かって、問いかけた。
くり返すが、蒼崎青子は、気配りの人である。
なんの理由も無しに、他人の生活を引っかき回すような真似はしない。
ましてや、今度のことは草十郎だけでなく、アルバイト先の人たちにも、迷惑の及ぶ事柄だ。
十以上にも及ぶ仕事先に連絡し(彼女がなぜそれを全部知っていたのかも、謎ではあるが)、相手が納得のいくように誠実に断りを入れるのは、さぞ骨の折れる作業だったろう。
そこまでしてでも、草十郎の時間を確保するだけの理由が、彼女にはあるのだ。
「 ……ふう 」
少年の、生真面目な問いかけに、青子は、軽く息を吐いた。
「そうよね。
事前に何の説明もしなかったのは、こっちが悪かったわ。
でも、私たちにとっても、急って言えば急だったから」
「 ? 」
首を傾げる少年に、青子は被っていたタオルを外しながら、言う。
「簡単に言うと、アンタは明日、遊びにいくの。
卒業旅行、ってやつね」
「 そ!? 」
人間、予想外のことを聞かされ続けると、言語中枢が麻痺するらしい。
有珠のお株を奪うような、少年の言い差しに、青子は平然と頷く。
しばらくの、間。
「……そつぎょう、りょこう?」
「そう」
「……だれが?」
「だから、アンタが」
「だれ、……と?」
「私とよ。決まってるじゃない」
―――。
きまってる、のか。
蒼崎青子。
静希草十郎。
卒業旅行。
この三つの単語を、どう組み合わせれば、意味のある構文が出来上がるのだろう。
もちろん、『卒業旅行』という言葉の意味を、知らないわけではない。
確か、一カ月ほど前。
受験期が終わった2月後半に、青子は、親友の久万梨金鹿と、日帰りで東京に遊びに行ったはずだ。
「一足早い、卒業旅行ね」
と、珍しくはしゃぐ彼女を、草十郎は憶えていた。
正直、日々の生活に手一杯で、娯楽の経験が少ない少年にとっては、『遊びの旅行』という概念が、今ひとつ理解できない。
彼にとって旅行―――旅とは、目的や仕事のために行き、それを終え、帰ってくるものだったからだ。
だが、なんであれ、同居人の機嫌がいいのは、少年にとっても喜ばしいことだ。
彼女の微笑ましい姿といっしょに、『卒業旅行』という単語は、良き物として彼の中に刻まれていたのだが。
しかしまさか、自分がその行為を行うことになるとは、
それも、当の彼女といっしょに体験することになろうは、夢にも思わなかった。
「なによ、そんなに驚くことでもないでしょ?
こっちに来てから約一年半、アンタはどこにも行かないで、せっせと頑張ってきたんだから。
卒業のときくらい、羽目外しても、バチは当たらないわよ」
ふだんと全く同じ口調。
同じ表情。
同じ雰囲気で、青子は さらっ と言う。
「 …… 」
しかし、草十郎には分かる。
短い付き合いではあるが、幾度も共に死線をくぐり抜けてきた彼には、分かってしまう。
青子が、いつもの通りに振る舞っている時こそ、彼女は何かを抱えているのだ。
何か、相手に言えないことが有るときこそ、彼女は、平然とした表情を見せるのだ。
「―――分かった。」
だから、草十郎は、簡潔に頷いた。
今は言えなくとも、時が来れば、彼女はきっと、自分に話してくれる。
ミラーハウスの時も、そうだった。
彼女の祖父に会いに行ったときも、そうだった。
相手に何かを秘したまま、事を最後まで運ぶのは、《蒼崎青子》の生き方に反するのだから。
「今日は早めに寝て、体調を整えておくよ。
始発に乗るのか?……なら、そうとう早く起きないといけないな」
「そういうこと。
寝坊なんかしたら、ただじゃ置かないからね」
いや、それはむしろ、俺が心配すべきことじゃないか?
とは、さすがに草十郎も口にはしない。
一年半の間に、彼も少しずつではあるが、成長しているのだ。
代わりに、視線を巡らせて、ふと気付く。
「あれ?
でも、有珠は?
さっき、蒼崎は、俺たちだけって……」
「ああ。
有珠は、今回は留守番。
人の多いところは、好きじゃないって」
ね?
という、青子の視線に、ずっと黙ったままだった少女は、本から顔を上げ、わずかに頷く。
「そんな。
せっかくの旅行なんだから、いっしょに行こう。有珠。
うるさいのが嫌いなら、静かな場所へ行き先を変更して―――」
短い間ではあるが、いっしょに暮らしてきた仲だ。
一人だけ置いて出かけるなど、考えられない。
純粋な好意から、少年は少女を、熱心に誘うのだが。
「いいんだってば。
有珠は有珠で、出かけるんだから」
「 は? 」
青子の、予想外の言葉に、草十郎は、またも絶句してしまった。
「……有珠も、卒業旅行に?」
「―――ええ。」
簡潔な肯定に、草十郎は仰天した。
この少女が、能動的に旅に出るなど、考えたことも無かったからだ。
それに、(非常に失礼な言い方ではあるが)いっしょに旅行するような友達が、蒼崎以外にもいるとも思わなかった。
「そうか。
それじゃあ、仕方がないな。
それで、誰と行くんだ?」
「 ( …… ) 」
戸惑いながらも、笑顔で尋ねる草十郎に、何故か少女は、本で口元を隠し、
「 ?
有珠、ごめん。聞こえない」
「―――。
しずき、くん」
「 は? 」
言ったとたん、顔全体を本で隠してしまった少女に、
少年は、もはやワンパターンと化してしまった呟きをくり返す。
「……えっと、有珠。
それって、どういう?」
「だから。
私との旅行から帰ってきたら、その次の日に出かけるのよ。
アンタと有珠が」
本の盾から頑として出てこない少女の代わりに、青子が肩をすくめながら答える。
「……すまない。
俺は、その予定を、聞いていたかな?」
「聞いてないんじゃない?
話した憶え無いし。
決まったの、昨日だし」
「昨日!?」
『予想外』という名のグラブに打たれ続けるサンドバッグと化した草十郎に、青子は しれっ と答える。
「そ。
昨日、私と有珠とで話をして、
じゃあ、どっちが先に行こうか、ってことでジャンケンして。
私がグーで、有珠がチョキ出して、それで決まったの」
「 ――― 」
ジャンケンの手にも、性格って出るんだな。
とりあえず、説明を聞き終わった草十郎の、客観的な感想だった。
そのジャンケンの対象にされた、自分の人権については、考えないことにする。
この屋敷に住んでから、そんなものが与えられた試しは無いのだし。
あまりにもめった打ちにされ続けたせいか、草十郎も、ようやく腹が据わってきた。
正直、明日からどう動けば良いのか、見当も付かないけれど。
ここまでお膳立てされ、すでにレールの上に乗せられてしまっているのだ。
自分としては、その流れに必死になって食らい付いていくしか、選択肢は無い。
それに、と、草十郎は思う。
『旅行』と言うからには、当然、普段は行けないような遠出をするのだろう。
青子が言うように、山を下りて以来、この町から出ることすら、ほとんど無かった。
新生活を始める前に、見聞を広げておくのも、無意味ではないはずだ。
(……蒼崎との、有珠との卒業旅行、か)
そう考えると、にわかにドキドキしてきてしまう、自分がいる。
それはもう、プラスマイナス含めて、あらゆる意味で。
もしかしてこれは、とんでもないイベントなのではあるまいか。
「って、もうこんな時間?
まったく、くだらない話してたら、湯冷めしちゃうじゃない。
とにかく草十郎。
明日、遅れないでよね」
―――くだらない、とか言われた。
などと、嘆くセンチメンタリズムは、草十郎には無い。
そんなものを抱えていたら、ここでは暮らせないのだ。
代わりに、彼女の背中に、問いかける。
「待ってくれ、蒼崎。
肝心なことを、聞いてない。
明日、君と俺は、どこへ行くんだ?」
青子は、ドアを開けかけたまま、振り返り、
とても眩しい笑顔で、言った。
「千葉の、おっきな遊園地!!」
〈 続く 〉