花の香りがした。
そして次に嗅いだ事のない匂い。なんだか鼻を突く匂い。
白いベッドの上で深く眠りについていた少年は、部屋に漂う香りで目を覚ました。
「…………」
ゆっくりと目を開け、ボーッと天井を眺めた。
記憶を辿る———そうだ。自分はカシウスへメッセージを飛ばした後、レンと共に脱出したのだった。
レンはカシウス邸に飛ばした。正直ギリギリの力であったがあの人たちなら何とかしてくれる、そう不思議に思えた。
だが自分に関しては完全にコントロールは効かなかった。レンを逃がす事で力尽き、己自身は運任せのランダム転移となった。
そしてどうやら、ここは保護された場所のようだ。
(奇縁ですね……人間によってここまで陥ったというのに、同じ人間に助けられるなんて)
自然と心の中で嘲笑する。
嘲笑うなど、『遣り方』さえ知らなかったのに、それを自然と行い、そしてそれに気付かない。
「あら、気がついた?」
急に、声がかけられた。
明るく陽気な声。声の通りが良く、部屋に響いている。
声がした先へ視線を向ける。
身体が全く動かないので視線だけを声がした先へ向けると、そこにいたのは金髪の女性だった。
スラリとした長身に、細く長いカモシカのような手足。スタイル抜群の身体付きに、腰まで及ぶ金髪の髪は部屋の光に反射して光ってさえ見える。
「ああ、ここは私の部屋ね。それで私の名前はイリア・プラティエ」
「…………」
「君が裏街で倒れていたのを見つけて、私が保護したの」
「…………」
「ん〜、警察への通報は後回しにしたわ。それは勘だけどね」
「…………」
「それは大丈夫よ。信用のできる医者に診せたから。私、アルカンシェルって劇団に所属してて、その劇団の専属医に診てもらったの。だから外に漏れる事はないし、妙な事をされる事もないわ」
「…………」
「まあね〜〜〜。勘という名の独断? 迷惑だった?」
会話が成り立っていない。
いや、お前はエスパーか、と普通の人がいたら突っ込んでいただろうが、残念なことに誰もいなかった。
ルシアは声なき言葉で彼女へ尋ね、イリアがそれに答えていた。
イリアはコップに水を汲んで来て、そっとルシアの背中を支えつつ上体を起こして飲ませた。
程良く冷えた水が喉を潤して気持ち良い。
「…………どう……も」
「ん。ゆっくり飲むのよ。急に飲むのは良くないから」
支える為に背に回されたイリアの腕に包まれながら、ルシアは水をゆっくりと飲む。
漂ってくる香りは、花の匂い。
久しぶりに嗅いだ、薬品の臭いではない落ち着く匂い。
水を飲み終わると、ゆっくりと布団に寝かせてくれた。
「…………何故、なにも、聞か、ないの、ですか?」
話し難い。
思わず眉を顰めてしまうルシアであったが、イリアは気軽な態度で横に腰かけて話す。
ルシアはこの2か月の期間で学んだ。
人間は欲望に忠実だと。
己の知識、業績、学業の為なら、大仰な理由や大義名分を振りかざし正当性を主張し、その為なら青き星の御子である自分にさえ手を付けさえする。
この身を穢し、アルテナの使いにすら手を振り上げる悪行。
(私は知っている……父様や母様の戦友たちを。あの人たちは決してこのような事はしない、と思う。この朧気は記憶が確かなら。だけど私は見て味わった。人間達の卑劣なところを。ならばこの女性も同じ可能性は高い)
そんなルシアの警戒心を感じているのかいないのか、イリアは肩を竦めた。
「これでも女優を目指してるからね。ある程度は察することはできるわ。まあ、だから問い詰めもしないし聞きもしない。君が警察や病院は困るというのなら通報もしない」
本当なら問答無用で病院に連れていくのが常識なんだけどね、とイリアは笑う。
医師も言っていたのだ。早く連れて行くべきだ、と。
だがそれでも自分の勘が言っていた、連れていくのは駄目だと。
結果論でいえば、それはルシアにとっては正解だった。
(身体中についた暴行の痕、体液の付着、薬物や注射針の痕、そして“あの事件”の解決発表の翌日に発見された、全身裸で倒れていた子供)
事件の記事が発表されてから、クロスベルのみならず大陸に激震が走った。
その残虐性から、死傷者の数まで、全てが異常ともいえる程で、普段はそういったものに感心がないイリアが記事を読んだ程だ。
だが、1つだけ問題となる点がある。
行方不明となった子供たちの親類一同の確認が取れたという発表があった事。
被害者の家族は全て集められて事件概要を説明され、犠牲者リストとの照合が行われているとの事。
つまり————この子には親はいない、又は警察・遊撃士・各国軍部はこの子の存在を隠したい可能性が高い。
だから…………イリアはルシアを守ろうと思った。
「さ、もう一眠りするといいわ」
「…………」
2人の視線が絡み合う。その視線の会話に何があったのか、それは分からない。
だが、ルシアはそっと瞼を落として眠りについたことから、少しは目の前の女性を信じたのではないだろうか。
◆◇◆◇◆◇◆◇
イリア・プラティエに保護されて、1週間が過ぎた。
その間、ルシアは数日に渡って眠り続け、朝早く出かけて夜に帰ってくるイリアと一緒に暮らした。
食事を共に食べ、お風呂にも入った。
薬漬けにされたのが余程身体に影響したのか、ルシアはイリアが居ない時は殆ど眠っていた。起きたらイリアに介護されつつ会話を交わし、そしてまた眠るというサイクル。
イリア・プラティエという女性は強かった。
介護に弱音1つ吐かない精神。
お世辞でも、ルシアの傷だらけの身体を見て綺麗とはいえない、そんな痕を見ても眉1つ歪めない心。
何も喋らないルシアに対し、まるで自分の弟のように接し、自分の心を完全に開いた態度。
そんな『あり得ない』のが『普通』である彼女だが、それは実にルシアに戸惑いを与えた。
父のような、母のような、両親の戦友たちのような人。
人間など皆が劣悪種であり、両親たちが例外であると思っていた。
エステルたちが例外の、ある意味で普通の人間ではないと括っていた。
だが、こんなところにもいたのだ。
その事実が、彼を戸惑わせ、困惑させる。
だからルシアは観察し続けた。イリアという1人の女性を。
そんな日が1週間続いた朝、ルシアとイリアは朝食を食べていた。
「————でね、今日は久しぶりのお休みって訳。どこか行きたいところある?」
「…………まだ身体が動き難いので……遠出は」
「そうよね〜。じゃあ、私たちの劇場に行く? この前出来たばかりなんだけど。ずっと部屋に籠ってたら身体に悪いし」
「……ええ」
ルシアは笑う彼女を見て彼女の髪の色から向日葵を連想しつつ肯く。
(性格は全く違うけれど…………この明るさはエステルに似てます)
思わず口元が緩む。
レナは、エステルは元気だろうか。
彼女たちの事を思うと、自然と笑みを浮かべてしまう。
「ん? な〜に急に笑ってるのよ。というかルシア、貴方笑えたのね。安心したわ」
「…………」
「さあ、ご飯食べ終わったら行きましょう」
そう言うとガツガツと勢いよく食べ、食器を適当にキッチンに放り込むと、ルシアを抱き上げて家を出た。
傷痕や注射痕が見えないように、自分の子供の頃に使っていた服のジーンズにセーターを着させる。
いろいろと悩んだが、黒のタートルネックのセーターが一番似合うとイリアは思った。
クロスベルの街へ出ると、車の行き交いが激しく、以前ルシアが見た時よりも人々が活気づいている気がする。
そんなルシアの考えに気付いたのか、イリアが正面で抱っこする体勢で教えてくれた。
「驚いた? 事件が解決してから以前のように街も戻ったわ。今まで怯えて大人しくしてた鬱憤を晴らすように、ね」
「…………」
「今までの分を取り戻すように頑張るのよ。ほら、みんなイイ顔してるでしょ?」
「いい、顔…………」
視線の先にいるのは、遊んでいる子供たち。
汗水流しながら商売をする人。
そこには、確かに明日へ生きようとする人々の力があった。
それをルシアは、確かに感じた。
「さ、こっちよ」
イリアはルシアを抱きかかえながら劇場がある歓楽街へと歩く。
ルシアは知らない事だが、裏街を中継しなかった事はイリアの気遣いであった。
住宅街を通り抜け、カジノを通り過ぎると大きな建物が見えてきた。
その建物はこれまでとは違い、デザイン重視のもの。
建築様式も近代風ではなくどこか昔を匂わせるモダンなものが多い。
中へ入ると装飾絢爛な飾りが多く、人工的な物であるが故に目を引く光景にルシアは魅入った。
エントランスの傍らにある受付けに、初老の男性がいた。
その男性は2人に気付くと慌てて駆け寄って来た。
「これはイリア君、どうした———と君は……」
「今日はオフでしょ? ちょっとこの子に見せてあげようかと思って」
「なるほど。しかしイリア君。早く病院に連れて行けとあれほど————」
「はいはい。わかってるわかってるって」
老人がなにかを言おうとするが、イリアは碌に聞いていない様子で奥のホールへと歩いて行った。
劇場のメインホールに入り、数多の客席を抜けていく。
そこの席は、数ある中では一番安い席のエリア。
そこから上の階へ上がるほど、VIP専用となり席料も高くなっていく。
木造のステージ、その前の特等席にルシアを座らせると、イリアは軽快な足取りでステージに乗る。
そしてバッと両手を広げ、満面の笑みで振り返った。
「どう? ここで私たちは全身全霊をかけて演じるの。自分とは別人の、その人の生き様や人生という名の物語を。その瞬間のその人の想いを」
「…………」
「私たち役者は、その瞬間は自己を脱ぎ捨てて、別人に成りきる」
「…………」
「それが成し遂げられれば……観客は皆が感動し、引き込まれるわ」
それが出来なければ見るに堪えない舞台の出来上がりって訳、と肩を竦める。
ルシアがほほぅと小さく肯くのに笑い、イリアは小さく飛び上がる。
小さな跳躍にも関わらず、イリアは着地までに2回転もし、間髪いれずに宙返り。
細かなステップで後退し両腕で扇情的な動きを見せる。腕の振りは大きく、そして時には小さく繊細に。
その場で何回も回転を始める。回転の速度は速くなり、遅くなり。回転しながら飛び始めた。
ルシアは確かに見た。彼女の動きから、身体から光が零れているのを。
「…………綺麗です」
「あら、そう? 嬉しいわ!」
ルシアの素直な称賛に、イリアは少し照れたようにはにかんで笑う。
「驚きました。己を輝かせる事ができるなど、貴方で2人目です」
「輝く? ん〜……よく分からないけど悪い意味じゃなさそうね。光栄だわ。でも1人目は?」
「昔の…………本当に昔に会った、知り合いの方です」
「昔って。あなたはまだ子供じゃない。昔なんて表現は相応しくないわよ?」
「…………そうですね」
小さく口元を緩めて笑う。
失った記憶を必死に掘り起こせば、ジーンという女性は踊り子でありながら武道家でもあった。
武道を教えられた最中の休息の時に幾度となく舞ってくれた。
それを自分は、素直に喜んで観賞していた。
両親も、ロンファさんも、レオさんも、“父様に好意を持っていた”レミーナさんも。
「あの頃は……私の歌をあの人に、皆に褒めてもらって、嬉しかったのを覚えています」
「そう…………会ってみたいわ」
全ては、過去。
もうジーンさんはいない。レミーナさんも。レオさんも。ロンファさんも。そして、両親も。
ルシアの無表情の中に、微かな悲しみや孤独をイリアは垣間見る。
なんだか堪らなくなり、思わず口にしていた。
「ねえ。私にも聴かせてもらえないかしら? 君の歌を」
「…………声が出難いので、聴き辛いかもしれませんよ」
「いいのよ」
では、と肯き、ルシアは小さく息を吸い込み、動かない身体を椅子に預けながらその場で歌った。
小さく、だけど掠れた声で。
劇場というのは、その構造事態が優れている。
音は良く聞こえるように、響くように作られている為、自然と“良い音”が聞こえる。
その為だろうか。
小さな声にも関わらず、その声は劇場に確かに響き渡った。
(うわ……何、この子。才能ってレベルじゃないわコレ。そう、これは奇跡よ)
空間が輝いている、確かにイリアはそう見えた。
キラキラと小さな光がいくつも宙を舞っている。
声の主を祝福しているんじゃない、歌声が祝福されて世界が喜んでいる。意味が分からないが、その例えが一番しっくりきた。
数分間だが、その歌にイリア・プラティエは酔い痴れた。
歌が終わると、まずイリアが行ったのは拍手でもなければ称賛の声を上げることでもなかった。
それは———。
「はぁ〜〜〜〜〜〜〜」
盛大な溜息である。
顔を俯け溜息を吐くその姿は、なんだかとってもオヤジ臭く、そして次にとった行動は、
「もう……………最高」
ブルブルと震えてゆっくりと顔を上げると———眼を輝かせるイリアが。
ピョーンと勢いよく舞台から飛び降りると、ルシアを抱え上げ、スリスリと頬を擦り合わせる。
「ルシア! あんたはこれから私の劇団に入りなさい! 私の専属歌手として!」
「いえ、それはちょっと」
「もう決定! あ〜〜〜〜〜〜〜、もう最高! あんたの歌と私の踊り。合わせれば天下無敵よ! これでもう一人、私と対極の踊り方をする子が入れば私たちは勝てる!」
「? 何にです?」
イリアの暴走は止まらない。
抱きしめる力は更に強まるし、年頃の女の子が子供とはいえ男の子のルシアに対して頬を擦りつけるほどの愛情表現。
ルシアも自分の言葉が見事にスルーされているにも関わらず、どこか憎めず、そしてなんだか面映い。
「くすぐったいです…………もう」
「え〜〜、いいじゃない。ブウブウ」
「子供ですかあなたは」
そう言いながらも。
無意識に、ルシアの両手がイリアの首元に回されようとしていた。
その瞬間だった。
————バタン!
という大きな扉を開けると共に入って来る、大勢の足音。
「誰!?」
イリアはハッとなり、ルシアを守るように背に隠す。
彼女の声を無視するように、無言で次々と突入してくるのは————警察。
「な、何故クロスベル警察がっ!?」
突然入って来た警察官たちに動揺する。
訳がわからない彼女に答えたのは、最後に入って来た男性だった。
「私ですよ、イリア君」
「支配人!」
その人は、ホールに入って来た時にいた男性だった。
「なんで勝手に———!」
「君はこの劇団の宝なのだ! それなのに、そんな訳のわからない子供にカマけておる! しかも医者の見立てではクスリをやっているとか。そんな危ない、身元不明の子は警察に通報するのが筋というものだろう!」
「そ、それはっ」
そう。誰がどう見ても、ルシアは危ない子である。
そしてその場合は警察に通報するのが筋であった。なによりイリアは近い将来にスターになる存在。
そう確信している支配人であり初老の男性は、イリアが犯罪者になる前に防ぎたかった。
誘拐という疑いをかけられる前に。
「まあ、それに関しては大丈夫でしょう。彼の身元は私が保証しますよ」
だがそれは、すぐに解決した。
男性のさらに後ろからやってきた男三人組み。
その中央の男性が云ったのだが、その男性にルシアは見覚えがあったのだ。
「…………セルゲイ」
「探したぞ、ルシア」
「全くだぜ。どんだけ心配かければ気が済むんだお前は!」
「…………ガイさん」
「無事で安心した」
「…………アリオスさんまで」
近寄って来た3人は、穏やかな顔でルシアの前まで来る。
イリアは知り合いだと分かったのか、ひとまず安心して、そして気がついた。
「あら? あなたセシルの……」
「ん? おいおい、あんたはセシルの親友の」
どうやらこちらも知り合いだったようだ。
何やら怒りたいような嬉しいような、といった複雑な顔をしているセルゲイやアリオスを尻目に、ガイはそうだそうだ言って両手をポンっと叩いて、ルシアへと近寄ってくる。
「おい、ルシア」
「…………何でしょう」
「お前への伝言、というかお願いされた事だ」
「?」
歯をくいしばれ、という言葉と共に振りおろされたのは拳骨。
ゴチン、という音と共にルシアの脳天に振りおろされたのだった。
「ノエル嬢ちゃんからお前にだ」
「嘘をつくな嘘を。あの子はお前にやってくれなどといっとらん」
「その通りだガイ」
即座に突っ込みされたガイは、うっと苦しそうにうめき声を上げる。
だがルシアはその行為を敢えて受け入れた。
ド突かれた頭をひと撫でし、小さく頭を下げる。そんな態度に、ガイは気まずそうに言った。
「あ〜、いや、まあ。今回の一連の騒動。お前のやった事は類を見ない功績だとか言われてるし、実際にそうなんだが……あ〜、女を泣かせた時点で男が悪い! これは常識だ!」
「…………そうなんですか」
「いや、納得するな」
本気でふむふむと肯くルシアに、セルゲイは思いっきり突っ込みを入れる。
「お前を保護したこと、ノエル嬢ちゃんやフラン嬢ちゃんにも早速教えてやらないとな!」
「ああ、それがいい」
「だろ! アリオス」
「ああ。とても心配していた。はやく教えてやろう」
「そうだな。だがまず先は、イリア・プラティエ殿。この子を保護して頂いたようで、心から感謝します」
「ん? ああ。いいのいいの。私が好きでしてたんだから」
「そうか」
年上に対してもざっくばらんな態度だが、セルゲイはそれを不快に感じなかった。
軽い態度に助かりつつも、ルシアへと振り返り、改めて身を正す。
セルゲイの態度に、周囲を警戒・囲んでいた警官達も一時的に姿勢を崩し、そしてルシアへと向く。
バシっという音。
イリアはひゅうっと口笛を鳴らし、支配人の男性は息を呑んだ。
一斉に脚を踏みならし、姿勢を正し、敬礼。
その光景は———壮観の一言に尽きる。
「——————多くの子供を拉致犯の魔の手から救い出し、己が囚われてもその強靭の精神から屈さず、冷静且つ狡猾に推理し敵の狙いを見抜き、事件の早期解決に尽力してくださった貴殿に、心から感謝します!」
「敬礼〜〜〜〜〜!!」
ガイの合図と共に同時に敬礼する警察官たちは、眼の前の『子供』に対する態度ではない。
敬意を払うべき『一般人』に対する、心からの感謝の気持ち。
(これは…………)
確かに伝わってくる、人間たちの心。
身勝手な欲に塗れた人間。
清々しさを感じさせる人間たち。
一体、いったいどちらが本当の人間の姿なのだろうか。
「—————私からも礼を言わせてくれないだろうか」
その自然と響く声に、誰もが入口へと振り返る。
新たな来訪者の姿を確認した者は、自然と息を呑んだ。
そこに居たのは、今回の事件の最大の功労者にして指導者。
元々有名だった名が、不動のモノとして大陸全土に根強く芽生えたその名。
「—————カシウスさん」
「会いたかったぞ……ルシア」
そこにいたのは、若干目が潤んでいたが穏やかに微笑む、カシウス・ブライトの姿だった。
◆◇◆◇◆◇◆◇
ここクロスベルに居るのは家族旅行という事らしい。
今回の事件で家族を放置気味だったことに対するお詫びと、新しく加わった家族との懇親旅行との事。
列車で訪れたは良いが、家族をホテルに預けて一旦クロスベルの遊撃士協会に挨拶に行った時だった。 警察に不審な子供がいるとの情報が入ったと、遊撃士協会も掴んだのだ。
そして遊撃士協会が問題視したのは、事件の件の子供の情報と一致したからだった。
カシウスは一瞬、家族たちにこの事を伝えるか迷った。
だがやはり、ルシアが『どうなっているか』が分からない以上、会わせてはならないと決断したらしい。
父親として、そして旦那としての判断だった。
「———とまあそういう訳で、エステルやレナと一緒じゃなくてすまなかったな?」
「…………」
「ハハハハ。冗談だ冗談」
少し抗議がましい眼で見てくるルシアにカシウスは苦笑する。
こんな薬漬けの状態の自分を、誰が見せたいと思うだろうか。
もちろんカシウスもそう思ったからこそ、1人で来て正解だと思ったのだが。
「そうでした」
「ん?」
「レンは……無事でしたか?」
「もちろんだ。あの子は今は私たちの娘さ」
「そう、ですか」
ホッと一安心。
魔法のコントロールが効き難い中、正直いって自信がなかったのだ。
「それで…………身体は大丈夫なのか?」
カシウスは心配そうな声で、屈んで頭を撫でながら問う。
その言葉にセルゲイやガイ、アリオスも近寄って来て様子を窺う。
ルシアは目を伏せ躊躇いがちに、だが正直に言う事にした。
「身体は……良いとは言えません。まったく動かない状態ですし、体内に粗悪なモノが溜まり過ぎているようです」
「…………急いで病院を手配しよう。信頼のおける、軍の病院をな」
「それがいい。信頼のおけるモノを交代制でガードさせながらな」
「そうだな」
「ああ」
各々がそう勧めてくる。イリアもなんだか安心したような、だけど少し寂しそうな、そんな顔をしながら後ろで肯いている。
その勢いに押されて、ルシアも肯こうとした、そんな時だった。
「そうそう。そういえば各施設を叩いた時にな、私たち遊撃士の前に妙な女が現れたんだ」
「女? 研究員とかッスか?」
「いや、ガイくん。そいつは事件の黒幕の協力者のような事を臭わせた後、姿を消したんだが……問題はその前だ」
「何があったんです」
アリオスはカシウスの言葉に不穏な気配を感じたのか、珍しく焦れたように聞いてくる。
そしてその言葉を聞いたルシアは————凍りついた。
「魔族の長・ゼノビアと名乗った女がよく解らない方法で突如現れ、そして姿を消した。正直いって勝てる気がしなかったよ…………ゼノビアという女の背後には、ゾファーという指導者らしきものがいるようだった」
「剣聖である貴方が勝てないって……」
「魔族って、なんだ?」
「D・G教団以外にも外道な奴らがいるのか」
カシウスの言葉に驚愕するセルゲイ・ガイ・アリオス達。
魔族については知らないが、それでも犯人が別にもいると知り、拳を叩いて悔しそうにするガイ。
周囲の警察官や捜査一課の者たちも表情を険しくするが、それは自然と収まっていく。
イリアはそれを怪訝に思った。
何の話かはすぐに分かった。生来の直感の良さから、最近の大きな事件の事だと当たりを付け、それ故に皆の動揺や怒りも当たり前だと思う。
だが、それなのに収まりを見せる様子にイリアは眉を顰め、周囲を見渡し、ソレについに気がついた。
「ゼノビア…………ゾ、ファー…………!?」
小さな変化は見せたとはいえ、殆どのその表情に変化など無かった、小さな男の子・ルシア。
人形のように空虚な目をして、感情を失ったんじゃないかと思うほど変化がない彼。
-————だが。
そんな彼が、目を大きく見開き唇を震わせ、動かない筈の身体を大きく震わせたその反応に、誰もが驚いていたのだ。
「お、おい、どうした?」
「ちょ、ちょっと、どうしたのよそんなに驚いて」
「…………やはり、心当たりがあるのだな?」
セルゲイは初めてみるその姿に慌てて話しかけて来て、イリアは少しどもってしまい、そしてカシウスは『直感』が『確信』へと変わる。
「教えてほしい……あの者たちは、何者なのか」
「…………」
ルシアは俯いて答えない。
いや、実際は『聞こえていなかった』。
(魔女ゼノビア……覚えがあります……魔族の中でも頂点に立つ存在であり、その魔力はゾファーに及ばないまでもアルテナを守護する四竜すら超えると云われた筈。けれどあの者はその昔、ドラゴンマスターに滅ぼされたと知識に。いえ、そんな事はどうでも良いのです。問題は、ゾファーがついに動き出しつつあること、そして魔族たちを配下に加えたということ)
今のままでは—————————勝てない。そう確信する。
魔女ゼノビア、そして暗黒の破壊神ゾファー。
彼らに対抗する為には、自分の力の全てを取り戻す事。
力を取り戻し、あの力を使えばゼノビアも、そしてゾファーも打ち砕くことができるだろう。
そしてその為には——————
「〜〜〜〜〜〜!!」
イリアを、セルゲイを、ガイを、アリオスを、そしてカシウスを見て、思わず硬直する。
ソレをすれば。
ソレをしてしまえば————。
「…………事情が変わりました」
「なに?」
その絞り出すような声が、辛そうなほど震えていた。
ルシアの纏う雰囲気が急変する。
薬で弱り切った、儚い雰囲気があった彼から、ピリピリした攻撃的な意思を、他者の拒絶の意思を纏った雰囲気へと変わった。
そして彼の身体が、徐々にゆっくりと浮き上がる。
魔法の行使が苦しく、呆れる程の微量な魔力しか出せない。
だが、確かに皆は見たのだ。
人が、宙に浮かぶのを。
「ルシア、おまえ……」
ガイが呆然と呟いた。その声は皆の声を代弁している。
尚も詰め寄ろうとした瞬間だった。
「……私は人間の為に、大幅に使命を果たす予定を狂わされた。故にもう、人間を信じることはできない。これ以上余計な情報を貴方達に与えて、事態が拗れるのは避けなければならない」
「それはっ・・・・・・だが、だが! ここで対策を練らなければ後々に事態が悪化するかもしれないだろう!」
「例えそうだとしても」
カシウスの言葉を遮って言う。
そう、これは歴然とした事実だから。
「人間の力では、ゼノビアにも、そしてゾファーにも勝てません」
宙に舞った高さは、ついに3メートルへと到達する。
「私は、この弱った肉体の再生作業に入りこの身を『封印』します。時間換算しておよそ数年。その間にあの者たちが完全に復活することが無い方に賭け、復活直後にあの者たちを滅ぼします」
ルシアの言葉に誰もが訳が分からず混乱する中、イリアだけは反応した。
彼女だけは気付くことができた。
「ちょっと待ってルシア! 封印ってどういうこと!? 肉体の再生って、何をするつもりなの!」
「…………私が作り出す特殊な結晶体の中に己を閉じ込め、身体を造りかえるのです」
「!?」
イリアはその言葉に絶句する。
そう、それはどこか『人』として許されざる発言だった。
思わず激情に駆られるままに怒鳴ろうとして、そして何も言う事はなにもできなくなった。
それは、その瞳を見てしまったから。
「…………カシウス」
その瞳は、生者にあるべき光が濁りきっていて。
焦燥感に溢れていた。
「セルゲイさん」
口元はギュッと噛みしめられ。
「ガイさん、アリオスさん」
特徴的な青髪が魔力の奔流で靡き、そしてそれが目と相反するように幻想的で美しく。
「そして……イリア」
そこにいたのは人や子供と相対しているというより、絵画にあしらわれた女神や、天使に実際に遭遇してしまったかのように感じる、恐れ多いといった感情。
「また、いつか、会いましょう」
そう呟いて、ルシアは消えてしまった。
◆◇◆◇◆◇◆◇
リベール王国軍、元大佐にして剣聖カシウス・ブライト。
A級遊撃士にして、その中でも最強と名高いカシウス・ブライト。
彼は一時間前に、もう一人の息子を救う事が出来ず、彼の苦しみを分かってあげる事ができず、己の無力さを痛感して心を痛めていた。
そんなショックを受けたカシウスは重い足取りで家族の元へと向かったのだが、クロスベルの街中で呆然と立ち止る家族に気付き、思わず駆け寄った。
様子がおかしい。
そう思い近寄ったのだが、その原因に嫌でも気付かされる。
今回の旅行は、レンの本当の両親に会うのが一番の目的。
そして妻とその傍で妻にしがみ付き何かに耐えるような仕草の愛娘と、身体を震わせる新たな娘が。
3人が見詰める先にいたのは——————。
レンと同じ髪色をした男性と、茶髪の女性だった。
その腕に、小さな赤ん坊を抱きしめて。
『可愛いね。お前にそっくりだよ。ほ〜〜ら、よしよし』
『ふふ。前の子はあんなことになってしまったけれど』
幸せそうに微笑み合う、夫婦の姿。
『でも良かった。女神さまは私たちのことをお見捨てにならなかったのね』
『おいおい。その話はしない約束だろう?』
思わずカシウスは、レンの耳を塞ぎたくなって、だがどうしていいか分からなくなった。
『昔のことはもう忘れよう』
『ええ……哀しいけど、その方があの子のためよね』
分かっていた。レンは穢れた子。
あんなことになった、前の子。
分かってしまった。
レンは、どうでもいい、
忘れられるくらいの————。
『それが本当かどうか、今を生きてください』
不意に思いだした『あいつ』の言葉。
『貴方は今、1人ではないでしょう?』
「もう……いいわ」
涙は、無かった。
ただ感情の全てがそぎ落とされてしまったような、まるで人形のような、そんな顔。
人はこんな顔が出来てしまうのか、レナはそう思ってしまう。
「〜〜〜〜〜っ」
何か言わなくては、そう思うが言葉が出てこない。レナもカシウスもそんな自分に憤り、そして焦る。
掛ける言葉が見当たらず、レナは思わず手を握った。
必死に、必死に言葉を探る。
「本当に、いいのね?」
「…………」
「勘違い、というのもあるのよ? レンちゃんが生きてるって言えば、ご両親だって」
「…………」
レナの言葉が苦しいのか、それとも痛いのだろうか。
ついにレンの瞳からボロボロと涙が零れ落ち、でも気にせずに首を横に振る。
「レンのパパとママは————」
ふたりでしょ? とそう言って、小さな手がレナの手を握りしめた。
頼りなく、小さく震えて。
まるで縋りつくように。
その行為に、カシウスは止めるべきかどうか迷った。
今のレンは明らかに自分たちを本当の両親と思いこむ事で自分を守ろうとしている。
それは良い事かもしれないが、カシウスにとっては長期的な目で見て決して最善とは思えなかったのだ。
だが。
だがどうして言えようか。
この小さな、幼い身体の子供に、現実を受け止めさせるなど。
「あんな人たちなんて、レン、知らないもの」
そう振り返って笑って言う、そんな彼女に。
レナもカシウスも、そして状況を察したエステルも、何も言えなかった。
ただ出来たのは———。
「…………」
手を繋いで、一緒に歩いていくこと。
親子として、共に。
「んっ!」
レナの手と、反対の手を握ったエステルの手を、ぎゅっと握り。
笑うレンへの表情に、エステルとレナは目尻に涙を浮かべて笑いかけるしかなかった。
1人だった少女は、こうして家族を得た。
心に大きな、大きな傷の残して。
カシウス・ブライトはこの日、2人の子供の心を守ることはできなかった。
それは、彼を大きく、大きく傷つけた。
◆◇◆◇◆◇◆◇
誰もが傷つき、時に真実から目を背け。
滅びの未来か、それとも明るい未来へか。
運命は疾走する。
「ただいま〜〜。新しい家族ができたぞ〜」
「お父さん、その子は誰!? お母さんを裏切ったの?」
「…………」
「お前はそんなセリフをどこで覚えてくるんだ」
「シェラ姉」
時には出会いというなの縁を運命は運び。
「初めまして、ティオ・プラトーです」
「いらっしゃい。いや、おかえりなさい」
「……本当に良いのですか? 赤の他人の私を……」
「遠慮なんかするものじゃない。私たちは家族になるのだから」
「そうそう! 私、エステル! よろしく!」
第三者の介入により、新たな出会いを運び。
「アニキ! アニキぃぃ!!」
「そんな……ガイさん…………」
「ばかやろぅ! こんなに早くに逝きやがって!」
唐突な悲劇と共に人の幸せを切り裂く。
『外』でそんな事が起こっているとも知らず。
とある場所。
その地下。
最後の魔力を振り絞り造り出したクリスタルの中で。
青き星のルシアは眠り続ける。
(エステル……レン……ティオ……)
目覚めるその日まで。
裸になった彼は目を閉じたまま、漂い続けた。
—————青き星のルシアは、眠りにつく。
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すいません。
感想は明日以降に返します。これから仕事なので、また帰ってきたら返します。