春の新芽が芽吹き始めた頃、リベール王国ロレント地方のとある民家の窓から、間延びした溜息が響いた。
「はぁ〜〜〜〜〜。春ね〜〜〜〜」
出窓から顔を出し、トローンと蕩けているのはエステルであった。
春の日差しと朗らかな風が、人を陽気な気分にさせる。
七耀歴1196年に入った今年、エステルは10歳になった。
そう。
「あれからもう3年かぁ〜〜〜」
「何が3年?」
「きゃああああ!」
突如背後から掛けられた声に、ビックリして悲鳴を上げた。
「な、何よ失礼ね。化け物に遭遇したみたいな……」
「シェ、シェラ姉!」
「ハァ〜イ。エステル」
飄々として背後で手を振っていたのは、銀髪の日焼けした肌が特徴の女性。
大胆にも肌を晒した衣装に身を纏った女性は、ブライト家と昔から親交があった人物。
若干15歳にして、幼いころからサーカス団『ハーヴェイ一座』に身を寄せ一員としての修行を積んだ女性。
更にその一団が解散してからは、カシウス家に身を寄せ懇意にし、カシウスに修行をつけて貰いながら遊撃士になる為の訓練を受けている。
シェラザード・ハーヴェイ。15歳の女性であった。
「もうビックリさせないでよ、シェラ姉」
「普通に入って来たわよ。溶けてたあんたが悪いのよ」
「ブーーーーー」
「はいはい。不貞腐れないの。というか曲がりなりにも遊撃士を目指してるんでしょ? 隙だらけなんて失格よ」
「は〜〜〜い」
頬を膨らませて不満げな顔をしながらも、渋々肯くエステル。
シェラザードとは姉妹のような関係の為、エステルはシェラザードに頭が上がらないのだ。
「で、何が3年なのよ」
「ああ……うん。ルシアの事」
「ルシアっていうと、確かレナさんの命の恩人にして息子にしたいって言ってた男の子の事?」
「うん! 大事な友達なの! でもここ1年位は来てくれなくて……前は極稀に来てくれたんだ。まあ、それでも1日くらいしか居てくれないんだけど」
「ふ〜ん。会ってみたいわね、姉として」
「シェラ姉もきっと気にいると思う! まあ……ちょっと変わってる、っていうかズレてるっていうか……人形のように表情を変えない無愛想な子だけど」
「…………酷い事言うわね」
シェラザードが冷や汗を流しながら言うと、エステルは何かを思い出すかのように憤慨し始めた。
「だってさ、聞いてよシェラ姉!」
「何よ」
「ルシアったら、街で目の前で困った人がいても無視! 転んだ子供がいてもスルー! 泣いてる人がいても目すら向けないんだよ!」
「そ、それはまた……なんとも」
「ちょっと見損なったっていうか、幻滅したんだけどね。でも気付いたの。そうしないんじゃなくて、できないだけなんだって」
後から気付いたのだ。
どうにも感情の機微に疎い人だから。どうにも鈍感な人だから。
そうするべきとか、そうしなくてはならないとか、そう言った判断基準がないのだと。
「それにね。怪我した子がいたら、気付かれないように不思議な力でこっそり治したりしててね。とっても優しい男の子なの!」
「へぇ」
能天気すぎる子だが、人を見る目が確かなのは知っている。まあ単純すぎて心配な時もあるのだが、人を惹き付け人を変える天性の才能がある子だ。
悪い子ではないのだろう。
レナさんやカシウス先生が家族として迎えたがっている子なのだ。
「近い内に会えるかしら」
「会えるに決まってるじゃない!」
「なら楽しみにしましょうか。そうそう、エステル。レナさんが掃除の手伝いしてくれって」
「は〜〜〜い!」
慌てて1階へと駆けていったエステルを笑いながらシェエラザードも追った。
◆ ◆ ◆
「お母さん、今日父さんは?」
「遅くなるって言ってたわ」
「また〜?」
「エステル、先生は最近忙しいのよ」
庭の掃除をしながらふと父の事を思い出し、エステルは口にした。
最近は妙に帰ってくるのが遅い。
しかも疲れているようでもある。エステルとしては少し心配だった。
そんなエステルの気持ちが解っているのか、少し困ったようにしていうレナとシェラザード。
「危ない事してるのかなぁ」
「そうねぇ……難しい事件を追っているらしいけど」
本当の事は言えないわ、と心の中で呟くレナ。
現在カシウス・ブライトが追っている事件は、仮称『連続多発誘拐事件』。
一般的には家出をするもの、行方不明になるものが続出するという偽りの情報が世間に流れているが、実際は違う。
3年前にとある人物により齎された『人体実験のレポート』により、明らかになった、誘拐による実験、非人道的な行為。
遊撃士協会のA級とB級の中でも更に選抜された者がこの事件に関わり、現在は拠点の捜索に当たっている。
(あの人の話だといくつか発見できたみたいだけど、こういった大規模な拉致、誘拐事件においては人質を確実に助け出す為に、全ての拠点を調べ上げ、同時に叩かないと意味がないらしいし)
レナは少し難しい顔をしながら洗濯物を干す。
表情の変化にエステルとシェラザードは気付き訝しむが、レナは気付かない。
(それにあの人が言っていた……まったく知らない未知の結界術が張られていて、凄く気付き難くなってるって)
遊撃士の中でも凄腕の実力者たちであるA級の称号を持つ人物たちですら、結界に触れてようやく気付ける程の隠遁された結界らしい。
そして結界を潜り抜けるにも容易ではなく、破壊するのも難しいという事だ。
更に問題がある。
それは国家間との遣り取り。この件は各国国王と親衛隊隊長にしか知らされていないらしく、軍との協力が出来ない状態だった。それは当然、内通者がいる可能性があるから。
そして情報が洩れないようにするため、精鋭中の精鋭しか知らない事で、何をするにも行動は遅くなるジレンマ。
誰もが自分の本業がある為、この件ばかり時間をかける余裕はない。
クロスベル警察の中でも一部署も独自で動いているようで、遊撃士協会としても頼もしい限りだと言っていたが、それでも進展は遅い。
(こうしてる間にも、どれほどの子供たちが苦しめられてるのかしら。どれほどの子供が亡くなってるのか……)
無力な自分が悔しくなる。
自分は戦う術など知らない。そもそも全く素質がない事も知っている。
だけど、それでもと思ってしまう。
「レナさん、どうかしたんですか?」
「お母さん?」
「ん、いいえ、何でもないわ」
「そうですか……」
「?」
(でも、きっと私に出来る何かがあるわ、きっと。それを見逃さないようにしなくちゃ)
「さあ、庭掃除ももう一息ね。がんばりましょ!」
「は〜い」
「わかりました」
(ね、そうでしょ? あなた…………ルシア君)
◆ ◆ ◆
クロスベル自治州。
その自治州の中に、市民を守る正義の組織がある。
その名も『クロスベル警察』。
警察とは市民を守る組織であり、市民と密着が理想の形だ。
だがクロスベル警察の実態は、お世辞にも良いとは言えない。
いろいろと問題があって挙げる点はいくつもあるが、どんな警察かといえば市民の一言に尽きる。
『警察なんかよりも、遊撃士協会の方がずっと頼りになる』
全てはこれが語っていると言えよう。
だがそんな警察の中でも、優秀な者はいる。
『捜査一課』
その部署が、超が着くエリート集団の部署だ。
まさに知と武を兼ねそろえた実力者の集団。
だがこの部署に所属する者たちは例外に洩れず皆プライドが高く、高慢であった。
故に市民にも人気はない。
そんな警察の実態だが、およそ1年前よりとある部署が注目を集めている。
エリート部署でも何でもない部署。
所属する警察官は若干3名。
だが破竹の勢いと解決速度、そして市民の為の捜査。
クロスベル警察唯一の信頼がある部署といってもおかしくない部署。
その部署に所属するメンバーは何とも個性的な面子だった。
警察の中で上層部に煙たがれている、寡黙な男『セルゲイ・ロウ』。
寡黙だが剣技だけならかの剣聖に匹敵すると称される『アリオス・マクレイン』。
無鉄砲かつ独断専行が多い、だが優しさと懐の広さとリーダーシップを持つ青年『ガイ・バニングス』。
この部署はそんな3人が集められたメンバーだった。
そして今日も3人は事件の為に奔走し、今は宿酒場『龍老飯店』で遅い昼食を食べていた。
運ばれてくる激辛炒飯だの麻婆豆腐だのと、よくもまあここまで食べると云わんばかりの量だが、それも次々と無くなっていく。
「美味い! 一仕事後の飯は美味いぜ。なぁアリオス」
「ああ。そうだな」
「解ったから、お前はもう少し大人しく食え」
口の中に入ったまま話すガイに、セルゲイが即座に突っ込む。
敢えてはっきり言った。汚いと。
「ビールを飲めれば最高なんだがなぁ!」
「まだ職務中だぞ、ガイ」
「夜にしろそれは。流石に飲んでたらマズイからな」
「はいはい。あ〜〜、いずれはロイドと飲み明かしたいもんだぜ」
「ロイド……ああ、弟だったな」
「ああ。アリオス、いずれ紹介するからよ! 自慢の弟なんだぜ、俺の愛しのロイド君は」
「楽しみにしとく」
ガイの言葉に付き合わず、あえてスルーして肯いた。
若干不満そうにするガイだが気にせずに弟自慢を続けた。
「いや、でも身内贔屓なしで、あいつは捜査官に向いていると思ってる」
「ほぅ」
「セルゲイさん。まだ解りませんが、もし弟がこの警察に、捜査官になったとしたら、あいつは力になりますよ」
「そこまでなのか?」
「ええ。俺自身、自慢する訳じゃないッスが優秀だと思います。勿論アリオスも優秀だ」
「ああ。お前たちは正真正銘の優秀な捜査官だよ」
「へへ、あんがと。だけどあいつも、捜査する事に関しては俺より上だと思うんすよ」
「ほほぅ。それは楽しみだな」
「いずれあいつが入ってくる事になったら、セルゲイさんがビシバシ鍛えてやってください」
「そうだな。楽しみにするか」
何やら恐ろしい会話を繰り広げているが、的に上がっている少年は、某所で盛大なくしゃみをして寒気を感じ、近所のお姉さんを心配させていたのだった。
すると、近くからセルゲイの耳に聞き覚えのある声が聞こえてきた。
「…………一番安いものをひとつ」
「それなら炒飯になりますがよろしいですか?」
「ええ……それで」
横に目を向けると、カウンター席に座っている一人の少年がいた。
自然とセルゲイの頬が緩む。
「ふふ……あいつ」
「セルゲイさん?」
「どうかしたのですか?」
不気味な声を漏らしたセルゲイに、ぎょっとするガイとアリオス。
そんな失礼な2人を無視して、セルゲイは席を立って近寄った。
「久しぶりだな、ルシア」
「…………セルゲイさんですか…………お久しぶりです」
どうも、という青髪の少年・ルシアにセルゲイは親しそうに話しかけた。
「久しぶりだな。大体……1年ぶりか?」
「…………」
コクンと頷く。
相変わらず無口だなお前、と苦笑しつつ自分たちの席に誘う。
特に断る理由も無いのでルシアもそれに従う。
目の前の不気味な暗いに無口で落ち着いた少年に戸惑っていたガイやアリオスを尻目に運ばれてきた炒飯を頬張る。
それに笑ってセルゲイが紹介した。
「ルシア。こいつらが俺の部下のガイ・バニングスとアリオス・マクレインだ」
「よ、よろしくな。ガイってんだ」
「アリオスだ。よろしく頼む」
「…………どうも。ルシアです」
小さく頭を下げて挨拶をする。
そして黙々と食べ始めた。
「お前は本当に変わらんな」
「…………?」
「無口なところも、感情を読ませにくいところも、こうやって一人でいるところもって意味だ」
「…………当たり前です」
ガイは眉を潜め、アリオスは目を細めた。
「まだ遺跡巡りしてんのか?」
「…………ええ」
「目的はまだ達成できないって事か」
「…………」
「友達はできたか?」
「…………」
「そうか。まあいずれ出来るさ」
セルゲイは黙々と炒飯を食べるルシアをチラリと横目で眺めて、溜息を吐いた。
(チッ。もう3年近く経つってのにまだ目が淀んでやがる。一体こいつに何があったんてんだ)
出会った時にあった、ソーニャと共に再開した時にあった目の輝きがない。
迷いに溢れた、数多の感情の奔流でおぼれているかのような、濁った瞳。
何とかしてやりたいが、今一歩彼に踏め込めない。
そんな時だった。今まで様子を見ていたガイが急にルシアへと話しかけ始めた。
「なあルシア君。いや、もうルシアって呼ばせてもらうぞ!」
「…………」
「君の髪、本当に綺麗な青髪だけど手入れしてるのか?」
「…………」
「いやいや、俺はセルゲイさんじゃないから喋ってくれなきゃ分からんぞ」
「…………そうですか」
「ん〜、いいかルシア。ジョークや冗談はうまく聞き流さないとな。空気読めよ空気」
「?」
「あ〜〜〜〜!! 我が愛しの弟に匹敵する可愛さ! もう堪らん!」
「……そこらへんにしとけ、ガイ」
ルシアに頬ずりを始めたガイに、セルゲイが頭を押さえて止めた。
だがガイは止まらない。
「すべすべの頬。なんだこの肌は!」
「…………」
「ルシアの可愛さは母親似か?」
「…………覚えてません」
「そうか。まあ間違いなく、お前のご両親は美男美女だったろうな。でなきゃ君はこうはならん」
「…………どうも」
「いずれ君に俺の弟を紹介する。仲良くしてやってくれ」
パチリとかっこよくウインクするガイに、ルシアは戸惑いつつも小さく頷いた。
アリオスは小さく笑い、一回頷いた。
この後、昼食の席で親睦を深めた4人は食べ終わると、また再会することを約束して別れたのだった。
◆ ◆ ◆
「さて……では本題の例の事件についてだ」
警察に戻って来たガイたち。
自分たちが所属する部署に戻って来て、それぞれの椅子に座る。
セルゲイの言葉に、ガイとアリオスは視線を鋭くし、警察手帳を開いて聞き入った。
「現在の拠点発見数は8。主にエレボニア・カルバート・リベール・クロスベルの4つの国を中心に存在している」
これまで各国や遊撃士が調べた『敵』の拠点情報。
それが事細かに調べられ、手帳に記載されてある。
その中には、自分たちクロスベル警察の成果もあった。
「昨日、遊撃士協会から連絡が入り新たな情報がもたらされた」
「くそっ。また遊撃士か」
「そう悔しがるなガイ。事件を少しでも早く終わらせる為、被害に合う子供も一人でも少なくなる為だ」
「分かってるさ、アリオス。だがこうも向こうばかりだと悔しいだろ」
「俺たちは警察の仕事がある。本業を疎かにするわけにもいかん。その憤りは調査でぶつけろ」
「……分かったよ、セルゲイさん。俺だって子供の犠牲をこれ以上出すのは嫌だしな」
渋々、という表情で頷くガイ。
アリオスだって内心では悔しがっている。だがそれが表に出にくいだけだ。
セルゲイは苦笑して頷いて続けた。
「今回の情報提供者はあの『カシウス・ブライト』だ」
「剣聖か……」
「あの人か」
「ああ。アリオスにとっては先輩だったな。確か同じ流派の剣術だったか」
「ええ」
八葉一刀流という流派に所属するアリオスにとって、カシウス・ブライトは同門の先輩にあたる。
余談であるし、本人は認めないが、カシウスとアリオスの2名が、同門を出た人材の中で最も才能があると言われた過去を持っていた。
「そのカシウス・ブライトがリベールの拠点を一つ見つけた際に、関係者の会話を盗み聞いて得た情報だ」
「…………」
ゴクリと唾を飲む。
「今回の星、一連の事件を起こしている連中の組織名が分かった。その名も—————D・G教団————」
「D・G……」
「教団………」
確認するように繰り返す言葉。
その言葉に、怒りと憎しみが込められていた。
「目的、関係者、指導者は未だに分かっていない。拠点も我々が知っての通り巧妙に隠蔽されているようで捜査は難航している」
「だろうな。あの妙な、何ていうか……結界? とでもいうべきか。あれの所為でさっぱり分からねぇ」
「ああ。お陰で気配も感じない。それどころか意識誘導の効果でもあるのか見逃しがちだ。問題はアレが何の技術なのかだが」
「その通りだ。導力機では無いということは、ラッセル博士やラインフォルト社が保証している。従ってアーツでもない」
「くそっ。不気味な奴らだぜ」
つまり、拠点数が把握できていないという事。
拠点数が把握できない以上、踏み込む事はできない。
拉致された子供たちが人質である以上、万が一取り逃がした拠点があった場合に子供たちの身が危ない。
最悪、皆殺しに合う。それは看過できない。
なんとかしないと、そうガイが呟いた時だった。アリオスは急に手帳を置いてセルゲイに訪ねた。
「セルゲイさん。前から聞きたい事があったんですが」
「何だ、アリオス」
「この事件、情報を掴んだ最初の件ですが、誰が拠点を発見・破壊したんです? ずっと気になっていたんです」
「ああ、それは俺もだ。俺たちは教団の存在を知ったからあの訳の分らん結界にもどうにか気づける。それでも厳しいくらいだ。だが最初の奴は訳が違う」
最初は裏切り者や内通者だろうと思っていた。
だが事件を追うにつれ、この組織の異常さや隠蔽能力に気づき、その線は消さざるを得なかった。
そうなると、誰かが発見したということ。
「ああ、その人物だがな。数年前から巷を騒がせてる『仮面』だよ」
「仮面!?」
「…………」
さすがに予想外だったのか、アリオスも驚いた表情をしていた。
義賊を気取った行動、警察や遊撃士のような行為に、両組織に所属している者にとっては好い感情はない。
「まあ、そうは言ってもその『仮面』も、その一件で負傷したらしい。一月くらい形を潜めた時はあっただろ? どうやらそれが原因らしい」
「……なるほど」
「む〜〜〜〜。大丈夫だったのか、アイツは」
怪我をしたと知って、心配そうにするガイ。好きでは無いとはいえ怪我したと知れば心配のようだ。
「とにかく、俺たちはこれ以上このクロスベルから拉致被害者を出さないように全力を尽くすぞ」
「「了解」」
セルゲイの号令で席を立ち、バッと敬礼を返した。
3人が頷きそれぞれがD・G教団の調査に向かうため、外へと飛び出した。
◆ ◆ ◆
「だから、どうしてそこであの人を放っておくのよ!」
「……貴方からの依頼は旦那の浮気調査です。故に事実確認を行い報告しましたが」
「相手の女も一緒にいたんでしょ! どうしてあの人を連れて帰ってこないのよ! 今あの人は浮気してるって事でしょ!」
「……それは頼まれてません。それに何故連れて帰らなくてはいけないのでしょう?」
「ふざけないで! 信じらんない!」
怒り爆発した女性は仮面の主へ鞄を叩きつけると、涙を流しながらどこかへ走って行った。
ルシアは首をかしげる。
(何がいけないのでしょうか……あの人は既に夫の行為を知っていました。だから私に依頼してきたはず。それなのに何故?)
頼まれた仕事を完璧にこなした。それなのに文句を言われた。
(やはり人間は勝手です。傲慢で欲深くて醜い。やはりアルテナと再会したら、私はルナの人々よりも青き星の再生を優先させるべきですね)
この3年で、人を観察して得た結論。
人は温かいが、それ以上に薄汚い生き物だと。
青き星の再生を優先してもらい、人々なぞ2の次に回すべきだと改めて思う。
一瞬、エステルやレナ、カシウス、セルゲイやガイやアリオス、ノエルやフランたちが脳裏を過る。
それを振り払うようにルシアは女性が去った方向へ背を向け、歩き出す。
代金を踏み倒されたが、それもいいだろう。
所詮それが人間だ。
(ああ、そういえばガイさんに次の休みに呼ばれていました。弟と幼馴染を紹介すると言ってましたが)
半年前に出会ったガイ・バニングスと交流を深めた結果、彼が別れ際に言っていた事を思い出した。
彼は人間にしては中々優秀だ。
自分が片手間に追っている事件にも本格的に追いかけているようで、次々と拠点を発見している。
(カシウスさんが言ってましたね……そろそろ潰したいが、敵の拠点数が分からないと)
国や軍の説得も終わり、後は尻尾を掴むだけらしい。
だがそこが難航しているとの事。
まあ、そこはゾファーの結界に隠されている以上、ただの人間に発見する事は難しいだろう。
(…………放っておきましょう。これ以上深追いすると、迷ってしまう。私はアルテナに会わなくてはならないのだから)
これでいいのだと、頭がそう言っている。
だがこれでいいのかと、心が叫んでいる。
この数年、ずっと探してきた元の世界へと戻る方法。
それがまったく見つからない。いや、そもそも帰る方法なぞ無いのでは、と考えてしまう。
ルシアは教会に続く階段を上って行き、夕陽で赤く染まった教会へと近づく。
「?」
何やら教会が騒がしい。
シスターたちが集まり、顔を真っ青にしながら相談していて、神父が警察関係者と思しき男性に何かを必死に話している。
ルシアは「ま、いいか」と思いつつ横を通り過ぎようとした。
その瞬間だった。
「ルシア! 戻ったのですか!」
「…………どうかしたのですか、マーブル」
「それが、それがっ…………!」
マーブルはいつもと違い、激しく取り乱していた。
瞳からは涙が溢れ、顔色を真っ青に染め、肩や手を小刻みに震わせている。
そしてマーブルから告げられた言葉。
その言葉に、ルシアは凍りついた。
「皆が、ノエルやフランたちが!」
これが、悪夢の始まり。
始まりにして、一つの終わり。
「誘拐されたのです!!」
この言葉が、後に続く長い1日の始まりの瞬間だった。
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