なーにも。なーんにもないんだよ。と自嘲気味に言葉を溢した目の前の男はワンカップ大×のプルタブを指で引き開けた。
その手に持っている物は何だ、と問いたい。
何もない? ではその手に持っている物はなんなのだと。
口に出したわけではない。であるにも関わらず、男は「そりゃあ屁理屈だろう」と苦笑を浮かべて応えた。
汗が膝裏に滲む程に室内は温め温めと暑い。暖かいとは言い難い。
それもそうだ。虫が這い、鳴き廻る季節がやってきたのだから。
仕方ないのだ。
そう暑さは仕方がないのだ。諦めようがある。
何故だろう。と今の状況を思う。
月五万のアパートの一室で、何故。
何故この男は人の領内で丁度今三本目となる一合瓶を開け、酒精に浸っているのか。
ウェーブチェアに凭れかかっている自分とは対称に、
勝手に引っ手繰った座布団の上に座る少年地味た風貌の中性的な男は先程から此方に言い聞かせるわけでもなく一人ぶつぶつと言葉を溢している。
灰色の壁に必要最低限の家具して置いていない室内は我ながらに酷く殺風景だ。
それをわざわざこんな場所に来てまで安酒を嗜むこの男が昔から理解できなかった。
理解したくなかったのも理由の一つにあたるが。……いいや、理解する必要性など無かったのだ。
この男を意識から外そうと本の文面へ向けていた視線を、ほんの一瞥、彼奴の方へ移した。
やはり一人愚痴る男の姿が目に入るだけだ。
黒いワイシャツに黒いスラックス、そこに鉄の鎧を纏い黒ずんだ血液に錆びれた剣を持つ男の姿などいる筈がないのだ。
視線を落とす。
移る視界の中には青色のTシャツと色褪せたジーンズ、端には長いこと切っていない緑がかった黒髪。変わった彼奴を糾弾できるわけもなく。
互いに適応しただけだ。責める謂われも責められる謂われも無論あるわけがない。
「何故、来た」
言い放ったばかりの台詞を頭の中で理由もなく反芻してみる。
遅い、その一言に尽きるだろう。この男が部屋に来て、もう二十分辺り。
今更に問うたところで。こんなものを。
ただ、もっともらしいような台詞ではあったと、思う。
使い勝手は、まあ、適度。耳障りは良くはないだろうが、そんなことなど自分の知ったことではなく。
……やはり、だめだ。タイミングが悪すぎた。
慣れないことはするものじゃないという教訓は数十、いや数百、数千年前から得ていた筈だが。
何故だか。その失態を何故、今になって。猿も木から落ちる? 下手な自画自賛にしかならない。なんの名人だと。
「……いや、酒呑みに来ただけだけど」
こちらに視線を寄越し、数秒の沈黙の後に男は応えた。
それは言うならば、お前はなに当たり前の事を聞いてんの? とでも言いたげな声色と目だった。
全く以てわけがわからない。
酒を飲む場所であれば幾らでもある筈だ。それにお前が持っているのはワンカップの、酒。
家に帰ってでも飲めるような物を何故、お前は。此処で。
「なんで帰って飲めるような物を、こんな殺風景でダサいとこに来て飲んでるかって。そう聞きたいんだろ」
だから何故わかる。言葉にも出していないことを。
言いたいことも口に出さなければわかってもらえないなどと、一体誰が言いだしたのか。
その論が間違ってると言いたいわけではない。寧ろ正しいだろう。
男に視線を遣せば、にぃ、と口端を吊り上げる嫌な笑みをもらった。
皮肉に笑みを返す気力もない。
「ダサいは余計だ。訂正しろ」
「言われたくないなら今直ぐにでも部屋の壁、桃色一色で染めてみな。そうしたらメンヘラ連れて壮大に拍手してやる」
「貴様に人らしく対話を望んだ私が馬鹿だったよ」
「プークスクス」
「無表情で笑うな。気味が悪い」
出来ることなら今この場で灼き尽くしたい顔。それすら叶わぬ願い。
肉を断ち骨すら灼く炎の出し方など数十年前に忘れて以来。並外れた腕力は何とか健在だが使い道もそう多くはなく。
そしてそんな単純な暴力を以て倒せる程、目の前の輩は衰えておらず。
理不尽とは思うが元は鍛錬を怠った自身に責任があるのだと自覚してからは何も、遅く。
自然と出た溜息に返ってくるは耳障りな笑声。
笑わせる。こんな悪童が勇者などと持て囃されていたことに。
否、今現在も彼奴は勇者であることに違いない。ただ、その資格を失っていないだけであるが。
だがそれは自身も同じで。そう、己も魔王という資格を失っていないだけ。このザマになってまで。
呪いと言葉にするには安く、罰と言葉にするには重いものだった。
「本当にわかってないの?」
唐突だった。
無表情に笑声の言葉を屁泥の様に吐き出していた男はそう呟く。
何が、とは言わず、問わず。否、問えず。それらを問う暇もなく男は言葉を続けた。
「あいつの命日だよ」
「誰の」
「俺を初めて負かした」
「オルロフか」
何を、今更。喉元まで吐瀉物の様に昇ってきた言葉を寸で、飲み込む。
不自然には、思われていないのか彼奴の表情には一片の変化もない。
代わりの言葉を探す。見つからない。沈黙。
「酷い王様だ。酷いよ、酷過ぎる」
男は悲痛な表情で首を力なく横に振った。
喜べ、彼奴の虚言に釣られ今はもうその命すら落とした彼奴の愚かな信者よ。
目前のこの男は貴様らの声も、顔すら忘却の彼方へ追い遣っている。笑える末路じゃないか。
貴様らの事などどうでもよかったんだ。この男は。
"これ"を瀕死にまで追い込んだ私の配下に比べれば、その差はまるで。
「蟻と象か」
自然と口から出た時には、怪訝な視線が向けられていた。
焦りも後悔もないが、奴の目にだけは心の僅かな隙間に苛立ちが生じる程度には不快な気持ちを抱いた。
それを口に出して抗議するつもりはない。しても奴はのらりくらりと躱すだろうから。間違いない。
「何がさ」
「お前の仲間と私の配下であった彼との差だよ」
「オルロフ。名前で言えよ、お前の部下だろ」
「私の配下だ。どの様に呼ぼうと構わない筈だ」
「お前より価値があったよ、アイツは。どうでもいいんだよ、お前なんか」
「そのどうでもいい輩の所に何故きた」
「アイツの仕えてた奴だから」
けど、やっぱり。お前が魔王じゃなかったらアイツはお前に仕えてなかっただろうな、と男は視線に苛立ちを混ぜてきた。
酷い言われようだ。魔王じゃなければ? では、貴様は?
そうとも。勇者でなければ、奴と貴様は対峙することもなかっただろう。その筈だ。
そもそも何故こんなことを私は胸の内で愚痴吐いているのか。
本当に、何故だ。何故来た。酒を呑みにきたというのが口実だというのはわかる。
奴の左手にあるのは酒精を帯びた液体の入った瓶だけだ。赤い汚泥に塗れた剣などではない。
貴様も私もただの心の鼓動を鳴らし呼気を吐く有機物だ。ただそれだけだ。
そうでなくてはならない。そうならなければならない。
手は自然とデニム生地の右の物入れへと向かった。
くしゃくしゃのソフトケースを引き摺り出せば、指で安っぽい紙巻きを一本を摘んで口に銜える。
どうにかしてこの不快感を取り除かなければ、物か他の何かに当たりそうな気がした。
そんな不細工な真似は避けなければならない。特に彼奴の前では。絶対に。
口に銜えさせるまでの作業を終えた右手は元の位置に収まり、次は左手。左の物入れに入っている筈のジッポライターへ。
だからなこんな不格好な感情は直ぐにでも、ニコチンにでもアルコォル、……は飲めないからニコチンに、逃げて。
「俺が来た時、まおくん寝てたでしょ」
目の前の不出来な人間試験をぎりぎりで失格した生命体が知性の持たない野生動物の鳴き声地味た言葉を吐いた。
酷く耳障りだ。もしも一生に一度の願いが叶うなら燃やしてやりたい。
年月は残酷だ。私から彼奴を殺す機会すら奪ったのだから。
恐らくは邪念が生み出してしまった幻覚を頭を振るって視界から消し、消えてな、いや消えたので改めて左の物入れを探る。
が、指先に硬質な感触が伝わることはなく生地の擦れた感触が指を伝い「無い」という、ただそれだけの情報を脳が受け取っただけ。
何故だ、と呆然とするのは簡単だ。
恐らく左の物入れにジッポライターがあるというのは記憶違いでこの部屋の何処かにあると推測するのも簡単だ。
だが私は上記二つの事を思い浮かべたにも関わらず、それらを行わなかった。
私が起こした行動は、非常に不本意で不服であるのに目の前の未確認生命体に視線を寄越して、この真意を問おうと。
「ジッポ食べちゃった。てへぺろ」
得体の知れない生命体が自身の頭を軽く小突き、小首を傾げるとちょろっと舌を出し片瞼を閉じて小さな星を出した。
昔の自分なら、ああこれは殺してしまっても何の問題もない人間なんだなと軽く切り捨てて嬲り殺していたことだろう。
いや、これは言葉の綾だ。事実、これを殺した後どこに遺棄すればいいだろうかとまで、遂一瞬考えてしまったのだ。
「うまかったよ」
「……お前は最悪だ」
「……By.アルバート・フィッシュ」
「……せめて自分の言葉にしろ」
「やだよ、めんどくさい」
人の物を食べておきながら、なんて言い草だ。
もう本格的に私から殺されても文句は言えないだろう。
そもそも食べる物でもないが。人が口に入れる物ではないのだ。
間違いを犯すとしても、そんなのは赤子だけだ。
不意に溜息が出た。
正直なところ、彼奴は私に謝罪の一言ぐらいは口にしてもいいのではないかと思う。
寧ろそうするべきだろう。
これではせっかくの一日の終わりに、単に部屋に災厄が降りてきただけだ。
「聞きたいのだが、謝るぐらい出来るだろうお前でも。まさか出来ないのか」
「てへぺろ、したじゃん」
「こういうのを口に出して言うのは悪いと思ってるが、正直頭おかしいだろうお前」
「お前は無神経だよ。俺がもし今機嫌悪かったらエクスカリバールで鼻血の池に沈めてるぜ」
「……やはり頭おかしいよ、お前。まあ、何だ。よくよく思い出せば昔からアレだったな。ああ、私が悪かったよ勇者」
瞬間、視界に赤が映る。鮮やかとは言い難かった。
続いて鼻っ柱に強烈な痛みが走った。
ピントのずれた視界で何とか前方に向き直れば、眉間に皺を寄せた貌と引いた拳。
何のことはない、顔目掛けて何の躊躇いもないストレートが叩き込まれたことを視覚が知覚した。
「は、……な、に本当……お、お前ほんと無神経だ! 最悪! あぁ、もうマジうぜえ!」
ぎゃあぎゃあ、と目の前の何かが中指を立てて喚き立てる。
だがそれが今はそれ程気にならない。気にならない位に痛い。ジーザス。
罅が入ったのではないか、これは。やはり厄日だったじゃないか。ああ、理不尽だ。
もしかせずとも明日は総合病院の整形外科か。ああ、まったく。
既にそういう問題ではないと思ったが、賢明にも私は何も口にしなかった。
そうとも。下手に何か口にすれば、また拳が飛んでくるのは確実だっただろうから。
だがこうも奴の命日にやって来て、八つ当たりされるのはそろそろ勘弁して貰いたい。
せめて殴る前にも何かしらの予備動作が欲しい。動体視力が落ちてきた所為か何となしに避け辛い。
鍛錬した方がいいのだろうか。最低でも彼奴の急に飛んでくる拳を知覚できるぐらいには。
「……もう、歳なのだがなぁ。結構」
……いいや、歳はお互い様か。
拳は飛んでこない。幸いにも聞こえていなかったか。
ひっそりと胸の内で溜息を吐いた。
まだ目の前では喚き立てている何か、一体何が原因だ。そんなにおかしな事を言っただろうか。
ただ一つわかることは、この視界に映る光景に慣れてしまった自分に敗因があることは明らかだという、
それだけ。