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どんどんどんどん落ちていく。
赤い空。黒い海。水しぶき。
ミズオの体は色々な物を取りこぼし―――――――――――
気づけば単細胞生物になっていた。
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ミズオはまどろみから覚醒した。
彼を包むのは、柔らかな液体である。
周りの見知らぬ風景に驚く前に、ミズオは己の姿が大きく変化していることを認識した。
腕は無く、足は無く、顔も無く――――つまりは人間としての彼を構成していたほとんどの物が欠けていた。
あるのは自らの姿を見ている眼球と、ぽっかりと開いた穴のような口、そして酷く柔らかな膜に包まれた半透明の体。
中身が丸見えであり、酷く原始的な身体構造――――単細胞生物に似ているのだった。
彼のつるりとした表皮には、尻尾のような毛が一本生えている。
この身が単細胞ならば、尻尾に似ている毛は鞭毛と呼ぶことができるのだろうか。
そのようなことを考える。
色々と総合して、ミズオは己がとても下等な生物になったことを悟った。
しかしミズオがうろたえることはなかった。
そのようなことをする前に、圧倒的な衝動が彼の余裕を吹き飛ばしたのだ。
衝動の名は、食欲という。
辺りは見渡すばかりの領域が透明の液体に満たされ、ゆっくりと流動している。
その流れに乗って、透き通ったモヤモヤとしたものが僅かに伸縮しながら動いていた。
時折ボコリと気体を発するそれは、透き通った藻が丸まったかのような球体である。
目の前を通り過ぎるそのモヤモヤとしたものを見た時、ミズオは稲妻に打たれたかのように、己のうちで湧き上がる何かに揺り動かされる。
(―――――――――ッッッ!)
ドアを拳で乱打するような衝撃が体の内より発せられる。
彼に声帯があれば血が出るほど咆哮していただろう。しかし彼に喉は無く、ぽっかりと空いた口がパクパクと開閉するだけだった。
衝動はミズオの感じたことがないほどの強さで彼を突き動かし、ミズオは無意識のまま、流れゆくモヤモヤとしたものを目で追った。
ミズオの思考は千々に乱れ、はっきりとした言葉を思うことができない。
(――――――食べたい)
食欲は、飢餓からくるものではなかった。彼の身に飢餓を感じられるような高等な器官は無い。
もっと根源的な、それは本能とも言える物だった。
目の前のモヤモヤとしたものを食べなければならない。
そのことを、強烈な衝動をもってミズオは悟っていた。
生まれたばかりの小鹿が立ち上がるように。小鳥がその羽を広げるように。それは当然のように行わなければならないことだと、心底から思った。
(お、おお……! 俺は目の前のモヤモヤとしたものを食うぞぉ――――――ッ! うぉおおおおおおお!)
彼は目の前のモヤモヤへ、全身全霊、体の命じるままに齧りつこうとした。
しかしミズオの体に推力を得るための腕は無く、足も無く、あるのは尻尾のような一本の毛のみである。
ならばとばかりにミズオは勢い良く尻の毛を振った。
フリフリと鞭毛をくねらせて、液体を押して体を進め、もどかしいほどの遅さで、モヤモヤとしたものへと近づいていく。
辿りつくと同時、ミズオは精一杯口を広げてむしゃぶりついた。
彼の口だか穴だか分からない摂取口は、一息にそのモヤモヤを吸いこんで、ミズオの体の中へとしまいこむ。
途端体の中でそれは溶け去り、ミズオの体に活力が満ちた。
(――――――ッ! 旨い! 何という……ッ!)
それはとてつもない充足感をもたらして、味を感じる器官の無いミズオの体がぶるりと震えた。
まるで太陽を食べたかのようにミズオの体が熱くなる。
(お、おおおおおお!)
かつて無いほどミズオの体は満足し、興奮し、彼は感動した。
思考の中で幾度も光が明滅し、ミズオはその不自由な身を捩って歓喜する。
―――――――これほど素晴らしいものがこの世界にはあったのかッ!
その感動は彼のすべてを吹き飛ばす。
ミズオの考え方や、ミズオは過去までも。
無視しあう家族。
薄っぺらい付き合いの友人。
意義の分からない学校。
あれこれと浮かぶ色のない風景――――――かつて己が生きていた場所への未練。
もはやあの場所に戻りたいとは思わなかった。
人に戻りたいとも思えない。
確かに小さき身になったようだが、これほどの感動を感じられるなら逆に礼を言いたい。
(この感動を、もっと味わいたい!)
彼は生れて初めて己の内に強い欲望を感じた。
厭世気味であったミズオという名の人間はもはや消え失せ、ここにあるのはたった一つの細胞だった。
体がモヤモヤを望んでいる。アレから得られる感動を求めている!
ミズオはモヤモヤを探して辺りに目を向ける。
その行為はミズオが考えた結果でもあり、体が求めている物でもあった。
というのも―――――――
(体が……軋んでいる…!)
この体は、常時大量にエネルギーを流出させていたのだ。
足りなくなったエネルギーを補うために身を削り、自らの体積を減らし、徐々にミズオの身は縮んでいた。
ミズオの体はエネルギーを求めてモヤモヤを食ったのだが、一つ食べただけでは僅かな効果しかないようなのだ。
焼け石に水とは言わないが、それに近い程度の影響しかない。
なんとも脆く、死にやすい体だろうか。
だがこの感動、決して逃してなるものか。
もっと、もっと食べるのだ。
あの感動を、食らうのだ。
(今度はあのちょっと大きいモヤモヤを食べる! 俺は全部食べるぞ! うぉおおおおおおおおおおお!)
ミズオは叫び、夢中になって鞭毛を振り、一直線にモヤモヤへと迫る。
しかしこの液体に満たされた領域に居る生き物はミズオだけではない。か弱きミズオが生きられる世界は、他の生物にとっても優しい環境なのである。
そして彼は単細胞生物であり、多くの生き物は、彼にとって脅威であった。
目前の液体が揺らめき、目指していたモヤモヤが一口で食べられてしまう。
周りの水を巻き込んで大きな口が閉じられ、ミズオの体は翻弄された。
(なんだあれは!?)
食べた生き物はミズオの5倍以上はあり、ゾウリムシに良く似ていた。
違うのは二つの目玉とクワガタのメスのようなアゴを持っていることである。
巨大な姿は、まるで悪夢の具現のようだった。
ゾウリムシもどきが、体に生えた無数の毛をさざ波のように動かし、ミズオに近づいてくる。
(――――――――危険だ!)
ミズオの本能は一足飛びに結論をはじき出した。
逃げなければならない。彼我の大きさは熊の前に放り出された子犬の如く。あの大きなアゴはミズオの柔らかい体を苦も無く引き裂くに違いない。
ミズオは慌てて鞭毛を繰り、体の方向を転換する。
しかし振り返り切らない内に、ゾウリムシもどきの毛が彼の体を撫で、ついで尻をぶちりと齧られた。
追いつかれ、ゾウリムシもどきのアゴにやられたのだ。
(や、やめろぉ! こいつッ!)
痛みは無い。
しかし体の一部を失うのはとてつもない喪失感だった。
先ほど感じたような焦がれる程の衝動と対を成すような、底なしの恐怖である。
残念ながら、機動力は完全に向こうが上だった。
どうすることもできず、ミズオは恐怖に身を捩りながらその身を齧られ続ける。
(やめろ――――――ッ! うぉぉぉ……!)
その時、ゆらりと今まで背景であった空間が動いた。
(ッ!?)
辺り一面の液体が動き、激しい乱流が生まれる。
ミズオとゾウリムシもどきは別々に押し流され、ミズオは乱流の中で柔らかいモヤモヤへと衝突する。それはクッションのように彼を優しく受け止めた。
本能に従い夢中でモヤモヤを貪るミズオの視界で、乱流を起こした何かは蠢き、その光景、背景に巨大な亀裂が生じたようにさえ見えた。
空間が二つに割れたかのようなその光景に、ミズオは戦慄する。
その亀裂は、どう見ても大きな口だったからだ。
ゴォオオオオオオオ――――――――………・・
(大きすぎる……!)
耳も無いのに、海鳴りが聞こえるようだった。
巨大な口はさらに巨大な体が動くついでに、辺り一面の液体を飲み込んだ。
ミズオを齧っていたゾウリムシもどきが巻き込まれてその口の中に消えていったが、きっと飲み込んだことにすら気が付いていない、それほどのサイズの差があった。
巨大な口は閉じ、その生き物は乱流を巻き起こしながらどこかへと泳いで去って行く。
どれだけ遠くへ行っても、その大きさを「大きい」としか認識することはできなかった。
偶然飲み込まれなかっただけのちっぽけなミズオは、ただ呆然とそれを見送っている。
こうして生きているのは、ただ運が良いだけだったのだ。
乱流は収まったというのに、ミズオの震えは止まらなかった。