俺は、未だ混沌たる有様の《はじまりの街》の中央広場を見渡した。
そして、錯乱したり絶望したりしている者たちの中に、ある種の目的を持った瞳をしている者が、見える範囲では数名、広場を後にしているのが確認できた。
恐らく、彼らは自分たちに出来る事――しなくてはならない事を見つけたのだろう。
ならば、俺もいつまでもここで佇んでいるわけにはいかない。
まずは武器がいる。
最初にステータスを確認した際、初期装備として片手直剣《スモールソード》というものが、アイテムストレージに入っていた。
しかし、俺の最も得意とする武器は《槍》だ。
剣も使えなくはないが、実際に命の懸かっている状況だ。一番慣れ親しんだ武器を使う方がいいだろう。
そう思い、俺は先ほど街を見て回った際に見つけた一軒の武器屋へと歩みだした。
しかし、広場を後にしようとした俺に、背後から声がかかった。
「――あ、あの……あのっ……!」
最初、俺はそれが自分にかけられた声だとは思わなかった。
この《SAO》という世界で、俺のことを知っている者なんていないのだから。
だが声の主は俺の右側に回ってきて、はっきりと俺を見て再び声を上げた。
「あの! す、すみませんっ!」
「……?」
目をきつく瞑りながら訴えるように言ったその人物。
金髪の少女だった。
頭の左右で縛った、腰まで届くだろうツインテールの金髪。
恐らく歳は俺の1つか2つ下。
恐る恐ると開いた瞳は大きく、顔の部品の並びも整っている。
大多数から美少女と言われる類の顔だろう。
俺と同じ初期装備である白い麻シャツ、灰色の厚布ベスト、そして男とは違う簡素なベージュ色の短いスカート。
それらは、男の装備よりは全体的に可愛いらしい印象を受ける。
目の前の少女が派手な金髪をしているせいか、やや地味目にみえる初期装備の服装が、少しだけ特別に見えた。
しかし、何故この少女は俺に話しかけてきたのだろうか。
「…………何か――」
用があるのか、と言おうとした俺の言葉に割り込む声があった。
「ネリー!」
そして、金髪の少女の両脇に、今度は銀髪と茶髪の少女が現れた。
「ハァッ、ハァッ……もうっ、いきなり走りだして……」
「ヒー、ヒー……そ、そうッスよ! というかこんな場所で置いて行かないで欲しいッス!」
前者が銀髪、後者が茶髪の2人の少女。どうやら三人は知り合いらしい。歳も同じくらいに見える。
金髪の少女が、2人にゴメンと軽い感じに謝罪している。
だが、こちらとしては早く用件を言って欲しかった。いきなり声をかけてきて、こちらを無視して話をしている3人。
故に俺はこちらから声をかけることにした。
「…………それで、俺に何か用か?」
その俺の言葉に驚いたのか、三人は一瞬背をピンッと伸ばし、こちらを向いた。
「あ、す、すみません! こっちから声かけたのに……」
金髪の少女が謝ってきた。その本当に申し訳ないと思っているような顔を見て、俺はすっかり毒気を抜かれた。
「……いや、それはいい。で、何か用なのか? 正直、声をかけられる覚えはないが……」
俺は、極めて普通に言ったのだが、銀髪と茶髪の2人は、肩を震わせて怯えたような目でこちらを見ていた。
だが金髪少女だけは、至って普通に俺の問いに答えてきた。
「あ、はい。えとですね。私たち、そのVRMMOって初めてなんです。……なのに、こんなことになっちゃって。どうしていいか解らなくて……それで、その……色々と教えてくれる人を探してるんです」
不安さを隠さない拙い声音で、そう言った金髪の少女。
――ふむ、なるほど。
つまり、この三人は自分たちに出来る事が考えても見つからなかった、というわけか。
だがそれは別に悪くない。そしてその場合、誰かに訊くという行為は正しい。
解らないことは訊く。その行為は大切なことだ。
しかし――
「…………すまないが、人選を間違えている。俺もVRMMO――いや、ゲームというもの自体これが、SAOが初めてだ。俺ではお前たちの疑問には答えられない」
この少女の言っている事は解る。解るが、ゲームのことなんて二木に聞いたことしか知らない俺に、その役が務まるなどとは到底思わない。思えない。もっと相応しい人間が他にいくらでもいるだろう。
俺のその言葉を聞いた金髪の少女は、少し驚いたような顔をしてから、再び口を開く。
「あ、え……じ、じゃあ、ど、何処に向かおうとしていたんですか?」
周囲の人間のほとんどは、未だその場を動かない。
そんな中、俺が何処かに行こうとしたことで、俺が他とは違う、もしかしたらこのゲームに詳しいのかもしれないと、この少女は思ったのだろうか。
「……武器屋だ。さきほど街を回った時に場所を確認していた」
「何で武器屋に? ……もしかして、外に出る気なんですか? し、死んじゃうかもしれないんですよ!?」
金髪の少女が叫ぶ。
――何故、この少女はそんなことを叫んでいるのだろうか?
――たった今話したばかりで面識も無い俺のことで、何故こんなにも必死な顔ができるのか……。
そんなことが一瞬、脳裏をかすめたが、俺は冷静に返した。
「……茅場晶彦と名乗る者が言ったな。第百層のボスを倒さなければ俺たちは開放されないと。……だから俺は、自分に出来ることをしようと思った。それだけだ」
暗に、俺は戦うことを選んだとそう言った。
俺の言葉の意味が分かったのか、金髪の少女だけではなく銀髪、茶髪の少女三人が目を見開いて絶句する。
次に口を開いたのは茶髪の少女だった。
「……な、なに言ってんスか! 危ないッスよ! ここで、安全な場所で外からの救出を待ったほうが――」
「救出は無いだろう」
「な!?」
俺は、少女の言葉の途中で冷たく言い放った。
「もし、俺が茅場晶彦の立場だったのなら……1パーセントでも、自分以外の外部の手によってこの状況を打破できる可能性があったら、そもそもこんなことを実行はしないだろう。天才と呼ばれる人物なのだったら、尚のことそこは理解しているはずだ。……ならば、外からの救出は無いと考えていいだろう。俺たちは、茅場の言う通りにするしかないんだ。このゲームをクリアして、茅場本人に開放してもらうしか……この世界から脱出する方法は……無い」
ありえない、そう凡人が思うことをしてしまうのが天才だ。茅場晶彦がそうだというのなら、救出なんて待っても恐らく無駄だろう。
「…………」
四人の間に沈黙が降りる。
かなり厳しいことを言ったということは自覚している。
しかし、俺がそう思っているんだということはハッキリとしておきたかった。
いや、もしかしたら俺は、自分自身に言い聞かせていたのかもしれない。
「……俺は街を出てモンスターを倒す。レベルを上げて強くなる。……それが今、俺に出来る最良の事だと思うからだ」
三人は、それぞれ何か言いたそうにしていたが、それを遮るように俺は続けた。
「……だが、別に無理に戦おうとしなくても……街に留まっていてもいいとは思う。人には向き不向きだってある。戦いたいと思う者、戦う決意をした者だけが戦う。逆に戦いたくはない、戦いが怖い、死ぬのが怖い者は……無理に街を出なくても良いと俺は思う。本当の命が懸かっているのだから怖くて当然だろう。それは誰も責める事は出来ないし、逆に……俺のように外に出て行く者を引き止める事も出来ない。……自分に出来ることを考えて、それを行う。それが今、俺たちがすべきことだろうしな……」
そう言うだけ言って、俺は別れの言葉も告げず、三人に背を向けようとした。
だがその前に、今まで黙っていた銀髪の少女が初めて俺に向かって口を開いた。
「あ、あのっ……あなたは、こ、怖くないんですかっ……?」
俺は銀髪の少女を見た。
怯えるような瞳に震える肩。多分、かなりの人見知りなのだろう。
その顔をよく見ると、俺はふとあることに気付く。
似ているのだ。金髪の少女と銀髪の少女の顔立ちが。恐らく姉妹、それも双子だと思われる。
快活そうな金髪の少女とは違って、こちらは貞淑な雰囲気を纏っている。
腰まで伸びたストレートの銀髪も、その清楚さを引き立てている。
そんな少女の問いに、俺は至って平然と返した。
「……別に、死ぬのが怖くないわけではない。……ただ、俺はこの《SAO》の世界で出てくるどんな怪物よりも怖い存在を知っている。……俺が平然としているように見えるのは、恐らくそのせいだろう。それより怖い物なんて、想像ができないのだからな」
そう、俺が最も恐れる存在。それは俺にずっと稽古をつけ続けていた祖父だ。
俺は幼い頃より武術を習ってきた。その中で祖父と相対したとき、本当に死ぬと幾度も思ったものだ。
幼い俺でも容赦なく骨を砕き、急所を攻撃してくる祖父。
恐らく俺は、そんな祖父より怖いものを想像出来なかったのだろうと思う。
だからこそ、自分の命が懸かっているという状況にも平然としていられる。
しかしそれが、俺が最初の一歩を踏み出せることが出来た要因でもあったのだから、逆に良かったとも言える。
「…………」
俺の答えを聞いて、銀髪の少女は黙った。
それもしかたないだろう。俺の答えは、かなり特殊な部類に入る。
その答えを理解しようにも、それが想像できないのだから無理な話だ。
俺は今度こそ三人背を向けて、武器屋に向かった。
背中の方から「あ、う……」という声が聞こえてきたが、俺のような特殊の塊みたいな男とは一緒にいない方があの子たちのためだろう。
もっと他に、丁寧に教えてくれるような人物がいるだろう。ここには1万人ものプレイヤーがいるのだから……。
少しだけ浮かんだ罪悪感を振り払いながら、俺は武器屋への道のりをやや早歩きで急いだ。
「――いらっしゃい! 《ドマールの武器屋》へようこそ!」
カランカラン、というカウベルの音を鳴らしながら木製のドアを開けると、活きのいい声が店内に響いた。
ニコニコ顔の太った中年の店員の声だ。
額から頭頂部だけ禿た頭。角ばったアゴにも鼻の下にも髭は無い。
汚い――といっても洗濯しても消えなかったような黒ずみの付いているエプロンを、でっぱった腹で押し出すように着ている。
店内は石畳以外は殆ど木造。片手剣や両手剣、槍、矢などが樽に何本も乱雑に刺さっている。多分、安物なのだろう。
逆に高価な武器は、棚にそれぞれ台に乗せて置かれている。しかし、そちらは今の俺では買えない。
店内には、俺の他に客はの誰もいなかった。
二木が前に言っていたことだが、《はじまりの街》にはいくつも武器屋があるらしいので、ここだけに人が集まることもない。
それもそのはず、今現在この街は一万という人数をかかえているのだ。
その人数を賄う武器屋なんて、それこそデパート並みの店でも賄えるかどうかあやしい。
それに加え、先ほどあんなことがあったばかりなので、武器屋に行こうとする者がそもそもまだ少ないのだろう。
「……店主。武器を探しているのだが」
ここ《SAO》での、店での買い方は俺が知っているのは4つだ。
一つ目は、店に置いてある品物をタンッと触れることで出る、【Buy it ?】というウィンドウに【Yes/No】でYESを選択する方法。ウィンドウには、その品物の説明と値段が現れるので、それを見て選定する。
二つ目は、カウンターをダブルクリックするように軽く叩くと、その店にある品物のリストが、ウィンドウとして目の前に現れる。それで買いたい商品を選んで買う方法。他の商品との値段や性能は比べやすいが、実物を見れないため、デザインや持った感触はわからない。
三つ目は、店員のNPCに声をかける方法。簡単なAIで動いているらしいが、しっかりとプレイヤーの要望に応えてくれるらしい。どんなもの、どの程度の値段、それらを言えば、重要な単語を読み取ってその店の商品からピックアップしてくれる。そして、こちらが訊いた品物の説明も口頭でしてくれるという。
四つ目は、欲しい品物を持って店の外に出ること。それだけで所持金から品物の金額が引かれる。しかしこの方法で気を付けなければならないのは、品物の金額よりも所持金が少ない時に持ったまま店を出てしまうと、自分のカーソルが犯罪者の証しであるオレンジ色に変わる。品物は手に入るが、オレンジカーソルには色々と不利な制限が付くので、所持金には十分に注意しなければならないだろう。
俺は、まだこの《SAO》について、マニュアルに書いてあったことしか解らない。しかも、そのマニュアルは、システム的なことだけしか書いていなく、ゲーム内のことについては殆ど何も書かれていなかった。
なので、条件を言えばある程度NPC側で選別してくれるという口頭での買い物方法を選んだ。
「どんなのをお探しだい?」
NPC――ここが《ドマールの武器屋》ということを考えれば、この店主の名前が《ドマール》ということになるのだろうか――が、訊いてきた。
俺は、今現在の自分のスペックと、希望の武器を言う。
「レベル1でも持てる両手用の長槍を見せて欲しい」
俺が祖父から習っていた槍術は、基本的に素槍を扱う。
素槍は刃は短くシンプルのものが多く、しかも木造の柄の部分がよく撓るのだ。
この《撓る》という部分が俺にとって、俺の扱う東雲流槍術にとって重要となる。
「レベル1ねぇ。そうすると、ウチにゃあコレとこれしかねぇが……」
難しい顔をしてあごを捻りながらカウンターにどこからか出した二本の槍を置く店主。
正直、俺にはこのNPCの仕草は人間以外には見えない。
俺はカウンターの上に置かれた槍の一本に触る。
カテゴリ《ロングスピア/トゥーハンド》、固有名《シンプルスピア》、金額400コル
金属の棒に小さい直刃が付いただけのなんの装飾も無い槍。
一応、持った感覚も確かめておきたい。
「……店主、持って見ても?」
「おお、かまわねぇよ」
俺は《シンプルスピア》を両手で構えた。
――少し、重いか。
見れば筋力要求値はギリギリだ。改めて今の自分の非力さを知る。
俺は《シンプルスピア》を置き、もう一つの槍へと手を伸ばす。
カテゴリ《ロングスピア/トゥーハンド》、固有名《ウッドハンドルスピア》、金額300コル
そのウッドハンドルの名の通り、柄の部分が木で出来た槍だ。柄が木製ゆえに、先ほどの槍よりかは軽い。
構えたまま軽く槍を左右に振ってみる。
――ふむ。撓りはまあまあだな。
俺が探していた特徴の槍と割と近しいものだったので、俺は《ウッドハンドルスピア》の方を買おうとした。
そのとき――。
「お客さん、それを買うなら注意しろよ。それは柄の部分がやわい木造だからよ。はっきり言って耐久値が他より低いんだ。モンスターの攻撃を受けたらガンガン耐久値が減っていくぞ」
そう、店主が言った。
――む、それは困る。
確かに現実の実際の武器でも、思いっきり叩いたり受けたりしてれば直ぐに磨耗する。《SAO》では、どこまで、どの程度まで一つの武器で戦うことが出来るのかは俺にはまだ解らない。
「……店主。ではこの槍は、攻撃するにもどんどん耐久値は減るのか?」
「いやまあ、減るっちゃ減るがな。モンスターの攻撃を受ける程には減らねぇよ。そこは他の武器とほとんど変わらねぇ。その《ウッドハンドルスピア》は、あくまでモンスターの攻撃を受けたときに全金属製の武器に比べて耐久値が減る量が多いっていうもんだ。まあ、そんかぁし、普通ならレベル5ぐらいの筋力要求値が必要な全金属製の槍と同じぐらいの攻撃力を持ってるんだぜ。刃の部分だけは《アイロン》だしな」
なるほど。それはいいことを聞いた。
正に俺に相応しい槍だ。正確には、俺の扱う槍術に……だが。
俺は改めて《ウッドハンドルスピア》を買うことに決めた。
「……店主、これを貰う」
「ほいよ。えーと、値段は300コルだ」
その店主の言葉と共に、俺の目の前に【Buy it ?】とウィンドウが現れた。
――300コル……か。
プレイヤーに初期配布されている通貨は、500コル。
俺は先ほど《スウェルトードの串焼き》一つ4コルを、二つ買った。
つまり現在の所持金は492コル。
槍を買えば192コルになる。だが、モンスターを倒せば金は手に入るだろう。
俺は迷わず目の前の【Yes】に触れた。
「まいどあり」
俺はアイテムストレージを開き、今買った槍を確認する。
――192コルか。もう、金に殆ど余裕は無いと考えていいだろう。
この《SAO》の世界には、食欲が存在する。それは先ほど自分で確認済みだ。
ならば当然、睡眠欲もあると考えた方がいいだろう。つまり、寝床が必要だ。
野宿も考えたが、マニュアルを読んだときに見た一文を、俺は思い出していた。
――宿屋の個室や、プレイヤーハウスのセキュリティには――
セキュリティ。ゲーム内でそんな言葉が出てくるということは、逆を言えばそれが必要になる場合があるということだ。
つまり、ゲーム内でも犯罪が出来る。
この場合――街中のような《犯罪禁止コード圏》内での犯罪というものが、どういうものなのかは俺にはまだ解らないが、どうせ寝るなら安全が最低限約束されている場所で寝たい。
だとしたら宿屋の鍵付きの個室か。そしてそれには宿屋に泊まるための金が要る。
宿代が一泊いくらなのかは分からないが、手持ち192コルでは少々この先は心許無い。
これは早めにモンスターを倒して、金を手に入れる必要があるだろう。
「……店主。世話になった」
「まいどありぃ。また来てくれよ」
店主の言葉を受けて、俺は店を出た。だがふと、今出てきた店を振り返る。
NPCと知ってはいても、俺には普通に人間と会話をしているように思えた。
一つ確認したいことがあったので、俺はもう一度、今出てきたその店に入った。
「いらっしゃい! ドマールの武器屋へようこそ!」
「…………っ」
最初に入ったときと、少しもずれの無い声音で言う店主。
その店主の顔も、先ほど見た笑顔とまったく変わりはなかった。一瞬だけ、店主の笑顔が能面のように見えた気がした。
その様子を見たとき、俺は悟った。
――そうか。これがNPCというものなのか……。
俺は、少しだけ寂しい気持ちになりながらも、店主に質問をした。
「……店主、質問がある。《ウッドハンドルスピア》と同じように、柄の部分が木で出来ている槍というのは他にあるのか?」
これから俺は、木柄の槍を主武器とするだろう。
もし、そういう槍の種類が少ないのだとしたら、少しだけ方向性を変えてみる必要もある。
全金属製の槍、あまり撓らない重い槍に慣れるということも、しなくてはならないかもしれない。
「ああ、もちろん他にもあるぞ。樫やクヌギ、松を柄に使った槍な。だが敵の攻撃をその武器で受けた時に、他の全金属性の槍よりも耐久値の減りが早いっつう共通の特性があるぞ」
その特性はさっき聞いた。
一度、店を出ると忘れてしまうのだろうか。
「……そうか」
知りたいことは解った。今はもうこの場所には用は無くなった。
そう思って踵を返そうとしたとき、
「そういやぁ、三十五層の《迷いの森》のどっかに木造柄の強い槍を落とすモンスターが出るって聞いた事があったような……」
――?
店主が誰に言うでもなく呟くように言った。
これは、この情報は信じてもいいのだろうか……?
だが、このNPCが俺を騙す理由も思い当たらない。
とすれば、俺の最初の目標はその三十五層の《迷いの森》にあるという《強い槍》を探すということにするか。
百層攻略は大きな目標として、目先の目標も決めておくに悪いことは無い。
「……情報、感謝する」
恐らく、NPCには言っても意味は無いのだろうとは思ったが、俺は店主に礼を言い、店を出た。
「また来てくれよ!」
そう言った店主の声が、俺の背を空(むな)しく叩いた。
現在の時刻は、午後六時五十三分。
あの、茅場晶彦のチュートリアルというものから一時間以上が経った。
辺りはすでに夕暮れの赤は消え、藍色の薄暗さに包まれていた。
――さて、武器は手に入れたが、今日はもう暗くなっている。宿を探して休むか、もしくはこのまま街の外に出て戦闘を実際に経験してみるか。
俺は数分間考えたが、一度だけでも戦闘を経験してみようという結論に達した。
確かに視界はすでに暗く、よく見えない状態ではあるのだが、どんな状況でも戦えるようにしておくのは悪いことではない。
それに、ここは《はじまりの街》。つまり周りには弱い敵しか現れないだろう。
レベル1のプレイヤーばかりのところに、ありえないほど力の離れた敵を出すなどという理不尽は、流石の茅場もしないだろう……多分。
だったらそれは、初の夜戦の練習にも丁度いい。
俺は、ここから一番近いはじまりの街の北西ゲートへと歩を進めた。
今まで遊ぶことすらもせずに鍛錬を続けてきた槍術。それが《この世界》でどこまで通用するのかは解らないが、俺は今、自分がこんな状況下で再び高揚していることに気付いていた。
――祖父より鍛えられたこの槍技……試せる時が、来たようだ。