side Tohko Aozaki
「‥‥所長ー、例の調査の結果が上がりましたよ? 所長ー? 橙子さーん?」
浅い海をたゆたっていた心地の良い微睡みから目を覚まし、私は顔に被せていた読みもしない週刊誌を持ち上げると体を起こした。
欠伸をかみ殺して、眼鏡を探すが見つからない。そういえば一休みしようと思ったときに机の上に置いたのだったか。
頭の後ろに手を回して確認すれば、無造作に括った髪の毛は乱れていない。多少癖がついているようだが、手櫛で整えたらすぐに元に戻る。
ソファで眠っていたからか体中がギシギシと軋んだ。‥‥やれやれ、さほど長い時間ではなかったはずなんだが、な。
「あれ、寝てたんですか? 珍しいですね、所長が居眠りなんて」
「‥‥黒桐か。hん、私だって人間さ。たまには疲れが溜まって休息が欲しくなることもある。まぁ無様だから滅多にやりたくないというのは事実だがね」
「はぁ、まぁ確かに」
外はそろそろ夕焼けが差し込み、辺りは昼と夜との境目へと侵入しつつある。
最後に時計を見た時は丁度三時だったから、大体二時間弱は寝ていた計算になるか。実に私らしくない。
古びた廃ビルの中にある事務所は色々と細工をしているから暑くも寒くもないので、居眠りには絶好の場所であると言うことも確か。
そういえば鮮花もたまに机にかけながら船をこいでいることもあったな。まぁアイツは全寮制の学校からわざわざ私のところに通っている。仕方がない部分もあるのだ。
もっとも私の講義の最中に少しでも眠そうな素振りを見せない辺りは、しっかりとわきまえているんだろう。
というのも私がそれなりに物騒な人間として見られているという証明であるのだが‥‥まぁ魔術師ならば本望というものかもしれない。
「すいません、居眠りしてるところを見られるのって気恥ずかしいですよね。そういえば式が居眠りしてるってところも想像でき‥‥ない‥‥」
「ほぅ、まさか今お前、式が居眠りしているところを想像して少し可愛いなとでも思ったか? クク、中々に良い生活を送っていると見える」
「べ、別にそんなことはありませんよ! ‥‥そりゃ、少しはそう思わなくもないですけど」
「隠すな隠すな、お前と式に関しては今更だろう。今年になって漸く婚約の約束も二人で取り付けたらしいじゃないか。おめでとう、後は親御さんを説得するだけだな」
この工房、『伽藍の洞』の唯一正式な従業員である黒桐が照れたように頬をかき、私はそれを肴に盛大に笑った。
黒桐幹也と両儀式の関係は最早一年二年という程のものでもなし、それでいながらここまで新鮮な反応を返されるというのも楽しいものだ。
熟年夫婦とでも言うべき安定感を持ちながら、まるで成り立てのカップルのように初々しい。
鮮花はこれでまだ自分にチャンスがあると思っているのだから、アイツも勘が鈍いのか、それとも分かっていながら強がっているのか、もしくは本当に強いのか‥‥。
どちらにしても勝ち目はなさそうだが、ここで諦めるようなら私が弟子にとることもなかったと言える。
そう考えれば黒桐と式の婚約が間近に迫っている今でも、当分はこの状況が続いていくのだろう。
「色々と事情を知っているだろう式の家はともかくとして、何も知らない君のご両親に話は通したのか?」
「えぇ、正式に決まったわけじゃないから心配させたくなくて、鮮花にはまだ言ってないんですけどね。電話越しですけど、喜んでくれましたよ。式の方が上手くいったら二人揃って挨拶に行かないと」
「勘当もようやくこれで終わり、か。長男があんな美人の嫁を連れて帰ってきたら、そりゃ喜ぶだろうよ」
両親、か。実のところ私はあまり両親のことを思い出せない。
物心ついた時から祖父の元で魔術の修行に没頭していたし、青子が跡を継ぐとしって師である祖父をブチ殺して出奔してからは一度たりとも会っていないのだ。
それを考えるとあれから会っている肉親というのは青子しかいないというわけなんだが‥‥それにしても殺し合いが殆どであった。
“アイツ”がいなければ今でも会うたびに殺し合いをしていたことだろうから、家族を持つことになた点に関しても、やはりアイツは私達の中で大きな比重を占めていたのかもしれない。
「‥‥で、調査の結果が出たと言っていたが?」
「あ、はい。冬木の私立高校、穂群原学園とその関係者に当たっていたところ、お望みの情報は見つかりましたよ。所長の考えズバリ的中です。僕も驚きました」
調査を頼んだ内容に比して遥かに分厚い書類の束を鞄から取り出した黒桐が、ズシンという音が聞こえるのではないかという錯覚と共にそれをこちらに渡した。
表紙には『遠坂凜、衛宮士郎に関する調査書』とあり、延々数十頁なんてものではない程の量の調査結果が続く。
‥‥呆れた。頼んだのは本当に僅かな事柄だけだったのに、どうしてYesかNoで答えられるような簡単な調査にこれほどまでの結果が出てくるのやら。
「そんなこといったって、所長からの依頼は大概ろくでもないものだって相場が決まってるじゃないですか。流石に僕だって何度も何度も同じ調査をするのは手間ですから、予め調べられそうなものは全部調べておいたんですよ」
「調べておいたって‥‥おい黒桐、お前には個人情報保護法なんてものに対する理解はあるのか? これはもう身ぐるみ剥いだっていうレベルですらないぞ?」
表紙をめくった一頁目には身体情報。二頁目には家系図。三頁目には履歴書に書き込んだら余裕で数枚は消費してしまいそうな略歴‥‥というか、これは略歴ではないな。
常々から異常だとは思っていたが、ハッカーでもないくせにどうしてここまで詳細な情報を持ってくることができるのだろうか。
「いや、別に大したことじゃないですよ。市役所で聞いたり、知人伝てに聞いたり、調べる手段なんて星の数ほどあるじゃないですか」
「それで調べられてしまう君が異常なんだがな。‥‥で、まさか私にこの分厚い資料を全部読めとでも?」
「‥‥やっぱり、僕が説明した方がいいんですかね?」
「当然だろう。私にはそんな暇も興味もない。調べて欲しかったことだけ言ってくれれば構わん」
資料を持って自分の仕事机へと戻り、書類の山の一つへと放り投げた。
こんなものを読んでいてはそれだけで丸一日潰れてしまう。そこまでする価値があるとも思えないし、意味もない。
今重要なのは私が黒桐に依頼した僅かな情報のみ。ある意味では些細なことだが、その情報があるのとないのとではアイツの心構えも変わるというもの。
既にアイツは独り立ちしている以上、ある程度の手助け以上はしてやるつもりはないが、せめてもの援護射撃だ。
「はぁ、結構それなりに苦労したんですけどね。何故かこの子達は調べるのが難しかったし、知人らしい知人も少なかったんですよ?」
「仮にも魔術師だ。一般人を調べるのとはワケが違うのは当然だろう」
「そうですね、確かに橙子さんについて調べたときよりは簡単でしたけど。まぁ色々とその間にもあったんですけど、割愛します」
溜息混じりに冷蔵庫へと向かい、中から予め買い置きしていたと思しき缶を取り出して煽った。
外は中々暑かったのだろう。なにせ九月だ、まだ残暑が厳しい。
それでいて黒尽くめな恰好のままなのはポリシーなのだろうか。いや、おそらくは惰性だろう。
何時からそんな恰好をしているかは知らないが、少なくとも初めて会ったときには既に黒尽くめであった。
そして今は長い前髪で覆っているが、片目に傷をもつその風貌は甘い顔立ちが無ければ間違いなく“そのスジ”の者と誤解されてしまう程に“らしい”。
これで子供に泣かれたことがないのだから驚きだ。調査も順調に進むらしい。
「で、この遠坂凜ちゃんと衛宮士郎君ですけど、所長が言っていたように英国の大学に推薦で入学する扱いになってましたね。学校の書類でもそうなっているらしいですし、市役所に転出届も出されてました」
「大学とは例の‥‥アレか?」
「そうですね。僕もかなり時間をかけて探してみたんですけど、こんな大学は英国のどこにも存在しませんでしたよ」
黒桐が資料を十数頁めくったところの項目を私に示す。そこにはそれらしい大学の名前と所在地が書いてあったが、どれも正しいものではない。
このような大学は存在しないし、所在地にしても同様だ。
それも当然。なにせこの大学とは乃ち魔術協会の総本山、時計塔と呼ばれる学院を意味する。
各国からこの学院に進学する者達は、この仮の書類を使って表の顔とする。
表ではこの大学に入ると言っておいて、実際に通うのは時計塔ということだ。
‥‥しかし私が知っていたからいいのだが、よくぞまぁこの大学が存在しないことを突き止められたものだ。
そも認識阻害が厳重にかかっているから普通の手段では探し当てることすら出来ないのだが、どうやって調べたのだろうか。
書類上の不備は一切ないはずなのだが、まさか現地まで行ったということはあるまい。
本当に、コイツの交友関係は一体どうなっているのやら。
「ドイツの知人に聞いた話なんですけど、どうも彼の友人がこの大学に通っているらしいです。それでイギリスの知人に彼の友人のことを聞いてみると、その彼を大英博物館の近くで見かけたことがあるそうです。橙子さんの言ったとおり、これが時計塔ってヤツで間違いないと思います」
「‥‥本当に大した物だ。昔お前に探偵を開いた方がいいと言ったことがあるが、撤回だ。文字通り何でも見つけられるんだから、厄介だと思われて裏の人間に始末されかねんぞ」
わざわざ火を点けた煙草を灰皿に放ったまま呆然としてしまう。本当に、コイツのこの部分だけは右に出る者はいないだろう。
コレは下手したら探査系の魔術の一種なのではないのか? コイツの行動原理というか、システムというか、そういうものをまとめるだけで一つの魔術が完成してしまいそうだ。
一考の価値があるかもしれん。そういったシステム系については門外漢だが、興味が湧いたら何にでも手を付けてしまうのも性分だからな。
「しかしまぁ、これで遠坂凜と衛宮士郎が新年度に時計塔へやってくることだけは分かった、か。ふん、予想していた最悪のシナリオだな」
「‥‥どういうことですか? そりゃ魔術師相手なら警戒するのは分かりますけど、そもそも時計塔っていうのは魔術師の巣窟だって所長が言ってたじゃないですか。言い方は悪いけど、たかだが高卒ぐらいの二人相手にそこまで警戒するっていうのも―――」
「コイツらは別なんだよ、コイツらは、な」
火を点けてすぐに置いてしまった煙草を灰皿から取り出し、口にくわえて紫煙を吸い込む。
ちらりと視線をやった外は見事に真っ赤に染まっていて、それは恐らく、今この瞬間だけ見られる景色に違いない。
毎日というわけではないにせよそれなりに頻繁にお目にかかれる光景ではあるが、意外に視線を向けることは多くなかった。
故にそれから目を外すというのもどうかと思い、視線はそのまま黒桐に問いかける。
「なぁ黒桐、英雄という人種をどう思う?」
「英雄‥‥ですか? それはもしかしてアーサー王とかヘラクレスとか関羽張飛とかのことですか?」
「そこで日本人の名前を持ってこないのはお前らしいが、まぁそういう連中のことだ」
「ふむ、英雄ですか‥‥。そういう人達がいたら、僕は是非会ってみたいですけどね。やっぱりこんな歳になっても英雄譚とかには憧れます」
「クク、成る程、確かにそれが普通の反応だろうな。‥‥お前の言う英雄と言うヤツが、全て過去の人間だから言えることだ」
もう一口煙を吸い込んで煙草を指に挟む。小さな換気扇に吸い込まれた煙が空に上っていくのが窓を挟んで見えた。
私の意味深な言葉に首を傾げる黒桐は本人が言うような年相応の顔には見えず、どこはかとなく子犬のようだ。
全く凡庸に見えながら、凡庸とはかけ離れた連中ばかりがコイツの周りに集まる。
式然り、鮮花然り、浅上藤乃然り。昔の話で言えば巫浄霧絵もそうか。他は‥‥語るに値しないな。
ともすればコイツならば気づくかと思ったのだが、どうにもね。こういうヤツだからこそ連中も惹かれているのかもしれん。
「種類によるが、英雄の間には極めて普遍的な共通点がある」
「共通点?」
「そう、共通点だ。いいか黒桐、大なり小なり『英雄は世が乱れている時に現れる』。かみ砕いて言えば、『英雄の周りには厄介事ばかり転がっている』ということさ」
「はぁ、まぁ確かに。英雄って戦乱とか怪物退治とかで名を馳せたりしてるって印象がありますけど‥‥。突然どうしたんですか? 今は別にそんな話してなかったでしょうに」
怪訝な顔のまま黒桐は近くのテーブルへと歩いていき、積もり積もっている書類の束を整理し始める。
コイツめ、私の話が長くなると思って適当にあしらうつもりだな。
別に一向に構わないが、最初の時のように直立不動で私の前で話を聞く、殊勝な態度が見れなくなったのは残念だ。
「なに、つまり私が言いたいことというのはな」
もう一度大きく煙を吸い込んでから言葉を続ける。
意味はないが、私は話の途中のこういう間が好きだった。
「英雄は偉業を成し遂げるだろう。その果てに数多の先人達のように悲惨な最期を遂げたとしても、それは自己責任というもの。だがな、英雄の周りにいる者はどうなる? 英雄のように危機を乗り越える力もなく、振りまわされる傍の人間は?」
「‥‥まさか橙子さん、彼がそうだと?」
「そうは言っていない‥‥いや、結局はそうなってしまうのか。私が望まずとも、アイツが望まずともな」
手元にある一枚の手紙に視線を落とす。先日、筆無精のアイツがわざわざ手紙で近況を報告して寄越したものだ。
最初こそ時計塔で上手くやっていけるかどうか心配になったものだが、まぁ何とかそれなりにやれているらしい。
友人関係が多少気になるところだが、まぁそもそも魔術師なのだから分かっているだろう。
私達のような者達の方が、よく考えてみれば異常だったのだ。
「さてさて、忠告はしてやるつもりだが、どれだけ効果があることやら」
不幸体質とまではいかないが、アイツも中々厄介事に首を突っ込む性格をしている。
この十年ほどで魔術師としての思考はしっかりと叩きこんだつもりだが、ふん、私に似たのなら私自身がお人好しということになるのだろうか。
私は手の届くところにあったペンをとり、さっと黒桐から渡された資料の表紙に書き込んだ。
はっきりと大きく、それでいて事情を知らぬ者には何のことやらさっぱりだろう。
そこに記された三つのアルファベット、『UBW』の意味は、な。
◆
「‥‥ミスタ。ミスタ・アオザキ」
靄がかかった頭の中に響く。誰かが誰かを呼ぶ声がする。
それはすごく近くで、まるで自分に語りかけているかのように聞こえていたのに、なぜだろうか、その人が呼んでいる名前に聞き覚えが全くない。
そもそも聞こえてくるのは日本語ではなく英語。綺麗なクイーンズイングリッシュはウチの高校の英語教師、それもティーチングアシスタントのアメリカ人にも使えまい。
『あぁ、お前が何をしようが私は興味がない。だがな、とりあえず今の内は私の指示に従ってもらうぞ。どこぞでのたれ死んでも良いのなら、その限りではないな。もっとも出て行ったところで私に首根っこひっつかまれて連れ戻されることぐらい、しっかりと分かっているはずだろう?』
記憶がやけに混雑している。まるで反響するかのように、様々な事柄が俺の頭の中を駆けめぐっていた。
現実と、記憶の境目が曖昧だ。どちらも反響して互いの領分を侵している。
だって今の今まで知らない名前を聞いていたはずなのに、頭の片隅ではそれを何度も、日常的に聞いていたと判断しているのだ。
「‥‥起きて下さいな、ミスタ・アオザキ」
はて、本当にそうだっただろうか? 自分は、この名前に聞き覚えがなかったか?
どうにも頭の中がまるで靄でもかかっているかのようにハッキリとしない。
というよりまず俺は本場のクイーンズイングリッシュなんて聞いたことがないはずなのに、どうして今聞こえた英語の種類を判別できたんだろうか。
俺は眠ってしまう前まで一体何をしていたのだったろうか、全くと言って良い程に思い出せない。
やたらと寝てしまう前の記憶に霞がかかっていて、まるで十年以上も前の要に定かでなくてもどかしい。
思い出せ。確か、勉強の合間にPS2をつけ、忙しさからかなり長い間のんびりと攻略していたゲームを‥‥
『アンタっていつもね、考え過ぎなのよ。というよりも背負い込み過ぎっていうのかしら。私や姉貴に頼ることは知ってるのに、頼り方が不自然というか、慣れてないのよね。遠慮を隠すのも苦手だし、そもそも隠し事が全面的にダメだってのにそろそろ気づいたらどう?』
違う、違う、違う。これは今の記憶じゃない。どれが今の記憶じゃない?
二種類の色の違う記憶と現在の思考。混ざり合って滅茶苦茶だ。
まるで分割思考を実体験しているかのように並列していながら統一されている。つまるところ滅茶苦茶なことには変わらない。
今まで何度かあった体験だ。ようやくそこまで思い出す。
でも解決策は見つからない。何だって現実感が欠片もないんだから、現実的な対策をとりようがないのである。
ついでにこういう思考をしていても論理的に繋がりがない。本当に滅茶苦茶だ、嫌になる。
「‥‥仕方がない方ですわね。こうなったら‥‥」
まぁ待て、落ち着くんだ俺。KOOLになれ。
こういう時は素数を数えれば落ち着くと偉大な先人が言っていた気がする。
1,2,3‥‥と、ダメだ思考すらもバラバラで順序だって考えられない。
「‥‥これで起きなければ本当に次の授業は置いていきますわよ‥‥!」
やたらと遠回りな思考で時間を浪費してしまったけど、そういえば今は一体何時だろうか。
少しうとうとしてしまった程度ならいいが、朝までぐっすり寝てしまったなんてことになれば目もあてられない。
明日‥‥今日かもしれないが、とにかく提出しなきゃならない課題がある。
中間考査の出来がよかったからといって普段の提出物がアレではとても良い内申点はとれはしまい。
いや、違う、これも今の俺の記憶じゃない。とうの昔に放棄した―――
「‥‥いい加減に起きなさい、ミスタ・アオザキ!!」
「ぐぁぁああっ?!」
突然側頭部に鈍器か何かで殴られたかのような衝撃を受け、俺はもんどりうって椅子から転げ落ちると目を覚ました。
気付けばそこはかつての日本にあった自宅の居間のテレビの前でもなく、自室の約半分を占拠するロフトベッドの上でもない。
少し湿気た空気が半開きの窓から流れ込む大学の講義室のような教室と、顔を上げた目の前には僅かな日の光に照らされて綺麗に輝く鮮やかなオレンジ色の髪。
それをこれまた昔の少女漫画か何かのような風化した縦ロールにセットした、万人が万人、美少女と称えるであろう完全無欠のお嬢様。
俺は寝ぼけているからか一瞬彼女の名前を思い出せずにいたけれど、覚醒の遅い頭を無理矢理に振るって意識を鮮明にさせる。
そうすると苦労していかにも何でもなさそうな顔を作り、腕を組んでこちらを見下ろす彼女に笑いかけた。
「やぁ、今日も元気だねルヴィアゼリッタ。起こしてくれてありがとう」
「ショウ、そこは普通『綺麗だね』と言うところではございませんこと?」
「君が優しく起こしてくれたのだったらそう言っただろうね。でも君は乱暴に過ぎるよ。流石にガンドはないんじゃないかな‥‥?」
「何度も優しく起こしましたわよ。肩を揺すって、枕にしているノートを動かして、耳元で少し大きく叫んでみたりもしましたわ。それでも起きない貴方が悪いです。まったく、講義中に寝てしまうなんて一体昨夜は何をしていましたの?」
意識が鮮明になり、ようやく今ここにいる自分を認識する。
俺の名前は蒼崎紫遙。
封印指定の人形師である蒼崎橙子と第五の魔法使いである蒼崎青子の義弟であり、魔術協会の総本山で最高学府であるココ、時計塔の鉱石学科に所属する魔術師だ。
「さて何をしていたんだっけな。新しく教授から借りてきた魔術書を読み耽っていたのかもしれないし、新しく羊皮紙に魔術式を書き込んでいたかもしれない。いや、確か先日発表された論文の粗捜しをしていたかもな。君はどれだと思う?」
「どうせ貴方のことですから、それらの全部といったところでしょう? まったく、いくら夜こそが魔道の探究に最適な時間といっても少しは自重なさらないと体を壊しますわよ?」
「魔術師が睡眠時間がたらないぐらいで壊れるわけがないだろう? 君だって魔術回路に魔力を通して三日三晩工房に籠もりきったことがあるじゃないか」
時計塔に来て二年弱。決して長い時間ではないけど、それでも俺は完全に倫敦の街に、学院の空気に馴染んでいた。
何しろ二年とはいっても、かなりの基礎を子供の頃から封印指定である義姉に仕込まれたおかげで基礎錬成過程を飛ばして専門課程へと進むことができた。
通常俺のような初代の魔術師は基礎錬成講座なる初心者向けの退屈な授業を経験しなければいけないことを考えれば、破格の対応とも言えるだろう。
やはり『青』の称号を持つ魔法使いを輩出した家系の持つネームバリューは凄まじい。ついでに俺が義弟ということも殆どの人が知らない。
何はなしに立場チートという言葉が脳裏をよぎったけど、なに気にすることはないさ。
俺から言わせて貰えば他の連中の方がよっぽどチートだよ。それなりの好待遇を受けて毎日をのんびりと魔術の探究に費やすなんてぐらいじゃ、チートのチの字にも掠りゃしない。
「私の場合はその翌日に論文の発表が迫っていたからです。貴方のように分別がないわけではありませんわ」
「いや、別に俺だって毎日毎日こんな調子じゃないことぐらい君は知っているだろう? 昨日はちょっと、本当にちょっと研究の興がのっただけでね。ついつい寝るのを忘れてしまった、そういうことさ。大したことじゃない」
「生活や学問をする上でのアルゴリズムというものは人それぞれですし、魔術師として共感出来るところは多分にありますけど、それで授業中を惰眠に費やしていては本末転倒ではございませんこと?」
物理衝撃すら伴う強烈なガンドをくらった側頭部をさすりながら、俺はすっかり生徒のいなくなってしまった講義室を見回した。
よくある理科実験室のように壁には鉱物標本がずらりと棚に入って並んでいたり‥‥しない。
魔術に使う鉱物や宝石は貴重だからこんなところに晒していたら危なくってしかたがないのだ。
基本的に材料は個人調達。もしくは教授に頼んで手配してもらう。
教授が講義につかう物は全部隣の、魔術的な施錠が幾重にもなされた準備室に保管してあるからどうあがいても盗難の被害はない。
この辺りはやっぱり普通の学校じゃないな。まぁ当然といえば当然だし、俺の育った環境というのも中々に特殊と言えるから、一般的な魔術師と言われても首は半端にしか触れないからね。
「君も知ってるだろう? 俺の本分は鉱石魔術《コッチ》じゃない。そりゃ真面目に授業を受ける気ぐらいはあるけど、やっぱり自分の本分の方に傾倒してしまうのは魔術師として当然のことだよ」
「貴方は魔術師魔術師とまるで免罪符のように使いますけど、それでも学生として授業に出るのは当然のことでしょう? いくら鉱石魔術が専門でないとはいえ、クラスに所属している以上はあまり不真面目だと単位を落としますわよ?」
腰に手を当てて呆れ顔ながらも真剣に俺を諭すルヴィアに軽く手を振り、大きく伸びをした。
講義の途中、丁度半分ぐらいから記憶がないからかなりの時間同じ姿勢を保持していたらしい。
背筋のみならず肩や足、体中がバキバキと悲鳴をあげる。まったく、本当にどうかしている。
こんなことだから摩耗して思い出すこともできず、するつもりもない昔の記憶を思い出してしまったに違いないのだ。
『‥‥捨て子、か? ふん、それにしては随分と図体がデカいな。それに酷い怪我だ。‥‥おいお前、この平和な街で一体どういうことだ?』
ある日、俺はとある事故に巻き込まれた。
詳しいことは諸事情で思い出せないけど、何の罪もない人間を沢山巻き込んだ大事故で、巻き込まれた瞬間に「あ、死んだな」と悟ってしまうぐらいのものだった。
死にたくない、と思ったかどうかは定かではない。今の俺に残っているのは恐怖よりも達観で、それがやけにリアルだからこそ、後述の事実も相まってアノ事故の存在を信じているのだ。
熱くて、痛くて、巻き起こった熱波から眼球を守るためか思わず目を閉じたがために周りは何も見えなくて。
それでも俺は気づいたら事故がおきた状況とは一変、体中に怪我を負った状態で何の変哲もない街角に、降りしきる雨に打たれて濡れ鼠になって転がっていた。
熱くて、冷たくて、痛みと血の喪失で霞む視界に認めた、俺を見下ろす一つの人影。
そして、そこで声をかけられた時、俺の人生もまた一変したのだった。
そう、俺は厳密に言えば『この世界』の人間じゃない。
俺が生まれ育った日本じゃ魔術のマの字もなかったし、そもそも俺は蒼崎紫遙なんてけったいな名前じゃなかった。
あの雨の夜に拾い上げられて、気づいた時には知らない天井を見つめていて、頭は割れるように痛かった。
ギシギシと軋む首を動かして横を向くと、そこには何よりも冷たい目をした現在の上の義姉の姿。
その顔だけでは分からなかっただろうけど、何より俺を見つめる目が、咄嗟に浮かんだ夢見がちなバカみたいな考えを肯定していた。
あぁそうさ、俺は、今まで暮らしていた世界と似て非なる、神秘が社会の裏で跋扈するこの世界へとやって来たのである。
「しかし起こしてくれて助かったよ。心情としてはいつまででも寝れる内に寝ておきたい気分だったけど、流石に次の講義にまで遅れるわけにはいかないからね」
「別にショウが気になさる必要はありませんわよ。いえ、居眠りについては十分に気にして欲しいところですけれど、私としても貴方がいないと退屈なんですもの」
「おっと、友人し甲斐のある嬉しいことを、さらりと恥ずかしげもなく言ってくれるね。だとしたら我が親友殿を起こらせないためにも、さっさと次の講義室へ向かうことにしますか」
自分が何かを口にする際には、どんな恥ずかしい台詞や気障な台詞でも負うことなく言い切ってしまえる彼女は、俺の中では太陽のように輝く存在だった。
普通に考えたら近くにいるのが恥ずかしくなってしまうぐらいの服装や髪型が不思議と似合ってしまう彼女に今更かもしれないけれど、やっぱり凄い友人だよ、ルヴィアは。
『どうしてお前がこちらの世界に飛ばされたか? おいおい、私は彼の宝石翁でも何でもないのだぞ。そういう魔法じみた事柄に関しては門外漢だ』
先程の夢のような記憶との邂逅が原因か、随分と昔、それこそ五、六年も前に一度か二度交わした話が脳裏をよぎる。
それなりに魔術について修行をし、ようやく見習いの域に足を踏み入れたかそうでないかぐらいの頃だったか。
漸く俺も魔術に関して知識も増え、橙子姉―――自然とそう呼ぶようになった。経緯は省く―――と魔術関連の話を交わすことができるようになり、そこでやっと俺がこの世界に来た理由というものについての議論が成立した。
要するにそれまでは俺があまりに未熟だったがために話が出来なかったというわけで、まったく歯痒いところではある。
『そもそも考えなければならない要素というのはまだ沢山残っているだろう。大勢いた被害者の中で何故お前だけが世界を飛び越えたのか。もしくは他の連中も飛び越えたのかいないのか。
何が原因なのかもさっぱりだし、それに付随する状況についてもさっぱりだ。はっきりいって議論の余地すらないよ。宝石翁と巡り会うのを辛抱強く待ったほうがよっぽど効果的だ』
並行世界を渡る第二魔法を扱う宝石翁。しかし彼は気まぐれで、生きている内に噂を聞くことが適うかも分からない。
つまるところ封印指定である義姉を以てしても不明というのだから、魔術特製としてそちらに向かない俺としても不明。
まぁそもそも今となっては帰るつもりもないし、例えそれが魔法への手がかりであったとしても一考する手がかりすらもないのでは意味がないだろう。
『しかしまぁ、お前の体が小さくなってしまったという点に関しては多少心当たりがないこともない。おそらくは魂に欠損が生まれたか、歪みが出たか、そのあたりだろう。これについても門外漢だからよくは分からんが、世界を渡るという反動によって、といったところだろうな』
そう、橙子姉が見つけたずぶ濡れの怪我人は年端もいかぬ子供であった。俺はこの世界に来た反動で、子供の体になってしまっていたのだ。
明らかに不審な子供を警察に届けずに拾ってくれた理由は今の今になっても教えてくれない。
とはいえ複雑でありながら単純明快な経緯を得て橙子姉の義弟として生きていくことを決断し、以後を家族兼弟子として厳しい教えを受けた。
魔術師として生きていくことを決意するまでにはまた色々なことがあったんだけど、それはまたの機会に回す。
橙子姉も最初は渋っていたみたいだけどね。結局魔術師としての技術の大半は橙子姉から教わったよ。
ついでに『私も行ったんだからお前も行け』という かなり理不尽かつ偽・螺旋剣(カラドボルグ)もかくやという程に歪んで切っ先が明後日の方向を向いた愛情で、魔術師の最高学府である時計塔《ココ》へ単身放り込まれたのだった。
「さ、いつまでも喋っていると本当に遅れてしまいますわよ? 次の講義は実技演習ですから地下の実習室ですし。私、ミイラ取りがミイラなんて無様は晒したくありませんの」
ルヴィアは頭の左右でしっかりと地面に切っ先を向けた縦ロールをふわりと――本当は“ぶるん”という形容詞を使いたいのだけれど、考えただけでガンドの豪雨が飛んできそうだから自粛する――翻してあくまでも優雅に踵を返して教室を出ていく。
俺はそんな友人の後ろ姿に僅かに苦笑を浮かべると、机の上に広げてあったよだれの痕のついてしまった大学ノートをまとめた。
脇に置いてあった古式ゆかしく紐で縛り上げて、いつも変わらない優雅な青いドレスを風にはためかせて歩くルヴィアの後を追う。
「やれやれ、魔術師として機械の類を嫌うのは十分に理解できるんだけど、せめてエレベーターぐらいは導入してほしいよ。毎回毎回あの地下深い工房からここまで上がってきて、実習の度にまた上下移動してたんじゃ堪らない」
「魔術師たる者、自らの体も鍛えてこそですわよ。泣き言を仰る暇があるなら足を動かした方が遙かに有意義だと思いますわ」
「時間は有限だって言いたいんだよ。疲れる疲れないの問題じゃなくて、もっと効率の良い移動手段があるんじゃないかってことさ。これじゃ歩き回るだけで日が暮れてしまう」
昼も間近な廊下に見える人影は少なくないけど、一人としてルヴィアに好意的な視線を向ける人物はいない。
フィンランドの魔術の名門であるエーデルフェルト家の出身にして今年度の時計塔の首席候補とされる彼女を、妬む奴はいても友達付き合いをしようなんて酔狂な奴はいないのだ。
近寄って来る奴は揚げ足取りか米つきバッタのどちらかで、俺みたいにこうして親しい仲にあるなんて方が異常だろう。
大体魔術師の癖に他人ばかり気にする貧小な輩が多すぎるのだ、ここは。
なまじっか家系に歴史だけはある奴ばかりなだけに自尊心が強すぎる。
「今の状況では言い訳にしか聞こえませんわよ。大体文句があるならお偉方に上申すれば良い話ではありませんの。私に愚痴を仰るよりはマシですわよ」
「聞くわけないじゃないか連中が。俺だって工房には機械の類を置いてないし、魔術師としての常識というか、そういうものは理解してるさ。でもあの連中は異常だよ。まるで錆びて壊れた城門をアンティークだってありがたがって、博物館にでも飾ればいいのにそのまま侵入者を阻むために使ってるような奴らだからね」
「貴方の例えはいつもわかりにくいですけど、なんとなくニュアンスは伝わったので同意しておきますわ。‥‥まぁ一歩間違えれば危ない会話は置いておいて、そういえばショウ、聞きまして?」
「なんだい?」
「今年度は日本から特待生が来るらしいですわよ。それも私達の鉱石学科に」
「らしい、ね」
俺はルヴィアの言葉に反応し、ぴくりとポケットに突っ込んだ腕と連結している肩を動かせた。
時計塔に来る特待生なんて普通は話題に上らない。大低は家名を背負ってやって来る愚にもつかない俗物だったり、そういったイイトコ出身の教授が推薦したこれまた実力も覚悟も誇りもないくせに矜持だけはエベレストよりも高いどうしようもない奴らばかりだ。
しかし果たして今回の特待生は少々毛色が異なっていて、入学前から教授学生を問わずあちらこちらで話題に昇っているのだった。
日く―――
「第五次聖杯戦争の勝利者とその弟子‥‥だったかしら? 極東の魔術貧乏な国の儀式で勝ち残ったからって、調子にのって時計塔まで凱旋する気ですのよ。まったく、これだから島国の人間というのは―――いえ、今のは失言でしたわね。許して下さい、ショウ」
「気にすることはない。別段愛国心に溢れているわけじゃないよ。‥‥まぁ、食事は別だけどね」
「それについては同意いたしますわね。まぁ倫敦にも美味しい店はありますわよ。私はそういう店で食事をとりますから問題はありませんわ」
「と言うより、君の家の食事が美味しすぎるんだと思うよ」
ロンドンの街のレストランに出る数々の、外国人からしてみればとても料理と呼ぶのもおこがましい作品の数々を思い出して、砂を吐くような顔をした俺はぼそりと呟いた。
勿論美味い店は美味いのだけれど、そういう食事が堂々とまかり通っている国なのだ、ここは。
ちなみにイギリスも島国じゃないのなんてことは考えても口にしない。触らぬ神とルヴィアゼリッタ・エーデルフェルトに祟りなし、だ。
彼女の場合確実にガンドと言う名の祟りが飛んでくるし。
「まぁなんにせよ楽しみですわね。調べによりますと属性も私と同じ五大元素統合(アベレージ・ワン)だそうですし、専攻も宝石魔術だとか‥‥」
「最近は宝石魔術を専攻にしている魔術師が少ないからね。まぁ俺に言わせればコストパフォーマンスが割に合わなすぎるよ」
「何を仰いますの。第二魔法の使い手たる大師父が宝石魔術を扱う以上は、最も魔法に近い魔術の一つですわよ? 大体そのような泣き言を言っていては根源を目指す意思も希薄というもの。魔術に使う費用を捻出するのも魔術師の甲斐性です」
「貴族だからこそ言える台詞だな。それ、くれぐれも新しく来る特待生に言っちゃだめだよ?」
隣できんのけものがフフフと底冷えするような笑い声を漏らしている。良い友達なんだけど、金銭感覚に関してだけは頭痛が止まらない。
それでも自信げな顔は変わらずに歩くルヴィアの横顔を見ながら、俺は先日橙子姉から入ってきた、たったアルファベット三文字の簡素なメールの内容について思い出していた。
俺がコチラとは似て非なる並行世界とでも言うべき場所からやって来たことは、先程既に話したと思う。だがここで、俺はもう一つ、心に溜まっていた澱のようなものを打ち明けたい。
《Fate/stay night》
俺の世界にあったビジュアルノベルゲームの名前だ。
TYPE-MOONが作成した人気作品。エロゲ、ギャルゲとは思えない程の深い世界観とストーリーで構成されたこの作品に、当然俺も他の型月作品共々魅力にとりつかれた一人だった。
型月の作品群はある一つの共通した世界の元で描かれていると言われている。
あの土砂降りの夜に《空の境界》の登場人物に会った時に、俺は自分がそのゲームの中の世界に来てしまったという信じ難い出来事を確信した。
そして何より、俺を拾った際に記憶を調べたらしい橙子姉と、その後すったもんだあってやって来た青子姉にもバッチリ知られてしまっている。
『私達が空想の存在? ハッ、だからなんだと言うのだ馬鹿馬鹿しい。ならば聞くぞ紫遙、お前の記憶にあるサーヴァントとかいう存在はどうなるのだ? 少々前提が違いこそすれ、自分が神話やお伽噺、英雄譚の登場人物であると知って絶望でもしたか?
英雄だろうと人は人。私に言わせれば神様も人だ。そしてな、自分が誰にどのように認識されているかなんてものは、魔術師であれば大して気にすることでもないのさ』
『うーん、私も別にだからどうってわけじゃないわね。ホラ、良くも悪くも私も外れちゃった存在だしさ、今更そういうの気にしてもしょうがないのよ。私としてはまだ人間のつもりなんだけどね。
まぁその格ゲーは是非やってみたかったけど‥‥それで私が負けたりしたらそれはそれで屈辱かな。だって実際に戦ったら絶対に負けたりしないもの。つまりはそういうことよ』
《Fate/stay night》《月姫》《MeltyBlood》《空の境界》。
おそらく自分が別の世界ではゲームの中の存在だと知って狂わなかったのは、橙子姉が橙子姉であるゆえんなのだと思う。
一緒にそれを見た青子姉は‥‥まぁ、ほら、魔法使いだし、なんでもありなのかもしれない。
(『UBW』、か。俺は、何もできなかった‥‥)
聖杯戦争の孕む数多の悲劇的な可能性を知った橙子姉がとった行動は、『傍観』だった。
魔術師は私利私欲とせいぜい身内のためにしか動かない。
それは比較的甘い部類に属する上の姉にしても例外ではなく、俺が手出しを許されたのは直死の魔眼を持った両儀式や遠野志貴の件を含めて一つもない。
そして結局、聖杯戦争が始まる前に問答無用で時計塔に隔離――この言い方で間違ってないと思う――されてしまった。
‥‥俺は橙子姉の判断が間違っているとは思わない。
そもそも俺が橙子姉の判断を疑ったこともないわけだけど、俺としたって原作とやらに大した価値を見いだせなかったからだ。
この世界で生きていくことを決めて随分と長い時間が経っている。俺は、もう一人の魔術師として生きていくことを決めてしまっている。
俺のコチラに来てからの目標は、橙子姉と同じく魔術の探究だ。そこに衛宮士郎や遠坂凜との接触をする意味はない。
もし元の世界に帰りたいと思っているのなら別かもしれないけど、そういうわけでもないしね。
第二魔法とか第三魔法とかを目指してたんならそれはそれでまた別かもしれないけど、やっぱりそういうわけじゃないからなぁ。
完全に魔術師として生きていくことを決め、そう教育された俺に余計なことに首を突っ込む力も暇もないのは百も承知。
俺自身としても痛い思いや死ぬような思いはコチラに来るきっかけとなったあの事故だけで十分だ。
それでもこうして複雑な感情を抱いているのは、偏に知っていながら何もしなかった自分自身から湧いて出て来た彼らに対する負い目だろう。
割り切れる程に成熟していない。これが橙子姉ならさっくりと割り切れただろうから、本当に俺は未熟者なのだ。
要するにアレだ、もしかしたら手を伸ばせたかもしれないところで人が苦しんでいるのを、見て見ぬふりをしたがための罪悪感といったところ。
実に女々しい上から目線。自己嫌悪に陥って仕方がない。
だけどこれを表に出すわけにはいかない。衛宮のアレと同様、これは俺と二人の義姉の間だけで秘密にしておくべき封印指定だ。
「まぁ田舎魔術師風情といっても、時計塔への推薦を認められたことだけは確か。そこは認めてもいいでしょう。しかし、だからといって図に乗られても不愉快ですわ。まずはこの私自身の目でその実力を見定めて‥‥ショウ!」
「ん?」
「まったく、何を呆けてありますの。いいですか、まず私があのトオサカとやらと接触いたします。それまでは貴方は会わないように。同じ日本人で、なおかつアオザキと言えばどんな風に取り入ってくるかわかりませんからね」
「あ、えー、と‥‥」
繰り返しになるけど、俺が蒼崎の血を次いでいない義弟ということを知っている者は多くない。
その方が色々と有利だし、逆に厄介を招きかねないというところもあっても、義姉達に関する迷惑なら俺は大歓迎とは言わずとも喜んで背負い込む了見だった。
魔法使いの家系である蒼崎は決して位階自体は高くないけど、接触を図ってくる者はまぁまぁいる。
とはいえ最近は色々とあったがためにめっきり少なくなったわけで、それでも初めて俺に会うものならば可能性はあるだろう。
そういうところを心配してくれる友人を持って幸せではあるんだけど‥‥。
キッと振り向いて先程も人を椅子から撃ち落とした物騒な人差し指を突き付けてきたルヴィアに俺はどもってしまい、咄嗟に虚言を口にすることができなかった。
「あら、どこか含みのある様子ですわね。何か問題でもありまして?」
「いや、それがさぁ‥‥」
言葉を濁す俺に、金髪のお嬢様は更に顔を近づける。
急な接近に俺は思わず心臓がバクバク言うのを感じたが、逃げることを許さない真っ直ぐな瞳に無言で命令されて、仕方が無しに口を開いた。
「俺としても本意ではなかったんだけどね、実は先日学長に言われてさ。彼女達を迎えに行くの、俺なんだよね‥‥」
「な、なんですって?!」
「だ、だから本意じゃないって言ってるだろ?! 頼むから首を絞めないで‥‥チョーク、チョーク!」
気づいていなかったのだ、そのときの俺は。
現代の英雄たる衛宮士郎。彼が英雄であるのは間違いないことだ。
英雄の周りには騒動が付きまとう。これもまた間違いないことだ。
しかしまた、これも覚えておくべきことだった。英雄は騒動のある場所に惹き付けられるだけではなく、英雄自身もまた、他者を惹き付ける存在なのだということを。
さて、とりあえず聖杯戦争はなんとか終わったらしい。
しかし、だ。
あかいあくまときんのけもの、この二人がかちあう鉱石学科に所属してしまった俺のこれからは、ひょっとして聖杯戦争中の衛宮士郎よりも不運なんじゃないか?
ルヴィアに首根っこを掴まれて激しく頭を前後にシェイクさせられながら、窓の外を死んだ魚のような目でぼんやりと眺めた俺は考えたのだった。
1st act Fin.