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No.34076の一覧
[0] 「夏と蝉」(短編)[キサラギ職員](2012/07/12 01:22)
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[34076] 「夏と蝉」(短編)
Name: キサラギ職員◆7d11a6c8 ID:3a9e008c
Date: 2012/07/12 01:22
 ――――夏が来た!
 それは地中に息を潜めていた。ノミやカブトムシなどに似た姿かたちをした黄銅色のつやつやとした体。クリクリと丸く可愛らしいつぶらな瞳。足の数は六本。
 その昆虫の名を、蝉と言った。
 彼は正確にはとある種類の蝉だったが、彼自身そんなことはどうでもよかった。
 彼は蝉である。名前はこれからもない。
 名前なんてものは人間様が勝手に授けるものであって本来自然界に存在しないのだ。
 彼は薄暗くなり始めた夕方を狙って土から這い出すと、手近な木によじ登っていった。外の世界は危険だ。もっとも危険なのは移動中である。動くものほど目立つものはない。蝉は硬い外殻を持っているが猫などに襲撃された場合、風の前の塵に同じである。
 やっと目的の場所に身を落ち着けた彼は肢体をぐっと踏ん張り、脱皮の準備に入った。
 脱皮には夕方から始めて朝方になるまでかかる。薄暗い時間帯ならば外敵に見つかりにくい利点と、朝から行動できるようになる点で優れているのだ。
 黄銅色の殻がひび割れて、新雪のように脆く淡い肉体が外気に触れた。上体を起こして爪で抜け殻にぶら下がる。
 蝉とは到底思えぬ透き通った白い体。エメラルドグリーンを秘めた翅。幼虫の時と同じく黒く丸い瞳。
 夏の気配を孕んだ爽やかな風が白い体から水分を奪っていく。
 時間の経過とともに体の白みは消えていき、黄銅色よりもなお黒い地味な色へと変わっていった。身じろぎはしない。ただひたすら体が飛翔と、人生最期の時を過ごせるだけの耐久性を得るまで待つのだ。
 太陽が地平線に差し掛かったころ、体はほぼ出来上がっていた。
 彼に人のような感情はなかったが、人と変わらぬ本能だけはあった。
 ――――さぁ、子供を残そう!
 単純明快かつ複雑な仕組み。子孫を残す。そのために死ぬ。
 笑うなかれ。どんなに複雑になっても、どんなに賢くなっても、本質から目を背けることなどできないのだ。
 そして彼は仲間たちが轟々と恋歌を奏で始める前に、抜け殻を蹴った。
 彼は飛べた。飛び方は遺伝子が知っている。多少の不慣れこそあれど飛ぶことは人間が先天的に歩き方を知っているに等しい技術であった。
 粘着質な空気という大海原に薄く硬く柔軟性のある半透明な翅をはばたかせて、舞い上がる。何年もの間住んでいた地中とは比べ物にならない自由性があった。人間にとって無いに等しい空気抵抗も、彼には大きく伸し掛かっていた。土のように重く、粘る。翅を持ち上げて下扇いで推力を得る。見る見るうちに木が小さくなっていった。
 朝の訪れに怯えたように空中を乱舞する蝙蝠の群れをしり目に、丁度良い木を探す。
 ――――あれだ!
 理屈ではない。自分がいいと思ったから、その木を選んだ。並木のうちの一本にくっ付くと、腹部を蠢かせて音楽を奏でる。
 ただし、音は微弱で小さい。ちゃんとした音楽を奏でるためには時間が必要なのだ。
 骨格が出来上がっても鳴ける構造は完成していない。


 多くの雄がそうであるように、ごく優れた者だけが遺伝子を残すことができる。
 ある蝉は空中で巨大な黒い鳥に捕食されて死んだ。
 ある蝉は猫に叩き落されて死んだ。
 ある蝉は面白半分に人間に捕らえられてどこかに連れていかれた。
 生き残れた者も、雌に選ばれるとは限らない。
 だが、継承された強い遺伝子が次世代を作る。
 弱きは淘汰されるのだ。

 彼の寿命は刻々と近づいていた。
 雌は一向に寄ってこない。鳴けども鳴けども遺伝子を残す機会を得ることができなかった。
 管を木に刺して樹液を吸って体力と寿命のすり減りを誤魔化しても、徐々に衰えていく。
 夏の真っ盛りの中で彼は鳴き続けた。

 雨が降っていた。
 雨はまるでバケツをひっくり返したようにうねり狂い地面の熱を吸い取っていた。
 蝉にとって濡れることは好ましくない。翅が濡れれば飛行に支障が出るし、濡れればエネルギーを奪われるからだ。
 彼は木陰でひっそりと鳴いていた。
 彼がなく傍らで、別の種類の蝉が力尽きていた。
 木にとまった際に爪が引っかかったのか、死んでもなお木にぶら下がっていた。
 獲物を見つけた蟻が興奮したように触角を振っていた。


 彼はもう限界だった。
 蝉の寿命――成虫になってからの――はよくて一か月である。
 既に一か月は間近に迫っていた。
 体が機能不全を起こして悲鳴を上げていた。内臓。筋肉。無事なのは生殖器官程度だ。
 どんなに樹液を飲んで消費カロリーと体の痛みを補っても、寿命だけはどうにもならない。
 とうとう彼は木から転げ落ちた。途中で小枝に引っかかってバウンドすると、くるくると回転しながら背中から地面に叩き付けられる。強靭な骨格が衝撃を相殺した。
 起き上がろうと足をバタつかせたが、姿勢を直せない。足の振りは弱弱しくひっくり返った体をもとに直せないのだ。直射日光に晒されて目玉焼きでも作れそうな温度に達したコンクリートからの熱が体をさらに蝕んでいく。
 彼は渾身の力を振り絞って翅をバタつかせた。
 筋力で体が地面から離れたが、制御が利かない。
 何度も何度も地面に体を擦った挙句、違う木に正面衝突して落下してしまう。
 ようやく姿勢が足が下になったが、飛び立てない。体が言うことを利かないのだ。どれだけしたいことがあっても体が動かない。
 時間だけが無情に流れていく。残された貴重な時間が。
 そこへ、影が差した。蝉よりも遥かに巨大な二本足の生き物がすぐそばまで近寄っていたのだ。
 元気なころの彼ならば逃げることもできたが、それすら叶わない。
 するとその巨大な生き物は彼を拾い上げると、まじまじと見つめた。
 ボロボロで疲れ切った蝉と、まだ若い男の対比。
 彼は残された力で羽ばたこうとしたが、男の指ががっちりと掴んでいたので動けなかった。
 その男は何らかの言葉をつぶやくと、近い木の幹に歩いていき、彼を掴まらせてやった。
 男が何を言ったのか彼には理解できなかったが、命が助かったことだけはわかった。


 そして、彼に終焉がやってきた。
 彼は直射日光と地面からの放射熱で煮え立っていた。外殻は熱くなり、内臓や筋肉が機能を失っていく。体の自由が利かない。寿命だ。命の灯が消えかけていたのだ。
 水分が見る見るうちに蒸発していき、軽くなっていた。
 彼の死を悟った蟻の数匹が周囲をうろうろとしていた。やがて巣に帰っていく。フェロモンという道しるべを残して。戻ってくるころには大群を引き連れているだろう。
 彼は濁った瞳で地面を見つめていた。
 まだ死んでいない。まだ動ける。そう信じていた。彼は単純な生物ゆえに、複雑な生物がやらかすような諦めを持っていない。諦められない。もし諦めるとすれば、それは死ぬときだ。
 蟻がやってきた。
 まだ息のある彼の外殻を噛み、翅を毟り、足の根元から内臓へと入り込んで肉を削いでいく。
 彼は悲鳴を上げて暴れたが、数十匹単位で押し寄せる群れにはあらがえない。
 翅が蟻に持っていかれた。足も数本なくなった。
 軽くなった彼の体は蟻の大群に運ばれていった。
 そして、彼という生き物はその場から消えてしまった。

 蟻もいつかは死ぬ。
 蝉を食べて、死ぬ。死骸は大地に還る。
 蝉はいつか死ぬ。最終的に大地に還る。
 今年の夏も変わらない光景が繰り広げられる。


 ただそれだけのことであった。


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