「……ん」
眠い。今何時だろう。ていうかここどこだろう。
胸元にキケローがいないから、僕の部屋じゃなさそうだ。
――ああ、そうだ。昨日は講義終わってからケインの工房に直行したんだった。
で、月霊髄液《ヴォールメン・ハイドラグラム》の改良について話し合ったんだっけ。
結局は大した意見も出ずに力尽きたのか。それとも画期的な進歩を遂げたのか。どっちだったかな。最後の方は寝かけで記憶が曖昧だから、どうも自信がない。
僕はこの月霊髄液《ヴォールメン・ハイドラグラム》の完成形を小説で読んで知っている。ただし、そこに至るまでの過程を知らない。だから試行錯誤を重ねるしかないのだ。
とある拳法の奥義の詳細を文面で知っていたとしても、それを使えるかどうかは全く別な話なのと同じだ。結局は自分で道を切り開いていくしかない。
取りあえず、時間を見よう――と思ったけど、明かりがないから腕時計が見えない。
明かりをつけようにも、ここはケインの工房だから場所が分からないし、場所が分かっても付け方が分からない。
「……kaun(松明の炎)」
魔力を控えめにしたルーン魔術で指先に小さく火を灯し、のっそりと起き上がる。
ケインは机にもたれ掛かって爆睡していた。
水銀は鉄鍋に仕舞い直した上から、しっかりと魔術で封をしてある。当然だ。ホイホイ有効活用しているから忘れそうになるが、これは歴とした有害物質だ。寝ている間に頭から被ってしまうようなことになれば目も当てられない。
明かりにかざして腕時計を見れば、時間は朝の7時。
毎朝の目覚めを、窓から差し込む日の光と共に迎えている僕にとって、地下で迎える朝というのは陰気で仕方が無く思えた。
Fate/zeroの原作で遠坂時臣がやっていたみたいな引きこもりも――命が懸かってるならやるしかないし、躊躇わないけれども――はっきり言って、一生遠慮したい。
「ったく、なんだって人間に生まれながら、わざわざ地下で過ごしたがるんだか、理解に苦しむな……ケイン、おいケイン! 起きろ!」
「む……」
肩を揺さぶりながら起こしにかかると、ケインはむずがる赤ん坊のように僕の腕を軽くはねのけ、ゆっくりと覚醒し始めた。
「朝か」
「朝も朝、もう7時だよ、この寝ぼすけ野郎――ああもう、男同士でこんなのしても嬉しくない、全っ然嬉しくない」
寝ぼけ眼の可愛い女の子なら可愛げもあるってものだけど、10年後の頭髪が激しく心配な男の親友だと気分が、こう、げんなりする。
なにやってんだ僕、という虚しさに襲われるのだ。
「ほら、早く朝ごはん行こう。頭を使いすぎて腹減ったよ」
「ああ、そうだな……く、あぁあ……」
ケインの大欠伸。ああ、これが美少女ならどんなに嬉しいか。
そういやこいつ、ソラウ・ヌァザレ・ソフィアリと婚約するんだっけ。紅の髪の美女と。片思いの好きな女性と。しかもアーチボルトとソフィアリって言えば、両方共時計塔屈指の権力者同士だから、ケインからすれば政略結婚と恋愛結婚を兼ねた形になるわけだ。
なんて羨ましい。前世でも今世でも清い体を守り通している僕に謝れ。
――で、その婚約者はケインのサーヴァントに惚れた挙句、そのサーヴァントと一緒にいるためだけにケインの指を笑いながらへし折るんだっけ。
……。
「ケイン……きっと僕が幸せにしてやるからなぁ……」
僕はケインの肩にそっと手を載せ、涙を堪えながら言った。
親友がそんな目に合うなんて、想像しただけでも涙が溢れそうになる。
きっと、あの運命を、あの未来を覆してみせる。
僕は改めて決意した。
ケインはというと、寝起きの精彩を欠いた目と覇気のない――ぶっちゃけ元からないが――顔で、それでもこう言った。
「私は同性愛者ではない。君がそうだとは知らなかったが、できれば他を当たって――」
「違うッ! 僕はノーマルだ! 年上の甘えさせてくれるお姉さんか甘えてくれる少女希望だ!」
一瞬でも心配した僕が馬鹿だった。
というか、なんだかんだで3年くらいの付き合いがある相手に「こいつ実は同性愛者かもしれない」なんて思われたのは辛い。ケインは普段、一体どういう目で僕を見ているのだろうか。
僕だって、ケインとそういう関係になる光景を想像しただけで寒気がするぞ。
「面白い冗談だな。さて、朝食を取るのだろう? 早く済ませて、研究に戻らなければ」
「……はいはい」
僕は冗談で言ったつもりはこれっぽっちもなかったのだが、取りあえず黙っておくことにした。もう同性愛者云々の話は蒸し返したくない。
自分の心に傷が付きそうな話題は、流れるに任せるのが一番賢いやり方なのだ。
「reserans(解錠)」
ケインが呟いたのは、いわゆるキーワードである。
夜に眠る時や外出する時は、常に張る結界とは別口で扉そのものを閉ざすために施錠するのが魔術師の常識だ。
施錠が解かれたのを確認したケインは指を鳴らし、昨日のように扉を開く。
そして、僕とケインは工房を出た。
当然だけど時計塔の中にも食堂はある。かつて大儀式の実行に使われた2階の大広間を改修して仕立て上げたのだとか聞いたことはあるが、実際のところはどうなのか、よく知らない。ただ、食堂が開設されるのは自然なことだった。
家族や恋人の弁当を持ってこれるような人間ばかりが在籍しているわけではないし、自炊スキルなんてものを身に付ける暇人――もとい、器用人は滅多にいない。しかし、食事のためだけにわざわざ外まで行くのは面倒くさい。
そんな事情があって、100年か200年くらい前にできたらしい。
僕みたいに、お日様が恋しくて外に出かけるようなのは少数派なのだ。
あと言うまでもないが、外に行っても中で食べても、大抵の場合は不味い。ただ、そもそもイギリスの料理に期待をしてはいけないことくらい、時計塔に来る前から分かりきっていたことだ。
「しかし、この味で金取るのは詐欺だな」
思わず呟いてしまう。よくも悪くも、食堂は変わらず平常運転だった。
甘すぎる豆の煮物と、異常なまでに味のないサンドイッチを黙々と食べているケインが、いつものことながら信じられない。僕より育ちは良いはずなのに。
こんな不味い料理になにも言わないのは何故か、以前聞いてみたことがある。すると、
――ぼやいても味は変わらないだろう。
お前はどこの偉人だ。
しかし、外の屋台で買ったホットドッグの方が美味いとはどういうことなのか、いつものことながら不可解だ。金払ってるんだから、せめて普通のものを出して欲しい。ケインはともかく、庶民の僕は満足できるようなものを。
「……っていうか、今日もするのか? そろそろキケローの嫉妬の虫が騒ぎ出す頃なんだよ」
あまりの味気なさと甘さのせいで食欲がすっかり霧散してしまったので、手慰みに豆をフォークで転がしながら聞く。
あいつの我慢は1日が限度だ。それを過ぎると、部屋に帰った途端やたらめったら引っかかれる。その後は、丸1日引っ付いて離れない。トイレも風呂も、外に行く時すら一緒に来ようとする。
「クックック……ベン、君も罪作りな男だな」
ケインはキケローを見たことがあるし説明もしているので、愉快そうに笑っている。他人事だと思って気楽なものだ。まあ、紛れもなくケインにとっては他人事だけれども。
それと笑い方が頭でっかちの小悪党っぽい。安定の小者クオリティだ。
「私はさしずめ、そう、泥棒猫といったところか」
「それ洒落にならないから。本気で痛いから」
そういえば、そろそろ爪切りしてやらないと駄目だな。僕の保身とキケローの健康的な意味で。
「ねぇねぇ、あれ、バンクス先生よね。いまの聞いた?」
「聞いた。また、あのアーチボルトと一緒に朝ごはん食べてる。もしかして昨日はずっと一緒だったのかな? それに、い、痛いって……まさか」
近くにいる女生徒二人が、そんな会話をしているのが聞こえた。ルーン科の授業で見た覚えのある二人だ。あれは――ケイトと、マリアとかいう名前だった気がする。前に図書館で見かけた時、美少年同士の絡みが書いてある淫魔召喚の挿絵付き資料を見てきゃぴきゃぴ騒いでたのが印象深い。1990年代のイギリスで腐女子にお目にかかれるとは夢にも思っていたから、尚更だ。
どうでもいいけど、本当にどうでもいいことなんだけど――これ朝帰りみたいに思われたら嫌だな。本当に同性愛者のレッテルを貼られたらショックと恥辱で立ち直れないこと必定だ。
ケイン×ベンに需要はない。
ないったらないのだ。
「ほら、ルーン科って勢力弱いから……降霊科(ユリフィス)に取り入らなきゃやっていけないのかも」
「それで、体を売ってるってこと? あのバンクス先生がアーチボルト家の権力に屈して? それってゾクゾクするよね……げっ」
「でも、言葉から察するに無理やりじゃなさそうだし……って、どうしたの、いきなり変な声出して……あ」
僕が音もなく近寄ってきていたのを見て、マリアは引きつった声を上げた。
ケイトも怪訝そうな顔をして、一拍おいてから自分の背後に僕が立っていることに気付く。
「やあ、朝から二人とも元気そうでなによりだ。なかなか面白そうな話だけど、もう一度聞かせてくれないかな」
「いえいえ、バンクス先生のお耳を煩わせるほどじゃありませんッ!」
「そうです! 気にしないでください!」
「そうか。ところで――」
僕は拳の骨を鳴らす――ことがちょっとできそうになかったので、内ポケットから血文字のルーン紙を取り出した。
二人の顔が面白いくらいに青くなる。僕から教えを受けている生徒だから、僕のルーン魔術の恐ろしさが身に染みているのだろう。
「先月出した課題、エルダーイングリッシュルーンとゲルマンルーンの歴史的推移について比較するレポート、提出量を倍にされるか、ここで講師直々のゲルマンルーン体験授業をするか、どっちがいい?」
「ど、どっちも嫌なんですけど……先生のルーン魔術って絶対に致命傷ですよね?」
「レポートが倍になったら過労で死んじゃいます!」
マリアはレポートが良いが、ケイトは体験授業が良いということらしい。まったく、自己保身のための意見統一もできない友達なんざやめちまえ。
僕は溜息をつき、両腕を振り上げた。
「嫌なら、今度から愉快な妄想は程々に――しろッ!」
「きゃんっ! に、逃げるよ!」
「痛っ! ごめんなさい、もうしませんからッ!」
頭を思い切りどつかれた二人は、涙目になって走り去っていく。まあ初犯だし、追撃は勘弁してやるとするか。
なんか、猫から逃げるネズミを思い出させる逃げ方だ。さっきまでキケローのこと考えてたからだろうか。
「……なにをやっている」
「そう呆れた声を出さないで欲しいね。僕だけじゃなく、お前の名誉も守ったんだ」
なにがあったのか理解していないケインは、どこか呆れた声だった。いや、意味が分かってたらマリアもケイトも五体満足じゃいられなかっただろうから、それはいいのだけれど――こう、あからさまに呆れられると物申したくなる。こいつだって男色家扱いされたくはないはずだ。
ちなみに、ケインの未来を変えるための計画として、男色家の噂を流すというものを考えたこともあった。ただし、その場合は別な意味でケインの人生が終わる。もしくは目覚めて狂う可能性がある。助けたつもりが、別の地獄に叩き落としたみたいなことになる。
あと、その策を使うと、確実に僕が相手だと思われてしまう。それほどまでに友達が皆無なのだ、この親友は。
ソラウと婚約させたくはないが、そのために僕の社会的地位と将来できるはずの伴侶を犠牲にする気もない。
「ところでケイン。一回部屋に戻ってもいいかな? キケローに餌やらないといけないし、色々と準備もしていきたいし」
「ん? ああ、構わない。私も然程急ぐわけではないからな」
「悪いね。それじゃ――」
いい加減うんざりな朝食の残りを手早くかっ込み、席を立つ。早く戻らないと、本当にキケローに殺されかねない。
そして、その瞬間、何気なく食堂の入口に目が向いた僕は、見た。
高く速く、そして優雅に跳躍する――黒い影を。
「むがごッ!?」
遠慮の欠片もなく顔面に飛びつかれたのでバランスが取りきれず、そのまま後ろにひっくり返って後頭部を強打した。あと、伸びた爪が頬に刺さった。
頭が割れるように痛い。最近こんなのばっかりだ。たまには労わってやらないと、馬鹿になったらどうしてくれる。
「っつぅ……おい、キケロー! 家で留守番しとけってあんなに言ったのに!」
「みぅ……」
鳴き声からして、すっかりしょげているらしい。
反省は大いに素晴らしいことだが、僕の顔の上では遠慮してもらいたいところだ。
甘えん坊の黒猫、キケロー。
僕の同居人――というか同居猫、そして今では唯一の家族だ。
噂をしたら本当に来てしまった。
「みゃぅ、みゃあぁあ……」
「寂しかった? 僕だってそうだけど、我慢しろって言っただろ!」
「にゃぁあお、ふにゃあ」
「セネカも同じ気持ち? 嘘つけ、あいつはお前と違ってしっかり者だ! 大体、使い魔が主人の不在を寂しがるなんてこと、あるわけ……」
「みぃう……」
「そんな声出して、ごめんなさいなんって言っても無駄だぞ。僕は怒ってるんだからな」
「みぃう……」
「ああもう。だから無駄だって」
「みぃう……」
「……ごめん、言いすぎたな。寂しかったんだよな」
胸元に抱え込んで頭を撫でてやると、キケローは満足げに喉を鳴らした。
なんでこんなに可愛いんだろう。もう僕結婚できなくてもいい。
辛抱たまらず、頭から尻尾まで撫で回す。
「この、このこの。愛い奴よのう」
「ふにゃぁあああぁああ……」
「やめてだと? はは、良いではないか良いではないか――あいた」
頭をトレイで叩かれた。ケインの仕業だ。
「いい加減にしろ。これ以上そのような醜態を晒すようであれば、私も君との付き合いを考え直さねばならないからな」
「狭量だぞ、ったく……」
僕はキケローを床に置いて立ち上がり、服の埃を払う。
解放されたキケローは、僕の足に尻尾を巻きつけて、甘えるように優しく鳴いた。
「はいはい、後で遊んでやるから。な?」
「……にゃあ」
不満げに、猫なのにそれと分かる不機嫌な顔で、キケローは離れていく。
こうやって素直に甘えてくるところは可愛いのに、愛が重いってこういうことなんだろうな。
しかし、こういう動物にはモテて、女の子に全くモテないのは前世の因果かなにかだろうか。別に悪いことした覚えはないんだが。
ハニートラップを仕掛けられるのは慣れっこだというケインが、少し羨ましい。
「先に帰るよ。そうだな、9時になったら工房に行く」
「ああ、分かった」
僕は工房と部屋が兼用なので、ここから割とすぐの場所だ。時計を見ると8時すぎくらいだったから、諸々の準備や片付けを考えると、余裕を持って9時くらいにしておいた方が無難だろう。
ケインと別れ、階段を昇っていく。僕の工房兼自室は三階の南側にある。日当り良好、景色も良好な場所だ。そういう場所に限って魔術師からは人気がないから、取るのも楽だった。
たとえば、魔術で薬を作る魔術師は必ず地下に住んでいると言っていい。精製途中の薬は非常にデリケートな物質で、日光が当たっただけで性質が大きく変化してしまうことも珍しくないからだ。
ルーン専門の僕は知ったこっちゃないが。
「ほっ」
掛け声をつけて最後の階段を三段飛ばしで駆け上がる。
キケローは猫の俊敏さでなんなく着いてきていた。流石だ。
そこから改めて工房へと向かおうと、南へ続く通路を歩いていく。
「お前がベンジャミン・バンクスか」
「……どなた様?」
見知らぬ男に背後から声をかけられたのは、そんな時だった。