僕は誰も助ける事が出来なかった。エヴァのパイロットになって、ようやく自分の居場所を見つけたと思ったのに、全てが僕を裏切って行った様な気がした。エヴァに乗れば、大切な人達を守れると思ってたのに。現実は……
トウジが死に……
アスカが壊れ……
綾波を助けられなくて……
そして……
カヲル君を殺した。
その絶望の前に全てを拒絶していた僕は……
ミサトさんを死なせ……
アスカを見殺しにした。
そのあげく、世界さえ滅ぼしてしまった。
すべての生き物が解け、LCLの海に還元されたサード・インパクト。
その中で僕はアスカと出会う事が出来た。おそらくだけど、同じコピー・ロンギヌスの槍にエヴァを通して貫かれた事で、リンクの様な物が出来ていたのかもしれない。
僕はLCLの海の中で、アスカを求めながらもお互い傷つけ拒絶し合った。
結果として帰って来れたのは、僕とアスカだけだった。
どうして僕とアスカだけが帰ってこれたのか考えてみた。
それは僕が、エヴァの中の擬似LCLの海から帰って来た経験があったからだろう。あの時、僕を外へと導いてくれたミサトさんの声……泣き声は、今でもハッキリと思い出す事が出来る。
そして何より……アスカと傷つけ拒絶し合った事が、ATフィールドを形成する切っ掛けになったのが要因だと思う。
最後の戦いの時に受けた傷も残っていたので、LCLから引き出した医療知識と弐号機のエントリープラグの残骸から取り出した医療キットを使い僕が治療した。
しかし帰って来たアスカは、全く動く事が無かった。……その原因は、LCLから引き出した知識をもってしても全く分からなかった。
だから僕は待つことしかできなかった。
僕は今のアスカを、LCLの海に浸すのは危険と判断した。LCLの海には、人類の膨大な経験と知識が詰まっているからだ。その経験と知識をただ漠然と吸収すれば、人間の脳は耐えられない。それは例えるなら、コップにダムの放水で水を注ぐようなものだ。
かと言って、アスカをこのまま放置すれば、餓死するのは目に見えている。他に摂取できる物が無いなら、LCLに頼らざる得ない。
僕は妥協案として、LCLを少しずつ飲ませる事にした。
しかし、僕の手からアスカの口に注いだLCLは、口の端から全て流れ出てしまった。
外からの刺激に対して反応しているので、心が壊れた時のアスカに逆戻りしただけかもしれない。
(今のアスカは、物を呑みこもうと言う意思が無いんだ)
そうなると栄養摂取には点滴が一番最適だが、そんな物はここには有ろうはずも無い。ならば今実行可能な方法は、喉の奥にLCLを流し込み反射的に嚥下させるしかない。それには……。
(口移しかないか。……後で殴られるかもしれないな)
自嘲気味にそう考えたが、それを切望している自分に溜息が出た。
そうして始まったのは、アスカを生かし続ける為だけの生活だった。
話しかけても、反応してくれないアスカ。
思い出話しをしても、ただ空を見つめ続けるアスカ。
手を握っても、握り返しも払いのけもしないアスカ。
LCLを呑ませる時に、変な所を触っても何も言わないアスカ。
悪口を言っているのに、言い返してこないアスカ。
何度も唇を奪われているのに、反撃してこないアスカ。
アスカが回復するより早く、僕の心が限界に来たのだろう。次第にアスカの首を絞めてやりたい衝動に駆られるようになった。首を絞めるという行為は、僕とアスカにとって“受け入れて欲しいけど拒絶して欲しい”と言う強いメッセージの様な物だ。
これはアスカが子供の頃に、母親から首を絞められたトラウマに由来する。一緒に死んで欲しいと言う母の願いに“一緒に死んであげたい”と言う気持ちと“死ぬのは嫌”と言う気持ちの板挟みになった。この最大級のトラウマが、LCLの海から帰還する原動力になったのだ。
アスカが反応してくれるかもしれない。その誘惑に僕はついに負けてしまった。
アスカの首に手をかけ、少しずつ力を強くしていく……心算だった。
わずかに力を込めた所で、僕はそれ以上の事は出来なくなってしまった。
考えてみれば当然だろう。僕はアスカに応えてもらいたいだけで、死んで欲しいわけではないのだから……。
しかし、わずかな期待からアスカの首から手を放せなくなっていた。
浅ましいとは、この事を言うのだろう。
どれくらいそうしていただろう? 不意に頬を撫でられる感触がした。
しかしその感触をもたらしたのが、アスカの手である事がすぐに認識できなかった。アスカの表情が全く変わっていなかったからだ。そして僕の頬を一撫でしたアスカの右手は、そのまま力尽きるように砂浜に放り出された。
僕はアスカが反応してくれた事が、何より嬉しかった。そしてその反応が、僕を肯定し受け入れてくれる物だった事に嬉し涙がこみ上げ、情けない事にアスカの上で号泣してしまった。
……そして
「キモチワルイ」
「……え?」
アスカの視線が、泣きじゃくる僕の顔を捕えていた。
そして、アスカの体温が急速に失われていくのを知ってしまった。
(……アスカ。そんなに僕の事が憎かったの?)
その瞬間、アスカが僕をどう思っていたか知ってしまった。一度優しく頬を撫で、僕に希望を持たせて直後全てをひっくり返したのだ。一度希望を与える事により、僕の絶望と孤独を何倍にも大きくしたのだ。しかも、自身の命まで使って……。
僕はもうアスカの側に居る事は出来なかった。
どれくらい歩いただろう? アスカの居る砂浜から、ひたすら真っ直ぐ歩き続けた。
不眠不休で歩き続けた為、足は棒の様になっているし空腹も辛かった。そして何より耐えがたいのは、喉の渇きだった。通りかかった廃墟には、スーパーやコンビニらしきものもあったので、喉の渇きをどうにかしようと思えばできた。しかし僕は、それらを無視して歩き続けた。
そして僕は、小高い山の頂上で倒れた。
(……僕はここで死ぬんだな)
漠然とそう思った。
「こんな事なら、LCLの海から帰って来なければ良かった」
そんな後悔の言葉が僕の口から洩れた。
どれ位そうしていただろう。視界が霞んでいき、いよいよ終わりと思った時に空から何かが降りて来るのが見えた。
それが何なのか分からないまま、僕の視界は暗転した。
気が付くと僕は砂浜に寝ていた。アスカと居た砂浜とは別の砂浜の様だ。
すぐ隣には、コアが剥き出しの初号機が居た。
「何で初号機が?」
僕の呟きに反応するように、初号機が僕に手を伸ばして来た。手は僕の手前で、掌を上にするように差し出された。
「この上に乗れって言うの?」
驚いた事に、初号機は僕の言葉に反応して頷いた。
「初号機が……母さんが僕を助けたの?」
再び頷く初号機。
「なんで……何で僕なんかを助けたんだよ!!」
僕はたまらず初号機に怒鳴りつけていた。あのまま死ねれば楽になれたという思考が、僕の頭を支配していた。
なおも抗議の声を上げる僕に、初号機は差し出した手を浮かせそのまま砂浜に叩きつけた。
ドスンと言う地味で重い音と共に、僕の口から「ひぃ」という情けない悲鳴が漏れる。(先程まであんなに死にたいと思っていたのに、情けない話だと後になった思った)
そして初号機は、差し出した手を更に僕に近づけた。
「手の上に乗ればいいの?」
三度頷く初号機に、これ以上逆らう気力を無くした僕は、大人しく掌の上に乗る。……が、すぐに後悔する事となった。
「わあああぁぁぁぁああぁぁーーーー!!」
初号機は僕が乗った掌を、自身のコアに叩きつけたのだ。コアにぶつかる瞬間は本気で死ぬかと思ったが、コアはまるで水の様に僕を迎え入れ、僕の体はコアに吸収された。
「シンジ。起きなさい。シンジ」
誰かが僕を起こそうとしている。
「シンジ。いい加減に起きなさい」
誰だか分からないけど、お願いだからもう少し寝かせて欲しい。
「シンジ!! 起きなさい!!」
「は はい!!」
目を覚ました場所は、ある意味懐かしい場所だった。
「ここは、以前初号機に取り込まれた場所か……」
そう呟くと目の前に誰かが居るのに気付いた。
「か 母さん!!」
そこに居たのは、以前初号機に取り込まれた時に出会った母さんの姿だった。
「シンジ。……私は情けないわ」
「か 母さん!?」
そこから母さんの盛大な愚痴が始まった。
僕の女関係を中心に話が展開し、綾波やマナ……特にアスカの事を言われた時は耳が痛かった。でも、父さんの事まで言及された時は、正直勘弁してほしかった。(……父さん。よりにもよって初号機の目の前で、リツコさんをレイプするなんて……)しかも関係を持ったのが、リツコさんだけでなく、そのお母さんまで……。おかげで父さんが嫌いになれたよ。とばっちりと言う意味も含めて。
「ヘタレ!!」や「甲斐性無し!!」等と散々言われた後に、一呼吸間をおいて母さんの表情が真剣なものになった。
「私は世間から天才と言われて来たわ。でも……」
そこからの母さんの話は、正直言って長かった。
懸賞金付きの死海文書の一節を解き明かし、ゼーレと言うバックボーンが出来た事。
ゼーレからの依頼で、死海文書の解読を行った事。
最初は預言書など馬鹿にしていたが、死海文書に記されていたセカンド・インパクトが起こった事。
使徒の襲来を予測して、汎用決戦兵器 人造人間エヴァンゲリオンの開発に尽力した事。
父さんと母さんの当初の目的は、使徒によるサード・インパクトで人類が滅びるのを回避する事だった。(注 使徒とリリスの接触でもサード・インパクトは発生する)
母さんがエヴァに取り込まれ、父さんは歪んでしまった。その歪みに冬月副司令も巻き込まれてしまう。
父さんが周りの者全てを道具とし、結果ゼーレが望むサード・インパクトが起こってしまった。
「母さんは父さんを憎んでいるの?」
僕が母さんの話の間を利用しそう聞くと、意外な事に母さんは首を横に振り否定した。
「なんで? 父さんは母さんを裏切ったんだよ」
「私はゲンドウさんのそう言う弱いところも好きだったから」
……のろけられた。どうやら、ほかの女に手を出した事自体は怒っていないようだ。(信じられない)
「私はゲンドウさんにとって、死んだ人間だったから。
……許さないけど(ボソッ)」
……怖かった。(母さんって怒らせると怖い人だったんだ)
母さんはそこでいったん話を切り、改めて口を開いた。表情は先程にも増して真剣だ。険しささえうかがえる。
「シンジはキョウコさんの娘さんとLCLの海から帰って来たわ。二人が“不完全な人間としての幸せ”を示せば、その幸せを求める人達がLCLの海から帰って来たかもしれないの。だから……」
「僕とアスカの所為で、あそこから誰も帰って来ないと言うの!!」
僕の悲鳴に近い言葉に、母さんは一度眼を閉じ間を取ると話を続けた。
「シンジとキョウコさんの……シンジとアスカちゃんが、LCLの海から帰ってこれた事が既に奇跡なの。そして二人が幸せになり、それに触発されてLCLに海から人が帰ってくる事も奇跡よ」
母さんは僕の目を見ながら、言い聞かせるように続けた。
「……でも、奇跡は二度も続かなかった」
そこで母さんが首を横に振り。
「二度も続かないから奇跡と言うの」
母さんの言葉は、僕にとって何の救いにもならなかった。僕にとってLCLの海から帰って来た事は、救いでも奇跡でもなく絶望だったからだ。アスカの最後の言葉を思い出し、知らず知らずのうちに涙があふれて来た。
すると母さんは僕の前でしゃがみ、僕の頬を両手で固定すると半ば無理やり視線を合わる。
「私は本当は、死んだ人間としてこの世界に返ってくる気は無かったの。ただ一人の死者として、シンジとアスカちゃんの子供……更にその子供達を、永遠に見守り続けようと思っていたの。その証として永遠に生きたい。何十億年たって地球や太陽がなくなって、一人ぽっちになってどんなにさびしかったとしても、ヒトが存在した証として生き続けたい。私の存在は、人の強さを証明する物だと思ったから」
何かとんでもない事を言っているような気がするのは、気のせいだろうか?
「母さんは遺跡にでもなるつもりだったの?」
思わずそう聞くと、母さんは嬉しそうに頷いた。
「そうよ。私はもう死者なんだから、子孫を見守り眠りに着くのが当り前じゃない。遺跡で見つかるミイラみたいなものよ。まあ、人類史上初の生きた遺跡だけどね」
まるで名誉なことの様に言う母さんに、僕は違和感を覚えた。
「母さん。父さんの事は本当い良かったの?」
すると母さんは、これまでまっすぐ僕を見ていた視線を初めてそらした。僕は先程の仕返しとばかりに、母さんの頬をつかみ僕の方を向かせた。
……そこにあったのは、僕の良く知る目だった。不安と寂しさで怯えるような目、……鏡で良く見る僕の目だった。
「だって、今更私に居場所なんて……」
今初めて気付いた。僕は母さんに似ていたんだ。
「それに、りっちゃんの扱いに頭来て……つい、初号機でゲンドウさんを齧っちゃたし」
(過激すぎるよ!! 僕は絶対母さんを怒らせないようにしよう)
この話題は危険と判断した僕は、話題を変えることにした。
「ところで母さんは、僕を助ける為に空から降りて来てくれたの?」
わざとらしくなってしまったが、話題を変えたかったのは母さんも同じらしく頷いてくれた。
「それもあるけど、それだけじゃないわ」
そう言うと母さんは僕の頬から手を放し、立ち上がると説明を始めた。何時の間にか、ホワイトボードが出現していた。(この世界って便利なんだな)
「サード・インパクトの終わりは、シンジとアスカちゃんが幸せになって、それに触発された人達が現実世界に帰って来たら終了だったの。自覚しているか分からないけど、それがシンジの描いたサード・インパクトよ」
「違う!! アスカは僕を憎んで……」
「違わないわ!! 本当にアスカちゃんがシンジを憎んでいるなら、LCLの海から二人とも帰って来れないか、シンジだけ帰って来たはずよ」
母さんの反論に、僕は黙ってしまった。そこには“本当にそうなら良いな”と言う、浅ましい希望があった。(僕は最低だ)
「先ほども言った通り、そこには二つの奇跡が必要だったの。ここで重要になるのは、貴方達に触発されて一人目が帰って来れるかどうかよ。これは“一人帰ってくれば、二人目が……”と言う様に、連鎖するからなの。まあ、赤信号みんなで渡れば怖くない理論ね。もし誰も帰って来れないなら、私は人類に失望していたわ」
ホワイトボードには、左の“LCLの海”と書いた所から右の“現実”と書かれた所に矢印がひかれた。矢印の上には、物凄く下手な絵で信号?と人?らしき物が書かれている。(母さんって絵が下手だったんだ。しかも下手の横好きっぽい。それとも、前衛芸術のつもりなのかな?)
「でも現実は、一つ目の奇跡は成功したけど二つ目の奇跡を起こす前に、僅かなすれ違いで頓挫してしまったの。だから、サード・インパクトの終わりを考えなけ……って、シンジ!!聞いてる!?」
僕が失礼な事を考えているのを感じ取ったのか、母さんが怖い顔で聞いて来た。僕は必死に顔を縦に振り肯定する。
「まあ、良いわ。とにかく、LCLも劣化するの。LCLが濁り腐れば、中に取り残された魂も存在出来ず消えて無くなるでしょうね。そうなれば、この星は生命が存在出来ない死の星となるでしょうね」
僕には母さんが何を言っているのか、良く分からなかった。
「なら、依り代としての権利が残っているシンジが、サード・インパクトを完結させる必要があるの。どんな願いでも、大抵の物はかなえられるわ」
混乱する僕に、母さんは優しく話しかけて来た。母さんの言葉が、まるで悪魔の囁きの様に聞こえた。
「LCLの海から皆に帰って来て欲しいという願いは、先の失敗により不可能となってしまったけれど、その気になれば神様になってLCLから新しい人類を作り出すことも可能よ」
続く母さんの言葉に、僕の気持は一気に萎え冷静になった。おそらく母さんは、僕に生きがいの様な物を提示したいのだろう。
「ミサトさん、リツコさん、父さん、綾波、トウジ、委員長、アスカ、加持さん、マナ、カヲルくん。……僕は皆に笑顔でいて欲しかったんだ。だから、どんなに辛くても……逃げ出しても、エヴァに乗り続けたんだと思う」
「やり直したいの?」
母さんの言葉に僕は頷く。しかし、母さんは首を横に振った。
「やり直しは不可能よ。依り代の力を使っても、時を戻す事は出来ないわ」
母さんの言葉に、僕は泣きたくなった。それ以外の望みなど僕には無かったのだから。
「でも、別の意味でその願いはかなえられるかもしれない」
母さんは僕の目を、まっすぐ見ながら説明を続ける。
「“繰り返し存在する宇宙”って言葉を知ってる? その極小版をこの星で行うの。私達が生きた世界を“シンジ生まれるまで”完全に再現すれば、別の可能性を見る事は出来るわ」
母さんがそこでいったん言葉を切って、僕に言い聞かせるように次の言葉を発した。
「でもそれは、この世界が滅びた後に生まれるかもしれない命を否定する事よ。だからそれを受け入れて、それでも前を見れる独善家になりなさい。それがこの方法を実行する上で、私が出す絶対条件よ」
母さんの目は何処までも真剣だった。
僕は母さんの言葉に躊躇したが、結局頷いていた。
母さんが“独善家になれ”と言った言葉の“本当の意味”に気付いたのは、全てが始まった後の事だった。