一週間と少しの時間が流れた。シンジはあれから毎日、綾波レイの病室を訪れてる。
「綾波。居る?」
ドアをノックする。
「……入るよ」
返事は期待していないので、少し待ってから病室へと入る。以前の様なハプニングは無いと分かっているので、シンジも割と気楽に病室の扉を開く事が出来る。何故かと言うと、怪我の所為でまだ一人で着替えられないし、当然一人で体を拭く事も出来ないからだ。補助の為に他の誰かが居れば、その人から返事が返って来る。
病室に入ると案の定ベッドに横になったレイが居た。入って来たシンジをじっと見つめている。
(以前の僕ならこの視線に耐えられずに逃げ出していたな)
もう同じ事を何度考えたか分からない。それでもシンジは、そう思わずにはいられなかった。
苦笑いが漏れそうになるのを堪えて、もう定位置と言えるベッド脇の椅子に座る。
「体に違和感はある?」
シンジがそう聞くと、レイは僅かに首を左右に振る。それを確認したシンジは大きく頷くと、持っていた袋からリンゴと果物ナイフに皿を取り出して黙って剥き始めた。レイは何も言わずにそれを見つめ続ける。
無言のままシャリシャリと、リンゴを剥く音が病室に流れる。
「……何故あなたは毎日ここに来るの?」
暫くすると、レイがそんな事を呟いた。それは相手が居るはずなのに、まるで独り言の様に病室に響く。
シンジからの返事は直ぐに返って来ない。この質問をレイが口にしたのは今回が初めてではない。昨日・一昨日と、これで三回目になる。リンゴを剥きながら暫く間をおいたシンジは……
「秘密。……綾波は何でだと思う?」
そう切り返し、まともに質問に応えなかった。同じ答えを三度も繰り返したので、レイの視線が僅かに非難する物へと変わる。
「綾波は何故か考えたの?」
シンジは手を止める事無く続けた。これは一昨日からしている質問である。この質問に一昨日レイは首を横に振り、昨日と今日は頷いた。
「考えても分からないなら、情報が足りないのかもしれないね」
これは昨日も口にした言葉。病室にはパソコンや電話・携帯等の情報末端は無いので、必然的に情報を集めるには人に聞かなければならなくなる。シンジはレイに自分で考える様に仕向け、分からなければ人に聞くように誘導しているのだ。そして人と会話させる事により、コミュニケーション能力を向上させるのが狙いだ。贅沢を言えばその必要性も認識させたいが、それは流石に欲張り過ぎだろう。
要するに自分に興味を持たせながら、レイのリハビリも同時にしてしまおうと言う訳である。
……だが、その聞く人選に関しては、如何にもならなかったようである。
「赤木博士と葛城三佐に聞いたわ」
リツコなら上手くお茶を濁して逃げただろうが、ミサトの方はレイに何を吹き込んだかシンジは手に取るように分かった。
「貴方は私と付き合いたいの?」
「違うよ(やっぱり。アスカに殺されるから止めて欲しい!!)」
内心はともかく、平静に否定する事が出来た。もしミサトの名を聞く前に今のセリフを言われたら、動揺して手を切ったいたかもしれない。シンジはそこで初めてリンゴの皮剥きを中断し、レイの方を見ると口を開いた。
「綾波は答えを言わない僕を、意地悪だと思っただろう? もし付き合いたい……恋人になりたいと思っているなら、自分を良く見せたいと思うから違うね」
後に喧嘩の火種になるのは嫌なので、やんわりと否定しておく。
「男の子は好きな女の子に意地悪する。と、葛城三佐は言っていたわ」
(あの人は何が何でもそっちの方向に話を持って行きたいのか!?)
シンジは内心で悪態を吐きながら、これ以上答えを伸ばすのは良くないと判断した。だが問題は“話をどの様に切り出すか?”だ。この話はレイの“デリケートな部分”まで踏み込まなければならないので、下手に拒絶されると取り返しがつかない。
「綾波はその答えで合っていると思う?」
「…………」
レイから返事が返って来なかったので、この話題を終わらせ本題に入る事にしたシンジ。
「どうや「分からないわ」……そっか」
話を切り出しそこねたシンジは、視線を戻しリンゴの皮剥きを再開させた。再び病室はシャリシャリと言うリンゴを剥く音に支配される。
やがてリンゴの皮をむき終わると、更に並べられたリンゴを指しシンジがレイに質問をする。
「これって、ウサギに見える?(何を言ってるんだ僕は!!)」
皿の上に並んだリンゴは、V字に残した皮を耳に見立てた俗に言う“リンゴのウサギさんカット”と言う切り方をされていた。
「うさぎ?」
そう呟きながら、僅かに首をかしげる。レイの視線は、リンゴでは無くシンジの方を向いていた事から、恐らくウサギ自体を知らないのだろう。
そう思ったシンジは「少し調べれば、ウサギの写真は直ぐに見れると思うよ。耳が長くてふさふさな動物だよ」と言いながら、爪楊枝をウサギの眉間に刺し二羽ほど一角ウサギに進化させる。そして皿をレイの手が届く範囲に置くと、シンジは黙ってリンゴを食べ始めた。
一見平静に見えるシンジだが、次の言葉を如何するか必死に考えていたりする。
だがなかなかタイミングがつかめずに、八羽に切り分けられたウサギリンゴが、次々とシンジの口の中に消えて行く。一羽消えるごとに、レイの視線に含まれる非難の色が濃くなる。それを気にしつつも、シンジは最後のウサギに手を伸ばした。しかし、シンジの手は空をきる事になる。寸前にレイが、皿ごと取ったからだ。
「食べるの?」
シンジがそう聞くと、レイは困った様に目を泳がせた。皿を取ったのは、なかば反射的な行動だったのだろう。だがレイは、自分が何故そんな事をしたのか分からなかったのだ。
(僕が言い出せないせいで、不安にさせちゃったかな?)
固まってしまったレイを見て反省をする。そしてこれ以上は不味いと思ったシンジは、意を決して話し始める事にした。
「綾波と僕の関係って何だと思う?」
「えっ?」
突然の話題変更に、レイは呆然とするしか無かった。しかしシンジは構わず続ける。
……と言うより、踏ん切りがつかない自分に“ここで話を止めると、今日はもう話せない。下手をすれば、以前の様に言葉を交わす事無く……”と自身に言い聞かせ、半ば勢いのみだったりするのだが。
「知り合い? 同僚? 友人? 色々あるけど、綾波は何が相応だと思う?」
「……」
シンジの問いにレイは答える事が出来ない。いや、話について行けないと言った方が良いか。
「第三者が客観的に見れば、同僚と言う事になるんだろうね。好意的に見れば、共に使徒と闘う仲間……かな。同じチルドレンだしね」
シンジはレイの反応を注視しながら話を続ける。
「でも、僕にとっての正解は違う。……いや、どれも正解だから違うと言う訳じゃないね。それでも一番重要な答えじゃ無い」
一瞬の躊躇。
「兄が入院中の妹の所に見舞いに来るのは当たり前だろう?」
シンジは最後まで言い切った。
「えっ?」
行き成り兄だと言われても、レイは戸惑うだけだろう。だがシンジは、あえてここで言う事にした。レイは感情が薄い……踏み込んで言えば、長年封印された影響で退化し麻痺してしまっているので、最初に理屈から攻めるべきだと判断したのだ。かなり強引ではあるが、最初に“そう言う物だ”と押し切り、手っ取り早く人と人の触れ合いを体験させてしまおうと言う訳である。
「綾波は、僕の母親の名前を知ってる?」
「……碇ユイ博士でしょう」
突然の話題が変わった事で数瞬遅れたが、レイは迷う事無く返事をした。普通は重要な話をしている時に、今の様に突然話題を変えられたら戸惑うはずである。しかし良くも悪くも話題変更に付いて来れたのは、レイの感情が薄い所為だろう。その事にシンジは、苦笑いが出そうになる。
「そう。正解。じゃあ、綾波にとって、父親や母親と言える人は?」
「居ないわ。そんな人」
素っ気ない返答が帰って来たが、レイの眉間にわずかに皺が寄ったのをシンジは見過ごさなかった。
「本当にそう言える? 綾波の遺伝子提供者は誰なの?」
この質問に、レイは目を見開いた。そして次に現れたのは、強い警戒心だ。しかしシンジは、そんな事はお構いなしで話しを続ける。
「詳しい話は知らないけど、その片方は僕の母さんなのは知ってるよ。そして母さんは、綾波を認知すると言ったんだ。だから綾波は僕の妹になるわけ」
何でもない事の様にシンジは言っているが、内心はとても穏やかでいられる話題ではない。ボロを出さない様に必死だ。
「条件がそろえば、母さんもここで暮らす事になるからね。詳しい話を聞きたければ、その時に聞くと良いよ」
そう言うだけ言うと、シンジは立ち上がり後片付けを始める。レイ黙って俯いたままだ。やがてシンジの片付けも終わり、部屋を出て行く準備が整った。病室の扉に手をかけ、「それじゃ……」と退室の挨拶を言いかけた所でレイの口が動いた。
「私に兄弟は居ないわ」
それは明確な拒絶だった。
「そう……か」
シンジもこうなる可能性はあると覚悟はしていた。だが実際に拒絶されてみると、かなりクルモノがあった。心が折れそうだ。だけど、ここで諦める選択肢は存在しない。シンジは(想定の範囲内……範囲内だ)と自身に言い聞かせながら病室から出て行った。
レイはそんなシンジの背中を、眉一つ動かさずに見ていた。
この時切羽詰まったシンジは、偶然にも「また明日」と言う挨拶をし忘れた。しかし図らずも現実になってしまったのは、ある意味で当然の結果とも言えるだろう。
シンジが正式に、サード・チルドレンに就任する事となった。
離婚届が受理された事も確認され、ゲンドウの姓は六分儀に戻った。それにより半ば強引にネルフ加入の書類にサインをさせられ、即座に受理されてしまう。想定していた流れとは言え、有無を言わせぬ勢いで話を進められるのは、シンジにとって気分が良い物では無かった。
そして、契約してしまった以上、ネルフへの協力を断る事は出来ない。待っていたのは、エヴァに対する知識のすり合わせであった。と言っても実情は、長時間リツコに拘束され理詰めで知識を吐かされる尋問に近かったが……。それが終われば、エヴァ用の設備をシンジ用に調整する作業が延々と続く事になる。それだけでは終わらず、次はシンジの実力測定と訓練だ。これはシンジと言う戦力を、正確に把握したいと言う意図がある。
それらをようやく終えたと思ったら、次は転校と引っ越しが待っている。やはりと言うべきか、シンジの条件に合う物件を直ぐに用意できなかったので、引っ越し先は3LDKのマンションがあてがわれた。早ければ一月……遅くても二月で、本命の物件を用意すると約束された。
(家具は下手に買わない方が良いかな?)
前回は第4使徒が来る前に学校に顔を出せたが、今回は使徒の方が早く来る事になりそうだ。当然レイも退院して、既に学校に行っている。
(学校と言えば、トウジと会った時に、感情を隠しきれるか心配だな)
シンジはミサトや初号機と対峙した時に、感情を隠しきれなかった事を思い出した。そして初対面として、上手く対応する方法を考えてしまう。
(いや、違う。逃げちゃダメだ。逃げちゃダメだ。逃げちゃ……)
そう。今問題になっているのは、レイの事だ。レイの口から飛び出した拒絶の言葉に、シンジの心は大きく揺さぶられた。それだけならまだ何とかなっただろうが、間が悪いと言うか何と言うか、タイミング悪くサード・チルドレン就任で会えない状況に陥ってしまう。そして気がつけば、10日もレイと会って居なかったのだ。
普通なら本部の廊下で偶然会う事もあるはずなのだが、それも起こらなかった。それには当然裏がある。シンジが言う妹がレイの事だと知り警戒したゲンドウが、レイのスケジュールを調整して、二人が顔を会わせない様に手をまわしたのだ。これはシンジも十分に予想していた事態である。
当然対応策は考えてあるが、こうも間が空くと気不味くて顔を合わせ辛い事この上ない。そんなつもりじゃなかった、と言う言訳は今更だろう。
(とりあえず、やる事はやっておかないと……)
このまま放っておいても、状況が好転する事は決してない。それが分かっているシンジは、行動を開始する事にした。とにかくレイと顔を会わせなければ話にならないので、先ずはゲンドウの方から如何にかしておかなければならないのだ。
そうしてシンジは、セントラルドグマへと向かった。
ドン!!
指令室には無言で机をたたくゲンドウの姿があった。
「いか……六分儀。落ち着け」
窘める様に声をかけたのは冬月だ。今は部下達も居なくなり、指令室に居るのはこの二人だけだ。
「分かっている」
不機嫌そうに答えるゲンドウに、冬月は「何処がだ?」と言う突っ込みを呑みこんだ。冬月もゲンドウが苛立つ気持ちが、分からない訳ではないからだ。
二人の最終目標は、再び碇ユイと会う事にある。それを本来ありえない所でチラつかされれば、動揺しても当たり前と言えるだろう。そしてそれを信じて誰かの策謀だった場合は、今まで積み重ねて来た物を全て失いかねないのだ。しかしその逆は、……考えたくもない。
ドン!!
「諜報部からは、まだ情報が上がって来ないのか!?」
ゲンドウが再び拳を机に叩きつけ、その口からは半ば叫ぶような声が漏れる。ネルフの諜報部は、ユイに手がかりでさえ見つけられていないのが現状だ。そもそも存在しない物を探させている時点で、全く意味がないのだがゲンドウと冬月はそれを知らない。そして焦りと無力感だけが募る。
その原因となるのが、ゼーレに諜報部の力で負けている事だ。ネルフが掴める情報は、ゼーレに筒抜けと考えて良いだろう。ユイがエヴァ脱出が本当ならば、奪われてしまう可能性が高いのだ。加えてゼーレの諜報部が活発に動いているとなれば、焦りばかりが募るのは当然と言えるだろう。(ゼーレ諜報部の活性化は、ネルフ諜報部が動きが原因)
「ユイ君のエヴァ脱出は、本当にあると思うのか?」
そこで根本的な問題を冬月が口にした。
「…………」
だが、ゲンドウの答えは沈黙だった。
「今の所、手がかりはシンジ君の証言と書類だけだろう」
ゲンドウからの反論は未だ無い。冬月から言わせれば、シンジの証言はとても信じられない物だった。書類に残ったユイの指紋(マギの分析で偽装が否定される)が無ければ、一笑に付していただろう。
「やはり可能性としては、他の組織の……」
「いや。まて。冬月」
ここで、ようやくゲンドウが口を開いた。
「何だね?」
「ユイは初号機の外に居る。……かもしれんのだ」
先程の荒々しさから一転して、弱々しく言葉を口にするゲンドウに冬月は何も言えなくなってしまった。
(今まであれほど冷徹になれた男が、こうまで変わってしまうか。これは……)
この様な状態になっても、ゲンドウはネルフのトップとして失策は犯していない。シンジが他の組織に就いていた時の対策も十分に取っているし、指令としての業務に影響は出していない。しかし、それも時間の問題に思えて来る。だが、ネルフにとってゲンドウは、とても変えの効く人材では無い。代理等を立てて一時的に対応する事は可能だが、有事の際にどうしても対応が遅れる事になる。その隙をゼーレが見逃すはずがないのだ。
そこまで考え、ゲンドウを立ち直らせる案を練り始めた所で電話が鳴った。
「私だ」
次の瞬間には、ゲンドウが受話器を取っていた。その余りの速さに、呆気に取られてしまう冬月。事実の断定……ないし、少なくとも進展の連絡であってくれと願わずにはいられなかった。
だが、少し様子が変だ。
「……誰だ?」
ゲンドウが訝しげに呟く。不審に感じた冬月は、相手方の声を拾おうと受話器に耳を近づける。しかし受話口からは、何ひとつとして音が拾えない。
「くだらん悪戯なら……」
そう言って電話を切ろうとしたゲンドウの動きが、ようやく発せられた相手の声で止まる。
「ゲンドウさん」
それに対するゲンドウと冬月の反応は劇的だった。
「ユイ!? ユイなのか!?」「ユイ君か!?」
ゲンドウはこれでもかと言う程受話口を耳に押し当て、僅かでもその声を聞き逃すまいとする。冬月も受話器をひったくらんばかりの勢いで、受話器に……ゲンドウに張り付く。その見苦しい光景を他人に晒さずに済んだのは、当人達に取って(威厳的に意味で)幸運としか言えないだろう。
「不思議ね。何年も経っているのに、お久しぶりって気がしないわ」
「ユイ」「ユイ君」
「それだけ必死だったからかもしれないわね」
ゲンドウが感極まった様に何度も頷く。冬月も似た様な感じだ。
「ユイ。何処に居るのだ? 迎えに行こう」
それはゲンドウにとって、ある意味で当然の言葉だったのだろう。こうなると少しでも早く会いたいと思うのは、当然と言えば当然だ。
「ごめんなさい。それは無理よ」
「ユイ?」
ゲンドウの声に、不審が混じる。
「……灯台もと暗し、今はドイツに居るわ」
「なっ!?」
「ここからアメリカを経由して、そちらに向かう予定よ。早ければ一月、遅くても二月以内に日本に入れると思うわ」
この時間は純粋にユイの肉体を用意する為の物なのだが、居場所を聞いたゲンドウは気が気ではない。如何にかならないかと声を出そうとするが、それもユイが続けた言葉で止められる事になる。
「本当なら、もっと早く行けるはずだったのだけど。私の事は漏れて居ないはずなのに、何故かゼーレ諜報部の警戒が厳しくなっていて……」
ユイの言葉に、ゲンドウの表情が歪む。冬月も似たような表情だ。敵が何故警戒を強化したか、その理由にようやく気がついたのだ。自分がその原因ともなれば、ゲンドウも言い訳は出来ない。
冷水を浴びせられる。今のゲンドウの心情はまさにそれだったが、引き換えにいつもの冷静さを取り戻す事が出来た。
「……ユイ。すまない。おそらくネルフとゼーレの主導権争いが原因だ」
ぬけぬけと、そう言ってのける。
「すまん」
もう一度謝るが、そこにどんな意図があるかユイにはなんとなく分かった。そう。冷静になったゲンドウ達は、何よりも受話器の向こう側に居る人間が本当に碇ユイであるか確かめたいのだ。
「少しだけなら時間もありますし、お話しましょうか」
「!?」
ユイの言葉にゲンドウは、自分の真意を見透かされた事に気付く。
「私がゲンドウさんと初めてあった頃に……」
そう言ってユイは昔の話を始める。その話の流れは、偽物ではありえない。偽物なら徹底的に避ける話題だからだ。
「そうだったな。所で冬月先生を始めて家に呼んだ時は……」
「いえ。そんな事無かったわよ? 家に呼んだと言えば……」
引っかけにも引っかからない。それ所かゲンドウでさえ忘れて居た様な何気ないエピソードが、相手から次々と飛び出して来る。
「聞いているのですか? ゲンドウさん?」
「あ ああ」
その口調。その言葉使い。それらが科学者としてでなく、妻としてゲンドウに見せていた物だった。当然、記録として残っているはずがない。
「まだ、私がエヴァの外に居ると信じられない?」
信じたい。いや、もう既に信じてしまっている。
そんな気持ちがゲンドウの中であふれる。しかし同時に、今まで自分がどれだけ手を汚して来たかも思い出してしまう。そう。既にユイがエヴァの外に居る事を確信しつつも、何処かでそれを信じたくない自分が居る事にゲンドウは驚いた。
「ユイ。私は……」
「分かっているわ。未だに私がエヴァの外に出ている事が信じられないのでしょう? いえ。この場合は、確信していても信じたくない……かしら?」
「…………」
ゲンドウは言葉を返す事が出来なかった。冬月も話に割り込む事が出来ない。
「ハッキリ言って、私はゲンドウさんが許せないと思っている。同時にゲンドウさんをそこまで追い込んだのは、私であると自覚しているわ。なら、私達は償って行くべきよ。……ナオコさんの事も。……りっちゃんの事も。……シンジとレイの事も。皆に……」
もはやゲンドウにはぐうの音も出ない状況だった。
「だか<b>『Pi~~~~』b>……もう、時間切れね」
ユイの話が、突然のピープ音の様な物に遮られる。そして、続く残念そうなユイの声。
「ユイ?」
「これ以上はゼーレ気付かれるから、これ位にしましょう。続きは会って直接話しましょう」
「ユイ!? まっ……」「ユイ君!?」
ゲンドウ達が止めるのも聞かず、回線は切られてしまった。そして受話器を置くと、そのまま椅子に座り机の上で頭を抱えてしまう。
「碇? 如何するのだ?」
同じく余裕の無い冬月は、六分儀と呼ぶのも忘れ声をかける。だがゲンドウは、その声に応えない。……いや、応えるだけの余裕がない。
…………
……………………
嫌な沈黙が続くが、冬月は大人しく待った。そして考える。
ゲンドウがどれだけ非道な事をしてきたかは、加担こそしていないが全く知らない訳ではない。いや……それを見過ごして来た事は、加担して来たと言っても良いだろう。そう言った意味では、自分も同罪だと思っている。
ならば、補佐すべき副司令としてではなく……
「冬月」
「何だね?」
「私は間違って来たのか?」
「……分からん。だが、間違え続ける訳には行かんぞ」
「ああ。……そうだな」
そこでようやく、ゲンドウも何かが吹っ切れた様だ。何時もの態度に戻ると、再び受話器を手に取った。
受話器を置くと、シンジは大きくため息を吐いた。
「あんなので本当に大丈夫なのかな?」
そんな疑問がシンジの口から洩れる。だがそれを否定するように、シンジの中でユイが脈打った。だが、シンジの表情が変わらない。
(母さんは自信があるみたいだけど、如何考えても逆効果にしか……)
そこで、もう一度力強くユイが脈打つ。
(どの道、もうやってしまった物は仕方がないか)
そう結論して、この話を終わらせる事にした。不服そうにもう一度ユイが脈打つが、それを無視する事にしたシンジ。
今回ユイ化してゲンドウに電話した理由は、シンジとレイの隔離を如何にかするのが目的であるが、ネルフにユイの受け入れ態勢を作らせる意味の方が強い。一~二カ月後にユイの肉体が完成し、ゲンドウと顔を合わせれば目的は達成されるからだ。今の電話はシンジにとって(上手く行けばそれを早められるかも……)程度の物だったのだ。
気落ちする様な事でもない。と、シンジは割り切り手を動かす。今シンジが居るターミナルドグマの小部屋だが、壁のパネルが外され、そこから幾つものコードが露出し電極が取り付けられている。その電極は小さなボックスを介し、シンジの携帯末端に繋がっていた。電極を取り外しボックスをしまうと、元通りパネルを取り付ける。
「これで良し」
そう呟くと、小部屋を出て廊下を歩き始める。目的地はリリスが磔にされている部屋だ。そして拍子抜けするほどに、あっさりと目的の場所に着いた。そこには下半身が無い巨大な人型が磔にされている。第二使徒リリスだ。
(こんなに簡単に……。本当に大丈夫なのかな?)
その事に関してシンジは、セキュリティー面での不安を感じてしまう。だが、基地内の全てを統括しているマギを、秘密裏に味方につけているのだから、これは当然と言える。むしろここは、この状況を作り出してくれた者達(アスカとキョウコ)へ感謝する所だろう。
「母さん。行くよ」
シンジはそう呟くと、ポケットからカッターを取り出し、自分の左手人差し指を傷つける。そしてその傷口から染み出した赤い血が、一滴LCLの海に滴り落ちた。それと同時に、自身の中に居た温もりの消失がシンジの心に襲いかかる。その余りに大きな喪失感は、シンジに膝をつかせるまでに至った。
(こんな姿を見られたら、アスカにマザコンとか言われちゃうな)
そんな冗談とも本気ともつかない事を思い、シンジは自身を奮い立たせて立ち上がる。
そしてLCLの水面を見ると、薄らとユイの姿が映りそれが湖面に沈む様に消えて行った。これから時間をかけて、LCLから必要な成分を吸収してユイの体を再構成するのだ。時間がかかる作業だが、これをやらない訳には行かないのだ。
(一ヶ月と少しか、……時間がかかるけど仕方がないね)
実を言うと、時間をかけない方法が無いわけではないのだ。隠蔽を一切考慮しなければ、短時間……それこそ数分でユイの肉体を再構成する事は可能である。しかしそれには、シンジだけでなくエヴァ……初号機のバックアップが必要だった。他にもレイの予備の肉体を使う案もあったが、これは肉体年齢が(14歳に)変わってしまう事や、短時間とは言えリリスの魂ネットワークに接触する危険(取りこまれる危険あり。また、レイにどのような影響が出るか予想できない)と精神的な問題(ユイが「娘の体を乗っ取るのを嫌」と言った)から却下された。
シンジは一度深呼吸をして心を落ち着かせると、水面に軽く手を振りネルフを出る為に歩き始めた。
綾波レイは、夕日に染まったまりを一人歩く。時々地図に視線を落とし、現在位置を確認する為に周りを見渡す。どうやら自分が正しい道を進んでいるか、少なからず不安がある様だ。歩くのに支障は無い様だが、袖等から包帯が見え隠れしている。一般人がそれに気付けば、心配して声をかけてしまうだろう。それは護衛達も例外ではないが、決して護衛対象に近づく事は無い。
レイも黒服(護衛)の存在は気付いているが、彼女にとってはいつもの事だ。彼等が心配している等、気付きもしない。それなら“道案内を申し出てやれよ”とも思うが、彼等を責める訳にも行かない。ネルフのチルドレン護衛マニュアルで、対象との接触を禁止しているからだ。この場合、対象に危機が迫るか道を大きく外れなければ接触が許されない。
これはゲンドウの教育方針が、隔離路線(自我封殺)だったからだ。当初は護衛達もこの路線に反発があった様だが、アスカの護衛が始まってからはその反発も消えている。これはあからさまな護衛を、アスカが嫌がったからである。おまけにゲンドウが雇った心理学者が、チルドレンのストレスになると後押しすれば彼等も黙るしかない。まあ、前回はその反発も出なかったのだから、ネルフの環境は改善したと言えるだろう。
そうこうしている内に、レイが目的地に到着する。そこは何の変哲もないマンションだった。
マンション入り口のセキュリティを通過し、エレベーターで目的の階へと向かう。このマンションに張り付いている護衛が居るので、外で護衛していた者達は居なくなっている。近くに護衛用の詰所があるので、そこで待機しているはずだ。
目的の部屋に到着すると、鍵を使いロックを解除する。靴を脱いでリビングに入ると、レイはそこで立ち尽くす羽目になった。
資料によるとレイより先に1人住んでいるのだが、部屋の主がまだ帰って来ていないのだ。いくら隔離路線の教育を受けていたと言っても、持ち主に断りなく部屋の物を弄ってはいけない事くらいは知っている。
そしてレイは、何故自分がこんな所に居るのか思い返し始めた。
…………
指令からの呼び出しは、綾波レイにとって良くある事だった。何時もと同じ、他人を介した無機質な呼び出し。
「ファースト・チルドレン 綾波レイ。出頭しました」
教えられた挨拶をして顔を上げると、レイは僅かな違和感を覚えた。いや、気付いた。
何時もと変わらない立ち位置。何時もと変わらない態度。……そのはずなのに、ゲンドウが纏う雰囲気だけが違った。
以前は観察する様な眼で……しかし時々、何処かやさしい目でレイを見ていたのだ。だからレイは、それにすがってきた。その優しい目をしていた時に、自分では無い誰かを見ていたとしても。
彼女にはそれしか無かったから。だから気付かない。気付けない。気付こうとしない。……はずだったのに。何故か突然、欲しかった物が目の前に在ったのだ。ある意味で、気付きたくなかった事を突き付けられた様な物だ。冷静でいられる訳がない。
「……指令?」
そう声を出すのが精いっぱいだった。取り乱さなかったのが不思議な位だ。そしてまた嫌な事に気付く。今ゲンドウが自身に向けている物を、つい最近に経験していた事に……
サード・チルドレン 指令の息子 碇シンジ。
「どうかしたのか? レイ」
「いえ。……なんでもありません」
反射的にそう答えてしまう。心配そうに声をかけて来るゲンドウの余りの変化に、目の前に居る人物が本物か疑いたくなる。
「なら良い」
そう言ってゲンドウがレイに提示したのは、数枚の紙……資料と地図だった。
「今日からここに住め」
「分かりました」
半ば条件反射で了承するレイ。それが彼女に取って当たり前の事である。その事にゲンドウは自己嫌悪を感じていたが、何も言えず顔には出さなかった。当然だが、会話が続くはずもない。
「……以上だ」
「失礼します」
結局互いに何も言えないまま、レイは退出する事になった。
…………
回想を終えたレイは、改めて部屋を……リビングを見渡す。小奇麗に片付けられていて、家具等は備え付けの物の様だ。よく掃除されていて清潔感はあるが、住宅展示場みたいで生活感が無い。キッチンや個室を覗けば印象はガラリと変わるのだが、今は気にしなくても良いだろう。
すると玄関の方から、ガチャリと言う音が鳴った。部屋の主が帰って来たようだ。
「鍵が…… それに靴? 誰かいるの?」
玄関のカギが開いていた事に不審そうな声を、そして玄関の靴に気が付き疑問の声を上げる。そしてリビングに入って来た所で、レイを視界に捕え固まった。
「ここに住めって。命令」
レイがそう言うと、部屋の主……シンジの混乱は更に加速する。
「え? えぇ!? なんで? 如何して?」
シンジから見れば、予想外も良い所だ。ユイが確信していたから(そんな事もあるかもしれない)程度に考えていたが、まさかその日の内にレイと同居する事になるとは思っても居なかったのだ。ここまで来ると、ゲンドウがレイをスパイとして送り込んだのではないかと勘繰りたくなって来る。
当然そんな混乱した頭では、ただでさえ注意が必要なレイとの会話が出来るはずもない。
「……と とりあえず、夕食の準備をしようか。綾波は座って待っていて」
頭が真っ白になったシンジは、逃げるようにキッチン台の陰に隠れた。