――ガリア王女イザベラの機嫌は、再び悪化しつつあった。 それもそのはず。眼下で繰り広げられる従姉妹の無様さを散々嘲笑っていたものの……ふいに、それが自身にも降りかかり得ることに気付いてしまったからである。 そう。彼女の知力と眼力をもってしても、相手のイカサマを見抜けなかったのだ。同じ場に立てず、遠くから覗き見しているだけというハンデを背負ってはいるものの、それでもなお謎を解くことができるようでなければ、『シャルロットよりも自分のほうが優れている』 ことを示せない。このままでは、あの子を笑えなない。 それから十数分ほど経ったころであろうか。側仕えの者たちが見たら、その場で失神しそうな視線で『窓』を睨み続けるイザベラの耳に、王天君の呟きが聞こえてきたのは。「そう怖い顔すんな。ありゃオメーの手にゃ負えねぇ。つーかメイジには絶対無理だ。そういう罠が仕掛けてある」「それって……」 どういうこと? そう続けようとしたイザベラの問いを『窓』から聞こえてきた大歓声が遮った。「すごいな……」「一体どうなってるんだ……?」 ざわめく観客たちを背に、田舎から出てきたばかりの子供にしか見えない男――太公望がオーバーなリアクションと共にテーブル上のカードを次々とめくっている。「これと、これだ――ッ!」 現れたのは、風の3と土の3。「また当たった……」 ギャラリーの熱狂とは対照的に、店員の心にはブリザードが吹き荒れていた。それもそのはず、今まであちこちのテーブルで豪快に負け続けていたカモが、とうとうネギを背負って自分のところへやって来たとほくそ笑んでいたところへこの状況。「どうして俺だけがこんな目に……」 と、半ば自暴自棄になってしまっていても致し方ない。 そんな彼の心境とは対照的な表情をしたカモもどきは、食い入るようにカードの群れを見回すと、再び左腕を大きく振りかぶった。「次は……これと、これッ!」 めくられた組み合わせは、炎の貴婦人と水の貴婦人。再び沸き起こる歓声に満面の笑みで応える太公望。とうとう「皆の応援感謝する」などと言いながら、ギャラリーに飲み物を奢り始めた。おこぼれに与った客たちが大盛り上がりする一方で、店員側はまるでお通夜のような雰囲気を醸し出している。 その模様をつぶさに観察していたイザベラがぽつりと呟く。「『ラ・コンサント』かい。初心者向けのゲームで、よくあそこまで稼いだもんだね」「なんだそりゃ?」 王天君が口にした疑問に、イザベラは答えた。「52枚のカードを裏返して並べて、その中から2枚を選んでオープンするの。両方とも同じ数字が出たら自分のものになって、違っていたら対戦相手にめくる権利がうつる……それを交互に繰り返して、取った枚数の多い方が勝ちっていうゲームよ」「ふん、神経衰弱か」「なにそれ。あ! その言い方からして頭脳戦で相手を弱らせる奥義とかかい?」「生真面目にボケてんじゃねぇよ。オレたちんとこじゃ、そう呼ぶんだ」 などというやりとりの間にも、カードは次々とめくられてゆく。「これッ! これッ! これッ! これッ!!」 炎の1と水の1、風の7と土の7。これだけではない、次も、その次もまた外すことなく太公望はカードとチップを奪ってゆく。店員の顔は、既に青を通り越して真っ白だ。「百発百中じゃない! いったいどうやってるのよ……」 唖然としているイザベラに、王天君は何も言おうとしない。干した果実を口へ放り込みながら、己の半身を観察し続けている。「ねえってば!」 しびれを切らしたイザベラの声に、ようやく彼女のパートナーは反応を見せた。「こんなの、オレに聞くまでもねぇだろ」「え?」「自分で考えろっつってんだ」「なによぅ、オーテンクンのいじわるッ!」 言葉とは裏腹に、イザベラは怒ってなどいなかった。その証拠に、彼女の瞳は欲しかった玩具を買い与えられた子供のように輝いている。 支配人が仕掛けている罠とやらは、彼女や従姉妹がメイジであるがゆえに見破れないという。しかし今、目の前で繰り広げられているこれは全くの別物らしい。 テーブルを囲む有象無象は兎も角、カジノ内での不正を暴くことにかけては超一流の目を持つディーラーたちすら出し抜く超高等技術――だが。「けどよぉ、オメーの実力なら見破れるはずだぜ?」 やや迂遠な表現でこそあるものの、王天君はそう言ってくれているのだ。 ――父親には見向きもされず、貴族はおろか侍従たちにも常に従姉妹姫と比較され、密かに見下され続けてきたイザベラにとって、その口調こそぶっきらぼうではあるものの、下手なお世辞や追従ではなく素のままに自分を認めてくれる王天君の存在は……大いなる喜びであり、救いでもあった。 そんな中『窓』の向こう側で、再び騙し合いという名の遊技が始まる。 このカジノ独自の決まりで、カードをシャッフルして配るのは客の役目とされていた。つまり、王天君の弟がそれを担うことになる。彼はデックをふたつに分けた後、ぱらぱらと弾きながら交互に噛み合わせ始めた。「へえ、リフル・シャッフルを使うのかい」 慣れた手つきで切り終えた太公望に対し、イザベラは素直な賞賛を口にした。「相当手慣れたヤツがやらないと格好がつかないから素人には敬遠されがちなのに、なかなか上手いじゃないか……って、んん? ちょっと待った」 右手で軽く額を抑えながら考える。 数字が描かれた側を手のひらに乗せて切る、あるいは山そのものを崩してばらばらに混ぜ合わせるといった一般向けの技法ではなく、あえて熟練者用のリフル・シャッフルを採用しているのは何故なのか。 そもそも彼は、ここまで徹底的に無知な田舎者、ド素人のふりをしてきた。にも関わらず、そんな真似をするということは……それを崩すだけの理由があるのだ。 ゴクリと唾を飲み込んだ後、イザベラは己の推測を語り出した。「リフル・シャッフルはカードの端を弾いて噛み合わせる技法。他の方法と違って、一瞬だけ中身の一部が見える。まさか、それを全部暗記してるんじゃないわよね……?」 自分で言い出したことだが、正直信じられなかった。一瞬で切り終わる上に、数字が垣間見えるのは瞬きする間にも満たない。しかも並べた順番まで完璧に覚えておくなんて、常人とはかけ離れた記憶力と動体視力である。 ところが、半信半疑といったイザベラの解答に対する王天君の反応はといえば。「な? 簡単だったろ」 鷲掴みにした焼き菓子を口に放り込みながら、平然と言い放つ。 確かに、タネさえわかってしまえば単純なカラクリなのだが……しかし。「ううッ、ある意味才能に溢れたグレイトなイカサマだねぇ……」 記憶力や眼力もそうだが、カジノへ入った当初から行っていた田舎者まるだしの子供という演技は、主人である従姉妹だけでなく自分への迷彩にもなっていたのだ。おかげで、その道のプロである店員たちが、彼のイカサマを見破ることができないでいる。 かつて太公望を相手に策を仕掛けたことがあったが、それがいかに無謀な行いであったのか、今更ながら思い知らされた。兄である王天君もそうだが、弟も尋常ではないレベルで頭がキレる。 それに、あの演技力もヤバい。容姿の幼さも相まって、皆がころりと騙されてしまう。今でこそ「わざとらしい」と醒めた目で見ることができるが、初対面のときには宮廷内の悪意に晒され続けてきたイザベラですら引っかけられたのだから。「あのときオーテンクンが止めに入ったのも、無理ないわぁ……」 魔法の腕は兎も角、謀略方面における実力にはある程度の自信を持っていたイザベラだったが、正直このふたりには勝てる気がしない。「今は、まだね。だけど、このままじゃいられないんだ」 彼も、王天君も、自分より遙かに年齢を重ねている長命種。互いの間に横たわる差、特に経験や知識を縮めるのは容易ではない。けれど、そこはこれから多くを学び、埋めてゆけば良いだけの話。王族たるもの、敗北をそう簡単に認めるわけにはいかないのだ。 そして、彼らふたりに匹敵する実力を身につけることができたなら。「きっと、父上はわたしを褒めてくれる。わたしのことを……大切にしてくれる」 この『窓』に映し出される光景は、ある意味最高の教材だ。脳内に思い描く素晴らしい未来のために、イザベラは食い入るようにそれを見つめ続けた――。○●○●○●○● ――あの支配人が、動揺している。 心を乱され、屈辱に震えていたタバサは、それを見て瞬時に冷静さを取り戻した。この数年間というもの、一瞬の判断が命取りになるような任務を幾度となく乗り越えてきた彼女ならではの切り替えの早さだ。 精神的に立ち直ったタバサは周囲にそれを悟られぬよう視線だけで辺りを観察し、店内に響く声や音に耳を澄ませた。 それらの情報によると、彼女のパートナーが稼ぎ出したチップはなんと5万エキュー。そこそこ大きな領地を持つ貴族の税収にも匹敵する金額だ。動じないほうがどうかしている。いるのだが――。「なぜ」 彼らはここまで慌てているのだろう。わたしに仕掛けているであろうイカサマと、同じことをすればいいだけの話ではないのか? と、そこへ件の支配人が声をかけてきた。その顔には、先程までのふてぶてしさが戻っている。まあ、このくらい神経が図太くなければカジノの支配人など務まらないだろう。タバサは内心舌を巻いた。「どうやら、お連れさまが相当な幸運に見舞われているようで」 ねっとりと絡みつくような笑みを浮かべながら、ギルモアはその先を続けようとしたのだが、それは唐突に巻き起こった大爆笑によって掻き消された。「わ――ッははははははははは! わし、大・勝・利!!」「すげえ、またこの子が勝ったよ」「これで、ええと……何連勝だ?」「少なくとも、そんなの忘れるくらい勝ち続けているのは事実だな」 視線を移すと、そこには文字通りチップの山に埋もれた太公望がいた。そして対戦相手のディーラーが、死んだ魚のような目でそれらを交互に見つめている。 ところが。そんなことは全く気にならないといった体を装いながら、支配人はタバサにとんでもない提案を持ちかけてきた。「お嬢さまは、まだ勝負をお続けになりたいご様子。いかがでしょう? お連れさまからチップをお借りになられては」 それを聞いた瞬間、ふいにタバサの脳裏に閃くものがあった。 ――彼を警戒している? ううん、違う。あえてわたしに勝負を持ちかけてきたということは、今この時点でわたしにしかイカサマを仕掛けられないということなのだろう。 支配人にしかできない? いや、それはありえない。例の中年貴族を相手にしていたのは、別のディーラーだった。テーブルも、こことは別の場所にあった。つまり、このふたつは完全に候補から除外される。 それとも、手品の名手であるトーマスが何か細工をしているのだろうか。 違う。それなら彼は、あんな必死の形相でわたしを止めようとはしなかったはず。トーマスが手札を操作しているのなら、単にわたしを勝たせれば済んだのだから。 支配人の不興を買いたくなかった? それもないだろう。わたしに声をかけたときの彼は、完全に冷静さを失っていた。そんなことを判断する余裕がないほど、トーマスはわたしの身を案じてくれていた。つまり、彼には手の出しようがない仕掛けなのだ。 人材じゃない。場所でもない。小手先の技でもない。となると残るは――。「お嬢さま、どうなさいますか?」 沈黙し続けるタバサにしびれを切らしたギルモアが、再び問いかける。「やる」 支配人の目に、獰猛な獣の如き光が宿った。「ただし、条件がある」「また休憩なされますか? ああ、先程お賭けになられたお召し物ですな! もちろん、そのくらいは……」「違う」「と、申されますと?」 顔を上げたタバサは、支配人の目をじっと見つめた。そして、彼女は死刑宣告をする裁判官のような口調で告げた。「この卓のカードを、今、わたしの従者が使っているものと交換して。その上で、彼のゲームは終わらせる。それが、勝負を受ける条件」 ごくごく僅かに支配人の顔が歪んだのを、タバサは見逃さなかった。間違いない、やはりこのカードそのものに仕掛けがあるのだ! そうと確信したタバサは、支配人たちが止める間もなく手にしたカードを引き千切ろうとした。内側に何か仕込まれているのではないかと考えたがゆえの行動だったのだが、残念ながら彼女は目的を達成することができなかった。 何故なら――。「キュピィィイイッ!」 という高く澄んだ鳴き声と共に、カードが一匹の小さなイタチに変化したからだ。その途端、卓に置かれていた札の全てが、同じように変化し始める。 いつしかテーブルの上は普通のイタチとは違う、青く澄んだ瞳を持つ不思議な獣たちで溢れかえっていた。 『窓』から一連の出来事を覗き見ていたイザベラは、思わず呻いた。「あれは……幻獣? カードに〝変化〟してたってのかい! なるほどねぇ、支配人がわざわざ〝魔法探知〟で調べてみろ、なんて言うわけだよ。連中が使う先住魔法はアレじゃ見破れないからね」 と、そこまで言ったところでイザベラは気が付いた。王天君は、この罠をして「メイジだからこそ見破れない」と教えてくれた。それはいったいどういうことか。 〝探知〟に引っかからないから、魔法がかかっていないと思い込む。使い手の腕が優れていればいるほど、対象に込められている魔力の有無で判断し――落とし穴に嵌る。つい先程までの、従姉妹姫のように。 いや、それだけならわざわざあんな注釈をつけたりしないはずだ。イザベラはお世辞にも魔法が得意だなどとは言えないが、それでも水メイジ特有の能力で『水の流れを視る』ことができる。あのカードは幻獣、つまり生物なのだから、高ランクの水メイジなら違和感を覚えるくらいはしたはずだ。なら、どうして? 推測を重ねるイザベラに、王天君が補足してやるとばかりに告げた。「異端、だったか? えらく面倒くせぇ概念だな。オレたちはそんなモンに縛られやしねぇがな」 その言葉に、イザベラの目が大きく見開かれた。「メイジだから、わからない……そう、そうなの。そういうことだったのねッ!」 突然、狂ったように笑い始めたイザベラ。それも、普段の誰かを見下したようなそれではない、自虐的なものが多分に含まれている。もしも彼女の姿を侍従たちが目撃したら、間違いなく典医を呼びに走ったであろう。『狂王』ジョゼフと『鏡姫』イザベラは、紛う事なき親子であった。 イザベラはひとしきり笑った後、吐き出すように言った。「そうよね、わたしたちメイジは、みぃんなブリミル教徒。異教の、それも邪悪な先住の魔法を学ぶことは『始祖』への叛逆に等しいことだと教えられて育ってきたわ。だから、わからない。万が一気付いたとしても、プライドに凝り固まった貴族たちは認めない。邪教の手先にいいように弄ばれた、なんてことはさ!」 ――それ以上に、問題なのは。「だいたい、そんな連中が集まる場所に入り浸っていたなんて知れたら、異端認定確実。身の破滅だものねッ!」 実際、従姉妹とて先住魔法の気配を察したわけではない。これまでの状況から、カードに仕掛けがあると当たりをつけただけだ。手にしたそれがイタチのような幻獣に変わった瞬間、呆然と突っ立っていたのが何よりの証拠だ。 北花壇騎士団にこの仕事が持ち込まれたのが、正直なところイザベラには疑問だった。貴族が平民に恥をかかされた、彼らの威厳を保つために必要な措置だという理屈はもっともらしくはあるのだが、それだけでは弱いような気がしていたのだ。もしかすると父は、そこまで見通した上で裏で密かに始末をつけようとしていたのかもしれない。 ガリアの貴族、それも王宮勤めの官僚や街役人が異端の遊びに手を出していたとなれば――たとえそれと知らずに行っていたとしても――ロマリアが政治的に介入してくる充分な口実となるからだ。これ幸いと新たな司祭、もしくは枢機卿クラスの人材を送り込んできただろう。 父王の読みの深さに感心していたイザベラは、ふと気付いたことを口にした。「あなたの弟も、最初から気付いていたのかしら?」「当然だろ。あんなダセェ変化、オレたちに通用するもんか」「もしかして〝フェイス・チェンジ〟も?」 答えの代わりに、王天君は不敵な笑みを浮かべた。 事実、王天君や太公望には〝変化〟も〝フェイス・チェンジ〟も通用しない。彼らは、その生物に宿る〝生命力〟別の呼び方をするならば〝魂魄〟を通して偽りの姿を看破し、相手の正体を見抜く目がある。事実、太公望は過去にその眼力を用いて、悪さをする妖怪仙人や魔物たちの真の姿を幾度となく暴いてきた。 〝魂魄〟はおろか〝気〟さえ見切れないほど完璧に〝変化〟されていたとしても、挙動の違和感から正体を看破できる。仙人界きっての天才と呼ばれた男に実力を試された際にも、ほんのわずかなやりとりで見抜いてしまった。 そんな太公望が唯一騙されたのは、胡喜媚が『如意羽衣』で女狐に成り代わっていたときだけだ。後に、仙人界最高と謳われた〝変化〟の名手から「彼女の実力は僕を上回る」と言わしめただけのことはある。 むう。と、唸りながらイザベラがぼやく。「まあ、そうねぇ。それはそうなのかもしれないけどさぁ」「奥歯にモノが挟まったみてぇな言い方すんなよ」「だって、どうにも理解できないのよ。あなたの弟が」「んなこと、今に始まった訳じゃねぇだろうが」「もう、茶化さないでよッ。わたしが考えてることくらい、わかってるくせにさッ!」 フンと鼻を鳴らし、王天君は言った。「どうしてあの人形姫に、直接教えてやらなかったのか。だろ?」「ほらね。そう、その通りよ! いくらシャルロットが自分でやるって言い張ってたからってさ、あそこまで放ったらかしにするってのがねえ……」 イイコちゃんがするような真似じゃないんじゃなくて? そう訴えかけるイザベラの目を見ながら、王天君は不気味な笑みを浮かべた。「アイツぁ、面倒くさがりだからな」「なによそれ! 訳がわからないわッ!!」 余計に面倒なことになってたじゃないの! そう叫ぶイザベラに対し、王天君はただ笑うだけで何も答えようとしなかった。 ――自分は決して手を出さず、部下たちに全てを任せる。たとえ、そのことで彼らが痛い目を見たとしても、本当にどうしようもない状況……それこそ、命を失うような可能性が生じない限り、ぎりぎりまで我慢して経験を積ませる。そうして険しい山を乗り越えたとき、試練を与えられた者たちは大きく成長する。 太公望のもとに集いし仲間たちは、そうやって彼に育てられてきた。後に強大な帝国・殷を打倒した周の武王ですら例外ではない。「皆が成長してくれれば、わしは堂々とサボれるからのう!」 とは本人の弁だが、最終的に『道標』は倒れ、さらに『始祖』たる伏羲がいなくとも世界は回るようになったのだから、その手段自体は間違いではないのだろう――未だかつての仲間であり、部下でもある者たちから追われ続けているのはさておくとして。 ――そして、王天君が放置という名の試練をイザベラに課したのと同じ頃。ざわり……と、カジノ店内の空気が揺れた。ようやく、その場にいた者たちの理解が現状に追いついたのだ。「つまり、幻獣をカードに化けさせていた、のか……!?」「それで、ルールを仕込んで手札を操作してたってわけだな」「おかしいと思ってたんだよ……」「前に大負けしたときのあれは、やっぱり……!」 驚愕のざわめき声は、さざ波のように店内全域へと広がってゆく。それらが憤怒に変化するまでには、さほど時間はかからなかった。「騙しやがったな、このイカサマ野郎が!」「わたしのお金、返しなさいよッ!」「このペテン師め、吊してやるッ!」 怒りを露わにした客たちが、ギルモアを捕らえようと身構えていたタバサを押し退け、支配人に向かって殺到する。だが、そんな彼らの前にトーマスが飛び出してきた。「ギルモアさまに手出しはさせん」 支配人を守るように立ちはだかったトーマスは袖から紙のようなものを取り出し、引き千切った。刹那、猛烈な勢いで白煙が巻き起こり、周囲へと広がってゆく。 店の何処かで悲鳴が上がった。「か、火事だあッ!」 ギルモアたちの側にいた者たちは、もちろん違うとわかっていた。しかし問題の卓から離れた位置におり、状況をいまいち把握しきれていなかった者たちがこの声を聞き、白煙がもうもうと立ち広がるのを見た結果、大パニックに陥った。男も女も、貴族・平民の区別すらない。店内にいた大勢の客たちが、我先にと出口へ向かって殺到する。 人混みに紛れて逃げるつもりか。そう判断したタバサの内心に、再び焦燥が押し寄せてきた。彼らを追跡するためには、杖が必要だ。しかしこの混乱ぶりでは、入口のカウンターへ辿り着くのも難しい。 このまま追うなど論外だ。杖を持たないわたしは、単に戦いの空気を知っているだけの小娘に成り下がる。普段の体捌きや身軽さは、あくまで魔法の補佐があってこそ。接近戦を挑むにしても、父譲りの長杖がなくてはどうにもならない。 タバサは思わず唇を咬んだ。「わたしはまだまだ甘過ぎた」 かつてヴァリエール家で行われた歓待の席で聞いた話を参考に、ブラウスの袖と靴底へ予備の杖となる素材を仕込んでいた。ところが、プチ・トロワへ到着するやいなや着替えさせられてしまい、それらはどこかへ運び去られてしまった。 マントに縫い込んでおかなかったのは、貴族の象徴ともいうべきマントは徹底的に調べられる可能性があり、もしもそこで仕込みが発覚した場合、他のものも取り上げられてしまうだろうという警戒から、あえて外していた。それが完全に裏目に出た格好だ。 とはいえ時間がない。急がなければ、支配人たちに逃げられてしまう。一応「イカサマを暴き、カジノを潰す」という任務は達成できたが、それだけでは足りない。騙された被害者たちにお金を返すためにも、彼らの金蔵を押さえる必要があるのだ。 そう考えて入口へ足を向けたタバサだったが、暴力的なまでの人波に押し潰され、流されてしまった。「急ぐの、道を開けて」 少女の声は、悲鳴と怒号に掻き消される。混乱した人々は逃げ惑い、その波に飲み込まれたタバサは入口へ辿り着くことはおろか、脱出することすらままならない。 そんな彼女を掬い――もとい、釣り上げた者がいた。 バーカウンターの奥から吹いてきた風に巻き上げられながら、タバサは思った。この人混みの中からわたしだけをピンポイントで釣り上げるなんて、相変わらず器用。『釣り師』の二つ名は伊達じゃない――。 そんなことを考えていた彼女には、当然この〝風〟の使い手が誰なのかわかっている。そして、その推測は投げかけられた声によって裏付けられた。「これで貸しひとつだのう」 店内に設置されていたバーカウンターの奥に立っていた太公望が、抱えていたタバサの服とマント、それから杖を彼女に手渡した。 結局彼に助けられてしまった。今の件だけではない、あのとき彼が大勝ちしてくれていなければ、支配人のイカサマを見抜くことはできなかっただろう。 急いで服を身につけながら、タバサは言った。「この借りは、トリステインで返す」「ほほう、一体何でだ?」「お菓子」「貸しだけにか。では、期待して待っているとしよう」 笑みを浮かべた太公望に頷いて見せると、タバサは風を纏い飛び立った。○●○●○●○●「くそッ、まさかあんなことでエコーの〝変化〟が破られるとは」 店内の奥にある隠し通路を駆け抜けながら、ギルモアは歯軋りした。 彼が古代の幻獣エコーと出会ったのは、とある森の中だった。得意先の大商人から鹿狩りに誘われた彼は、小さなイタチが目の前で枯れ葉に〝変化〟するところを見て、彼らを何かに利用できないかと考えた。 王立図書館の隅で埃を被っていた『古代の幻獣とその眷属たち』という書物から、自分の見たモノが「エコー」という名で呼ばれる非常に珍しい生物であること、人間の言葉をある程度理解できる程度の知能を持つことを確認した彼は、当初の思いつきが上手くいくであろうことを確信し――今度は鹿ではなくエコーを狩りに森へ出向いた。 エコーたちに協力させるのはさほど難しいことではなかった。最初にエコーの子を数匹捕らえてその親たちを脅し、無理矢理言うことを聞かせるだけで済んだ。 カードに変化させた上でさまざまなゲームのルールを仕込み、今の場所に賭場を開いたのは半年前。それからは連戦連勝、エコーたちは彼に多大な富をもたらしてくれた。「せめてもう少し数が用意できていれば、こんなことにはならなかったというのに!」 もともと希少種であるため、カード1セット分の数しか揃えられなかったのが最大の誤算であった。それでもこれまでは問題なかったのだが、同じ日に、しかもイカサマを仕掛けた貴族の従者が主人以上の儲けを出すなど、完全に想定外だった。 歯ぎしりして悔しがる支配人に、トーマスが声をかけてきた。「ギルモアさま、こちらへ」 トーマスが壁に取り付けられた燭台を引くと、ガコンという音と共に仕込み壁が開く。こうした商売をしている以上、逃げ道をいくつも用意しておくのは常道である。これは、そんな仕掛けのうちのひとつだ。 狭く薄暗い路地裏に通じていた扉を抜けると、金色に光る目が通りに溢れていた。それが一斉にこちらへ注目する。「んな!?」 ギルモアが出した声に驚いたのであろう、そのモノたちは「ふにゃあ!」と声を出して方々へ散っていった。どうやら猫の集会場に出くわしてしまったらしい。「な、何だ、野良猫か。脅かしおってからに!」「そんなことよりギルモアさま。今は身を隠して再起を図りましょう」「う、うむ、そうだな……」 ところが。走り出そうとしたふたりの前に、小さな影が立ちはだかった。「お嬢さま……」 タバサだった。急いで走ってきたのであろう、やや息が乱れている。「どうしてここがおわかりに?」「風を辿った」 建物は、空気の流れを計算に入れた上で設計する。それが外気に直接触れない地下室となれば、換気口はより神経を尖らせて配置される。タバサはこともなげに言うが、よほど鋭敏な感覚を持った者でなければ、複雑な空気の流れに翻弄されてしまっただろう。 ふたりを交互に見つめたあと、タバサはすっと手を突き出した。「シレ銀行の、金庫の鍵を」 その言葉を受けたギルモアは、はっとした表情で訊ねた。「あなたさまは、もしや政府のお役人ですか?」 タバサは無言で頷いた。それを見たギルモアは地面に這い蹲り、頭を擦り付けながら哀願した。「ならば、どうかお見逃しくださいませ! 我らは義賊にございます。富める方々の懐から少しばかりお金を頂戴し、貧しい者たちへ配ることを生業としているのです」「証明して」「は?」 顔を上げたギルモアに、タバサは言った。「わたしの役目は、カジノで行われていた不正を暴き、店を潰すこと。あなたたちを捕らえるようにという命令は受けていない」「そ、それでは……」「だから喜捨院を運営しているという証拠があれば、このまま見逃してもいい。トーマスを救ってくれたことに免じて。ただし、金庫の鍵だけは貰う。わたしにも立場がある」「お嬢さま……!」 トーマスは安堵の溜め息をついた。だが、ギルモアは動こうとしない。「ギルモアさま?」 促されたギルモアはゆらりと立ち上がると、外套の内側に手を入れた。「証拠でございますか」 不気味なほど低い声で告げた後、懐からフリントロック式の小型拳銃を抜いてタバサに突きつける。「これが答えだよ、世間知らずのお嬢さま。ふん、誰が貯めた金を貧乏人どもに配るような真似をするものか! おいトマ、この小娘を捕らえろ。なかなかの美形だ、そういう趣味の客のところへ連れ込めば、いい金になるだろうからな」「そ、それは……」「そういえば、お前たちは知り合いだったな。そうか……トマ。もう、わしの言うことは聞けないと言うのだな」 びくりとトーマスの身体が震えた。それから迷いを断つかのように首を数回激しく振ると、ギルモアを庇うようにしてタバサの前に立ち塞がった。彼の顔には悲しげな、それでいて切なげな色が浮かんでいる。「トーマス、やめて」 タバサは彼に叛意を促す。しかしトーマスは頷かなかった。「ええ、薄々と……わかっておりました。けれど、ギルモアさまは……路頭に迷っていた私を拾ってくださった恩人なのです。ですが、それよりも……」 トーマスは、悔しげにタバサを睨んだ。「お嬢さまは、役人……ということは、つまり王政府に所属しておられるのですよね」 彼の問いに、タバサは小さく頷いた。「わたくしには理解できませぬ。お嬢さまは、なぜ王政府に――あの『無能王』の命令に従うのですか? お父上の敵、シャルル殿下を暗殺して王位を簒奪したあの狂人に、どうして……!?」 これを聞いたギルモアの目が見開かれた。「この娘が、あのシャルル大公の……大公姫殿下、だと!?」 その声を遮るように、再びトーマスが訊ねた。「貴族でない私には、お嬢さまのお心が理解できませぬ。なぜ、このような……」 タバサは俯いた。「母さまが、病に伏せっている」「奥さまが!?」 医者、特に水メイジに診せるためには、かなりのお金が必要となる。家を取り潰された令嬢が唯一残された母の薬代を得るために、苦渋の選択をしたということか。 そう結論しようとしていたトーマスに、想定外の追い打ちが来た。「それに、あなたの認識は間違っている」「ギルモアさまに従うことが、ですか?」 それには答えず、タバサは頭を上げると、真正面からかつての使用人に告げた。「伯父上……ジョゼフ王は、王位簒奪なんかしていない」 トーマスは目を剥いた。「そんな馬鹿な! お屋敷だけではなく、国中で噂になっております! 魔法のできないジョゼフは皇太子の位を剥奪され、シャルルさまが次期国王の座に即くはずであったと。嫉妬に狂ったジョゼフが実の弟に手をかけ、ガリアの王冠は血に染まったのだと」「それは嘘。伯父上が正当な継承者であるという証拠がある」 驚愕の色で顔中を染めたトーマスに、タバサは淡々と続ける。「リュティス大司教が、御祖父さま……先代国王の遺言状を持っている。そこには、確かに『次期国王に皇太子ジョゼフを定める。臣下の者は、これをよく補佐するように』と書かれていた」「嘘です! そんな、そんなことが、あるわけが……」「本当。遺言状だけではない。次の王は兄上に決まった、父上からそう告げられたと……そう、父さま自身が話していた」 実際には母から聞いた話ではあるが、タバサはさも自分が耳にしたかのように語った。トーマスだけでなく、己の心にも言い聞かせるようにしながら。「ならば、どうして殿下は死ななければならなかったのです!?」 母が毒薬による病から快癒した後。彼と全く同じことを、自分と執事のペルスランが問うたのを思い出しながら、タバサは言葉を続けた。「父さまが……派閥を率いて叛逆を企てたからだと聞いている」「ありえません! あのお優しいシャルルさまに限って、そのような……」「わたしも、そう思う」「では、何故!?」「父さまは、優しすぎたから……派閥の貴族たちに担ぎ上げられてしまったのではないかと思う」 父自ら動いていた、とは言わない。これについては証拠がない……というよりも、タバサ自身がそれを信じたくないという複雑な心理ゆえに。「当時シャルル派は、ガリアの半数にも及ぶ規模だったと噂されている。それだけ大勢の貴族たちが杖を取れば、単なる内乱では済まない。伯父上は、数千年前に国を滅ぼしかけた双子の王子たちの二の舞になることを避けたのではないかと」 さざ波ひとつ立たぬ湖面のような表情でそんなことを述べるタバサに、トーマスは怒声を浴びせかけた。「そ、そんな淡々と……お嬢さまは憎くないのですか? 悔しくないんですか!?」「憎いし、悔しい」「それなら……」「勘違いしないで。わたしが恨んでいるのは、伯父上にそんな決断を迫った双方の派閥。もちろん、伯父上に対して全く思うところがないわけではない。けれど」「けれど、何だというのですか?」「伯父上は、わたしたち母娘を殺さず……生かしてくれた。父さまの敵討ちを大義名分としたシャルル派貴族の軍が、わたしたちを御輿にする可能性に目を伏せて」 それを聞いたトーマスの身体が強張った。シャルル王子暗殺事件当夜のことは、今でも昨日の出来事のように思い出せる。 大公夫人に「殿下の敵を」と詰め寄り、自分たちの旗頭になるよう求めた大勢の貴族たちと――彼らに付き従い、屋敷を取り囲んでいた軍勢がいたことを。今、目の前にいる少女が告げていることは……夫人が断りさえしなければ、実際にありえた事なのだ。 震えるトーマスに追い打ちをかけるかのように、タバサは続けた。「あなたは覚えているはず。伯父上が、どんなひとだったか」 その言葉に、トーマスはぐっと唇を咬んだ。 今でこそ自分や主人たちの家族を破滅に追い遣ったジョゼフを憎んでいるが、かつてラグドリアン湖畔の屋敷で見たかの人物は、弟と仲が良く、その妻を立て、幼い姪を我が子のように可愛がるばかりか、使用人たちにも何くれと無く気配りをしてくれていた。彼自身、食事を運んだ際に小遣いを貰ったことがある。 貴族の条件たる魔法が一切使えず、平民である自分の目から見ても常識外れな性格をしていたため、王族としては正直どうかと思うが……かつてのジョゼフが身内や貴族だけでなく、臣民に対しても優しい人間であったことは間違いない。「そんな……そんな……!」 驚愕に震え、立ち竦んでしまった手品師を諫めたのは彼の現在の主人だった。「惑わされるな、トーマス! お前は、お前の仕事をするのだ!」「し、しかし……」 未だ混乱しているトーマスをひとまずそのままにすると、ギルモアはタバサに向かって嫌らしい笑みを浮かべた。「失礼ですが、大公姫殿下。ジョゼフ王があなたさまを生かしておいでなのは、何も愛情ゆえのことではないのではありませんかな? いや、それすらも計算の内なのかもしれませんがね」「どういう意味?」 嗤いながら、ギルモアは語る。「ご存じですか? トリステインの先代国王ヘンリー一世陛下はテューダー王家の出であらせられます」「それが?」「そもそも三王家は『始祖』ブリミルの直系。つまり、親戚同士なのです」 顔中に疑問符を浮かべているタバサに、ギルモアは物わかりの悪い子供を諭すような口調で告げた。「戦争が始まったために延期されてしまいましたが……本来であれば、今頃ゲルマニアではトリステインの王女アンリエッタ姫殿下と、皇帝アルブレヒト三世閣下の結婚式が執り行われていたはずです。失礼ですが、大公姫殿下は今……おいくつでしたかな?」 ここまで言われれば、さすがにそういった方面に疎いタバサでもわかる。「伯父上が……わたしを、后として迎えるために生かしておいたと?」「左様でございます、未来の王妃さま」 馬鹿丁寧に一礼してみせたギルモアは、相手に見えないよう握っていた小型拳銃の撃鉄を起こしてコック・ポジションにする。弾と火薬は既に詰めてある。残るは――!「ですが、そんな未来はありえません」 言いながら銃口をタバサに向け、引き金を引いた。さほど性能が良いとはいえぬ拳銃だが、この距離で、なおかつ思いがけぬ話を聞いて動揺した小娘を穿つ凶弾とするには充分である――はずであった。「そう、ありえない」 呟いたタバサが、ついと杖を振ると同時に風が舞い、弾丸を彼女の身体から逸らした。この場へ駆けつける間に纏っていた風を解き放ったのだ。「下衆の勘ぐり」 言い放った少女の顔は、先刻までと全く変わらぬ無表情。「ぐッ……」 フリントロック式の拳銃は、その性能上連射はできない。メイジを倒しうる自前の武器を失ったギルモアは、再び叫んだ。「トマ!」 しかし彼の忠実な部下は、苦痛に満ちた顔で上司に申し入れた。「ギルモアさま、金庫の鍵をお嬢さまへ渡してください」「貴様、何を……」「今なら、失うのはお金だけで済みます。ギルモアさまのお命や、その他のものは――手元に残るのです」「馬鹿を言うな! その小娘を殺ってしまえばいいだけだろう」「確かに、それでこの場はなんとかなるでしょう。ですが、お忘れですか? ここにはあの従者の少年がいません」 ギルモアはぐっと詰まった。すっかり存在を忘れていたが、言われてみればその通り。わざわざ従者を置いてきたということは――己の身に何かあった際に、王宮へ駆け込む手はずになっているのだろう。 そうなったが最後、自分たちの似顔絵が国中に貼り出される。元とはいえ王族を害したとなれば、たとえガリアから逃げ出せたとしても追っ手がかかる可能性が高い。ふたりのやりとりから王家の事情を垣間見ていたギルモアは、そう判断した。 気絶させて放置すればいい? 駄目だ。自分が明確な殺意を向けた以上、それを王に告げられれば身の破滅だ。 だが、ここで大人しく金庫の鍵を渡しさえすれば……別の拠点や隠し財産は守れる。トマが暗に促してきているのは、そういうことなのだろう。 ギルモアは、腹の底から絞り出すような声で確認した。「シレ銀行の鍵さえ渡せば……本当に見逃していただけるのですな?」「杖にかけて。けれど、時間がないことは理解して欲しい」「なるほど。追っ手がかからないという保証はできない、ということですか」「わたしには、そこまでの権限がない」「……承知しました」 溜め息をつくと、ギルモアはポケットから革袋を取り出し、中から1本の鍵をタバサに手渡した。シレ銀行の刻印が入れられた、金属製の鍵だ。「確かにお渡ししましたぞ」 タバサは頷くと、ふたりへこの場を早急に立ち去るよう促した。 ――深々と一礼し、ギルモアを庇いながら暗闇の中へ消えていったトーマスの背中を、タバサはただ静かに見送った――。○●○●○●○● ――いっぽうそのころ。「おほ! おほ! おほほほほほッ! シャ、シャルロットが、父上と? 笑わせてくれるじゃないのさ、あは、あは、あはははははははッ!!」 『部屋』の中から一連のやりとりを見ていたイザベラが、狂ったような笑い声を上げていた。「あ~んなちっぽけで、やせっぽちで、出るとこ引っ込んでるようなガキを妻に迎える? あの男、道化師の才能があるわぁ~。そうだ、王宮で雇ってやろうかしらッ!」 などと矢継ぎ早に嘲笑の文句を垂れるイザベラだったが、実のところ、その内心は荒れに荒れていた。 伯父と姪。非常に近しい親族ではあるが、王侯貴族の間では別に珍しいことではない。それに、従姉妹姫が父の後添えになれば「優秀なメイジの血」を王家に取り戻すことができる。さらに彼女たちの名誉が回復され、しかも王妃になるともなれば、シャルル派の動きを抑えることにも繋がる。政治的な意味を考えれば、充分ありえる話なのだ。 普通に考えれば、父を害した男と添い遂げるなんて考えられない。だが、母親が人質にとられていること、そして何よりも――。「自分の父親を殺した相手を憎んでいない、だって? はん、さすがはガーゴイル娘だ。人間らしい感情はとっくの昔に捨て去ったってわけかい。ははッ、笑えるよねえ」 従姉妹が憎んでいるのはあくまで両者を焚き付けた派閥で、伯父を恨んではいない。それどころか、恩を感じているような口ぶりだった。母親の解毒を条件にすれば、案外すんなりと受け入れる可能性がある。 そもそも、父はシャルロットを本当の娘であるわたしより可愛がっていた。あの子も、父に懐いていた。でなければ、あれだけ酷い目に遭わされておきながらもなお、あんな世迷い言を口にするはずがない。「ああ、そうだよ。こ、こんなの、ただの与太話さ」 だが、ありえないと言い切れないところが怖い。 もしも本当にシャルロットが父と結婚し、ガリア王妃になったとしたら。わたしは――わたしの立場は、一体どうなる? 引きつった笑い声を上げながらも、イザベラの脳内はフル回転を続ける。 結婚するということは、当然子を成す。その子が女ならまだいい。先に生まれたイザベラに継承権が残る。しかしそれが男児であったなら。いや、それ以前に王妃として権勢を振るえるようになったあの子が、自分をいじめにいじめ抜いたわたしをどうする? 王室から追放して修道院にでもぶち込むか? それとも、今のあの子のような任務に就かせて暗殺――。「ああ、おかしいッ。傑作だよ、笑い過ぎて、は、ははッ、い、息が苦しいよ……」 早急に追っ手を手配し、あのふたりを捕らえる。その上で、シャルロットの前に引き出せば……面白い見せ物になる。普段のイザベラならばそう考えた上で、すぐさま実行に移していたことだろう。 だが。今まで想像すらしていなかった畏るべき可能性が、謀略王女の足を竦ませ、その視野を狭めていた。 ――王天君はそんな『パートナー』の様子を、深々と椅子に腰掛けたまま、静かに観察し続けていた。その青白い顔に、不吉な笑みを浮かべながら――。