――時は、新生トリステイン王国が劇的な勝利を収める数日前まで遡る。 イザベラの命を受け、彼女の影武者としてゲルマニアへと向かったタバサは現在、王家の馬車に揺られながらガリア南西部にある港湾都市サン・マロンに到着したところであった。鼻腔をくすぐる潮の香りが、彼女が海の近くにいることを明確に示している。 豪奢な馬車の窓からタバサがそっと外を伺うと、石造りの巨大な建物がずらりと並んでいるのが見えた。入口付近に下げられている大きな錨が描かれた看板から察するに、あれらは全て船渠(ドック)――船の建造や整備をするための施設に違いない。 そんな彼女の推測を裏付けるかのように、海辺には所狭しと船が浮かべられている。さらに港の奥を見遣ると、天へ届くかとも思わせるような長大な鉄塔がそびえ立っていた。四角錐の形状に組まれたそれの頂上付近からは幾本もの鉄柱が枝のように伸び、その先端にはロープによって吊り下げられたフネらしきものの姿が多数見受けられた。 あれは、かつて訪れたラ・ロシェールの世界樹のようなものだろう。けれど、停泊しているフネの形状は、見知ったものとはだいぶ違っているようだ。どちらかというと沿岸に並べられている航海用の船に近い。「あのフネは……?」 思わず出た呟きに、タバサのすぐ隣に座っていたイザベラが反応した。本物の王女は、以前地方都市へ訪問したときと同様に侍女の服を身に纏い、自慢の蒼髪を栗色に染めている。「ガリア王国王立空海軍が誇る、水陸両用艦(パイラテラル・フロッテ)よ。海だけじゃなくて、空にも浮かべられる特別なフネでね。平民の造船技術者と、アカデミーの魔法具開発者が協力することで生み出された新時代の乗り物なのさ」 その声に喜びの音が含まれていることを察したタバサは訊ねた。「あれは、姫殿下が?」 イザベラは一瞬目を丸くした後、ニッと口端を歪めた。それからタバサの頬をぺしぺしと軽く叩く。「ふうん、お前がわたしを『姫殿下』なんて呼び方するとは驚きだねえ。ようやく誰がガリアの王女なのか、認める気になったってことかい」 口を開こうとしたタバサを制し、イザベラは笑った。本人は微笑しているつもりなのだろうが、まるで凄みを効かせているようにしか見えない。「わたしの仕事じゃないわ、父上の計画よ。どう、すごい発想でしょう? ひとつの船を、海と空の両方に浮かべられるようにしたらいいんじゃないか…… だ、なんて! 『始祖』がハルケギニアに降臨してから今まで6000年もの間、誰も考えつかなかったのに!」 確かにこれは画期的だとタバサは思った。空を遊弋しているアルビオンはともかく、その他の国はみな海と隣接しているのだから、始祖降臨歴6000年の間に臣下の誰かが発案した上で王に進言するか、あるいは王自身が気付き実行していてもおかしくなかったはず。 海を征く『船』と、空に浮かぶ『フネ』。タバサ自身を含むほぼ全ての人間たちが、このふたつを完全に別物だと考え、そこから一歩も外へ出ようとしなかった。 かつて本から得た知識だが、隣国ロマリアにはトリステインやガリアのようにフネを空中に係留しておくための施設がなく、普段は海に浮かべて保管いるらしい。にも拘わらず、どうして誰も改良を思いつかなかったのだろうか。 思いにふけるタバサの視線の先に、荷を運ぶ水夫の姿があった。よくよく見ると、彼らの瞳には特徴的な玉石が填め込まれている。<土石>と呼ばれるそれは、ガーゴイルの核として用いられることが多い。つまり彼らは人間ではなく、魔法で動く人形なのだ。「あれも、父上の命令で進められた研究の成果よ。最近じゃ、他国の商人が大勢買い付けに来ていてね。これがまた結構な値段で取引されているのさ」 語り続けるイザベラが妙に得意げなのは気のせいではない。彼女は心から父親の業績を誇っているのだろう。ガリアが『魔法大国』と呼ばれ出したのは、ここ数年のことだ。そう、ジョゼフが王位に就いてからというもの、この国は壊れて止まっていた時計の針が動き出したかのように着々と進歩を遂げている。 タバサはふと尊敬していた父のことを思い出した。誰よりも魔法に秀で『始祖』の再来とまで呼ばれた父。心優しく聡明で、使用人たちや周りの貴族たちは言うに及ばず、祖母である先代王妃にすら「次代のガリア王に相応しい」と太鼓判を押されていた――。 しかし。実際に先代国王である祖父が後継者に選んだのは、父シャルルではなく――魔法が一切使えない上に変わり者として有名だった、伯父のジョゼフだった。 ジョゼフが変人呼ばわりされるのは、本人の行動以上に、魔法やそれに準ずるものに対するこだわりのなさが所以だ。 彼の奇行は、タバサが覚えているだけでも両手の指では足りない。たとえば、あるとき屋敷へ遊びに来たジョゼフは、なんと腰に細剣をぶら下げていた。杖以外の武器を持つことを恥と考える貴族、ましてや王族としてありえない行動だ。 当然、その姿を見た父シャルルは戸惑った。「兄さん、なぜそんな下賤なものを……」 するとジョゼフは、それがさも当たり前であるかのように言ってのけた。「おれは、おまえと違って魔法ができんからな。この身に危険が迫ったとき、手元に武器のひとつもなければ心許ないだろう」「なら、護衛をつければいいじゃないか」「そんなことをしたら、城を抜け出してきたことが父上にバレてしまうだろうが!」 からからと豪快に笑うジョゼフに、シャルルは呆れ顔で言った。「また許可を得ずに来たんだね。そのうち、本当に幽閉されてしまうよ」「なあに、そのときはおまえが口添えしてくれるだろう?」「……まったく。兄さんは本当に困ったひとだなあ」 このやりとり以降、ジョゼフが表立って帯刀することはなくなった。しかし、その代わりにマントの内側へ何本ものナイフを仕込んでいるのを発見したシャルルが盛大に溜め息をついていたのを、タバサはよく覚えている。 ――お祖父さまが父さまではなく、あえてジョゼフ伯父上を後継者として指名したのは……こうした常識に囚われない発想が、ガリアを繁栄させると考えたからなのだろうか。 と、タバサの思考に再びイザベラの声が割り込んできた。「そういえば、あのガーゴイルはトリステインにも輸出されているようだけど。あんた、見たことある?」 タバサは小さく頷いた。ヴァリエール家に招かれた際に、敷地内を馬車で移動する機会があった。そのときに御者を務めていたのが件のガーゴイルだったのを思い出したからだ。「どうだい? ただの人形も、上手く使えば役に立つってことさ。ねえ、シャルロット。あんたもあいつらの一員なんだから、せめて負けない程度には王家のために働くんだよ」 愉悦に顔を歪めながら言い放ったイザベラだったが、その気分に水を差した人物がいた。護衛役として馬車に乗り合わせていた東薔薇花壇騎士の団長バッソ・カステルモールだ。「畏れながら申し上げます。姫殿下におかれましては、陛下の発明品が『異端』なのではないかと、ブリミル教の神官や一部の貴族たちが噂しているのをご存じでしょうか?」「ああ、聞いているよ。あの連中、新教徒どもが暴れ回っている原因は父上の異端的な活動に不満を持っているからなのでは、なんて嘯いているそうだね」 カステルモールは形の良い眉根を寄せ、さも心配げな声で姫に進言した。「さすがは姫殿下、わたしなどが申し上げるまでもなく、既にご存じでしたか。それならば話は早い。陛下の御代と国の安寧を願う花壇騎士団の団長と致しましては、現状のままで放置しておくのは大変危険だと考えております」 騎士団長の目はイザベラのそれを見ている。だが、その声と意志が向けられている先は、このわたしだ。カステルモールは、わたしが旗頭となってガリアを昔の状態に戻して欲しいと願っている。つまり――ジョゼフ叔父上を王座から引きずり下ろして、それから……。 タバサは、頭に載せられている王女の冠が急に重くなったような気がした。そうだ、もしわたしが昔のまま父上の仇討ちをしたとして。ガリアの王冠はどこへゆくのだろう? イザベラが戴冠し、女王になる? ありえない。もしも叔父上がシャルル派との戦に敗れたら、その娘である彼女も当然『処分』される。 王族の地位を剥奪されて何処かに幽閉、あるいは修道院に預けられて尼にでもなれればまだ運が良い。常識的に考えれば、後の禍根を断つために命を奪われることになるだろう。そうしなければ『ジョゼフ派』と『シャルル派』の間にある憎しみの連鎖が果てしなく続く。タバサたち母娘が生かされていたこと自体、本来であれば考えられないことなのだから。 イザベラは一人娘だ。つまり、叔父の家系で王位継承権を持つ彼女がいなくなれば、自動的に次の継承者が王冠を戴くこととなる。『次の王となるべき人物だったシャルル王子を殺害し、王位を簒奪した狂王を倒す』 ……と、いう建前でもって動いているシャルル派が、いったい誰を王座に据えるのか。その程度のことは馬鹿でもわかる。 ――わたしは、王冠なんて欲しくない―― そんなタバサの想いなど知る由もなく、イザベラは騎士団長に向かって笑っていた。「過去の遺産にしがみついて、時代の流れについてくる努力をしない馬鹿共の戯言なんか、気にする必要はないさ。ガリアは父上の手腕によって順調に発展し続けているし、そもそも『始祖』ブリミルが海と空の両方で使えるフネを作っちゃいけないだとか、ガーゴイルを人夫代わりにしちゃダメだなんて言ったわけじゃないだろう?」「た、確かにそうかもしれませんが、神官たちは……」 それを聞いたイザベラは、フンと鼻を鳴らした。「まったく……お前の忠誠心にはほとほと感心するよ。大丈夫、連中を敵に回したら厄介だってことは、わたしだってよ~く理解しているさ」 初心な男性客をからかう酒場女ような口調で、王女は続ける。「暇なときに、王立図書館から結構な数のブリミル教の教典や祈祷書を取り寄せて、目を通したんだけどさぁ。発明を禁ずるなんて文言はどこにもなかったよ? つい最近、新しく追加されたのかしら。だとしても、それって本当に『始祖』の御言葉なのかねぇ?」 しかし王女の意見に動じることなく、騎士団長は即座に切り返す。「姫殿下の仰る通りです。しかしあの者どもは『ガリアの王は魔法が使えないから、あんな異端じみたことを平然と実行するのだ』などと、陛下に対して不敬極まりないことを言いふらしておるのですぞ!」 イザベラはふっと息を吐くと、聞き分けのない子をあやすような口調で言った。「確かに、父上は魔法ができないかもしれない。だけど、それがどうしたっていうのさ」 この言葉には、さすがのカステルモールも目を剥いた。「な、何を!?」「王が魔法を必要とする場面なんて、戦争くらいだろ? 普段のこまごまとしたことは、全部召使いや部下たちがやるんだから。朝、目覚めたばかりの王が魔法で寝室のカーテンを開けたりするかい? 戦場で自ら空を飛んで、敵陣を偵察したりするのかねぇ?」「いや、その……」「そもそもだ。国王が前線に立って、しかも自ら魔法を使わなきゃいけない状況に置かれてるってことはさぁ、国自体が相当追い詰められてるって意味だよね? その時点で、政治的にも戦でも負けてんだよ。それって、国を治める王としてどうなんだい?」 確かに……と、側で聞いていたタバサは思った。しかし、どちらかというと傍若無人で気ままな従姉妹姫がこんな考えを持っていたという事実に驚いていた。これは負け惜しみなどではなく、彼女の本心だろう。いったい何が、ここまで従姉妹を変えたのか――。 そんなタバサの思いなどつゆ知らず、イザベラは続ける。「アルビオンのテューダー家は、貴族派の反乱を止められずに滅亡した。トリステインに至っては、国を守るためにたったひとりの王女をゲルマニアへ差し出す羽目になった。ウェールズもアンリエッタも『トライアングル』だって聞いてるよ。わたしなんかと違って優秀だねえ。もっとも、お得意の魔法の出番なんて、全然無かったみたいだけどさ!」 げらげらと笑うイザベラをよそに、カステルモールは完全に黙り込んでしまった。困惑したような表情を顔全面に貼り付けてはいるが、しかしその瞳に油断の色はない。大した役者ぶりだ……と、タバサは密かに感心してしまった。「かたや魔法ができない王を戴いている我がガリアは、滅亡なんかとは無縁に栄え続けているわ。これらの事実は、魔法の出来不出来が王の資質に関係ないってことの証明になるんじゃないのかい?」 笑い続けていたイザベラは外を見て皮肉げに顔を歪めると、タバサに声を投げかけた。「さあ、シャルロット。『始祖の再来』とまで言われた魔法の天才――お前の父親との、感動の再会だよ。せいぜいわたしたち王家の慈悲に感謝しな」 ――彼女たちの視線の先に、ガリア王国空海軍旗艦『シャルル・オルレアン』号の偉容が浮かび上がった。全長約150メイルにも及ぶこの巨大戦艦は、ジョゼフ王の即位を記念して建造されたお召し艦でもあり、王権の象徴とも呼ぶべき存在だ。○●○●○●○● ――空海軍による盛大な歓迎式典の後。タバサは艦隊総司令クラヴィル卿の案内で、王家専用の船室へと向かった。黒く日焼けした肌に立派な体躯、見事な顎髭をたくわえたこの人物は、イザベラ曰く「父上の命令に忠実に従うことでここまで上り詰めた男」だそうだ。 自国の王女からそんな評価を受けているとは露知らぬ提督は、船室へ続く道すがら<フェイス・チェンジ>でイザベラになりきっているタバサへにこやかに語りかけてきた。「いやはや、イザベラさま。ますます美しさに磨きがかかったようで。眩しい限りです」「ありがとう」 素っ気なく礼を告げられたクラヴィル卿はごくごく僅かに眉を動かしたが、すぐさま大きな笑顔を浮かべた。「ふむふむ、なるほど。アルトーワ伯の不安は杞憂のようで、何よりでした」 アルトーワ伯。以前、任務で訪れた地方都市グルノープルを治める老貴族だ。はて、彼が何を心配しているのだろうか。タバサはつい、普段のクセで小さく首をかしげた。それを「話を聞く」という意思表示だと受け止めた提督は、切々と訴えた。「つい先日、グルノープルへ寄港した際にアルトーワ伯と談話する機会がございましてな。その折に、いたく姫殿下のことをお気にかけてらしたのですよ」「わたしのことを……なぜ?」「何でも伯爵が開いた園遊会の間、ずっと物憂げにしていらしたそうですな。もしやお身体の具合がよろしくないのではないか、久しく宮廷へ足を運んでいなかったために、時節に疎い自分が姫殿下に対して何か大変な無礼を働いてしまったのではないかと、それはそれは心配なさっておいででした」 例の暗殺騒ぎがあった翌日以降、タバサは塞ぎ込んだままであった。ふと、グルノープルへ到着したときのことを思い出す。出迎えのために現れた伯爵はかなりの老齢で、その身体は細く痩せ衰えていた。心労という名の嵐に遭えば、枯れて苔生した木の如くぱたりと倒れてしまう程度には。 少し考えた後、タバサはこう切り返した。この間、僅か一秒にも満たない。「さすがは名伯楽と謳われたアルトーワ伯爵ね。隠していたつもりだったのに、このわたしの不調を見抜くだなんて」 それから無理矢理笑みを浮かべてみたものの、顔が少し引きつっている。しかしイザベラに化けていたことが幸いし、それが普段の王女そのものであるかのように写った。クラヴィル提督は心底驚いたような声を上げた。「なんと! やはりお身体の具合が……」「違う」「と、申しますと?」「あの頃、公務が立て込んでいてね。かなり疲れが溜まっていたのよ。その件は、腹の立つことに今もまだ解決していないけど。あなたなら事情を知っているんじゃないかしら?」 途端にクラヴィルの顔が苦々しげに歪んだ。「例の新教徒どもですか。我が空海軍の施設もやられましたよ……まったく、勘違いも甚だしい! 何が新教徒こそが『始祖』の真の御心を知る者たち、だ! いつ『始祖』が陛下の御代を乱せと仰ったのだ。子孫に害なす姿を見て『始祖』がお喜びになるはずもないと、きゃつらは何故わからぬのだ!」 だからこそ、新教は我が国の法で信仰を禁じられたのだ――と続けた提督に向け、タバサは小さく頷いて見せた。「そうね。わたしにも彼らの考えが理解できないし、したいとも思わない。けれど、このまま放置していてはガリア王家の威信に関わるから」 クラヴィル提督はようやく思い出した。そういえば、この姫君は王政府の汚れ仕事全般を請け負う『北花壇騎士団』の団長を務めているのだった。 北花壇騎士団は、自分たち王軍の行動を逐一上層部に報告する監視者だ。おまけに、上がってきた情報を元に政府が謀反の気配ありとの判断を下せば、即座に凄腕の暗殺者へと変貌する――忌むべき存在。 ありていに言うと王軍に所属する者たちは皆、北花壇騎士を蛇蝎の如く嫌っている。 イザベラがこの闇の騎士団の団長に就任することが決定した際、それはもう荒れに荒れていたという話は、宮廷貴族だけでなく王軍士官の間でも有名だ。一国の王女たる者が汚れ仕事に手を染めるなど、彼女でなくとも不快だろう。普段は粗野で我が儘だと悪名高い姫君ではあるが、このときばかりは彼女に同情する者が多かった。クラヴィルもそのうちのひとりだ。 与えられた仕事への不満を隠そうともしていないが、少なくとも無責任に放り出したりせず真面目にこなしてはいるのだな……などという不敬な感想はおくびにも出さず、社交界においても歴戦の提督は沈痛な面持ちで言った。「姫殿下の仰る通りかと。ご心痛、お察し申し上げます」「ありがとう。そういうわけでね、アルトーワ伯に何か落ち度があったわけではないのよ。ところで、卿は次にグルノープルへ立ち寄る予定はあって?」「来年の春に新兵の航海練習を兼ねた遠征がありますので、その折に」「そう。なら、伯爵に伝えてもらえるかしら? またのお招きを心待ちにしている、と」 提督は帽子を取ると、恭しく礼をした。 船室に到着し、クラヴィル提督が立ち去るのを見届けたタバサは、周囲に誰もいないことを確かめた後、近くにあったソファーにぐったりと背を預けた。慣れないやりとりの応酬で、さすがに疲れてしまったのだった。「妖魔退治のほうが、ずっと楽」 溜め息と共にそう漏らした後で、サイドテーブルの上にティーセットが用意されていることに気付く。喉の渇きを覚えていたタバサはカップに琥珀色の液体を注ぎ、口をつけようとしたが――ふと思い立ち、さっと杖を振るう。<探知>の魔法には、何の反応もなかった。 それから素早く部屋の各所を確認して回った。王室専用の部屋というだけあって、小道具ひとつとってみても豪奢でかつ品のよいもので固められている。以前、グルノープルへの行幸の最中に立ち寄った宿など、ここと比べたら鶏小屋も同然だ。 幸いなことに、どこにも己の身に害をなすようなものはなかった。ほっと息を吐き、再びソファーに身体を埋めた。開け放たれた窓から入ってくる潮風だけが、荒みかけた心を癒してくれる。と、ふいに側の壁にかけられていたものと目が合い、タバサははっとした。 それは、一枚の肖像画だった。タバサと同じ色の髪を持つ、若く魅力的な男性の姿絵。「この絵……わたしの中にある記憶よりも、ずっと凛々しい感じがする」 額縁の中の人物は、タバサに柔らかな笑顔を向けていた。肖像画の下に打ち付けられた金属製のプレートには、こう刻まれている。『シャルル・オルレアン公』 その文字を指でなぞりながら、タバサは呟いた。「伯父上は、いったいどういうつもりなの」 薬で弟の妻の心を奪い、姪から王族の地位を取り上げただけでは飽きたらず、過酷な任務に就かせたというのに――自らが座す艦にその原因となった男の名を冠したり、わざわざ肖像画を飾らせるとは。「わたしには理解できない」 と、ふいに強い潮風がタバサの髪を嬲った。思わず窓を振り返った少女は、とあることに気がついた。この絵は窓の外に視線を向けている。そして、すぐ側にある椅子に腰掛けると――まるで置かれたテーブルを挟み、共に船旅を楽しんでいるような構図になるのだ。 そう、かつてオルレアン公邸の中庭で、父と伯父が仲良く将棋(チェス)を打っていたときのように……。 それに気付いたタバサの身体が、かたかたと震え始めた。「どうして、こんな……」 愛する父を殺した憎い仇。タバサはずっとジョゼフのことをそう見ていたし、自分たち母娘も伯父から疎まれているとばかり考えていた。 ――だが、その前提からして間違っていたのだとしたら……?「伯父上は、本当は父さまを殺したくなんてなかった……?」 あの日。ジョゼフが主催する狩猟の会に出かけた父は、魔法ではなく平民の武器である毒矢で射殺されるという、貴族として屈辱的かつ不名誉な死を遂げた。 後に「内々に相談事があるから」という理由で父が呼び出されたと聞いたタバサは当時、それこそが罠だったのだと考えたのだが……実は本当に、伯父は父と話し合いがしたかっただけなのではないだろうか。国を二分する戦いを避け、和解の『道』を探るために――。 この絵と部屋を見ていると、そんな考えが頭をよぎる。「もしも……もしも父さまの死が、伯父上の命令によるものではなかったのだとしたら」 タバサの顔が歪んだ。<フェイス・チェンジ>でイザベラのものに変化しているそれは、皮肉なことにモデル本人そのものに見える。「派閥争い。まさか、ジョゼフ派貴族の中の誰かが暴走した結果だというの?」 そういうことなら色々と腑に落ちることがあるのだ。伯父が将来政敵となる可能性の高い姪のタバサに『心を壊す』などという回りくどい毒薬を飲ませようとしたことも、自分たち母娘を生かしておいたことも。 弟は死なせてしまったが、せめて家族の命だけは守ってやりたい――伯父は、そんな思いを抱いていたのかもしれない。殺してしまっては取り返しがつかないが、薬なら解除薬さえあればすぐ元に戻せる。狂人を御輿になどできぬと、派閥を納得させることも可能だ。 タバサが凶悪なキメラの巣に放り込まれたのも、事実上の処刑宣告などではなく……本来はもっと別の任務に就かせるはずが、派閥による横槍が入っただけなのかもしれない。あるいは『天才』シャルルの娘ならば必ず乗り越えられると確信した上で、現在の状況を生み出す――役に立つ『駒』として利用するからと、派閥に働きかけていたのかもしれない。 あくまで仮説だが、もし本当に伯父がそんな風に配慮してくれていたのだとしたら――。 大きな震えが、再度タバサの全身を襲う。「……わたしは、大変な過ちを犯すところだった」 タバサが物言わぬ人形になったのは、感情を押し殺し、ひたすらに己の<力>を磨き――父の仇をとるためだった。憎きジョゼフの首を取り、父の墓前に供える。それだけが、彼女が生きる意味だった。北花壇騎士団の一員として黙々と任務をこなし、実績を上げる。そうして王家の信頼を得ることだけが『狂王』に近付く唯一の手段だったから……。 額縁の中で微笑む父の目を見つめながら、タバサは思った。かつての私なら、こんなふうに伯父の心中を想像したとしても……何もわからないし、わかろうともしなかっただろう。しかし今なら理解できる。少なくとも伯父にとって父は――本当に大切な存在だったのだ。 少女の瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。「それなのに、なぜ? どうして、こんなことになってしまったの?」 父がメイジとして優秀過ぎたから? いや、その程度で国法は覆らない。そもそもガリアは過去の悲劇――双子の兄弟が、王冠を巡って血で血を争う闘争を繰り返した歴史を繰り返さぬために、他国よりも王位継承に関する『縛り』が厳しいのだ。先代国王が早々にジョゼフを廃さず、今際の際まで次王の選定に悩んでいたのも、そのあたりの事情があるからだろう。 それでも尚、今回のような醜い争いが起きた理由はただひとつ。「伯父上が、魔法を使うことができなかったから……」 『始祖』直系の子孫でありながら、魔法が使えない。国の威信や宗教的な意味合いを考えれば、ジョゼフはいつ廃嫡されてもおかしくなかった。実際、祖母である先代王妃は実の息子であるにも拘わらず、ジョゼフを「不具の子」だと忌み嫌い、事あるごとに彼を廃し、次男シャルルを皇太子として定めるよう、夫に働きかけていたと聞いている。 イザベラは「王たるべき者の資質に、魔法の腕は関係ない」と言っていたが……残念ながらそれを許さないのがこのハルケギニアだ。 そもそも、何故伯父は魔法が使えないのだろうか? 父だけではない。祖父や祖母も、平均以上の使い手だったと聞いている。 ……と、ここまで考えるに至り、タバサの脳裏にとある人物の姿が浮かび上がった。「ルイズ。あの子も、魔法ができなかった」 トリステイン王家の血を引く、由緒正しき公爵家の三女。おまけに彼女の母親は『烈風』カリン。血筋的に、魔法が使えないなどということは考えられない。事実、タバサのパートナーによる『分析』の結果、ルイズは才能がありすぎたがゆえに<力>を制御することができず、爆発させてしまっていただけだった。「どうして今まで気付かなかったの」 ひょっとしたら、伯父上もルイズと同じなのかもしれない。だとしたら、ガリア王家とふたつの派閥は、なんて馬鹿げた争いをしていたんだろう。 とはいえ、ジョゼフがどのように『失敗』するのかタバサは知らない。幼い頃、興味本位で父に尋ねたときには、『ジョゼフ兄さんはね、今はまだ目覚めていないだけなんだ。他のひとよりも、ほんの少し遅いだけなんだよ。だからね、いいかい? シャルロット。間違っても兄さんに、そんなことを聞いてはいけないよ』 そう諭されてしまった。今思えば、あれは幼子の好奇心で兄を傷つけないための言葉だったのだろう。子供の無邪気さは、ときに残酷なものになるから。「確かめよう」 イザベラなら、父親の魔法がどんなふうに失敗するのかわかるはず。それが自分の推測通りだったとしたら、伯父は――本人がどう考えているのかはさておき――『無能』という不名誉な冠を外すことができる。 そうなれば、シャルル派はもう妙な建前を掲げて反乱を起こしたりはできない。それに、父親を心から尊敬しているらしきイザベラとの関係も、多少なりとも改善できるはずだ。彼女と仲良くなれれば、その伝手を辿って妹の行方を捜すことも――。 ……と、珍しく極端な前向き思考に陥っていたタバサは、はっとした。「焦っちゃだめ。あくまでこれは仮定」 ジョゼフが魔法を使えない理由が、ルイズと同じだとは限らないのだ。もしも伯父が、正真正銘魔法的に『無能』だったなら――彼ら親子を侮辱したと見なされるだろう。 そうなったが最後、自分たちがどうなるかは火を見るよりも明らかだ。事はくれぐれも慎重に運ばねばならない。「これは、父さまが見せてくれた僅かな光明。逃すわけにはいかない」 ぽつりと呟いた後、顔を上げた。そして額縁の向こう側から微笑みかけてくる父と目を合わせると、タバサは小さく頷いた。「……そうね、父さま。今のわたしは、ひとりじゃない」 こうした『知略』に長けたパートナーが、すぐ側にいる。ふたりで知恵を出し合えば、きっと良い案が浮かぶだろう。「大丈夫。彼は、既に気付いていたから」 以前、彼は自分の兄がジョゼフ王またはイザベラによって召喚された可能性がある、と言っていた。同じ三王家の血を引いており、なおかつ魔法が使えないとされていたルイズが<サモン・サーヴァント>だけは成功させている。その事実を鑑みれば、自然と出てくる仮説だ。 あの時点で彼がそれを教えてくれなかった理由も、今ならわかる気がする。「もし、そんなことを言われたら。復讐に燃えていたわたしは、ろくに考えもせず――それを元手に無謀な賭けに出ていたかもしれない」 けれど、今ならそんなことにはならないし、する必要もない。既に母や忠実な執事は救い出している。妹のことは気になるが、こればかりは焦っても仕方がない。むしろ、重要な情報を得るための手がかりに一歩近付いたと喜ぶ余裕ができた程だ。 『雪風』の胸に希望の火が灯った、そのとき。こちらへ向かって駆けてくる足音が聞こえてきた。タバサは急いで椅子に立てかけていた杖を手に取ると、両の耳に神全経を集中させる。風のメイジは人一倍『音』に敏感だ。特にランクの高い者ならば、足音を聞くだけで敵の人数や身につけているものさえ判断できる。「イザベラや召使いじゃない。これは軍靴の音。それに拍車の音がしない……つまり、花壇騎士たちではない。けれど、クラヴィル提督のものとも違っている。一体何者?」 それからすぐに、丁寧なノックの後に若い男の声が響いた。「お休みのところ、失礼致します。ガリア王国空海軍所属、ヴィレール少尉であります」「用件を」 簡潔極まりないタバサの問いに、扉の向こうにいる少尉は思わず怯んだようだ。が、彼はすぐに己を取り戻すと、改めて声を張り上げた。「クラヴィル提督より言伝です。王宮から、火急の報せが届いたとのこと。長旅でお疲れのところ誠に恐縮ですが、艦橋までお越しください。我らが護衛仕ります」 タバサがそっと扉を開けると、ヴィレールと名乗った士官とおぼしき青年と、水兵服に身を包んだ男たちが10名ほど控えていた。 本来であれば、花壇騎士団が護衛につくはずだが――と、考えたタバサであったが、以前本で読んだ知識が脳裏を掠めた。理由はよくわからないが、どこの国でも陸軍と海軍というものは仲が悪いらしい。また、船乗りはその性質上長い間フネと共に生活を送ることから、フネを家や恋人のように思う者も多いのだそうだ。 おそらくクラヴィル提督をはじめとした空海兵たちは、王都の守護を主な役目とする騎士たちを『陸軍』『大切な家を荒らす余所者』だと認識しているのだろう。 ……人間というものは、どうしてこうもくだらないことでいちいち争うのだろう。我知らず肩を落としたタバサは、大人しく彼らの後に続いた。 ――そして艦橋を訪れたタバサが耳にしたのは、神聖アルビオン共和国がトリステインに対し宣戦布告したという、ガリア王国トリスタニア駐在大使からの報せであった――。○●○●○●○●「はい! それじゃ、次はこの毛皮の上着ですよ~」「ほらほら、大人しく手を挙げて!」「いや、だから。これくらいひとりで着られると言っておろうが!」「なぁに? あなた、あたしたちから仕事を取り上げる気!?」「私が王宮勤めをやめさせられたら、我が家の家計が……」「うちも、病気の父さんが……」「あたしの家だって……」「ええい、メソメソするなッ! わかった! わかったから早くそれを着せるのだ!」「うふふ、そうそう。最初から大人しく言うこと聞いてればいいのよ」「うぬ~ッ……」 ――衝撃的な報せから、数日後。プチ・トロワ宮殿の一画にある衣装室で、太公望は王宮付き衣装係の着せ替え人形と化していた。 トリステインとアルビオンが開戦したため、イザベラが出席するはずだったゲルマニア皇帝の結婚式は無期限延期となり……その結果。護衛の騎士団を含む王女さまのご一行は、フネで異国へ飛び立つことなく早々に王都へ帰還する羽目になったのである。 ところが、そこで任務終了――というわけにはいかなかった。リュティスへ戻った早々、太公望とタバサは再び衣装部屋へと放り込まれてしまった。 彼が着せられているのは、主に貴族や裕福な商人の付き人に支給される厚手のスラックスと麻のシャツにの冬用の上着という平服――所謂『お仕着せ』だった。 こうして衣装係の女たちによって着替えさせられるのは、なにも今回が初めての経験ではない。以前の任務でも行われたことだ。そのときも同じように抵抗したのだが、「貴族さま方のお召し替えが、わたしたちに与えられた仕事なの。それを奪われたら、家族を養えなくなるのよ。あなた、うちの一家を路頭に迷わせるつもり?」 ……と、問答無用で黙らされてしまった。にも拘わらず、あえてこんなやりとりをしているのは、王宮内での情報を集めるために、彼女たちとの会話の糸口を掴みたかったからだ。「それにしても、あなた本当に大変よねえ。姫殿下の護衛でゲルマニアへ向かったと思ったら、すぐに戻ってきてまた新しいお仕事だなんて」 言われた太公望は、疲れた顔をして頷いた。もちろん「うまくいった」などという内心はおくびにも出さない。「まったくだ。それに、どうせなら皇帝とお姫さまの結婚式を見てみたかったのう」 うんうんと、側にいた別の娘が頷く。「そうよねえ。ものすごくお金をかけた、それはそれは豪華なお式になるはずだったのに、本当に残念だったわね」「ほほう、よくそんなことを知っておるな」 意外そうな顔をした太公望に、衣装係のひとりが得意げに言った。「そりゃあ王宮に勤めてるんですもの、噂話には嫌でも敏感になるわ。それに……」 そこで言葉を切り、すぐ隣に立っていた若い娘の肩をぽんと叩く。「この子の実家が、ベルクート街にあるリストランテなのよ」「ベルクート街?」「ああ、そっか。あなたは外国人だったわね。ベルクート街っていうのは、リュティスの北東にある繁華街のことよ。ただし! 貴族さまの中でも高位の方々や、お金持ちの商人しか入れないようなお店ばかり並んでるの」「だから、そういう話はいくらでも入ってくるってわけ。そうね、たとえば……ゲルマニアの皇帝が、結婚式で使う品々を世界中で買いあさらせていた、とか」「なるほどのう。わしには縁遠い場所のようだ」 太公望が感心したように言うと、女たちからくすくすという笑い声が漏れた。「そうね~。さすがに騎士(シュヴァリエ)の俸給だけで通うには無理があるわ。頑張って出世しなきゃ!」 自分の発言にうんうんと頷く女と、同意する彼女の同僚たち。「だけど、いくらメイジだからってあなたみたいな子供……それも外国人が花壇騎士になれるなんて、ありえないことなのよ」「そうそう! いくらそれが、姫殿下の気まぐれがきっかけだったとしてもね!」「おまえら、言いたい放題言ってくれるのう」 むくれ顔でぼやく太公望の様子が余程おかしかったのか、再びころころと笑い声が上がる。と、女たちのひとりが急に真顔になった。それから、ふっと小さく息を吐く。「あーあ、戦争なんて起きなければよかったのに」 その一言で彼女たちは互いに顔を見合わせると、深い深い溜め息をついた。「まったくだわ」「しばらくの間、平和を満喫できると思ってたのに」「ね~」 これは、トリステインが戦禍に見舞われることを憂いているわけではない。もっと身近なことだろう。その件について、心当たりがありすぎるほどにあった太公望は、確認のために口を開いた。「よいのか? わしの前でそんな話をしても」「だって、わざわざ告げ口したりしないでしょ? こんなこと。そんな真似したら……」「まあのう。巻き添え食らって、雷を落とされたくはないからな」「うふふ、わかってるじゃない」「ま、そうでもなきゃあの姫殿下に気に入られたりはしないわよね~」「そうそう。たとえまぐれでも、騎士になれたりするもんですか」「おのれ、まだ言うか!」「だってぇ~」 再びくすくすと忍び笑いが漏れる。やはり、彼女たちはイザベラの不在期間を心待ちにしていたようだ。 心底がっかりしたといった表情で、侍女たちは愚痴り続ける。「最低でも半月はのんびりできるはずだったのに」「姫殿下、ここ最近やたら機嫌が良かったのに……これでまたイライラし始めるわよ。何とかうまい手を考えないと……」「ああ、それもう手遅れみたい」「え、ウソ!?」「ホントよ。姫殿下が壁に枕を投げつけてるところ、配膳係の子が見たらしいし」「わたしたちの戦いは、これからみたいね……」 どんよりとした雰囲気が衣装室の中を覆い始めた、そのとき。パンパンという手を叩く音と共に年配の侍従長が顔を出した。「お前たち、いつまでじゃれ合っとるんだ! これ以上姫殿下の機嫌を損ねたくないなら、口ではなく手を動かすんだな」 それを聞いた衣装係の女たちは、慌てて残る仕事に取りかかった。○●○●○●○● ――いっぽうそのころ。「まったく! 『レコン・キスタ』の連中も、面倒な真似してくれるわぁ~。どうせ仕掛けるなら、わたしたちが出発する前にやれってんだよ。お前たちだってそう思うだろ?」 衣装係たちの予測通り、王女の寝室に毎度お馴染みの金切り声が響き渡っていた。 侍女たちの顔に戸惑いの色が浮かび上がる。ところがイザベラに睨めつけられた途端、彼女たちは精霊飛蝗のようにコクコクと首を上下に振った。そんな部下たちの様子を見て多少溜飲が下がったのであろう姫君は、満足げに口端を上げた後、ベッドの脇に置かせていた果物籠に手を伸ばし、中からブドウを一粒つまんで口の中に放り込んだ。 ネグリジェ一枚でベッドに寝そべり、食器を使わず手で果物を食す。相変わらず、一国の王女とは思えぬだらしのない振る舞いである。 イザベラは足をだらんと伸ばし、気怠げな様子で側に立つ侍女に問うた。「で、あの子たちはまだなの?」「は、はい。シャ……あ! に、人形7号と使い魔8号は、し、支度を終えて、まもなく到着するかと」 イザベラは問題の侍女の顔を、獲物を追い詰めた蛇のような目でじっと見つめた。うっかり「シャルロット」と言ってしまいそうになった侍女は震え上がった。そんな彼女の同僚たちはというと、とばっちりを畏れて一歩後ろに下がっている。「最近耳に挟んだんだけどさぁ。異国にはね、王族に無礼を働いた者に対する特別な刑罰があるらしいよ」 顔色が青を通り越して白くなった娘に、イザベラは容赦なく追い打ちをかける。「なんでも、鉄の柱を真っ赤になるまで焼いて……それに抱きつかせるんだってさ」 哀れな犠牲者が目を回して卒倒し、周囲にいた同僚たちに抱き抱えられたところで呼び出しの衛士が声を上げた。「7号さま、8号さま。お成り!」 部屋の中にいる者たちの顔に安堵の色が浮かび上がる。これで主人の矛先が、自分たちから多少なりとも逸れるからだ。 面倒そうに起き上がり、ベッドの端に腰掛けたイザベラが叫んだ。「とっとと入ってきな。時間は無限じゃないんだよ!」 その呼びかけに応え、ふたりが入ってきた。タバサと太公望である。お仕着せ姿の太公望とは異なり、彼のパートナーは白く清潔なシャツと濃紺のジャケットに乗馬ズボンという出で立ちで、頭には大きなシルクハットを被っていた。「ここ最近、貴族の娘たちの間で男装が流行ってるみたいだから、試しに着せてみたけどさあ……ぷぷっ。身体に起伏のないあんたの場合、本物の男の子にしか見えないね! あっはっは!」 手を打ち鳴らして爆笑するイザベラだったが、それからすぐに不機嫌そうに唸った。すると周囲から同調するような笑い声が巻き起こる。 ……こいつら、順調に教育されとるのう。などという感想を胸の奥に仕舞い込んだ太公望は、ベッドの上で笑い転げているイザベラに不安げな表情で問うた。「あのう、姫さま。トリステインがどうなったのか、何か聞いておられますか?」「ああ。トリスタニアの駐在大使から、高速フクロウ便がひっきりなしに飛んでくるからね。おかげで伝達係は全身羽根まみれだとさ」「魔法学院は無事なのですか?」「さあね、そこまでは知らないよ。わたしの所へ届くのは、あくまでトリスタニアとその周辺に関する情報だけだからね」「そ、そうですか……」「なんだい、もしかして心配してるのかい?」「ええ、まあ。魔法学院の皆さんは、わたくしに良くしてくださいましたので」 イザベラはわざとらしくタバサに視線を投げると、すぐに太公望へ向き直った。「ふふん。戦の報せを聞いても顔色一つ変えなかった主人と違って、お前は優しいんだねえ」 それから、にいっと口端を歪めながら問うた。「トリステインに戻りたいかい?」「ええ、本音を言わせてもらうと。でも、これから仕事があるんですよね?」「ふふん、わかってるじゃないか。そうだよ、お前はもうガリアの騎士なんだから、トリステインなんかよりもガリアを優先するのが当然なのさ」 すらりと伸びた美しい足を乱暴に組み直しながら、イザベラは続けた。「さあて、それじゃ今回の任務について簡単に説明するよ。最近、リュティス北東の街に新しい賭博場ができてね。客から相当派手に金を巻き上げているらしいんだ」 サイドテーブルに置かれていた羊皮紙を広げ、それに目を通しつつさらに続ける。「本来なら、こんなのは警邏隊の仕事なんだが――情けないことに問題が公になったら恥をかく貴族が、王宮やらそこらに大勢いるらしくてさ。王権をもって取り締まる、なんて派手な真似をするわけにはいかないってのが父上の考えでね」 そこまで告げた後、イザベラは手に持っていた羊皮紙を丸め、さらに小さな布袋をタバサの足下に投げて寄越した。カシャン! と、小さな金属がぶつかりあう音が響く。「任命書と、軍資金だよ。いいかい7号、お前はド・サリヴァン伯爵家の次女、マルグリットを名乗りな。8号は、お付きの従者という設定だ。いいね?」 タバサは羊皮紙と布袋を拾い上げると、頷いた。太公望が慌てたように追従する。「お前たちふたりで、国王のお膝元で生意気な真似をしている賭博場を叩き潰してくるんだ。連中がどういうカラクリで儲けているのか、それを調べてくるのも忘れるんじゃないよ」 と、ふいにイザベラの顔に冷酷な笑みが浮かんだ。それから毒がしたたるような口調でタバサに告げる。「例の賭博場は、中に入る前に杖を預けるのが決まりなんだそうだ。そりゃそうだ、賭けに負けたメイジが魔法で暴れたりしたら困るからね」「…………」 無言で見つめ返してきた従姉妹に、王女は愉悦を隠そうともせず説明を続けた。「つまり、今度の任務は魔法なしでどうにかしなきゃならないってわけ。少しばかり戦いが上手ければどうにかなるってもんじゃないよ。醜態を晒さないで済めばいいね! あは、あは、あはははははッ……!」 ――タバサと太公望が退室した後。疲れたから少し休むと一方的に告げて付き人全員を追い出したイザベラは、開かれた『部屋』に飛び込んだ。 ゴシック調の長椅子に腰掛けていた主――王天君が、来客を歓迎する。「うまく先延ばしできたみてぇだな」「ええ、なんとかね。あの仕事が回ってきたおかげで助かったわ」 イザベラは、王天君の向かい側に置かれたソファーにどすんと音を立てて腰掛けながら答えた。それから、テーブルの上にあったグラスに手ずからフルーツジュースを注ぐと、いっきに飲み干す。「あなたの弟は、人間同士の戦いに干渉したりしないって聞いてるけど……だいぶトリステインに入れ込んでるみたいだし、万が一のことが起きて、父上の妨げになることだけは避けたいのよ」 先程のやりとりを思い出しながら言葉を紡ぐイザベラに、王天君は同意を示した。「アイツはとんでもねぇお人好しだからなぁ。まぁ、オメーの心配もわからなくはねぇぜ」「……実際問題として、あなたの弟が『干渉』したら戦局はどう動くかしら?」 パートナーの問いに、王天君は不気味な笑みを浮かべた。そのまま無言を貫き、否定も肯定もしない。知らず知らずのうちに、イザベラの顔が引きつる。 アルビオン側の兵力は、空に展開した空中戦艦10隻と地上に2000名の兵士、うちメイジが100名程度という報告を受けている。与えられた情報を脳内で素早く精査した王天君は、即座に「太公望がトリステイン側に加勢すれば、レコン・キスタに勝ち目はない」と、結論した。 太公望の持つ『太極図』は、展開した範囲内の宝貝を完全に――相手の実力が余程高くなければ――無効化できる。既にこの世界の魔法を目の当たりにした王天君には、あっさり<風石>を封じられ、地面に激突する艦隊の姿が容易に想像できた。しかし、それを目の前にいる王女に告げたりはしない。 かたやイザベラはというと、以前ラグドリアン湖で見た巨大な竜巻が、アルビオン軍をまとめて薙ぎ払うさまを思い浮かべていた。「ね、ねえ、オーテンクン。あなたの弟は、いつまでわたしの言うことを大人しく聞いていてくれるかしら? だって、その気になれば……」「ヘタレてんじゃねぇよ。前にも言ったろ、アイツはとんでもねぇお人好しだってな。オレがオメーの下で働くように、よ~っく『お願い』してきたから心配すんな。それによぉ――」「それに?」 ふたりの間に、パッと『窓』が開いた。その中に映ったものを見て、イザベラは目を輝かせる。「いつもの妖魔退治なんぞと違って、今回みてぇな仕事はアイツの好みだ。怒るどころか大喜びするだろうよ。つーわけでだ、オレたちはのんびり高みの見物といこうぜ」 ――王天君が開いた窓には、ヴェルサルテイル宮殿の裏門を抜け、繁華街方面へ向かうタバサと太公望の姿がくっきりと映し出されていた――。