「突然呼び出したりしてごめんなさいね、ルイズ・フランソワーズ。実は、どうしてもあなたにお願いしたいことがあるの」 幼なじみであるアンリエッタ姫からこの言葉を聞いたとき。ルイズは細かに震える足を、なんとか押さえつけるだけで精一杯だった。 ――時を遡ること、数時間前。 火竜退治を終え、魔法学院へと帰還してから2週間ほどが経過した、その日。なんの前触れもなく、いきなり王宮から迎えの馬車が彼女の元へと寄越されてきたのだ。 しかも、アンリエッタ姫直々のお召しであると使者から伝えられたルイズは、たったひとりで、取るものも取り敢えず馬車へと乗り込むことになったのだが――彼女の心中は、不安が溢れ返っていた。「まま、まさか、あの件が王宮に漏れたのかしら……!?」 あの件――すなわち、ルイズが『虚無の担い手』であることを王政府に知られてしまったのだろうか。自分が王宮から呼び出される理由に関して、それ以外のことに一切の心当たりがなかったルイズは、震えた。 さらに、謁見室にいたのがアンリエッタ姫だけではなかったのが、彼女の畏れに拍車をかけた。よりにもよって、ブリミル教の司教枢機卿・マザリーニが側に控えていたのだ。その手に、あの『始祖の祈祷書』を持って。 こうなってしまっては、もはや言い逃れはできない。父さま、母さま……先立つ不孝をお許し下さい。などと、ルイズが行き過ぎた覚悟を決めた、その時だ。件の言葉が、アンリエッタ姫の口から飛び出したのは。「お願いごと……とは?」 震え声でそう問うたルイズに答えたのは、姫君ではなく宰相マザリーニであった。「そなたにとって悪い話ではないので、そのように畏まる必要はない」 そう前置きした彼は、怯える少女にこう告げた。「トリステイン王室の伝統でな、王族の結婚の際には高位の貴族より選ばれし巫女が、この『始祖の祈祷書』を手に、式の詔(みことのり)を読み上げる習慣になっておる。そして姫殿下は、ミス・ヴァリエール。そなたを是非にとご指名あそばされたのだ」「え、ええっ? あ、あの、それは、つまり」 完全に意表を突かれた格好のルイズは、思わず素っ頓狂な声を上げてしまった。そんな幼なじみの様子を見たアンリエッタは、突然降って湧いたような報せに驚いたのだろうと解釈し――苦笑しながら事情を説明した。「ええ、そうよルイズ。もうすぐ結婚するの、わたくし」「……おめでとうございます」 アンリエッタの声が、どこか哀しみに沈んでいるように感じられたルイズは、小さく祝いの言葉を述べるに留めた。「それで、どうかしら。お願いできて?」「光栄にございます。ルイズ・フランソワーズ・ル・ブラン・ド・ラ・ヴァリエール、謹んで拝命致します」 膝をつき、臣下の礼をとったルイズの元へマザリーニが歩み寄ると、彼女の手に『始祖の祈祷書』を手渡した。ルイズは、恭しくそれを受け取った。 それを見届けたアンリエッタ姫は、にっこりと微笑んだ。「快く引き受けてくれてありがとう、ルイズ・フランソワーズ。もしもあなたに断られてしまったら、わたくし、どうしようかと思ったわ!」「なにを仰います! 姫さまのご命令とあらば、たとえそれが何であろうとも、断る道理などございません」 それも、王族の婚儀に立ち会った上で詔を詠む機会など、そうそうあることではない。呼び出されたときの不安などすっかり忘れて、ルイズは与えられた名誉に酔った。だが、その陶酔を、すぐ側にいたマザリーニがだいなしにした。「選ばれし巫女は、式の前よりこの『始祖の祈祷書』を肌身離さず持ち歩き、詠み上げる詔を考えねばならぬ。ゆめ、忘れることのないようにな」「ええッ! 詔の内容を、わたしが自分で考えるんですか!?」「うむ。それが伝統であるからな」 ルイズは困ってしまった。彼女は優秀な学生ではあったのだが――自分の持つ詩才については、正直なところ全く信用が置けなかったのだ。「そう構える必要はないぞ、ミス・ヴァリエール。ある程度は我々宮廷の者が推敲するからな。とはいえ、原文については自力で書き上げてもらわねばならないが」 枢機卿の言葉を受けたルイズは、ごくりと唾を飲み込んだ。「期日までは、まだ余裕があるから大丈夫よ、ルイズ。ゆっくり考えて頂戴な。ところで、マザリーニ枢機卿」「いかがなさいましたか、姫さま」「帰りの馬車は、どうなっていますの?」「すぐにでも用意させますが」「でしたら、2時間後にしてもらえまして? おともだちをいきなり自分の城へ呼びつけておいて、何のおもてなしもせずに帰らせるわけにはいきませんからね」「承知致しました。それでは、わたしはこれにて失礼させて頂きます」 マザリーニがしずしずと謁見の間を去るのを見届けたアンリエッタは、たったひとりの友人に、微笑みながら言った。「東方由来の、珍しいお茶とお菓子があるの。よかったら、わたくしの部屋で少し休んでいってくれるかしら」 ――ルイズに、嫌のあろうはずがなかった。○●○●○●○● 気が置けない友人との、楽しいお茶会――ただ、それだけのはずだった。茶を飲み、菓子をつまみながら、少女たちは幼い日の思い出話に花を咲かせていた。だが、話が進むにつれて、王女の顔は少しずつ陰っていった。「あの頃は、毎日が楽しかったわ。悩みなんか、なんにもなくって」 アンリエッタは小さく首を横に振ると、深いため息をついた。「姫さま、どうなされました? どこか、お加減でも悪いのですか?」 ルイズは、そんな姫君の様子が気になって、思わず顔を覗き込んでしまった。そこに浮かんでいたのは――湖の底よりも深い、憂いの色であった。「覚えているかしら? あなたが『土くれ』のフーケを捕縛した件だけれど」 もちろん、ルイズがそれを忘れようはずがなかった。あの事件に関わったことが、自身が持つ素養を知る、大きな契機となったのだから。「あの功績で、あなたが受けるはずだった『シュヴァリエ』なんだけれど。わたくしの知らないところで、いつのまにか受勲の条件が変わっていたらしいの。なんでも、従軍が必須になったんですって。代わりに、別の勲章を出せればよかったのだけれど……」 残念ながら、それすら叶わなかった。哀しみを湛えた瞳で詫びの言葉を述べた姫君に、ルイズは慌てて言った。「いえ、そんな! わたくしは、勲章が欲しくて杖を取ったわけではございません」「……あなたは、まさしく貴族の鑑ね。ルイズ・フランソワーズ。最近は、そのような物言いをする貴族すら、数を減らしているというのに」 そう言うと、アンリエッタ姫は再び深いため息をついた。「実は、あなたにお願いした巫女の件もね。最初は、クルデンホルフ大公姫に依頼することになっていたらしいの。そのほうが、政治的に都合が良いんですって」「えっ?」 驚きの声を上げたルイズに、アンリエッタは俯いて答えた。「こんなふうに、何もかもわたくしの知らないところで決められていくのよ。王国に生まれた姫なんて、鳥籠に囚われた小鳥も同然。飼い主の都合であっちへ行ったり、こっちへ行ったり。でもね、わたくし思ったの。せめて、さえずりの声を上げるくらいは許されてもよいはずだって。それで、あなたを巫女に指名したのよ。ろくに顔も見たことのない大公姫ではなく、たったひとりのおともだちに、祝いの詔を詠み上げてもらいたかったから」 そう告げた途端、アンリエッタの瞳から、一筋の涙がはらりと落ちた。ルイズは慌てて懐からハンカチーフを取り出すと、姫君に手渡した。「まあ、いやだわ、わたくしったら。ごめんなさいね、あなたにこんなことを話すつもりなんて、なかったのに」 そう呟き、再び涙を流し始めたアンリエッタを見て、ルイズは訝しんだ。 ひと月ほど前に顔を合わせたとき。敬愛する姫殿下は、どこか無理に明るく振る舞っているようだった。しかし、今日はそれすらできていない。あのとき、まだアンリエッタ姫の婚姻は決まっていなかったはずだ。つまり……それ以外に、彼女を塞ぎ込ませる何かが存在するのだろう。ルイズはそう判断し、口を開いた。「姫さま、仰ってください」「まあ。わたくし、あなたに何を言えばいいのかしら? ルイズ・フランソワーズ」「おとぼけにならないでくださいまし。悩み事がおありになるのでしょう?」「……いえ、あなたに話せるようなことではないのです」 やはりそうだ。ルイズは確信した。姫さまは――たったひとりで苦しみを抱え込んでいたのだ。思わず、彼女は声を荒げてしまった。「そんな、いけません! 昔は、何でも包み隠さず話し合った仲ではございませんか! わたくしを『おともだち』と呼んでくださったのは、姫さまです。そのおともだちに、悩みを話せないと仰るのですか!?」 ルイズがそう言うと、アンリエッタは嬉しそうに微笑んだ。「まだわたくしを『おともだち』と呼んでくれるのね。とても嬉しいわ。でも……」「言って! 言ってください姫さま! わたくしを、本当に『おともだち』だと思ってくださっておられるのでしたら、なおのことでございます!」 ルイズの声に励まされたのだろう。アンリエッタは決心したかのような表情で、周囲を伺った。このお茶会の間、ふたりきりで気の置けない会話を楽しみたいからと、側付きの者たちは全て下がらせていた彼女は、杖を取り出すと、小さくルーンを唱えた。「ディテクト・マジック?」 ルイズの問いに、アンリエッタは頷いた。人払いのみならず、魔法による『目』や『耳』があるかどうかを確かめるとは――どうやら、相当に重い話であるようだ。ルイズは、思わずぎゅっと手を握り締めた。「実は、わたくしはゲルマニア皇帝の元へ嫁ぐことになったのですが……」「ゲルマニアですって! どうしてそんなことに!!」 伝統を軽んじ、何かというと金で物事を解決しようとする隣国ゲルマニアに対して良い感情を持っていないルイズは、驚きの声を上げてしまった。アンリエッタの制止で、慌てて口を塞ぐ。大声を出して騒いで、姫の悩みを他人に聞かれたりしたら大変だ。 人払いをしているとはいえ、壁や扉の向こうに、誰も控えていないとは限らないのだ。わたしにも<サイレント>が使えればよかったのにと、ルイズは内心で嘆いた。 ――その後アンリエッタは、ハルケギニアの政治情勢についてルイズに語り始めた。 水精霊団の集まりの中で、時折太公望やレイナールがそういった話題を出すことがあったので、ルイズもアルビオンの現況について、ある程度把握してはいたものの――祖国トリステインが置かれた国際的立場がそこまで厳しいとは想像だにしていなかった彼女は、驚きを露わにした。「姫さまの降嫁がゲルマニアとの同盟条件だなんて、いくらなんでもあんまりですわ。他に方法はないのですか?」 切なげな声で尋ねるルイズに、アンリエッタはため息をついて答えた。「以前、あなたのお父上も、そう言って反対してくれたのだけれど……もう、時間がないのです。アルビオンが陥ちれば、次に狙われるのは――わかるでしょう? ですから、わたくしがゲルマニアへ嫁ぐこと自体に異論はないのです。国を、護るためですもの」 それだけに……と、アンリエッタは呟いた。「『レコン・キスタ』は、トリステインとゲルマニアの同盟を望まないでしょう。いくら戦力で上回るとはいえ、1国を相手にするのと2カ国と同時に戦うのでは、どう考えても後者のほうが大きな損害を被りますからね。したがって、彼らがこの条件を知れば、わたくしたちの婚姻を妨げるための材料を、血眼になって探し始めるに違いありません」 ゲルマニアとの同盟や、締結のための条件については、既に議会へ提出された内容であるため、知られていると思って間違いない。宮廷内に、貴族派連盟が放った密偵がいないとも限りませんから。そこまで言うと、アンリエッタは俯いてしまった。「もしや……姫さまには、何かお心当たりがあるのですか?」 ルイズが顔を蒼白にして尋ねると、アンリエッタは両手で顔い、机に伏してしまった。「おお、始祖ブリミルよ……この不幸な姫をお救いください……」「いったい、なんなのですか!? 姫さまがお気になされているものとは!」 言うべきか否か悩むようなそぶりを見せたアンリエッタだったが、興奮してまくしたてる友人の声に励まされたのか、ぽつりと呟いた。「一通の手紙です」「手紙?」「そうです。もしも、それが『レコン・キスタ』の手に渡ったら……」「いったい、どんな内容の手紙なのですか!?」「そこまでは言えません。ですが、その手紙がゲルマニアに届いたら――皇帝は、間違いなくわたくしとの婚姻を取りやめるでしょう。そうなれば同盟の話は反故。トリステインは、一国のみで『レコン・キスタ』に立ち向かわねばならないでしょうね」 姫君の手を取り、ルイズは問い詰めた。「いったい、その手紙はどこにあるのですか? トリステインに危機をもたらす、その手紙とやらは!」 だが、アンリエッタは弱々しく首を振った。「それが、手元にはないのです。実は、アルビオンに……」 それを聞いたルイズは、真っ青になった。「アルビオンですって!? で、では、すでに敵の手中に落ちていると……?」「いえ、幸いなことにその手紙を持っているのは『レコン・キスタ』ではありません。反乱勢と骨肉の争いを繰り広げている、アルビオン王家のウェールズ皇太子が……」「プリンス・オブ・ウェールズ? あの、凛々しき王子さまが?」 以前、ルイズは父や家族と共に参加したラグドリアン湖での園遊会で、一度だけ件の王子と顔を合わせたことがあったが――残念ながら、はっきりとした顔立ちまでは思い出すことができなかった。ただ、彼の凛々しい立ち居振る舞いだけは印象に残っている。 アンリエッタは、おもむろに椅子から立ち上がると、身体をのけぞらせ、よろめきながら天蓋つきのベッドにその身を横たえた。「ああ、破滅です! ウェールズ皇太子は、遅かれ早かれ、反乱勢に囚われてしまうことでしょう。そうなれば、あの手紙も明るみに出てしまう! でも、わたくしには……どうすることもできないのです。この無力な姫は、座して祖国の滅亡を見るしかないのです!」 ルイズは息を飲んだ。この話は、紛れもなくトリステインの存亡に関わる話だ。気が付くと――彼女は姫君の前で膝をつき、恭しく頭を下げていた。「その手紙を、取り戻して参れば宜しいのですね?」 『おともだち』が発した言葉に、アンリエッタは顔色を変えた。「無理よ! 無理よルイズ! 考えてもみてちょうだい。反乱軍と王党派が争いを繰り広げているアルビオンに赴くなんて、危険にも程があるわ!」「何を仰います! たとえ地獄の釜の中、竜の顎門の内であろうとも、姫さまの御為とあらば何処へなりとも向かいますわ! 姫さまとトリステイン王国の危機を、このヴァリエール公爵家の三女、ルイズ・フランソワーズ、見逃すわけには参りません!」 アンリエッタはベッドから飛び起きると、ルイズの肩を抱いて言った。「その言葉だけ、有り難く受け取っておくわ。でも、駄目よ! あなたを、そんな危ない目に遭わせるわけにはいきません。ああ、わたくしったら、なんてことでしょう。きっと混乱していたんだわ! あなたに、こんなことを話すべきではなかった!」 慌てふためく姫君の手を取り、安心させるような微笑みで、ルイズは告げた。「もうお忘れになったのですか? 姫さま。わたくしたち『水精霊団』のことを」 ルイズの言葉に、アンリエッタははっとしたような表情を見せた。「オーク鬼30体を、たったの一日で退治してしまったという……?」「つい先日、火竜討伐も経験致しました」「まあ、まあ、火竜討伐ですって!? あなた、そんなことまで……」「はい。それに……わたくしたちには、水の精霊に誓った言葉があるのです」 ぐっと顔を上げ、ルイズは姫君と目を合わせて言った。「『ひとりは、みんなのために。みんなは、ひとりのために』。姫さま……いえ、ミス・アクアマリン。あなたは、わたくしどもの仲間でもあります。その尊き誓いを、どうして破ることができましょう」○●○●○●○●「で、おぬしは引き受けてきたわけだ。その『依頼』を」「こんな夜遅くに、全員『格納庫』へ集まれなんて言うから、何事かと思えば……」 魔法学院の外に広がる草原。その中に立つ、ゼロ戦の格納庫内で。水精霊団に所属するメンバーたちが、ある者は頭を抱え、またある者は与えられた名誉に打ち震えていた。 それはそうだろう。昼間、王宮へ呼ばれていったルイズが、みんなにしか頼めない大切な話があるからと、水精霊団一同を集合させた挙げ句、「王家からの依頼でアルビオンへ赴き、皇太子に姫君からの密書を届ける」 などという、とんでもない話を打ち明けたとなれば、なおさらだ。 痛む頭を押さえつつ、太公望は口を開いた。「正直なところ、何故トリステイン王家がわしら『水精霊団』について知っておったのか。そこから問い詰めたいところなのだが……それはさておき」 その言葉を聞いた途端。ルイズと才人が顔を伏せたので、こやつらが何か漏らしおったな? などと思いつつも、既に王家から直接『依頼』を受けてしまった以上、今更文句を言っても始まらない。そう判断した太公望は、次のステップへ移行することにした。「ルイズよ。念のため確認したいのだが」「何かしら?」「その手紙とやらは、持ち帰ることが必須であるのか?」「ええ。わたしが預かった密書を皇太子殿下にお渡しすれば、必ず返してくださると姫さまは仰っておられたわ。その上で、絶対に王宮へ持ち帰るようにと命じられたの」 それを聞いた太公望は考えた。 問題の手紙とやらは、トリステインとアルビオン王家にとって重要なものであり、かつ『レコン・キスタ』及びゲルマニアの手に渡ると重大な不都合が生じるもの――つまり、国の存亡に関わるような密約が記された書類なのではあるまいか、と。 さらに、途中で破棄せずに、わざわざ持ち帰ることを厳命されているということは……ルイズの生還はもちろんのことだが、それを手元に置いておくことで、トリステインに多大な利益が生まれる――たとえば互いの『王権』あるいは『領土』の移譲に関するようなものであるとも考えられる。 そういう類の品であれば『レコン・キスタ』の手に渡ってしまった場合、甚だ不都合であり、ゲルマニアとの同盟が反故にされるというのも理解できる。また、偽造であるという言い訳が一切通用しない類の加工が施されている可能性が高い。 とはいえ、たったこれだけの情報で判断するのは危険だ。そう考えた太公望は、さらに確認を取ることにした。「できれば、密書の中身を見せてもらいたいのだが」 それを聞いたルイズは、ぶんぶんと首を横に振った。「ダメよ! 魔法の封蝋と王室の花押が押されているもの。開けたりしたら、一発でバレちゃうわ。それに姫さまは、ウェールズ皇太子さまだけにお見せするようにって」 やはり、そういう『加工技術』が存在するのか。太公望は思わず嘆息した。 密書の中身を知ることができれば、採れる選択肢の幅が広がるのだが……少なくとも、全員で戦場へ突撃するなどという無茶を承諾することはできない。そう考えた太公望は、がっくりと肩を落とした。「まったく……とんでもない面倒を背負い込んできてくれたものだのう」 その言葉に、ルイズとギーシュが猛然と反論した。「面倒ですって!? 姫さま直々の頼みなのよ! なにが気に入らないっていうの!?」「ルイズの言う通りだ! こんな名誉ある任務を賜れる機会なんて――」 そこまで言ったところで、ギーシュは思わず口を噤んだ。太公望から、ギロリと睨み付けられたからだ。「あのな。ただのお使いではないのだぞ? 戦場のまっただ中を突っ切って、滅亡寸前まで追い遣られているアルビオン王家の陣中へ向かうのだ。それを理解しておるのか!?」「それなら、心配しなくても大丈夫よ。『空とぶベッド』に乗って、みんなでびゅーんと飛んで行けばいいだけなんだし」 このルイズの言葉に慌てたのは、レイナールとモンモランシーだ。「待ってくれ、ラ・ロシェールまで300リーグ以上あるんだよ!? 早馬で、しかも途中の駅で何度も乗り換えをしたとしても、最低2日はかかる距離だ。タルブへ行った時は、宿に泊まりながらだったから、なんとか行けたけど……いくらなんでも、空を漂流しているアルビオン大陸までは無理だよ。みんなが保たない」「えっ!?」「ラ・ロシェールからアルビオンまではフネで行くとしてもよ? あんな目立つモノで戦場の上を飛んだりしたら、絶対途中で撃ち落とされるわ!」「じゃ、じゃあ、さ、サイトの『ドッグ・ゼロ』を使えばいいんじゃないかしら? 風竜よりも、ずっと早く飛べるじゃない」「のう才人よ、おぬしの持つ飛行機械の航続距離はどのくらいだ?」「確か、1900リーグくらいだったと思う。正確な数値、調べようか?」「いや、構わない。航続距離的には一応往復可能であるのか……と、駄目だ。着陸その他諸々の事情を考えると、現実的ではない。よって、これらの案は却下だ」「ああ、確かに。戦場のど真ん中に、ゼロ戦降ろせるわけねーし。おまけに俺、アルビオンとやらがどこにあるんだか、わかんねーし」 アルビオンへはわたしが案内するし、着地については空中から<瞬間移動>で降りれば大丈夫――そう反論しようとしたルイズだったが、できなかった。ここに至って、彼女はようやく重大な問題に気が付いたからだ。 虚無魔法云々の話ではなく――皇太子ウェールズの所在については、アンリエッタ姫からもたらされた情報によって理解してはいるのだが、ルイズはそこへ行ったことがない。つまり<瞬間移動>後の『出口』を掴むことが非常に難しいのだ。 おまけに、移動中の物体を指標にして<瞬間移動>を使うのは、とてつもない危険を伴うことであると才人から忠告を受け、さらに太公望から手渡されたメモにも、ほぼ同じことが書かれていた。絶対に手紙を持ち帰らねばならない以上、無謀な賭けはできない。 彼女ひとりで『跳躍』したり<念力>で飛んでゆくのも無理だ。いくらなんでも距離がありすぎる。ほぼ間違いなく、途中で<精神力>が切れてしまうだろう。 ラ・ロシェールからフネに乗り、ロサイスへ到着してから『移動』するにしても、前述した『出口探査』や『撃墜』の問題から考えれば、実現は不可能に近い。「え……あ、う……」 言葉に詰まってしまったルイズの元へ、太公望がスタスタと歩み寄る。そして、彼女の頬をつねり上げた。「ひだい! ひだい!」「ひとりで突撃しようとしなかっただけ、成長したと認めよう。だがな、こんな無茶な依頼を、よりにもよって自分から進んで受けてくるなど、無謀にも程があるわ! 単なる狩りと戦場とではな、天と地ほどの差があるのだぞ!?」「ごべんなざい! ぼうしばぜん! おでがいだから、ほおつでるどはやべで!!」「ならば、なんとか取り下げてもらうよう、公爵閣下へ早急に相談をしてだな……」「そえはらめ! もうりかんがらい」「なぬ?」 ようやく解放されたルイズが、頬をさすりながら言った。「急ぎの任務なのよ! 朝には出発しなきゃいけないの!!」 これを聞いた太公望は、激怒した。「こんな子供を相手に、無理難題を言うにも程があるわ! 戦場への潜入のみならず、国の命運を分ける貴重品の奪還を指示した上に、時間制限ありだと!? いったい何を考えておるのだ、トリステインの王室は!」 無茶振りをしてくるという意味ではガリア王家も同列なのだが、タバサへ与えられる『任務』と今回のこれは、根本から事情が異なる。「姫さまを悪く言わないで! 受けるって申し出たのはわたしで……」「そんなふうに王室を罵るなど、不敬にも程がある!」 反論を述べたルイズとギーシュは、とてつもない迫力を伴った太公望のひと睨みによって再び黙らされた。「ルイズを送り込むと決めたのは、王室であろうが! 責任は、命令を与えた者にある。そもそもだな……この任務に失敗した場合どうなるか、少しでも考えたのか?」「失敗するだなんて、そんな……」「考えとらんかったようだな。では、皆の者。失敗した場合の問題点を挙げてみるのだ」 真っ先に手を挙げたのは、ルイズであった。「手紙が取り戻せなかったら、ゲルマニアと同盟が結べなくなるわ。そうなったらトリステインは、自分たちだけで『レコン・キスタ』と戦わなきゃいけなくて……」「それ以前の問題よ」 そんなルイズに真っ向から反論を述べたのは、キュルケであった。「もしもヴァリエールが戦場に散ったら、どうなるか……あたしでも想像つくわよ」「せせ、戦場に、散る、って……」 ルイズは、ようやく気が付いた。今回請け負ってきたこの任務は、文字通り命懸けのものであり――場合によっては自分が。いや、ここにいる仲間たち全員が、本当に命を落とすかもしれないのだ。姫殿下から直々に使命を与えられたという栄誉に酔っていた彼女の頭は、この一言によって急激に冷やされ、その身体は小刻みに震え始めた。ろくに考えもせず先走ったせいで、自分だけならばまだしも、大切な友人たちを巻き添えにしてしまったのだ。 そんなルイズの内心を知ってか知らずか、キュルケは先を続ける。「怒り狂ったラ・ヴァリエール公爵が、国境の守備を放棄――最悪の場合、そのままトリステイン王家に反旗を翻すでしょうね」「と、父さまがそんなこと……」「するわけないと言い切れるか?」「いや、その前にルイズの母ちゃんが黙ってないと思うな、俺」「ああ、そうね。そっちのほうが早いかもしれないわ」 太公望、それから才人とキュルケの発言に、ルイズは真っ青になった。「ギーシュが同行していた場合は、グラモン元帥も動くだろうし……それについては、他の家の誰でも同じだろうね」「で、でも、こ、この依頼は、わたしが受けるって、自分から申し出たことで……」「その事実が表に出たら、親たちは間違いなく王家を恨むぞ。何故、子供たちを止めてくださらなかったのか。どうして他の人員を出してはくれなかったのか、とな」 流れた冷や汗で滑り、ズレた眼鏡の位置を直しながら、レイナールが呟いた。「ルイズ個人じゃなくて『水精霊団』宛ての依頼だけに、質が悪いんだよね」「その通りだ。依頼を受けた者たちが戦場に斃れても、トリステイン王家は知らぬ存ぜぬで通そうと考えた。そのように受け止められてしまうであろう。つまり、ハルケギニアの貴族たちがよく言う『名誉の戦死』にすらならないのだ。犠牲者の親族は、口惜しいであろうな。さて……彼らの怒りの矛先は、いったいどこへ向くのかのう」「下手をしたら、王家・公爵家・元帥という三つ巴の戦いが勃発するんじゃないかな」「そこに、ゲルマニアのツェルプストー家が加わる可能性もあるぞ」「もしもそんなことになったら『レコン・キスタ』が攻め込んでくる前に、トリステインは確実に滅亡だよ!」 太公望とレイナールの掛け合いを聞いたルイズの震えが激しくなった。「そそ、そんな、そんなことって……わた、わたし……なんてこと……」 ルイズは、これまでトリステインという国におけるヴァリエール家の立ち位置や、実家が持つ影響力というものを、こんなふうに客観的な視点から見たことがなかった。彼女の顔からは、もう完全に血の気が失せていた。「ルイズが囮ということも考えられる」「囮!?」 タバサの言葉に、全員が振り返った。「わざわざ迎えの馬車を寄越したことから、そう判断するのが妥当。ルイズが魔法学院から出立するのを確認した後、本命の使者がアルビオンへ向かうものと考えられる。それが時間指定の理由」「ラ・ヴァリエール公爵を敵に回してまで、ルイズを死地へ送るというのか? さすがにそれはないと思いたいのだが。いや、待てよ。そうか、そういうことならば……!」 太公望はルイズに顔を向けると、改めて彼女に訊ねた。「『水精霊団』のメンバーについて、どのくらいの情報を王家に明かしたのだ? まさか、全員の名前を知らせているなどということは……」「ぐ、偶然、別の話をしているときに、ひ、姫さまに知られちゃっただけよ! で、でも、それだけ。わたしとサイト以外の名前は、出してないわ」「なるほど。うむ……それならば、何とかなるであろう」「な、何か名案があるの!?」 ルイズは、もはや完全に涙目だ。巣穴に籠もったリスのように縮こまっている。「ルイズよ。ここまでの話を聞いてなお、わしが面倒だと言った理由がわからぬか?」 太公望の問いかけに、ルイズはふるふると首を振った。「とはいうものの、一旦引き受けてしまった以上、放置しておくわけにもいくまい。どこに目や耳が光っておるか、わからぬからのう。たとえば、扉の外に立っておる……そこのおぬしとかな」 全員が、一斉に格納庫の扉へと振り向いた。「いやはや、気付いておられましたか……どうもすみません」 扉の影から現れたのは、コルベールであった。「コルベール先生!」「どうして、先生がこんなところに……」 頭を掻きながら、コルベールは格納庫の奥へとやって来た。「いや、今行っている研究のために、そこの飛行機械を見に来たら……明かりがついていたものでね。つい、気になりましてな」「いったい、いつから……」 口をぱくぱくさせているギーシュに、コルベールが答えた。「ちょうど、ラ・ロシェールへの距離について、ミスタ・レイナールが話し始めたあたりだろうか」「全然気付かなかった……」「それはともかく。生徒たちを戦場へ送り込むなど、私は断固反対しますぞ。たとえ、それが王家の命令であろうとも……です。幸いなことに、ミスタ・タイコーボーも、私と同様の考えをお持ちとお見受けしましたが」「うむ。ただし……何名か手前までついて来て貰う必要がある」「できうることならば、それも回避していただきたいところなのですが……」「だがのう、昨今の国内情勢を鑑みるに、トリステイン王家と貴族たちの間に亀裂を入れるわけにはいかぬのだ」 大人ふたりの会話についていけなかった子供たちが、質問を投げかけた。最初に口を開いたのは、モンモランシーだ。「つまり、どういうことなのかしら?」「うむ。わしがこれまでに集めた情報では、ラ・ロシェールからロサイスへの航路については、両軍における完全中立地帯として設定されておるようなのだ」「あ、それならぼくも知ってるよ。中立航路を進んでいる避難民や商船を軍が襲うのは、ハルケギニアの国際法でも禁止されているしね」「ぼくも父上から聞いているよ。特に、今はトリステイン側が防衛体制を敷いているからね。最低でも、中間地点までの監視は厳しくなっているはずさ」 レイナールとギーシュの言葉に、太公望は頷いた。「つまりだ。何名か、明日の朝一緒に魔法学院を出て……そのまま、ロサイスまでついてきてもらいたいのだ。そうすれば、アルビオンまで行ったという言い訳が立ち、囮の役目も最低限果たせるであろう」「で、でも、それだけじゃ手紙の回収が……」「うむ。本命の使者が用意されているとは限らぬ。いたとしても、向こうが失敗することも考えられる。そこでだ、タバサよ」「何?」「おぬしの『如意羽衣』を借り受けたいのだが」 それを聞いたルイズの顔色が変わった。「ま、まさか……ミスタ、わたしの姿に化けてアルビオンへ行くつもりじゃ……!」 やれやれといった口調で太公望は言った。「全員の安全や、ヴァリエール公爵家の今後を考えた場合、そうするしかなかろう。王室からじきじきの依頼を拒絶したなどと世間に知れ渡れば、公爵閣下の立場が悪くなる。最悪、領地を召し上げられることにもなりかねん」「い、いくらなんでもそこまでは……」「政治とは、そんなものだ。事実、わしの祖国と敵対していた帝国にはな、皇帝に意見しただけで、領地どころか一族全員の命を奪われた者たちが大勢おるのだぞ」 王権の怖ろしさをその身でもって思い知っているタバサは、俯いた。もちろん、本心では太公望に戦地へ行って欲しくなどなかったが、友人が自分のようになるのを黙って見過ごすわけにはいかない。それに、彼の提案が最も確実であることを、彼女は理解していた。「まったく! 休暇中だというのにこうも働かされるとは、面倒極まりないわ! よいか、ルイズよ。わしが戻ってくるまでに、美味い菓子をたくさん用意しておくのだぞ!」「で、でも……」 と、そこへコルベールが口を挟んだ。「私も一緒に行きます」「先生! どうして……」「子供、それも女の子がひとりだけで大使として派遣されるなど、常識では考えにくい。まず相手の信用を得ることはできないだろう。逆に『レコン・キスタ』の斥候だと疑われるかもしれない。いくら世情に疎い私でも、そのくらいのことはわかりますぞ」「そんな! ミスタ・タイコーボーと先生がわたしの身代わりだなんて、イヤ!!」 ぼろぼろと涙を零すルイズに、コルベールはにこやかに笑いかけた。「それが最善なのですよ、ミス・ヴァリエール」「わしらふたりだけならば、陣中突破して王党派の元へ辿り着くことも可能であろう。とはいえ、才人よ。最低でもおぬしだけは、ロサイスまで来てもらわねばならぬ」 平和な国・日本で生まれ、育ってきた才人には、戦場と言われてもまるで物語の中のことのようで、いまいち実感が湧かない。だが、それでも。自分の友と、先生と呼んだ人物が、命の危険に晒されることくらいは理解できた。「……わかったよ。けど、師叔も先生も、絶対に無理しないでくれよ!? 見送って、そこで一生お別れだなんて、俺……絶対に嫌だからな!」 と、キュルケがすっと杖を掲げた。「あたしも、ロサイスまでご一緒させていただきますわ」「ミス・ツェルプストー!?」「わたしも行く」「ミス・タバサまで!」 ぐしぐしとぐずり続けながら、ルイズも杖を掲げた。「わたしも、行きます」「ルイズ!」「あの『羽衣』を使うと<生命力>を削られるんでしょう? タバサがあれを使った後にぐったりしてたの、みんなが見てるわ。空を飛ぶだけであそこまで疲れるなら<変化>するのはもっと大変なんじゃない?」「うむ、まあ、それは否定せぬが、しかし……」「だったら、せめてロサイスまではついて行かせて。元はといえば、わたしが申し出たことなのに、ミスタと先生だけが泥を被るなんて……おかしいもの」「囮……なのよね? だったら、途中で襲撃があるかもしれないわ。怪我を治すのは、わたしの役目よ」 モンモランシーが、杖を掲げた。その手は、微かに震えている。「恋人や友人たちが、手前までとはいえ戦地へ向かうというのに、グラモン家の男子たるぼくが行かずして、どうするというのだね」「ロサイスまでの案内は、ぼくに任せて欲しい。地図なら持ってるからさ」 ギーシュとレイナールも、懐から杖を取り出して、高く掲げた。 生徒達の姿を見た大人ふたりは、揃って息を吐いた。「まったく、きみたちは、なんというか……」「……わかった。だが、これだけは約束してくれ。よいか、ロサイスまでだぞ。間違っても、その後わしらふたりについてこようなどとは思うなよ!?」 その声に、生徒たち全員が唱和した。「……杖にかけて!」 ――水精霊団のメンバーたちが、明日の準備をするために自室へと戻っていった後。 出発前の打ち合わせがあるからと、その場へ残った太公望とコルベールは、揃って格納庫から外へ出て、夜空を見上げた。「ちと、脅しすぎてしまったかのう」「いえいえ、あのくらいでちょうどよい塩梅かと」「……すまない、コルベール殿。また、巻き込んでしまった」「謝らないでください。私は、最初からついてゆくつもりでしたから」 しばしの間を置いて。空に浮かぶ双月を見ながら、太公望はぽつりと呟いた。「どうやらわしは、余計なことまで教え過ぎてしまったようだ」「正直なところ、判断に困る問題ではありますね……」 コルベールの言葉に、太公望は大げさなため息を漏らしてみせた。「ここは『そんなことはありません』と答えてもらいたかったところなのだが」 それを聞いたコルベールは、ぷっと吹き出した後……おもむろに口を開いた。「以前、ミスタは仰っていましたね。『ひとに何かを教えるという行為は、ある意味、その者の人生に道を指し示すことなのだ』……と」「……覚えておる」「今頃になって、ようやくその意味と、重さが理解できました。そんな私が言うのもなんですが、あの子たちは、お日様の下で……まっすぐな『道』を歩いていますよ」 ――教師たちの頭上で。一筋の流れ星が、地上へ向けて尾を引いて流れた。