――毎夕定例の職員会議終了後。オスマン学院長から、「新学期の授業に関する準備のため、書類の作成を手伝って欲しい」 という依頼を受けた『炎蛇』のコルベールは、嫌な顔ひとつせずオスマン氏に従い、学院長室へと向かった。 こういった仕事は、秘書のミス・ロングビルが学院を去った――正確には、国の衛士に引っ立てられていった後、教員たちが持ち回りで行っていたことなので、特に変わった出来事ではなかったのだが――学院長室内で、実際に申し渡された仕事の内容は、彼の想像を絶するものであった。「ミス・ヴァリエールが『虚無の担い手』ですと!? いや……とうの昔に気付いていてしかるべきでした。彼女が呼び出したのは<ガンダールヴ>。かつて『始祖』ブリミルが使役したと言われる、伝説の使い魔なのですから」 畏るべき事実を前にして、コルベールは全身から冷や汗が噴き出すのを感じた。なにせこの話は、トリステインの国家機密に抵触するどころではない。ハルケギニア全土を揺るがしかねない大事だ。 以前、教え子のひとりが東方ロバ・アル・カリイエの退役元帥を召喚してしまったと知った時も背筋が冷えたものだが、これは、その時の衝撃を遙かに上回る。「本来であれば、これは明かすべきでない秘事なのだが……サイト君の『正体』を真っ先に突き止めた君には、前もって知らせておくべきだと考えたのじゃ。何かのきっかけで辿り着かんとも限らぬからの。既に、ラ・ヴァリエール公爵には許可を取ってある」 オスマン氏は、驚愕に打ち震える部下に、さらなる爆弾を投下し続けた。 四系統とは異なり<虚無>に目覚めるためには、特定の条件を満たす必要があること。 その条件とは『担い手』となる資質を持つ者が『秘宝』を手にすること。 『秘宝』とは、三王家と教皇が代々受け継いできた『系統の指輪』と『始祖の宝物』。 資質については未確定だが、おそらく『伝説の使い魔』を呼び出せた者であること。 選ばれし者が『指輪』を填め『宝物』に触れると、始祖の御言葉が現れること。 その言葉を授かることによって、はじめて『虚無の担い手』が誕生するのだと。「わしは、ミス・ヴァリエールが『水のルビー』と『始祖の祈祷書』を手にした場面に立ち会い、実際に<虚無>が目覚める姿を目の当たりにした。<虚無魔法>の効果も確かめた。あれは、断じて四大系統魔法で再現できるものなどではない。彼女は、紛れもなく『始祖』ブリミルの後継者なのじゃ」「この話を、王室には……?」「報告できるわけなかろう。万が一この情報が外に漏れたら、宮廷で暇を囲っておる雀どもが、戦がしたいとさえずりはじめるに決まっておるわい」「な、なるほど……」「ただでさえ、アルビオンがあのような状況に陥っている今、トリステインで王位継承戦争を起こすわけにはいかん。そうなったが最後、この国は完全におしまいじゃ」「で、では、どうして私に、このような大事を打ち明けられたのです……?」 戸惑いの表情を浮かべたコルベールに、オスマン氏は重々しく告げた。「この学院に勤める教員の中で、唯一君にしかできない仕事があるからじゃ」「私にしかできない仕事、ですか?」「そうじゃ。それについては……わしが言わずとも、わかるのではないかな?」○●○●○●○● ――それから数時間後。 コルベールはひとり研究室に籠もり、深く静かに考え込んでいた。「これがために……私は生かされてきたのだろうか」 彼は細い鎖に通し、首に下げてローブの中にたくし込んでいた鈍い光を放つ鍵を取り出すと、掌に載せ――じっと見つめた。「そうだ。きっと、このためにこそ、私は今……ここに居る必要があったのだろう」 コルベールは、その小さな鍵を机の引き出しの鍵穴に差し込み、ガチャリと回した。その引き出しの中には、宝石箱があった。彼はそれをそっと取り上げ、蓋を開いた。 その中に納められたものを見ていると、コルベールの脳裏に過去の罪――かつて己が犯してしまった、取り返しのつかぬ過ちがまざまざと蘇り、彼の心を責め苛む。片時も忘れることのない、煉獄の中に消えた村々の光景が――。 ――アングル地方(ダングルテール)。 かつて、トリステイン北西部の海岸沿いに存在していたその地方は、数百年前に浮遊大陸アルビオンから移住してきた人々が開拓したとされていた。かの地に点在していた村々は、歴代のトリステイン国王たちにとって、常に頭痛の種になっていたのだという。 何故なら、この地方の住民には島国アルビオン人特有の独立独歩的な気風があり、事あるごとに王政府に対して反発するからだ。かといって、彼らは王軍をもって制圧するほどの反乱を起こすわけではない。口では文句を言いながらも、飲むべきところはきっちりと飲む。だが、出せる口は出す。つまるところダングルテールの住民たちは、実に要領よくやっていたのである。 ところが、今から20年ほど前。彼らは突如自治政府の設立をぶち挙げ、トリステイン王政府にそれを認めさせようとしたばかりか、実戦教義を信奉する新教徒のための寺院を開いた。それが、かの地の命運を決めた。 ダングルテールはロマリア宗教庁に睨まれ、ブリミル教の総本山から圧力を受けたトリステイン王軍の手によって滅ぼされてしまったのだ。「かの地方に疫病が発生した。病の蔓延を防ぐため、全てを燃やし尽くせ」 ……などという、実に言い訳じみた命令によって。 この殲滅作戦を実行したのが<魔法実験小隊>と呼ばれ、現在では既に消滅している特殊部隊の面々であった。そして、その指揮を執っていたのが、当時まだ軍に所属していた『炎蛇』のコルベールだった。 後日、コルベールは――自分たちの利権を守るため、新教徒の弾圧に執着していた神官たちと、彼らから多額の献金を受けた腐敗した貴族が結託した上で、軍を私的な欲望のために動かしたという真実を知り、激しい罪の意識に囚われることになるのだが――その作戦の最中、彼はひとりの女性から、その品を託された。 今際の際に差し出されたものを、コルベールはただ黙って受け取った。それが持つ鮮血のような輝きが、以後20年もの長きに渡って、己の心を焼き続けることを知らずに。 ――そして、現在に至る。 コルベールは椅子から立ち上がり、研究室の中をぐるりと見回した。外観こそみすぼらしい掘っ立て小屋だが、ここには並の教師には到底入手できない高価な道具や秘薬、そしてコルベールの研究成果ともいうべき模型や書類の束が、処狭しと並べられている。 ここにある物は、彼が先祖伝来の屋敷や財産を売り払ってまで手に入れたものだ。すべては、破壊以外に<火>が生かされるであろう『道』を見出し、それをもって贖罪となさんがために。だが、たとえどんなことがあっても、彼はこの箱の中身だけは絶対に手放さなかった。あえてそれを持ち続けることで、自らの心に重い罰を科していたから。 それらを見つめながら、コルベールは呟いた。「今こそ、ここにあるものたちを生かそう。少しでも、あの日の過ちを償うためにも」○●○●○●○● ――翌日。 ラ・ヴァリエール公爵領から戻ってきたルイズと才人は、荷物の整理も終わらぬうちに学院長室へと呼び出され、そこの主からこう告げられた。「既に、ラ・ヴァリエール公爵には許可を取っておる。その上で……君たちふたりに申し伝えておく。ここにいるコルベール君に、ミス・ヴァリエールが『虚無の担い手』であることを話した」 驚きの声をあげたルイズと才人に、オスマン氏は頷いた。コルベールは、その隣で小さく微笑みながら言った。「サイト君が召喚されてきたとき、私がきみの手に刻まれたルーンをメモしたことを覚えているかい?」「あ、いや、すみません。メモされてたこと自体知りませんでした……」 心底申し訳なさそうな顔をした才人を見て、コルベールは思わず苦笑した。「はは、謝ることなんかじゃない。そもそも、メモを取らせてもらったのは、きみの持つルーンが非常に珍しいものだったからなんだ」「彼の強い好奇心が、サイト君が<ガンダールヴ>であることを突き止めるきっかけとなり、ひいては君たちふたりの『道』を知る、大きな一歩となったのは間違いない。それに、教員の協力者がどうしても必要だったのでな。そのために彼を選んだのじゃよ」「協力者!?」「サイト君については、今まで通りでよいのじゃが……ミス・ヴァリエール。問題は君だ。授業や実技試験などで、君本来の系統を隠し通すためには、どうしても彼の協力が必要なのじゃよ。こればかりは直接わしが動くわけにもいかん。そんなことをしたら、間違いなく怪しまれるからのう」 言われてみればその通りである。それに、コルベールが学院内で手を貸してくれるというのは、ルイズにとって非常に有り難いことだった。 <念力>について調べてくれたのもコルベールだし、何らかの問題が発生したときに、才人たちと仲が良い教師の元へルイズが教えを請いに行くというのは、学院長室へ直接赴くよりも、ずっと自然なことだからだ。 オスマン氏に視線で促され、コルベールは先を引き取った。「公爵閣下から、ミス・ヴァリエールが<念力>を用いることによって<ウインド>をほぼ完璧なまでに再現できるようになったという連絡を受けています。それを念頭に置いた上で……新たな課題に取り組んでもらおうと考えました。もちろん、これはミスタ・タイコーボーにも連絡済みで、既に賛意を得ています」「新たな課題、ですか?」「ええ。今後は<念力>以外のコモン・マジック全ての習得を目指して下さい」 課題の内容を聞いて、ルイズは驚いた。「えっ!? で、でも……他のコモン・マジックって、もともとは四大系統の初歩の初歩の初歩だったんですよね?」 だから<虚無>の自分が唱えた場合、<錬金>を試してみたときと同じように爆発してしまうのではないか。しょんぼりとそう言ったルイズに、コルベールは笑いかけた。「それならば心配ありませんぞ。以前、ミスタ・タイコーボーが話しておられた通り、君の持つ<力>が強すぎるせいで、系統魔法用に作られた『ルーン』という名の『器』が耐えきれずに<爆発>を起こしてしまっていただけなのですから」 ルイズは、思わず叫び声を上げてしまった。「そ、そうよ! コモン・マジックは全部口語で、ルーンを使ってないわ!!」「その通りじゃ。<念力>の練習を積み重ねてきたことによって、だいぶ<力>のコントロールが上手くなってきておる今ならば、他のコモン・マジックを使ったとしても、これまでのように無闇に爆発させるようなことはないじゃろう」 と……それまで黙っていた才人が、ふいに口を開いた。「ん? コントロールができるようになってるんですよね。なら、なんで普通の魔法だと爆発するんですか? それって、おかしいと思うんですけど」 至極もっともというべき才人の質問に答えたのは、コルベールであった。「それについてなのだがね……ミス・ヴァリエール。きみは、これまで授業の場以外で<フレイム・ボール>を使ってみたことはあるかな?」「は、はい、数え切れないくらい。どうやっても爆発しちゃってましたけど……」「その爆発なんだが、きみが<炎球>を当てようとした場所で起こったかね?」 ルイズの脳裏に、フーケの巨大ゴーレムに立ち向うべく、件の魔法を使ったときの思い出がまざまざと蘇った。ゴーレムの肩に乗っていた、黒ずくめの人物を狙ったはずの炎球は、まるっきり見当違いの場所――本塔宝物庫近辺の壁で大爆発を起こし、その結果。なんと、盗賊の侵入を助けることに繋がってしまったのだ。 ふるふると首を振ったルイズに、コルベールはさらに質問を続ける。「その目標のズレは、全ての系統魔法で起こることだったかね? ひょっとして、<エア・カッター>や<ファイア・ボール>そして<土弾(ブレッド)>といった、一部の攻撃魔法に限定されてはいなかったかい?」 ルイズは、過去の練習の日々――ありとあらゆる魔法を爆発させてしまっていた頃のことを思い返してみた。毎日、文字通りぼろぼろになるまで努力していた彼女だからこそ、その時のことを鮮明に覚えていた。「あッ……せ、先生の仰る通りかもしれません! 目の前の小石を<錬金>をしようとしたのに、別の物が爆発したなんてこと、ありませんでしたし」 少女の答えを受け、実に満足げな笑みを浮かべたオスマン氏は言った。「では、それを踏まえた上で……ミス・ヴァリエール。改めて君に問おう」「な、何でしょうか」「コルベール君が挙げた3つの魔法には、本来の効果とは別に、とある『付加効果』がついておる。それがなんだか、君にはわかるかの?」「は……はいッ。<火球>や<土弾>のような『目標』に向けて放つ攻撃魔法には、目指す対象に当てやすくするような補正効果がついていると、授業で習いました」「そのせいなのじゃよ」「えっ?」「特定の魔法のみが極端にズレて発動していたのは、ルーンに込められた補正機能が暴走した結果、逆に狙った場所での発動を妨げておったからなのじゃ」 オスマンの言葉を聞いて、才人が叫んだ。「あー、わかった! 魔法自体にいろんな機能がついてるから、ちょっとでも<力>のコントロールミスると、簡単に暴走しちまうってことか!!」 スイッチがたくさんついてる機械なんかで、よくあることだよな……うっかり同時押ししちゃったりとか。などと、うんうんと納得げに頷く才人と、まだよく理解できていないルイズ。彼女にわかりやすいよう、今度はコルベールが噛み砕いて説明することにした。「そうだな。例えば、ルーンをひとつの『器』だとして、その中にいくつもの『仕切り枠』がついていると考えてみてくれたまえ」 それを聞いた才人は、ふいに幼稚園に通っていた頃、母親から持たされていた弁当箱を思い出した。蓋に当時流行ってたヒーローアニメの主人公が描かれ、中にはいくつもの間仕切りがついており、ふりかけをまぶしたご飯と、おかずが詰め込まれていた。「その『枠』のひとつひとつに、丁寧に、必要な分量の<精神力>を正しく注ぎ込むことで魔法が発動するわけなのだが……水差しではなく、大きなタライを使ってそれを行おうとした場合、相当気を遣わなければ、必ずどこかの『仕切り』から溢れ出てしまう。どうかね? これで理解できるかな?」「ええと……<フレイム・ボール>のルーンには『火の玉をつくる』『飛ばす』『目標に当たるようにする』ための仕切りが、全部別々についていて……ひとつでも<精神力>を注ぐのに失敗すると、溢れて爆発するということでいいんでしょうか?」「そういうことです! こういった『付加効果』は、一部の攻撃魔法に留まらず、ほとんど全ての系統魔法に、元からついているものなんだ。よって、ただでさえ大きな注ぎ口を持つきみが、系統魔法を扱うというのは――相当に緻密な操作を必要とする、非常に難しいことだと言えるだろう」 非常に難しいこと。それは、つまり。「今よりもっとたくさん練習すれば……わたしでも、普通に系統魔法が使えるようになるってことですか!?」 己の系統に目覚めた後、勧められるられるままに行った<錬金>に失敗したことで、ほとんど諦めかけていた『普通のメイジへの道』が開かれたと思ったルイズは、きらきらと瞳を輝かせた。だが、目の前の教師たちから戻ってきた答えは、そう甘くはなかった。「いや、残念ながらそう簡単にはいかんじゃろう」「どうしてですか!?」 悲鳴混じりの声を上げながら、机越しにぐっと詰め寄ってきたルイズに、オスマン氏が渋い顔をして答える。「よく考えてみたまえ。魔法を唱えるたびに、全ての『仕切り枠』の中に、一寸の狂いなく<精神力>を注ぎ込むなどという離れ業は、相当の達人でもない限り難しいじゃろう」「じゃあ、やっぱりわたしは……」 どう頑張っても『普通』にはなれないのだ。先程までとは一転。まるで、処刑宣告を受けた囚人のような表情で、ルイズは呟いた。だが、そんな彼女にコルベールが言った。「待ちたまえ。学院長先生は、あくまで『難しい』と仰っているだけですぞ。きみが目指す系統魔法への『道』への足がかりとして、コモン・マジックの習得があるのです」「それって、どういうことですか?」「最初にきみが言った通り、現在コモンとされている魔法の多くは『系統魔法の初歩の初歩の初歩』だった。そして、初歩の初歩の初歩があるということは――『初歩の初歩』が存在するということだ。たとえば<発火>。これは<光源>の上位にあたる」 ルイズの目に、再び狂おしいまでの希望が宿った。ずっと『あたりまえ』ができなかった彼女にとって、系統魔法を正しく使えるようになるということは、翼に怪我をしてしまった鳥が、仲間と同じように空を飛べるようになりたいと願うようなものなのだ。 そんなルイズに、オスマン氏が笑顔で告げた。「そう、まずは『仕切り枠』が全くないコモンを、次に『枠』の数が極端に少ない初歩の初歩の系統魔法を身につけるための練習をするのじゃ。その上で……」 オスマン氏の視線を受けて、コルベールはすっと前へ出ると、ルイズに一冊の古びたノートを差し出した。「これを見てみたまえ」 言われるままにノートを開いたルイズは、そこにびっしりと書き込まれたものを見て驚いた。それは、今まで彼女が見たことのない法則で記された、ルーンの羅列であった。「先生、これは……?」「それはだね……私が、若い時分に編み上げた『オリジナル・スペル』と、その研究過程について纏めたものなんだ」 コルベールの言葉を聞いた途端、ルイズはその場で固まった。才人のほうはというと「魔法って、自分で自由に作れるものなんだ!」などと興奮していた。 オリジナル・スペル。それは『始祖』ブリミルが後世に残した魔法に手を加えた、特殊なスペルのことである。時の経過により、系統魔法から汎用へ移動した一部のコモン・マジックも、ある意味オリジナル・スペルの一種といえよう。 ただし、これは『始祖』に対する冒涜だとして、現在では禁忌とされている研究だ。バレたら当然『異端』扱いされる可能性が高いのだが、裏で密かに行っているメイジも多数存在するという噂を、ルイズは長姉から聞いたことがあった。 ……どうやらコルベールは、そのうちのひとりだったらしい。「以前、私の<炎の蛇>を見せたことがあったね?」「は、はい」「あれも、そのうちのひとつでね。『対象に食らい付き、燃やし尽くすまで消えない』という効果を付与した特殊なスペルなんだ」「ず、ずいぶんえぐい魔法だったんすね……なんか、先生らしくないな」「……そうか。私らしくない、か」「ハイ。正直びっくりしました」「あ、わたしもです……」 コルベールの瞳が微かに陰ったのを、若いふたりは目に留めることができなかった。「まあ、つまりだね。実は『魔法語』というものは、組み替えを行うことで、効果を追加したり――省いたりすることができるものなのだよ。そう……例の『間仕切り』を、あえて取り外すことによって、ミス・ヴァリエールが上位の系統魔法を扱うための『道』を切り開くことができるのではないかと、私は考えたのだ」「そそ、それで、この、ノートを……?」「その通りだ。残念ながら、私は『省く』方向の研究はほとんど行っていないし、あくまで自分に合うよう編んだに過ぎない。だから、きみがその『道』を選ぶというのなら、自分の手で、適合するルーンの組み合わせを探し出さなければならないだろう。それは、間違いなく遠く険しい旅路になるだろうが――できうる限りの協力はしますぞ」 長い顎髭をしごきながら、オスマンが部下の言葉に追従する。「ミス・ヴァリエール。系統についてもそうだが……もしかすると『担い手』たる君は『始祖』ブリミルが歩まれたものと、似た『道』を征くことになるのかもしれん」「始祖が歩んだ『道』ですか……?」「そうじゃ。『始祖』ブリミルは、多くのメイジたちが使えるような魔法語の組み合わせを数多く考え出し、後世に残してくださった。いつの日か、君が編み出した『メイジであれば誰にでも使える』新たな魔法が教科書に載り、後に続く者たちに受け継がれてゆくとしたら――それは、素晴らしく意義のあることだとは思わんかね?」 コルベールから受け取ったノートを押し抱き、ルイズはコクリと頷いた。「とはいえ、全てはコモン・マジックの習得を完全に終えてからですぞ。何事も……」「基本と積み重ねが大切……ですよね!」 ルイズの言葉に、ふたりの教師はにっこりと頷いた。「それとだ。実は、サイト君にも渡す物があるんだ。もう見てくれたかもしれないが」「すみません、コルベール先生。俺、それ見てないと思います」「おや、そうかね。ならば、そこの窓から外を見てみたまえ」 言われるままに外を見遣った才人は、その先に在ったものに驚いた。 魔法学院から少し離れた場所にある草原。そこに、夏休み前にはなかった石造りの納屋が建っている。そして、ようやく才人は気が付いた。そうだ、あそこにあったものは――!「先生! あれ、もしかしてゼロ戦の!!」「そうだ。あの飛行機械の格納庫だよ。いくら<固定化>がかけられているとはいえ、あのような貴重な宝物を、雨ざらしにしておいていいわけがないからね。だから、ヴァリエール家での歓待に入る前から、建造するための準備を進めておいたんだ」 笑顔でそう言ったコルベールに、才人は全力で頭を下げた。「ありがとうございます! 俺、すっかりあれのこと忘れてて……そのまま放っておいたら、壊れてたかもしれないのに」「ん、まあ、構造を見るために少し……ゴホン。いや、喜んでもらえたようで何よりだよ。鍵を渡しておくから、あとで問題がないかどうか、確かめておきたまえ」「はいっ!」「それでだね、サイト君。実は……ひとつ、頼みがあるのだが」「俺にできることなら、なんでもします! 先生には、あんな立派な格納庫建ててもらったんですから!!」 勢い込んで言う才人に、コルベールは少し躊躇うような……それでいて照れくさそうな顔をして言った。「今度だね、あの飛行機械の操作を教えてはもらえないだろうか。是非一度、魔法を一切使わぬ機械で、自由に空を飛んでみたいんだ。そうすれば、もっとあの機械の仕組みが理解できると思うのだよ」 <ガンダールヴ>のルーンの補助を受ければ、操作方法は自動的に頭の中へと流れ込んでくる。現在、それらの全てを覚えているわけではないが――何度か飛行すれば、コルベールに知識の伝授をすることができるようになるかもしれない。そう考えた才人は、改めてコルベールに格納庫建造に関する礼を述べると、言った。「ひとに操縦を教えるためには、俺自身がもっと飛び慣れてからじゃないと難しいと思うんです。それには……」「例の『がそりん』が必要なんだろう? それなら、樽10本分ほど用意して、危険がない場所に保管してありますぞ」「うおッ! さすが先生、仕事が早いぜ!!」「他には何か無いかね?」「はい! できれば、俺と一緒に先生も飛んだほうがいいと思うんです。そうすれば、お互いに慣れるのも早くなるはずです……操縦席が狭いのは、我慢するってことで」「そんなことでいいのかね!? むしろ、こっちからお願いしたいくらいだよ!」「じゃあ、決まりですね?」「うん、決まりだ!」 ……こうして。生徒と、その従者と、彼らの教師。強い絆で結ばれた『トライアングル』が形成された。 ――ふたりが意気揚々と退出していった後。「あの研究が、まさかこんなところで生きてくるとは。思いもよりませんでした」 コルベールが、ぽつりと呟くと、オスマン氏が、それに答えた。「君たちの<部隊>が、当時の王立研究所の依頼で、様々な『実験』を繰り返していたというのは、王政府筋でもごく一部の者しか知らぬ秘事じゃったからな。これまで明かせなかったのも無理はない」「……学院長は、ご存じだったんですね」「むろんじゃ。だからこそ、君を失うのが惜しかった。オリジナル・スペルを自力で、しかも自分に合うように編み上げることに成功したじゃと! それがどんなに難しいことなのか、君にもわかっておるだろう!? どれだけ多くの研究者たちが挑戦し、夢破れていったことか……」 オスマン氏は、溜め息をついた。「長年、魔法の研究とメイジの育成に携わってきたわしだからこそ理解できる。あれは間違いなく『始祖』の領域に踏み込む『道』じゃ。そしてあのノートは、その道標ともいうべき貴重な書物だ。あれがなければ、ミス・ヴァリエールは深淵の闇の中、手探りで行き先を見出さねばならなかったじゃろう。君が手渡したものは、彼女の往く道筋を照らす、希望の灯火なのだ」 しばしの静寂が室内を包み込んだ。その後オスマン氏は、遠く窓の外を見遣りながら、頼もしき協力者へ向けて、言葉を投げた。「君が、ここに居てくれてよかった」「それは私の台詞です、オールド・オスマン。もしもあのとき、あなたが現れてくれなければ――」「ふむ……若者たちの新たな門出を見送ったばかりじゃというのに、何やら辛気くさい雰囲気になってきおったの。どうじゃ? これから景気づけに、街へ一杯やりに行くというのは」「……喜んで、お供します」○●○●○●○● ――さらにその翌日。抜けるような青空の下。 トリステイン魔法学院の中庭で、複数の少年少女たちが地面に膝をつき、蹲っていた。仰向け、或いはうつ伏せになって倒れている者も存在する。 そんな中、中央付近で膝をついていたひとりの少女が、ゆっくりと立ち上がると。周囲をぐるりと見渡して、言った。「ちょ、ちょっと失敗したみたいね」 彼女の言葉を聞いた途端。倒れていた者たちが一斉に起き上がり、口々に叫んだ。「ちょっとどころじゃねーだろ! なんなんだよ、アレ!!」「これは……予測しておいてしかるべきだったな」「ま、まあ、爆発しなかっただけ、マシだけどね……」「うぬぬぬぬ、わしはモロに喰らってしまった……まだ頭がくらくらする」 ――朝食を済ませ、お互いに夏休みをどう過ごしたのか等の近況を話し合った後。 早速みんなの前で<光源>の魔法を初お目見えさせるべく張り切ったルイズであったのだが、どうやらそれがまずかったらしく。彼女が魔法を唱え終えた瞬間――とんでもなく強烈な<光>が出現し、立ち会っていた全員の眼球を直撃したのである。 ……彼ら(本人含む)が、その場で悶絶したのは言うまでもない。 ようやく『衝撃』から立ち直ったタバサが、眼鏡を直しながらポツリと言った。「コルベール先生が立ち会っていなくて良かった」「それは、反射する的な意味でか?」「タバサ。あなたって、たまに眉ひとつ動かさずにとんでもないこと言うわよね」 未だちかちかする目を押さえながら、才人が言った。「予告なしで、あんなデカいフラッシュ焚くとか、凶悪すぎんだろ……」 と、ここで聞き慣れない単語を耳にしたレイナールが才人に聞いた。「フラッシュって何だい?」「あ、ああ。さっきみたいな強烈な光のことだよ。ん? もしかして『閃光弾』とか、あの光みたいな、目くらましに使う魔法無いのか?」「トリステイン軍はどうだか知らないけど、ゲルマニアにはあるわよ。<黄燐>っていう火の秘薬と<着火>の魔法を組み合わせて、敵の視界と耳を奪うために使うの」「ああ、それならトリステインにもあるわ。火をつけると、光と爆音が生じる『秘薬』のことよね? 量は少ないけど、魔法学院の実験室にも置いてあるはずよ」 まだ視力が完全に戻らないのだろう、目をごしごしと擦っているキュルケに、モンモランシーが言った。「黄燐って、こっちにもあるのか……あれって確か、ものすごい毒薬だろ。なのに剥き出しで使うとか、めちゃくちゃ危なくねーか!?」「ええ。だから、取り扱いには充分注意しなきゃいけないわ」「ファンタジーやべえ……」 そのまま、ハルケギニアの一般的な軍装や秘薬についての話題で盛り上がりそうになったのだが、しかし。レイナールが次に放った一言によって、その空気が一変した。「いや、それにしてもすごい光だったね。あそこまで行くと、一種の兵器だな」 その場にいた全員が、目を大きく見開いた。「確かに、使い方次第では強力な武器になるわね」「いやはや。失敗は成功の母とは言うものの……これは、その最たる例だのう」「ひょっとして、あたしたち……例の『防御壁』みたいな、新魔法開発の瞬間に立ち会っちゃった!?」 キュルケが喜びの声を上げると。「興味深い」 <光源>の魔法に、そんな使い道があるとは思わなかったと、俄然興味を示し始めたタバサ。他の生徒たちも、目をきらきらさせながらルイズの側へ駆け寄っていく。「どうやって、今の光を出したの?」「えっ? えと、ちょっと<力>を入れすぎただけだと思うんだけど」「そっか! わざと『込め』ればいいのね……えいッ!!」 もともと火系統の使い手で、かつ<力>のコントロールに関する修行を進めていたキュルケは、すぐさまこの<閃光>の再現に成功した。「うお、まぶしッ!」「目が、目がァ~!!」「だから、予告なしでやるなっての!!」「いや、ここは杖が取り出された段階で目を半分閉じておくべきであろう」「いやまあ、そうなんだけどさ……」「うーん。でも、これ……かなりの<精神力>が必要ね。今ので<フレイム・ボール>3発分くらい持っていかれたわ」「うわ、それは結構大きいね……ぼくにもできなくはなさそうなんだけど、連続で試すとなると、さすがに厳しいかな」「それならば、本塔の屋上で『瞑想』しつつ交代で練習するというのはどうだ?」「あ、それいいかも!」「賛成!」「わたしも試してみたい」「あたしも!」 ――その日。トリステイン魔法学院の上空で、謎の発光現象が多数確認されたのだが、その正体を知る者は、ごく一握りの者だけであった。