――東薔薇花壇騎士団団長バッソ・カステルモールが、憤然として王女イザベラの部屋を後にした、ちょうどそのころ。騎士団の詰め所として指定された宿屋の片隅で、ひとりの老騎士が苦笑していた。 彼の名は、アルヌルフ。東薔薇花壇警護騎士団の副団長を務める人物だ。団長であるカステルモールとは、親子ほども年の離れているこの初老の騎士は、長年この騎士団に所属し、歴代団長の補佐を行ってきた。 彼がこの歳になるまで騎士団長になれなかった理由は、3つある。 ひとつめは、彼がメイジとしても、騎士としても平均点以上になれなかったことだ。彼にあるのは、長年の積み重ねによる経験と、知識だけであった。 ふたつめは、家格が低かったせいだ。もしも、彼の実家が男爵程度の位を持ってさえいれば――既に団長のひとりとして、いずこかの騎士団を任されていたかもしれない。 最後の理由は、彼の性格によるものだ。アルヌルフは頭の回転速度はそこそこではあるものの、慎重に慎重を重ね過ぎ、素早い決断ができぬ男であった。なればこそ、自分はこれまで積み重ねてきた経験を生かし、補佐役に徹したほうがよいと考えていた。アルヌルフは、己の性質と能力について、よく弁えていたのである。よって、彼は副団長という現在の地位に充分満足しており、出世を望んでいないのだった。 アルヌルフは『東薔薇花壇警護騎士団の執事長』などと周りから揶揄されても、逆に喜んでそれを受け入れてしまう、懐の深さを持っていた。そんな彼の人柄ゆえに、歴代の団長たちから寄せられた信頼は厚く、それは現団長カステルモールも例外ではない。 そのため、カステルモールはそれがさも当たり前であるかのように、新たに増えた『異邦人』の面倒を見るよう、彼に命じた。新人の教育も、アルヌルフにとっては毎度お馴染みの仕事であった。 そんな彼が、思わず苦笑いをしてしまった原因たる存在が、現在彼をはじめとする東薔薇花壇騎士団の団員たちが居る場所――宿屋の地下に併設された居酒屋の、横長のテーブル中央付近に腰掛け、大勢の騎士たちと一緒に笑い合っている少年である。 ――使い魔召喚の儀で起きた事故によって、東方から呼び寄せられた『異邦人』。 彼ら東薔薇花壇騎士団に属する者たちは、件の少年をそう呼んでいた。敬愛する大公殿下の遺児・シャルロット姫殿下が、たった一度だけ犯してしまった失敗の結果であると。 だが、そのたった一度のミスが、大公姫を苦境に陥れた。 主君に忠誠を誓う貴族たるもの、仕えるべきお方の小さな失敗に心を揺るがすことなど、あるわけがない。そう信じていた東薔薇花壇警護騎士団の面々は、完全に裏切られた。その日まで熱心にシャルル殿下とシャルロット姫を支持していた者たちが、あっさりと手のひらを返し――現王家に永遠の忠誠を、などと言い始めたのだ。そして、そんな貴族たちの離反行動は、未だ続いている。 かつて『シャルル派』と呼ばれたガリア国内最大規模の派閥は、現王家によって行われた激しい粛正と、この失敗により、今や見る影もない程に縮小していた。かの『異邦人』は、ただそこに現れただけで、残っていた貴重な兵力を、大幅に削ってしまったのだ。 本来であれば、憎むべき対象は変節した貴族たちだ。しかし、人間の心とは複雑なもの。そう簡単に割り切れるものではない。結果、全く罪のない子供――つまり『異邦人』に恨みが向いてしまうのではないかと危惧していたアルヌルフであったが、幸いなことに、それは全くの杞憂に終わった。 いや、合流した当初こそ、騎士団内にぎくしゃくとした空気が醸し出されていたのは確かだ。それを霧散させた最大の功労者は、宿の地下にあった、この居酒屋である。 街道沿いにある宿屋で出される食事など、普通であればさほど期待できるものではない。ところが、ここで出された料理と酒はどれもこれも及第点以上だった。おまけに、地元で採れた川魚やキノコ、芋などの材料がふんだんに盛り込まれた夕食は、王都リュティスではまずお目にかかれない、珍しいものばかりであった。 美味いつまみと酒があれば、自然と心が広くなる。宮廷内部で日がな一日机に向かい、そうでない時は、どろどろとした心理戦を繰り広げ続けている腐敗した役人どもならばまだしも、城門の外を活躍の場としている騎士団員であれば、基本的にその性格はさっぱりとしたものだ。 問題の子供自身も、これまで流されてきた噂とは異なり――厚顔無恥な浮浪者などではなかった。歳のころは15~6程度であろうその少年は、食事前の簡単な自己紹介のあと、全員に向かって礼儀正しく頭を下げたのだ。何も知らない不作法者ですが、皆さま、どうかよろしくお願いします……と。 どこか初々しいその様子は、騎士団の者たちから好意的に受け入れられた。自分たちの従士時代――正式に花壇騎士として叙任を受ける前の、右も左もわからぬ見習いであった頃を思い出したのであろう彼らは、やれこのワインを飲んでみろだの、こっちの野菜とキノコを詰めた芋が美味いだのと、競い合うかのように少年の世話を焼き始めた。 少年のほうも、それが大層嬉しかったらしく、まるでミルク入りの大皿を与えられた子犬のように、勧められるまま酒と料理をたいらげていった。腹を壊してしまうため、肉や魚はどうしても食べられないのだと断っていたが、その言葉すらも、「それならば、別のものをもっとたくさん食わねば大きくなれぬぞ」「お前は、こう言ってはなんだが小さいからなあ」 と、料理皿の枚数を増やされる等、一種のからかいとなって昇華された。 どうやらうまく溶け込んでくれたようだな、心配は無用であった。とはいえ、甘やかしすぎてはいけない。念のため、釘を刺しておかねば。そう考え、行動を起こそうとアルヌルフが席を立ったちょうどその時、先程までイザベラ王女の護衛任務に就いていた騎士団長カステルモールが居酒屋へ顔を出した。そして、彼ら東薔薇花壇警護騎士団に命じられた任務を静かに告げた。「これより、日の出まで宿場町外周の警邏を行う。ふたりひと組となって行動せよ」 アルヌルフ副団長は、迷わず新入りの少年と組んで任務に就くことを選んだ。○●○●○●○● 雲ひとつない晴れ渡った夜空の上で、双月が静かに輝いている。その淡い光の中を、アルヌルフ副団長と新たに騎士団に加わった少年――太公望は、馬に騎乗して闊歩していた。 月明かりに照らされた周囲は明るく、たいまつや<光源>の魔法を使うまでもなく、視界良好であった。そんな中で、アルヌルフは感心していた。「随分と様になっているではないか。きみは、乗馬が得意なのかね?」「はい。幼い頃より、父に鍛えられておりましたので」 流浪の民だと噂で聞いていたが、なんと父親から馬術を習っていたとは。その言葉を裏付けるように、少年は今日初めて騎乗した軍用馬を、見事なまでに乗りこなしている。ひょっとすると、彼は東方ではそれなりに家柄のよい、貴族の子弟なのではなかろうか。元来心配性であったアルヌルフは、念のため確認してみることにした。「そうか。では、今頃家族は心配しているのではないかね? その……きみが、突然いなくなってしまったわけだから」「いえ、それはありません」「何故だね?」「故郷は、既に妖魔の軍勢によって滅ぼされているのです。助かったのは……偶然遠くへ出かけていた、わたくしだけでした」 アルヌルフは、絶句した。自分と轡を並べて進む少年の顔には、諦観ともいうべき色が浮かんでいる。おそらく、彼の発した言葉に嘘はないのだろう。だいたい、そんな偽りを並べ立てたとして、いったい彼に何の得があるというのだ。「立ち入ったことを聞いて、悪かった」「いえ、お気になさらないでください副団長殿」 屈託のない笑顔を見せた後、まるで何事もなかったかのように常歩で馬を進める少年を、アルヌルフは横目で観察した。おろしたての隊服が、彼にはいかにも窮屈そうだ。しかし、少年の腰に下げられている長さ70サントほどの使い古された杖が、老騎士の目を引いた。 金属製――おそらく鉄製であろう杖の先端には、丸い宝玉が填められている。ガリアではまず見かけないタイプの杖だ。頑丈そうな造りではあるが、正直なところ軍杖として相応しい形状とは言い難い。だが、目を凝らしてその杖の全体をよく見たとき――初老の騎士は、思わず息を飲んだ。何故ならば、そこには魔法や武器によってつけられたとおぼしき傷が、多数刻まれていたからだ。 アルヌルフは、ごく少量ながら東方諸国の茶葉や交易品を取り扱う、王城出入りの大商人から、ロバ・アル・カリイエには、エルフたちと交戦している国があるという話を聞いたことがあった。かの地には、ハルケギニアと比べ、妖魔や亜人が数多く存在するという噂も耳にしていた。 そんな東方から召喚されて来たこの少年は、見かけによらず、相当な修羅場を潜ってきているのではなかろうか。杖を見れば、持ち主の力量がある程度判断できる。アルヌルフが長年積み重ねてきた経験と、それによって裏打ちされた勘が、この少年は断じて非力な子供などではないと告げていた。 と……ふいに、件の少年が馬を止めた。「どうかしたのかね?」「いや、奥に見える建物で――部屋のひとつに、明かりがついたのが気になりまして」 これが、もっと早い時刻であったなら――アルヌルフは特に気にせず、流してしまったかもしれない。だが、現在時刻は既に深夜2時を回っている。使用人が朝の支度をするために起き出すには早すぎ、なおかつ宵っ張りの貴族が就寝前の読書をするにしては、遅すぎる時間帯だ。よって、彼は念のため確かめることにした。「それは、どこだね?」 少年が指差す先には、この宿場町でいちばんの宿と、唯一明かりのついた窓があった。アルヌルフは、急いで懐に入れてあった宿場町の割り振り一覧を確認し――顔色を変えた。彼は、その部屋に宿泊している人物がいったい誰であるのか、正確に掴んでいた。東薔薇花壇警護騎士団の団長・カステルモールの口から、信頼のおける副団長たる彼にだけは明かされていたのだ。 ここ最近増えてきた、新教徒やその他勢力と思われる者たちによる襲撃事件。それらの脅威があってなお、やむにやまれぬ事情から、中止できない地方都市への行幸。用心のために立てられた、イザベラ王女の影武者――その役目を引き受けているのは、自分たちが敬愛するシャルル王子が遺した、シャルロット姫殿下。 彼は、その名を口にするほどの愚か者ではなかった。しかし、呟きは漏れてしまった。「あそこは、姫殿下の寝室……!」 ――風は、本来目には見えないものだ。しかし、アルヌルフはそのとき確かに目撃した。双月の下、濃紺色の軌跡と共に……突風が吹き抜けてゆくさまを。○●○●○●○● ――太公望が、宿場町の外から怪しい明かりを発見する、ほんの少し前。 夜空に並んだ双月が、王女イザベラの影武者たるタバサに割り当てられた客室の中を照らし、窓枠の影を床に描いたのとほぼ同刻。がらがらと台車か何かを押すような音が、彼女の部屋に向かって近付いてくると――扉の前で、ぴたりと止まった。 夢と現実の狭間を揺れ動いていたタバサは、その気配で完全に目を覚まし、急いで身を起こすと、眼鏡をかけ、手元に杖を引き寄せた。ついで、燭台に立てられた蝋燭に火を灯す。月明かりと蝋燭の炎によって、部屋は淡い光に包まれた。 ベッドの横に設置された小机の上に乗っている時計は、現在の時刻が深夜2時過ぎであることを示している。こんな時間に王女の部屋を訪れるとは、何者だろう? 当然のことながら、タバサは警戒した。 その直後。扉が開かれ、若い娘が現れた。手押し車を押すその横顔に、タバサは見覚えがあった。確か、一行に付き従っていた、お付きの侍女のひとりだ。 タバサがじっと見つめているにも関わらず、その侍女はまるで気にしていないといった様子で、手押し車に乗せられていたティーポットを持ち上げ、お茶を淹れ始めた。もちろん、タバサは飲み物を頼んだりなどはしていない。 そして侍女は、「どうぞ」 と、カップに注がれたお茶を差し出した。タバサはそれを受け取らず、まっすぐに侍女の目を見、それから疑問に思った。なんだろう……この昏い瞳の色は。わたしは、どこかで見たような記憶がある。 侍女は、無言を貫くタバサへ、困ったような声で言った。「どうぞ、受け取ってください」「わたしは、頼んでいない」「お飲みになったほうがよろしいですよ。とても良く眠れますから」 にっこりと微笑みながら、侍女は告げた。「どうか召し上がってください。高貴なお方の末期の顔を、苦痛で歪ませるというのは……私の主義に反しますので」 タバサは弾かれたように飛び退ると、早口で呪文を唱えた。「ラナ・デル・ウィンデ」 <風の槌>が完成した。タバサの周囲にあった空気が急激に膨張すると、巨大な塊となって侍女に扮した暗殺者に襲いかかる。しかし、女は身体を素早く回転させると、あっさりと魔法を避けた。どうやら彼女は、並の刺客ではなさそうだ。 続けさまにタバサは攻撃呪文<風の刃>を解放した。しかし、幾重にも放った見えない刃を、暗殺者とおぼしき女は、なんなく躱していく。おそるべき体術の使い手であった。「おやおや。イザベラさまは、かなりの使い手であられるようですね。まったく、噂など、当てにならないものです」 タバサは、杖を構え直した。どうやら相手は、イザベラの暗殺を請け負っているらしい。すっかり自分をイザベラだと思い込んでいる様子だ。「いったい、誰の差し金?」「さぁ? 私は、あなたさまを『永遠に眠らせて差し上げろ』という依頼しか、受けておりませんので。どうか、大人しくお休みになってはいただけませんでしょうか」 そう言うと、侍女は馬鹿丁寧な仕草で一礼した。あまりにも堂々としたその様子は、彼女の自信の表れであろう。タバサは無表情を装いつつも、その内心では、少しずつ焦りを覚えはじめていた。 建物の内部は、風メイジにとって、非常に相性の悪い地形だ。何故なら、外とは異なり、操作できる空気の最大量に限りがあるからだ。たとえ全ての窓が開いていたとしても、壁やその他の障害物によって、風の流れを妨害されてしまうことに変わりはない。「ふぅ。どうあっても眠っていただけないとあらば、仕方がありません」 まるで聞き分けのない子供をあやすような口調で、刺客の女は呟くと――すいと左手を突き出した。「イル・ウォータル・スレイプ・クラウディ」 その詠唱を聞いた瞬間、タバサはぎゅっと唇を噛みしめた。呪文が発するであろう効果に耐えるためだ。 タバサが予測した通り、青白い霧が彼女の頭を覆った。<眠りの雲>の呪文である。猛烈な眠気がタバサに襲いかかってきたが、しかし彼女は耐えきった。メイジの最上位『スクウェア』クラスである彼女は、もともと<抵抗>能力が高い。それに加え、痛みという負荷を付け加えていたため、なんとかやり過ごすことができた。「なかなか聞き分けのよろしくないおかたですね、イザベラさまは。この点は噂通り」 余裕の笑みを浮かべる刺客を、タバサはぐっと睨み付けた。しかし彼女の心は、驚愕のあまり激しく震えていた。この暗殺者は、間違いなく系統魔法を使ってきた。しかも……!「杖を持たずに、いったいどうやって魔法を使っているのか。それが不思議でならないといったお顔ですね」 微笑みながら近寄ってくる暗殺者に、タバサは一瞬怯んでしまった。そこへ、再び呪文が飛んできた。今度は、タバサが最も得意とする呪文<氷の矢>だ。なんとかぎりぎりで身を翻したが、どうしても躱しきれなかった数本が、彼女の身体を傷付けた。タバサの腕と足から、つうっ……と、幾筋もの血が滴り落ちる。「動かないほうがよろしいですよ。苦しみが長く続くことになりますから」 次に来る呪文は何だろう? タバサは、必死で頭を高速回転させた。ぴりぴりと肌を刺す『感覚』が痛い。空気の全てが張り詰めている。そしてこの室内は、ほぼ乾燥しきっているようだ。 この状態では、もう水分を凝固させる性質を持つ攻撃魔法<氷の矢><氷の槍>などは使えないだろう。そう判断したタバサは、小さく呪文を唱え――自分の周囲に風の流れを作り出した。こうしておけば、たとえ<風の刃>や<風の針>が飛んできたとしても、即座に軌道を逸らすことができる。<風の槍>なら、持っているこの杖で、ある程度対応可能だ。 そしてほぼ予測通り、タバサに向かって飛んできたのは<風の刃>であった。しかし、暗殺者が次に唱えた魔法は、そういった類のものではなかった。「……ッ!!」 侍女が唱えたのは、なんと<風の縄>。目標を拘束する風魔法であった。<風の刃>は完全に囮。それを放つことでタバサの周囲にある空気の流れを変化させ、逆に利用したのだ。全身を縛り上げられ、口をも封じられてしまったタバサは、もはや声を出すことすらできなくなってしまった。「イザベラさまは、どうやらご自身の腕に絶対の自信があったようですが……ここは、大声で助けを呼ぶべきでしたね。私は<サイレント>を展開していなかったのですから」 タバサは呻いた。確かに救援を求めるべき状況だった。わたしは、相手を心のどこかで侮っていたのかもしれない。魔法の使えない平民くらい、ひとりで対応できると。だから、詠唱を聞いて焦ってしまったのだと、心の底から悔やんだ。しかし、全てが遅きに失した。 完全に無力化された少女の胸の内は、目前に迫る死という名の極限の恐怖によって、凍て付いた。暴れようにも、力が入らぬように縛られているせいで、まったく身体が動かない。助けも呼べない、口が開かない、悲鳴を上げることすら叶わない。 床に転がっているタバサの姿を、何の感情も映さぬ瞳で見下ろした暗殺者は、右手袖口から滑らせるようにして1本の短剣を取り出すと、固く握り締めた。「では、おやすみなさいませ」 暗殺者が膝をつき、タバサの胸に短剣を振り下ろそうとした――その瞬間。 ガシャン! という激しい音と共に窓ガラスが割れ、何者かが飛び込んできた。「うぐっ!」 突入してきた者の手によって、暗殺者は部屋の反対側まで吹き飛ばされ、小さく悲鳴を上げた。それと同時に、タバサの拘束が解かれる。<風の縄>の効果が消えたのだ。「すまぬ、遅くなった!」 外から突入してきたのは、太公望であった。アルヌルフの言葉を聞いた時点で、瞬時にタバサの危機を察した彼は「先に行きます」という断りをいれた直後<高速飛行>で部屋までまっすぐに駆けつけてきたのだ。 そして、床に倒れているタバサと、それを見下ろす女を見た太公望は、迷わず部屋へ飛び込んだ――得意の蹴り技で。そう、暗殺者は手ではなく足で吹き飛ばされたのだ。なお、この際「太公望キーック!」などという台詞が一緒についてきたのだが、幸か不幸か、誰もそれを聞いてはいなかった。 太公望は、急いでタバサに駆け寄ると、周囲を警戒しながらそっと彼女を抱き抱え、傷の具合を確かめた。「う……タイコー……ボー……?」 全て急所は外れている。命に別状はないようだが、出血が多い。 「もう大丈夫だ、すぐに手当てを……」 と、バタンと勢いよく扉が開き、どやどやと警備の騎士たちが大勢なだれ込んできた。彼らはカステルモール率いる東薔薇花壇騎士団ではなく、下の階に詰めていた西百合花壇騎士団の者たちであった。「姫殿下!」「イザベラさま!」 そして、彼らは見た。夜着を血で濡らしている姫君と、割れた窓ガラス、ぐったりとした彼女を不敬にも抱きかかえている、不審な騎士の姿を。「おのれ、貴様! 姫殿下に何をする!」「姫殿下を離せ!!」 ……部屋の反対側に倒れていた暗殺者は、ちょうど彼らの死角になっていたのだった。 太公望は、彼としては珍しく、非常に焦った。この状況は、あきらかにまずい。よって、早急に誤解を解かねばならぬ。そう判断した彼は、声を上げた。「待て! 話せばわかる!!」「問答無用!」 危うく、某国の首相官邸内で起こったようなやりとりが発生しかけた、その直前。怒り狂う騎士たちを止めたのは、タバサのか細い声であった。「彼は、わたしを助けてくれた騎士。本物の刺客は、そこに」 タバサ――現在はイザベラの顔をした彼女が指差す先には、侍女の格好をした女が倒れていた。それを見た騎士たちは、ぐるりと刺客を取り囲んだ。いっぽう、騎士たちの中にいた水のメイジたちは、一斉にタバサと太公望の元へと駆け寄ってきた。「姫殿下! なんと酷いお怪我を……」「すぐに治療致します、今少しのご辛抱を」 即座に<治療>の魔法が唱えられ、タバサの身体につけられた傷は癒えていった。「ありがとう」 いつもは短気で気まぐれな王女イザベラから、ふいにかけられた優しい言葉に、騎士たちはしばし目を白黒させていたが、姫君が無事とわかると、ほっと息を吐き、救助に来るのが遅れたことを深く謝罪した。 いっぽう、刺客を取り囲んでいた騎士たちは、倒れ伏していた女を抱え起こすと、激しく揺り動かした。「おい貴様! 起きろ!」「うう……ん……」 揺さぶられた侍女は、ゆっくりと目を開けた。どうやら気が付いたらしい。それから彼女は、自分の周りをぐるりと取り囲んだ騎士たちを見ると、大きく目を見開いた。「きっ……」「き?」「キャアァァアア――――――ッ!!」 耳をつんざくような悲鳴に、部屋にいた関係者一同は、思わず耳を塞いだ。なんとか立ち直った騎士のひとりが、侍女の尋問を開始した。「きゃあじゃない! 貴様、何故姫殿下を襲った!?」「えっ? イザベラさまを襲う!? わたしが? ど、どういうことですか?」「おのれ、とぼける気か!?」「そんな、わ、わたし、目が覚めたらここにいて……」 侍女は、本当に何も知らないといった様子で、がたがたと震えながら、あたりをきょろきょろと見回している。それを見たタバサは、ふいに気付いた。彼女の瞳が、先程までとはまるで違う色――いうなれば、光を宿しているように見えたのだ。 先程までの侍女の瞳は、かつて『薬』によって正気を失ってしまった自分の母と、パートナーのものとよく似ていた。だからこそ、タバサはそれに気がつけた。「まさか……<制約>!?」「はっ!? どういうことでありますか」 騎士の問いを目で制すると、タバサは気丈にも身体全体がふらつきそうな状態に耐え――ゆっくりとした足取りで侍女のもとへ近付いていった。イザベラの横暴ぶりをよく知る侍女は、それで完全に怯えてしまった。その目からぽろぽろと涙を零している。「ひえ……お、お許しを……」「あなたを罰するつもりはない。だから安心して」 そう言われても、侍女の震えは止まらない。「あなた、名前は?」「な、ナタリー……です。お、お助け……」「ナタリー、あなたが覚えている範囲でいいから、詳しく話を聞かせて。いったいどこから記憶がないの?」 ナタリーと名乗った侍女の話はこうであった。仕事を終え、夕食を済ませたあと、同僚たちと共に割り当てられた部屋へと戻り、そのまま眠っていた。気が付いたらここにいて、床に倒れていたのだという。「あなたは、メイジなの?」「と、とんでも、ご、ございません……」 と、ここで西百合花壇騎士のひとりが手を挙げた。「失礼、姫殿下。おい、ナタリー。俺を知っているだろう?」「え、あ、はい……ジェイクさま、ですよね?」 それを聞いたジェイクという騎士は、タバサに向けて告げた。「この娘は、王都の料理屋出身の平民です。自分は、彼女の父親が経営する店に何度も足を運んでおりますから、間違いありません」 ナタリーが、身元のしっかりした平民の出であるという証言を得たタバサは、念のため確認をすべく、杖を手に取った。もちろん、彼女は<魔法探知>をかけようとしただけだったのだが……これを見たナタリーは、ふたたびぐんにゃりと気を失ってしまった。どうやらイザベラは、相当侍女たちから畏れられているらしい。「……身体に魔法反応なし。彼女は、本当に何も知らない可能性が高い」「どういうことでありますか?」 警護の騎士たちの反応はもっともである。よってタバサは、先程あった出来事を、彼らに余すことなく伝えることにした。 夜中に、突然ナタリーが茶を持って現れたこと。永遠に眠らせろという依頼を、何者かから受けたと言っていたこと。そのときの彼女は、まるで別人であるかのように昏い目をしていたこと。とてつもない体術の使い手であったこと。杖を持たずに、複数の系統魔法を放ってきたこと――。「なるほど、それで<制約>の疑いがあるということでありますか……」「おのれ! 新教徒どもが、好んでやりそうな手だ!!」 <制約>とは、水系統に属する『対象者の心を操る』呪文である。この魔法をかけられた者は、平時はごく普通に生活を送っているが、日時や置かれた状況など、使い手が設定した条件を満たすことで、突如豹変し――命令された内容を忠実に実行する、操り人形と化す。しかも、熟練者が唱えた場合、効果が切れた後に全く痕跡を残さぬという厄介なものだ。 新教徒と呼ばれる者たちのほとんどは平民だ。しかし、貴族――つまりメイジがまったくいないわけではない。そして彼らは、実際に<制約>を使うことによって、過去に何度も事件を起こしてきた。 かけられるほうも『殉教』という言葉に酔い、自ら望んでそれを受け入れるため、呪文の効果を強く受けやすく、しかも見分けるのが非常に困難であった。それゆえに<制約>も、新教徒が唱える『実践教義』も、ガリアの国法で禁じられたのだ。「だが、仮に<制約>だとしてもだ。いったいどうやって平民に魔法を唱えさせていたというのだ? 体術にしてもそうだ。かの禁呪に、そのような付加効果はないはずだぞ」 喧々囂々の議論で、場が騒がしくなる。そのうち、騎士のひとりがぽつりと呟いた次の一言で、流れが変わった。「そもそもだ。いったい、誰が<制約>をかけたのだ?」 騎士たちは、額を寄せ集めて談義した。「この宿場町に滞在していた者たちを洗い出してみるか」「いや。俺は、最近雇い入れられた者が怪しいと思うぞ」 そう言って、騎士のひとりが太公望に視線を向けた。「確かに……」「こやつは、シャル……いや『人形』の使い魔だ。姫殿下を狙う動機としては、充分だ」「絶妙のタイミングで姫殿下を助けに現れたというのも気に掛かる。もしや、暗殺者が失敗したときのために、待機していたのではないか?」 これを聞いたタバサは焦った。この状況はまずい、まずすぎる。彼には、ガリアではあえて『無知な子供』として振る舞ってもらっている。もしもパートナーの『正体』が知れ渡れば、自分たちを御輿に担ぎ上げ、王家に反旗を翻そうとする者たちが現れるかもしれない。それは、タバサが望むことではない。 今ここで、自分が影武者であることを明かせば、彼にかけられた疑いは晴れるだろう。ただし、その場合は任務失敗となり――イザベラから厳罰を受けることになる。でも、大勢のひとを犠牲にするよりは、ましな選択だ。そう判断したタバサが名乗りを上げようとした、その時だ。アルヌルフ副団長が、数名の同僚を引き連れ、部屋を訪れたのは。 いきり立つ騎士たちから状況を聞いたアルヌルフは、落ち着いた表情で告げた。「リョボーは無実だ」「何か証拠があるとでも言うのですか!?」「彼は、つい先程まで私と共に街の外で警邏任務に就いていたのだ。その途中で、偶然姫殿下の部屋に、明かりが灯ったことに気が付いた」 その上で、そこが王女の部屋であると教えたのはアルヌルフであり、それを聞いた途端、彼は先行して飛び込んでいったのだと証言した。「ふむ。他ならぬアルヌルフ殿がそう仰るのなら……」「し、しかし、それよりも前は……」 それでも納得しない騎士に向かって、アルヌルフは説明を続けた。「リョボーは、ここへ到着するまで姫殿下の退屈しのぎのために馬車へ同乗していた。そのあとすぐ、カステルモール隊長に我らの宿舎へ連れてこられた。それから、一度もひとりになっていない。そもそも、普段はトリステインに住んでいるのだ。<制約>をかけるためにガリアを訪れたとしても、この黒い髪と風貌は人目を引く。すぐ噂になるだろう」 騎士は恥ずかしそうに顔を赤らめると、頭を下げた。「確かに、その通りです。申し訳ありません、自分の早とちりでした」 他の騎士団にも、古参としてその名を知られているアルヌルフ副団長の仲裁は、タバサと太公望を窮地から救った。「いや、本当に済まなかった」「しかし、若さゆえの思い切りのよさというか……いやはや、怖ろしいな」「だが、それが姫殿下のお命を救ったのは確かだ。よくやったな、少年」 疑惑をかけたことに対する詫びの言葉を述べた後、口々に太公望を褒めそやした西百合花壇騎士団の面々は、恭しくタバサに一礼すると、壊された窓を<錬金>で直し――警備体制をより強化すべく、詰め所へと戻っていった。 部屋に残ったアルヌルフは、彼らが完全に立ち去ったことを確認すると、タバサの前に跪き、一礼した。「イザベラさま。ご無事で何よりでございました」「ありがとう。あなたが彼を寄越してくれたお陰で、この命を救われました」 タバサは、心の底からアルヌルフに感謝していた。もしもあと数秒、太公望が部屋へ飛び込んでくるのが遅れていたら、彼女は父の待つ天界(ヴァルハラ)へと招かれていたかもしれないのだ。さらに、彼は太公望にかけられそうになっていた容疑をも晴らしてくれた。お陰で、イザベラから下されたであろう厳罰からも逃れることができた。 そんな恩人たる彼に報いるため、現在イザベラの姿をとっているタバサは――アルヌルフの前へ、ごく自然に左手の甲を差し出した。 タバサに忠誠を誓ってくれているという東薔薇花壇騎士団、その副団長のイザベラに対する評価を上げてしまうなどといったような些細なことは、タバサの頭にはなかった。ただ、彼に対して純粋に、今できる最大限の礼をしたい。その思いだけが彼女を動かしていた。「おお、姫殿下! もったいのう、もったいのうございます……!」 かたやアルヌルフも、内心で感激していた。今、自分に御手を許してくれようとしているのは、彼ら東薔薇花壇警護騎士団の者たち全てが真の主君と崇める、シャルロット姫殿下なのだ。しかも、深い恨みを持っているであろうイザベラの姿をしていてもなお、それを行うということは……心からの感謝を、彼に捧げてくれていることに他ならない。騎士として、これほどの幸せが他にあるだろうか。いや、ない。 ――互いに真実を知らぬまま、主君と古参騎士の絆は深められた。 いっぽうそのころ。 詰め所としている部屋に戻った西花壇騎士団の者たちは、念のためナタリーを監視下に置きつつ、彼女の持ち物を調べていた。「ジェイク、何か変わったものはあったか?」 ジェイクは、ナタリーが倒れていた場所の近くに落ちていた1本のナイフを、じっと観察している。「いや、特に何も」「そういえば、さっきの姫殿下だが。なんだかおかしかったよな。いつもなら『お前たち、遅いんだよ! いったい何をやってたんだい!』なんて大騒ぎして、減給処分を言い渡されていたところだ。あのヒステリー王女、暗殺されかかって、少しは大人しくなったのかね」 だが、ジェイクはナイフを見つめたまま、返事をしなかった。「そのナイフがどうかしたのか?」「いや、どうもしないよ」 ジェイクは、あっさりとそのナイフを手放すと、元あった位置へと戻した。しかし――彼は、同僚たちが目を逸らした途端。それをなめし革に包むと、自分のポケットにそっと仕舞い込んだ。 ――その翌日。 グノープルの街に到着したイザベラ王女の一行は、熱烈な歓迎を受けた。 領主たるアルトーワ伯爵は、自ら街門の外へ出て、彼らを出迎えた。王家の分家筋である彼の髪は、やはり珍しい青色であった。しかし、その色はタバサやイザベラ、ジョゼフ王とは異なり、やや黒みがかった水色に近いものだ。 老いて痩せこけた身体を深く折り曲げ、アルトーワ伯爵は一礼した。「これはこれはイザベラさま、ようこそグノープルの街へ。われら一同、姫殿下の行幸を、今か今かと、首を長くしてお待ちしておりました」 それから彼は、にっこりと微笑んでこう言った。「以前よりも、さらに美しさに磨きがかかっておられますな。リユティスに比べましたら、ここはただの田舎町でございますが、どうかゆっくりとおくつろぎくださいませ」 そんなアルトーワ伯爵の声は、しかしタバサの耳には届いていなかった。いや、正確に言うならば、完全に通り抜けてしまっていた。タバサの心の中で、つい先ほど馬車の中で聞いたイザベラの声が、ぐるぐると渦を巻いていたからだ。「昨日のことは、西百合の騎士たちから聞いたよ」 真正面からタバサを見据え、イザベラは叩き付けるように言った。「どうだい、おちおち眠れやしないだろう? わたしはね、ずっとあんな恐怖に耐え続けているのさ。ま、外国でのんびり学院生活を送っているお前には、わたしの気持ちなんか……絶対にわからないだろうけどさ!」 いつもの哄笑ではなく、やや影のある乾いた笑みを浮かべながらそう言い放った従姉妹姫の姿は、タバサの脳裏に深く焼き付いた。歓迎の宴も、翌日の園遊会で披露された華麗なダンスも、タバサの心を晴らしてはくれなかった。 それから、小旅行が終了するまで――タバサが再び刺客に襲われることはなかった。○●○●○●○● ――リュティスへの帰還後。プチ・トロワ宮殿内にて。 イザベラは、ご機嫌であった。その理由たる者が、己の手の内にあったからだ。『さすがだね『地下水』。よくぞあそこまで、あの子を追い詰めてくれたわ』『恐悦至極に存じます』 イザベラの懐中には、あの侍女ナタリーが握り、ジェイクという名の騎士が自分のポケットに放り込んでいたはずのナイフが収められていた。彼女は、なんとその短剣と、心の中で会話をしているのだ。 傭兵『地下水』。ガリアの『裏側』で、凄腕の水メイジとして広く名の通った存在だが、その実体は完全に謎に包まれていた。地下に湧き出る水のように、じわりと現れ、音もなく流れ、静かに目的を果たして消えてゆく。性別はおろか年齢も、その姿も一切わからないとされている、凄腕の暗殺者。それが、彼に冠された名の由来だ。 『地下水』について、ただひとつわかっていることは――狙われたら最後、絶対に逃げることができないということだけであった。 そんな『地下水』の正体が、表に出なかった理由は簡単だ。彼は人間ではなく、ナイフに込められた<意志>であったからだ。手にした者の意志を奪い、意のままに操る能力を持つ<インテリジェンス・ナイフ>。それが、ガリアの裏世界で広く畏れられる、暗殺者の正体であった。『それにしても、襲いかかるのが一度きりでよいとは。てっきり、何度も恐怖を味わわせるものとばかり思っておりましたが』『いいえ、あれでいいのよ。見たかい? 日に日にやつれていく、あの子の姿! あそこまで愉快な見せ物は、そうは無いだろう?』 それから、イザベラはわざとらしくため息をついた。『だいたい、あの子の側には、とんでもないのが付いてるものだから、迂闊に手を出しづらいのよね。だから今回は、身体じゃなくて、心に傷を負わせ続けたってわけさ』『ひょっとして、あのガキのことですかい?』『それは秘密ということにしておくわ。そうそう! 今回の報酬は、いつも通りシレ銀行の口座に入れておくわね。いい仕事をしてくれたから、約束の額より割り増ししておくわ』『へへっ、毎度ありがとうございます。こういう変わった仕事は大歓迎です、退屈しのぎになりますからね。いつまでも、お得意さまでいてくださいよ』『もちろんよ。わたしはね、信用の置ける部下は大切にする主義なの』 と……そこへ、ひとりの侍女が現れた。イザベラが呼び出していたのだ――『地下水』を握らせるために。だが、その侍女はとんでもないものを持っていた。「イザベラさま。実は……先程お帰りになられた、ミスタ・タイコーボーから伝言を頂戴したのですが」「あの子から伝言?」 イザベラの心は浮き立った。襲撃を表沙汰にすると、王家の威信に傷が付いてしまうというもっともらしい理由をつける必要があったため、王女の命を救ったという、本来勲章ものである働きに対し、金貨しか与えられなかったイザベラであったが――それでも、太公望と東薔薇花壇騎士団の副団長に、それぞれ500エキューという大金を渡した彼女は、感謝されてしかるべきであった。 ひょっとすると、シャルロットから乗り換えたい……なんて申し出だったりして。そんな期待を胸に抱いたイザベラであったが、しかし。伝言の中身はというと――彼女が心待ちにしていたものなどではなかった。「その……わたくしには、意味がよくわからないのですが『窓が大層お気に召したようで、なによりです』だ、そうです」 侍女に『地下水』を握らせた後、足をふらつかせながら自室へと戻ったイザベラは、王天君に声を掛けると、彼の『部屋』にある長椅子の上に、ばたりと倒れ込んだ。「嘘よぉ……なんでバレたの!? あの作戦の、どこがいけなかったのよぉ!!」 太公望に、自分の存在を気取られることを警戒し、イザベラたちを一切『窓』で監視していなかった王天君は、作戦内容の詳細を彼女から聞いた上で、こう返した。「イザベラよぉ。オメー、ちぃとばかしオレの『色』を出しすぎたみてぇだな。せめて襲撃2回なら、まぁだ引っ張れたかもしれねぇんだがなぁ」「も、もしかして、警戒しすぎたってこと!?」「あぁ、そうだ。襲わせる場所の選択は悪くなかった。太公望をあの女から引き離しておいたところまでも、まぁ、よかったと思うぜ。わざわざ怪しい状況で、あいつに手を出させることになったってのも、ある程度想定してた事なんだろ? 実際、もうちっとでふたりとも追い込めたわけだしな。アルヌルフとかいう騎士が、その場に居合わせなければ」 そう王天君から指摘され、イザベラはぐっと詰まった。「そうね。このわたしとしたことが、本当に迂闊だったわ。あなたの弟と組む人間まで、ちゃんとこっちで指定しておくべきだったのにぃ~!」 懐から取り出した絹のハンカチを、ギリギリと噛みしめながらイザベラは悔やんだ。 今回の作戦がうまくいけば、任務失敗の罰を生意気な従姉妹姫に与えることも、状況次第では、影武者を立てていたことを知らぬ騎士やお付きの者たちに、彼は自分の命を救ってくれたのだからと言い添えて、王天君の弟を『王女のお気に入り』とし、奪い取ることすらできたかもしれないのに、と。「平民に魔法使わせたのも失敗だったな。せめて騎士に持たせてからヤるべきだったんじゃねぇか? そのせいで、あいつに『道具』の存在を疑われたんだ」 ニイッ……と、不気味な笑みを浮かべながら、王天君は続けた。「とどめに、さんざんあの人形姫を脅した後で、イイコちゃんな太公望の同情引くような台詞吐いた挙げ句、たった1回しか襲撃を起こさなかった。実にオレ好みな、効果的で、しかも手のかからねぇ精神的追い込みだぜ。こんだけの状況が重なれば、あいつなら当然、オレの影に辿り着くわな」「ううッ。わたし、まだまだ詰めが甘いわぁ~」 もともと、ある程度の目星はつけてたんだろうが。そう思った王天君であったが、それはあえて言わないでおくことにした。こういうところは『母親』そっくりである。「今回のことや、あなたのことは、もう……あの子に、全部バラされちゃったかしら」「さぁて、そいつぁどうかな。見てみるか?」 そう言って、王天君が新たに開いた『窓』には、風竜の背に跨り、トリステイン魔法学院への帰路についた太公望と、タバサの姿が映し出された。 風竜の手綱を握っているのは、太公望であった。タバサは前方に座っている。そして彼女は太公望にもたれかかるようにして、こっくりこっくりと船を漕いでいた。「まったく! どこかの誰かさんのせいで、この一週間、ろくに眠れなかったようだからのう。せめて帰り道くらい、ゆっくりさせてやってもよいのではないかとわしは思うのだが、どうだ?」 そうぽつりと呟いた太公望は、その言葉とは裏腹に――黒い気配を全身に纏い、嗤っていた。完璧に気付かれている。口から覗く鋭い八重歯は、まるで牙のようだ。そんな彼の貌を見、声を聞いたイザベラは、やっぱり王天君と彼は正真正銘、本物の兄弟なんだわ……と、改めて実感し、顔全体を引き攣らせた。 だが、イザベラは……後に続いた言葉に、思わず目を見開いた。「見事にしてやられたわ。まあ、今回の件はタバサには黙っておくことにする。代わりと言ってはなんだが、わしは次の機会に是非『話し合い』の機会を持ちたいと考えておるのだ。検討しておいてくれると有り難い」 その言葉を最後に『窓』が音を立てて割れた。「ったく、相変わらず大人げねぇなぁ、太公望ちゃんはよぉ。フツー『太極図』まで使うかぁ!? この程度の場面で」「な、何? 今のは何なのッ、オーテンクン!?」「これ以上覗くなっていう、アイツなりの警告だ。で、どーすんだ?」 王天君の問いに、イザベラはごくりと唾を飲み込んだ。 ――ちょうどそのころ、東薔薇警護騎士団の詰め所では。アルヌルフのおごりで飲みに繰り出そうという提案が、本人を含めた全員一致で可決されていた。 実は、暗殺者に襲われたのがシャルロット姫であったこと。 姫君を窮地から救ったアルヌルフは、騎士団の誉れ高き英雄であるということ。 この事実だけで、飲みに行く理由としては充分である。勇ましくそう宣言したカステルモール団長の声に、騎士団の者たちは賛同し――副団長は、思わず苦笑した。「例の子供も、噂に聞いていたような礼儀知らずではなかったしな」「そういえば副団長殿は、リョボーの腕前を見たんですよね?」「あいつは、どの程度のメイジだったのですか?」 好奇心も顕わに尋ねてきた団員たちに、アルヌルフは苦笑しながら答えた。「いや、残念ながら私は見ていないのだよ。とにかく急いで反対側から回り込まねばならない状況だったしな。だが、あの思い切りのよさは買いであるな」「それは残念」「そのうちまた機会があるだろう」「いや、下手にあっても困るのだが」 そんなことを言い合いながら、騎士たちは詰め所を出て行った。 アルヌルフは、別に手柄を独り占めしようとしたわけではない。彼は、あのとき吹き抜けてゆく<風>を見た。しかし、それは――まだ周囲に明かしてはならないものだと、長年の経験から判断したのだ。 あの少年は、やがて姫殿下にとって大きな<力>となりうる存在だ。なればこそ、今は側についていてもらったほうがよい。もしも、かの少年が持つ力量が、周囲に知れ渡ってしまったら――最悪の場合、王家の手によって排除されかねない。足手まといにしかならぬどっちつかずの馬鹿貴族どもが、またぞろ戻ってくる可能性もある。 ――この東薔薇花壇警護騎士団を、シャルロット姫殿下が最も望むことのために動く存在にしなければならない。それが私の役目だ。初老の騎士は、その誓いを胸に秘め、ゆっくりと詰め所を後にした。