――1週間にも渡る、ラ・ヴァリエール公爵家での歓待が終了したその日。 公爵家から借り受けた風竜の背に乗り――フォン・ツェルプストー家との関係や国境警備上の都合により、竜籠を出せないことを詫びる公爵に、過分の気遣いに対する感謝の言葉を述べたタバサたち一行は、一路帝政ゲルマニアの地へと向け飛び立とうとしていた。 当初は、コルベールが彼らに同行することと、見知らぬ他国への好奇心から、一緒に連れて行ってくれるようしきりに頼み込んでいた才人であったが、「あら、あなた。ルイズとふたりっきりになれるチャンスをふいにするの?」 と、いう耳元で囁かれたキュルケのアドバイスにより、ルイズの『護衛』として――例の、太公望がルイズから<使い魔>を借りている際に警護役を務めているという設定を生かし――ラ・ヴァリエール公爵家に残ることとなった。「ゲルマニアへの道中、くれぐれも気をつけるのじゃぞ」 そう言って、タバサたちを見送るオールド・オスマンは、この後ラ・ヴァリエール公爵と国の教育機関に関する重要な話があるとのことで、あと1週間ほど、かの屋敷へ残留することが決まっていた。「もしも、夏休み中に次の冒険が決まったら、必ず連絡をくれたまえよ」「あ! もちろんその時は、是非ぼくも参加させて欲しいな」「わたしも! 実家にいるから、声をかけてね。絶対よ!」 ギーシュ、レイナール、モンモランシーの3名は、夏休みの間はそれぞれ実家へ戻ることになっている。公爵家から沢山の土産を持たされた彼らは、この歓待期間中の話題も含め、しばらくの間家族との会話に困ることはないだろう。「ゲルマニアでの御用がお済みになられたら、是非また当家へお越し下さい」『体調を万全にした上で、かつ最高の状態で、あの戦いの続きを……!』「あら、母さま。そう何度も、我が家へ長逗留をしていただくわけにはいきませんわ。皆さまには、他にも大切な御用がおありになるんですから」 カリーヌ夫人は、太公望へ再会という名の次回挑戦状を叩き付けようとしていたものの、その行動を完全に見抜いて――もとい『掴み取って』いたカトレアによって、前もって阻止されていた。若き頃と変わらず、彼女は本当に懲りていないのであった。 ……そのせいで、ラ・ヴァリエール公爵が、常に自分の懐へと忍び込ませている薬瓶の数が増えたのは、公爵本人だけが知る秘密だ。 いっぽう、今回の歓待総指揮を務めたエレオノールは、そんな妹に心の中で喝采を浴びせつつ、さりげなく太公望と、再び談話を行う機会の取り付けに成功していた。タバサたち主従が、トリステイン王立図書館への立ち入り許可証を得るための『交渉』を手助けするという理由を持ち出すことによって。「それでは、ミス・タバサ。来月末にトリスタニアでお会いしましょう」「ご配慮、痛み入ります」 その申し出に、感謝の意を述べるタバサ。大の読書好きである彼女が、外国人であるにも関わらず、トリステインの王立図書館に立ち入りが可能になるというのは、本当に喜ばしいことなのである。 太公望にとっても、この『許可証』取得に関する助力の申し出は、情報取得の範囲がさらに広がるという意味で、本当に有り難かった。よって、彼は心からの感謝を持って、エレオノール女史へ礼を返した。 なお、そのエレオノールが、内心で「計画通り!」などと叫び声を上げながら両拳を握り締めていることは、彼女の妹であるカトレアしか知らない極秘事項である。 そう、エレオノールは――この歓待期間中に、完全に恋をしてしまっていたのだ。科学という名の、異国よりもたらされた学問に。よって、それを知る太公望と会話する機会をできるだけ多く持ちたい。彼女がそう考えるのは、自明の理であった。 そんなエレオノールの行動を、本人とカトレア、そして太公望を除く周囲が、全く別の意味に捉えてしまい――渦中の者たちにとって、いろいろと面倒な騒動が持ち上がってくるのだが、この時はまだ、そのようなことは誰も……想像だにしていなかった。○●○●○●○● ――その翌日、アンスールの月第3週・ユルの曜日。 帝政ゲルマニア――トリステインとの国境沿いにある、フォン・ツェルプストー家の屋敷内の一画に、ベッドの上で静かな寝息を立てている、ひとりの中年女性がいた。 その女性とは、オルレアン公夫人。そう、タバサの母親である。出所不明の『魔法薬』を飲まされ、強制的に心を狂わされてしまった彼女は、現在<スリープ・クラウド>の効果によって、深い眠りに落ちていた。 ベッドのすぐ側に置かれたふたつの椅子には、夫人の娘であるタバサの<遍在>と、オルレアン公家の忠実な従僕ペルスランが腰掛け、患者と――治療に赴くため、彼女の『夢』の中へと旅立っていった者たちが『眠り』から覚めるのを、ただ静かに……神に祈るような面持ちで見守っている。 そして、オルレアン公夫人の『夢の世界』の内部に構築された『伏羲の部屋』では、大公夫人の治療方針と、その理由について、詳細な医療説明会議(カンファレンス)が開催されていた。 一人掛けのソファーに腰掛けた伏羲――現在は、太公望からこの姿になっている為、本編においては以後こちらの名前で記述する――が、正面に展開した大きな『窓』を、参加者たちに見せながら、患者の状態その他について詳しく解説している。 現在『窓』に映し出されているのは、蔦状の何かによって固く封印を施された、両開きの大扉の前に、同じくそこから細かく枝分かれした蔦のようなもので、全身をくまなく、がっちりと括り付けられている中年女性の姿であった。「なるほど。たしかに、これは火系統の者にしかできない仕事ですな」 最初に、この患者の<解呪>に関する簡単な説明を受けたコルベールは、その時点で何故火系統である自分が、治療という本来水メイジの独壇場に呼ばれたのかを即座に理解した。だが、同じ火の使い手たるキュルケは、いまいちその理由に納得がいっていなかった。「<火の刃(ブレイド)>で、焼き切る必要があるというのは、どうしてですの?」 そんな彼女の質問に答えたのは、太公望ではなくコルベールであった。「戦場などの治療施設が整っていない場所で、早急に止血が必要となったときに、応急手当として<火刃>を使うことがあるんだ。これは、切断面を火で焼くことによって、血管の断面を塞ぎ、それ以上の出血を防ぐ効果が見込めるからなのです」 そういうことですよね? そう確認を取ってきたコルベールに、伏羲は頷いた。「この『蔦(つた)』が、奥方の『魂魄(こんぱく)』を絡め取り、彼女に繰り返す悪夢を見せ続け、偽りの記憶に縛り付ける元凶たる、いわば『鎖』のようなものだ。一見すると、単純にこれだけを取り除いてしまえば良いように思えるであろう? ところがだ……!」 そう言って、伏羲が『打神鞭』を一振りすると――患者の身体の一部が大写しになった。それを見た参加者全員が、思わず息を飲んだ。何故ならば、その『蔦』が、タバサの母親を縛り付けているのみならず、その体内に深く食い込んでいたからだ。「この『薬』の性質の悪さはここにある。魂魄――つまり、患者の本質を構成するモノの奥深くに食い込んで、その記憶を利用することにより、精神を狂わせつつも、生命活動には一切の影響を及ぼさぬように工夫されておる。つまり、彼女をあえて生かさず殺さずの状態に保ち続けておるのだよ」「一般的な『解除薬』で治すことができなかったのは、このせいなの?」 タバサの問いに、伏羲は首を縦に振った。「この蔦を枯らす効果を持つ『除草薬』ならばともかく、これだけ複雑に絡みついているものを、通常の手段で解きほぐすのは無理であろう。一応、こういったモノを一気に<解除>する<術>もあるのだが……今回の症状に対しては、正直危なすぎて使えないのだ」「差し支えなければ、その理由を教えていただいてもよろしいですかな?」 眼鏡の位置を直しつつ、質問を飛ばしてきたコルベールに、伏羲は頷いた。「コルベール殿の疑問はもっともだ。実は、その<術>で強制的に『蔦』を解除してしまうとだな……奥方の身体を『魔法薬』を飲む前の状態にまで『完全に回復』してしまうのだ。つまりだ、薬を飲まされる直前の状況まで、奥方の記憶と心を含め、全て元通りの場面に巻き戻してしまうのだよ」 それを聞いたタバサの顔から、ざあっと血の気が引いた。あの日――自分の身代わりとなって、ワイングラスの『毒』をあおり、宮殿の床へ倒れ込んだ母親の姿は、今でも彼女の脳裏に強く焼き付いていたからだ。 そんなタバサの様子を見たキュルケは、どうして彼の<術>によって<解呪>してはいけないのかを、即座に悟った。「なるほどね。つまり、その時の恐怖とか思い出がいっきに蘇ることによって、タバサのお母様の心を、根本から破壊してしまうかもしれない。だから危なくて使えない……ってことでいいのかしら?」「そういうことだ。心というものは、それほどに繊細なものなのだよ」 キュルケの解答に頷きつつ、伏羲は先を続けた。「さらに言うとだな、あの蔦は、まるで血管のように、奥方の記憶を『扉』の奥深くまで流し、巡らせている。よって、焼き塞ぐ効果を持つ火系統以外の<刃>で無理矢理切断してしまうと、その切り口から、奥方の持つ『記憶』が大量に外へと漏れ出してしまい……これまた心を破壊してしまう危険性があるのだ」 <ブレイド>の魔法は、使用者の系統によって、刀身に纏う基本属性が変わる。あえて属性を纏わせずに<力の刃>だけにして戦う者もいるが、基本は自分に合った<刃>をそのまま出すほうが<精神力>の消耗を抑えられるのだ。 そういう意味では、ルイズに<ブレイド>の魔法を使わせることによって、彼女の系統を完全に絞れたかもしれないのだが……失敗による爆発の危険があることと、<虚無の刃>が一体どんなものであるのか全く不明であった為、オスマン氏との話し合いの結果、ルイズに<ブレイド>を使わせるのは禁止したという裏事情がある。「かといって、普通の小刀を持ち込んで、熱して使うというわけにもいかぬ。この大事に、慣れない道具を用いるのは危険であるし、なによりここは『心象世界』。手に持っている、それが可能であるといったような、イメージを強く描き出す能力こそが最も重要な『夢』の世界であるからだ」 ここまで語った伏羲は、ふうっと大きなため息を吐いた。「本来であれば、魔法的事象を断つ剣『デルフリンガー』の使い手たる才人にも、この場へ同行してもらいたかったのだが……ルイズの護衛や、その他諸々の事情があるため、依頼することができなかった」 ここ『夢』の世界は、強い『心』のイメージを具現化する<フィールド>でもある。よって、心の弱い者が下手に関わろうとすると、最悪の場合、心や記憶だけではなく、魂魄ごと壊れてしまう危険性がある。 そのため、伏羲は現在参加している者たちや『魂を持つ剣』デルフリンガーはともかく、この壊れかけた夢の世界に、精神的逆境に弱い才人を連れてくることに対して、危険を感じてしまったのだ。「よって、この切り離し作業に関しては優秀な火系統の使い手たるコルベール殿と、キュルケのふたりに頼みたいのだ。事ここに至るまで詳しい事情を説明できず、大変申し訳なかった」 そう言って頭を下げた伏羲に対し、コルベールとキュルケは、気にするなといわんばかりの笑顔を見せ……強く頷いた。「わたしは、何をすればいい?」 自分も、母を助けるために何かがしたい。そんな切なる思いが込められたタバサの声に、伏羲は真剣な顔で答えた。「わしは、彼らに対してどの『蔦』を、いかにして切ればよいのかを伝える指示役に回らねばならぬので、タバサは、ふたりが効率よく切断作業ができるよう、彼らの側について補佐してやってほしい。これは、相当に根気が必要な作業であるので、それを手伝ってくれる人間が絶対に必要なのだ」「わかった」 それから、伏羲は再び手元の『窓』を見た。そこには、以前の診察時に記録したデータが保存されている。それを、現在映し出されている画像と重ねると――あきらかに『蔦』の本数が増えているのが見て取れた。「この『蔦』は、奥方の『記憶』を象徴するものなのだ。よって、新しい記憶が増えれば増えるだけ、蔦の本数も増えてゆく。できれば、今日中に全て魂魄から切り離したい」 伏羲の言葉に、全員が頷いた。「それと……これは、今ここにいる者たちならば、既に充分承知しておることとは思うが、念のため言っておく。治療中、あるいは治療前に、なんらかの妨害が入る可能性が高い。ここは『夢』という他者が支配する<フィールド>だ。何が起こっても不思議ではないので、決して警戒を怠らぬよう頼む」 そう告げた伏羲の言葉へ、コルベールがさらに補足すべく口を開いた。「いいや……むしろ、絶対に妨害が入る。そのぐらいの心づもりで事に当たったほうがよいでしょうな」 頼もしい先達の言葉に、女子生徒ふたりも了解したとばかりに首を縦に振る。「あの扉の奥については、開けてみるまで何があるかわからぬ。だが、間違いなく『薬』の根幹となっているモノが居座っておることは確かであろう。よいか、最後まで決して油断することのないよう、常に周囲を警戒の上、行動するのだ。また、何らかの異常を発見した場合は、即座にわしへ知らせるのだぞ」 伏羲の号令に、全員が了承の意を表明し――そして、彼らは患者の処へ向かった。○●○●○●○● ――それから数分後。 幸いなことに、タバサの母が捕らわれている場所まで何事もなく到達することができた。伏羲は、手元にいくつかの『窓』を展開すると、コルベールとキュルケのふたりに、早速指示を与える。 もしも、この場面を才人が見ていたとしたならば。彼らをして、「医療ドラマに出てくる、主治医の先生と執刀医みたいだ」 そう評したかもしれない。 実際、彼らが行っている治療は、心臓外科手術(オペ)のようであった。魂魄を傷付けないよう、杖の先に極細の<炎刃>を出現させて、患部を慎重に切り進めるコルベールが執刀医である。「ミス・ツェルプストー。右後方部位『蔦』の細部切り離しが完了した。同箇所残りの範囲については、君の<炎>で焼いてくれたまえ。くれぐれも慎重に」「承知しました、ミスタ・コルベール」 そんな彼に付き従うように作業を進めているキュルケが、執刀助手たる存在だ。「コルベール殿。次は、その隣の『蔦』を切り離してくれ」「今、ミスタが指差している、この『蔦』ですな?」「そうだ。食い込みが先程の箇所より酷い。難しい箇所だが、やれそうか?」「任せてください。こういう細かい作業は、得意中の得意ですからな」 手元の『モニター兼拡大鏡』を見ながら、彼らに指示を飛ばす伏羲が主治医兼指導医たる存在である。 いっぽう、タバサはというと。彼らが切り離した『蔦』を部屋の隅に片付けつつ、周囲の警戒を行っていたのだが……少々手持ち無沙汰になっていたことは否めない。<遍在>が出せるぶん、余計にそう感じてしまうのだろう。 他にも、わたしにできることはないのだろうか? そう考えたタバサは、周囲警戒の手を緩めることなく、作業を行っているコルベールたちを詳細に観察した。彼らは非常に細かい手業を要求される上に、長時間ずっと火を使っているせいか、全身がぐっしょりと汗に濡れている。それを見たタバサは、はたと思いついた。今、自分にできることを。「タイコーボー。ふたりの身体を、魔法で冷やしてあげてもいい?」 そのタバサの言葉に、伏羲はもちろんのこと、コルベールとキュルケも破顔した。「もちろんだ。ただし、彼らの手元を狂わせないよう、そっとだぞ」「わかった」 その声と共に、執刀医たちの元へ、冷たい風がぶわっと吹き込んだ。小さな雪粒が混じった空気が、彼らの火照った身体を適度に冷やしてゆく。「おおっ、これは素晴らしい!」「すっごく涼しいわ! ありがと、タバサ」 ふたりから飛んできた感謝の声に、タバサはぽつりと……喜びの感情を込めて呟いた。「これが、いちばん効率がいいから」 涼しい風に煽られ、作業ははかどった。特に、コルベールの<炎刃>が冴え渡ってきた。火を実戦で扱うための勘が戻ってきたこともあるのだろう。だが、それ以上に。「私の<火>に、こんな使い道があるとは! やはり、オールド・オスマンが指し示してくれた『道』は正しかった。そして、ミスタの『切り開く』という言葉も」 このような変則的な使い方をする機会など、変わり映えのしない日常生活の中では、まずありえないことだろう。だが、それでも。再び<火>の担い手として立ち上がったばかりの『炎蛇』のコルベールの背中を押す<力>となるには、充分であった。「壊すことしかできなかった私の<火>が、まさかこんな風に……ひとを癒やすための役に立てるとは、思わなかった!」 『蔦』を焼き切るたびに、患者の顔色が目に見えて良くなっていくのだ。もっと早く、このひとを助け出してやりたい。コルベールの手技は、さらに鋭く輝きを放ち始めた。「あたしも、ずっと火は破壊と情熱の象徴だと信じていましたわ。でも、使い方次第でこんなふうにひとを助けることもできるんだって、知ることができました」 キュルケの言葉に、コルベールは実に嬉しそうな声で同意した。そんな彼の貌からは、以前垣間見えた暗い影は、跡形もなく消え失せていた。「そうだな、ミス・ツェルプストー。きみの言う通りだ。だから、私はもっと学び続けようと思う。火には、破壊以外にもたくさんの可能性が詰まっていることが、改めて証明されたのだから」「ええ、あたしも、これからはもっと真面目に授業を受けようと思います。先生に教えていただきたいことも、たくさんありますし」「そうか、そうかッ! きみの学問に対する情熱に<火>がついたのだね。実に素晴らしいことだ! 私が知っていることでよければ、いつでも教えてあげよう。熱心な生徒は、大歓迎だよ!」 コルベールの答えに、キュルケは妖艶かつ意味ありげな笑みを向けた。それを見たタバサは、親友の心に別の<火>が灯ったことを察したのだが……小さく微笑んだだけで、何も言うことはなかった。 ……いっぽう『炎の女王』に目を付けられたコルベールのほうはというと。 そんな彼女たちの心の移り変わりには一切気付かず、『夢』へ持ち込んでいたスペア――2本目の杖を併用し、なんと二刀流で<炎刃>を扱い始めた。 その杖捌き……もとい<炎刃>捌きは、まるで舞踏の名人が行う、煌びやかな剣舞のようであった。もともと、繊細な手業を要求される各種科学実験を、それこそ毎日のように繰り返していた『発明家』コルベールにとって、こういった細かい作業は、まさしく独壇場だといっても差し支えないだろう。 水を得た魚……もとい酸素を得た炎の如く、彼の手とその指先は、文字通り踊り狂った。指示をする伏羲など、それを見て、「ぬおおおッ! 回転が早すぎて、次の径路指定が追いつかぬわッ! これでは『炎蛇』ではなく『炎刃(エンジン)』のコルベールではないかッ!」 などと、慌てふためきながらモニタと格闘している程だ。 それから。ごく稀に、極限の集中による疲れから、キュルケの手元が狂いそうになることもあったが、その度に他の全員がフォローに周り、結果――計8時間ほどで、魂魄の切り離し手術は無事、成功した。○●○●○●○● ……そして。「皆の者、ご苦労であった。これにて魂魄の摘出作業は完了である。魂の癒着――つまり、再び『扉』に繋がれることのないよう、いったん『わしの部屋』へ移送の上、保護する」 長時間に渡る作業のため、疲れ切った――だが、達成感に溢れた『治療チーム』全員の顔を見渡しながらそう宣言した伏羲が、切り離したオルレアン公夫人の魂魄を『自分の部屋』へ運ぼうとした途端。突如オルレアン公夫人の側に現れた闖入者によって、行動を遮られてしまった。 その闖入者は――ふたつの<光>であった。 片方は、夫人の魂魄、その手元から飛び出した……冷たく青い<光>。 もう片方は、切り離して隅に片付けてあった『蔦』の中から現れた、暖かい<光>。 それらは、いつしか人間の姿に変わり――ふたりの小さな少女となった。 ひとりは、赤い上衣と純白の乗馬ズボンを身につけた、年の頃は11~12歳程度の幼い娘。短く切り揃えた青い髪と、凍り付いた湖の如き色の瞳から、真冬の冷気のように刺し込んでくる視線を、侵入者たちに向けてきた。 もうひとりは、傍らの少女とは真逆。真っ白な上衣を纏い、深紅の乗馬ズボンを履き、腰まで届く青い髪を揺らしている。だが、その目に宿る光は、純真無垢といって差し支えない輝き。こちらは、思いも寄らぬ来客に、好奇心を抑えきれないといった風情で、オルレアン公夫人の側にちょこんと座り込んでいる。 ふたりの少女のうちのひとりが、夫人の上に覆い被さるようにして、伏羲たち全員が近寄ろうとするのを遮った。「このひとをつれていかないで! いじめないで!」 全身に冷気を纏う少女が大声で叫ぶと、先程まで陽光のような笑顔を振りまいていた少女が、ふいにその顔を曇らせた。だが、その口が開かれることはなかった。代わりに、くいっと首をかしげて、隣にいる少女を見つめる。「このひとたちは、きっとおかあさまをいじめにきたのよ」 真冬の冷気を纏った少女がそう言うと、陽光のような笑みを浮かべていた白衣の少女も、一緒になって伏羲たち一行を睨み付けてきた。改めてよく見ると、ふたりの顔は、双子の姉妹と言って差し支えない程にそっくりであった。 この思いも寄らぬ闖入者に、さすがの伏羲も困惑した。彼女たちから悪意の類は一切感じられない。かといって、この<フィールド>を支配する『空間使い』というわけでもなさそうだ。それに……この少女たちの顔には、見覚えがあった。それもそのはずである。「この子たち、ひょっとして……昔のタバサ?」 キュルケの声に、全員が改めて少女たちの顔を見た。確かに、タバサの姉妹――いや、本人と言っても過言ではないほどに、彼女たちの顔立ちはよく似ていた。彼女たちに眼鏡をかけさせて並べたら、間違いなくタバサの血縁者であると判断されるであろう。「なるほど、この娘たちは奥方の『過ぎ去りし記憶の欠片』であるのか!? いや、ちょっと違うな。これは、ひょっとすると……?」 闖入者を分析していた伏羲の横から、一歩前へと進み出た者がいた。それは、タバサであった。「だめッ! つれていっちゃだめ!」 ふたつの瞳に、涙をいっぱいに溜めた『冬風』の少女は、大声でそう叫んだ。『陽光』の少女も、声こそ上げないものの、全身を震わせながら、ついには夫人を庇うように身体を投げ出した。いや、実際庇っているのであろう。 タバサは、もちろんその少女たちの姿を見知っていた。いや――ある程度、感覚と過去の記憶によって、理解をしていたといったほうが正しいだろう。だから、タバサは伏羲たちを静かに制すると、一歩前へ進み、少女ふたりに声をかけた。「そこをどいて、シャルロット。わたしたちは、母さまを助けに来たの」 その名前を聞いた少女たちは、目を大きく見開くと、口を開いた。「あなたのおなまえは?」「タバサ」「うそ。だって、それはわたしの……ほんとうのなまえなのよ?」 今度は、それを聞いたタバサの両目が見開かれた。そうか、この子たちは! 母の魂を守ろうとしている者たちの正体に気が付いたタバサは、振り返って仲間たちを視線で制すると――改めて彼女たちへと向き直り、ふたりに聞かせるに相応しい回答を提示した。「知ってる。わたしたちは、名前を取り替えっこしたから」「じゃあ、あなたはほんとうのシャルロットなの?」「そう」 ――人形には、本当に魂が宿るのだ。タバサは、心の内でそう呟いた。 かつて、太公望と共に任務で訪れたガリアの山村。そこは、人形たちの住まう巨大な箱庭であった。その村を出るときに、自分のパートナーが呟いた言葉。「あそこに宿る魂魄は、全て本物であったよ――」 その台詞が、鮮やかにタバサの脳裏へと蘇る。 『魔法薬』によって狂わされた母が、自分の娘だと思い込んで守り続けた者。今、わたしの目の前にいるのは……彼女が、かつて自分の本当の名前を託した相手。フェルト生地で造られた、手のひらほどの小さな人形。その『魂』なのだ。「ありがとう。あなたは、ずっとこうして母さまを守ってくれていたのね」 今から3年ほど前――当時まだ『ドット』メイジであったシャルロット姫に下った討伐任務。それは、実質処刑宣告に等しいほどに厳しく、険しいものだった。だが、その逆境を跳ね返したことが、泣くことはおろか、「これは全部、悪い夢なんだ」 と、現実逃避することしかできなかった無力な少女に『雪風』を纏わせた。 その『雪風』を畏れた従姉妹姫イザベラの手によって、新たな役職『騎士』の地位を与えられた時。『北花壇警護騎士(ノールパルテル)』の一員となったシャルロット姫は、名前を捨てろと迫られた。お前は、もう王族ではないのだからと。 そこで彼女は、狂わされた母が掻き抱いていた人形の名を名乗ろうと決めた。何故なら、母はその人形を自分だと信じて疑わず、ひたすらに守ろうとしてくれていたから。自分の心は、あの人形と共に在るのだ。そう思い込むことによって、全ての感情を――己の内側に封印することを決意した。 そして。名前だけではなく、大公姫の地位をも剥奪された12歳の少女は、感情のない『人形姫』タバサになった。過去の幸福な思い出を、自分の本当の名前と共に全て――その小さな人形『シャルロット』に託して。 『シャルロット』は、あのときわたしが願った通りに、母と共に在ってくれたのだ。封印した過去を思い出したタバサの瞳から、一筋の涙が零れて落ちた。 そんなタバサの姿に驚いたのであろう『シャルロット』と、もうひとりの少女は、立ち上がってととと……と、小走りに彼女の元へ走り寄り、顔を覗き込むと、着ていた服の袖で、タバサの涙を拭いた。「なかないで。ねえ、ほんとうに? ほんとうのシャルロットなの?」「どうすれば、信じてもらえる?」 その問いに、冬風の少女――小さな人形の魂は、質問を返すことによって答えた。「わたしは、なあに?」「母さまが買ってくれた、可愛いフェルト製のお人形」「つぎのしつもん。わたしのからだは、いまどこにいるの?」「オルレアン公領のお屋敷。『新しい母さま』を守ってくれている」「さいごのしつもん。ほんとうに、おかあさまをたすけてくれる?」「絶対に救い出す」 その答えに『シャルロット』は心から満足げな微笑みを浮かべ、立ち上がった。「なら、わたしはタバサのなかにもどる。あなたも、シャルロットにもどるのよ」 そう呟いた『人形』は、タバサの元へ駆け寄ると、その胸目掛けて飛び込んできた。その柔らかな身体をしっかりと受け止めたタバサは、彼女をぎゅっと抱き締めた。 すると――『人形』の魂は、再び笑顔を見せ、そして光の粒となり、半分がタバサの中へと消えてゆき――残りの半分は、遙か天上へと飛び去っていった。その去りゆく姿は、まるで流れ星のようであった。「ありがとう……タバサ」 自分の中に『感情』を戻し、オルレアン公家の屋敷に在る『本体』に戻ってゆく人形に、タバサ――遂に『シャルロット姫』としての心を取り戻した少女は、ただ静かに礼の言葉を述べた。 そして。残るもうひとりの少女は、そんなふたりを寂しげに見つめると、こう呟いた。「おねえさま、おねがい。おかあさまをたすけてあげてね」 その呟きに、タバサは驚いた。何故ならば、この少女は自分自身――かつて捨て去った、シャルロット姫としての記憶の残滓だと思い込んでいたからだ。だが、彼女は確かに自分をこう呼んだ。「おねえさま」 ……と。「あなたは、いったい誰?」 震える声で問うたタバサへ、陽光の少女は悲しげな眼差しを向けると……再び暖かな光となり、オルレアン公夫人の中へと消えていった。○●○●○●○● ――それから、約1時間後。 『蔦』を切り離した扉から薬効が漏れ出さぬよう、厳重な封印を施した後に、改めてタバサの母親の魂魄を、安全地帯である『自分の部屋』に用意したベッドへと寝かせた伏羲は、外で待っている従僕ペルスランに<遍在>を通して治療状況の報告をするようタバサへ告げると、残りの2名へ睡眠を取らせた。「夢の中で眠るだなんて、なんだか不思議な気分だわ」 などと言っていたキュルケだったが、参加者全員の中で最も早く眠りに落ちた。部屋に戻った当初は、新たに提供されたベッドその他に興味津々といった風情であったコルベールも、さすがに疲れには勝てなかったのであろう。自分用に用意された寝床に入ってから、早々に寝息を立て始めた。 そしてタバサの治療経過報告が済んだ後、念のため、先程の少女ふたりに関する最終確認を行うことにした。扉を開けた後で、同じような乱入者によって作業を妨害されてしまっては非常に面倒だからである。たとえ、敵対の意志がないにしても……だ。「片方の娘は、間違いなく例の『人形のタバサ』に宿った魂魄の片割れであった。おそらくだが、タバサが自分の『心』と『感情』を封印しようと決意したとき、その強い<意志>によって魂魄の一部が分割され、新たな魂となって、人形に乗り移ったのであろう」 だが……と、伏羲は先程見た『陽光』の少女を『窓』に映し出す。「問題は、彼女だ」 伏羲の言葉に、タバサも頷いた。『人形』の魂でも、自分の記憶の残滓でもないのであれば、あの寂しげな陽光の少女は、果たして何者なのであろう。だが、タバサが過去の記憶の奥底まで振り返ってみても、全く覚えがなかった。「少なくとも、わたしは知らない」「そうか。奥方の『記憶の欠片』から現れたこと、そして魂魄の色から察するに、奥方とタバサに非常に近しい存在であることは間違いない。念のため聞くが、おぬしには姉妹、あるいはあの意地悪姫以外にも従姉妹がいたりするのかのう?」 伏羲の問いに、タバサは静かに首を横に振った。「ふぅむ。すると、あの娘は何者なのであろうか」 それを聞いたタバサは、首をかしげながら呟いた。「もしかすると、母さまの親戚なのかもしれない」「うむ、その可能性は充分あるのう。敵対者でないことは確かなようであるし、彼女の詳細については、奥方が回復されてから、改めて尋ねてみればよかろう」 伏羲の言葉に、タバサは頷いた。確かに彼の言う通りだ、いま最も優先すべきことは、母さまを完全に治すこと。それに集中しよう。 そして、彼らは夢の中で休息に入った。さらなる戦いに備える為に。