咎を背負うふたりの男が、星の海を征く船を見送っていた――ちょうどその頃。 ラ・ヴァリエール公爵家の一画に用意された客室のひとつで、タバサは寝間着姿のまま、じっとベッドの上に腰掛けていた。その手には、どこへ行くにも――魔法学院での授業中はもちろんのこと、入浴の際や眠る時すら手放さない、節くれ立った長い杖を握っている。 既に、就寝時間は過ぎている。だが、彼女はどうしてもベッドに潜る気になれなかった。とある考えが、ずっとタバサの頭の中をぐるぐると巡っていたせいだ。と、そんな彼女の部屋に向けて、誰かがカツカツと足音を立てて近付いてきた。風メイジ特有の鋭い聴覚が捉えたのは、間違いなく親友のキュルケが愛用しているロングブーツの音だった。 それからすぐに、部屋の扉がノックされる。タバサが入室の許可を出す間もなく、ドアはバタンと音を立てて開かれ、見事な赤毛と褐色の肌が眩しい少女が顔を覗かせた。「やっぱり、まだ起きていてくれたわね」 そう言って、キュルケはゆっくりとタバサの元に近寄り、両手を広げると――友人の華奢な身体をぎゅっと抱き締めた。それはいつもと何も変わらない、親愛の態度。しかし、微かに震えるキュルケの両手を見たタバサは、彼女の頭を両腕で優しく包み込んだ。泣いている子供に、母親がしてやるかのように。 タバサの思わぬ優しさに、キュルケは一瞬だけ驚いたような表情を見せたかと思うと……その目にうっすらと涙を浮かべた。「ありがとう、タバサ……」 普段のキュルケの姿を良く知る者が今の彼女を見たら、これは夢か幻なのではないかと驚くだろう。それほどに現在のキュルケの姿は小さく、そして、か弱く見えた。「おかしいわよね。このあたしが、怖いと思うだなんて」 そう呟いたキュルケの頬を、一筋の涙が伝い落ちた。それからキュルケは、まるで幼子が母親にするかのように、己の顔をタバサの膝に埋めた。「でもね、本当に怖かったの。コルベール先生のことじゃないわ。ううん、先生が怖くなかったっていうのは嘘ね。すごく怖かったわ、先生が纏う空気も、あの話も――でも、そうじゃない。あたしが一番怖かったのは、自分がなんにも知らなかったことなの」 タバサはこくりと小さく頷くと、涙を零し続ける親友の頭を優しく撫でた。「火は情熱と破壊の象徴。偉そうに、あんなことを言っていた自分が恥ずかしい。あたしは火がどんなものなのか、自分がどういう系統を背負っているのか、ちっともわかっていなかったのよ。あの話を聞いた今でも、本当に理解できたのかどうか、怪しいものだわ」 ――全てを燃やし尽くす。それがいったい何を指すのか。どういう意味を持つのか。「それに引き替え、コルベール先生はすごいわ。火の怖さをちゃんと知っていて、それでもタバサの……ううん、あたしたち生徒のために、自分の持っている知識を生かそうとしてくれているんだもの」 赤毛の少女から、嗚咽が漏れる。「もしも、あの話を聞かせてもらえなかったら……あたしも若い頃の先生と、同じような『道』を歩んでいたかもしれないわ」 そう言って震えるキュルケの頭を、タバサは、ただ優しく撫で続けていた。「わたしも、全然知らなかった。知らないということの怖さを。わかっているつもりになって、得意になっていた」 静かに涙を流し続けながら、キュルケはタバサの言葉を聞いていた。 知らないことの怖さ。タバサは、太公望との模擬戦や、今日まで続けてきた彼とのやりとりの中で、それらを完璧に学んだつもりでいた。だが、まだまだ自分の持つ考えが甘いものであったということを、今回の一件で思い知らされた。 コルベールの過去について、ではない。彼の背負う咎について……でもない。コルベールがこれまで見せてきた姿――お人好しで、好奇心旺盛な、どこか間の抜けた教師。それは、コルベールという男を形作る一面でしかなかった。にも関わらず、それを完全に真実の姿だと決めつけていた自分の見通しの甘さが、ただひたすらに怖かった。 それだけではない。自分のパートナーに対する評価が甘過ぎたことも、彼女が抱く恐怖に拍車をかけていた。以前、太公望と行った模擬戦の前に、タバサは彼の実力について、こう評していた。『彼に対抗しうるのは、伝説の<風>烈風カリンそのひとくらいではなかろうか』 ……と。 だが、実はその判断すらも生温かったのだ。何故なら――他の誰も知らない、タバサだけが知っている秘密。それは、彼が自身最大の『切り札』だと語った<フィールド>の存在。以前、これを使うときが正真正銘、自分の本気なのだと彼は言っていた。 にも関わらず、あの<術>を一切見せぬままに、ハルケギニア最強と称された『烈風』との戦いは、両者引き分けという形で終わってしまった。しかも、あの強力な<治癒>すら用いずに。これが意味することは、ひとつだけしか考えられない。 ――自分のパートナーの実力は、あの『烈風』すらも上回っている可能性がある。 そして。それほどの実力を持つ彼が、ハルケギニアの基準では『ドット』に分類されてしまうという驚愕の事実が、タバサを打ちのめしていた。 同時に24個もの魔法――公爵夫人とのやりとりから察するに、<ウインド>を唱えるだけで、20本の鞭と1枚の盾に、移動の補佐と、攻撃用の風刃2枚を創り出し、かつ同時に展開する程の知識と実力があるにも関わらず、現在の基準では『おちこぼれ』扱いをされてしまう、この不条理は一体どうしたことか。 だが、それ以上に彼女へ衝撃を与えたものがあった。タバサは、思わず声を上げてしまった。認めざるを得なかったが為に。溢れる感情を止められなかったがゆえに。「悔しかった。どうしてわたしには、彼らのような<力>が無いんだろう。ふたりの戦いを見て、そう思ってしまった」 ひとりは、絵物語や観劇の題材とされ、貴族・平民を問わず大勢の民たちの間で、未だ絶大な人気と羨望を集める伝説の騎士。その二つ名に相応しい強烈な<風>を纏い、最強の名を欲しいままにした、ハルケギニア世界が誇る英雄。 もうひとりは、いくつもの魔法を同時に展開し、学院の教師たちはおろか、アカデミーの首席研究員すら凌駕する知識を数多く有し、国軍を率いて王の隣に立てるほどの頭脳を持ち――さらには、3000年という時を越えて、なお語り継がれる程の戦果を挙げていたとされる、異世界の英雄。「彼らと同じくらいの<力>がわたしにあれば。いいえ、せめてタイコーボーが、わたしに手を貸してくれさえすれば、今すぐにでも父さまの仇が討てる。そんな風に考えつつあった自分の心に気が付いて……ぞっとした」 ガリア王宮の醜い権力争いに無関係な彼を、わたしの都合で巻き込みたくなどない。そう考えていたにも関わらず、タバサは無意識にパートナーの<力>を欲してしまっていた。そんな、自身の心の無自覚な変転も怖ろしかった。「もしもルイズのお姉さまと、お母さまが気付いて教えてくれなかったら……わたしは、彼こそが本物の天才だと信じ込んで、真実を知らないまま、ただ嫉妬して……最後には僻んでしまっていたかもしれない」 ――厳しい制約の下に置かれる、あるいは触媒を用いなければ<念力>と<ウインド>しか使うことのできない、おちこぼれのメイジ。それが『烈風』が見破った彼の正体だった。自分には魔法の才能が無いという彼の言葉は、嘘ではなかったのだ。「それなのに、彼は自分が『スクウェア』メイジであるかのように振舞い続けていた。本当の<力>を誤魔化すために」 タバサの呟きに、キュルケは小さな声で返した。「あれには、完璧に騙されちゃったわね」 その言葉に、こくりと頷くタバサ。「もしも、知らないままだったら……わたしは彼の『偽りの背中』を追い掛けようとして、途中で挫けてしまっていたかもしれない」「無理もないわよ。王軍の参謀総長どころか、国王陛下の相談役までこなすとか。おまけに魔法の使い方も滅茶苦茶巧かったし。あれで27歳とか、傍から見たら、とんでもない天才としか思えないもの。まあ、実際は70歳を越えたお爺さんだったわけだけど。に、してもよ。それを見破ったルイズのお姉さまは、只者じゃないわよね。あのひとがいなかったら、わたしたち、今も騙され続けていたはずよ」 ため息をつきながら語るキュルケに、タバサは心から同意した。 例の試合後に、タバサたちはルイズから教えられたのだ。ラ・ヴァリエール公爵家の次女カトレアは「他人の心の奥底までも覗き見ることができるのでは?」と、信じてしまう程に凄まじい『勘』の持ち主であるということを。 タバサは、疑うことなくそれを受け入れた。ルイズはそういった類の嘘を言うような人間ではないし、事実カトレアは、太公望や才人が異世界から来ていることはおろか、太公望の年齢や経歴を、ほぼ完璧に見抜いていたからだ。 そんな<超能力者>によって暴かれたパートナーの真の姿とは。27歳どころか、70を越える老齢のメイジにして、歴戦の勇士。自然のあらゆる法則を学び、人間よりも遥かに強大な<力>を持つ妖魔と戦い続けるという、文字通り命がけの試練を潜り抜けることで才能の無さを跳ね返した、まさに『努力』のひとだった。 妖精の<力>で若返り、15~6歳の身体を取り戻しているとはいえ、その修練の量だけではなく、経験すらも――騎士となり、ガリアの『裏』に所属してからまだ数年程度の自分など、到底及ぶところではない。彼があそこまで用心深い性格をしている理由についても、タバサはようやく理解できた気がした。「あれはきっと、彼がまだ若かった頃……現在ほどの技術が無かった時代に、自分の圧倒的不利を隠すために造り出した、仮面(ペルソナ)の一種」 彼が、わずか15歳にしてメイジとして最高位の『スクウェア』へと至ってしまったタバサには到底思い及ばぬ程に、苦難に溢れた『道』を歩んできたのは間違いないだろう。 そして、タバサの思考は遂にその場所へと辿り着いた。従姉妹姫であるイザベラが、いつも自分へ向けてくる視線の意味を知った。あれは、わたしの魔法の才能に対する嫉妬であったのだと。同じ王族でありながら、日に数回『ドット』スペルを唱えるのが精一杯のイザベラからすれば、タバサの存在自体が憎しみの対象になるのも道理だ。同様に、ジョゼフ王が自分たち家族に向けてくる、強烈なまでの悪意についても理解できた。 『スクウェア』の自分ですらこれなのだ。周囲から徹底的に無能扱いされてきたジョゼフが、才気溢れる弟やその娘である自分に向けていた嫉妬の念は、いかほどのものであったのだろうかと。もっとも、それを理解することはできても、父を殺され、母を狂わされた事実まで許す気にはなれなかったが。 そんなタバサの独白を聞いたキュルケが、ぐいと自分の顔を拭うと、口を開いた。「あたしね……もしかすると、見つけたかもしれないわ。自分の『道』を。あたしの中で燻り続けていた、情熱の行き先を」 そう言って、今度はキュルケがタバサの頭を掻き抱いた。「まだ、この気持ちが本物かどうかはわからない。だからね、もう少し見続けてみようと思うの。知ろうとすることの大切さが、あたしにもちょっとだけわかったから。まあ、そうは言っても、無理矢理奥まで踏み込んじゃいけないから、慎重に……ね」 キュルケの顔には、先程まで浮かんでいた苦悩の色は、もう見られない。「先生のこともびっくりしたけど。ミスタ・タイコーボーの年齢にも驚いたわよね。けど、あたしね。ひとつだけ、彼の言動について気が付いたことがあるのよ。タバサはどう?」「タイコーボーについて、気付いたこと……?」 彼の実年齢が、最低でも70を越えていて、かつ100歳以下であるというのは、オスマンやカトレアたちとのやりとりを聞いたことで、タバサにも把握できている。それ以外に、何かあるというのだろうか? 不思議そうな顔をして自分を見つめてくるタバサに、キュルケはまるで面白い玩具を見つけた子猫のような顔をして、こう答えた。「彼が、何かについて断言しないときって……ほぼ間違いなく、その近辺にとんでもなく大きな隠し事が紛れ込んでいるのよね。年齢のこともそうだったし、それに……」「それに?」「うふふ。それは、タバサが自分で気付かなきゃダ・メ。いいこと? 彼の言葉をよ~っく思い出してごらんなさいな」 キュルケはそう言うと、再びタバサを抱き締め、そして立ち上がり……自分の部屋へと戻った。その道程で、彼女がポツリと呟いた言葉は――誰にも届くことはなかった。「彼……結婚してるとか、奥さんがいるとは断言していないのよね」 死別した訳でもなさそうだし、自分自身に娘と曾孫がいるとも言わなかったし。あれは、婚約の申し出を遮ろうとする言い訳としては、正直なところ、ちょっとばかり迂闊な言動だったんじゃないかしら。絶対に、あたし以外にも気付いているひとがいると思うんだけど。キュルケは、あのときの太公望と周囲の言動を思い出し、くすりと微笑んだ。「ミスタ・タイコーボーって、実年齢は高いのかもしれないけれど、男女関係の機微については、ほとんど子供と同じだわ。たぶん、だけれど……修行や仕事で毎日が忙しくて、そっち方面については、手をつける暇が全然なかったんじゃないかしら。そんな彼が、妖精の『祝福』でタバサと同年代の子供にまで戻された。これって、ある意味面白い状況よね」 ……この手の会話に強いキュルケならではの、実に鋭く正確な分析であった。○●○●○●○● ――キュルケが、用意された自室へ戻ろうとしていたのと、ほぼ同時刻。 3人のうら若い女性が『白の国』アルビオンの山中を、黒い衣装を身に纏い、分け入るように進んでいた。「こんな真夜中に山歩きなんかさせちゃって、本当にごめんなさいね」 そう呟いたのは、銀縁の眼鏡をかけた女性。深く被ったフードの隙間から、理知的な素顔が覗いている。『土くれ』のフーケことマチルダであった。彼女は、現在ミス・ロングビルを名乗り、一行の先導をしている。「わたしは、雇われの傭兵だ。来いと言われれば、どこへでもついてゆく」 そう呟いたのは、マチルダとほぼ同年代と思われる、若い女性だった。短く切った金色の髪と、ややつり目がちな青い瞳が印象的な彼女の腰には、一本の剣が差してあった。「わたくしもです。これは正式に請け負った『仕事』なのですから」 そう言って微笑んだ女性は、黒衣の奥に聖職者の装束を身につけている。彼女は『始祖』ブリミルに仕えるシスターであった――あくまでも、表向きは。 そんな彼女たちの返答に、満足げな笑みを浮かべたマチルダは、再び目的地へ向けて歩き出した。シティ・オブ・サウスゴータと港町ロサイスを結ぶ街道から少し外れ、西の山を分け入った先にある――ウエストウッドと呼ばれる、ごく小さな村。そこは、彼女にとって第二の故郷であり、大切な者たちを残してきた場所であった。 ――今から、半月ほど前。 マチルダが、主人から託された『荷物』たちを無事送り届け、根城へと戻ったその翌日。茶色い羽根のフクロウが、なんと全部で10羽も、時間をおいて彼女の元へと飛び込んできた。その全てが、以前藁にも縋る思いで託した主人への願いに対する回答であった。 ひとつは『パターン別・要人救助マニュアル』と記された、詳細な救助用の手配についてびっしりと記された文書だった。それは、8羽のフクロウの両足に、それぞれ括り付けられていた。 そう。マチルダの妹たちを、安全にアルビオンからゲルマニアへ移送するために必要な手配に関して、あらゆる状況を想定したマニュアルが送られてきたのである。しかも、そこにはミッション開始準備から救助後の移送方法に至るまで、パターン別・しかもフローチャート付きで細かく記載されていた。 さらに残る2羽に託されていたものを見て、マチルダは息を飲んだ。それは、なんと総額2千エキュー相当の宝石に加え、『金額が不足している場合、3千エキューならば即座に送付可能だ。それに加え、最大2万5千エキュー。つまり、合計3万までならば何とか用意できる。これは宝石ではなく、手形での発行も可能だ。金が必要になった場合は遠慮せず、早急に連絡されたし』 という但し書きが記されたメモであった。 2千エキューもあれば、トリスタニアの郊外に、ちょっとした庭付きの家が購入できる。3万エキューともなれば――小さな城が手に入るほどの大金だ。「まったく、ふざけんじゃないよ! なんだって、こんな……貴族の資格を剥奪されたこそ泥なんかに、ここまでしてくれるっていうのさ!? そんなに、あの荷物が大切だったってのかい? アハハハハッ、まったく……傑作だよ!」 マチルダは大声で笑いながら、送られてきた『マニュアル』に目を通そうとした。だが、何故か両目が霞んでしまい、何度眼鏡を外して拭いても、まともに読み進めることができなかった――。 ……それから。マチルダは必要な準備をすべく、まずは最大の問題点の解決に動いた。それは、彼女が妹同然に可愛がっている少女が持つ特異性を隠すための行動である。 その少女には、他人には決して知られてはならない秘密があった。それは、彼女がハルケギニアの民の天敵エルフの血を半分引く者、つまり『ハーフエルフ』であることだ。 見た目は、ほぼ人間と変わらない。しかしマチルダの妹には、唯一他者と違っている箇所があった。それが『耳』だ。本物のエルフのそれに比べればずっと短いものの、長く尖ったそれを見られたら、即座に『人類の敵』と見なされ、抹殺の対象とされてしまう。 事実、彼女の母親は『エルフだから』というただその1点だけで殺された。無害どころか清らかで心優しく、最後の時を迎えるその時までも、一切の抵抗を行わなかった。さらに、そんな親子を庇った者たち全てが『敵』として粛正され、断頭台の露と消え――あるいは貴族の地位を剥奪され、住処を追われた。処刑された者たちの中には、マチルダの両親や親族も含まれていた。 にも関わらず、マチルダはエルフの母娘を恨むどころか、屋敷の隅に隠れていた幼い娘を救い出し、これまでずっと、自分の妹として可愛がってきた。ハーフエルフの娘も、そんなマチルダを本物の姉として、心から慕っている。 妹を外の世界へ連れ出してやりたい。マチルダが<マジック・アイテム>の調査を始めたのは、元はといえば、そんなささやかな願いが切っ掛けだった。装着者の『顔形』を変える<フェイス・チェンジ>の効果を持つ道具さえ手に入れば――自分の可愛い妹は、お日様の下で、誰憚ることなく過ごすことができる。当初、彼女はそう考えていたのだ。 だが<フェイス・チェンジ>の魔法は、そう簡単に<アイテム>に込められるようなシロモノではない。トリステイン魔法学院には、全身を映すことで、一時的に別の者に変身できるという効果を持つ姿鏡があったのだが、大き過ぎて、持ち歩くことなどできなかった。 そのうち、目的が手段と化し、いつしか『土くれ』のフーケが誕生した。そう――変身のためのアイテム捜索が、家族を養うための方策になってしまったのだ。それは、やがて貴族社会への鬱憤を晴らすものへと変化していった。その結果――現在に至る。 つまり、現時点では『土くれ』の情報網をもってしても<フェイス・チェンジ>の効果を持つ<マジック・アイテム>は見つかっていないことになる。たとえどこかにあったとしても、それは相当高位の貴族が極秘裏に使用しているだけに過ぎない、超貴重品だろう。 そこで、マチルダは別の手段を使うべく『土くれ』であった頃の伝手を頼ることにした。それによって、即座に動けて口が堅く、かつ<フェイス・チェンジ>の魔法が使える『裏』の人間を確保できた。マチルダは、ここにいちばん金をかけた。そのおかげか『裏』を取り仕切る者も、非常に良い人材を紹介してくれた。 次に大切なのが、護衛の選択だ。これについては、裏ではなく表側で人材を捜し、最も信頼の置けそうな者1名を雇い入れた。メイジではなかったが、逆にメイジだけで周囲を固めてしまうと怪しまれることと、何より女性であることが、マチルダの目に適った。 何故ならば、マチルダの妹が美しすぎるからだ。そんな『女性』の身柄を、荒事を商売にして生きる男の傭兵に託すというのは、できるだけ避けたい。マチルダ自身も相当な美人なのだが、彼女の妹はそれを数段上回る、神々しいまでの美麗さを兼ね添えていたから。 移送用の足や、逃避行の際に利用する宿泊所についての目星もつけた。その後の住処についても用意を済ませた。これらの作業を終え、詳細を連絡するために、妹と家族へ向けてフクロウを飛ばしたマチルダは――早速行動に取りかかった。 現在膠着中であるアルビオンの戦争が、いつ激化するか全くわからない。家族たちを脱出させるのは、出来うる限り急ぐに越したことはないのだ。 ――そして、現在。 彼女たち『救助チーム』は、遂に目的地へと辿り着いた。村はずれにある、小さな家の扉を、マチルダは小さくノックする。前もって、伝書フクロウに持たせた手紙に書いてあった通りの回数を。 すると、中から同じように扉を叩く音が聞こえてきた。それに被せるように、マチルダが再度ノックをすると、キィ……と、ごく小さな音を立て、静かに扉が開いた。 中から現れたのは、天を流れる星の河のような金髪を持つ、美しい少女だった。「お帰りなさい。待っていたわ、姉さん」 3人の女性は周囲を見回し、誰にも見られていないことを確認すると、即座に家の中へと滑り込んだ。そこには、10名を越える子供たちが待ち受けていた。全員が背負い袋をかつぎ、目をらんらんと輝かせている。それは、これから行われる『大冒険』について、既に知らされている証であった。「全員、揃っているわね?」 そう確認するマチルダに、金の髪の少女が頷いた。その少女は、真夜中……しかも部屋の中にいるにも関わらず、頭が半分以上隠れてしまうような帽子を被っていた。「紹介するわ。この子はティファニア」「あ、あの、はじめまして。ど、どうか、よろしくお願いします」 ティファニアと呼ばれた少女は、もじもじと恥ずかしげな仕草で、お辞儀をした。どうやら彼女は人見知りをするタイプらしい。マチルダの影に隠れるような位置へ立ち、そっと、見知らぬ女性ふたりに視線を投げかけている。彼女こそが、マチルダの『妹』でありエルフの血を引く少女であった。「テファ。彼女たちが、手紙に書いておいた『護衛』よ。ふたりとも、相当な腕利きだから安心してちょうだい。時間がないから、手短に自己紹介を頼むわ」 マチルダの言葉に、ふたりの女性は頷いた。「わたしの名はアニエス。ミス・ロングビルに雇われた傭兵だ。魔法は一切使えないが、剣の腕と……これには、少々自信がある」 アニエスと名乗った女性は、笑顔でそっと黒装の中に隠されていたものをティファニアに見せた。それは彼女の切り札にして、最高の相棒であるマスケット銃だった。 次いで、もうひとりの女性が名乗りを上げた。「わたくしは、リュシー。シスター・リュシーと呼んでください。『スクウェア』スペルを扱えるため、この『仕事』に同行させていただくことになりました」 だが、その名乗りを聞いた途端。ティファニアは「ひうっ……」と、何かに酷く怯えたような声を上げ、マチルダの後ろへ完全に隠れてしまった。「大丈夫だよ、テファ。彼女は、テファを『異端審問』へかけにきたわけじゃない」 怯えるティファニアを、マチルダは抱き締めて慰めた。そんな彼女に応えるように、シスター・リュシーは静かに頷いた。だが、その顔には、聖職者と呼ぶにはあまりにも不釣り合いな笑みが浮かんでいた。それは、例えていうならば――燃えるために必要な空気を求め、ひたすらに彷徨う炎。「ええ。あなたの事情は聞いていますよ。怖がることなどありません。なにしろ、わたくしは『ブリミル教』など、欠片も信じてはいないのですから」 そう言うと、リュシーは懐から杖を取り出した。「さあ、もう時間がありません。まずは、あなたの『顔』を変えさせていただきます。そのためにこそ、わたくしはここまでやって来たのですから」 シスター・リュシーはティファニアへ向け、ゆっくりとルーンを紡ぎ始めた。それは、もちろん<フェイス・チェンジ>と呼ばれる水と風のスクウェア・スペルであった。呪文が完成すると同時に、ティファニアの顔と髪の色、そして耳の形は――完全にこれまでとは別人のものへと変化した。 ……こうして。ウエストウッドと呼ばれた小さな村は、この日を最後に、誰一人住む者のない廃村と化した。そして、そこにいた最後の住民たちの行方を知る者は、ごく限られた人物――彼女たちの救出作戦を練った太公望と、その資金を全額捻出した、オールド・オスマンのふたりだけとなった。 これは、太公望の仲間を厚遇する姿勢と。オスマン氏による、彼女たちの事情を知るがゆえの深い同情。それらが合致した結果、実現した――総額2万5千エキューもの大金が、表と裏で動いた大救出劇である。 だが、そんな救出劇を影から支えた彼らにも、まだ知らされていないことがあった。それは――まるで、金色の尾を引く流れ星のように、白の国から降りていった少女が持っていたもの――現時点では、まだ明かすことのできない重大な秘密にして、本人すら知らない運命について。 既に『箒星』の名を冠した桃色の髪の娘のそれと、全く同じものを背負ったハーフエルフの少女ティファニアは、ここで一旦舞台裏へと消えてゆくのだが――後に、本来の歴史とは全く違う形で、再び表舞台へと、その姿を現すこととなる。○●○●○●○● ――黄金の流れ星が、無力な幼子たちを抱えて動きだそうとしていた、ちょうどその時。同国内にある『レコン・キスタ』総本部にて。「おおおおお! ミス! ミス・シェフィールド! そ、それはまことかね!?」 司教の衣に身を包んだ痩せぎすの男が、まさしく感に堪えないといった風情で、自分の目の前に立つ女性に向け、喜びの声を――割れんばかりの音量でもって届けていた。「はい、クロムウェル閣下。これが、その証文にございます」 シェフィールドと呼ばれた女が、ついと男に一通の便箋を手渡した。彼女は黒い装束を身に纏い、フードを深く被っているため、その顔はおろか表情も伺い知れない。 クロムウェルと呼ばれた司教姿の男は、受け取った便箋に目を通し、歓声を上げた。「トリステインの近衛衛士長が、我が『レコン・キスタ』へ加盟してきたと! かの国へはそれなりの伝手があったとはいえ、あくまでもあれは裏方。しかし、ワルド子爵は違う! これは、女王の喉元に杖を突き付けたに等しいことだ。素晴らしい、実に素晴らしいぞ。さすがはミス・シェフィールドだ!」 クロムウェルは、椅子から転げ落ちるようにしてシェフィールドの元へ近寄ると、その手を取った。まるで、貴人のそれに触れるが如く。だが、そんな彼の態度を窘めるように、シェフィールドは首を振った。「閣下。あなたは、もう……うらぶれた街の小さな酒場で、独りくだを巻いているような、ちっぽけな存在などではないのです。聖地を回復するために立ち上がった神の戦士。『レコン・キスタ』の総帥にして、全てを統べる者なのです。その自覚を持って頂かなければ困りますわ」 彼女の言葉に、クロムウェルは身体をビクリと反応させ、背筋を伸ばした。「そう……その通りだ、ミス・シェフィールド。忠告感謝する」 クロムウェルの言葉に満足したのか、シェフィールドは満足げな笑みを浮かべた。それは、双月に照らされて、怪しげに輝いていた。 ――造られし歴史の舞台は、着々と整いつつあった。○●○●○●○● ――白の国の舞台裏で、黒装束の女参謀が微笑みを浮かべてから、わずか数分後。ガリア王国の首都・リュティスにある小宮殿プチ・トロワの一画では。「知らないっていうのは、本当に怖いことだわぁ~。そうは思わなくって?」「ククッ……あァ、オメーの言うとおりだぜ。ッたく、本当に馬鹿な奴らだ」 自室であり、そうでない場所。亜空間と呼ばれる場所に創られた、特別な『部屋』の中。目の前にあるたくさんの『窓』の前で、その『部屋』の創造者である、黒装束に身を包んだ少年と、彼のパートナーたる蒼い髪の姫君が、揃って笑い声を上げていた。 現在『窓』の中に映っているのは、とある貴族たちの集まりであった。「こぉ~んな夜中に、わざわざ詰め所の中で集会とか。自分たちが、今ここで密談してますって、喧伝しているようなものじゃないのさ!」 そう言って、蒼い髪の姫イザベラが嘲笑すれば。「おまけに、見張りすら立ててやがらねぇ。どこまで笑わせてくれるんだかなぁ」 青い肌の少年、王天君がそれに追随する。「どこか別の場所から聞かれてる、見られているだなんて、欠片も疑ってないんでしょうから。なにしろ、自分たちをとぉっても優秀だと信じ込んでいる連中ですものね。みぃんな、魔法がすっごくお上手な、お貴族サマですから~。おほ! おほ! おっほっほ!」 現在、ふたりの前で繰り広げられている舞台劇。それは『北』と『東薔薇花壇騎士団』のふたつを除く、王国騎士団内部に潜む『シャルル派』と称する騎士たちの、今後の指針を決める上での密談であった。 こんな真夜中に、あえてグラン・トロワの内部にある衛士隊の詰め所でそれを行えば、事が表沙汰になることなどないだろう。そんな思惑でもって秘密会議を開いたシャルル派貴族たちであったのだが……結果はご覧の通り。このふたりにはそんな計画など、完全に筒抜けであった。 現在、彼らが話題にしているのが『異邦人』。つまり……タバサの使い魔・太公望のことである。 現在、シャルロット姫はラ・ヴァリエール公爵家で歓待を受けており、来週からゲルマニアのツェルプストー家へ移動する。これらの内容は、ガリア王家へ、タバサの元から詳細な日程も含め報告されている。問題の人物は、正式にガリアの『騎士(シュヴァリエ)』となる際に、配属先となる『東薔薇花壇騎士団』の団長及び『北花壇騎士団』の長たるイザベラとの面通しを行うことになっている。 この面通しは、ふたりがゲルマニアから戻った後――来月早々に予定されている。その時に見た『異邦人』の態度や能力次第で、彼らは今後の方針を決定しようという相談をしているのだ。わざわざ、夜半を過ぎた――こんな時間帯に。「ハハッ、せいぜい頑張んな。コイツらのことだ、どぉせ太公望の上っ面だけ見て『人形姫』から『イザベラさま』に乗り換えようってぇ腹づもりなんだろうからよ」 手元の菓子入れをがさがさと漁りながら、王天君は呟いた。「魔法的に『無能』なジョゼフ王に仕えるってなぁ癪に障る。だから、ちょびっと魔法が使えて、若ぇから自分たちの言うことをよぉく聞いてくれそうな王女様(プリンセス)にお仕えする。そんな忠誠に溢れかえりまくった貴族のミナミナサマを、オメーならどう扱う?」 そう言を向けてきた王天君に、イザベラはフンと鼻を鳴らして答えた。「ええ~ッ! わたし、いらないわぁ! あ~んな目が利かないどころか、密談場所の選定すらまともにできない連中なんて。あ、いや、ちょっと待って! ああいうお馬鹿さんたちにしか任せられないようなお仕事を、いかにも重要な任務みたいに見せかけて、放り投げてあげればいいのかしらッ? たとえば、最近発生してる新教徒による爆破予告関連の一斉捜査とか?」 そう呟いたイザベラの声を聞いた王天君は、ゲラゲラと大きな笑い声を上げた。「おいおい、爆破予告が重要じゃねェとかよぉ! 仮にも一国のお姫サマが言うことじゃねぇだろぉよ?」「だってぇ、犯人のことなんて、とっくの昔にわかってるんですもの。だからって、捜査をさせなかったら王家の看板に傷が付くわ。仕方がないから、彼らに任せてあげようっていうのよ? わたしって本ッ当に優しい王女だわ。そうは思わなくって?」 新教徒による爆破予告。これは、なんと父王に申し出て許可を得た上で、イザベラ自身が仕掛けたガス抜きなのだ。現在の王室に不満を持つ者や、抑圧されている新教徒の鬱憤を晴らすために、自前の工作員を使って、わざとそれらしい動きをさせているに過ぎない。 実際に、いくつかの家屋や軍施設を爆破してみたりもしているのだが、これらは全て、近日中に廃棄予定の国営施設に限定されており、かつ、そこから出た怪我人とおぼしき者たちも、全てイザベラ配下の工作員。そう、つまり……これは完全な自作自演。この『作られた混乱』を見せることによって、本物の内乱を抑えるという一種の荒技だ。 さらに。もしも工作員に接触してくる者がいた場合、それはそれで別組織の動きを掴む機会を得ることが可能になるという、一粒で二度美味しい『策』なのである。「昔のわたしは、ここにいるのが嫌で堪らなかった。日が差さない裏側。眩しい表舞台になど絶対に出られない、影たる自分が。でも、最近『裏』も悪くないんじゃないか、そう思えてきたのよ」「まぁ、住めば都って言うからなぁ。本気でやってみると、案外面白ぇモンだろ?」「ええ。あなたが教えてくれなかったら、気が付かなかったかもしれないわ」 この『窓』の中にいる、わたしの<魔法>しか見ていない愚かな連中と、あなたは根本から違う。そう独りごちたイザベラへ、王天君は、満足げな笑みを返した。「それにしても……あの連中! あなたの弟を『いらない』とか、よく言えるわよね。知らないって、本当に怖いことだわぁ。巧くやれば、とんでもない逸材が手に入るかもしれない機会だっていうのにねェ!」 ――とんでもない逸材が、手に入るかもしれない。 イザベラは、ラグドリアン湖で太公望が発生させた、巨大などという言葉では、到底表しきれないほどの竜巻を目にしていた。にも関わらず、彼女はその<力>について、父王には一切報告をしていなかった。それは、王天君に対する遠慮もあったのだが、それ以上に――とある考えを持っていたからである。 そんなイザベラの考えを、まるで読んでいたかのように、王天君が口を開いた。「なあイザベラよぉ。間違っても、太公望を言いくるめようだなんて思うなよ? いくらオメーにそっち方面のセンスがあるっつっても、ヤツに対抗するのはまぁだ早すぎるぜぇ? まぁ、んなこたぁオレが言うまでもなくわかってると思うけどよぉ」「忠告ありがと。わたしも、そこまで思い上がってなんかいないわ。なにせ初対面の時、完ッ璧に騙されちゃったんだから! オーテンクンがここへ来てくれなかったら、今も騙され続けていたはずよ。でもね、だからこそ……やりようがあると思うの」 そう言ってニッと笑ったイザベラに、王天君は実に小憎らしい笑顔でもって応えた。 ――時は、ひとりの無知な少女を、知る大人へと変貌させつつあった。