「どうにか無事乗り切れたようだのう」 ぐったりとソファーに沈み込んだ太公望の目は、まるで腐った魚のようだった。「舞台劇を演じている気分だった」 その隣で、珍しく疲れの色を瞳に滲ませたタバサが呟けば。「ミス・タバサの言うとおりだよ。劇を終えたばかりの役者たちは、きっとこんな気分なんだろうと、ぼくは思うね」 吐き出すように紡がれたギーシュの言葉に、残る一同は頷いた。「いやはや……実際とんでもない脚本でしたぞ、あれは」 と、感嘆の声を上げたのはコルベール。「うーむ……わしも是非読んでみたかったのう」 実に残念そうな表情で、そう述べる学院長に。「でも、あれを残しておくわけにはいきませんわ」 キュルケが、真顔で告げた。 ルイズとエレオノールが出て行った後。来客室に残っていた者たちは、才人が戻って来るのを待ちながら、先程まで繰り広げていた『舞台劇』について語り合っていた。 ――そう、実は。あの一連の会話のほとんど全てが、太公望が作製したマニュアル通りに操作されていたのだ。ただし、エレオノールの研究内容に関する詳細などの、最も盛り上がりを見せた歓談部分については事前に予測できる性質のものではないので、それらは全てアドリブだが。 それだけではない。裏で才人に部屋を片付けさせたり(自分用の荷物を一時的に別の場所へ移動するなど)衛兵詰め所から吊り下げタイプの細い剣を借りてくるよう指示するなど、各方面にわたっての行動が、タイムテーブルつきで記されていたのである。 しかも。ルイズが姉のそばで緊張のあまりマニュアルの内容を忘れそうになり、それが恥ずかしくて要所要所で顔を赤らめながら必死に思い出そうとしていたことや、最後に彼女が姉に頬をつねられるところまで、見事に計算の上で台詞が配置されていた。 ……もっとも、このルイズに関する情報まで開示されていたのは、唯一タバサのみだったのだが。「大切な情報を留め置いたおしおきなのだ。ルイズには黙っておれよ」 ――などというメッセージつきで。彼女が妙に疲れた顔をしているのは、それを知っていたからだ。 と、そんなところへ、ヴァリエール家の姉妹を部屋まで送り届けに行っていた才人が戻ってきた。精魂尽き果てたと言わんばかりの一同を見た彼は、とりあえず一番近くにいたギーシュに声をかけた。「みんな、ずいぶんとくたびれた顔してんな」「そりゃあ疲れもするさ。きみはあの場にいなかったから、わからないだろうけど」 ギーシュからため息混じりの説明を受けた才人は、思わず「うは……」と声を上げてしまった。それからまじまじと太公望を見つめながら聞いた。「なあ、まさかとは思うけど……ひょっとして、閣下の国の将官クラスって、みんなこのくらい当たり前にこなしちゃったりするものなのカナ? カナ?」 問われた太公望は、さも心外だと言わんばかりの表情でこうのたまった。「この程度のことは、なにも将官でなくともやれるであろう? 会議に臨む上司のために、秘書官が資料を用意しておくのと、別段変わらぬ」 などと、あっさりと返した太公望にオスマン氏が言った。「のう、ミスタ・タイコーボー」「おぬしの秘書になれという話なら断る」「そう一方的に拒否せんでもよかろ? 少しは考えてくれてもええじゃろうに」「嫌だ。なんでわしが、そんな面倒なことを引き受けねばならんのだ!」「ミス・ロングビルがいなくなってからというもの、書類がほんと片付かなくて……」「秘書の身辺調査を怠った、おぬしが悪いのでは?」「それはさておき」「置くなっつーの!」「老い先短い老人の頼みじゃ。聞き届けてはもらえんかのう?」「他を当たるがよい。わしは知らぬ。知ら~ぬ」「そんな冷たいこと言わんと、ねえ?」 漫才を始めてしまったふたりを止めたのは、コルベールだった。彼は、どこか申し訳なさそうな、それでいて不思議でたまらないといった表情で太公望に尋ねた。「以前から疑問に感じていたのだが、どうしてきみは軍人になったんだね? 私の偏見かもしれないが、軍隊に所属するなぞ面倒の極みだと思うが」 コルベールの質問に、タバサを初めとした例の「異国の王族説」を知っていた者たちの顔が強張った。ところが聞かれた本人はというと、至極あっさりと理由を述べた。「師匠に課せられた修行の一環でのう。やらねば破門だと言われてしまっては、さすがのわしにもどうすることもできんかったのだ」「なんと、破門宣告と引き替えですと!?」「それは酷い」「さすがに、いくらなんでもあんまりじゃなくて?」 太公望へ向けて同情の眼差しを向ける一同。しかし、才人にはその理由がわからない。「破門って、単に弟子じゃなくなるってだけのことだろ? 俺だったら、絶対やりたくないことと引き替えだったら、そのくらいアリだと思うんだけど」 これを聞いたギーシュが、やれやれと肩をすくめた。「平民のきみにはわからないだろうな。ぼくたちブリミル教徒にとっての『破門宣告』は、社会的に抹殺されることと同義なんだよ」「たとえば?」「まずは、貴族としての地位を剥奪される。さらに、他のブリミル教信者と交流することも許されなくなるんだ。結婚はおろか、死んでも葬式すらしてもらえなくなる。『始祖』に祈りを捧げることすら禁じられる。こんな怖ろしいことはないよ」「う~ん。昔の村八分みたいなもんか?」「ムラなんとかはよくわからないが、貴族どころか人間扱いされなくなるのは確実だね」 そこへ、タバサがぽつりと付け加える。「異端認定よりも畏れられている罰。それが破門宣告」 これを聞いた太公望は、うまくいったと内心ほくそ笑んだ。 仙人界における破門は、せいぜいが追放刑を受ける程度で、彼らが言う程厳しいものではないのだが――自分が好きこのんで軍を率いたわけではないということを納得させることはできたようだ。とはいえ、師匠から破門を申し渡されそうになったのは事実であるし、別に嘘をついているわけではない。「とは言うものの、師匠としては、わしの他に適任だと思える者がおらんかったから、そうせざるを得なかったのだろうが」「つまり、あなたが軍にいる必要があったということ?」 タバサの問いかけに、太公望は頷いた。「結果的には、そういうことになるのう」「それは、何故?」「敵対する派閥が、とある帝国に与していたからだ。きゃつらを放置しておけば戦乱が続くと判断した上層部が、わしと同僚の数名を、帝国と対峙していた公国へ派遣したのだよ。わしとしては、武力に頼らず平和的な交渉で争いを収めたかったのだが……残念ながら、そう上手くはいかなかった」 つまり、彼は最低でも一国の外交と軍務を牛耳る派閥に所属していた宮廷貴族であり、同盟国において客将として扱われていた人物なのだ。しかも、王族疑惑が完全に消えたわけでもない。そこまで察したタバサの心臓付近が、再びキリキリしてきた。「ところで、その時の合戦規模はどのくらいのものだったんだい?」 ギーシュがした質問に、太公望はわずかに眉を寄せながら答えた。「開戦当初こそ、両軍併せて10万程度の数だったのだが……最終的には、総勢100万の大軍がぶつかり合う大決戦に発展した」 ハルケギニア組は、それを聞いて戦慄した。100万などという大軍は、はっきり言ってこの世界の常識では考えられない規模だ。いや、最初の10万の時点で、既に常軌を逸した激突なのである。 地球出身でミリオタの才人はというと「三国志とか、昔の中国っぽい数?」などという感想を持っていた。まさか、その中国を舞台に繰り広げられた合戦の話を聞いているとは、夢にも思わなかった。 オスマン氏は、頭の中で密かに試算を始めた。魔法学院を卒業した後、士官学校へ進み軍人を志す若者は大勢いる。卒業生らと顔を合わせる機会が多い氏は、トリステインや各国の情勢を、一般的な宮廷貴族以上に把握している。なればこそ、この数字を聞いて慌てた。 もしもトリステインの王軍が、今の時点で全軍を動かした場合――陸・海・空軍併せて、せいぜい1万がいいところであろう。諸侯軍や国境防衛軍を全てかき集めたとしても5万。大国ガリアですら、15万が限界だろう。 もっとも、ハルケギニアは数の少ないメイジが主体。周と殷は、平民の兵士たちと両手の数ほどの仙人という大きな構成の違いがあるので、動員力という意味で双方を比較するのは間違っているのだが、それを知らずに数だけ聞けば、彼らが驚くのも無理はない。「正直、我々には想像もつかない大合戦ですな」 コルベールは思った。ロバ・アル・カリイエでは、それほどの大規模会戦があったというのか。研究者として悲しむべきことだが、戦争は技術革新が行われるきっかけとなることが多い。東方諸国がハルケギニアに比べ、発達しているのも当然だ……と。 オスマン氏は、内心の動揺を抑えつつ尋ねた。「君は師団を指揮した経験があるそうだが、公国軍ではどのような立場にあったのかね?」 その問いに、今更隠しても仕方がないと言わんばかりに答える太公望。「正確には、同盟軍だ――帝国と隣接する四カ国が同盟を結び、兵を派遣したのでな。で、わしはそこに参謀のひとりとして従軍しておった。ただし、戦況次第では自ら部隊を率いることもあったがのう」「参謀かあ……」「確かにそれっぽい」 太公望の説明を受けた一同は、その説明に納得した。 実際には情報精査から作戦の立案、軍全体の指揮など、その人物の能力によって幅広い行動が求められる役職にして、総軍司令官を兼ねることもある『軍師』を務めていたのだが、ハルケギニアには軍師という職名自体が無いので、太公望は似た性質を持つ『参謀』――指揮官の幕僚として作戦計画を立てたり、用兵などに関して進言する役割を負うが、軍師と異なり指揮権を持たない――だったと話した。これは元の身分を隠すためというよりも、単純に説明するのが大変だからだ。「今はもう、その戦争自体は終わってるんだよな?」「うむ。周辺諸国も、だいぶ落ち着きを取り戻してきたところだ」「お前が軍辞めてのんびり旅できてたってことは……つまり、同盟側が勝ったんだな」 才人の言葉に、太公望は心底疲れたといったような顔で返した。「最後の最後まで『女狐』のやつに引っかき回されたが、どうにか……な」「ちょ、ちょっと待って! 敵には女将軍がいたんですの!?」「……いたもなにも、その女こそがわしらと敵対する派閥の『頭脳』にして、帝国軍の参謀総長だったのだ」「ええーッ!」 驚きの声を上げたのはキュルケだ。これまたハルケギニアの常識になるのだが、戦場は男のものであって、女が出る幕はない。たとえ従軍を希望しても、鼻で笑われるのがオチだ。しかも参謀総長などという重要なポストに女性が就任することなど、まずありえない。「能力の有る無しに、男も女も関係ないであろう?」 この太公望の発言に、キュルケは目を輝かせた。「つまり、実力さえあれば性別も家柄も問題にならないのね?」「まあ、なくはないが……それでも、この国のようにガッチガチではないのう」「へえ~。あたしたちゲルマニアに近い考えなのね。戦争がなければ、きっといいところなんでしょうね……ミスタの国って」 そのキュルケの発言に、太公望は破顔でもって答えた。 ――ちなみに、この時点での才人の思考はというと。「あいつんとこ、確か本拠地が宇宙船なんだよな!? おまけに『同盟軍』対『帝国軍』とか……うは! スペースオペラたまんねえ!!」 などという、ちょっと不謹慎な方向へ移行しつつあった。まあミリオタで、かつ戦争というものを肌で実感できない日本人にとってはある意味仕方のないことではあるのだが。 割り込むようにしてタバサが問うた。「あなたは、その女将軍を知っているの?」「嫌というほどな」「どんなひとだったの?」 その問いに、腕を組み……当時を思い出すように語る太公望。「ああ……まずは見かけから言うと、いわゆる『傾国の美女』というやつだ。実際とんでもなく美しい女でな。ただしその本質は『魔性』。側に近寄っただけで骨抜きにされる者たちが多数。その『美の信奉者』も数万人単位。うちの国王陛下なぞ、事前知識があったにも関わらず、たまたま戦場ですれちがった時に、鼻血吹いて馬から転げ落ちたくらいなのだ」「そこまでかい! 是非一度、その姿を拝んでみたいのう!」 思わず叫んでしまったオスマン氏と、それをあきれ顔で見つめる生徒たち。そんな中、キュルケが実に鋭いツッコミを入れる。「ふ~ん。もしかして、ミスタ・タイコーボーも誘惑されたクチ?」「……初対面の時にクラッといきかけたのは否定せんが、それ以上は何もないからな」 もちろんこれは、太公望が『女狐』と称した相手が持つ宝貝『傾世元禳(けいせいげんじょう)』に当てられかけた時の話だ。これは射程範囲内にいる者全てを魅了し、使用者の操り人形にする<魅惑の術>を放つ、強力かつ凶悪なアイテムである。 使い手たる『女狐』自身の美しさと実力が相まって、とてつもない威力を発揮。最大で100万人以上の人間を操った、怖ろしい『兵器』だ。もっとも、太公望はさすがにそこまでの情報や、彼女との間にあった因縁について開示するつもりはなかった。 とはいえ、ここまでの事情を話したおかげで「彼って別にシスコンとか、女に全然興味がないってわけじゃないのね、よかったわ」などと、キュルケに持たれていた変な誤解が解けていたので、結果オーライである。「でも、美人だから何をしても許された、ってわけじゃあないわよね。当然、相応の実力があったわけでしょう? 国政を動かせるほどの派閥を作れたくらいなんだから」「うむ。実際、とんでもない『女狐』であった」 と、今の言葉に疑問を抱いたのはタバサだ。「……だった? もしかして」「ああ、あの女は既におらぬ。あやつは『土に還った』のだよ。それも、わしがひとりであやつを追っていた時に、わざわざわしの目の前で、見せつけるかのように命を散らして逝きおったのだ。まったく……あれでは、恨み言のひとつも言えないではないか」「あらミスタ、ひょっとして戦場で芽生えた『禁断の愛』とか、そういう……?」 こういった『空気』に敏感なキュルケが、すかさず茶化す。その言葉に、タバサも……他の参加者たちを含む全員が身を乗り出してきた。「あっちはどうだか知らんが、自分についてはよくわからぬ。なにせ、常に命の取り合いをしていた相手だからのう」 そんな彼らに苦笑して答える太公望の目は、どこか遠くを見ているようだったが――しかし。そのわずか数秒後。彼の瞳に宿る光が、ふいに悪戯っぽいものに変化した。「わしの『魔王』演出なぞ、あの女に比べたら可愛いものだぞ?」 太公望はふふんと鼻で笑いながら、生徒たちを見回す。赤くなって俯く少年少女たちと、何が何だかわからない教師陣。そこで、太公望はさきほど行われた『悪戯』について、オスマン氏たちに話した――『おしおき』の内容まで含め、詳細に。「まあ、きっちり締めてはおいたので、停学にまではしなくてもよいと思うが」「では、反省文を書いて提出させるというのはどうでしょう」「それもありか。ふむう、枚数をどのくらいにするかじゃが……」 などと、視線を交わしつつノリノリで罰則について話し合っていた教師陣3名とは対象的に、才人を含む生徒側は、既に全員顔が真っ青である。それをよく観察していた大人たちは「もう勘弁してやるか」と目で語り合い、代表として太公望が口を開いた。「まあ、とにかくだな。悪戯に関してはまだいいとしてだ、才人よ」「は、ハイ」「ああいった閃きがあったら、必ずわしかコルベール殿に相談してくれ。あの『防御壁』はな、最悪の場合、展開した瞬間におぬしとルイズ、ふたりの命を奪ってしまった可能性があったのだぞ?」「『いしのなかにいる』状態になる、ってことだろ?」 ああ、そのあたりは気付いていたのか……と、思いつつも念のため追加する太公望。「それなのだがな。もしもあの壁が<念力>を解いた後も、実体化したまま残っていたとしたら? うまく調節できずに、だんだん縮んできて、中の者が潰されたら? 使い手が気絶した途端、割れて崩れ落ちてきたら? 内側が真空だったら? と、まあ……こういった可能性も充分にありえたのだよ。だから、わしはルイズが自らバリアを解くまで手出しせんかったのだ」「う、そこまでは考えてなかった」「おぬしのアイディアは、確かに面白い。だが、何事も最初は危険がつきまとうのだよ。考えてはいけない、ということではない。あくまで、実行する前に声をかけてほしいだけだ。もちろん、これはおぬしたちを心配してのことだ。わかってくれるかのう?」「よくわかりました……」 ガックリとうなだれる才人。実際に命の危険があったのだと聞いて、さすがにお調子者の彼でも血の気が引いていた。「まあ、あれだけ痛い目に遭わせたのと、ルイズへの指示書に『防御壁の使用及び口外は、以後許可が出るまで禁ず』と書いておいたので、しばらくは大丈夫だと思うが、この件については、念のためしっかりとおぬしの口から伝えておいてくれ」「ああ。よく説明しておくよ」 話の区切りがついたと見たオスマン氏が、ぽんぽんと手を叩いた。「さて、だいぶ夜も更けてきたし、みな疲れたじゃろ? そろそろ解散しようか」 オスマン氏の提案に、頷く一同。 ――なお、この翌日。エレオノール女史は上機嫌で朝食をいただいた後、足取り軽くヴァリエール領に帰っていった。緊張のあまり、長姉を乗せた馬車が見えなくなった途端、その場へ崩れ落ちたルイズを残して。○●○●○●○● ――昼食時。ルイズは仲間たちに笑顔で礼を言った。「あのエレオノール姉さまが、わたしに……あんな嬉しそうな顔で話をしてくれるなんて、初めてだった。あんなふうに笑ってるのも、見たことなかった。本当にみんなのおかげよ、ありがとう」 夕べは緊張こそしていたものの、姉妹の会話自体は相当盛り上がったようだ。「それにしても……あの気難しいエレオノール姉さまと、あんなふうにお喋りができるだなんて。ミスタ・タイコーボーは話が上手よね」「そうかのう? 単純に、研究の話をしただけなのだが。研究者というものは、自分のしている研究について、他の研究者と話し合い、お互いに刺激しあう関係になりやすいものだからな。もちろん、性格にもよるがのう」 太公望はそう言いながら、サラダのハシバミ草を器用によけて、そろりとタバサの皿に乗せている。タバサは、代わりにフルーツを1品これまたこっそり提供していた。「それ以外でも、ぽんぽん話が続いてたじゃないの。わたしだったら、あそこまでできないわ。なにか、コツでもあるのかしら?」 その疑問に対し、太公望はちょっと考えると……実例を示してみることにした。「そうだのう、モンモランシー」「な、何かしら?」 ギーシュの隣にちょこんと座っていた彼女は、突然話をふられて驚いていた。「あのな、これからちょっとした『見本』のためにギーシュを借りる。これは、あくまで『演習』なので、浮気ではない。よって例の数にカウントしないでやってくれ」「……ミスタ、あなたはぼくに何をさせようというのかね」 思わず椅子を引いて後ずさったギーシュに、太公望は笑顔でこう命じた。「キュルケを褒めつつ、できるだけ会話を引き延ばしてみるのだ」「……は?」「キュルケは、これ以上会話を続けたくないと感じたら、その時点で『終了』と言うのだ」 この命令に、面白そうだ! という顔をする面々。その中で最も期待に満ちあふれた表情をしていたのは、指名されたキュルケ自身であった。「ほれ、やってみろ。おぬしは『全ての女性を楽しませる薔薇』なのであろう? ならば、キュルケが喜ぶような会話ができて当然。さあ!」 と、太公望から促され、ふむ……と、少し考えたギーシュは、彼女へこう切り出した。「キュルケ……きみのその髪は、まさに炎のようだよ。二つ名に相応しい」「はい終了」「え~」「早いなオイ」 さすがに気の毒に思った才人がツッコむと、「だって、ちっとも面白くなさそうなんだもの!」 と、がっくりきているギーシュに追撃をかけるキュルケ。さすがに火系統だけあって、実に容赦がない。「では、次にわしがやってみようと思うのだが……かまわぬかのう?」「あら、それは楽しみね」「今から始めるぞ。ふむ……その、爪に塗られておるものは、何といったか」「このマニキュアがどうかしまして?」「ほう、それは『まにきゅあ』というのか。実はな、ちと気になっておったのだが。何故、今日はいつもと色が違っておるのだ?」「えっ? あたし、毎日変えてるわよ?」「あ、いや、そういう意味ではなくてだな。おぬし、今月に入ってから、曜日によって決まった色をつけておったであろう? にも関わらず、今日はそれらの法則から外れていたのが気になってのう」 この発言に、聞いていた一同が驚いた。逆に、キュルケは満面の笑みを浮かべている。「さすがね、そこまで細かく見てくれていたなんて。これはね、実はゲルマニアから届いたばかりの新作なの。初めて使う色だったんだけど、思ったより発色が良くて気に入ったわ」 そう言って、自慢げに爪を見せびらかすキュルケ。「おぬしは、そういう『新作』といった流行に敏感だのう」「女として当然よ。ゲルマニアだけじゃなくて、トリステインのものもチェックしてるんだから」 オホホホホ……と、上機嫌で笑うキュルケ。周囲にいた者――特に女性たちが、彼女の爪に注目する。そして「たしかにいい色ね……」とか「キュルケの肌にぴったりの色だわ」などという囁き声が、離れた場所から聞こえてくる。キュルケはそれらの声を聞いて、とても気分がよくなったようだ。「それでだな。そんなおぬしに聞きたいことがあるのだが」「あら、ミスタが……あたしに?」「うむ。実はな……」 そう言って、ちょっと視線を下に向けると、右手の指で頬をかきはじめる太公望。それを見て、キュルケは彼が何を言いたいのか、おおよそのところを理解した。そして、柔らかな笑みを浮かべてこう言った。「なるほどね……だいたいわかったわ」「さすがはキュルケ、察しが良くて助かる。でな、それに相応しいものを教えてもらいたいと」「オホホホホ、このあたしに任せておけば大丈夫! まあ、たしかにこれは殿方だけじゃ難しい問題よね。ところで……」 そう言って、視線を太公望の目に合わせるキュルケ。「もちろん、それ相応の対価は用意させてもらう。そうだのう、今度トリスタニアの街で……」「あら、いいわね。実は、美味しいデザートを出すお店の噂を聞いたんだけど」「ほう、それはとてもいい話だ」 にっこりと笑った太公望に、これまた笑顔で応えるキュルケ。「でしょう? でも……」「ふむ? 何か問題でもあるのかのう?」「あら、ミスタにしては察しが悪いわね。その件について、あたしの部屋でゆっくりと、ふたりっきりでお話を……そうね、今夜にでも」 ごぃん! ごぃんっ!! と音を立て、長く太い木の杖の先が、ふたりの頭にクリーンヒットした。衝撃を受けた頭を押さえ、テーブルの上に突っ伏したキュルケ、そして太公望。「いった~い!!」「何故わしまで殴るのだタバサ……」「なんとなく」 まさに風の如き素早さで杖を仕舞うと、再び着席するタバサ。「つーかまるっきりナンパ……口説いてるみたいだったぞ」 すごいものを見た! とでも言わんばかりの才人に、うんうんと同意する一同。「違うわ! おぬしら、話の内容をちゃんと聞いておらんかったのか!!」 うがーっ!! と周囲を威嚇する太公望。だが、支援は思わぬところからやってきた。「ミスタ・タイコーボーは、キュルケに、誰かへのプレゼントを見繕う手伝いをしてもらいたい、対価に街で何か奢るから……っていう話をしていたのよね?」 こう援護してきたのはモンモランシー。その言葉に、ようやく見ていた全員が「あ!」という反応をする。「そういうことだ。途中で話がおかしな方向へ流れてしまったが、ちゃんと軌道修正の用意もあったのだ」「え~、あたしは結構本気で」 ごぃ~ん!! タバサ会心の一撃が、キュルケの頭を捉えた。再び突っ伏すキュルケ。「でも、同じように褒めているのに、ぼくはあっさり会話を切られたのは何故だい?」 当然とも言うべきギーシュの質問に対し、最初はキュルケが答えようとしたのだが、それを制して太公望が説明する。「キュルケは、何か自慢したいようなことがあったとき、いつも髪を掻き上げるであろう? これは、つまり自分の髪の毛に自信があるということだ。わし以外にも、それに気付いている者は当然いる。よって、髪については『褒められ慣れている』のだ」 と、ここまで言ったところで、キュルケに補足を依頼する。「そういうこと。だから、これ以上ギーシュと話しても面白くなりそうもないと思ったの。でも、ミスタは気付くひとが滅多にいない、あたしの『マニキュアへのこだわり』を突いてきたわ。だから、あそこまで盛り上がったのよ」 しかも……と、キュルケは続ける。「わざとそれっぽい仕草で、あたしに頼み事があるように見せかけて、誘導してたわ。それに興味があったから、あたしも乗ったってわけ」「まあ、キュルケはこのように察しのいい女性だから、今の『技』が通じたのであって、常にこれが可能であるとは限らない。よって、相手をしっかりと見極めた上で、より好みそうな内容を提示すれば、このようにお互いに楽しく話ができるわけだ」 少し冷めてしまった茶を口に流し込みながら、太公望は説明する。「かつ、やりかた次第で、さっきキュルケがわしにしようとしたように、自分が望む方向へ話題そのものを誘導することも可能なのだ……が」 そこで突然太公望は、会話を中断してしまった。当然「何事だ?」と訝しむ一同だったが――ふと周囲を見て、絶句した。「なぜこんなにひとが集まっておるのだ……」 彼らの周りには、大勢のひとだかり――特に男子生徒、さらには教師までが集まって、ぐるりと輪を作っていた。「いや、なかなか興味のある話でしたので」「面白そうだったから、つい」 口々に言い合う野次馬たちに、呆れたような口調で問う太公望。「あのな……おぬしらは貴族であろう? ひとから何か聞きたいのなら、せめて気を利かせるべきではないかのう?」 そう言って、彼は自分の空っぽになったデザート皿をじっと見つめた。途端にドタバタと走り出す少年少女と教師たち。積み上がってゆくデザート、そしてフルーツ。そんな様子を満足げに見ていた太公望は、ふと、ある人物の行動に目を留めた。「ほほう、なかなか面白いではないか。これは……!」 そして、会話のテクニックを昼休み終了まで披露し続けた太公望は、それが終わると同時に、先程目を留めた『人物』に、こっそりと声をかけた。その後――夕刻。 いつもの時間、いつもの中庭。だが……そこには、これまで存在していなかった、ひとりの人物が新たに加わっていた。「ミスタ・タイコーボー。何故彼がここにいるのかね?」「よほどのことがない限り『仲間』は増やさないんじゃなかったかしら?」 ギーシュとモンモランシーの問いに、太公望は満面の笑みでもって応えた。「その『よほど』があったからなのだよ。理由はこのあとちゃんと説明する」 そして、太公望は問題の人物に視線を移した。その先には――茶色がかった金色の髪を短めに揃え、丸い眼鏡をかけた生真面目そうな少年が立っていた――。