――物語は、怪盗フーケ捕縛当日の夜、20時頃まで遡る。 この夜、トリステイン魔法学院の本塔2階ホールでは、貴族の学舎に相応しい優雅な宴が開かれていた。女神の名を冠したその会は『フリッグの舞踏会』と呼ばれている。 フリッグの舞踏会は、毎年春、ウルの月のフレイヤの週・ユルの曜日――地球の暦に準えるならば、5月の第1週・火曜日に執り行われる、伝統ある祭典だ。教師と生徒、そして家格の枠を越え、お互いに親睦を深めることを目的としている。 この舞踏会で一緒にダンスを踊ったカップルは、将来結ばれるという伝説があるため、男子生徒たちは必死の思いでお目当ての女性に声をかけ、女子生徒たちは女子生徒たちで、意中の男子生徒、あるいは男性教員の挙動をこっそりと伺っていた。 男子生徒と女子生徒、それぞれの若さ溢れる甘酸っぱい駆け引きや、教員同士の歓談。舞踏会会場のいたるところで行われている、そんなやりとりとは無縁の者たちがいた。タバサと太公望のふたりである。「この苺はよう熟れておるのう。ほれタバサ、おぬしもひとつどうだ?」「……とろけるように甘い」 彼らは、舞踏会場の片隅で、ひたすらテーブルに乗せられた料理と格闘していた。かたやサラダと肉料理、もう片方は果物と菓子のみと、内容が非常に偏ってはいたが。「ねえ、あなたたちは踊らないの?」 燃える炎のように赤い髪に、魅惑的な肢体を深紅のドレスで包んだキュルケが、彼らの側へ歩み寄ってきた――彼女に魅了された、複数の男子生徒を引き連れて。ふたりは、そんなキュルケに対してぐるっと首だけを向けると、自分たちのテーブルの上を指差し……すぐさま料理に向き直った。「んもう、ふたりとも! 今日の主役は、フーケ捕縛に大活躍したあたしたちなのよ? 楽しまないでどうするの」 呆れた様子のキュルケに、ふたりは食器を手にしたまま答える。「存分に楽しんでおるが?」「同じく……ん、奥のテーブルに新しい焼き菓子到着を確認。今夜初登場」「報告ご苦労。謝礼として、おぬしのぶんも確保してくる!」「期待している」 空いた皿を手に「よっしゃー!」と気合いを入れた太公望が、件のテーブルへ向かって駆けてゆく。そんな彼の後ろ姿を、タバサは視線を料理にロックしたまま、片手を上げ軽く振ることによって見送った。「まったく、揃ってこれなんだから! ほら、向こうを見てごらんなさいな」 そう言って、キュルケは会場の一角を指し示す。その細い指先の向こうには、桃色の髪の少女と黒髪の少年が、互いに頬を染めて踊っている。踊り慣れていないのであろう、黒髪の少年は傍目にもわかるほど不器用で下手くそなステップを踏んでいたが、桃色の髪の少女は文句ひとつ言うことなく、少年の動きに合わせて器用に身体を動かしていた。「ほら、見てごらんさいな。あの堅物のヴァリエールまで踊っているのよ?」 入学して以後開かれた数々の舞踏会。タバサは、いつもひとりでぽつんと会場の片隅にあるテーブルにつき、黙々と料理を口に運んでいるだけだった。それもそのはず、彼女は男子生徒たちの眼中に無いに等しい存在だったからだ。 短く切り揃えられた蒼い髪と、透き通るように白く滑らかな肌、宝石のように輝く碧眼によって彩られた顔は、よくよく見ればかなりの美人であったのだが、しかし。142サントしかない身長は、15歳という年齢にしては小さすぎたし、すとんとした幼子のような肢体には、恋やダンスのパートナーとしての面白みが感じられない。 しかも、彼女はほとんど喋らない。話しかけても無反応であることのほうが多い。これでは、ダンスの誘いをかけようにも二の足を踏むであろう。そこで無視されたりしたら、貴族として大恥をかくことになるからだ。そんなわけで、進んでタバサに声をかけるような酔狂な男子生徒は、これまでひとりもいなかった。 でも、今日はそうではない。少なくとも、側に誰かが――ヴァリエールと同じ、使い魔ではあるけれど、男の子がいるのは間違いない。ようやく一歩前進できたのかしらね……そんなことを考えながら、キュルケはタバサの肩に腕を回すと言った。「しょうがないわね。それじゃ、連れがいるから……またね」 キュルケはタバサの頬に軽くキスをすると、大勢の取り巻き達と共に、人混みの中へと消えていった。そこへ、入れ替わるように太公望が戻って来た。両の手に、菓子で山盛りになった皿を抱えて。「ありがとう」「何を言う、これは情報への正当な対価なのだ。わしも食べたかったしのう」 からからと笑いながら、取り皿に『戦利品』を振り分ける太公望へ、タバサがポツリと言葉を返す。「その件だけじゃない。許可証」 ああ、そのことか――と、今更気がついたような太公望に、タバサは目を向ける。ちなみに、このような時ですら、彼らの手は止まることなくテーブル上に山と積まれた料理へと攻撃を続けていたりする。「図書館で書物を探しておる時に、ごく稀にだが、おぬしの視線がとある場所を捉えていた」 タバサの手が止まった。「そこに何があるのか気になってのう。司書に聞いたら、教員以外立ち入り禁止とされている書物庫があるというではないか。しかも数千年前の貴重な本まで、当時のまま残っておるとか」「それだけで」「きっかけはそれだが、わし自身も古い書物に興味があったのでな。せっかくだから、一緒に申請したというわけなのだ。ふたりとも入れれば、面倒もなかろう?」 『フェニアのライブラリー』。タバサは、とある目的のために、ずっとそこへ立ち入りたいと願っていた。だが、それを告げたことはないし、思わせぶりなことをしたつもりもない。しかし、自覚のないまま視線を彷徨わせていたようだ。 ――彼の目は、いったいどこまでを見据えているのだろう。 ふと、タバサの頭の中でばらばらになっていたパズルのピースが組み合わさる。そうだ、これこそが彼の持つ真価ではないか。国中を混乱させた怪盗の正体を、わずかな時間で突き止め、捕縛した眼力――神眼といっても過言ではないそれは、学院はもちろんのこと、王立アカデミーの研究員ですら突き止められなかったルイズの魔法をも見出そうとしている。風竜よりも早く飛べる? そんなものは、この<力>に比べたらなんでもない。 食事の手を止め、俯いてしまったタバサを見て、「どうしたのだ? 食べ過ぎで腹でも痛めたのか?」 などとまるで見当違いの心配をする太公望。そんな彼の声を聞いて、タバサは思った。もしかすると、このひとなら――。「聞きたいことがある」 顔を上げ、真っ直ぐに太公望を見つめるタバサ。突如向けられた真剣な眼差しに、彼女と同様に手を止め、見返すことで太公望は応える。「わしに答えられるものであれば」「身内に病人がいる……わたしは、その病を治す方法を探している。あなたには、治療の知識はある? 知っていたら教えてほしい。特に、心の病に関することを」 彼女の、心からの願い。だが――この時、運命はタバサに味方しなかった。寂しげな……それでいて悲しそうな色を湛えている太公望の目を見て、彼が次に何を言うのか、タバサにはわかってしまった。「すまぬ、わしに医術の心得はない。それに、心の病は……わしらの国の者にも、治すことができないものなのだ」「……そう」 掴みどころのない性格の彼だが、こういう時に嘘を言う人物には見えない。その彼ができないと断言するのなら、本当に不可能なんだろう。落胆していないといったら嘘になる。けれど、自分だけではどうしても立ち入ることが叶わなかった『フェニアのライブラリー』へと導いてくれた。それで充分だ。その『道』を進み、探せばいい――。 タバサが決意を新たにした、そのとき。バサバサッという羽音と共に、ホールの窓から1羽のフクロウが飛び込んできた。灰色のフクロウは、舞踏会の喧噪の中、迷うことなくまっすぐとタバサの元へと向かい――その肩へと留まった。 タバサの表情が、硬くなった。フクロウの足に括り付けられた書簡を手にすると、さっと目を通す。そこには、短くこう書かれていた。 『出頭せよ』 ――と。 タバサの目に、強い光が宿る。先程までのそれと違う、様々な感情がないまぜになった、複雑な――それでいて暗い輝きが。タバサはすっと立ち上がると、まっすぐに誰もいないバルコニーのほうへと歩き出す。このまま闇にまぎれ、外の厩舎へ。そう考えた彼女の腕を、後ろから掴んだ者がいた。それは、彼女の隣に座っていた太公望であった。華奢なタバサの腕をぐいっと掴み、その身体ごと自分のそばへと引き寄せた彼は、周囲を伺いながら口元を手で隠し、小さな声で彼女の耳元へと囁く。「祖国から、仕事に関する呼び出しを受けた――そうだな?」 何故――!? タバサは言葉もない。 わたしは『任務』のことなど、これまで一言たりとも彼に話してはいない。タバサの戸惑いを察したのだろう、何でもないことのように太公望は言葉を続ける。「『シュヴァリエ』とやらは、実績の証だそうだのう。タバサよ、おぬしはあきらかに多くの実戦経験を積んでおる。周りには隠しておったようだが、わしには普段の何気ない身のこなしや言動から、それがわかっておった。そうでなければ、間違ってもこんな小さな娘を、盗賊の監視役につけるような真似などせんわ」 タバサは以前、彼に「少々見くびっていたようだ」と言われたことを思い出した。そうだ、彼はとっくの昔に見破っていたのだ。わたしが『騎士』であることなど。「そこまでわかっているなら……放して。すぐに行かなければならない」 強引に腕を振り払おうとしたタバサだったが、思いのほか強く握られていて、それもできない。睨み付けても、いつもの飄々とした態度でかわされてしまう。「別に、そこまで急いで来いと書かれてはいなかったであろう?」「でも」 確かに、受け取った書簡には『出頭せよ』と書かれているだけだ。しかし、できる限り早く行かなければならない。もしも彼らの機嫌を損ねてしまったら、大変なことになる。タバサはもがいた。「ずいぶんと焦っているようだが、焦りはろくな結果を生まぬ。まさかとは思うが、この学院に、おぬしを監視している間諜がいて、それを確信しておるのか? 少なくとも、わしがここへ呼ばれた日から、それらしき者を見た覚えはないのだが?」「いない。わたしも、当然調査している。学院側も、身分の不確かな者を雇ったりはしない」「……不確かなのが、今おぬしの腕を掴んでいるわけだが。まあそれはよいとして」 ふいに、太公望の目つきが変わる。タバサは、彼のそんな表情に見覚えがあった。これは……交渉のときや、何か悪戯を思いついたときの――! ――まずい。タバサがそれに気付いた時は、既に手遅れだった。「これ! タバサ、タバサよ! いくらなんでも飲み過ぎだ! すまん誰か、ちと手を貸してくれ!!」 まさしく大音声と言うに相応しい声が、ホール全体に響き渡る。その声に、なんだなんだと太公望とタバサの周りに人だかりができる。そんな中、彼らのすぐ側まで寄ってきた者達がいた。キュルケと、その取り巻き達だ。「あら、ミスタ。こんなところで痴話喧嘩かしら?」「違うわ! タバサのやつが悪酔いしてな、バルコニーから飛び降りると言って暴れるのだ! 頼むから、止めるのを手伝ってくれ」「嘘、わたしは酔ってない」 そう言ってもがくタバサを、キュルケが抱き締める。「ふふッ、酔っぱらいはね、自分が酔ってるって気がつかないの。ほら、今日はもうお部屋に戻って休みなさいな……スティックス、お願い」 キュルケの側にいた男子生徒のひとりが、さっと杖を取り出してルーンを唱える。あの詠唱は<眠りの雲(スリープ・クラウド)>――そう悟った瞬間、タバサは夢の世界へ落ちていった。○●○●○●○● ――タバサは、薄く靄がかかった視界の中を、杖も持たず、たったひとりで歩いていた。彼女の周囲には、深い霧と、遠くまで続く1本の道以外には……何もない。昔読んだ本に書いてあった、死後の世界ヴァルハラへと続く道のよう――そんな感想を抱きながら、足元だけを頼りに、タバサはまっすぐ先へと進んでゆく。 彼女の前を、誰かが歩いている。しかし、視界が悪くその後姿をはっきりと見ることはできない。もっともタバサは、先を行く者に声をかけるつもりなどなかったのだが。 ……と、歩み続けるタバサの耳に、小さな声が飛び込んできた。それはどこかで聞き覚えがあるような、それでいて懐かしいような……。「…………ロット……シャルロット」 前を向いていたタバサの足が、止まった。「……誰?」 わたしの――小さな人形と引き替えに置いてきた、その名を呼ぶのは。 タバサは、その場に立ち止まって周囲を見回す。と、道の外側――先程まで深い霧に包まれていた一部が晴れ――その先にあった大岩の上に、ひとりの人物が座っていた。「おじい……さま!?」 そんなはずはない。御祖父様はとうの昔に亡くなったはず――。 思わぬ人物の姿に狼狽した彼女のもとへ、再び懐かしい声が響く。「シャルロット……」 特徴的な青い髪。40歳を過ぎてなお青年のような瑞々しさを面影に残す男が、先程タバサが祖父と呼んだ老人の側に、静かに佇んでいた。「父さま!!」 大声で叫んだタバサは、彼らのもとへ駆け出そうとした。だが、道を外れたその途端、足を踏み外す。彼女がこれまで歩いていた道は、細い崖道だったのだ。咄嗟に<フライ>のルーンを詠唱しようとしたが、杖を持っていないことを思い出し、歯噛みした。あれは、わたしを惑わすための罠――。 崖下に広がる闇へとタバサが飲み込まれていこうとした、その時。彼女の腕を、崖の上からがっしりと掴み取った手があった。「どうやら、間に合ったようだのう」 ――タバサの手を取ったのは、彼女の使い魔・太公望だった。○●○●○●○●「……夢?」 気がつくと、そこは自室のベッドの上だった。身につけているのは、いつもの寝間着だ。タバサはゆっくりと身体を起こし、頭を左右に軽く振った後、ここに至るまでの経緯を思い起こす。そうだ、確か舞踏会の最中に、伝書フクロウが出頭命令を運んできて。それで、厩舎へ向かおうとしたところを太公望に捕まって、それで――。 慌ててベッドから飛び起きたタバサは、窓の外に目を向けた。もう日が昇っている。おそらく、一晩中眠ってしまっていたのだろう。 ……と、扉をノックする音が室内に響いた。「タバサ、もう起きとるか?」 太公望の声だ。タバサは一瞬、急いで着替えを済ませて外へ飛び出そうと思ったが、やめた。彼のことだ、すぐに状況を理解して追いついてくるだろう、無駄なことをしても体力を消耗するだけ。そう判断したからだ。「今起きた。着替えるから、少し待って」「わかった。なるたけ早く頼む……と、できれば厚めの上着を用意しておくのだ」 厚めの上着? もしや、今日は冷え込むのだろうか――状況の割には、自分でも驚くほどに落ち着いていたタバサは、急いでベッドから飛び出して服を身につけると、言われた通りのものを用意し、扉を開けた。「終わった」「そうか。では、部屋の中で話をするとしようかのう」 そう言って中に入ってきた太公望は、少し大きめの背負い袋を手にしていた。「厨房で、弁当を作ってもらってきた。おぬしの準備ができたなら、出かけるぞ」 タバサには、ちと物足りない量かもしれんがのう。と、からから笑って袋を持ち上げて見せた太公望に、タバサは唖然として言った。「出かける……?」「急ぎの仕事があるのだろう? 馬で行くより早い移動手段があるではないか」 タバサは驚愕した。まさか彼は、わたしを自分の背中に乗せて、一緒に行くつもりなのだろうか。だめ。わたしは、あなたをこの『道』へ巻き込むつもりなんかない。強い口調で、彼女は否定の言葉を吐いた。「これはわたしに課せられた任務。あなたには関係ない」「その任務の邪魔をして、一晩休ませるという判断をしたのはこのわしなのだ。その責任を取る必要がある。それにだ……」 太公望は、懐からくるくると丸められた1枚の羊皮紙を取り出すと、ぴらっと広げる。タバサは、その書面に見覚えがあった。「初日に交わした契約書類だ。ほれ、ここにこうある――『太公望は、使い魔として常にタバサの側にあることとする』……とな」「でも」「デモもストもないわ。一度結んだ、しかも双方充分納得の上で取り決めた契約を理由もなく一方的に破棄しては、他人から信用を得られるわけがない。学院側も、おぬしも、これまできちんと約束を守っている。わしのほうから破るわけにはいかぬ」 まったく、これを見越してこの一文を紛れ込ませおったな、あの狸ジジイめ……などと内心でブツブツとオスマン氏への黒い呪詛を吐く太公望だったが、それはタバサの耳には届かない。「これ以上の話は、空の上でするとしよう。ああ、この袋はおぬしが背負ってくれ。では行くぞ、タバサ」 弁当袋をタバサへ手渡した太公望は、彼女の返事を待たずに窓の外へ飛び出した。そんな彼の後ろ姿を見たタバサは……わずかな逡巡の後、彼を追って窓から飛び降りた。○●○●○●○● ――なるほど、厚手の上着を用意しろと言っていたのはこのためか。 タバサを背に乗せて空を飛ぶ太公望は、人を乗せて高速飛行する姿をあまり他人に見せたくないという理由から、高度5000メイルを維持しつつ一路ガリアの王都・リュティスへと向かっている。確かにこの高さを飛ぶ生き物は、ハルケギニアには存在しない。ましてや、普通の人間が<フライ>でこの高みへ到達すること自体、絶対に不可能だろう。 前回背中に乗せてもらった時よりも遙かに強い向かい風が、タバサの頬と髪を嬲る。上着なしでは、この風と突き刺すような寒さには耐えられなかっただろう。太公望曰く、シールドの強さを調節することで消耗を抑え、そのぶん飛行できる距離を稼いでいるのだそうだが……それはつまり。やり方を変えれば、さらに上の世界を見ることが可能だということだ。 それにしても、本当に速い。おかげで、途中で休憩を挟んでも、成体の風竜にすら劣らぬ速さでリュティスまで到着できそうだ。彼の背中に強くしがみつくようにしていたタバサが、太公望にそう告げると、意外な返事が戻ってきた。「いや。今回は馬で街へ出て風竜に乗り継ぐよりも、ちと速い程度に抑えよう」「なぜ」「例の間諜の件だ。本当に学院近辺にいないのかどうかを確認しておきたい」 タバサは、その一言だけで理解した。昨日のわたしの言動を見た彼は、わたしが実際に行動を見張られている可能性がある――そういう立ち位置にいるのだと推測した上で、不安要素をできるだけ摘み取ってくれようとしているのだ、と。 もしも魔法学院だけでなく、タバサや太公望にすら正体を見破れないほどに優秀なスパイがついていたのなら、とっくに太公望の<力>は露見し、最悪自分と彼の身柄を確保すべく、関係者が動いているだろう。しかし、絶対にいないという保障もないので、引き続き警戒は必要だ。現時点で『敵』の手の者がいないと確認できたとしても、出頭命令が出てからあまりにも速く到着した場合、タバサがいずこからか支援者を得たのではと怪しまれてしまう可能性もある。 ……と、ここまで考えたタバサは、太公望を『目的』に巻き込みたくない一心で、これまで任務に関する一切の情報を漏らさないよう注意を払っていたが、事ここに至ってしまった以上、情報の秘匿は逆に彼の行動を阻害しかねない――そう結論した。既に関わらせてしまった以上、せめて状況の説明をする必要がある、と。もちろん、全てを話すわけにはいかないが……。「あなたに、話しておきたいことがある」 ――そして、タバサは語り始めた。自分が、ガリアの国王とその一族にとって、疎ましい存在であること。そのため、時折こうして呼びつけられ、表に出せない、それでいて命を落とす危険性のある『任務』を請け負わされていることを。「なるほどのう……ちなみに、逃げることは考えておらんのか?」「母さまを人質に取られている。もしわたしが逃げたら」「どうなるかは自明の理、か……」 国王が、部下に忠誠を誓わせるために人質を取る。よくある話だ。逆に、己の忠義を証明するため、自ら進んで身内を差し出す者がいるほどである。 太公望は、出会った時から現在に至るまでのタバサの言動を思い返した。魔法学院にいる他の子供たちのそれとは一線を画す立ち振る舞いに、勘の良さ。そして、初めて出会った時に見た、絶望の色を宿す瞳と――昨夜初めて知った、彼女の心の奥底に隠されている、激しく燃えるような……それでいて、暗い炎の存在を。 太公望は、その<炎>がどういうものか、よく知っていた。あれは、かつて自分が宿していたそれと、同じものだ。そして悟った。タバサは、他者を寄せ付けぬ氷の仮面をつけてこそいるが、心根の優しい娘だ。おそらく、わしを巻き込まぬよう気を遣って、余計なことを言わないのだろうと。 『<サモン・サーヴァント>は、己に最も相応しいパートナーを選び召喚する』 なるほど。相応しいかどうかはさておいて、自分と似通った運命を辿ろうとしている娘によって、わしは呼び寄せられたのか。この世界の『始祖』は、どうやらわしにやらせたい仕事があるらしい。 ――夢のぐうたら生活は、結局実現せずに終わるのかのう……。 心の内で盛大なため息をつきつつ、太公望は自分が今後どう動くべきなのかについて、タバサの話に耳を傾けながら、思考を巡らせるのであった――。