何時のことだっただろう?
焔よりも赤く染まった紅葉の葉や、黄金色に染まったイチョウの葉が、ひらひらと舞い降りて落ちていたのを覚えている。
まだ『眼』を手に入れる前の私は、クイールと一緒に日本の京都にある神社『伏見稲荷』に来ていた。そこに広がっていたのは不思議な空間で、深紅に塗った木で作られた『鳥居』という物が連なる坂道を、ひたすら歩いて参拝したのだ。昼間だというのに薄暗く、どこまでも『鳥居』が続く。だから、まるで異次元に続いているのではないかという錯覚に陥ってしまった。
「凄いね、父さん……あれ?」
後ろを歩いているとばかり思ったクイールの姿が、どこにも見当たらない。朱色の世界に私は1人、取り残されたかのようにポツン、と立っていた。
「父さん?どこにいるの?」
私は昇ってきた坂を、そろりそろりと降り始める。遠くで鳥が鳴いている声が、無性に物悲しく聞こえ、背筋が冷たくなってきた。
「あっ!」
少し高いサンダルを履いていたせいで、バランスを崩して転んでしまった。なんとか地面に手が付けたから大した怪我をしなくて済んだが、膝が剥けて、血が出ていた。私は鞄の中に入っていたペットボトルのお茶を取り出すと、血が出ているところにかけた。血が出ているところに茶がしみ込んだせいで、じんわりとした痛みを感じたけど、周りに着いていた土は取ることが出来た。
「父さん……どこだろう?」
膝の痛みに顔をしかめながら立ち上がり、もう1度辺りを見渡した。でも、前にも後ろにもクイールの姿はなく、それどころか人っ子一人いる気配がしない。
そういえば、『伏見稲荷』の最初の鳥居をくぐった時には疎らだったけど人がいた。クイールと一緒に鳥居をくぐって坂を上っていたとき、何人かの人とすれ違い、時には挨拶もした。私の後ろを歩いていた人もいた。
さっきから誰ともすれ違わないというのは、どういうことだろう?
まばらだったけど最初の鳥居をくぐった時には、人がいた。私の前にも後ろにも人がいた。
でも、クイールがいないということに気が付いてから、1人も人とすれ違っていない。これは、少し異常かもしれない。一気に周囲の温度が下がったような気がした。
「父さん、どこ!?」
私は息を思いっきり吸い込んで叫んだ。でも、その悲鳴に似た叫び声は鳥居の中に吸い込まれたように消えてしまった。無性に怖くなる。私は、慌てて地面を蹴り、坂を一気に下った。はぁ、はぁ、と荒い息をしながら懸命に走ったけど、誰ともすれ違わない。どこまでも、どこまでも続く鳥居の迷宮に迷い込んでしまったみたいだ。
走りつかれた私は、ふらふらと近くの鳥居に寄りかかって息を調えた。心細くて、涙が溢れそうになる。その時だった。
タン、タン、タン――――――
上の方から誰かが近づいてくる音が耳に入ってきた。ようやく人と会える、そう思った私の心の中に安心感が広がった。そして少し笑みを浮かべながらさっきまで走っていた道を振り向いた。
そこにいたのは、当時の私と同じくらいの少女。
黒い絹のような前髪を額に垂らし切り下げ、後髪を襟足辺りで真っ直ぐに切りそろえている。白い下地に鮮やかな蝶の柄が映える着物を纏っていて、禍禍しくも美しく感じなくもない深紅の瞳を私に向けていた。
軽い足取りで私に近づいてくる少女が、無性に怖くなった。
あの少女に捕まったらまずい。逃げないと、そう本能が告げている気がした。身体が急に震えだす。私は悲鳴を上げている足に鞭を打って、思いっきり地面を蹴った。だが―――――――――
「逃げちゃダメ」
まるで地面から湧き上がったかのように、さっきまで後ろにいた少女が私の眼の前に現れたのだ。
「ひぃ!」
私は慌てて立ち止まり、来た道を戻ろうと回れ右をしようとした。しかし、少女が私の手をつかんだ。その握力は少女のモノではなく大の大人、いや、大人のものよりも強いように感じた。前に足が進まない。私の手は、ぐいっと少女に引っ張られて抑え込まれる。耳元に少女の、どこか血の臭いがする吐息がかかった。
だんだんと少女の口が、私の首に近づいてきている。噛まれる、と直感が私に告げ、身体がぶるっと震えた。ほんの数秒のことだったと思う。でも、その数秒が果てしなく長いものに感じられた。
「やめて!」
少女の歯が私の首筋に当たった瞬間、私は悲鳴を上げた。
その瞬間、眩いばかりの閃光が辺りに満ちる。バンっという発砲音のような音が静まり返っていた世界に響き渡った。あまりに眩かったので目を閉じ、そして再び開くと、少女は私から少し距離を取った位置に跪いていた。
今思えば、自分の身を護るために魔力が暴走したのだろう。だが、まだ自分が魔女だということを知らない当時の私は、ただただ恐怖だけが心を支配していた。突然、磁石の反発みたいに私から手を放して距離を取った少女も怖かったし、自分が起こした不思議な力も怖かった。眼から涙が零れ落ちそうになる。
私は、後ずさりするように去ろうとした。でも、少女の憎悪で燃える血のような瞳でにらまれた途端、身体が動かなくなってしまった。まるで、地面に縫い付けられたかのように。それでも無理やり足を動かそうとすると、コンクリートの窪みに足を取られ、尻餅をついてしまった。尻に激しい痛みが走る。
私は顔を歪めて立ち上がろうとする前に、物凄い速度で少女が距離を詰めてきた。今度こそ、仕留めてやるというような形相を浮かべながら。
もう……駄目だ………
その時パンッと響き渡った乾いた銃声。それとほぼ同時に、1人の女性が漆黒のレインコートを翻しながら、私と少女の間に入り込み何も躊躇うことなく発砲した。私に襲い掛かろうとしていた少女は、背中を反けり後ろに後ずさりする。鮮血の迸る腹部を右手で触りながら、バタリ、と後ろ向きに倒れた。
「………立てるか?」
私を助けてくれた銀髪で碧眼の女性が、近づいてきた。女性の背後で糸の切れた人形のように転がっている先程の少女を、1人の青年が担ぎ上げている。青年は死んだような瞳で黙々と何か作業をしていた。
「今のは……何?」
やっとの思いで立ち上がりながら、女性を見上げた。女性は無表情のまま鼻を鳴らした。
「アンタを殺そうとしていた化け物ってところさ。ほら、ついて来な。……切嗣はソイツを頼む」
女性は颯爽と歩き始めた。私は慌てて後を追う。
歩き始めて数分もしないうちに、人の声が聞こえてきた。だんだんと辺りに陽光が届いて、周囲が明るく見え始めている。やはり、先程までの場所が『異常』だったのだろう。
「セレネ、よかった無事で!」
鳥居の真ん中で辺りを必死の形相で見渡していた、クイールが走ってきた。私をぎゅっと抱きしめると、半分泣きながら、よかった…よかった…と呟く。私はクイールの胸に顔をうずめながら、言葉を絞り出した。
「泣きすぎだよ、父さん。……この女(ひと)が助けてくれたんだ」
「そうか、ありがとうございます……って、ナタリアじゃないか!」
クイールは驚いたように目を見開いた。ナタリアと呼ばれた女の人は、少し顔をしかめる。
「クイールか。自分の子供なら目を離すな。こいつ、さっきの死徒が作り出した結界の中に迷い込んでいたぞ。私がいたからよかったようなものの……一歩間違えれば、めでたく吸血鬼の仲間入りだ」
何を話しているのか全く分からなかった。
ただ、命が危険に冒されていたのを助けてくれた、この『ナタリア』という女性がカッコよかった。
あぁいうカッコいい女になりたい。だから私は、強くなろうと決めた。
せめて、自己防衛くらいは出来る様にと筋トレをし、ナイフをうまく使える様に毎日、特訓を重ねた。玩具の銃で射的練習をし、ジョギングを始めたのもこの頃だったような気がする。
あの日、燃え上がるような夕焼けが、西の空に広がっていたのを覚えている。
私は、彼女に近づくことが出来ただろうか?
ひんやりと湿った『秘密の部屋』で、刹那…思考を巡らす。それは、まだわからない。ただ……1つ言えることがある。あの時、彼女に出会わなければ……私は『人間』でなくなっていたということ。あの時から特訓を重ねたおかげで、こうして目の前の敵を倒すことが出来るということ。
私は、目の前で杖を構えているハリー・ポッターに銃口の標準を定めた。
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12月15日…一部訂正