窓から差し込んでくる光が、柔らかな橙色へと変わった頃。私はようやく本から顔を上げた。壁にかかっている古い時計を横目で見ると、長針は既に午後の5時を過ぎている。今日の収穫はなさそうだ。私は小さくため息をつくと、端の折れた本を机の上に置いた。
ルーピン先生の家に滞在し始めてから、早いもので約2か月が過ぎようとしている。17歳未満の者が魔法を使用した場合、逆探知されてしまうので、いざという時に身を護ることが出来ない。もちろん『眼』を使えば、大抵の呪文は無効化できるし、先日、切嗣に調達してもらった銃器もある。だから魔法が使えなくても自己防衛することは可能だ。でも、銃器の場合だと弾が無くなったら抗戦できないし、切嗣曰く『眼』を乱用し過ぎると脳に負荷がかかるそうだ。そうなると、やはり魔法を自由に使える状態でルーピン先生の家(安全地帯)を出た方がいい。なので、最低でも10月17日に誕生日を迎えるまで、ここに滞在することに決めていた。だからこの2か月、家に防音呪文をかけてもらい、狙撃の練習をくりかえしたり、先生の本を読んで知識を深めたり、過去の新聞を読んで何か気になる点が見受けられないかを調べてたりしている。
何もしないで2か月を過ごすより、こうして少しでも情報を集め、呪文…は使えないにしても、せめて狙撃の腕だけは上げておきたい。実際に狙撃の命中率は夏前よりも、ぐんと上達したし、新しいナイフもうまく扱えるようになってきた。その上、いくつか興味深い情報も仕入れることが出来た。
『主……日刊預言者新聞の夕刊が届きましたよ』
ぐぅっと伸びをしていると、アルファルドが新聞を咥えて近づいてきた。私は軽く礼を言い新聞を受け取り、ざっと1面に目を通す。そこに書いてある記事を見た私は、ため息をついてしまった。その音が聞こえたのだろう。アルファルドが下げていた頭を上げると、私の方に向けた。
『どうかなさいましたか?』
『あぁ……≪魔法使いに人気の夜の騎士(ナイト)バスの車掌、スタンリー・シャンパイク(21)は死喰い人の活動をした容疑で逮捕され、今日の午後…アズカバンに送還された≫だと。記事によると、≪容疑者がパブで、死喰い人の極秘計画を話しているのを、誰かが漏れ聞いて、その後に逮捕した≫らしい。』
『…その人って、本当に“死喰い人”でしょうか?』
アルファルドは、胡散臭そうな声を出す。私は夕刊をめくりながら、アルファルドに話を振ることにした。
『何でそう思った?』
『死喰い人なら、パブの様に誰が聞いているかわからない場所で、極秘計画を話すでしょうか?』
『私もそう思う』
私は頷きながら、夕刊を折り畳んだ。ヴォルデモートの復活が公になってから2か月たつのに、主だった『死喰い人』の逮捕なんてない。それどころか、脱獄されているのだ。あるのは、被害だけ。…おそらく、魔法省は何かしらの手を打っているように見せたいのだろう。
まったく、裁判にもかけられずにアズカバンに投獄するなんて、法制度を疑ってしまう。私の時もそうだった。裁判なしに、アズカバンに送り込まれ、アルファルドが助けに来てくれるまでの数日間、本当につらかった。手を鎖で縛られ、視界を奪われ、満足に座りことさえ出来ない。食事も朝夕の2回で、固いパンらしき食べ物と冷たい野菜スープのようなモノだけ。いくら囚人に対する対応とはいえ、あまりにも酷すぎる。ホグワーツからかなりの距離があるのに、わざわざ助けに来てくれたアルファルドの声が聞こえたとき、涙腺がうるんでしまったのを昨日のことのように思い出せる。
魔法省は民主政治ではなく、完全な独裁政治。分立すべき三権が一か所に集中してしまっているから、魔法省大臣(トップ)の思い通りに政治だけでなく、社会全体が動かせてしまう。今回の様に昔、ヴォルデモートが脅威を振るっていた時代も、証拠が無くとも、疑わしい者はそれだけで逮捕され、裁判にもかけられずにアズカバンに投獄されるといったことからも、魔法省に権力が集中している事が分かる。法案の成立だって議会は存在せず、魔法省大臣と数名で法案を採決する権限を持っているらしい。最近の例でいえば……確か1年近く前、『未成年者の魔法』で『刑事事件の大法廷』を召集するように、魔法省大臣と側近達が法案を改定していた。
立法権も司法権も行政権も魔法省大臣の掌の上だから、魔法省大臣さえ押さえれば、イギリス魔法界全体が握れるのではないだろうか?だいたい、危機管理能力も甘すぎる。いくつか例は挙げられるが……例えば、前大臣のファッジ。彼は、自身の保身のためにヴォルデモート復活説を否定した。そのせいでファッジが復活を認めるまでの1年間、魔法界はヴォルデモートに対して無法備な状態になったのだ。ちなみに、新聞によればファッジは大臣を辞めただけで、魔法省大臣顧問としてとどまりつづけることになったらしい。そういえばアンブリッジもホグワーツ校長の座は辞任したらしいが、魔法省上級事務次官として魔法省にとどまり続けるそうだ。何を考えているんだろう。他に優秀な職員はいないのだろうか。それとも、埋もれているだけ?
だいたい、深夜の魔法省に子供8人…と死喰い人10数名が忍び込めるのがおかしいと思う。マグルの世界に言い換えれば、国会議事堂と省庁が合わさった国の中枢部に、学生8人とテロリスト10数名が、忍び込むみたいな話だ。しかも、職員が駆けつけたのは、ほとんど全てが終わってから。一応、ヴォルデモート…というより、ルシウスやシルバーが人払いをしていたみたいだが、それでも、セキリュティーが甘すぎる。平和ボケにも程がある。いや、平和ボケではなく、価値観が現代マグルと大きく違いすぎるから、『平和ボケ』と感じてしまうのだろうか?
魔法界は紙幣ではなく、金貨を取り扱っている。それに11歳でホグワーツに入学するまで幼児教育はもちろん、初等教育すら存在しない。もちろん電気やガスなんてないし、通信手段はフクロウだ。……今思えば、なんて世界で生きようとしていたのだろうか。11歳のあの夏、スネイプ先生の申し出を断りマグルの世界で生きていくことを決めていたら………
ガチャリ
玄関を開ける音が聞こえてきた。ルーピン先生が帰宅したのだろうか?私は息をひそめ、ホルスターに収めていたベレッタM92Fを取り出し握りしめる。足音が徐々に近づいてくる。そして、私がいる部屋の前でピタリ、と止まった。
「リーマス・ルーピン。狼人間であだ名はムーニ。『まね妖怪』は水晶玉みたいな満月に変身する。……君の『まね妖怪』は何に変身する?」
取り決め通りの口上だ。……扉の向こう側にいる人の気配は、1つ。他に気配がないか慎重に確認してから私は、そっと口を開いた。
「8歳で義父さんと日本の神社へ行った時に、出会った少女みたいな吸血鬼」
私は鍵を外し、扉を開けると、ルーピン先生が姿を現した。いつも外出する時に着ている継ぎ接ぎだらけのマントを翻し、少しだけ笑みを浮かべた顔を私に向けた。
「セレネ、君は確か『スリザリンの末裔』だったよね?」
「……それがどうしたんですか?」
私が怪訝な顔をして先生を見上げると、先生はマントの内側から金色に光る物体を取り出した。そして嬉しそうな笑みを浮かべたまま、私の掌の上に載せる。
私の掌の上に載せられたそれは、どっしりとした金色のロケット。先生は何故ロケットを私に渡したのだろう。でも、私は尋ねる前に、ロケットに刻んである文字に気が付き息をのんだ。
「…スリザリンの…印?」
曲がりくねった蛇を連想させる飾り文字の≪S≫に光が踊り、煌かせていた。
「そうだと思うよ。今日はシリウスの家に行ってきたんだけど……そこで見つけたんだ。シリウスは、いらないって言っていたから、これは君の物だよ」
ルーピン先生が優しそうに笑った。私の首の周りに胴体を預けていたアルファルドも、しげしげとロケットを眺める。しかし突然、誰もいない方向に鎌首を向けた。私もつられてアルファルドが向いている方向に目を向ける。……誰もいないが、本当に少しだけ……誰かがいる気配を感じた。
「誰だ?」
ルーピン先生が、誰もいない空間に杖を向ける。すると観念したように、そいつは姿を現した。だが………そいつは『ヒト』ではなかった。人間の半分ほどの小さな体に、青白い皮膚が折り重なって垂れ下がり、コウモリのような大耳から白い毛が生えている。汚らしく変色したキッチンタオルを腰に巻きつけていた。
「…クリーチャー?」
ルーピン先生が少しだけ杖を下した。知り合いなのだろうか?
「生物(クリーチャー)?」
「シリウスの家の『屋敷しもべ妖精』だ。何で君がここに……」
しもべ妖精……クリーチャーは恨ましそうに両眼を潤ませながら、金色のロケットを見上げていた。
「それを返して貰いたいのでございます」
「このロケットを?……アンタの主人(シリウス)から貰ったモノだと聞いたが」
私がそう口にすると、クリーチャーは憤慨し怒りで顔が歪んだ。
「このロケットはシリウス様のモノではありません!このロケットはレギュラス坊ちゃまのモノです!こんな狼人間と身元も分からない小娘のモノになっていい物ではないのです」
「レギュラス?」
聞き覚えのない名前だ。クリーチャーは何も答えなかったが、ルーピン先生が代わりに教えてくれた。
「レギュラス・ブラックはシリウスの弟で、学生時代から『死喰い人』の一員になったんだ。……ただ一員になってから2年も経たないうちに死んだらしい。でも、まさかレギュラスのロケットだったなんて。シリウスは何も言ってなかったな。『いつの間にか家にあった』とは言ってたけど」
「純血の死喰い人か。だが、なんでこのロケットがレギュラスのモノになったんだ?」
私は、口元に手を当てて考え込んだ。
ブラック家は、代々純血で名家中の名家。だが…このロケットは家に伝わってきた品ではなく、レギュラス・ブラックのモノ。つまりレギュラスが、どこからか仕入れてきた品物らしい。でも、そう簡単に手に入る品物だろうか。
素人の私が一目見ただけで高価なモノと分かる。鶏の卵くらいの大きさで、金メッキとは比べ物にならないくらいの味わいを醸し出している所を見る限り、本物の黄金で作られているのだろう。それに≪S≫の装飾文字は、よく見ると小さくて品の良いエメラルドを沢山はめ込んで作られていた。いくら名家の坊ちゃんとはいえ、こんな高価なモノが購入できるほど、お小遣いを貰っていたとは思えない。つまり、レギュラス自身が購入した線が薄い。となると、誰かから貰ったということになる。だが、こんな高価な品物をあげる人がいるだろうか。いや、考えられない。……唯一、考えられるとしたら……何かしらの都合で、レギュラスに預けたってことくらいだ。
それでは、誰がレギュラスに預けた?なにせ、これだけ高価な品を預けるのだ。よほど、レギュラスが心酔していた人物しか考えられない。レギュラスの生きていた時代背景とレギュラスが送っていた生活から察すると……
「まさか、これってヴォルデモートから賜った品…とかじゃないか」
私と同じことを考えたルーピン先生が、聞きにくそうにクリーチャーを問いただす。だが、クリーチャーは怒ったような視線をルーピン先生に注いだ。
「『闇の帝王』から賜ったロケットではありません。レギュラス坊ちゃまが、途方もない苦難の末に手に入れたロケットです!…この汚らわしい狼男」
どうやら、違ったみたいだ。それにしても、手に入れた…だって?私は眼を細め、必死に思考を巡らせる。
途方もない苦難の末に手に入れたロケット。そもそも…そんなに難解な場所にあったロケットを、どうして手に入れたいと思ったのだろうか?いや、不可解な点はソレだけではない。そんな苦労をしてまで手に入れたロケットを、誰にも自慢せずに置いておくだろうか。普通の坊ちゃんだったら…ドラコみたいな坊ちゃんだったら、絶対に自慢する。四六時中自慢する。いくら、家を嫌っていたシリウスでも、レギュラスが手に入れたロケットの話を、小耳に挟むはずだ。
では、なんで黙ってたんだ?どうしても、隠しておかないといけない物だった、とか……。
私は『眼』を使い、ロケットを睨みつける。その時、私は思わず息をのみそうになった。なにしろ、そのロケットに絡みつく『線』は……私が昔持っていた『指輪』に絡みついた『線』と非常に酷似していたから……
パチン、と音を立て、何かが私の中で繋がった。
「なぁ……もしかして、『このロケットを破壊しろ』と命令されているんじゃないか?」
横目でクリーチャーを見ると、驚いたのだろう。テニスボールの様に大きな両眼を更に大きく見開いていた。だが何も答えない。肯定も否定もせず、クリーチャーは驚いたように私を見上げていた。
「否定をしないということは、その通り?」
クリーチャーは何も答えない。だが、少しだけ……本当に少しだけ、コクリと頷いて肯定の意を示した。
「どうしてそう思ったんだい?」
沈黙を破ったのは、ルーピン先生だった。困惑した色を浮かべている。私はロケットを机の上に置くと、腕を組んだ。
「レギュラス・ブラックは誰よりもヴォルデモートを尊敬していた。だがその分……もし、万が一、酷い仕打ちでも受けて、これ以上は無いと言う程に失望させられたのなら、誰よりも深くヴォルデモートを憎むんじゃない?」
私は、そっとアルファルドに目配せをする。視線を向けられていることに、アルファルドは気がついたのだろう。『了解』と言わんばかりにに牙をむいた。窓から差し込む陽光が毒の滴る牙に反射され、鋭く光っている。
「ヴォルデモートは自信家だからな。前に墓場で私とハリーとセドリックに、ポロッと分霊箱のことを話していた。だからレギュラスも、ヴォルデモートから分霊箱につながるヒントを聞き出せた可能性が高い。レギュラスが、ヴォルデモートに失望した理由は分からない……でも、レギュラスは、どうにかして分霊箱(ロケット)が隠された場所からロケットを手に入れ、破壊しようとした。でも、それがバレて……ヴォルデモートに殺された。大方、そんなところだろ」
クリーチャーは黙って話を聞いていたが、観念したように口を開いた。
「細部は違っていますが……確かにレギュラス坊ちゃまはクリーチャーに、ロケットを破壊しろと命じられました。ですが、クリーチャーはロケットを破壊できませんでした」
大粒の涙をこぼしながら、古い木の床に膝をつけるクリーチャー。濡れた顔を膝の間に突っ込んで丸くなり、前後に身体を揺すり始めた。
「だから……クリーチャーにロケットを返してください。クリーチャーはレギュラス様のロケットを破壊しないといけないのです!」
喉の奥から絞り出すような声で、私に頼み込むクリーチャー。
「なら、一緒に壊すか?」
淡々とそう言うと、クリーチャーは顔を上げた。耐えずに涙が溢れている両眼で、不思議そうに私を見上げていた。私は出来るだけ優しい笑みを浮かべると、机の上で鈍く輝くロケットを床におろした。
「私はロケットを破壊する方法を知っている。アルファルド…この蛇の牙の毒には、ロケットを破壊する威力が込められているんだ。だから、この子の頭の上にアンタの手を重ねた状態で、こいつが牙を突き刺せば、一緒に破壊したことになるんじゃないか?」
クリーチャーは子供の様に拳で目をこすった。そして恐る恐る、アルファルドの頭部に、そっと自身の骨ばった手を重ねた。
『…いいですか?』
アルファルドが低い声で呟く。私は、ゆっくりと頷いた。本当は私自身の手で殺りたいが、まだ『破れぬ誓い』が続いている。ここは、アルファルドに任せるしかない。
『やれ』
その言葉を聞いたアルファルドは、ぐわっと口を大きく開けた。そのまま、ロケットの真ん中辺りに狙いを定める。これから、どういう結末になるのか、ロケットは察したのだろうか。ロケットの中身が捕らわれた虫のようにカタカタと動く。そしてロケットの金色の蓋が2つ、パッと開いた。
その中にあったものを一目見たとき、私もルーピン先生もクリーチャーも驚いて息をのんだ。
2つに分かれたガラスケースの内側で、生きた眼玉が1つずつ瞬いていた。細い瞳孔が縦に刻まれた、トム・リドルの黒い瞳だ。
「おまえ達の心を見たぞ……おまえ達の心は俺様のものだ……」
押し殺したような冷たい声が、ロケットの中心部分から聞こえてきた。ヒィッとクリーチャーが小さな悲鳴を上げた。アルファルドの頭部に置かれた手が、がくがくと恐怖で震えている。
『バジリスク…お前は“スリザリンの継承者”に従うよう言いつけられているはずだが?』
今度は、蛇語がロケットの中から響いてくる。アルファルドは瞳を固く閉ざしたまま、鼻で笑った。
『私が使えるのは、“真”の“継承者”だけです』
アルファルドはそれだけ言うと、何もためらうことなく目玉に牙を突き刺した。鋭い金属音と長々しい叫び声が、決して広いとは言えないルーピン先生の家に響き渡る。部屋に置かれた僅かな家具が、反響しカタカタと音を立てて震えた。そして、永遠にこの悲鳴が続くのではないかと思ったころ、パキンと乾いた音を立ててガラスに亀裂がはしった。苦悶の色を浮かべていたリドルの両眼は消え、シミのついた絹の裏地が微かに煙を上げていた。
「終わった……のか」
ルーピン先生が口を開いた。声が微かに震えている。私は黙って頷いた。添えられるように置かれていたクリーチャーの手が、アルファルドから離れる。クリーチャーは両手で顔を覆い、小さな身体を震わせていた。
「坊ちゃま……坊ちゃま……クリーチャーは…クリーチャーは、破壊しました。坊ちゃまの命令通りに……」
啜り泣きをしながら、祈るように呟くクリーチャー。クリーチャーは、ゆっくりと立ち上がると姿勢を正す。そして、深々と私とアルファルドに向けて、お辞儀をした。テニスボールを連想させる大きな瞳からは、ポタポタと大粒の涙が絶え間なく床に零れ落ちた。
「あ、ありがとうございます……こ、これで、ようやく坊ちゃまの命令を……最期の命令を成し遂げることが出来ました。……この恩は……決して、忘れません……」
しゃくり上げながら、言葉が言葉として繋がらなくなりながらも言葉を紡ぐクリーチャー。アルファルドは、するすると私の足に巻きついてきた。徐々に胸の奥に広がってきた気恥ずかしさを紛らわすために、私はナイフを、いつもより時間をかけて元の位置に戻した。
「別に、私達は当然のことをしただけだ」
さっさと帰れというように、無造作に手を振った。クリーチャーは拳で乱暴に顔を拭いながら顔を上げると、首を横に振った。
「貴方様達にとってはそうかもしれませんが、クリーチャーにとっては当然のことではないのです。ぜひ、何か礼をさせてください」
「礼なんていらない。……今日のことを誰にも話さないと誓ってくれるなら、それでいい。私がここにいることを知られた場合、先生に迷惑がかかるから」
クリーチャーは少しだけ驚いたように瞬きをした。
「本当にそれだけで、よろしいのでしょうか?」
「構わない。分かったなら、さっさと涙を拭いて主人(シリウス・ブラック)の所に戻りな。怪しまれるぞ」
私は、クリーチャーに背を向け窓の外を眺めた。しばらく背後にクリーチャーがいる気配がしたが、パチン、という指を鳴らすような音とともに気配が消えた。
太陽は沈み、西の空を鮮血を思わす朱色に染め上げていた。深海を思わす藍色に染まった東の空には、ちらほらと星が瞬き始めている。
これで破壊した分霊箱は『日記』『指輪』『ロケット』の3種類。
残る分霊箱は、あと3つ。いったいどこに隠されているのだろうか。もしかしたら、今回みたいに意外と身近にヒントが隠されているかもしれない。
「よかったね、セレネ」
ルーピン先生が嬉しそうに手を叩く。
「今日はお祝いにしようか?…芋とパンしかないから何か買ってくるよ」
「別に、祝う程の話ではないと思いますが」
「いや、ヴォルデモートの魂の一部を破壊で来たんだ。セレネの目標に一歩近づけたんだから祝わないと」
まるで自分のことのように嬉しそうに顔を崩しているルーピン先生の姿が、一瞬……ほんの一瞬だけクイールと重なった気がした。もし、クイールが生きていたら……今の私を見て何を感じるだろう。私は、脳裏に浮かんだ想像をかき消すように頭を振った。
馬鹿馬鹿しい。『もし~だったら…』なんて考えるだけで虚しくなるじゃないか。だって、そもそもクイールが生きていたら………
私は、ダンブルドアやヴォルデモートを殺そうと思って行動したかどうかも定かではないのだから。
「セレネ、何か食べたいものはあるかい?」
ルーピン先生が私の顔を覗き込んでくる。私は空に瞬く星から目を逸らすと、少しだけ、本当に少しだけ笑みを浮かべた。