SIDE:ルーピン
僕は、額に腕をのせて、ぼんやりと天井を見つめていた。表通りの喧騒が遠く聞こえてくる。教会が告げる5時の鐘の音が、僕が住んでいる裏路地まで響いてきていた。
目はとっくに覚めているけど、起き上がる気にはなれない。こうして夕暮れ時の橙の色に染まった天井を、ぼんやりと眺めている。
ここのところ…寝る間も惜しんで騎士団の仕事をしていた。ヴォルデモート復活で混乱が生じている魔法界の治安を守るため、僕は奔走している。騎士団の他のメンバーは職を持っている人が大半だから。
そういえば……この家に戻ったのは何日ぶりだろう?
疲れ切ってベッドに倒れこんだときには、気が付かなかったけど……歩くと軋む木の床にも、使い古したテーブルにも、うっすらと埃がたまっていた。同じように埃の溜まった台所には、萎びたリンゴが1つだけ…哀愁を漂わせながら転がっている。
同居していた両親が死んでから、もう10年以上が経過している。帰宅しても、誰もいないガランとした部屋。……そういえば、ここ数年、誰も家に上げていない。あの女性を除けば……
脳裏に浮かんだのは、同じ騎士団員で闇払いの女性『ニンファドーラ・トンクス』。あの寒い冬の日のこと。雪を肩に積もらせた彼女が、いきなり訪ねてきたのだ。いつも陽気なトンクスが、あの日は何故か戸惑っているような表情を浮かべながら……
何を話したのかは覚えていない。トンクスが何か楽しそうに話している姿は、ボンヤリと思いだせるけど。それ以外は何も。だから、きっと他愛もない話をして別れたのだと思う。でも、そのあとも、度々……何を思ったのかトンクスがやって来た。トンクスが来る時間帯は、決まって今みたいに橙色の光が差し込む時間帯だ。『マグルのスーパーで買ってきた』といいながら、惣菜をテーブルの上に並べる。
「小腹がすいちゃって」とか「今日はお母さんもお父さんも留守なのよ」とか「飲み会がキャンセルになったから」とか色々な理由をつけては、僕と一緒に夕食を食べた。
僕はあまり話さなかった。ただ、トンクスが日常生活で起きた何気ないことを面白おかしく話して、それに相槌を打っていた。嫌だと思ったことは一度もない。トンクスと話している時は、親友のシリウスと話している感じとは少し違う楽しさだった。
…トンクスが何で僕の家なんかを訪ねて来ているのか、薄々感づいていた。ただ、彼女の気持ちを受け入れるわけにはいかない。僕は人狼だし、トンクスより13歳も年上だ。収入も0に等しい。これ以上、僕に近づいてはいけない。
僕は、トンクスと距離を置こうとした。その一方で、トンクスともっと話していたいと訴える自分が心の奥に潜んでいた。だから、距離を置こうと思いながらも、トンクスを家に上げてしまっていた。
でも………その曖昧な関係も……ついこの間、崩れた。この間の魔法省で起きた戦闘の最中に大怪我をしたトンクスの見舞いに行ったとき、彼女に言われたのだ。
去り際に、腕をつかまれ、上目使いで………僕のことが好きだって。ずっと傍にいさせて………って。
あの時のことは、あまりよく覚えていない。トンクスに捕まれた腕を振り払い、「だめだ」と告げて去った気がする。その時、トンクスがどんな顔をしていたのか見ていない。アレでよかったのだ。トンクスには、もっと健康的で若い男の方が相応しい。
僕は、脳裏に浮かぶトンクスの笑顔を振り払うように頭を振ると、起き上がった。すると、テーブルの上に置いてある新聞の一面が目に入る。一面に掲載されているのは、僕の教え子『ドラコ・マルフォイ』の顔写真。
ますます心が、ずっしりと重くなった気がした。
魔法省での戦いで、ドラコの父親『ルシウス・マルフォイ』が逮捕され、純血の名家マルフォイ家をドラコが相続することになったのだ。たった15、6歳で当主になったドラコの顔には何も浮かんでいない。いつも僕が貧乏だってことを馬鹿にしていた頃の明るさは、何処にもなかった。
いくら父親が死喰い人だったとしても、残された教え子達のことを考えると、胸が痛くなる。
そういえば、僕の教え子……特に今年6年生になる学年の子は、可哀そうな体験をした子が多い。
今回の父親(ルシウス)逮捕で、魔法界屈指の名家の当主になったドラコ。同様に父親が逮捕され、母親はすでに他界しているセオドール・ノット。同じように父親が逮捕された、クラッブとゴイル。物心ついたときから両親は精神病院に入院しているネビル・ロングボトム。死喰い人に親戚のほとんどを惨殺されているスーザン・ボーンズ。しかも、この間は叔母のアメリア・ボーンズをヴォルデモート自身の手で殺されていた。両親を赤子の時に殺され、ヴォルデモートに命を狙われているハリー。 そして………セレネ・ゴーント。
僕は右手で顔を覆った。今のセレネが誰よりも、ハリーよりも辛い境遇だと思う。
最初にセレネのことを注意してみるようになったのは、『吸魂鬼(ディメンター)』に彼女が襲われ、なりゆきでダンブルドアから彼女の略歴を聞いたときだ。そのころからセレネは、ハリーよりも辛い境遇に置かれていた。
セレネには両親がいないだけではなく、10歳の時にフェンリール・グレイバックに噛まれかけていたのだ。グレイバックというのは、見せしめとして僕を噛んだ狼人間だ。最も残虐な狼人間と言われている彼は、義父とハイキングに来ていたセレネに襲い掛かったらしい。最も、間一髪のところで闇払い達が駆けつけたので事なきを得た。だが、ここで問題が起こる。
駆けつけた闇払い達の大半が、新米闇払いで、昼間から酒を飲んでいたのだ。ヴォルデモートの脅威が薄くなったあの当時……闇払いという職業は、ほとんど閑職になりかけていたのだ。普通の犯罪者を捕まえるのは魔法警察部隊の仕事だから。
そして手元を狂わせ8本中3本の『失神呪文』がセレネの胸を直撃したらしい。セレネは記憶修正の後、マグルの病院に搬送され……目が覚めたのが1年後だったそうだ。
その時に、ダンブルドア曰く『』という『死の概念』に触れ続け、その影響で『直死の魔眼』という不思議な能力を手に入れたのだそうだ。…『死』を認識してしまう悪夢のような『眼』を。
それだけでも辛いはずなのに、彼女はもっとつらい経験をしていたのだ。そのことを知ってから、まだ1年も経過していない。セレネの友人『ダフネ・グリーングラス』経由で、僕の下に一通の手紙が届いたんだ。夜中の11時に『叫びの屋敷』まで来てほしい……と書かれたセレネからの手紙が。
義父をカルカロフに殺されたという話を、ダフネ・グリーングラスとよく似た小さな女の子から聞いたときから、ずっと話をしたかったので、僕はすぐに了承した。あの話を聞いたとき、僕は握っていた杖を落としてしまうほど……衝撃を受けた。
『賢者の石』を守ったのも、『秘密の部屋』で戦ったのもセレネで、義父の死をみんなが知らないのは、それをダンブルドアが隠蔽したから。
セレネは淡々と話してくれたけど、時折…眼鏡の奥の瞳が燃える様に赤く染まる時があった。
その時……僕は決めた。セレネを見守ろうと。
ダンブルドアに復讐をすると心に誓ったセレネが、僕にはとっても不安定なものに見えた。
いつか崩れてしまいそうで、ダンブルドアを倒した後の目的を成し遂げたセレネが酷い虚無感に襲われてしまいそうで……
僕はダンブルドアに縁があるし、親友(ジェームズ)の息子であるハリーの先行きも見守らないといけないから、人前でセレネに協力できない。だから、陰から協力してきた。縁があるダンブルドアを裏切るようで、あまりいい気分はしない。でも、セレネの役に立ちたかった。あの不安定な子を、守ってあげたかった。
でも………
セレネは失敗して、アズカバンへと送られてしまった。新しい魔法省大臣の護衛でアズカバン視察に出かけたキングズリーの話だと、右手と左手を離すように太い鎖で縛りつけられていたらしい。その上、まるで視覚そのものを封印するように包帯を巻かれていたそうだ。僕は、眼から涙が溢れそうになった。
キングズリーは「仕方ないこと」だと言っていた。「頭が良すぎたせいで現実に悲観し、死喰い人に堕ちてしまった可哀そうな子だ。しかし、放っておけば後々の脅威となる。本来なら生かしておくべきではない」だと。
生かしておくべきではない命なんて、あるのだろうか?
だとしたら、僕の命も生かしておく価値がない。今日は満月じゃないし、薬のお蔭で抑えられているが、人狼として人を傷つけ殺してしまう可能性がある僕も、他の人の安全を考えるのであれば、生きていく価値がない。
だけれども、セレネを監獄から出す手段が思いつかない。セレネが逮捕されたと聞いたとき、卒倒し椅子に座り込んでしまったセブルスに相談すれば、何か策が思いつくかもしれないが。
トントン
家の扉が叩かれる音がした。こんな時間にいったい誰だろうか?太陽は西の空に沈み、すっかり藍色に染まった東の空には星々が瞬いている。トンクスの顔が一瞬浮かんだが、すぐに打ち消した。僕は彼女を拒絶したから、来るとは思えないし、まだ彼女は入院中だ。
僕は杖を構えながら、そっと玄関の戸を開けた。その向こうで申し訳なさそうに…されど、どこか必死な形相で立っていた少女を見たとき、僕は思わず涙を流さずにはいられなかった。