SIDE:ハリー
前後左右の明るいオレンジ色の明かりが、だんだんと大きく丸くなってきた。光る昆虫の眼のようなヘッドライトの流れや、四角い淡黄色の窓明かりが近づいてくる。冷たい夜風で口は渇き、風が耳元で轟轟と唸る。手がかじかんで凍りつきそうだった。
でも、そんなことは気にならない。僕は、セストラルの首だと教えてもらった場所にしがみつき、必死で前だけを見た。
もしも―――遅すぎたら………
僕は脳裏を横切った最悪な事態を振り払うように首を横に振った。
シリウスは、まだ生きている。僕が何度も夢で行った『神秘部』の部屋で、97列目の棚の所で……ヴォルデモートがシリウスを殺したのなら、僕は感じるはずだ。
ヴォルデモートが復活してから、僕は夢で現実を見るようになった。正確に言えば、ヴォルデモートが今していることを夢で見ることが出来るようになったんだ。
そのおかげで、ロンのお父さんも助けることが出来たし、アズカバンの集団脱獄も…なんとなくだったけど、新聞で読む前に知ることが出来た。そんな僕は魔法史の試験中に、ヴォルデモートに拷問を受けるシリウスの姿を見た。夢で何度も行ったことがある、神秘部の小さなガラスの球で埋まった棚が沢山ある部屋で。シリウスを最後には殺すっていいながら……
ハーマイオニーが『本当の夢だったらどうするの?』って馬鹿なことを言ってきた。僕は時間の無駄だと思ったけど、念のため、アンブリッジの部屋の暖炉からシリウスが家にいるかどうか確かめることにしたんだ。
でも……やっぱり、シリウスは家にいなかった。それどころか、アンブリッジに見つかって、散々な目にあった。時間を大幅に使うことになった。でも、こうして僕はロンドンに向かっている。
ジニーやネビル、それからルーナは役に立つかわからないけど…というか思えないけど、ロンとハーマイオニーはいつも一緒に戦いをくぐり抜けてきた仲間だ。それに、一緒に『三校対抗試合』に参加したセドリックとセレネもいる。
今ならヴォルデモートからシリウスを助け出せる…という確証が僕にはあった。
そんなことを考えていると、急にセストラルが地上に向かって方向転換をした。重力で少し前のめりになり、僕は落ちるかと思った。でも、高度を下げただけで思ったより穏やかな着地をするセストラル。
ロンが青ざめた顔で転げ落ちるようにセストラルから降りたのが見えた。僕もセストラルから降りて地面に足をつける。あぁ…地上に戻ってこれたんだ…と思うと、少し緊張がほぐれたような気がしたが、すぐに緊張感が戻ってきた。
シリウスを助け出すまで、気を緩めてはいけない。
「それで、ここからどこ行くの?」
1番すっと下馬したルーナは、まるで楽しい遠足でもしているような感じで口を開いた。
「こっち、入れよ…早く!」
壊れた電話ボックスのドアを開けて、全員に入るよう促した。でも……15・6・7歳の8人の少年少女が入るには狭すぎる。僕はロンに押しつぶされそうになりながら、思いっきり叫んだ。
「受話器に1番近い人、ダイヤルして!62442!」
セドリックが数字を回したのがハーマイオニーとセレネの隙間から見えた。ダイヤルが元の位置に戻ると、電話ボックスに落ち着きはらった女性の声が響く。
「魔法省へようこそ。お名前とご用件をおっしゃってください」
「ハリー・ポッター、ロン・ウィーズリー、ハーマイオニー・グレンジャー、セレネ・ゴーント、セドリック・ディゴリー、ジニー・ウィーズリー、ネビル・ロングボトム、ルーナ・ラブグッド」
僕は早口で言った。
「ある人を助けに来ました。魔法省が先に助けてくれるなら別ですが!」
「ありがとうございます。外来の方は杖を登録いたしますので、守衛室にてセキュリティ・チェックを受けてください」
僕の焦りを気にしていない電話ボックスの声…何でもいいから早く出発してほしい。電話ボックスがガタガタと揺れたかと思うと、ボックスのガラス窓越しに、歩道がせり上がり始めた。頭上が闇に飲まれ、一行はガリガリと鈍い軋み音とともに魔法省のある深みへと沈んでいく。
「魔法省です。本日はご来省ありがとうございます」
緊張感のない声とともに、電話ボックスのドアが開く。僕たちは転がるように外に出た。怖いくらい、誰もいない。人の気配がまるでない。
アトリウムには、黄金の噴水が絶え間なく吹き上げる水音しか聞こえなかった。魔法使いと魔女の杖、ケンタウルスの矢じりや小鬼の帽子の先、しもべ妖精の両耳から、間断なく水が吹上、周りの水盆に落ちていた。
「こっちだ」
僕は小声で言うと、ホールを抜ける。守衛部屋に誰もいないことが、何か嫌な予感を倍増させた。エレベーターが、金の格子扉をガチャガチャ大きな音を響かせて横に開く。神秘部までは、あっという間に辿り着いた。
その廊下に出たが、やはり何の気配もなかった。動くものは、エレベーターからの一陣の風で揺らめく手近のたいまつしかない。僕は取っ手のない黒い扉に向かった。何か月も夢に見たその場所に、僕はついにやって来たんだ。
そこには美しい、ダイヤの煌くような照明が踊っている。大小様々な時計が部屋全体に並んだ本棚の間や机にあり、絶え間なく忙しそうにチクタクと音を立てていた。
「こっちだ!」
正しい方向が見つかったという思いで、僕は心臓は激しく脈打ち始めていた。僕は先頭に立って、何列にも並んだ机の間の狭い空間を、夢で見たと同じように光の源に向かって歩いた。クリスタルで作られた釣鐘の横にある扉の前についたとき、僕は深呼吸をする。
「ここを通るんだ」
僕は、振り向いて不安そうな顔をしているハーマイオニー達を見渡した。誰もが杖を構え、真剣で不安な表情を浮かべている……と思ったら、セレネだけ杖の代わりにナイフを構えていた。そういえば、セレネはいつも杖じゃなくナイフを使っているけど、どうしてだろう?シリウスを助け出した後で聞いてみよう。
僕は扉に向き直り、押した。扉は音を立てずに開いた。
……さっき夢で見たばかりの空間が広がっている……
静かすぎるその部屋は、教会のように高く、ぎっしりとそびえ立つ棚以外には何もない。棚には小さな埃っぽいガラスの球がびっしりと置かれている。棚の間に、間隔を置いて取り付けられた燭台の明かりで、ガラス球は鈍い光を放っていた。蝋燭は蒼く燃えている。……夏だというのに、とても寒かった。僕たちは、ジワジワと前に進み、棚の間の薄暗い通路の1つを覗いた。何も聞こえず、何一つ動く気配がない。……僕たちが歩く音だけが、木霊している。
「97列目の棚だって言ってたわよね?」
ハーマイオニーが消え入りそうな声で確認してきた。
僕は頷きながら、1番近くの棚の端を見上げた。蒼く燃える蝋燭を載せた腕木がそこから突きだし、その下にボンヤリと銀色の数字が見えた。『53』と記された銀色の数字が……
「右に行くんじゃないか?ほら、こっちは54だ」
セドリックが杖を握り締めて言った。
「杖を構えたままにして。あとセレネは杖を構えなよ」
僕が低い声で言う。でも、セレネはナイフを構えたままだった。
「私は杖よりこっちの方が使い慣れている。問題ない」
セレネはどこか自信に満ちた声で淡々と答える。まぁ、セレネが大丈夫だっていうなら大丈夫なのだろう。
延々と伸びる棚の通路を、時々振り返りながら、全員が忍び足で前進した。通路の先の先は、殆ど真っ暗だ。ガラス球の1つ1つに、小さな黄色く退色したラベルが棚に張り付けられている。気味悪い液体が光っている球もあれば、切れた電球のように暗く鈍い色をしている球もある。
…85番目の列を過ぎた…
86……87と、僅かな物音でも聞き逃すまいと、僕は精いっぱい耳をそばだてる。シリウスは今、猿ぐつわを噛まされているのか…それとも、気を失っているのか…それとも――――――不吉な予感が横切った。僕はその予感を振り払うように、頭を振った。
ヴォルデモートに殺されたのなら、僕にはわかるはずだ。
「97よ!」
ジニーが囁いた。全員がその列の端にかたまって立ち、棚の脇の通路を見つめた。そこには、だれもいない。
「シリウスは1番奥にいるんだ。ここからじゃ、ちゃんと見えない」
僕は、両側にそそり立つようなガラスの球の列の間を、みんなを連れて進んだ。通り過ぎる時、いくつかのガラスの球が、柔らかい光を放った。
でも、どこまで行っても人の姿はおろか、気配さえ感じない。
ヴォルデモートの気配すら、感じることが出来ない。全員がその列の反対側の端につき、そこを出ると、またしても薄暗い蝋燭の明かりだった。誰もいない、埃っぽい静寂が木霊するばかりだった。
「ねぇ、ハリー……」
遠慮がちにハーマイオニーが声をかけてきた。
「なんだ?」
僕は唸るように言った。
「シリウスは……ここに、いないんじゃないかしら?」
誰も、何も言わなかった。ここには誰かがいた様子も、争った形跡すらもない。
本当に、シリウスはここに居ないのだろか?いや、いないはずはない!僕は、確かにシリウスを見たんだ。本当に本当に見たんだから。でも、それが……もし、そうじゃなかったら……僕は…僕は……!!
「ハリー、これ見た?」
ロンが少し離れたところから声をかけてきた。僕は飛びつくように、ロンがいる所へ走った。きっとシリウスがここにいたという証。もしくは、手掛かりに違いない。でも、ロンは棚の埃っぽいガラス球を見つめているだけだった。期待が外れた。僕は肩を落とす。
「なんだ?」
「これ……君の名前が書いてある」
僕の名前だって?ロンが指差す先に、長年誰も触れなかったらしく、ずいぶん埃をかぶっていたけど、内側から鈍い明かりで光る小さなガラス球があった。僕はロンほど背が高くないから、埃っぽいガラス球のすぐ下の棚に張り付けられている気色味を帯びたラベルを読むのに、首を伸ばさなければならなかった。
およそ16年前の日付が、細長い蜘蛛の脚のような字で書いてあり、その下にはこう記されてあった。
≪S.P.TからA.P.W.B.Dへ闇の帝王そして(?)ハリー・ポッター≫
僕は目を見張った。いったいこれは………どういうことなんだろう?
「他の人の名前はないみたいだね」
セドリックが他のガラス球のラベルを確認する。僕はガラス球に手を伸ばした。
「触らないで、ハリー」
突然ネビルが言った。丸い顔が汗で少し光っている。
「僕の名前が書いてあるんだ」
少し無謀な気持ちになり、僕は埃っぽいガラス球の表面に触れた。冷たいだろうと思っていたのに、そうではない。反対に何時間も太陽の下で温めていたかのように、ほんのり暖かかった。
劇的なことが起こって欲しい。この長く危険な旅が、やはり価値のあるものだったと思えるような、ワクワクする何かが起こって欲しい。そう期待し、願いながら、僕はガラス球を棚からおろし、じっと見つめた。
……でも、何も起こらない。
代わりに、背後から気取った声が聞こえてきた。
「よくやった、ポッター。さぁ、こっちを向きたまえ。そして、それを私に渡すのだ」
何処からともなく僕たちの倍くらいの数の黒い人影が現れ、右手も左手も僕たちの進路を立った。フードの裂け目から目をギラつかせ、十数本の光る杖先が、まっすぐに僕たちの心臓を狙っている。ジニーが恐怖で息をのんだ。
「私に渡すのだ、ポッター」
片手を突出し、掌を見せて、ルシウス・マルフォイの気取った声が繰り返して言う。
「言い方を考えた方がイイっすよ、ルシウスさん。そんな高圧的な言い方だと、警戒されるって」
ルシウスの左隣に立った少し痩せ気味の青年……たしか墓地にいた死喰い人で、シルバー・ウィルクスだ。他の死喰い人とは違い、ごくごく普通のシャツに黒の革ジャンを羽織り、ジーンズを履いているといったラフな格好をしていた。
「シリウスはどこだ?」
僕が尋ねると、何人かの死喰い人が声を上げて笑う。僕の左側の死喰い人達の中から、残酷な女の声が勝ち誇ったように言った。
「闇の帝王は常にご存じだ!」
「シリウスがどこにいるか知りたいんだ!」
僕がもう一度言うと、女は馬鹿にしたように歩きながら迫ってきた。僕は胸に突き上げてくる恐怖を無視して、叫んだ。
「お前たちが捕まえているんだろ?シリウスはココにいる…僕にはわかっている」
「ちぃさな赤ん坊が、こわ~い夢を本物だよぉ~って、思ってちまいました」
女がぞっとするような赤ちゃん声で言った。脇でロンが微かに身動きするのを、僕は感じた。
「ベラトリックスさん、マジ気味悪いって。イイ歳したオバサンが、そんな言葉づかいしない方がイイっすよ?」
シルバーが呆れた感じで言うと、女…ベラトリックスは思いっきりシルバーを睨みつけた。
「若造が。あのお方のお気に入りだからって調子に乗るんじゃないよ!」
「調子に乗ってなんかないって。さてと……シリウスは、ここに来てないよ、ポッター。現実と夢の区別くらいつけておきなよ、もう15歳なんだからさ」
「嘘だ!シリウスはここに来たのは事実なんだ!」
僕が否定すると、さらに何人かの死喰い人が笑う。その中でも最も大きな声で笑ったのは、ベラトリックスだった。ルシウス・マルフォイが一歩前に出てきて杖を構える。
「さぁ、予言を渡せ。さもないと我々は杖を使うことになる」
「使うなら使え」
僕は自分の杖を胸の高さまで構えた。同時に、ロン、ハーマイオニー、ネビル、ジニー、ルーナ、セレネ、そしてセドリックの6本の杖+1本のナイフが僕の両脇で上がった。
僕は胃がグッと締め付けられる思いだった。もし本当にシリウスがいなかったら、僕は友達を犬死させることになる。それは、絶対に嫌だ。なんとかして回避しないといけない。
「…ハリー、その球を私に渡してくれないか?」
耳元でセレネの声が聞こえた。セレネが、ほとんど口を動かさずに僕に話しかけてきたんだ。
「私には策がある」
「策?」
僕も、口をなるべく動かさずに聞き直した。セレネは頭がいいということを、僕はよく知っている。セレネは、学年1位の頭脳の持ち主だ。それに、僕が気が付く数か月も前からシリウスの正体を見抜いていたし、三校対抗試合でも最後まで勝ち残っていた。
この状況下を脱する策が思い浮かんだに違いない!
僕は、そっとセレネにガラス球を渡した。セレネは、ふっと笑みを浮かべてガラス球を受け取った。そして―――――
「……えっ?」
次の瞬間には、大きな弧を描くようにガラス球が宙を飛んでいた。セレネは、ガラス球を放り投げたのだ。そしてガラス球はシルバーの手の中に、すっぽり収まる。
シルバーは、これ以上ないという笑顔をセレネに向けた。
「サンキュー、セレネ」
「…仕事の一環だ」
セレネはそういいながら、眼鏡を外す。誰もが当惑している。僕がセレネに説明を求めようと、一歩前に出たときだ。
「『インカーセラス‐縛れ』」
背後から魔法を唱える声が聞こえた。全くの不意打ちだったので、僕はもちろん…ハーマイオニー達も丈夫そうな縄に巻かれてしまった。
……セドリックの杖先から現れた縄で……
セドリックは、いつもと変わらない笑みを浮かべて僕たちを見下ろしている。
普段とは異なる蒼く輝かせた瞳のセレネが、その隣に立っている。憑き物が取れたような…晴れやかな笑顔を浮かべながら、セレネは口を開いた。
「さてと……これで、アンタの役割は終わりだ。道化のポッター」
―――何が起こったのか分からない―――
なんで、セドリックが僕たちを縛り付けたのだろう?
なんで、セレネが僕のことを冷めた目で見下ろしているんだろう?
なんでセレネは、あの死喰い人に『ガラス球』を渡したんだろう?それがセレネが言っていた策?
それは、何のために?
なんで?なんで?なんで?なんで?なんで?なんで?なんで?なんで?なんで?なんで?
疑問符しか浮かんでこない。
僕は、ハーマイオニー達の方をチラリと見た。みんな僕と同じだ。何が起こったのか分からないという顔をしている。ハーマイオニーとジニーは、ぽかん…と口を開けているし、ネビルは、目玉が零れ落ちそうになるくらい目を丸くさせたまま微動だにしない。普段は何があってもボーっとしているルーナでさえ、驚いたようにセレネを凝視している。
ただ、ロンだけがセレネに軽蔑を込めた眼差しを向けていた。前々からロンは、セレネのことを敵視していたから。本性を現したなって思っているのかもしれない。でも……時折、セドリックに対して戸惑いの視線をチラチラ向けていることから察するに、ロンもセドリックが何でこんなことをしたのか、分からないのだろう。
「仲間割れかい、お嬢ちゃん達?」
赤ん坊に話しかけるみたいにベラトリックス・レストレンジが口を開いた。僕たちを嘲笑うような眼を向けるベラトリックスを見ていると吐き気がした。こんな女とシリウスに血のつながりがあるなんて。そんなことを頭の片隅で考えていると、クスクス笑う声が耳に入った。大切そうにセレネから受け取ったガラス球を抱えているシルバーが笑っている。ベラトリックスはシルバーを咎めるように睨んだ。
「何がおかしいんだい!?」
「……笑うのはやめろ、シルバー」
ルシウス・マルフォイが、小さくため息をつく。シルバーは、ようやく笑うのを止め。だが、笑みを浮かべたままだった。
「くくく……あぁ、悪い悪い。そういや、ベラトリックスさんには言ってなかったよな。このことは、帝王様のほかには…俺とルシウスさん、それからセレネとディゴリーだけの内密計画だったからさ、驚くのも無理ないか」
「内密計画!?」
「セレネどういうこと!?それからセドリックも!?」
ハーマイオニーが、せっぱつまったような声を出す。ハーマイオニーの眼からは、ボロボロと大粒の涙が埃の溜まった床に流れ落ちていた。セレネは蒼く染まった両眼を爛と輝かせ、ハーマイオニーを一瞥した。
「…言っただろ、ハーマイオニー。私は、ヴォルデモートにつかないって」
「それならなんで……なんで、こんな酷いことを」
「酷い?」
その時のセレネの表情を…僕は一生忘れることが出来ないだろう。先程までの、何度か見てきた『蒼』でも、普段の『黒』でもない。見ているだけで背筋が震えるような、禍禍しい不吉な予感を醸し出している『紫色』の両眼を、ハーマイオニーに向けていた。
ハーマイオニーが小さな悲鳴を上げて縮こまる。その隣で縛られているジニーなんて、今にも気を失いそうな顔をしていた。
「私は誰の下にもつかないって言わなかったか?私は、自分の目的のためにヴォルデモートに協力しているだけだ」
「裏切り者!」
ロンが、顔を紅潮させ、わなわなと震えながら、吐き捨てるように叫ぶ。
「ハリー達は、お前のことを信じてたんだぞ!それを裏切るなんて。やっぱり良い子ぶってても、所詮はスリザリン生だな。セドリックまで、たぶらかして。ヴォ、ヴォルデモートに協力しているじゃなくて正直に『死喰い人』だって認めたらどうだ?この裏切り者!」
軽蔑した眼差しをセレネに向けたロンは、ペッとセレネの足に唾を吐く。恐る恐るセレネの顔を見上げた僕は、頭の先から爪先まで震えあがってしまった。セレネは、笑っていた。唇が声もなく笑みの形を作っている。だが、恐怖心を煽るような『紫』の両眼は笑っていなかった。
「裏切り者?」
セレネは、ゆっくりとロンが言った言葉を繰り返した。その言葉を噛みしめる様に、ゆっくりと。杖を軽く一振りし、足に付着した唾を消すと、再び口を開く。
「へぇ、そう見えたか」
「なにがおかしい?」
ロンが微かに眉を寄せた。セレネの右手に収まっているナイフが、青い蝋燭の明かりに照らされ、ギラリと反射している。
「裏切るも何も、最初からアンタたちの仲間だった覚えはない。友達と仲間は違うだろ?というか、ハリー・ポッター。アンタは『私の敵』だったじゃないか」
「えっ?」
拍子抜けした声を発する僕の声。いつ?どこで?僕は記憶の隅々まで探したが、敵対したような覚えは何処にもない。セレネの、思い違いじゃないだろうか?
セドリックが苦々しい笑みを浮かべながら、セレネの肩を励ますように叩いた。
「セレネ、言っても分からないと思うけど?」
「……そうだったな」
セレネは何か言いたげな表情を浮かべながら、ナイフを袖の下に戻した。そんなセレネの肩を、シルバーが楽しそうに笑いながら叩く。
「んじゃあ、俺が説明してやるっすよ。分かりにくい例えだけど、記憶媒体に完全な消去はあり得ない。どこかに、必ず……復元の手掛かりが残っているって本で読んだことがある」
その場にいる全ての目が、シルバーと、その横にいるセレネに向けられていた。
「『オブリビエイト‐忘れろ』という呪文は…正確には『忘却の呪文』じゃない。記憶を上書きさせる呪文だ。事実、拷問や真実薬で、上書きする前の記憶を取り出せた前例がある。そう魔法史の授業でも出てきたはずだよな、えっと……グレンジャー?」
僕たちの中で最も知識量が多いハーマイオニーに確認するシルバー。ハーマイオニーは病人のように青白い顔を、啜り泣きしながら微かに上下させる。泣き腫らしたのだろう。目が充血していた。
「も、もしかして……僕たちの記憶は、まがい物なの?」
僕は、身体中の勇気を振り絞り、シルバーに問いかけた。シルバーは僕の方を向かなかった。代わに、ジニーの方を見ている。ジニーはガタガタと震えていた。
「まがい物は、その仲良し3人組の記憶だ。あと、ジニー・ウィーズリーの記憶」
名前を呼ばれたジニーは、声にならない悲鳴を上げた。
「『賢者の石』を救ったのは誰?トム・リドルが宿った日記を破壊し、ジニーを助けたのは誰?自分の功績を人にどうこうされるのは、少し腹立たしい。でも…まぁ、それだけなら我慢もできる。目立ちたくないし」
「何言ってんだよ。全部ハリーがやったことだろ?お前は何もしなかったじゃないか!」
ロンの頭に再び血が上り始めたみたいだ。だが、最初より威勢がないのは……気のせいだろうか?
「僕たちが命がけで『賢者の石』を護った時、セレネは寮で寝てただろ!?
それに『秘密の部屋』で日記を破壊したのはハリーだし、ジニーを助けたのも。僕達が『秘密の部屋』に乗り込んだとき、セレネは寮で座り込んでいたんだろ?」
「待って、ロン」
ハーマイオニーの不自然なくらい静かな声が、怒りにまかせて口を動かすロンを止めた。ハーマイオニーの顔には、色がない。セレネの瞳ほどではないが、ハーマイオニーの唇は紫色に染まっていた。恐怖で見開かれた目で、シルバーの隣で黙っているセレネを見上げるハーマイオニー。
「何で……日記にリドルが宿っていたことを知っているの?」
そういえば、なんでシルバーは知っているんだ?
あのことを知っているのは、事件に巻き込まれたウィーズリー一家を除いたら、僕とハーマイオニー。それからダンブルドアだけのはず。
「そんなの決まってるだろ?」
ロンが怒気を孕んだ声を上げる。
「あの日記をジニーに渡した、ルシウス・マルフォイが教えたんだ。グルなんだから知ってて当然だろ?」
「…っぶ!」
ロンの発言の何処がおかしいのだろう?ガラス球を愛おしそうに布巾で拭いていたシルバーが噴き出した。
「アンタ馬鹿かぁ?話の流れ的にさ、それはないだろ」
シルバーは、鼻でロンを笑うと、コツコツと音を立てて暗い通路を歩き始める。ベラトリックスは、その飄々と去っていくシルバー後姿に不快の意を示した。
「何処へ行くつもりだ?」
「ん?俺は、一足先に『予言』を帝王様に届けてくるわ。『ハリー・ポッター+その他』を捕獲してから3分経ったら、俺が先に退出する。それが『計画』だろ?」
ベラトリックスは何も答えない。どうやら、そういう『計画』らしい。唇を曲げながら、ベラトリックスは黙り込んでいる。
「んじゃあ、俺はお先に。『生き残っちゃった道化君』。たぶん、今回は生き残れないと思うよ。救世主が来たとしてもさ」
楽しそうな笑みを僕に向けると、軽い足取りで去っていくシルバー。シルバーの進行方向にいた死喰い人達が、脇によって道を作っているところから見るに、シルバーは死喰い人の中では相当高い地位にいるに違いない。いや、そうじゃなくて!
なんで、僕のことを『道化』って言ったんだろう?
「ロン・ウィーズリーって言ったっけ?」
セドリックが、普段と変わらない。いつもの優しげな声をロンにかけた。怒りで満ち溢れていたロンの瞳に、戸惑いの色が混じる。
「そうだ」
「…僕もね、あの話を聞いたときは、嘘だと思った」
寂しげな表情を浮かべるセドリック。セドリックの灰色の瞳には、ロンを憐みような色が混じっていた。
「起きてすぐ、目の前にシルバー先輩がいたときは驚いたよ。でもね、先輩は……興味深い話をしてくれたんだ。
『賢者の石』を『例のあの人』から護ったのも、『秘密の部屋』でジニー・ウィーズリーを助け出したのも、全てセレネがやったことだって話をね」
しん……と、その場に静寂が訪れた。
言っている意味が分からない。だって、どっちも、僕がやったことだから。僕が、全てやったんだ。セレネと一緒に戦ったのは、三校対抗試合の時だけで、僕が潜り抜けてきた他の戦いにセレネの姿はない。
僕は、首を横に振った。
「嘘だ。僕が、全部さ、僕がやったことだよ」
「ダンブルドア先生がね、ハリーがやったように記憶を改竄したんだって。ただね、セレネの記憶を改竄することは出来なかったみたいなんだよ。だから、ダンブルドア先生は、一連の出来事について、セレネに黙っててくれって頼んだんだって」
嘘だ。
「信じがたい理不尽な話だよ。でもね、筋は通ってるんだ。『例のあの人』は墓地で『セレネが“石”を護った』と言っていた。『あの人』が嘘をつくとは思えないし、嘘をつく理由がないだろ?」
嘘だ。
「僕は、他にも色々と聞いたよ、ハリー。僕が気絶している間、チョウが世話になったみたいだね」
『チョウ』の名前を聞いたとき、心臓が飛び上がって喉仏のあたりまで上がってきた気がした。脳裏に浮かぶのは、セドリックがホグワーツに戻ってくる前、チョウが僕に見せた泣き顔と、果実のように柔らかい唇。
セドリックが戻ってきた途端、僕のことを忘れたかのようにセドリックと仲良く話すチョウの姿を見たとき、チョウが心底すまなそうな顔をして僕に別れを告げたとき、身体の中に眠る何かが暴れまくった。
セドリックが戻ってこなければ、チョウの隣にいたのは僕だったのに。
「そうだね。きっと、そうなっていただろう」
僕の心を読んでいるかのように話すセドリック。僕は、優しげな表情で話すセドリックの瞳を見たとき、『失神の呪文』を受けたかのように固まってしまった。
セドリックの灰色の眼の奥に、深い底なしの闇が広がっている気がしたんだ。
「たった数か月、気を失っていただけで死んでなかったのに、心変わりしたチョウの気持ちが僕には分からない。チョウの気持ちだけじゃない。一緒にあの墓場で戦ったセレネが、ずっと1人で苦しんでいたことも分からなかったし、君の『英雄譚』が作られた虚像に過ぎないということも分からなかった。
世の中にはね、まだまだ僕が知らないことが沢山ある」
だからね…と言いながら、悪戯をしたときのように無邪気な笑みを浮かべるセドリック。そんなセドリックを、僕は『怖い』と感じた。背筋が凍りつくような感じだ。
僕は、こんなセドリックを知らなかった。というか……目の前にいる青年が、セドリックとは思えなかった。
笑み1つで、こんなにも印象が変わって見えるなんて。
「僕は『例のあの人』側につく。
物事を公平に見るためには、両方の心情を、自分の眼で確かめないといけないんだって思ったんだ。僕だけの価値観で考えるんじゃなくて、多角的な視点から物事を考えるようにしないと、知らないうちに誰かを傷つけてしまうから」
そんな。僕は呆然と、ただ笑みを浮かべるセドリックを見上げていた。
「おしゃべりは、そこまでだ」
パンパンと気だるそうに手を叩くセレネ。いつの間にか紫色の両眼は、いつもの黒色に戻っていた。
「『計画』だと、シルバーが退出してから2分後に『ハリー・ポッター』と『その仲間達』を連れて、この部屋を出るんだろ?『姿現し』も『姿くらまし』も、この部屋では使用できないからな」
そういってセレネは出口へと足を進めた。
僕たちを囲んでいた『死喰い人』達も、セレネに続くように出口へと足を進める。その中の何人かが僕たちを縛り付ける縄をつかみ、無理やり僕たちを歩かせた。しんがりを務めるのはセドリックとルシウス。セレネの隣を歩くベラトリックスは、セレネに対して明らかに殺意のこもった眼差しを向けている。……セレネはベラトリックスに信用されてないみたい。僕は逃げられる隙はないかと、辺りを見渡したけど、どこにも隙がない。僕たちは、どうなってしまうのだろう?
ネビルとジニーが、啜り泣きをする声が聞こえる。ハーマイオニーは小刻みに震えているし、ルーナも不安そうな顔をしていた。ロンはセレネの背中に軽蔑の眼差しを向けていたけど、先程までとは異なり、顔は真っ青に染まっていた。
先程通ってきたクリスタルの釣鐘が垂れ下がっている部屋を通り過ぎ、神秘部のエントランスホールへ辿り着いたときだ。ずっと上の方で扉がバタンっと開いて5人の姿が駆け込んでくる。
シリウス、ルーピン、アラスター・ムーディ、ニンファドーラ・トンクス、エメリーン・バンスそしてキングズリー・シャックルボルトだ。騎士団のメンバーが助けに来てくれたんだ。
まるで、待ち構えていたように死喰い人達は、一斉に杖を構える。石段を飛び下りながら騎士団の6人は、僕たちより少し手前にいる死喰い人達に呪文を雨霰と浴びせた。
「『プロテゴ‐守れ』」
セレネが素早く呪文を唱える。すると死喰い人全体を覆うような巨大な盾が出現し、騎士団の呪文を相殺した。
矢のように動く人影と閃光が飛び交う中で、急に身体が楽になった気がした。飛び交う呪文が、運よく僕の縄に当たり、縛りが弱くなったんだ。
「ハリー、早く!」
ハーマイオニーが僕の腕をつかむ。ハーマイオニーだけじゃない。縛られていた皆が自由になっていた。
「戦わなくちゃ」
「馬鹿言わないで!」
僕が杖を構えると、蒼い顔をしたジニーが即座に否定する。
「私達じゃ無理よ。逃げなくちゃ……きゃっ!」
ジニーとルーナの間に呪文が命中し、石の床が炸裂した。先程までルーナが立っていた箇所が抉られて、穴をあけている。僕たちは急いでその場から離れると、少し離れた場所から戦闘の様子を眺める。
2,3メートル先でセドリックとシリウスが決闘しているのが見えた。
キングズリーが額に汗を浮かべながら5人の死喰い人を同時に相手をしている。
エネラルド・グリーンのショールを巻いたエメリーンは、6人の死喰い人を相手にし、僕たちが見ている間に1人を吹っ飛ばしていた。でも、苦戦を強いられているみたいで、遠目から見ても顔に余裕が感じられなかった。
セレネがルーピンと戦っている。ルーピンの顔には苦痛の色が浮かんでいた。
トンクスはまだ階段の半分ほどの所だったが、下のベラトリックスに向かって呪文を発射している。狂喜で歪んだ顔をしているベラトリックスのすぐ近くで……ムーディがマルフォイを含む死喰い人7名と戦っていた。いつもついている歩行用の杖で床をバンっと叩いただけで、3人の死喰い人が飛ばされた。だけど、まだ5人の死喰い人がムーディの周りには残っている。
「明らかに騎士団の劣勢じゃないか!」
ロンが叫ぶ。僕は頷いたけど、ハーマイオニーは首を横に振った。
「私達は、確かにDAで戦う練習をしてきたわ。でも、あの戦いの中に入っても足手まといになっちゃう。戦いの次元が違う!」
「あぁ、なら君達だけが逃げてくれ。僕は戦うよ」
僕はそういって戦場に走り出そうとしたけど、ハーマイオニーとジニーになって僕を必死で止めた。
「騎士団の優先事項は『ハリー』を護ることでしょ?それに……私、嫌な予感がするの。早くここを逃げないといけないって」
「予感なんかに振り回されてたまるか!シリウス達が苦戦しているんだから助けないと!」
「でも」
そのあとの言葉は、聞き取ることが出来なかった。僕の世界が、その瞬間に停止した気がした。
ハーマイオニーを振り切って戦場へ駈け出そうとしたとき、僕は見てしまったんだ。蒼く怪しげに光る眼を持つ少女が、深々とルーピンの身体にナイフを突き刺す瞬間を。
深紅の血を口から垂らしながら、ゆっくりと後ろ向きに倒れていくルーピンの姿を。
「「「うぉぉぉぉぉおお!!」」」
僕とロン、それからネビルの声が重なった。もうハーマイオニーとジニーの声は聞こえない。セレネは、ずっと、友達だと思っていた。僕の仲間だと思っていた。さっき裏切られたけど、僕の記憶が改竄されたものだとか嘘を言っていたけど、僕を敵だって言ったけど。まだ、信じていた。信じていたのに!!
ルーピンを殺すなんて!あんな深々とナイフを刺すなんて!
僕は血の涙を流しながら、セレネに狙いを定めた。
「『クルーシオ‐苦しめ』!!」
赤い閃光がセレネの胸を目掛けて奔る。でも、その閃光がセレネに当たることはなった。セレネはルーピンからナイフを引き抜くと、その閃光を目掛けてナイフを振り下ろした。
すると、何事もなかったかのように消える閃光。ロンとネビルが放った呪文も、同じようにナイフを振るっただけで『無効化』するセレネ。
「よくも、ルーピンを!!『クルーシオ‐苦しめ』!」
「そんな呪文じゃ、私を倒せないよ。ハリー・ポッター」
セレネは口元に笑みを浮かべた。いつもは無気力そうなセレネの目に浮かぶのは、歓喜の色。本当に愉しそうにセレネは笑っていた。
ルーピンを殺したのに。僕は、そんなセレネが赦せなかった。徹底的に殺そう。友達だったとか信じていたとか関係ない。
目の前にいる少女は、僕の敵だ。ヴォルデモートと同じ悪魔だ。だから、許されざる呪文を使っても……問題はない!だって目の前で愉しんでいる『アレ』は僕と同じ人間じゃないから。
僕は、杖を構えて直すと、もう一度セレネに呪文を放った。
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11月18日:一部訂正